市場はニートを製造する×問題解決自体を目的化することによる不労
東京都心の求人状況がヤバイ。はよ移民入れろ、もしくはニート本気出せ。
そんなに人に来て欲しいなら、自らからアタックかければいいのに、何故そうしないんだろう。都心に人がいないなら、地方まで行って人手を確保するという手もある。それでも駄目なら、それはその契約が市場において締結相手を見つけられるほどの商品価値を持っていなかった、というだけの話だ。不動産と飲食で事業を経営している者ですが、ぶっちゃけ都心の雇用状況がやばいです。
バイトがいない、捕まらない。時給は高止まり。
正社員も募集してるのに飲食事業の方は全く応募が来ない。(何故か不動産は多少来る。不動産営業の方がキツいのに…)
同業を眺めてみてもやはり事情は同じで、僕の会社は時給1500円~で募集をかけているからまだマシだけれど、
一般的な居酒屋ラーメン屋なんかの人材枯渇がとにかくヤバイ。(中略)
しかし、今は間違いなくニートにとってのボーナスステージになってます。
26歳フリーター、正社員経験なし、みたいなこないだまでゴミ以下の扱いだった労働者が
現在は都心の中小企業であれば即採用の状態になってると言っても過言ではない。(中略)
ニートの皆さん働いてください。もしくは、移民を早く入れてください…。
もう、われわれ中小企業はそう長くもちません…。
創業して三年、「赤字を出さない」ことばかり考えてましたが、労働力不足による操業停止なんて恥ずかしながら考えたことがありませんでした。
高齢ニートの皆さん、動いてください。仕事はあります。ありますから…。
そりゃ確かに、ホワイト企業のデスクワーク求人は無いですよ。でも、そんなの新卒で就職しなかった、あるいは就職した会社を辞めたアンタが悪い。
対策は、契約相手が見つかるくらいにまで商品価値を高める――要するに労働者側にとってより魅力ある条件を提示する――ことしかない。それが出来ないなら市場から撤退する他ないだろう。これが市場の厳しさだ。労働力が余っているのをいいことに、これまでブラック上等でやって来た飲食事業に人が集まらないのも、市場原理的には至極当然の結果と言える(怠け者の市場原理が漸く働き始めた、というところか)。
そして実際そういった市場の厳しさに散々弾き飛ばされ続けてきたのが「ニート」なわけだ(――もちろん、端から市場に参入することを拒否してそうなった人もいるだろうが)。労働市場において自らの商品価値がないこと、或いは自らの人生に価値がないことを認めざるを得ない状況に追い込まれた人間は、必然的にそうなる。事実、この世に生まれてきた全ての商品が価値を獲得し、寿命が尽きるまで流通し続けるなんてことはあり得ない。
即ち市場はその性質上、ニート製造機としての側面を持っている。そしてそのことは様々な問題を生み出すことだろう。だが「市場の厳しさ」とは、そこまで含めてのものなのだ。従ってその(ニート)問題に対する不平不満は、市場そのものに対する不平不満に他ならない。
ニート批判を行いながら市場至上主義を標榜する言説が駄目なのはこのためだ。それは、本来不可分であるはずの市場の都合の悪い部分を否定しておきながら、自身にとって都合の良い部分だけを持ち上げていることに他ならないのだから。
▼(2)属性主義型言説問題
労働問題の解決云々というより、市場価値(流通能力)を獲得できなかった労働力(ニート)に対して「アンタが悪い」と努力不足説を説いておきながら、一方で中小企業の求人が市場価値を獲得しないのはニート(他者としての社会)のせい、とか言ってるから批判されているだけの話だろう。追伸
僕が事業を始めたのは3年前やで。
それ以前のことや、他の経営者のことまでまとめて僕をブン殴ってもどーにもなりゃしませんぜ?
