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ポジティブ・アレルギー

物事を顧みず、ひたすら自身にとって都合の良い部分だけを見て突き進まなければならない、ポジティブ社会への拒絶反応

これは欲しいかも

IK Multimedia フル音源倍増計画 実施中!

これ、まだ何も音源を持っていない人には結構魅力的なセールなんじゃないだろうか。ちょっと気になる。

一個音源を買ったら後二つ音源が付いてくるという、どっかの通販番組みたいな商売。さらに登録者数が千人を超えれば、もう一つの音源がおまけで付いてくるという。

ただ、ここは過去に「この五つの音源」+「AmpliTubeシリーズ」+「T-RackS 3 Standard」+「CSR Classik Studio Reverb」がセットになったものを五万で販売していたという前科があるので、それを考えるとこういう買い方をするのはむしろ大損していることになるような気がしないでもない…。この後にどんなふざけたセールが控えているかも分からないし。しかし、本当に無茶苦茶な商売の仕方をするなあ、IKは。
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にしても…

・Sample Tank 2.5 XL
・Sonik Synth 2
・Miroslav Philharmonik

この三つがあれば取りあえず必要な音色は殆ど揃うんじゃないか?つまり、もう音色探しに気をもむ必要がなくなる、と。まあ一昔前の音源なので、音は結構安っぽいけど。いやそれ以前に、もう曲を作る気が云々どころか…、なのにそんなもの手に入れてどうするの?というのもあるが。でも、一度はそういう環境を手に入れてみたい、という思いもあるしなあ。

しかし、今三つとも在庫切れ中か(他の場所ではまだ売ってるかもしれないけど)。Sample Tank 2.5 XLだと「2~3週間前後で入荷予定」。Sonik Synth 2は「1~2週間前後で入荷予定」Miroslavは「1~2週間前後で入荷予定」。7/31までにシリアル・ナンバー登録しないといけないということは、期限的にもかなり微妙。それに、8GBとかそんな馬鹿でかい容量のものをダウンロードで入手、というのもどうなんだか…(ダウンロードにも期限があるのだろうか?)。パソコンのスペックも何とかギリギリ動作環境に収まっているかな、という有様だし。さらに言えば、直近に行われていたよりモダンな総合音源「INDEPENDENCE PRO 2.5」のファイヤーセール(二万三千円)をスルーして、後になってソフト音源黎明期のものを購入というのも何となく釈然としないような…。まあ、あっちは64GBの馬鹿でかさにしり込みしてしまったわけだが。でも、これも三つ足すと結構な容量になるしなあ。場所的にもぎりぎり。ううむ、悩むところだ。

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ひとつ思うのは、ベンダーがつぶれたら、オーソライズとかどうなるんだろう。もしかして、それっきりオジャンなんだろうか…。まあIKより自分が先につぶれる可能性の方が遥かに高いので、余りそんなことを考える必要はないかもしれないが。

それが芸術/表現であることは、その行為の正当性を担保しない

Togetter - まとめ「ドブス写真集を作るその道程」

流石にこの行為自体を擁護する人間は余りいないと思うが、この手の問題を起こす者が現れる度に、恰も――民主主義を成立させるための前提となる――「≪表現≫の自由」が、ありとあらゆる全ての「表現」を守らなければならないような前提をもって存在しているかのように扱われ勝ちなこと(つまり、このような問題を一般的意味としての「≪表現≫の自由」と他の「正しさ」との衝突であると認識されていること)や、その行為の正誤が、それが芸術であるか否かということと何らかの関連性を持っているかのように扱われ勝ちなことには、非常に大きな疑問を感じる。

以下、そのことについて書こうと思うが、その前に法律について。――法律による罰則は、民衆に感情的満足をもたらす。だから、それは社会的なガス抜きや為政者の人気取りのための道具としても機能してはいる。だがそれは本来、社会的インセンティブとしての機能を司るためのものだろう。つまり、法律というものは根本的には、その場所の社会的環境をある状態へと誘導することを目的として、個々人の損得勘定に働きかけるためのものであり、そうであるが故に、法律と何らかの概念的正しさは必ずしも一致するとは限らない。

そのことは、もし仮に法律で残虐行為が認められれば、それによって今まで駄目だったはずの残虐行為が突然「正しいこと」に反転するのか?ということを考えてみればよく分かるだろう。要するにその両者は基本的に別個のものなわけだ――もちろん関連はしているが。そういうわけで、ここでは概念的な正当性に関する話をするので、損得勘定であるところの法律の話は一旦枠の外に置いた上で話を進める。
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▼(1)それが芸術であるか否かは、芸術の外における正誤とは何の関係も無い

まず芸術に関してから。

そもそも、それが「芸術であること」は、それによって引き起こされる被害から生じる非難に対する反論の根拠にはなり得ない。何故なら、それが芸術であるか否かは、原理的に言って、結局個々人の感覚に依存せざるを得ないものだからだ。もしそれが何らかの正しさの根拠になるとするならば、それは個々人の感じ方に正しさを依存することになってしまう。だがそれはどこまで行っても個人のものでしかないだろう。だからそれが集団における共有物としての正しさの根拠にはならない。

