神山典士氏の『FAKE』評について
そもそもドキュメンタリーが調査報道的でないことに憤る、ということ自体妙な話だ。ドキュメンタリーは別に何かを追及することだけを目的とはしないからだ。自称超能力者を取材する時、そのトリックを暴くことを主眼とするものもあれば、その人物の人生や日常を映し出して見せることを主眼とするものもある。一言で言えばこの作品は、「中国の山奥に分け入ってジャイアントパンダの生態撮影に成功しました」という類の記録映画だった。最近では、ナレーションも音楽も挿入せず、ひたすら被写体を撮り続ける「観察映画」もあるが、この作品にもどこにも調査報道の跡はない。
そういえば昔、ニートをテーマにしたドキュメンタリーと銘打った番組で、取材者側が取材対象に、わりと強い口調で「何故働かないんですか」と再三問い詰めていたものがあり、これのどこがドキュメンタリーなんだ?と思ったことがあったが、そういうものならば神山氏も満足したのかもしれない。
何故そのような例を挙げたかというと、どうもこの記事は断罪が目的化してしまっているように見えるからだ。でないと「パンダが吠える」「 まるで甘やかされて育った「末っ子長男」の性癖そのものだ。 」(これは森氏に向けられたもの)などという、彼が信奉するはずの調査報道からは程遠い言葉が出てくるはずもない。
しかしそういったものや視点が「調査報道」や「ノンフィクション」という肩書きでパッケージングされた途端、もっともらしさや格調高さを醸し出してしまったりする。それこそ報道の抱える大きな問題点ではないか。
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以下、気になった部分を幾つか挙げてみる。
聴覚障害者が手話が終わりきる前に意図を把握したり、話の途中で既になされた質問に応えたりすることは普通にあるだろう。普段聴覚障害者がそういうことをした時、「まだ手話が終わっていませんよ」などとは言わないだろう。失礼だから。何故そのような対応を取るかと言えば、予断があるからだろう。こいつならそれをしても問題ないという考えがあるからだろう。佐村河内氏の記者会見における私の「まだ手話が終わっていませんよ」という発言も、そこだけ切り取れば「聴覚障害者を侮辱している」というイメージで解釈することもできる。だがそれは編集によって見せる角度を変えただけのイメージ操作だ。調査報道ではない。
予断を持つことは仕方がないかもしれないが、そういった予断の貫徹は本来調査報道においては最も避けねばならないものだ。また、何らかの嫌疑がかかっているからといって、その者に失礼な態度を取ったり侮辱したりしてよいというわけでもない。それもまた調査報道には不必要なものだ。
代作問題で渦中の佐村河内守さん 会見ノーカット14(14/03/07) - YouTube
実際に切り取られる前の映像も見てみたが、やはりおちょくっているようにしか見えない。イメージ操作だと言うが、他にどう解釈すればよいのだろう。そして質問自体も謝罪を求めること、すなわち断罪を目的としたものになっている。神山氏は調査報道の一環としてこの質問を行っているはずだが、しかし子供への謝罪を迫るのは一体何を調査するためのものなのだろう。そういった断罪の目的化は調査報道の姿勢に反するのではないか。
Ⅲ 佐村河内氏は「作曲」したのか ―― 委員会が確認した事実・その1(PDF)
また、記事ではBPOの調査報告から以上の部分を引用しているが、この調査報告には以下のような記述もある。「佐村河内氏には交響曲を作曲する音楽的素養や能力はなかった。(略)佐村河内氏が果たした役割は、新垣氏に楽曲のイメージ構想を指示書等で伝えるプロデューサー的なものだった。実際にメロディ、ハーモニー、リズムを作り、譜面にして曲を完成させたのは新垣氏である」
これがあるのとないのとでは印象だけでなく意味合いも変わってくる。なければ最初から作曲者を偽っていたことになるからだ(この二人の関係は、元々佐村河内氏による編曲の依頼から始まっている。話し合って共作になることもあるが、基本はメロディーを作った方が作曲のクレジットを獲得する※)。新垣氏は、この「鬼武者」までの作曲については、佐村河内氏のメロディを一部使
