面倒くさいけどもう一度
・ここでコレについて書いたことについて。一つ前の記事で書いたように、「自分にとってあの話題は残り少ない気力を存分に注ぎ込んでも惜しくないと言い切れるほど大きな関心事でもな」い。だから再びこの話題について触れるのは正直気が進まないのだが、どうも前に書いたものだけを読むと、ちょっと普段このブログで書いていることと比較して統一性に欠けるようにも読めそうでどうも収まりが悪い。だから面倒くさいけど前に書いた時には書かなかった部分や、そもそも何故それについて書こうと思ったのかという動機などついてもう一度書いておくことにする。
・で、「統一性が欠けるようにも読めそう」というのはどういうことかと言えば、アレだけ読むとどもう規範的過ぎるような嫌いがあるようにも見えてしまうということだ。いや勿論、社会規範に対する怒りをぶつけながらながらそれに対する期待を抱いたり、それを破壊したいという衝動を抱くと同時にそれの存在とは不可分の恩恵を受け取らねば生きてはいけないというようなジレンマは常に抱えている。だがアレを書くにあたっては、必ずしもそういったジレンマに当て嵌まるものだけではない他の理由があった。以下、あの記事を書こうと思った動機について書いていこうと思う。
・まず一つ目の動機。初音ミク「白いクスリ」ニコ動に一時復活 「削除依頼に法的根拠なし」とニワンゴ<これは要するに、この問題はあくまでクリプトンとソフト使用者間の問題であって、ニワンゴ側としてはそれは関係ないという態度なのだろう(…多分)。しかしこういったことが繰り返されるというのは結局のところ、特に何の理念も持ち合わせていないのに「出来るからする」という行為と「面白ければ許される」というような人気取り手法に支えられた数的圧力によって、実質的なルールが何の審議も経ずに形成されていくという因習をより強固なものにすることにも繋がりかねない。つまり既成事実を作ったもん勝ちという。自分はそういう流れを決して良いものだとは思えない。
・既成事実的開き直りの典型例>2ちゃんねる賠償金「死刑なら払う」…管理人・西村氏“西村氏は閉廷後、報道陣に対し、過去の訴訟で確定した賠償金などについて、「支払わなければ死刑になるのなら支払うが、支払わなくてもどうということはないので支払わない」などと、支払いの意思がないことを明らかにした。”
・だがこういった開き直りをする者がどんどん増えていくと人々の不公平感が募り、それが規制や罰則を強化させる種子にもなりかねない。しかも上記のような主張が示すように、後からそういったものを設けてももう遅いので、それならば先回りしてそれに対する対処法を作っておき、それによって公平性を保とう、というような主張も当然出てくることだろう。
・現にこの国では、一部の者達の開き直りがメディアによって大々的に取り上げられ、その煽りによって規制や罰則が強化されるというような動きを何度も何度も繰り返している。自分はこの件に関して、そういった「既成事実を作ったもん勝ち」という風潮とそのゆり戻しとしての「規制・罰則の強化の可能性」を見た。だからそれに対して良しと言うことは出来なかった。
・二つ目の動機――これに関しては前述したジレンマに該当するものでもある。個人的な思想として、貶め系の動画が何の違和感も無く人々に受けいられ、それが人気を博すような状況は良いものだとは思えない。勿論、貶めをしたことのない者など存在しないし、自分だってそういう要素を持つ表現を何度も用いてきた。そしてこれからも用いるかもしれない。そういうジレンマはある。だが、貶め系コンテンツの増長と減衰という二つベクトルが見えた時、どちらを選ぶのか――まあ「選ぶ」と言ってもそう認識しているだけろうけど――といえば自分としては後者を選びたいという思いがあった。
・そして三つ目の動機。これがそもそもこの話題に興味を持った最初の切欠でもある。それは何かと言えば、クリプトンへの批判に対して妙な違和感(気持ち悪さ)を感じたということだ。
・結局クリプトン側は自社の利益とイメージを守ろうとしただけに過ぎない――それが実際に目的にとって正しい選択だったかどうかはともかく。それに自社の利益と言っても、別に残業代を支払うよう主張した従業員を嫌がらせで訴えるというような非道なことをしたわけでもなんでもない。そもそもこういったことに関してクリプトン側からクレームが付くという可能性は誰もが十分認識していた事柄のはずだ(使用許諾契約の内容はミクの発表時にかなり話題になった)。そして問題になっている動画がそれに抵触する可能性があることもまた十分予測出来たはずだ。
・行為(発表)と結果(クレームの可能性)が直接一対一で結ばれている。情報が明らかにされている。行為の在り方に対して圧力が掛かっていない。しかも結果によってその者の命や生活が危機にさらされることもない。つまりこれはジコセキンンではなく真の意味での自己責任に当たる。
・別に自主規制をしろとかそういう話ではない。好きにすればいいのだ。だが、好きにすればいいという考えがあれば尚更、クリプトン側の動きが批判されるいわれもなくなる。何故なら、クリプトン側もまた好きにするだけだろうからだ。
・別に不平等条約的なものでもない相互的関係に於いて、一方が信頼を裏切るような行為をした(クリプトン側にとって件の動画は厄介ごとの種でしかないだろう)。ならば相手側もまた、それ相応の動きを取ろうとすることはやむを得ないだろう。にも拘わらず、その行為を無条件に受容してくれるよう望むのは、余りに虫が良すぎやしないか?