では何故、芸術が「個々人の感覚に依存せざるを得ないもの」と言い切ることができるのか。それは、もし芸術であるか否かの判断が、単なる人気投票や権威(お上)によって決められ得るものだとすればどうなるか、ということを考えてみれば自ずと導き出されるだろう。というのも、もし芸術がそのようなものであるとするならば、芸術をその他一般の「商品」や「肩書き」と差別化することができなくなってしまうからだ。つまり、芸術という概念の存在意義自体が消滅してしまう。

――世の中における物や人は、それらがどんなに嫌がっても、常に何らかの物差しによって価値を計られ、順列を付けられてしまうことから逃れられない。どちらの方が正しいか、という正義の天秤に乗せられてしまうことから逃れられない。人間社会に存在するありとあらゆる物や人は、そういう宿命を背負っている。

だからこそ、芸術という概念の意義が生まれてくる。一つの統一的な計測器によってその価値を計り、順列を付けることができない価値。排他性によって退けられず、其々が独立したものとして存在し得る価値。そういうものとしての価値概念が人々から望まれることになる。それが芸術だろう。

このことを別の言い方で言い表してみるならば――芸術は他の何かのためにあるのではなく、初めから芸術のためのものでしかない。それ故、芸術は(自らの持つ固有の)芸術性以外の何らかの正しさを担保するものには決してなり得ない。よって、それが芸術であろうとなかろうと、その行為の正誤(一般的意味としての正しさ)とは何の関係もない。そもそも、正誤という排他性を持つ概念と芸術とは、根本的に相容れないものなのだから当然だろう。芸術的価値が何らかの正しさに縛られないものとして存在し得るためには、それが芸術の外における何らかの正しさの根拠になってはならない。芸術の存在意義と、それが芸術の外のにおける正誤の根拠になることとは、トレードオフの関係にあるわけだ。

だから、その者の行為によって何らかの大きな被害がもたらされ、そのことを周りから非難された時、「これは芸術なんだ」と言っても、それは全く反論にならない。それは、例えば殺人をアートだと感じる人間がいたとして、その者が周りから「自分の趣味のために人を殺すのは間違っている」と言われた時に、「だってそれに価値を感じるんだもん」と言って反論しているようなものでしかない。だが、それは反論とは言えないだろう。――まあ、その者がそれに魅力(価値)を感じるのであれば、そのこと自体は否定も批判もしようがないが。芸術的観点からしても、自意識は欲求を制御するほど大きな力を持っていないということからしても。

▼(2)「≪表現≫の自由」とは、むしろ特定の性質を持つ「表現」を退ける概念である

次に「≪表現≫の自由」について。結論から言うと、「≪表現≫の自由」の≪表現≫には、「全ての表現」が含まれるわけではない。

もし≪表現≫=「全ての表現」と規定するならば、それは「≪表現≫の自由」という概念の必然性自体を否定しているのにも等しい。何故なら、その条件が真であるならば、ことさら「≪表現≫の自由」などという概念を生み出さずとも、其々はただ思い思いに自分の思う「表現」を好き勝手に行っていればよいはずだからだ。「表現」として中傷を行い、「表現」として強奪・強姦を行い、「表現」として拷問を行い、「表現」として人を殺せばいい。ただそれだけのことだろう。

そこで敢えて「≪表現≫の自由」という概念の重要性が唱えられ始めたということはどういうことか。そのためにはまず、「自由」がどのようなものかを考えてみる必要があるだろう。

――何らかの「自由」という概念を設けるということは、その枠組みで指定した特定の「何か」が他の何かによって妨げられないような環境を想定することだ。そしてその想定を具体化するためにそこで指定された「自由」を守ろうとすることは、その「自由」を守るのに障害となる他の「自由」を退けようとすることでもある。「自由」という概念は、基本的にそういった排他性を持っている。

では、一般的に言われる「≪表現≫の自由」における「自由」とは何か。それは特定の社会的地位や属性によって、意見を述べることが特権化されたり退けられたりしないという、民主主義を成立させるために必要不可欠となる前提条件としての「自由」のことだろう。つまり、一般的意味としての「≪表現≫の自由」は、特定の属性を持っていること、特定の社会的地位にある者が、そのことを理由として――ちゃんと論拠を示した上での――意見を述べることが妨げられてしまうような「表現」を排除するための概念と言っても過言ではない。そこでの「自由」とは、そのような目的のために、他の「自由」の邪魔をしてエコヒイキする性質を持つ「自由」なわけだ。

よって、当該人物が行ったあのような形での「表現」が(一般的意味としての)「≪表現≫の自由」における≪表現≫に当てはまるかと言えば、明確に否だろう。何故なら、あのような活動は容姿に自信が無い者を萎縮させ、意見を述べることを難しくさせるような環境を作り出すことが余りにも明らかな「表現」だからだ。さらに言えば、つまり、あのような形での「表現」は、「≪表現≫の自由」によって守られるべき「表現」ではなく、むしろそれによって妨げられるべき「表現」と考えた方が妥当だ。

そもそも、あの「表現」の中身は何かと言えば、それは単なる騙し討ちであり、嫌がらせであり、嘲笑いだろう。それも、何らかの「正しさ」を訴えるための手段としてそれを用いているわけですらない(――もしそうであるとすると、それはそれで厄介な議題となるのだが。というのも、そういう方法でしか何らかの「正しさ」を訴えられない資質を持つ人もいるし、いわゆる「普通の人」であっても、周りの状況によってはそういう状態に追い込まれてしまうこともあるので)。そこには何の根拠もないただの野放図な行為があるのみだ。