用しアレンジしているので、作曲者を佐村河内氏ひとりとしても問題はないだろうが、
「交響曲第1番」以降の作曲については、作曲者は自分であると主張している。
少なくとも「編集によって見せる角度を変えただけのイメージ操作」をそれ程問題とするのなら、この部分に関する補足は必須になるはずだ。しかしこの記事にはそれがない。
「なぜ他人に創作を委ねたのか?」などという質問をする必要はないだろう。あの二人が、技能のない営業と技能はあるが営業力がない技術者という関係であったことは明らかなのだから。どちらも一人では金を稼ぐことが出来なかったが故にその関係が築かれ、そしてそこから抜け出せなくなった、というだけの話だろう。そして営業の方がどんどん悪乗りしていった、と。まあ骨組み自体はわりとどこにでもある話である。さらにいえば、森監督が「主観と客観の狭間の表現で苦悩する」ジャーナリストであるならば、このシーンのあとには次の質問を用意しておくべきだった。
「自分で作曲演奏できるのに、なぜ他人に創作を委ねたのか?」、と。
まったく音楽に無知無能な者が他者に創作を委ねるならば、まだ理由もたとう。けれど仮にも4分の曲を仕上げることができる者が、なぜ他者に創作を全面依存するのか。 それは無知無能よりも愚かな、唾棄すべき「打算」以外の何者でもない。
その問いかけすら放棄するこの作品は、ジャーナリズムではない。単なるエンタテインメント作品だ。ならば冒頭に掲げた「主観か客観か」という問いは、完全に無意味だ。ここには真相や真実を問う姿勢などないのだから。
それを神山氏のように問い詰めや謝罪の強要ではなく、実際に曲を披露させて見せることで伝え、各々に判断してもらってこそのドキュメンタリーだろう。正に王道とさえ言えるやり方だ。それの一体どこが駄目なのだろう。佐村河内氏は森監督の要請により、この作品の中で自ら捨て去った凡才をここに再生しなければならなかった。ただ凡庸なだけの旋律を世間に披瀝するために――――。
そして仮に佐村河内氏が金を稼ぐほどの作曲の技能がなかったと判断したとして、その者に、何故あなたは自分で曲を作って売らないのか?などと問い詰めることに、一体ジャーナリズムとしてどのような価値があるだろうか。ジャーナリズムは基本的にエンタテインメント要素を持っているものではあるが、それこそ人が恥をかく姿を見せて人気取りをする低俗なエンタテインメントの姿そのものではないか。
大体、自分で曲を作れる者が自分より高い技能を持つ者に作品の製作を依頼することを「唾棄すべき「打算」以外の何者でもない。」とまで非難する理由は一体なんなのか?そういった「打算」が駄目ならビジネス自体できなくなる。それ自体は別に非難されるようなことではないだろう。何らかの予断がなければこんな筋の通らない言葉は出てこないはずだ。
こういったことを見ていくと、まず先に非難があり、後から理由を探してきているのではないか、という疑念が沸く。一つ確かなのは、神山氏の言う通りに作ると、非難されるべき対象が周りから詰問されたり謝罪を迫られたり恥をかかされたりする姿の撮影に成功しました、という類の記録映画になってしまうということだ。個人的にはむしろそちらの方がウンザリなのだが。
※なんでもDREAMS COME TRUEは一方がラジカセに鼻歌を吹き込み、もう一方がそれを曲として仕上げるのだが、作曲のクレジットは前者になるのだとか。もちろん人にウケるメロディーを作る才能というのはあるだろうが、少なくとも労力的に言えば後者の方が何十倍も必要になるにもかわらず、前者だけが作曲のクレジットを獲得し、それゆえ印税もそちらにだけ入るというのは余りにも不公平ではないか、と思いながらそれを聞いていたのを覚えている。
コメント
憎しみに取り憑かれて攻撃的になるのは私にもままあることで、気持ちはよく分かるのですが、それが報道の使命による要求からであるかのように言い始めるとどうしても鼻についてしまいますね。