経営者も労働者も色んなのおるねんで。その中で、どう立ち回るかってだけのお話でっせ。
僕みたいな弱小経営者ブン殴ってもなーんにも解決しませんで。
だいたい、自らからアタックをかけることもなく、何故企業は自分を雇わないんだ、と労働者側が言っていたら、誰もがそれはおかしいと言って笑うだろう。それを企業側としてやってしまっているのだから、それはまあ色々言われるだろう(自分が働き始めたのは登録もしていない派遣から勝手にアタックが来たから)。
これは結局、お前が上手く行かないのはお前個人のせい(社会のせいにするな)、俺が上手く行かないのはお前や社会のせい、に他ならない。そしてこういった言説を述べる人間が社会的成功者であったり経営者であるというだけでそれが肯定的に扱われてきたこと、或いは、取りあえず問題があれば特定の少数属性を持つ人間にその原因を押し付けて攻撃しておけばいいというような風潮。そういう内容を無視した属性主義的言説が解決すべき問題として俎上に挙がり、それ故に批判されているのだ。
そもそも、何の解決にもならないのにニート叩きをやってきたし、やっているのがこの社会なわけで、この記事もまたそれに則ったものだろう。それで「解決しませんで」は余りにも白々しい。
▼(3)問題解決自体を目的化することによる不労
都心は景気がいいらしいが、自分が住んでいる地域のアルバイト情報誌なんかを見る限り、時給900円の仕事も余りなくて、殆どが900円未満。1000円以上はヤバいとこ、というのが常識になっている。しかも人不足どころか、自分の職場では、誰かが辞めては誰かが入ってくるというパターンが無尽蔵に繰り返されている。
とにかく、自分が一年半くらい働いて再確認したのは、結局働いても何の解決にもならない、ということだ。持続性のある職なんて中々ないし、スキルを身につけることができるような仕事、つまり未来に繋がる仕事なんて皆無。通勤費なんて出ないのは当たり前。当然仕事内容も糞だし、その上どこに行っても必ず嫌な奴がいる(まあこれは底辺でなくてもそうかもしれないが)。ただの消耗戦、捨て駒とは正にこのことだ。そんな環境で幾ら働いたところで、いずれまた無職ニートに戻るか自殺するかの結末しか待っていない。
要するに、底辺で幾ら働いても無職は無職でありニートはニートなのだ。そしてそこらかの出口は用意されていない。このような状況が成立している中、働くことがニートにとっての問題解決になるかのような言説を吐く人間は、佐村河内なんてくらべものにならないほど悪質な嘘つきなので、くれぐれも気をつけた方がいい。
何度も言っているが、底辺労働者にとっての賃金労働はパチンコみたいなもの。ありもしない希望。それを分かっていながらよもやと思い、一度飛びついたそれから中々離れられない。惰性で中々止められない。ただそれだけのもの。どの道一人で生きていくのに必要な賃金や生活力、バイタリティを獲得できないのなら、理性的に考えると、残り時間は限られているのだから、その時間を糞な労働などでつぶしてしまうより、もっと他のことをした方がよいに決まっている、ということになる。
しかし逆に言えば、労働とは何かを解決するためのものでなく、単なる小遣い稼ぎのためのもの、そして嫌になったら直ぐにやめればいい、と割り切った上でそれをするなら、まあ悪い選択ではないかもしれない、とも言える(その方が労働へのハードルも下がるだろう)。金を全く使えない生活というのもまた、それはそれでキツいので。ニートにとっての労働意義なんて所詮その程度のもの。
よく勘違いされているが、働かない人間は別に問題の解決から逃げているわけではない。むしろ問題を解決すること自体を目的とし、それを重んじすぎるからこそ働かなくなるのだ(働いても問題は解決しない、つまり目的にそぐわないので働かない)。
問題は「働かないこと」ではなく、「働いても解決しない」所にある
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何より、こんなやり方で幾ら頑張って働こうが一人で生計を立てられるようにならないというのが一番きつい。結局働こうが働くまいが、親が死んだらそれでアウトなのだ。それなら働かない方がましなんじゃないか。