――前述したように、例えそれがどのような形の「自由」であっても、其々の「自由」は基本的に全て排他性を持っている。ありとあらゆる行為を守る「自由」なんてものは、原理的に存在しない。つまり、何らかの「自由」概念を打ち出すということは、その枠組みによって何を守り、何を退けるのかを選定することでもある。そう考えた時に、何故わざわざ限られた枠組みの中に、騙し討ちや嫌がらせや嘲笑いを守るべきものとして真っ先に入れなければならないのか、さっぱり分からない。いやもちろん、初めから民主主義的な「≪表現≫の自由」へのカウンターとしての、アナーキズム的なベクトルを持つ「「表現」の自由」としてその主張を行っているのなら分かる。だが、大抵はそうでもなさそうだし。仮にそうだとしても、独自定義の「自由」によって、敢えてそれらを限られた枠組の中に入れて特権化することの正当性の根拠を述べなければ、それは何かを主張しているとさえ言えないだろう。それは単に野放図なだけだ。

つまり、あの手の「表現」の「自由」を訴える人は、一般的意味としての「≪表現≫の自由」における「自由」よりも自己定義する「自由」の方が重要であるという理由を示し、それによって「≪表現≫の自由」に反駁しなければならない立場にいるはずなのだ。それが何故、恰もそれが「≪表現≫の自由」によって守られるべき「表現」であるかのように扱われることになってしまうのか。全くおかしな話だ。

感覚レベルでの文化的衝突~異文化ギャップは嘘で補えるか

 ▼(1)「上手い嘘を平気でつく」は≪立派な社会人≫への登竜門

「上手い嘘を平気でつく」ことが≪立派な社会人≫になるための登竜門となっていることは、社会生活における自らの行いをよく振り返ってみれば直ぐに分かることだろう。嘘をつくことなしに円滑な社会生活を送ることは極めて困難だ。実際に己の身から全ての嘘を取り除いた上で生活を送ってみれば、如何に自身がそれに救われていたか、ということに嫌でも気づかされることになるはずだ。群れの中で嘘に身を包まずむき出しのままでいれば、様々なトラブルを招きよせ、その者の立場を、命を危機に晒すことになる。つまり、嘘は人間同士の軋轢による衝撃を吸収する緩衝材としての機能も持っているわけだ。もし世界から嘘というものが取り除かれたら、ただそれだけでこの世は混沌の渦の中へと引きずり込まれていくことになるだろう。

だから嘘がつけない者、嘘が下手な者は、その緩衝材を持たない者、それを上手く使いこなすことができない者であるとみなされ、危険人物として取り扱われることになる。そしてそうであるが故に、上手い嘘をつく能力が低い人間ほど、社会生活における嘘の重要性をよく知っている。逆に、上手い嘘をつく技術に長けている者は、それとは裏腹に、その事実に全く気づいていなかったりする。それは即ち、意識せずに嘘をついている可能性が高いということだ。
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嘘は、それが積み重ねられることにより、やがて様式となり文化となる。と同時に、その場所の趨勢となった文化は、そこにいる者達に、嘘によってその形に収斂することを迫る。それができない者は様々な形で非難され、疎外される。嘘の表情、嘘の意見、嘘の振る舞い、嘘に基づいた行動、嘘による装い。それらを上手く使うことなしに、社会(群れの文化)に馴染むことはできない。社会に順応するということは、即ち如何に上手い嘘で自らを包むことができるようになるか、ということでもある。

しかし、意識してそれをしていると、どうしても不自然な嘘、下手な嘘しかつくことができない。いや、正確に言うと順序は逆だ。上手い嘘をつく能力が無い者は、そのことによって日々トラブルに直面しているから、嫌でも嘘というものが持つ機能の重要性について意識せざるを得なくなる。逆に、上手い嘘をつく能力がすでに備わっている人間は、基本的にそれを意識する必要がない。というのも、そういう人間は自然とついた嘘によって自らを上手く文化に溶け込ませることができているから、問題は起こらず、それに関してことさら意識をする必要がないわけだ。もちろん例外もある。中には、常にNLP的な技法としてそれを意識し、どのような嘘が効果的かを考えながら会話や振る舞いを行っている者もいるだろう。だが、基本的に上手い嘘をつく能力を身に着けている者は、それを意識せずに行っている。

 ▼(2)言語情報は思っている以上に個人の経験や感覚に依存している

我々が普段使っている言語情報は、何か特定の事柄を表すことにおいてかなりの部分が省略されている。例えば、「ちゃんとやれ」という言葉。ここには具体的な情報が殆ど何も含まれていない。コンピュータに「ちゃんとやれ」と命令をしたところで、コンピュータ側は何をしていいか全く分からないだろう。だが人間同士では、こういった半端な情報しか持たない言葉を用いたコミュニケーションが日常的に行われている。では、人間がそのような半端な情報をどのように扱っているのかと言えば、自らに蓄積された「経験」や「知識」、そして「共有された(実際には傾向的に近いと思われる)感覚」を参照することによって情報の欠損を補い、それによって意味を解釈しているわけだ。

