「キッパリ割り切る」という生存戦略、「選択」という精神安定剤
敵か見方か、善か悪か、正か誤か、必要か不必要か、社会的か非社会的かをキッパリと割り切ることが出来れば楽なんだろうけど。それが出来れば、思考と感覚を整理し、効率よくそのリソースを使用することができる。イスラエル軍が昨年12月から約3週間にわたってパレスチナ自治区ガザを攻撃した際に、無抵抗の市民を殺害したとする兵士の証言が相次ぎ、国内で波紋が広がっている。軍は19日、軍警察に「作戦上や道徳上の問題」について調べるよう命じたと発表した。
地元紙によると、ガザから帰還した複数の兵士が2月、同僚らによる民間人殺害の実態を、入隊前に通っていた教育施設で証言。事態を重く見た施設の責任者が、軍上層部に「告発」したという。民間人殺害については、これまでもメディアや人権団体が住民の声として伝えてきたが、イスラエル兵の証言で明らかになるのは極めてまれだ。
19日付ハアレツ紙は、ガザ攻撃に加わった歩兵分隊長の証言を掲載。小隊がパレスチナ人家族を家の外に出す際、「右側へ進め」と指示したが母子3人は理解せず左側に進んだため、狙撃兵に射殺された。小隊は、この母子の移動が「問題ない」ものであることを狙撃兵に伝えることを忘れていたという。 (中略)
ガザの「パレスチナ人権センター」が19日に発表した調査結果では、イスラエル軍によるガザ攻撃で1417人が死亡。そのうち18歳未満の子ども313人を含む926人が一般住民だった。国連関連施設や避難所になっていた学校も攻撃を受け、国連は独自の調査委員会を設置すると発表している。
もっと言えば、何らかの方法でそれらをキッパリと割り切ることが出来るものであるかのような錯誤状態を作り出すことが出来るからこそ、その者は己の生き残りの可能性を高めることが出来るという面があるのではないか。分り易い例で言えば、「戦場」で逡巡を抱えていればその者はそれだけ命を失うことになる可能性が高くなることだろう。「敵だから殺しても仕方が無いんだ」「こいつらは世界にとって不必要な存在なんだ」「社会の為、人々の為に正義を断行しているだけだ」「俺は軍規(法律)に従うだけだ」と割り切ることが出来るからこそ、その者は己の生存率を高めることが出来る。
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しかし生存競争は所謂「戦場」だけで行われているわけではない。平穏な日常にもまたそれは存在している。パレスチナでは昨年末からのイスラエルの攻撃で千四百人以上もの人間が殺害されたようだが、「戦場」ではないはずのこの国でも、毎年何万人もの人間が社会にとって「不必要な者」として生存という枠組みから追い落とされている。やはりアメリカでも、イラクやアフガニスタンで命を落とした者よりも自殺という形で命を落としていく者の方が圧倒的に多い。
まあそれはただ現実の一部を幾つか抜き出してきて並べてみただけで、それを以ってして「だから「戦場」よりも平穏な日常の方が危険だ」などと言う事は出来ないが、そもそも地球上では常に何処かが「戦場」と化しているのが常である以上、「戦場」が存在することも含めて「この世界の日常」と言う事は出来るだろう(世界中から「戦場」が消え去ることの方が非日常的)。そして先天的・後天的に恵まれた環境を獲得出来た者は、「戦地」に身を置く必要がない。つまり「戦地」に身を置く者の多くは、まず「この世界の日常」に於ける先天的・後天的競争に敗れ、それによって生活の為、或いは他に行く当てがない為、「日常の一部」としてそこに身を置いている(中には己の誇りや生き甲斐を見つける為に態々そこへと向かう者もいるかもしれないが)。そしてせっかくそこから生き延びて帰ってきても、他に行く当てを見つけることが出来たとしても、または日常の「戦場」化から解放されても、その社会で上手くやっていくことが出来なければ、どのみちその者には生存枠から脱落せざるを得ない運命が待ち受けている。結局、生存競争という戦いから逃れることが出来る場所なんてどこにもないわけだ。