最低賃金以下でも一人で生きていくことはできる、という人もいるだろうが、自分にはそんな生活力はない(人間は平等には出来ていないのだ)。せいぜい暴力団が運営するたこ部屋に詰め込まれて、体が動かなくなるまで働かされるような生きながらえ方くらいしかできないだろう。しかしそんな得られるものの全くない苦行のために生きながらえても仕方がない。
とにかく一つハッキリしているのは、ニート・ひきこもり問題にせよ失業問題にせよホームレス問題にせよ、単に働いただけでは何も解決しないということだ。それを働くことが解決みたいに言うのは間違いだろう。それは問題を先送りにせよ、と言っているのと何ら変わりない(実際そうしたいのかもしれないが)。そしてそうやっている内にその者たちは疲弊し、死んでいくのである。
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何にせよ、このような状況が改善する見込みが全くない以上、いい加減自分も、もう二度と働かない覚悟をさっさと決めるべきなのかもしれない。残された時間はそれほどないだろうし。
ありもしない希望を捨てられないが故にそれを継続してしまうというという意味では、自分のような人間にとって労働なんてパチンコみたいなものだ。そんな希望などないという現実を潔く受け入れ、死と不労の覚悟を決め、ちゃんとそれを実践出来る奴は偉い。
「褒美のインセンティブ弱まると人々がニートになるぞ」理論について
前の職場もかなりの重労働だったが、サイクルごとに体力を回復できるのがまだ救いだった。しかしあそこはそういったものがなく、時間いっぱい絶え間なく動かされ続けるのだ。まるで毎日トライアスロンをやっているようだった。それに加え、確認作業までもをやらされ、力仕事に集中できないのもまたかなり苦痛だった。
そこはお歳暮やお中元の時期だけ忙しくなる(その期間だけ人が必要になる)職場で、その期間中は何しろ捌く物量が無尽蔵なので、幾ら頑張っても頑張った分だけ余分に働かされ続けることにしかならない。そもそも幾ら精一杯頑張っても、確認作業をシッカリしていたら力仕事の方が間に合わなくなるし、力仕事を間に合わせようとすれば確認作業をおろそかにするしかない。その上、一人で二レーンを賄わなければならなかったりするので、上手く配分することまでも求められる。で、力仕事が遅れれば次の工程が滞って咎められるし、確認作業で失敗すればおばちゃんらに怒鳴られるしで、ものすごいストレスだった。よく映画や時代劇などで中世における過酷な労働現場の再現シーンなどがあるが、実際に鞭で打たれないというだけで、内容的にはそういったものと殆ど変わらない職場だった。
そんなわけで、前々からもうあそこには二度と行かないと決めていたので、誘いは断った。そしたらまたその夜になって、一日だけでもだめか、という電話が掛かってきた。当然断ったが、その数週間後にもまた同じような電話が。だからあそこには行かないと言っておろうに。
皆あんな所には行きたがらないのだろう。前にそこに行っていた時も、メンバーの一人が、明日休みか出勤か当日にならないと分からない、こんな仕事の入れ方はよくない、と言って愚痴っていた。そういうやり方は恐らく違法なはずだが、欠員が出た時にどんな方法を使ってでもそれを埋める、という汚れ役を引き受けるのがあの派遣のウリなので、そういうことになる。それでも委託元がまともな企業ならそういうことはさせないのだが、大手企業でも一般消費者に名の知られていない企業はそういうことにもお構いなしだったりする。残業したはずなのに残業代付いてなかったし。
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▼(1)恐怖のインセンティブで労働意欲の向上を
何にせよ、ああいう誘いをホイホイ受けていたら、いつまで経っても労働条件や労働環境は改善しない。そもそも根本的なこととして、――持ち家でもあれば何とかなるかもしれないが――いくらああいう働き方をしたところで(低賃金、不安定雇用、体力的問題などによって)一人で生計を立てられようにはならない、という問題がある。かといって自分のような人間が持続可能な働き口を見つけるのは困難だ。つまりそういう人間がいくら頑張って働こうが、せいぜいネットカフェ難民として生きながらえるような未来しか待っていないのだ。それじゃあ労働意欲なんて湧くはずもないだろう。