しかしながら、誰しもが同じ「経験」や「知識」、「感覚」を持っているわけではない。というより、近い/遠いという差はあれど、基本的にそれらは全て別個のものだ。よって、其々で参照する情報が違うから、同じ言葉であってもそれを使う側や受け取る側によって、其々微妙に、時には極端に大きく異なった解釈や感じ方が生まれてくることになる。実際、参照する情報が大きく異なることによって生じる異文化ギャップなどは、誰もが一度は体験したことがあるだろう。

 ▼(3)異文化ギャップは嘘で埋め合わせなければならない

「経験」や「知識」によって生じた異文化ギャップは、経験の場を手に入れることさえできれば、そして知識を仕入れる能力さえあれば比較的簡単に埋められるかもしれない。問題は、「感覚」の差異から生じるそれはそう簡単には埋めることができないということだ。つまり、社会(ここでは、群れにおける文化的趨勢を指す)に上手く馴染めない人間の多くは、参照する「感覚」が一般的傾向と大きく外れているが故にそういった状態に陥っているのではないか。そしてそのために、日常的に大きな異文化ギャップと直面している。

だが、その場所に身をおき続けなければならない以上、何とかしてその異文化に溶け込まなければならない。でないと酷い目に遭う。だから自身の「感覚」にとってその文化が如何に奇妙で受け入れ難いものであっても、それを隠すための嘘で身を包み、そこに溶け込まなければならない。つまり、感覚的な傾向が一般から外れる者が社会に上手く馴染むためには、とりわけ多くの嘘を、それも自分にとって困難な嘘を付き続けなければならない。そういう課題が突きつけられる。

 ▼(4)感覚レベルでの文化的衝突

例えば、他人と話す時は人の目を見て話さなければならない、という文化規範がある。恐らくこれは、世界的に見ても一般的なものだろう。しかし、全ての人間がその文化規範に関する共有感覚を持っているわけではない。中には、それと間逆のベクトルの感覚を持っている者だっている。そこに大きな異文化ギャップを感じる者がいる。

そもそも、感覚的趨勢が様式化したが故の礼儀作法という理由以外に、人の目を見て話さなければならない論理的な理由などないだろう。逆に、人の目を見て話すことが失礼に当たるという理由ならあるが。というのも、目の前にいる相手が本当に信頼できる人間ならば、常にその者の目を見ていなくともなんら――文化的にはともかく、機能的には――問題ない。だが、それが信頼できない人間となれば話は別だ。突然襲い掛かってきたり、物を盗んだりするなどして、いつその者が自分に不利益をもたらすような行動を取るかもしれないからだ。つまり、その者の目を見て話をするというのは、信頼できない者と折衝する際に必要不可欠な警戒所作でもあるわけだ。となれば、そのような所作を取るということは相手を信頼していないということであり、よってそれは相手への失礼に当たる、と捉えられてもおかしくはない。機能面だけに注目するならば。

実際、ヤクザなどはお辞儀をする際においてさえ、相手の目を見続けるという話を聞いたことがある。頭を下げてお辞儀をするような無防備な状態を作り出してしまえば、いつ相手にブスっとヤラれるかもしれないからだ。まあ知り合いにヤクザはいないのでそれが本当かどうかは分からないが、その者が常に相手への注意を怠ってはならないような環境に身を置いているのだとすれば、その所作は実に理にかなったものと言えるだろう。

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もし目を見ることがコミュニケーションの成立にとって本質的に重要な要件だと言うのならば、それは目が見えない人とはまともなコミュニケーションを取ることができないと言っているのと同義だ。それ以前に、電話や手紙、ネット上のやり取りでは「本当のコミュニケーション」が取れないことになる。まあだからこそ、それらのコミュニケーション形態をワンランク劣るものとして捉える人がいたりするのだろうが、それは結局自身の感覚に基づいた実感主義的正誤による判断でしかないだろう。要するに、元々人の目を見て話さなければならない論理的な理由などないわけだ。その者がヤクザでもなければ。

根拠は無いが、それでもそれは正しくて従わなければならない…というのは宗教の特徴だ。即ち、「人の目を見て話さなければならない」が「正しい」のは、宗教的理由か、もしくはそれが単に感覚的趨勢であるから、ということくらいだろう。

しかし、正当性があろうがなかろうが、その文化がその場所で力を持っている以上、それに上手く溶け込むことができなければ痛い目に遭うこと自体には変わりない。だから大抵の人間は、無理をしてでもその文化に馴染もうとする。植民地における間接支配者が、外部からの規範をその土地の者に押し付け、それに従わない者達を拷問にかけ、虐殺していくのと同じように、「個人」の内部における内面化された文化規範であるところの≪間接支配者≫もまた、「個人」という枠組み内において、信教の自由を踏みにじり、それに従わない感覚を力づくで従わせ、時には抹殺しようとさえする。「個人」という枠組みを、自身の地位を守るために。

いや、本当は心の底からそれに従わずとも、単に“内面におけるみんな”で上手い嘘をついて従ったフリだけをしていればいいのだが、どうしてもそれを受け付けないタイプの感覚も存在する。となれば、≪間接支配者≫はそれを拷問にかけるなり抹殺するなりするしかなくなるわけだ。

社会では常に個人と個人の争いが絶えないが、個人の内部でもまた常にそういう争いが起こっている。そして個人の内部で行われるこの自身の感覚への抑圧から生まれる苦痛は、「努力/苦労」としてステータス化される。ステータス化された「努力/苦労」は、再び文化規範の「正しさ」を再生産する。その繰り返しによって、文化規範はより堅固なものとなっていく。