だからこそ「キッパリ割り切る」ことは非常に重要な手段となる。「戦場」という場所だけでなく、平穏な日常という場に於いても。自分の存在は社会にとって必要だから、生き延びようとすることは善い事だから、「善良な市民」の安全を確保しなければならないから、ルールや風習に従うのは正しいこととされているから、など様々な理由で以ってモラルやルールや文化が抱える矛盾を乗り越え、そうやって罪悪感や逡巡を取り払うことが出来るからこそ、有効にリソースを用いることが出来るからこそ、その者はその社会に於ける恵まれた環境を入手し易くなる。必要なものとそうでないものをハッキリと区別することが出来るからこそ、「不必要なもの」を平気で切り捨てることが出来る。それが上手く出来ない者は己の安全を保つことが難しくなり、平穏な日常に身を置きながらにして命を落とす確率が高まってしまう。或いは実際に「戦場」へと身を置かなければならないような状況へと追い込まれてしまう。
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しかしこの生存戦略にも弱点はある。というのも、割り切りをつける為に参照とすべき基準は幾つも存在していて、それらは常に競合しているからだ。また、同じ基準でも其々がそれを全く違った解釈をしてしまうという問題もあれば、その基準に表の意味と裏の意味が存在する場合だってある。
例えば冒頭に引用した記事の例で言えば、状況からみて狙撃兵は「支持に従わなかった者は即座に射殺せよ」と上から支持されていたのだろう。そして「この母子の移動が「問題ない」ものであることを狙撃兵に伝えることを忘れていた」以上、狙撃兵がその命令に従わなければ、その行為はそこでは「作戦上や道徳上」問題のある行為として取り扱われる可能性があったはずだ。そしてもしその支持に従わなかったことで味方の安全を脅かすような結果を招いてしまえば、その者はその責任を厳しく問われることとなっただろう。ところが命令に忠実なその行為は、別の基準では「作戦上や道徳上の問題」として捉えられるものでもあった。「幾らなんでもそれはやり過ぎだろ。それくらい“常識”で考えれば分かるはずだ」と。だが、その“常識”という基準もまた時と場所でまちまちであり、その解釈の仕方も個々人によって全くといってよいほど変わってくるものなのだ。
まあ実際にこの行為を行った狙撃兵やそれを告発した兵士が今後それによってどういう人生を歩んでいくことになるのかは分からないが、キッパリと割り切った行動を取るにしても、その割り切りの基準とする規範の選び間違い、読み間違い、或いは其々の規範の齟齬によって、その行為が他の規範で以って糾弾されることになり、それによって人生を棒に振ってしまうような者が出てくる可能性があることは容易に想像がつくだろう。リンチ事件や企業・行政の不正行為なんかにしても、コミュニティーの内と外で規範に齟齬があり、内側の規範に忠実であり過ぎたため生じているわけだし。或いは、割り切って「告発」を行ったがために棘の道を歩いて行かなければならなくなった者だっていることだろう。
つまりこの戦術を取る場合、割り切って規範の矛盾を乗り越える前に、先ずはそのためにどの規範を参照すべきなのかという逡巡を乗り越え、その時々において適切な基準を見つけ出してそれを「選択」していかなければならないのだが、しかし問題なのは、どの基準を「選択」すれば本当に良い結果になるのかということは、予想することは出来ても、誰も知り得ることは出来ないということだ。また、良いと思った方向で割り切ることが出来る感覚を持ち合わせていない場合もあれば、「競合の罠」に引っかかって割り切りが糾弾されてしまうこともある。選んだ基準が無難なものであっても、それを読み違えてしまうという問題もある。そもそもその者にとって「最善の選択」なんて存在していないかもしれない。
とすれば結局のところ、どの基準によって割り切り、割り切らないでいるかということは、それが上手く行けば「良い選択をした」と認識し、悪い結果になれば「悪い選択をした」と認識しているだけの話なんじゃないのか。だが現実は個人の意思による「選択」なんかではコントロール出来ないからこそ恐ろしいのであり、未来は知り得ないからこそ不安なのだ。だから後から事の顛末に説明をつけることで、恰も「選択」で未来をコントロールすることが可能であるかのように錯覚しようとする。あの時(アイツ)はああして失敗したけど、次(自分)は違う「選択」をするからから大丈夫だ、と。そう認識することで現実が持つ不可知・不制御性の恐怖や不安から逃れ、それ以外の感覚や思考にリソースを割くことが出来る。そういう機能が人間には備わっている。そしてその機能は「キッパリと割り切る」ベクトルへと導く。
