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ポジティブ・アレルギー

物事を顧みず、ひたすら自身にとって都合の良い部分だけを見て突き進まなければならない、ポジティブ社会への拒絶反応

万能コンプは多分無い

一つ前の記事では、OptoやIK670と比べてBrickwallのアドバンテージが分からないと言ったが、Brickwallは低音の丸さで明らかにその両者に勝っていた。特にIK670はキックが硬くなりすぎる。そもそも、「Brickwallは低音で音が濁り易く感じる」と言ったのは、ピアノの超高速駆け下がり/上がりフレーズを使った粗探しによる結果で、普通の曲だと多分それほど気にはならないだろう(実際、そういうフレーズが入ったピアノソロにリミッターなんて余りかけないだろうし)。それに、立体感はそがれるものの、Brickwallの高音の透明感はやはり中々いいような気もしてきたりして…。
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心が傾きかけていた670にしても、Variety Of Soundの「Density MKII」で――高音のリリースがちょっと雑で大味なのと、空気感がIKのものより多少乏しいことさえ我慢すれば――十分代用が効きそうな気がしてきたし、OptoはOptoで、例のピアノの超高速フレーズによる粗探しで、低音の素早いフレーズがちょっと不自然な形で押さえ込まれてしまうことに気づいてしまい、少し二の足を踏んでしまう。どうもこれは余り素早いフレーズには向かないようだ。

一方、「Density MKII」の古いバージョンであり、二代目とは全く違うキャラクターを持った「Density1.0」は、ピアノの低音の素早いフレーズにおいても自然さを保ったまま上手く抑えてくれる上に、高音でより煌びやかさを演出したい場合においても、Optoよりも優れていたりする(その分Opto以上に重いけど)。Optoと比べると、ほんのちょっと張り付き感があるかなとは思うが、これは多分聴いている側はまず分からない程度の差でしかないだろう。

ただし、「Density1.0」はキックに関してはアタックのペチペチが目立ち、薄っぺらく迫力不足で、コレに関してはちょっと柔らかめの感触で上手く引き締めてくれるOptoの方がずっと良い。しかしながらその「Density1.0」は、IK670との組み合わせ(最少セッティングの670を後ろにさす)による相性が非常に良かったりして…。ううむ、益々分からなくなってきた。一体どれが自分にとってより望ましい選択なんだろう。

――しかし、こういう聞き比べをして分かったのは、多分万能コンプみたいなものは無いんだろうな、ということ。万能コンプを手に入れてそれをどのようにセッティングするか、ということではなく、多分、この音にはコレ、この場合はコレというように、その都度そのソースや目的に合ったキャラクターを持つコンプを探していくしかないのだろう。金のある人が次から次へとコンプを買い溜めていくのはそういうことなのかと。

やはり迷う

例の、グループバイでT-Racks Singlesが一個ただでもらえる件についてだけど、後日もう一度ピアノソロの音源を突っ込んで聞いてみたところ、どうもBrickwallは低音が濁り易いような気がして、心がOptoと670の方に傾いている。どうせ音が変わるなら、初めから積極的に変える目的を持ったコンプの方が良いんじゃないかと。ピアノソロの場合に関しては、670は高音がギラついてちょっと嫌味な音になるけど、そこさえ何とかすれば、或いはもっと別のソースであれば、かなり面白い空気感が出せそうだし、「重さ」もマスター専用と割り切れば、それほど大きな欠点とは言えなくなる。一方、Optoは670ほど派手な効果はないものの、それだけに670以上に色んなケースで使えそうな気がする(670より軽いし)。

それに、単純に音圧を稼ぐ場合でも、実のところBrickwallはOptoや670と比べてそれほど極端に大きなアドバンテージを持っているようには思えないんだよなあ(確かにクリップを防ぐ能力は高いが、ある程度までいくと音自体が汚くなってしまうので、結局下げざるをえない)。まあ、これはソースによって変わってくるのかもしれないし、元々それらは合わせて使うものだ、ということもあるけど(でも、もらえるのは一個だけなわけで…)。しかし、だとすれば結局他の二つに比べてBrickwallの持っている明らかなアドバンテージって一体何なのよ、という。例のインターサンプル・ピーク云々という部分くらいしかなんじゃないかと。でも、それは余り面白みのあるものでもないしなあ…と。

ということで、後数日ほど悩んでみることにする。ところで、ダウンロード期限は何時までなんだろう?