だが、幾ら圧政を敷いてそれを律しようとしても、其々の個人における≪間接支配者≫は必ずしも内面を上手く統治できるとは限らない。頑なにそれに抵抗し続ける感覚もまた存在するわけだ。こういった現象は、感覚レベルにおける文化的衝突と言ってもいいだろう。

――そして自分もまた、この文化的衝突の結果、≪間接支配≫による統治に失敗した人間だ。例として挙げた「人の目を見て話さなければならない」も、やはり自分にはどうしても上手くできない。感覚がそれに対して拒絶反応を起こす。例えそれをしたとしても、そのことが自分にとっては著しく不自然なことだから、どうしても無理が出てくる。自分の場合、他人と会話をする時は声に集中してその内容を読み取ろうとする。相手の感情は、表情ではなくイントネーションで読み取る。しかしその時に「目を見る」という著しく不自然な行為を同時にすることを迫られると、そちらに意識が行って、話しの内容が頭に入らない。結果として、自分が相手の目を見て話をしている時、話の内容は余り聞いていないという本末転倒な状況が生じる。

 ▼(5)言語情報の内容的欠落が「知識」の参照を困難にする

とはいえ「酷い目」には遭いたくないから、自分もまた感覚に圧制を敷き、嘘で身を包もうとする。だが、その際に大きな障害となるのは言語情報の内容的欠落だ。

というのも、一般的傾向から外れた感覚を持っている場合、文化規範に溶け込むための嘘を付こうとしても、「共有された感覚」を参照できないから、どのような嘘を付けばいいのかということは、「経験」や「知識」を参照するしかない。ところがその両輪の一方である「知識」の元となる言語情報は、前述したように著しく欠損している。

『目を見て話す』のは何%が最適? | 転職マニュアルl

面接の時『目を見て話す』ことが重要、とよく言われます。

ご支援した転職者の方で『目を見て話さない』という理由で面接不合格になった方が実際いらっしゃいます。

では、『目を見て話す』とは、具体的にどうすればいいのでしょうか。じっと見つめ続けるのも、相手を睨んでいるようで違和感があります。

『人は見た目が9割』(新潮新書 竹内一郎著)という本の中に参考になることが書いてありましたのでご紹介します。

二者間の会話で、目を見ている時間は通常は30~60%。60%はかなり親密な関係の場合。そして実際に両者の目があっているのはそのうちの10~30%だそうです。この辺りが『目を見て話す』状態と言えるようです。

では、面接時は如何すればよいでしょうか。初対面ですので、目を見ている時間は、会話の1/3くらいで良いのではないでしょうか。また、目を見るといっても、目の周辺を含めて見ていることで目を見ていることになります。

このような行動も大事ですが、実は形だけにとらわれず、まずは『本当に相手の話を聞こうとする心』が大事のように思います。その心を持って臨むと自然にこのような態度をとれる気がします。

「自然にこのような態度をとれる」ためには、それが「自然」であるための共有感覚を予めその者が持っていることが大前提となる。その感覚を持っていない人間からすれば、決してそれが「自然」にはなることはない。そういう者は内面に圧制を敷き、不自然によって「自然」を演じるしかない。だが言語情報による説明は、どのように振舞うのが「自然」であるとされるのかということにおいて、余りにも多くの情報が欠落している。

例えば面接の時、多くの者は『目を見て話す』ことの重要性だけを唱える。だが、それをそのまま実践するとむしろ不自然な振る舞いになってしまう。実際に「自然」にそれをするためには、適時目を反らさねばならないし、その目を反らす方向でもまた、大きく印象が変わってくる。人と「自然」に目を合わすプログラムでも作ってみれば、『目を見て話す』が「自然」にそれをしていると判断される状態を作り出すのに、如何に多くの情報が欠落しているか、ということがよく分かるだろう。適時に関しても、実際には具体的な数値を用いてそれを作り出すしかない。ところがそれが「自然」にできてしまう人間は、「共有された感覚」を参照することを前提として情報を発信しているから、自らが発信した情報が如何に内容的に欠落しているか、ということに気づかない。結果的にそれは、デマ(嘘)をばら撒いていることになる。

自分もそのデマにやられた内の一人だ。もはや遠い昔になった就職活動時における話だが、面接時に『目を見て話す』ことが如何に重要であるかということを口をすっぱくして訴えられ続けた結果、自分はそれを真に受けて、会話の際、ずっと相手の目を見続けた。後からその情報がデマであったことを知ったが、もう後の祭りである。まあ、自分が就職できなかったのはそれだけが原因ではないが。しかし一つ言えるのは、その手の文化規範、そしてそれに関するデマは無数にあるということだ。そしてことごとくその偽情報に騙され続けたという。とにかく、世間に溢れている内容的に欠落した言語情報をそのまま真に受けると本当に酷い目に遭う。

だが、趨勢の側が発する欠落した情報を真に受けたが故におかしな振る舞いをすることになった者が異常者扱いされ、観察対象・研究対象にされることがあっても、趨勢側として半端な情報を発信した者は検証されることはない。だから、いつまでもデマとも言える半端な情報が流通し続けることになる。