しかし中にはキッパリと割り切った結果失敗した者や、感覚的に割り切ることが出来ないが故に泥沼に嵌っていく者もいる。そしてそういった者達の存在は、「選択」と「キッパリと割り切る」という決断で以って少なくとも最低限のまっとうな人生を勝ち取ることが出来ると信じている者達からすれば、現実が持つ不可知・不制御性の恐怖や不安そのものとなる。だからこそ割り切りが持つ現実への制御性や「選択」の魔法を信じている者達は、「その結果は自分の意思で選択したジコセキンだろ!」「決断の意思を放棄したからだ」と言って割り切りの失敗者や不能者が“そういう存在”であることを否定し、単なる「選択」の失敗者、「決断」の意思を持たない者と認定することで不安を振り払おうとする。さながら悪霊(不可知・不制御性)を追い払うためのお経でも唱えるかのように。或いは「幽霊(「選択」と「割り切り」でまっとうな人生を獲得出来ない者)なんて本当はいないんだ!」と虚勢を張って恐怖を紛らわそうとする者のように。
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いずれにせよ、「戦場」とはそもそも「生存競争という日常」の一部であり、その(捉えられ方の)一形態に過ぎない。そして戦場は「戦場」にだけ存在しているわけでもない。我々は何処にいようとも、現実が持つ不可知・不制御性を介した戦いから逃れることは出来ない。勿論、便宜上「戦場」と戦場を分類することは可能だが、実際にはそれらの間に予めハッキリとした境界線が存在しているわけではない。もしこの二つの間にハッキリとした境界線を引くことが可能であり、其々を全く別個のものであると「キッパリと割り切る」ことが出来るとするならば、それはつまり…そういうことなのだ。
「一般」という名の特権化
「テントの設置は一般の利用を妨げ、倒壊により生命に危害が及ぶ危険性」があるから撤去は適法なんだそうで。大阪市が06年1月、靱(うつぼ)公園(西区)と大阪城公園(中央区)で生活するホームレスのテントを撤去した行政代執行により、住居から強制的に立ち退かされ、生きる権利を侵害されたのは違法として、両公園で生活していた16人(うち1人は死亡)が処分取り消しと大阪市に約1900万円の賠償を求めた国家賠償訴訟の判決が25日、大阪地裁であった。西川知一郎裁判長は「テントの設置は一般の利用を妨げ、倒壊により生命に危害が及ぶ危険性もあった。行政代執行は適法」として、原告側の請求を棄却した。
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無抵抗のガザ市民殺害 イスラエル兵証言次々、軍調査へ(朝日新聞)
まあこういうことなんだろうけど。冒頭の記事の場合、“テントの倒壊により生命に危害が及ぶ危険性”が“支持通りに従わなかったこと”に相当し、それによって発生する一方(「一般」)の側の微細な危険性を排除するという理屈で、もう一方の側の生命は「非常に軽視」されることになった。つまり、日本に於いては「一般」がちょうどイスラエルとパレスチナを隔てる壁のような役割を果たしているということ。19日付ハアレツ紙は、ガザ攻撃に加わった歩兵分隊長の証言を掲載。小隊がパレスチナ人家族を家の外に出す際、「右側へ進め」と指示したが母子3人は理解せず左側に進んだため、狙撃兵に射殺された。小隊は、この母子の移動が「問題ない」ものであることを狙撃兵に伝えることを忘れていたという。
分隊長は「パレスチナ人の命はイスラエル兵の命に比べ、非常に軽視されていたと感じた」と話した。