・クリプトンは別にボランティア活動をしているわけでもなけりゃ、増してやソフトウェア使用者にとっての母親的存在でもない。そして母親的な無条件受容を期待していなければ、この件に関するクリプトン側の動きに不満が生まれてくるはずもないのだ。だが実際には批判は生まれてきた。つまりそれは、多くの者がクリプトンにそれだけ過度な期待を抱いていたということだ。そこらへんにどうも自分は気持ち悪さを感じてしまった。
・で、そんな折にレスポールがどうたらとかいう無茶な理屈をつむぎ出す記事なんかを見てしまい、ついイラっときてあの記事を書いてしまったという。
・要するに、自分は別に社会規範的な主張をしたかったのではない(いや、これはこれでまた一つの規範になってしまったりもするのだが)。そうではなく、「好きにすればいい。但し向こうもまた同じように好きにするだろう。だからクリプトンに母親的な過度な配慮なんか期待すべきでない」と言いたかったわけだ。
・しかしまあ、また無駄にエネルギーを使ってしまったなあ。大した関心事でもないことに触れる場合には、迂闊に足を深くまで突っ込み過ぎず、幾つか軽い感想を書いてサラっと流すべきだな、ほんと。因みに、ニコニコのアカウントすら持っていません。
・で、「統一性が欠けるようにも読めそう」というのはどういうことかと言えば、アレだけ読むとどもう規範的過ぎるような嫌いがあるようにも見えてしまうということだ。いや勿論、社会規範に対する怒りをぶつけながらながらそれに対する期待を抱いたり、それを破壊したいという衝動を抱くと同時にそれの存在とは不可分の恩恵を受け取らねば生きてはいけないというようなジレンマは常に抱えている。だがアレを書くにあたっては、必ずしもそういったジレンマに当て嵌まるものだけではない他の理由があった。以下、あの記事を書こうと思った動機について書いていこうと思う。
・まず一つ目の動機。初音ミク「白いクスリ」ニコ動に一時復活 「削除依頼に法的根拠なし」とニワンゴ<これは要するに、この問題はあくまでクリプトンとソフト使用者間の問題であって、ニワンゴ側としてはそれは関係ないという態度なのだろう(…多分)。しかしこういったことが繰り返されるというのは結局のところ、特に何の理念も持ち合わせていないのに「出来るからする」という行為と「面白ければ許される」というような人気取り手法に支えられた数的圧力によって、実質的なルールが何の審議も経ずに形成されていくという因習をより強固なものにすることにも繋がりかねない。つまり既成事実を作ったもん勝ちという。自分はそういう流れを決して良いものだとは思えない。
・既成事実的開き直りの典型例>2ちゃんねる賠償金「死刑なら払う」…管理人・西村氏“西村氏は閉廷後、報道陣に対し、過去の訴訟で確定した賠償金などについて、「支払わなければ死刑になるのなら支払うが、支払わなくてもどうということはないので支払わない」などと、支払いの意思がないことを明らかにした。”
・だがこういった開き直りをする者がどんどん増えていくと人々の不公平感が募り、それが規制や罰則を強化させる種子にもなりかねない。しかも上記のような主張が示すように、後からそういったものを設けてももう遅いので、それならば先回りしてそれに対する対処法を作っておき、それによって公平性を保とう、というような主張も当然出てくることだろう。
・現にこの国では、一部の者達の開き直りがメディアによって大々的に取り上げられ、その煽りによって規制や罰則が強化されるというような動きを何度も何度も繰り返している。自分はこの件に関して、そういった「既成事実を作ったもん勝ち」という風潮とそのゆり戻しとしての「規制・罰則の強化の可能性」を見た。だからそれに対して良しと言うことは出来なかった。