 ▼(6)「感覚」の参照を前提とした「内輪ノリ」コミュニケーション


思うのだが、予め共有された「知識」や「感覚」を参照することを前提とした言語情報で会話を行うということは、「内輪ノリ」コミュニケーション以外の何ものでもないだろう。例えば、オタク趣味を持つ者がそうでない者と会話する時、いきなり相手もまた自身と同じようなオタク的「知識」や「感覚」を共有していることを前提とした上で会話を行えば、大層キモがられることになるだろう。「内輪ノリ」コミュニケーションは、その文化の外にいる人間からすれば、基本的にキモいものなのだ。

だが、趨勢側である≪立派な社会人≫が、同じように「内輪ノリ」コミュニケーションで相手との折衝を行っても、それは「正しい」ことになってしまうという…。それどころか、むしろそれについてこれない者が異常であるとされる。どちらもやっていることは同じことのなのに。「基本的にキモい」ことをやっているはずなのに。

つまり、趨勢から外れる者がそれをするのと違って、「普通の人間」が幾ら「内輪ノリ」コミュニケーションで相手に迫っても、その態度が検証の対象にされることはない。観察対象にも研究対象にもならない。だから、多くの人間は必至で自身が「普通の人間」であることをアピールする。そのための嘘を付き続ける。周りから異常者にされないために。モルモットにされないために。

もちろん、自分もまた同じことをしてきた。だが、その慣れない生兵法で一体どれほどの大怪我をしてきたことか。かといって嘘をつかなければ、それはそれでやっぱりアウトなわけで、いかんともしがたい。

▼(7)上級嘘つき技能者が下級嘘つき技能者を「嘘付き」といって批判する奇妙

文化的趨勢と完全に同じ「感覚」を持っている人間は誰一人としていない。だから、「感覚」が近い/遠いという違い、嘘を付くことに関する負担の大きさの違いはあれど、誰もが嘘を付いている。文化的趨勢に収まって、≪立派な社会人≫になるために。再度言うが、「社会に順応するということは、即ち如何に上手い嘘で自らを包むことができるようになるか、ということでもある。」

ところが、卓越した嘘つき能力で≪立派な社会人≫となった嘘つきエキスパート達の間では、何故か「平気で嘘をつく」ことが悪いことであるとされているような所がある。しかしながら、上手い嘘をつくことの重要性を、嘘が持つ機能の重要さを痛いほど思い知らされてきた自分からすれば、意識することすらせず非常に上手い嘘をつき続けることができる卓越した嘘つき能力を持つ嘘つきエキスパートが、下手な嘘を連発する下級技能者を、「平気で嘘をつくこと自体」を根拠として批判しているのを見ると、どうも違和感を感じてしまう。

いや、もちろん理屈では何故そうなるのかは分かる。「平気で嘘をつく」として糾弾されるのは、下手な嘘をつき続けたことによる結果だ。そこでの「平気で嘘をつく」は、イコール「嘘が下手だ」という意味として機能しているわけだ。つまり、「嘘つき」として糾弾される者達は、嘘をついているから糾弾されているのではなく、嘘が下手であるが故に糾弾されている。とまあ、そういう原理は分かっているのではあるが、理由が分かっていてもやはり気持ちが悪いものは気持ちが悪い。

だから、嘘が社会に馴染むための重要な鍵となっているこの社会で、社会的順応が声高に叫ばれるこの世の中で、「平気で嘘をつく」ことが恰も一部の人間のみによってなされる特異な行為であるかのような物言いをする≪立派な社会人≫を見るたびに、それこそ「嘘つけよ、それは≪立派な社会人≫でいるための必須条件だろうが」と思ってしまうわけです。まあそんなことを言ったところで、それは食虫植物に対して「虫を騙してんじゃねえよ!」と言っているようなものなんだろうけどさあ…。

消えた自己責任×熱狂によって決定される「正しさ」の航路

桂南光氏がAKB商法を批判している動画がYouTubeの話題の動画に上がっていた(――自分が見た直後に消された模様)。そこでの彼の発言は以下のようなものだった。

ゆうたら悪いけど、酷い商売するわけやね。これね、宗教とかね、色んな商売…(?)そんなんをひっくるめた一つのやり方やて。違うて、これごっつ酷い。これはえげつない商売や。秋元康いう奴は、頭(?)このやり方はね、俺は賛成できひん。日本人は駄目になる、こんなことしてたら。おかしい、これは。

これは、人気投票によるメンバー内のポジション争いを「総選挙」と称し、その投票権をCDに添付するというやり方、つまり、購入したCDの枚数分投票権を得られるが故に、場合によっては一人に同じ商品を何十枚、何百枚も買わせることができるという、そういう商売方法に対して向けられた批判だ。

こういったものが「えげつない商売」であることに異論はない。商品そのものを販売するというより、ある種の危機を作り出すことで、その危機から自分が応援する人物を救いたいとか、そこで恥をかかせたくないとか、そういう心情を煽り立て、その気持ちを金の量で示させるそういった商売には、何らかの規制が設けられてもいいだろう。危機を煽って物を買わせるという意味では、根本的には不安商法と変わりないわけだから。
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しかし、このYouTubeのコメントを見ていると、どうも違和感と危うさを感じた。