T-Racks SinglesのCPU負荷を調べてみた

IK Multimediaのグループバイ企画、「フル音源倍増計画」が8月末にまで延長され、目標の3000人を超えたことによって、T-Racks Singlesの中から好きな物を一つもらえることになりました。そこで、「もし目標に届いたならBrickwall Limiterをもらおう」と8割方(後の2割はOpto CompressorかClassic EQで迷っていた)は決めていたものの、一応其々の負荷くらいは調べておこうということで、デモを落として重さテストをしてみました。因みに、それ以外にも其々のプラグインについての個人的な感想も書き添えてありますが、当方まともなモニターも研ぎ澄まされた耳も持っていないので、これは余り真に受けすぎない方が賢明だと思われます。

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世間の「万能感」に対するダブルスタンダードについて

何か上手く行かないことがあった時に、「全部自分のせいです」みたいなことを言うと世間的にはウケがいい。一般的傾向として、失敗は“全部自分のせい(自己責任)”とする考え方は受け入れられ易い。逆に、上手く行かなかったことの原因を自分以外の要素に求めようとすると、それが「万能感」の症状の表れであるかのように言われ、周りから猛烈なバッシングを受けかねない。だが、実はその一般的主張こそが、世間一般が普段から蔑んでいる「万能感/全能感」を肯定する主張に他ならない。
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 ▼(1)“全部自分のせい(自己責任)”は「万能感」あってこそのもの

そもそも、「万能感」を持たない人間が、結果を受けてそれを“全部自分のせい”などと認識するはずがない。何故なら、ある結果に導かれたことを“全部自分のせい”であるとするためには、状況を決定付ける最終決定権を自分が握っている、という前提がなければ成立しないからだ。それこそ「万能感」そのものだろう。結局のところ、世間一般で支持され易いこの考え方は、「“俺(お前)が本気を出せば”上手くいったのに、そうしなかったから今のような状況に陥っているのだ」という“俺が本気を出せば思想”に他ならない。“全部自分のせい”は、裏を返せば“全部自分の支配下”でもあるわけだ。

だが、「万能感」が薄い人間は、自分(もっと言えば、それを司るとされている自意識)には状況をコントロールする力など端から無い、と認識している。そのような認識を持つ“無能な自己”が、自らが状況を決定付けるほどの大きな力を持っているなどと認識するはずもないだろう。つまり、“全部自分のせい”という考え方は、むしろ堅固な「万能感」が備わっていて初めて成立するものなのだ。――もちろん、実際にはそんなものなどなくとも、処世術としてそのように振舞われることも多いだろうが。

 ▼(2)何故「無能感」が強い人間ほど「万能感」を持っていることにされるのか

「無能感」が強く、処世術にも長けていない人間が――個別の小さな事柄ならいざしらず――人生のようなより大きな問題や、状況の形成に他者との関係性がより深く関わってくるような問題に関して、「全部自分のせいです」と言い切ることは難しいだろう。というのも、その者の「無能感」が大きければ大きいほど、状況の形成に対する自身の影響力の割合を低く見積もることになるからだ。そうなれば必然的に、残念な結果の原因もまた、自分以外の要素により大きな比重を置いて理解しようとすることになるだろう。ましてや“全部自分のせい”なんて考え方は、「無能感」の強い人間からすれば、自身への過大評価であり、驕り以外の何ものでもない。だが、ある意味謙遜とも言えるその振る舞い故に、その者は世間から強い「万能感」の持ち主だと認識されることになる。

では何故、残念な結果の原因を自分以外の要素に求めようとすることが、「万能感」と結びつけて捉えられることになるのか。それはその者の態度が、変えることが極めて難しい「社会」を変えようとしているのか、それともそれが比較的簡単な「自分」を変えようとしているのか、そのどちらなのか、という二分法によって分類されるからだろう。そして、自分以外の要因に原因を求めようとすることは即ち社会批判であり、社会批判をするのは、己のその批判によって社会を変えることができるという「万能感」を持っているが故だ、ということになる。それが、上手くいかないことの原因を自分以外の要素に見出そうとするのは「万能感」の表れである、とする主張の根拠になっている。