>実際のお金の流れはバンドメンバー全員に行き渡っているということもあるそうです。
なるほど。ただ、お笑いコンビでもギャラは折半だけど、ネタは全て一方が作っているなんて場合もあり、こういった集団では内心お互い色々な思いが渦巻いていたりするんだろうなあ、とは思います。逆に余り貢献できていない後ろめたさを感じて嫌になるという場合もあるでしょうし。
>佐村河内氏も交響曲を作る際には、せめてICレコーダーに適当な鼻歌の一つでも入れておけば良かったと思います。
本文中にリンクを挙げた「Ⅲ 佐村河内氏は「作曲」したのか ―― 委員会が確認した事実・その1」には、「村河内氏の代理人作成の資料によれば、佐村河内氏が「交響曲第1番」の主要なメロディを複数作って、これをMDに録音し、新垣氏に渡した」とあります。もちろん本当かどうか分かりませんが。
ただ、仮にそれが本当であってもどのみち新垣氏はそのメロディは使わなかっただろうと思います。というのも、新垣氏はテレビでそれ以前の作品において、編曲を依頼されたが一から作り直した、という類のことを言ってましたから。そういうことを繰り返し、それが上手く行って金になるという枠組みが出来上がれば、佐村河内氏側が提供するのが指示書だけになっていったというのはある意味当然の成り行きだとも言えるんですよね。だって無駄な工程になりますから、メロディの提供が。
そしてそういうことを新垣氏自身が言ってしまっている以上、交響曲以降も同じことをしていてもおかしくないのではないか、という疑惑も出てきます。だから新垣氏の主張をそのまま信じるのもちょっとどうかと思うんですよね。
とはいえ、例え両方とも嘘つきであったところで、この事件は障碍の程度を偽ったことを除いてはしょせんエンタメの範疇でしかなく、そうである以上特段断罪を必要とするようなことでもないだろう、というのが私の感想です。ファンが裏切られたと思うのは仕方がないですが。
不快でしたら削除くださいませ。
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一部でこういった声が挙がるのは、佐村河内氏は必要以上に叩かれる一方、本来共犯であるはずの新垣氏は善い人のように扱われることや、才能があるから許される、というような見方にバランスの悪さを感じる人がいるからではないでしょうか。
新垣氏がついた明らかな嘘は、贖罪のためオファーがあった仕事は全て請けています、と言いながら森氏の取材は断っていたことです。他にも不可解な点として、佐村河内氏が全くの健常者であるかのように印象付けるコメントをしていること、上のコメントでも少し触れましたが、テレビでデモテープを流しながら、オーケストレーションを依頼されたのに何故かそれを一から作り直したと強調していたこと、などが挙げられます。
こういったことを鑑みると、佐村河内氏は営業面での嘘を付いていたが、新垣氏にも佐村河内氏との関係でかなり嘘があるのではないか、という疑問が沸きます。もしかしたら佐村河内氏との関係が嫌になったが中々キッパリ断りきれず、そうこうしている内にバレそうになってあの騒動を逃げ道として求めたのではないか、と。神山氏の暴露本も実質的には新垣氏と神山氏の合作みたいなもののようですし。
またその真偽とは別に、そもそも新垣氏をああいう状況に追い込んだ、商業音楽で稼ぐことを蔑む現代音楽界の因習(――実際、現代音楽界から彼を擁護する文脈で出された主張にそのようなものが見られた)にももっと目が向けられるべきだと思います。
一方報道側のバランスの悪さもあります。
http://www.bpo.gr.jp/wordpress/wp-content/themes/codex/pdf/brc/determination/2015/55/dec/k_tbs-t.pdf
『アッコにおまかせ!』 が佐村河内氏が健常者と同じように言葉を聞き取ることができるかのように報じ、それがBPOから「申立人の名誉を毀損する人権侵害があったと言わざるをえない。」 として勧告を出されましたが、このことを知る人は少数派でしょう。余り報じられていないので。