だが、それでも多くの人々が働くことを選ぶ。中世のような労働現場を、鞭なくして支えてみせる。何故そうなるのかと言えば、その者達が、死や社会的抑圧、さらには社会的義務を果たさねばならないという責任感、裏返して言えば罪悪感(即ち罰)といった恐怖のインセンティブによって突き動かされているからだろう。
働かないことへの非難は、自分は社会的義務を果たしているのに彼らは果たしていない、というような不公平感や、その分のツケを自分が払わされることになるのではないか、という不安をぶちまける行為であると同時に、こういった恐怖のインセンティブを増幅させることによって他者をコントロールしよう、という思惑が込められた行為でもあるだろう。実際、失業問題や労働意欲の摩滅といった問題には、恫喝やペナルティの付加、社会保障の切り下げなどで解決せよ、と提案されることが殆どだ。恐怖のインセンティブで労働意欲の向上を、というわけだ。
しかし、どのような場面でもこういった理屈や解決作が提示されるというわけではない。
▼(2)褒美のインセンティブが弱まると人々がニートになるぞ理論
例えば、共産主義の是非についての議論を例に取って見てみる。
共産主義は基本的に駄目なものであるとされている。それが駄目な理由として真っ先に挙げられるのは、(実際に共産主義においてそういう条件が成立しているか否かはともかくとして)ある程度の生活が保証され、尚且つ幾ら働いても報酬が大して変わらないなら、人々から労働意欲や競争意識が失われてしまう。結果として、それによって国力が衰退し、多くの人々が不幸になる、だから駄目だ――というようなものだ。
この説は、再配分強化に対する批判にもよく持ち出される。再配分を強化すると、幾ら稼いでもその多くを国に納めなければならない。それだと人々の富を増やそうとする気持ち、即ち労働意欲や競争意識を削ぐことになるから駄目だ、というわけだ。言うならば、「褒美のインセンティブが弱まると人々(俺)が怠惰なニートになるぞ」理論だ。
こういった主張は非常に強い説得力を持ち、これまで一般常識として広く世間に受け入れられ続けてきたのではないか。
ただ、労働意欲や競争意欲の低下は共産主義が失敗する主要な要因とは言えない。というのも、もしその説が真であるなら、指導者が構築した労働競争ゲーム上で民衆が意欲的に競争を続ければ、その社会はどんどん豊かになってくはずだからだ。だが実際にそうなることはないだろう。即ちそれは、労働意欲や競争意識の低下が失敗の主要な要因ではないということを示している。
どちらかと言うと、人々がこぞって意欲的に労働をすればきっと社会は豊かになるはずだ、という労働を機軸とした富国観――ガチな共産主義からすれば富"国"という表現は似つかわしくないかもしれないが――の上に成り立つ余りにも頑迷な経済計画こそが、失敗のより大きな要因だと言えるだろう。
とは言え、現に社会常識として共産主義や再配分の強化は決定的に駄目なものとされていて、何故それらが駄目なのか、と尋ねたら、殆どの人間がその理由として「ニートになるぞ」理論を挙げることだろう。何にせよこの理論こそが、それらの駄目さを裏づける表向きの理由となっているわけだ。
▼(3)私には褒美を、彼らには恐怖と強要を
しかしながら、この理論は共産主義批判や再配分強化批判には無敵の力を持っていても、実際にそれが原理として考察や政策で重んじられているとは言いがたい。
というのも、今現在、いくら頑張って働いても富を蓄積するどころか、生活を今よりも改善させることができる、或いは今のまま持続させることが出来る、という展望すら全く持てない状況に置かれている者が沢山いる。競い合う力や資格を持っていない者が沢山いる。そして今後、そういった者はどんどん増えていくだろう。つまり、「褒美のインセンティブが弱まると人間は怠惰なニートになるぞ」理論に則って考えると、ニートにならざるを得ない者が沢山いて、さらにこれからどんどん増えていくことになるわけだ。