本来ならば、ホームレスがいることがこの社会の一般的状況であり、ホームレスも含めてこの社会であるはずなのだが、その社会の一部を異者として切り離すことで、切り離した側は「一般」として特権化され、著しくバランスを欠いた形で保護されることになる。こういった日本の状況は、イスラエルとパレスチナの関係に根本的な部分で酷似しているように思う。圧倒的な力を有する側が、「被害者(になる可能性を持った者)」としてそれを行使しているという意味でも。ただ違うのは、日本では「非一般化」された者達が滅多にハマス化しないということくらいか。
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そういえば、「世界陸上大阪」では世界(世間)に我が街の都合の悪い部分は見せたくないという下らない見得張りのため、長居公園などから一斉にホームレスが強制排除されたことが記憶に新しいが、その時も多くの大阪人は「不法占拠だから仕方が無い」というにべもない「正論原理主義」的な態度を取っていた印象が残っている。おそらくこういった主張やその具体化は今後益々露骨化していくことになるのだろうが、そういう意味では大阪は日本全体の今後の姿を占うのには丁度良い指標になるかもしれない。
サァ~ムラァイ・ジャパン
「ワールド」と銘打っている割には参加チームはたったの16チームだけで、競技発祥の地であり開催国でもあるアメリカですら余り注目もされていないローカル・スポーツの祭典とはいえ、最後まで勝ち残っても結局4チームとしか対戦することがなく、同じチームと5回も戦うことになるという非常に不可解な方式が採用されているとはいえ、或いは公務員バッシングが大好きな国民の期待を背負って戦うチームの愛称が何故か「サムライ・ジャパン」であるという面妖さがあるとはいえ、やっぱり元野球ファンとしては気になってしまうわけで。でまあ、金も職も友人も気力も希望も「生まれてきて良かった」という思いも無いものの、時間だけは余っている自分は結局殆どの試合を見てしまった。馬鹿馬鹿しいと思いながらも。麻生太郎首相は24日午後、野球のワールド・ベースボール・クラシック(WBC)での日本の連覇について「世界最強豪チームを次々に破っての堂々たる優勝は多くの国民に大きな勇気と感動を与えてくれた。今回の戦いを通して我が国の底力を再確認した。お疲れさま、そして、本当にありがとう」とのコメントを発表した。
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それにしても決勝戦は非常にストレスの溜まる展開だった。しかし普通なら優勝が決定すると同時にそのストレスは喜びや爽快感へと変換されるものなのだろうが、何故か今回は優勝しても全くカタルシスが得られず、それどころか試合中に発生した不安感と疲労感だけが図々しく居残り続け、本当に嫌な気分だ。これは一体なんなんだ。その上優勝した選手やそれを実況している解説者やアナウンサー、或いはその結果を受けて喜びを表す人々のはしゃぎっぷりを見れば見るほど、自分は彼らとは違う世界の人間なんだという疎外感をひしひしと感じ、益々鬱になる。挙句の果てに、吐息を聞くだけでも虫唾がはしるダディまでもが「良かったな」などと馴れ馴れしく話しかけて来て余計に不快感が増す。なんだか日本が勝っても負けても非常に気分が悪い。少なくともこの優勝で「大きな勇気と感動を」受け取ることが出来なかった自分は、首相が認識するところの「国民」の内の一人には含まれていないんだろうな、と思った。
因みに今大会で一番印象に残ったのは、岩隈選手のオフィシャルサイトにある日記が余りに乙女っぽくて驚いたこと。ピッチングで炎上させることはなかったが、なんとなく「くまひぃさ」と呼びたくなる。
ミサイルよりも世間の目(への無邪気な追従)の方が恐ろしい
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というのも、基本的に日本人は北朝鮮のミサイルや体制よりも同じ日本人の作った社会システムや体制によって押しつぶされる可能性の方が圧倒的に高いはずなのだから。結局のところ、北朝鮮の話題でやたらと勇ましい態度を取ってみせたり、彼らを愚かしいものとしてあざ笑う行為は、「貴方もこれで“ちょっと素敵な私”を演出してみませんか?」みたいなものなんじゃないかと。そうすればそれによって相対化された「日本人」の構成員であるところの自分に自信を持つことが出来るし、「内と外」という境界性を明快にし、外からの危機に意識を集中することで、目の前に転がっているより現実味を帯びた危機(或いは「敵か見方がハッキリしない日本人」に対する恐怖感――敵か見方かハッキリしない者は、敵だとハッキリしている者よりも様々な意味でその者を不安にし、悩ませる要因となる)から目を反らすことも出来るし。