だが、批判というのは別に、それによって他者を変えることができると信じているが故になされているものばかりとは限らないだろう。それによる影響のことなど考えず、ただ納得がいかないから批判することもあれば、批判したつもりなどないのに、周りから勝手に批判したと認識されてしまうことだってあるだろう。或いは、自分の批判だけで変わることはなくとも、多くの者の批判が集まれば…、という希望をもってなされているものだってあるかもしれない。また、中には絶対に変わることがないと思っている事柄に対して行われる批判だってあるはずだ。

それに、批判を「それによって他者を変えることができる“から”するもの」と規定するなら、“失敗の原因を自分以外の要素に見出そうとする者”を批判する者もまた、それによって他者/社会――趨勢から外れる傾向を持つ他者もまた、社会の一部だ――を思い通りにコントロールすることができると信じている者である、ということになり、自らの規定する「万能感」への自己言及にしかならない。つまり、その主張には根本的な欠陥がある。

――そもそも、本当に「万能感」が薄い人間は、社会どころか、自分(自意識)には自己を変革させる能力がある、ということさえ信じることができないだろう。そしてさらに「無能感」が強くなると、自意識が自己を制御しているということすら信じられなくなる(「万能感」の根源は状況と認識の因果の逆転現象。自意識が自己をコントロールしているという考えには、その逆転現象である「万能感」が不可欠となる)

 ▼(3)「万能感」に贈られる二つの正反対の評価

一般的に「万能感」は幼児性の表れとされ、常に糾弾の対象とされている。しかしながら、成熟性や大人の片鱗が、「他人のせいにして当り散らしたけど、本当は“全部自分のせい”だということは分かってる」というような心情で表現されることも多い。つまり「万能感/全能感」は、ある時は未熟な精神の表れとして否定される一方、またある時はそれが肯定され、逆に成熟性の表れとして取り扱われることになる。

では何故そのようなダブルスタンダードが生まれてくるのか。それは、それが用いられる状況によって、その単語が持つ内容が主として捉えられる場合と、イメージが主として捉えられる場合があるからだろう。つまり、それが保持する内容とイメージが分離しているため、そのどちらの面を重視して捉えるかによって、全く異なった二つの評価が生まれてくることになる。それによって、“全部自分のせい(自己責任)”という内容的側面が肯定されると同時に、幼児性というイメージ的側面からは否定されるという、妙な事態が生じてくることになる。

wavの音量調整にはLumpy.exeが便利

wavファイルの一括変換方法を教えてください。 - BIGLOBEなんでも相談室

SoundEngine Free
http://www.cycleof5th.com/download/index.htm
一緒に入っているLumpy.exeを使います。ファイルを全選択した状態で、編集→平均レベルの取得で、現在のファイルごとの平均音量が分かります。(必要ないなら調べなくてもいいです。)
変換は、オートマキシマイズ→実行です。あらかじめオートマキシマイズ→デフォルトのアイテム設定を指定しておくと、変換のたびに指定する必要はないです。こちらは平均音量を自動で決めてくれるのではなく自分で指定します。

こんな便利なものがあったのか(もしかして常識?)。サウンドフォントを編集する場合、音量を下げるのは簡単にできる一方、音量を上げようとすれば、元のサンプル自体に手を加えなければならない。これが結構面倒だったりするのだが、このLumpy.exeを使えば、よりお手軽に、複数のサンプルの音量を上げると同時に平均化することができる。――但し、本当に素材自体をオートマキシマイズによって変化させてしまっていいのか、ということは考えてみた方がいいかもしれないが(ノーマライズの方が無難?でも平均化という意味ではオートマキシマイズの方が優れているかも)。

古いバージョン置き場 / フォーラム / Cycle of 5th

尚、Lumpy.exeはSoundEngine Freeの古いバージョン(上のリンクからver2.945が入手可能)に含まれている。

懲罰の入れ子構造~日本人が結束するのは誰かに罰を与える時だけ

【児童虐待死】厳罰化新法などを求め、署名10万人、国会へ(産経ニュース)

別に親に対する罰則を強めたからといって、子供が救われるわけでもなんでもないと思うが…。これはむしろ、事件をダシにして「誰かに罰を与えたい」という欲求を満足させるためのもの、として見た方が妥当だろう。