というのも、日本は基本的に自己責任社会だったはずだ。本来自己責任という概念は、選択の自由と適切な情報開示が保証された場合に限り成立する、ごく限定的な枠組みだ。しかし、実のところそういった条件が整う状況はそれほど多くはない。というのも、普段の日常生活からして、物理的制限や社会的・道徳的抑圧によって恒常的に自由は奪われているからだ。尚且つこの社会は、常識や道徳などが生み出す嘘の情報で溢れかえっている。それ以前に、「これが最善の選択だ」と思ったことに最大限の努力を払ったことが、最悪の結果を導いてしまったりするのが人生というものだろう。

つまり、人生において適切な情報開示など存在しない(自分は自由意志自体信じていないので、そもそも選択の自由自体が存在しないと思っている。便宜上そういった概念が必要となることは認めるが)。そんな「人生」にすら自己責任という概念が突きつけられるのが、この日本という国の一般的社会規範だったはずだ。

ところが、恐らく数十人もの人間がコメントを書き込んでいたであろうYouTubeのコメント欄は、AKB商法に対する非難で溢れかえっていた。しかし、この商売は倫理的には問題はあるものの、法的には問題がないはずだし、少なくとも、消費者側にもそれを購入することがどのような結果を招くか、という情報開示はなされていたはずだ。貧困ビジネスのように騙しもなければ、それに乗らなければ行く場所が失われるとか、そういう抑圧もない。ただ、商品を買いたい奴だけ買えばいい。買いたくない奴は買わなければいい――自己責任理論からすれば、ただそれだけのことであるはずだ。つまり、「人生」にすら自己責任を適用してしまう日本社会において、こういったやり方が一方的に批判されるというのは、明らかに統一性がない。この事案は、自己責任が成立すると目される、数少ない例の一つであるはずなのだから。

それに、最近は南光氏の姿も余り見なくなったが、以前南光氏がやっていた帯番組などを見ていた自分からすると、南光氏もまた、どちらかと言えば人生にも自己責任を適用するタイプの人間であったような印象がある。何故それが、こういう時だけ急に正反対の論理を唱え始めるのか。非常に違和感がある。

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こういった様子を見ていると、どうもこの国においては理念というものが著しく軽んじられているように思えてならない。そしてそれによって生み出された論理は、単にその時々のイメージの良し悪しによって恣意的に出し入れされているだけなのではないか?だが、それでは対話も議論も成立しようがないだろう。そのことはコメント欄にも表れていた。というのも、そこに存在していた殆どは、論拠を示さないタイプの批判――つまり中傷とも言えるものが大半だったからだ。

確かに選挙っていうには無理が有るな。一人一票のファン投票ならともかく。

投票制度は面白いと思うけど
CDを何枚も買う(買わせる)投票の仕方はいかがなものかと思うな

芸能界やCD業界とかは凄い有難いんだろうけどさ
10代とかの未成年の女の子達を、総選挙とかいうショーレースまでやって
変な気持ち悪い商売してるなあって言うのは同意。これを大人達が倫理上や
彼女達の人権や将来、また商売上どうなのか。カルト宗教などに近くはないかなど
議論や批判。制限していかないといけないだろ。日本は本当こういうのが甘い

ちゃんと論拠を示してそれを批判していたのはこの三つくらいだった。数十人もの人間が書き込んでいたと目されるコメント欄において、たった三つだ。

そして、「そんなことない。これアイドルの基本です」と言ってAKB商法を擁護するような発言をした堀ちえみ氏は、早速バッシングの対象になっていた。おそらく今回のことが原因となって、これからも何らかの機会がある度に叩かれることになるのだろう。

つまり、この国の社会的趨勢における「正しさ」が何によって決定されるのかと言えば、それは人々がその時々に抱く気分と雰囲気と印象、そしてそれに呼応した民衆の怒号とリンチ――即ち、何の理念も持たない空っぽな熱狂、それこそがこの社会の「正しさ」を決定する源となっているんじゃないか?どうも、そのように思えてならない。YouTubeのコメント欄が、理念無き熱狂によって生み出された「正しさ」に支配されていたように。AKBのファンが熱狂による「正しさ」に絡め取られているように。

「労働」という免罪符~市場原理は働かない


長時間残業と人権侵害に抗し、東横インの女性たちが労組結成

25時間勤務なのに、仮眠・休息も取れず、サービス残業は膨大で、深夜は1-2人で全館を管理させられる。半畳の閉所に8日間拘束される「内観研修」も強制される。大阪地裁でも「過労死的労働・人権侵害研修」と女性達に訴えられているが、会社は、未払賃金請求は「教条主義的な左翼理論」、内観研修は「唯物論的理解では把握できない精神心理技法」と反論している。

市場の「見えざる手」に任せた結果がこれだったという。もうこの手の企業はブラック企業というより、犯罪組織と呼んだ方がいいんじゃないか、とさえ思ってしまう。というか、幾ら市場原理主義による自由な競争と言えども、競争が成立するためにはその前提としてルールの共有が必要となるわけで――例えば、野球をしているところで急にボクシングを始める人間がいたらどうなるか。それで幾ら相手を殴り倒しても、それは野球における競争とは言えないだろう――、そのルールを破り続けているような企業が市場に居座り続けている以上、そもそも市場原理は働いていないということになる。では、何故それを機能させようとはしないのか、何故敢えてそれを放置し続けるのか、ということを考えると、「市場原理」というものがどのように扱われているか、ということが明白になってくるように思う。つまり、本当は「市場原理」なんてどうでもいいんでしょ?という。
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労働相談:「退職」が大幅増加 「嫌がらせ」初の7000件台--09年度 /東京(毎日jp)


asahi.com(朝日新聞社):「新卒切り」に気をつけて 甘い採用計画
うちの妹も最近これに近い状況に遭っていたなあ。新卒でもなんでもないけど。

実のところ、「労働」という肩書きが違法行為や嫌がらせの免罪符になってるケースってもの凄く多いんじゃないかという気がする。善――世のため人のため――であるところの≪労働≫を獲得し、維持するためにはそれくらいの痛みは耐えなければならない。自分もまた手も汚さなければならない、それが現実だ、そんなの「民間なら当たり前」みたいな感じで。だから、「労働」がらみの違法行為や嫌がらせはことさら歯止めが掛かり難くなる。