そういば、昨日梅田の地下街に行ったら、「第三ビルでは皆様が心地よく利用できるよう最善の配慮を行っていますが、万が一お客様が不快な思いをなさるような振る舞いをする者や不信な人物を見かけたら直ちに防災センターにお知らせ下さい」みたいなアナウンスが繰り返し流されていてキモ過ぎると思った。異者を有無も言わせず排除することがもはや常識と化し、其々の個人はその善良なる暴力の存在を何の疑問も感じず受け入れてしまうことでその暴力との共犯関係を結ばされている。逆に言えば、其々が持つ異者(不安要素)を排除したいという欲望とその実力行使であるところの暴力を、主体を持たず思い悩むこともないシステムに代行※1してもらい、己の持つ罪悪感や矛盾、葛藤を取り払った上でそれを成し遂げようとした結果がこういう状況を生み出していると言えるかもしれない。そして尚且つそれは、その密告という行為を上から促して貰うことで、その行為が自発的なものではないかのような錯覚をさせる配慮までもがなされている。
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「瀬戸大橋の光ケーブル切断」と書き込み(nikkansports.com)
かつて最も民主的といわれたヴァイマール憲法がその後の独裁政権の誕生を下支えする結果となったように、上からの締め付けは元々は下からの要求に応える形でそれが行われ始めているということも多い。少なくともこういう下らない密告行為を指示する(或いはそれに何の疑問も感じず、「仕方が無いこと」として受け入れてしまう)人間が大勢いるこの国は、決して北朝鮮の社会や人々を笑えるような状況にはないはずだ。岡山県警児島署は6日、インターネット掲示板「2ちゃんねる」に「ちょっと瀬戸大橋の光ケーブル切断してくる」と書き込んだとして、業務妨害などの疑いで、金沢市の販売店店員の男(30)を書類送検した。
送検容疑は1月19日午後7時半ごろ、携帯電話で書き込み、警察官を警戒に当たらせて業務を妨害するなどした疑い。
※1 そのうちロボットがこういう役目を担わせられることになるのかもしれないな。
未来の異者「クソッ、奴に目を付けられた!早く逃げないと!」
リミックスに手を染めてみる、の巻き
でまあ出来上がってしまえば発表したくなるというものだが、しかし素材の権利の関係上、この曲はMySpace上でコンテストに応募するという形でしか発表することは出来ない。それで態々これ用にMySpaceのアカウントを取っておこがましくもコンテストに参加してきたのだが、今はそのことをちょっと後悔している。よく考えてみれば、自分にとってはコンテストに参加することのメリットなんて何もないわけで。別にMySpaceに音源を挙げるだけ挙げて、後は応募しないという手もあったんじゃないか?多分それでも誰にも文句は言われないと思うし。まあMySpaceに音源を挙げれば後はツー・クリックで応募完了なのでそれはそれで不自然な気もするけど。
というかそもそもの問題として、自分はリミックスの意味がイマイチ分かっていなかったりするのだが。始めはこの素材だけを使って曲を作ってみろってことなのかとも思ったが、他の人達が作った曲を聴いてみると結構好き勝手にしているみたいなので、自分もリミックスが何を意味するのかを余り考えずに好き勝手にしてみた。だからこれも多分リミックスの範疇に入る…はず。とはいえ、最終的に出来上がったのは普通にミニマルでオーソドックス(?)なものになったけど。
しかしまあ下らんことで悩みすぎだよな。もしかしたら、「立派な社会人」という肩書きを手に入れてさえいればこんな下らんことでいちいち神経をすり減らしたりすることもなかったのかもしれない…とは思ったものの、よくよく考えてみれば、今と違って常識的レールに必死でしがみ付いて社会的体裁を保ち続けていた学生時代でも今以上に些細なことで懊悩していたりしたので、やはりそういう問題ではないのかもしれない。