そもそも、全ての親が子供を育てる環境や能力に恵まれているという前提で物事を考えること自体が大間違いだ。その部分に切り込まないようでは、問題に向かい合ったことにすらならないだろう。「生んだんだからちゃんと育てろ」と言っているようではどうにもならない。そもそもそんな環境や能力を持たない人間がいる、という問題なんだから。
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もし本当に他人を救いたいのなら、自らそれなりのコスト(金銭的負担や労力、社会システムの変更など)を支払って、他人の苦痛を緩和しようとする動きを取るだろう。だが、日本でそのような動きが力を持つことは余りない。それよりも先ず、問題が起これば取りあえず他人に罰をもたらし、その苦痛を増幅させようとする動きがより積極的な形で出てくる。とりわけ親子間の虐待という問題において、子供を救うのに厳罰化なんてさほど必要ないはずだ。それでもやはりこの傾向は変らない。つまり、この動きの本当の目的は救うことではなく罰することにある。

このような動きが社会的正当性を獲得してしまうのは、他人により大きな罰を与えれば問題は改善の方向へと向かう、という前提や大儀があるからだろう。しかし、そもそもそのような「物事が上手く行かないのは苦しみ(め)方が足りないからだ。だからもっと苦しま(め)なければならない」という常識こそが、虐待やリンチを正当化し、それを増幅させる役目を担っている。どうも日本では、「教育」が罰による脅しや苦痛によって相手をねじ伏せ従わせること、と理解されている節さえある。

そしてそれがまた、こういった厳罰化――即ち、群れ(国家)による個人への虐待強化――を後押しする原因にもなっている。虐待をするのは、その後に待ち受けている彼らに対する苦痛や、そのことによる恐怖が不足しているからであり、よってもっと強い罰を用意しておかなければならない、というわけだ。だがこれはちょうど、親に怒鳴られたりドツかれたりすることを恐れる余り、かえってなさなければならないことを上手くできない子供に対して、上手くできないのは罰が足りないからだ、と言ってさらなる罰を与えようとする親の行為にそっくりだ。

そのような流れの中で生まれてくる(相対的)成功者が、自己同一化のため、罰による脅しと苦痛を成功体験と結びつけ、それこそが成功の源であるかのように真理化してしまうのは何ら不思議なことではない。そしてその真理が罰を強化させ、その罰がまた罰を増幅させるという、まるで『そっくりハウス』のごとき懲罰の入れ子構造。


そっくりハウスそっくりハウス
(2002/10/23)
谷山浩子

商品詳細を見る

そっくりハウス♪ おうちの中に 

そっくりハウス♪ うちがある 

そっくりハウス♪ その中にまた おんなじおうち

結局のところ、其々はどの「そっくりハウス」に身を置いているか、というだけの違いでしかないのではないか。どこまで行っても「そっくりハウス」、出口は無い。じゃあその「そっくりハウス」で罰を与える側のポジションを獲得し、それを維持し続けた者の勝ちだよね、という救いの無さ。

 ▼日本人が結束するのは誰かに罰を与える時だけ

形式やしきたり(しかも大抵その原理には全く関心が無い。西洋から輸入されたシステムも、その理念には全く無関心であり、魂を抜かれたただのゾンビに近い状態で入ってくる)を何よりも重んじる日本人には、お互いに共有する理念もなければ宗教(条理性)もない。そのため、個人の努力具合や苦労具合(それを生み出すとされる自意識の成熟・未成熟さ)を成功や失敗と直接結びつけて物事を捉える――どこの国でもそこそこ力を持っているであろう――精神論がその穴を埋め、より力を増すことになる。だが精神論では、どこからどこまでが努力や苦労によって制御可能であり、どこからどこまでが可能でないのか、という大前提が其々の実感主義的判断に委ねられている。よって、誰一人として同じ感覚、同じ経験を持つ者がいない以上、いくら精神論を共有していようとも、それは条理性の競合を生み出すことにしかならず、むしろ敵対化に拍車を掛けるものにしかならない。精神論は元々個人主義的――ただし、この場合のそれは西洋的な意味でのそれではない――なものなのだ。

つまり、本質的に個人主義な日本人は、一般的に精神論という信仰こそ共有しているものの、それが生み出す条理性までは共有していない。尚且つ他に何らかの理念を共有しているわけでもないため、其々は基本的にお互いに異なった思想と条理性を持った敵同士、という性質が強くなる(だから日本における競争は常にゼロサム的な椅子取りゲームにしかならず、優劣が固定化され、補正もなされないので、競争原理はほんの一部分でしか機能しない)。だがその中で、苦痛や危機感(恐怖)を成功の源とする考え方だけは多くの人間が概ね共有している。普段は決して結束しないはずの日本人が、誰かに罰を与える時だけ鉄の結束でもって臨むのは、そういう理由からだろう。