・二つ目の動機――これに関しては前述したジレンマに該当するものでもある。個人的な思想として、貶め系の動画が何の違和感も無く人々に受けいられ、それが人気を博すような状況は良いものだとは思えない。勿論、貶めをしたことのない者など存在しないし、自分だってそういう要素を持つ表現を何度も用いてきた。そしてこれからも用いるかもしれない。そういうジレンマはある。だが、貶め系コンテンツの増長と減衰という二つベクトルが見えた時、どちらを選ぶのか――まあ「選ぶ」と言ってもそう認識しているだけろうけど――といえば自分としては後者を選びたいという思いがあった。
・そして三つ目の動機。これがそもそもこの話題に興味を持った最初の切欠でもある。それは何かと言えば、クリプトンへの批判に対して妙な違和感(気持ち悪さ)を感じたということだ。
・結局クリプトン側は自社の利益とイメージを守ろうとしただけに過ぎない――それが実際に目的にとって正しい選択だったかどうかはともかく。それに自社の利益と言っても、別に残業代を支払うよう主張した従業員を嫌がらせで訴えるというような非道なことをしたわけでもなんでもない。そもそもこういったことに関してクリプトン側からクレームが付くという可能性は誰もが十分認識していた事柄のはずだ(使用許諾契約の内容はミクの発表時にかなり話題になった)。そして問題になっている動画がそれに抵触する可能性があることもまた十分予測出来たはずだ。
・行為(発表)と結果(クレームの可能性)が直接一対一で結ばれている。情報が明らかにされている。行為の在り方に対して圧力が掛かっていない。しかも結果によってその者の命や生活が危機にさらされることもない。つまりこれはジコセキンンではなく真の意味での自己責任に当たる。
・別に自主規制をしろとかそういう話ではない。好きにすればいいのだ。だが、好きにすればいいという考えがあれば尚更、クリプトン側の動きが批判されるいわれもなくなる。何故なら、クリプトン側もまた好きにするだけだろうからだ。
・別に不平等条約的なものでもない相互的関係に於いて、一方が信頼を裏切るような行為をした(クリプトン側にとって件の動画は厄介ごとの種でしかないだろう)。ならば相手側もまた、それ相応の動きを取ろうとすることはやむを得ないだろう。にも拘わらず、その行為を無条件に受容してくれるよう望むのは、余りに虫が良すぎやしないか?
・クリプトンは別にボランティア活動をしているわけでもなけりゃ、増してやソフトウェア使用者にとっての母親的存在でもない。そして母親的な無条件受容を期待していなければ、この件に関するクリプトン側の動きに不満が生まれてくるはずもないのだ。だが実際には批判は生まれてきた。つまりそれは、多くの者がクリプトンにそれだけ過度な期待を抱いていたということだ。そこらへんにどうも自分は気持ち悪さを感じてしまった。
・で、そんな折にレスポールがどうたらとかいう無茶な理屈をつむぎ出す記事なんかを見てしまい、ついイラっときてあの記事を書いてしまったという。
・要するに、自分は別に社会規範的な主張をしたかったのではない(いや、これはこれでまた一つの規範になってしまったりもするのだが)。そうではなく、「好きにすればいい。但し向こうもまた同じように好きにするだろう。だからクリプトンに母親的な過度な配慮なんか期待すべきでない」と言いたかったわけだ。
・しかしまあ、また無駄にエネルギーを使ってしまったなあ。大した関心事でもないことに触れる場合には、迂闊に足を深くまで突っ込み過ぎず、幾つか軽い感想を書いてサラっと流すべきだな、ほんと。因みに、ニコニコのアカウントすら持っていません。
コメント
不謹慎かもしれないがおもしろい事件だ
>法律的議論を避けるための措置だったとも見えます.