それはともかく、これが今回取得したMySpaceのアカウント。ここで今回作ったリミックスもどきを聴くことが出来ます。ただこのアカウントはこの曲を表に出すためだけに取ったものなので、今のところこの場所をそれ以外の目的で活用する予定はありません。
因みに、以下はこの曲の後半部分の設計図的なもの。設計図と言っても、単に一端核となるパーツをmidiで書き出してみて、それに合いそうな音をどんどん重ねていったというだけの話だが。実際にはこれにさらにキックやSEなどが加わっている。
壁で卵を押しつぶす作業始まったな
最強のモンスター「善良な市民」に、文化やシステムを介して婉曲的に迫害される下級モンスター達。不況の深刻化とともに、路上生活者のための炊き出しに並ぶ行列が伸びている。そんな中、隅田川にかかる駒形橋(東京都墨田区、台東区)では、近隣住民からの苦情を受けて3月末で炊き出しが中止になる。ベテランのボランティア団体が12年続けてきた活動だけに、ほかの団体にも不安が広がっている。
(中略) 第五建設事務所は、河川法に基づき「公共の空間で独占的な使用は認めがたい」と指導してきた。管理課によると、近くに児童公園があり「子どもが声をかけられ怖がる」「狭い道で並んでいると通りにくい」といった苦情は07年度から少なくとも十数件あったという。同事務所の担当課長は「昨今の厳しい経済情勢は理解しているが住民の苦情もないがしろにできない。両立できればいいが難しいところだ」と話す。
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日本では家の外こそが「ガス室」であり、社会的地位(体裁)こそがその毒ガスから身を守る為の防護服なのだ。或いはその防護服こそが、その者がこの美しい国の正統な市民の一員であることを示す識別表としての役割を果たしている。よってそれを失った者達は、「世間の目」が放つ毒ガスの「この社会を健全な状態に保つ為に、お前は誰にも迷惑を掛けず速やかに消え去るべきだ」という成分を容赦なく浴びせられ続けることになり、そしてその成分がもたらすシグナルは、幼い頃から其々に植えつけられてきた道徳感に働きかけ、それによって増長した道徳感は、その命を受けて自己を破壊へと導くよう誘導する。つまり、この国の自殺者の多くは、この国の社会や文化を健全な状態に保つ為のアポトーシスとして(或いは予め予測されたその結果の過程を省く為に)自死しているのである。毎年三万人以上もの人間が自殺せざるを得ない困窮国でありながら異常なくらい治安が安定しているのはこのためだ。
それにしても、なんと素晴らしい合理的でエレガントなシステムなんだろう。この日本が誇る最先端の社会システムをきっとイスラエルも、いや、世界中の「善良な市民」達が羨んでいることだろう。
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自己批判は必要だが
「自己否定=(内面で分化された)他者の存在への否定≒他人の存在への否定」
…とはいえ、これは個人の意思の力だけで自由にコントロール出来るようなものではない(当然、個人の意思だけを原因として作り出された問題でもない。それは常に他者との関わり合いの中で生まれている)。よってこういった問題に於いては、むしろそのことにこそ注目せねばならず、それを踏まえずに幾ら動きを取ってみたところで、それはこの問題に取り組んでいると言うことは出来ない――例えば、この問題を単なる「自己否定の否定」によって解決しようとすることは、単なる自己否定と同じ轍を踏んでいることになる。
こんなオチだったら良いのに