依存巧者ほど自立を標榜するという問題~自立は依存でできている

若者のバイク離れによって起きている事

企業や肩書きに、そして健常者であるという運の良さにどっぷり依存している人間がなぜ「自立していない」ことを理由として他人を批判できるのだろう。しかも、この記事自体が「もっとバイク事故に依存したいです」という内容なわけで。
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▼自立というブランド


依存をせずに生きていける人間は存在しない。全ての人間は、社会システム、組織・集団、資源、自然環境、文化、様式、マニュアル、世論(人気)、肩書き、或いは思想、巡り合わせ、出自、資質、容姿、経験、目的、そしてそれら全てに深く関わっている運といった様々な要素に依存して生きている。つまり、生きている限り「依存していない」という状態は在り得ず、其々はどのような依存の仕方をしているか、ということでしかない。では自立とは何かと言えば、それは巧妙な依存に他ならない。

依存は概念的なものとしてだけでなく、常に実在のものとしても存在する。全ての生きとし生けるものには、生存のための前提としてまずこの依存が必要になる。が、自立はある特定の依存形態をそのように分類するが故に生じる概念的な存在であり、実際に予め線引きされた枠組みとして「自立」という状態が存在するわけではない。それは一種のブランドのようなものと言っていいだろう。よって、自立を獲得するためには、自己や他者に「自分は自立している」と認識させるような依存形態を獲得しなければならない。もっと言えば、その依存形態にもまたゼロサム的な競合性が関わってくるわけだから、自立という状態は、依存下手な組織や人間に依存して獲得されている、という側面すらある(ex.全ての人間が就活で持続可能な依存先を獲得できるわけではない。となるとあぶれた人間は自立が難しくなる。「バイク事故に依存したい」というのも正にゼロサム的な問題)。

つまり、「自立できない」のは依存の仕方が下手であるが故のものであり、世に言う「自立できていない人間」に突きつけられた本当の問題は、如何に上手くより充実した依存状態を獲得し、それによって現在の依存状態から抜け出すか、ということになる。そして自立とは依存に内包されるものであって、その二つは決して対立するものではない。

そうして考えてみると、依存が上手いが故に自立を獲得した人間が、それを理由として「自立せよ」と言い、他人の依存を批判してみせたりすることが如何に欺瞞に満ちた主張か、ということが分かってくる。というのも、そこで言われる「自立せよ」とは結局のところ、善性を帯びたものとしての≪自立≫と対極にある、悪性を帯びたものとしての≪依存≫を断ち切れということでもあるだろう(そういうイメージが付加されているからこそ、その力を借りるために「自立」や「依存」という単語が重宝される)。しかしながら、自立とは依存の一形態であり、依存そのものなのだから、このような対比は明らかに誤りだ。ここで生じている対立とは、「依存していない人間と依存している人間」という対立ではない。「依存が上手い人間と依存が下手な人間」という対立だ。そこを見誤ると、それ以降の自立/依存に関する議論は、全てがまがい物になる。

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批判対象としての依存から抜け出し、自立というブランドを獲得するには、より充実した依存状態を手に入れなければならない。だがそもそも、「自立できない人間」は元々依存の仕方が下手であり、今以上の新たな依存方法や依存先を見つけることができないからこそ現在の依存状態に甘んじている。つまりそこでの問題の本質は、“依存の仕方が下手な人間がいる”ということであり、そういう人間に幾ら“上手な依存”が前提となる自立を促してみたところで、何ともならないだろう(もちろん、多くの者が「自立しようと思わないからできないのだ」というような自意識原因論・精神論的な条理性を用いて世界を解釈しているからこそ、こういった主張が出てきて、それが受け入れられるのだろうけど)。

そして新たな依存先を獲得することもできないのに取りあえず現在の依存を断ち切れと言うのは、「死ね」と言っているのと同義だ。日本型自殺には、そういうシグナルや、原理的に誤った規範(依存は悪いことである/自己愛は悪である/人に迷惑を掛けてはならない/相手の立場に立って物事を考えなければならない、といった類のもの)を真正面から受け取り、それを内面化してしまうから、ということも大いに関係していると思う。

