正義と悪は表裏一体×多くのベクトルを抱え続けるということ
山本弘のSF秘密基地BLOG:鬼怒川決壊をめぐるデマ・3
これはある種の罠だろう。「正義だと信じた連中の暴走」を問題視し非難するということはそれを悪と捉えているが故であり、正義に他ならないわけだから。「いいか。世の中で最も危険な思想は、悪じゃなく、正義だ。悪には罪悪感という歯止めがあるが、正義には歯止めなんかない。だからいくらでも暴走する。過去に起きた戦争や大量虐殺も、たいていの場合、それが正義だと信じた連中の暴走が起こしたものだ」(『翼を持つ少女』より)
自戒を込めてとしても、やはり悪よりも正義は危険だという主張には同意できない。皆が悪であると自覚を持ちながら為される暴走だってあるはずだ(大抵それは「仕方がないこと」として行われる)。
例えそれを悪と自覚していようが罪悪感を抱えていようが、何かを為そうとすればそれは結局内容的には正義でしかない。何故なら善悪という概念を取っ払って「正義」を見た時、それはただのベクトルでしかないからだ。何かを為そうとする力、何かを留めようとする力。それが正義の正体。だから「悪」も正義を為している。そして人々はそれらに対し、善いことだとか悪いことだとかの評価を下す。その評価が善悪。
概念的な観点から見ても、正義は悪なしに存在し得ないし、悪もまた正義なしには存在し得ない。両者は表裏一体であり、其々にとってどちらを向いているかでしかない(「仕方がない」は悪でもあり正義でもある)。だからどちらの方が危険だなどとは言えない。
よって「正義の暴走」を回避するためには善悪という概念そのものを捨てさらなければならない。だがそれが出来る人間は極めて稀だろう。
しかし仮にそれが出来たとしても、また別の名をした暴走が起こるだけだろう。何故ならその概念を捨てたところで、ベクトルそのものが消え去るわけではないからだ。ただし善悪という概念がなければ今現在暴走であると思われていることを「暴走」であるなどとは考えなくなるだろう。その意味で暴走はなくなる。
<多くのベクトルを抱え続けるということ>
結局のところ暴走を回避するには、自分の中に、或いは社会の中に多数の異なったベクトルをバランスよく抱え続けるしかない。罪悪感というのもまたそのうちの一つだろう。
だがそれらのベクトルはどれもが誰かに何らかの被害や苦痛をもたらす。しかしだからといってそれをどんどん駆逐していくと結果として一つのベクトルに集約されて行き、それがより大きな力を持つことによってより大きな惨禍も齎される。
デマ云々の例で言えば、何らかの噂が流れてきた時、それを信じたいという気持ちがあっても一方にもしかしたらデマではないか、と疑う気持ちが同じくらいあれば釣り合いが取れてデマ拡散に手を貸さずに済むかもしれないわけだ。
逆にベクトルが揃いすぎていると、私はデマが世間で言うところの悪であると知っているが、より良い日本を作るためには手段を選んでいる場合じゃない、となったりする。そういう人が多数派になったら、まあ余りよい結果は待っていないだろう。かといってそういう人間を根絶しようとすれば暴走するしかないという。
デマもやむなし系の人はそれを分かった上でやっているから厄介なわけだが。