本当にヒトラーがいなければ惨劇は起こらなかったのだろうか。自分には到底そうは思えない。そもそも、ヒトラー一人の力が歴史を動かしていたわけでもないだろう。それよりもむしろ惨劇を裏で支えていたのは、人々の奥底に潜んでいる不安や僻み、正義感や復讐心、合理性追求の欲求、或いは希望への希求といった人間の資質そのものの発露であったり、人類が延々と抱え続ける「資源の不足」という普遍的命題であったりするんじゃないのか。狂った暴君アドルフ・ヒトラーの暗殺計画は、実際に40回以上あったという。本作はその中でも有名な“ワルキューレ作戦”の顛末をスリリングに描く戦争サスペンスだ。ヒトラーの最期は多くの人が知るもので、そのことは作戦の結果をも物語ってしまうのだが、映画は最後まで緊張感を失わない。(中略)21世紀になった今、決して全ドイツがヒトラーに傾倒していたわけではないという物語がハリウッドから生まれてくることに、時間の経過を感じずにはいられない。
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だから、どうせだったら「ヒトラーを暗殺すれば平和がやって来る、ヤァ!ヤァ!ヤァ!」みたいな陳腐な希望(勿論、当人達にとっては差し迫った事情があったのだろうけど)に支えられた作戦をただ単にそのまま描くよりも、パラレル・ワールド的に、ヒトラーの暗殺は見事成功したものの、彼を殺害した為により遠大な惨劇が引き起こされ、その責任をヒトラーを暗殺した者が背負わされる、というオチにすれば良かったのに、と思う。いや、このプロット自体は非常に一般的なものだが、一見史実の再現を装っていながら最後にこういうオチを持ってきたら、それはそれで結構な衝撃なんじゃないだろうか。ナイト・シャマランもびっくりだ。もしそうであるならば、「時間の経過を感じずにはいられない」という感想にも得心がいくのだが。
まあ、実際には世論的に無理なんだろうけど。そういう内容の映画を作るのは。いや、逆にそういう禁忌を破るような強い個性を持った人が出て来たりするのがアメリカの凄いところだったりするんだけど、この手の大スペクタル系は金が集まらないと作れないからなあ。自主制作だったら可能かもしれないが。
想いは届かず
「都市一つ壊滅したかも」小惑星あわや激突…豪学者が観測(読売新聞)
どうやら隕石乞いは失敗に終わったようです。もうちょっとだったのに。次のチャンスは100年以上先か。でも100年後に願いが叶ってももう意味がないしなあ。3日未明、直径30~50メートルの小惑星が地球の近くをかすめていたことが、オーストラリア国立大学の天文学者、ロバート・マクノート博士の観測で分かった。
最接近時には地球からわずか約6万キロの距離で、博士は「衝突していれば1都市が壊滅するところだった」としている。(中略)
地球への再接近は100年以上先になる見込み。
それにしても残念。きっと自分の努力が、自分の小惑星に対する想いが足りなかったからこそ、小惑星は自分に衝突することが出来なかったんだ。きっと自分が変わりきることが出来なかったから、世界もまた変わることがなかったんだ。…精神論的に言えば。
残虐機関は魅了する
不幸が足りない。「最高のもの」を生み出す為には、もっと人々の不安が、苦痛が必要なんだ!オアシスのノエル・ギャラガーが、現在、世界中で問題となっている金融危機はもう少し悪化してもいいと話した。不況のときこそ、いい音楽が生まれると考えているからだ。
ノエルは『That's Shanghai』のインタヴューでこう話したという。「金融不安がもうちょっと悪化すればいいのにと思っている。少なくとも、俺ら、もう何枚かいいアルバムを作れるだろ」
オアシスが結成した1991年も英国は不況の真っ只中だった。そして『Definitely Maybe』という傑作が誕生した。「俺らがスタートした90年代初め、まだ保守党が政権を握ってて厳しいときだった。危機が訪れてるときっていうのはたいてい、音楽やファッション、それに政治なんかで最高のものが生まれるんだ」
オアシスに限って言えば、バンドを結成した当時といまでは彼らの経済状況も社会的地位も違うため、いくら世間が不況に陥りようが当時のハングリーさが戻ってくるとは思えないが、彼の説には一理ある。ノエルの言っていることとは少しニュアンスが違うが、ザ・キラーズも同時多発テロ事件の余波で仕事が見つからず、バンド活動に専念することができたと話していたことがある。
Ako Suzuki, London