一方、依存と自立の近しい関係について真剣に考えるほど切羽詰った状況に追い込まれることもなく、そこそこの苦労で充実した依存状態を獲得することができてしまった依存上手な人間は、「依存は悪、自立は善」というような世間的イメージをそのままそれらの概念へと当てはめてその意味を理解してしまうが故に、つまり依存上手であるが故に、他人の依存を悪としてより厳しく批判するようになってしまう。

求めているのはプロなのか、それともアマチュアなのか

【求人募集】GIGAZINEのために働いてくれる記者・編集を募集します

端的に言うと、自分の時間を切り売りして時給換算し、「仕事は仕事、プライベートはプライベート」というような消極的考え方をする人ではなく、「自分は GIGAZINEだからこそできることをするためにGIGAZINEで働きたい、ほかのところでは働きたくない!」というプロフェッショナル的な考え方をする人を求めます。余所でも働こうと思えば働けるような人ではなく、「GIGAZINEだからこそ働きたい!」という人を求めます。

「求む、GIGAZINEに人生を捧げる24時間労働志望者」ってやつですか。まあ、どんな求人を出そうと勝手だけど、ここで求められている人間像は、明らかにアマチュア精神を持った人だろう。プロであればあるほど厳密な給与(利益)換算をするはずだし、プロ精神を持った人間ならば、「GIGAZINEで働きたい、ほかのところでは働きたくない」なんて前提を初めから設けるはずもない。
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ましてや仕事のプロは、上下関係を仕事上に必要なシステム形態としてしか見ないだろうから、日本的な上下関係から生じる(法的、契約的に逸脱した)正当性無き不文律をそのまま見逃したりはしないだろう。そういう場所にはさっさと見切りを付けて出て行くはずだ。実際それができるだけの有能さを持っていてこそのプロなわけだから、そのような人物がその場所にとどまり続ける理由はない。そしてそういう人間は、自分が力を発揮できるなら、スキルを身に付けることができるなら、場所にはこだわらないだろう。そうでなくとも本当に有能な人間は、どのみちスキルを身に付けるとさっさとその場所を出て行って、自分で会社立ち上げることだろう。つまり、「ほかのところでは働きたくない」なんてアマチュア的感傷に流されているようでは、プロとしては一流とは言えない。

元来、上司の意向をそのまま飲んでくれるということと、自分の考えで自発的に優れた仕事をこなす有能な人材であることは両立し得ない。しかしアマチュアとなるとそれは必ずしもそうとは言えない。採算を度外視しても誰々の下で働きたい、何処何処でしかできないことをしたいというのが、アマチュア(ファン)心理の最たるものだから。そういうアマチュア心理を上手く利用して無茶な労働をさせることを「やりがい搾取」と言うわけだが、しかしながら――ジブリ作品に携わりたいとかならともかく――そもそもGIGAZINEでしかできない仕事なんて無いだろうから、そういう独自性やブランド力を持っていない会社が、そのような人材を求めるのにはちょっと無理がある。

というか、GIGAZINEは広告収入で生計立ててるわけだろう(違うのか?)。であるなら、本当に有能な人間はGIGAZINEの名なんて借りずに、自分で勝手にサイトを立ち上げ、記事を書いて人を集め、アフィで設ければいいだけのことだろう。GIGAZINEが求めるような自主性を持った有能な人間ならそれができるはずだ。そんな有能な人間が労基法にひっかかりそうな無茶な求人募集を出す脇の甘い企業に雇ってもらうメリットなんて全く無い。それを望むのは、GIGAZINEの名を借りないと利益を上げられないような人間なわけで、すなわちそれはGIGAZINEの求めるような有能な人材では在り得ない。

それに、「「仕事は仕事、プライベートはプライベート」というような消極的考え方をする人ではなく」という条件にしても、プロならば当然自己管理がシッカリできているだろうから、そういう人間は自分がつぶれてしまいかねないような無理なスケジュールを組んだりはせず、ちゃんと仕事とプライベート峻別し、持続可能なペースを維持することにこそこだわるだろう。もちろん、趣味と仕事が一致している人間もいるだろうから、一日中仕事のことばかり考えている人間がいてもおかしくはないが、そういう人間がこういう上司の下で期待通りに動いてくれるとも思えない(そういう人間は、自身の規定する「仕事」を最上位に置くが故に、上司へのおもねりは重視しない)。むしろ、自分の能力をかさにきて「これ以上の働きを求めるなら、もっと金を寄越せ」というのがプロであり、プロの力を借りようとするなら、そのような折衝は不可避だと思っておいた方がいい(ex.メジャーリーグの契約更新や代理人制度)。