ところが、共産主義批判や再配分強化批判の際には環境(インセンティブの減退)が原因とされたこの問題は、いざ実際に起こってみると、個人の問題や自意識の問題として捉えられることが多い。また、褒美のインセンティブを強めたり、それを弱めないことによって解決を図るのではなく、恐怖によるインセンティブを増幅させることで問題に対処しよう、と提案されることが殆どだ。
もちろん、共産主義批判や再配分強化批判における「ニートになるぞ」理論には、褒美のインセンティブが弱まることだけでなく、苦しい生活から抜け出そうとすることが意欲になる、というような主張も含まれているだろう。だが、苦しい生活から抜け出せる公算が殆どないそのような者達にとって、それが意欲になることはない。つまり、この場合における恐怖によるインセンティブとは、結局のところ単なる脅しや拷問でしかない。
そもそも、恐怖によるインセンティブの増幅が労働意欲や競争意識の向上にそれほど有効であるならば、(それこそが駄目な理由だとされている)共産主義の導入や再配分の強化による副作用を心配する必要などないはずだろう。何故なら、多くの者がそこで懸念していた状況は、恐怖の増幅によって乗り越えることが出来るはずだからだ。よって、褒美のインセンティブが弱まると人々がニートになるぞ、それでもいいのか、などという言説に耳を傾ける必要なんてないし、そういうことを言う金持ちにはどんどん脅しや拷問にかけていけばよいということになる。
だが実際にはそうはならない。一定の社会的ポジションを確保している人間にはもっと褒美のインセンティブを、それを確保することが出来ない人間には恐怖によるインセンティブを、となるのが実際のところだ。
こういったことから考えると、社会常識として定着している「ニートになるぞ」理論は、単に「私には褒美を、彼らには恐怖を」という人間らしい欲望の一端が理論の形を借りて現出しただけであり、実のところ誰もそれを理屈として重んじてなどいないのではないか、という疑念が沸く。つまり、「もっと褒美を」となるか「もっと恐怖を」になるかは、一定の理念や原理が反映されて決定されるのではなく、単に社会的な力関係が反映されて決定されているに過ぎないのではないかと。
▼(4)共産主義における失敗の典型例として懸念されていた状況は、現在の資本主義で既に到来している
何にせよ一つ確かなのは、共産主義や再配分の強化によって起こるとして恐れられていた状況は、資本主義や「競争社会」でも十分起こりうるし、それは一部において既に到来している、ということだ。
だが、「褒美のインセンティブが弱まると人々がニートになるぞ、だから共産主義や再配分の強化――そういった社会環境、政策――は駄目なんだ」説の支持率の高さとは裏腹に、そこで懸念されていた状況が実際に「競争社会」で起こっても、その社会環境や政策が駄目だ、いうことにはならない。(共産主義でそうだったように)むしろその問題は個人に由来するものだと解釈される。
また、「ニートになるぞ」説に沿って褒美のインセンティブを強めたり、それを弱めないことでその問題に対処すべきだ、という声も殆ど挙がらない(挙がっても社会的力関係によってかき消される)。逆に、そういった問題は恐怖によるインセンティブを増幅させることで乗り越えるべきである――この裏には、コアの部分の褒美のインセンティブを守るためには、末端部分の褒美のインセンティブを切り下げるのは仕方がない、という考もあるのだろう――、となるのが世間における一般的主張であり、政策もまたそれに沿った方向へと流れているのが現状だ。
※一応言っておくと、別に褒美のインセンティブを増幅させれば労働問題が解決する、とかそういうことを言っているわけではない。そもそも労働問題とはポジション問題に他ならず(だから働いても問題は解決しない)、持続可能なポジションを皆が確保するのは難しい、というのが問題の出発点なわけだし。
とはいえ、褒美のインセンティブが全く働かなくなるような状況が生じれば当然それに応じた問題は起こってくる。そして現在において既にそのような状況に陥っている者が沢山いるということ、つまりそれは共産主義や社会主義(そもそも実際は資本主義も社会主義の一形態に過ぎないと思うが)特有のものではないということ、そして共産主義や再配分強化は労働意欲や競争意識が低下するから駄目なんだ、というような主張は似非のものである、ということくらいは認識しておくべきだろう。