不況は現代のドラッグなのかもしれないな、芸術家とやらにとっては。でも、いちいち不況が悪化するのを待つまでもなく、どうせならいっその事、今すぐにでも世の芸術家を名乗る者達を全て収容所にでも送って、様々な手段で以ってその人達に直接もっと大きな不安や苦痛を体験してもらった方が手っ取り早いんじゃないかなあ。そうしたら、きっとすっげえ良い作品が生み出されることになるんじゃないの。んで、それでも良いものを生み出せなかったら、その人は再び収容所送りにして、さらに念入りに不幸の根付けを行ってもらう。それでも尚良い作品を生み出せないような者は、…価値が無いから要らないや。日本的システムで追い込んで、出来るだけ誰にも迷惑掛けないような方法で自殺でもしてもらえばいいんじゃないの。良い作品を生み出すことが出来ない芸術家なんて邪魔なだけだもんね。
え?それは残酷過ぎるって?でも、「最高のもの」を生み出すために芸術家は存在しているのだから、仮にも芸術家を名乗るのであれば、それくらいのコストを払う覚悟くらいはしてもらわなくちゃね。ね?あなた達もそう思うでしょ?ギャラガーさん、Suzukiさん。
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経済人が「不況はチャンス」と言うように、精神論者が「抑圧が強い人間を育てる」と言うように、芸術家もまた「不幸が良い作品を生み出すのだ」と主張する。そして、「ほら、こんな不況にも拘らず大躍進を遂げた企業があるじゃないか」とか、「彼は人よりもずっと辛い目に遭い、それに耐え続けたからこそ、あれ程大きな成功を収めることが出来たのだ」とか、「彼の不幸な生い立ちと、不安定な社会情勢があったからこそ、これ程の名作が生み出されることとなったのだ」などと言い、それが恰も全ての者にとって普遍的な価値を持っているかのように述べ、人々に希望をもたらす。しかし、そうやって生み出された価値は、実際には特定個人にのみ有益なものでしかない。その特定個人に含まれない者にとっては、そんなものは何の価値も無い。むしろ迷惑で有害なものだったりすることすら珍しくない。
不幸には、不幸に打ち勝つことが出来る様な大きな価値(希望)の創造が必要だ。
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大きな価値を生み出す為にはさらなる不幸が必要だ。
不幸が生み出す大躍進がそうであるように、芸術もまた、こういった残虐機関の一部として機能している面がある。しかしながら、芸術には社会批判の可能性が秘められていると主張する人達もいる。そしてそれらは体制に屈しない力を持っていると。まあ確かに、それらの持つ価値が個人的なものとして留まっている間は、それが体制批判として機能し得る場合もある。しかし、それが集団にとって価値あるものとなった時、それは既に体制側に取り込まれてしまっている。芸術はいとも容易く体制側に寝返るのだ。果たしてそんなものに社会批判の可能性があると言えるのか。自分はそうは思わない。だから、芸術が社会に対する批判的可能性を持っているなんて希望は、自分は一切信じない※1。所詮芸術なんて、人間秩序の荒波の中で個々人が持つ資質が滲み出ることによって出来た吹き出物みたいなものでしかないのだ。そしてそれに価値を見出すことが出来るか否かは、其々の個人の問題。
少なくとも自分にとっては、『Definitely Maybe』とやらよりも、何百億もする絵画(の持つ芸術的価値)よりも、不幸によって生み出された唯一無二のそれらよりも、幾ら質素でありふれたものであっても、屋根や布団やコタツや風呂や食事の方が、そして平穏な日常の方が、余程大きな価値がありますよ、と。
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(追記) ※1 芸術に社会に対する批判的可能性が全く無いかの様な表現を用いたのはちょっと行き過ぎだったかもしれない。つまるところここでは、芸術の持つそういった機能が、時に実質的にそれが持っているものの内実とは余りにもかけ離れたものとして取り扱われてしまうことや、そのささやかな部分ばかりがクローズアップされ過ぎてしまうことのバランスの悪さに対する違和感を述べたかったということ。