つまり、ここで求められているのは優秀なアマチュアであって、優秀なプロではない。そして「払われた金の分だけしか働かない」ことを問題とするのであれば、その雇い主もまたプロとは言えないだろう。

 ***


どうも、日本では名義上の仕事そのものよりも、集団内における「固定化された力関係を前提とした上での良好な関係性」を維持することの方が仕事に成り代わっているように思う。そちらの方が本来の仕事よりも重要視しされているように見える。だが、それを仕事とは思わない(思えない)人間もいる。近代化という名の――伝統派からすれば――悪魔の洗礼を受けてしまった人間には、その考え方が理解できない。そういう人間とそうでない人間が上手くやっていけるはずがない。

そのような洗礼を受けてしまった人間からすると、この愚痴付き求人募集における「同士」という言葉も、洒落にならないような意味を帯びたものとして捉えざるをえないだろう。ただ、それでもこの求人募集の悪質度は低いと思う。何故ならこの愚痴は、結果として「適切な情報公開」という性質を付加させるような効果を持っているからだ。「明るく笑顔の絶えない職場です」というから入ってみたら修羅の国だったというより、「君も修羅の国で働いてみないか?」と初めから明言されていれば、それだけ危険回避のチャンスが生まれる、というわけだ。まあ、そもそも初めから既に修羅の国のような職場しか残ってなかったらどうしようもないが。

「Sonic Synth 2」の音色リスト1

Sample Tank 2.5 XLの音色リストに続いてSonic Synth 2の音色リストも作ってみた。量が余りにも多いので、二回に分けて掲載。因みに今回は、画面を普段使っているテキストエディタの背景色に近い設定にしてみた(ライブラリはSample Tankから読み込むようにしている)。やはりこの方が落ち着く。
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それはそうと、どうもSample TankでSonic Synthのライブラリを読み込むようにすると、立ち上げ時にかなり時間を食うようだ。それとも、元々こうだったのか?というのも、Sample Tankは初回起動時にはある程度の時間がかかる一方、二回目からはそれが軽減されるという、まるでFirefoxみたいな性質を持っているので、二回目と比べてそう感じているだけかもしれない。しかし、どうもSonic Synth専用アプリではエフェクトとしてCSReverbが使用できない(Ver.2.11)ようだし、一括管理という利便性も含めて、できればソニックのライブラリもタンクで読み込みたいところ。

あと、FC2ブログでは名前に空白(スペース)が入ったファイルをアップロードすると、勝手に名前が変更される仕様になっているようだ。記事を書き終わった後になってから原因に気づいた…。

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「Sonic Synth 2」の音色リスト2

<目次>
Sonic Synth 2 音色リスト1
(1)Synths――Motion Synths / Synth Pads / Synth Bass / Synth Leads / Misc Synths
(2)Keyboards――Pianos / Organs / EP+Clav / Trons / String Machines
(3)Guitar+Bass――Acoustic Guitars / Electric Guitars / Bass / Ethnic String / Guitar Stacks
(4)Drums+Perc――FX-Electronic Kits / I Map Acst Kits/Misc Kits / Elec Percussion / Acst Percussion / Chromatic Perc / GM Drums wPerc
(5)Brass+Winds――Brass / Winds

▼Sonic Synth 2 音色リスト2(このページ)
(6)Orch Textures――Strings / Mixed Orchestra
(7)Vocal Textures
(8)SFX――Synth FX / FX Hits / Misc SFX
(9)Elements A――Synth Wave Elements / Noise Elements / Motion Elements
(10)Elements B――Distorted Elements / Synthetic Elements / Vocal Elements / Groove Elements / Perc Elements / Instrument Elements / Misc Elements

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後正面

Author:後正面
ひきこもりという役割を引き受け
ざるを得なかった一人として
人間について考えてみる。
でも、本当はただの断末魔ブログ。

働けど無職。
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※コメントは記事の内容(主題)に関するもののみ受け付けています。また、明らかに政治活動的な性質を持つ内容のコメントはお控え下さい(そういった性質を持つ発言は、それを許容するような姿勢を持つ一部のブログを除いて、自分のブログで行うものだというのが私の基本的な考え方です)。

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