一応和解というものはあるけれど、法律は基本的に感情的な拗れまでは直してくれませんしねえ。また少なくともこの三者にとって、この話題を法の場へと持ち出すことは何の得にもならないでしょう。クリプトン側にしてみても、別にミクをああいう形で使われたことを怒っているわけではなく、世間体を考えてのことでしょうし。その意味ではそういった思惑が働いても別におかしくはないですね。
まあ実際のところニワンゴ側の意図はわかりませんけど、少なくともクリプトン側の動きに関しては、あれは「うちは別にニコニコ文化圏だけに限って商売をしているわけじゃないよ」という意思表明でもあったんじゃないかと私は捉えました。
>文化の違い
貶めと罵倒は全然別のものですね。いや、完全に切り分けることは出来ないにしても。前者はよりイメージに重点が置かれ、其々の内面に働きかけ継続的に噛みしめるようなものであるのに対し、後者はもっと直接的、断続的で、勝ち負けを決める競技性のようなものも持っています。
こういった違いはホラーにも言えることで、日本のホラーは如何にその者の内面に上手く働きかけ、そこから恐怖心を引き出すかということが重んじられるのに対し、アメリカのそれは如何に驚かせるか、如何に外形的に危機的な状況を作り出すかということが重んじられているように思います。
で、形式だけを持って来てもその後ろに文化的な裏づけがなければ、表面上は似ていても捉えられ方は全く違うものになってしまったりするんですよね。日本では貶め芸に関してはわりと寛容なのに、ラップのdisり(罵倒)芸なんかはただの「悪口」に分類されてしまうので、中々受け入れられることがないという。
>ヤクぐらい(検閲削除)な気がする
そういやエシュロンとかいうのが一時話題になったけど、結局あれはどこまで本当だったのだろうか。
一応和解というものはあるけれど、法律は基本的に感情的な拗れまでは直してくれませんしねえ。また少なくともこの三者にとって、この話題を法の場へと持ち出すことは何の得にもならないでしょう。クリプトン側にしてみても、別にミクをああいう形で使われたことを怒っているわけではなく、世間体を考えてのことでしょうし。その意味ではそういった思惑が働いても別におかしくはないですね。
まあ実際のところニワンゴ側の意図はわかりませんけど、少なくともクリプトン側の動きに関しては、あれは「うちは別にニコニコ文化圏だけに限って商売をしているわけじゃないよ」という意思表明でもあったんじゃないかと私は捉えました。
>文化の違い
貶めと罵倒は全然別のものですね。いや、完全に切り分けることは出来ないにしても。前者はよりイメージに重点が置かれ、其々の内面に働きかけ継続的に噛みしめるようなものであるのに対し、後者はもっと直接的、断続的で、勝ち負けを決める競技性のようなものも持っています。
こういった違いはホラーにも言えることで、日本のホラーは如何にその者の内面に上手く働きかけ、そこから恐怖心を引き出すかということが重んじられるのに対し、アメリカのそれは如何に驚かせるか、如何に外形的に危機的な状況を作り出すかということが重んじられているように思います。
で、形式だけを持って来てもその後ろに文化的な裏づけがなければ、表面上は似ていても捉えられ方は全く違うものになってしまったりするんですよね。日本では貶め芸に関してはわりと寛容なのに、ラップのdisり(罵倒)芸なんかはただの「悪口」に分類されてしまうので、中々受け入れられることがないという。
>ヤクぐらい(検閲削除)な気がする
そういやエシュロンとかいうのが一時話題になったけど、結局あれはどこまで本当だったのだろうか。
それはね
> 別にミクをああいう形で使われたことを怒っているわけではなく、世間体を考えてのことでしょうし
私の推測でしかありませんが,声優側との問題というのもあると思います.実際のところソフトによる豪勢音声とはいえ,それを提供している人がいるのですから(商売上だけでなく)筋を通すべきだと考えたのかもしれません.
私の推測でしかありませんが,声優側との問題というのもあると思います.実際のところソフトによる豪勢音声とはいえ,それを提供している人がいるのですから(商売上だけでなく)筋を通すべきだと考えたのかもしれません.
ああなるほど
>それを提供している人がいる
そうでした。そういうことを考えると、やっぱり何でもありというのは良くないかもしれませんね。
そうでした。そういうことを考えると、やっぱり何でもありというのは良くないかもしれませんね。
コメントの投稿
トラックバック
http://positiveallergy.blog50.fc2.com/tb.php/324-8c9c2764
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
> これは要するに、この問題はあくまでクリプトンとソフト使用者間の問題であって、ニワンゴ側としてはそれは関係ないという態度なのだろう
捕らえ方によっては動画配信側が間を取り持つような態度を示しているようにも見え,自己削除という形式をとることにしたという形にも見えます.でもまあ実際のところ,削除要請というのは法律的にどういう扱いをされるのか,という観点からすれば法律的議論を避けるための措置だったとも見えます.ホントのところどうなんでしょうねー.
話題が変わりますが,「貶め系」という言葉は始めて聴きました.侮辱罵声の嵐はアメリカのラップミュージシャンなどでは日常茶飯事なのですが,ここらへんも文化の違いもあります.まあ,あっちはヤクぐらい(検閲削除)な気がするのがなんとかならんのか・・・.