また、神山氏自身ゴーストライターとして活躍しているわけで、そういったものを根拠に非難をするのはおかしなことです。彼は「作家を名乗る人の後にはゴーストライターがいてはいけない」と言っているらしいですが、それは彼の個人的哲学でしかなく、大抵の者からしたら同じことです。
彼が非難の根拠として真っ先に挙げるのは障碍者の少女に対するメール云々ということでしょう。しかしツイッターなどを見ていても分かるとおり、有名人が罵倒・中傷・差別的発言で人々を苦しめたりするのは日常茶飯事です。
また、ネットでは改憲を目指す与党の重鎮が国民主権や基本的人権を否定していることや、ルール違反を平気で行う悪徳企業の話題など、人々の命や社会基盤に関わる、こんな騒動よりもはるかに重要でジャーナリスティックな価値も大きい話題が次々持ち上がりますが、今のところそれらがテレビであの事件ほど大きく扱われたことはありません。
障碍の程度を偽っていたことにしても、それ自体は普段ならスポットニュースで一度報じられておしまい、程度のものでしかありません。
ではなぜあの事件はあれほど大きく扱われたのかと言えば、エンタメとしての価値が大きかったからです。神山氏は森氏の作品をエンタメであると言って批判しますが、そもそもこの騒動自体ジャーナリズムとしての価値は殆どなく、エンタメとしての価値の大きさゆえに大きく取り扱われたに過ぎないのです。
ではこういったバランスの悪さはどのように解消されるべきでしょうか。それは断罪による埋め合わせではなく、むしろ佐村河内氏の名誉を新垣氏程度にまで引き上げ、神山氏に優秀なエンタメ師の称号を与えることでそれが図られるべきだと私は考えます。
http://www.takashi-niigaki.com/news/576
新垣氏サイドからの公式コメントが出ていたんですね。
これを読むと新垣氏が取材を断ったのは、正式な取材依頼の前に森氏がアポなしの突撃取材を行い、それで不信感を抱いたから、ということのようですね。まあそういうことなら取材拒否も分からなくはありません。ただ、BPOの見解や著書で既に事実が明らかになっているから、という理由は、贖罪のため全ての依頼を断らずに受けています、と言うコメントと整合性が取れないため、余計なつけたしだと思いましたが。
しかし改めて思うのは、金になると分かったとたん大勢人が集まってくるんだなあということ。初めから新垣氏にこういったサポートが付いていたら、そもそもあんな騒動に巻き込まれることもなかっただろうに、と。そして逆に金にならないと分かった途端、潮が引くように人は去っていく。一方森氏は、通常金にならないと思われている人に近づいて行ってそれを金に変えるタイプの人なんでしょうね。
とはいえ今でこそ人が集まってくる存在になった新垣氏も、あの騒動が無ければ、商業音楽で金を稼ぐのはさもしいこと、という現代音楽界の因習に囚われ続け、「自分が作曲した作品が~多くの人に聴いてもらえる」喜びを知ることも出来なかったのではないでしょうか。そう考えると、新垣氏にとって佐村河内騒動は「解放者」でもあったように思います。
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と、考えた時に、この人はそうか、佐村河内守という人に対して尋常じゃない怒りを抱えているのかという考えに至りました。そうなれば、あの記者会見での侮蔑的な態度も納得です。
という“ポジション”が見えて、もう一度元の文を読み直すと、今度は冷めます。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いをプロ(多分)のノンフィクション作家がやってしまうのかと。
ドリカムは知りませんが、作詞・作曲クレジットは個人名でも、実際のお金の流れはバンドメンバー全員に行き渡っているということもあるそうです。これもグループのイメージ戦略という名の立派な営業活動ですね。
佐村河内氏も交響曲を作る際には、せめてICレコーダーに適当な鼻歌の一つでも入れておけば良かったと思います。