恐らく、≪労働≫に伴う「苦労」にアイデンティティを依存している人間が大勢いる以上、このような流れになってしまうのは避けられないのだろう。

 ***

いつも思うのは、「法人」が「労働」がらみで行う違法行為や嫌がらせを、ただの一個人が「労働」という肩書きなしに行ったら、果たしてそれはどのように扱われることになるか?ということだ。

例えば記事の東横インの場合。「唯物論的理解では把握できない精神心理技法」なんてものは宗教以外の何ものでもない。そしてその宗教的理由から、「半畳の閉所に8日間拘束」されたりするわけだ。別にその宗教に入信したわけでもなんでもない者が(入信した者であっても、強制されれば問題だが)。さて、もし「法人」という肩書きを持たない者が、「労働」という大儀もなしにこういう行為を行った時、一体その者はどういう扱いを受けることになるだろうか。発覚すれば、即刑事事件として扱われることになるんじゃないか?

つまり、本来刑事事件として扱われるべき性質の問題が、「労働」が絡むと民事として処理されてしまうという傾向があるんじゃないかと。

企業と個人との間で取り交わされた契約の違反にしたって、法的にはともかく、実質的には金を脅し取られたり詐取されたりしているのに近い場合だってあるだろう。或いは、「新卒切り」の記事のように、嫌がらせなどで無理矢理意に沿わない事柄に同意したかのように仕向けられる場合もある。では、こういったことを「法人」という肩書きを持たない者が行ったとすれば、どうなるのだろう?

個人が自分の生活を守るためにおにぎりを買って、「代金を払うなんて教条主義的な左翼理論だ」と言ってそのまま持ち帰ったら、或いは、契約を交わした相手に組織的な嫌がらせや脅しをしたりして、意に沿わない事柄を強引に同意させたら、恐らくそれは刑事事件として扱われる可能性が高くなるんじゃないか?だが同じように、個人の群れが自らの生活を守るために、「法人」という形で同じような性質を持つ行為をしても、その場合は民事として扱われれることになる。

もちろん、民事不介入の原則は重要だし、何でもかんでも刑事事件にしてしまうのは問題があるだろう。だが、この手の問題は個人と個人ではなく、個人と組織との関係性の間で起こる問題だ。対等とはいかない。しかも個人の生き死にが懸かった問題だ。裁判だって誰もがそう簡単に起こせるものではない。しかもその裁判に勝ったところで、それで問題が解決するというわけでもない。結果的に、時間もお金も余計に掛かっただけ、ということにもなりかねない。その上、その経歴ゆえに扱いにくい人物だと思われ、次の職を得るのが難しくなるということもあるかもしれない。

そういった状況が成立しているのをいいことにして、平気でルールを破る企業が勝ち残っていくとすれば、そしてルールが破られることを放置し続けるとすれば、それは市場原理が働いているとは言えまい。何故なら、そこで行われている競争は市場としての競争ではなく、もっと別のタイプの競争なのだから。そしてその競争に市場が乗っ取られている。

本来、市場原理主義者であればあるほど、ここら辺のルールの徹底にはシビアであるべきはずだろう。ところが、何故かそのことの重要性を訴える原理主義者は余り出てこないという。それとも規制緩和を行って、市場にも総合格闘技を!顔面踏み付けを!ってことなのか。自分としては、そういうのは東京ドームの地下闘技場で好き者だけが集まってやってくれ、って感じなのだが。

道徳的抑圧のダシに使われる他国の不幸

あなたの知ってる日本と違う?!データが教える不思議な国ニッポン

「しかしこの国の食料自給率は、たったの40%しかありません。正に外国頼みの食卓と言えますが、それでも人々は、年間2320万トンの残飯を捨てています。それは世界各国の慈善団体が1年間に行う食糧援助の合計、590万トンの実に4倍の量です。因みに現在、世界では10億人が飢餓で苦しんでいます。7人に1人は飢えている計算です。4秒に1人が飢餓が原因で死んでいます」(中略)「それでも日本人は今日もおなかいっぱい食べ、食べきれない分を捨てるのです」(中略)「経済力があり、捨てるほど食料もある日本は、幸せな国のようですが、ここは先進国中トップの自殺率を誇る病んだ国でもあります」(中略)「経済的な豊かさは心の豊かさにつながらないのでしょうか」

<Japan -- The Strange Country>より

別にこの動画自体に直接ケチを付けるつもりはないが、この手の言説を聞くと、どうも釈然としないものを感じてしまう。というのも、こういった事実は大抵その後に、「だから食べ物を残してはいけない」とか、「こんなに恵まれているのに自殺をするなんて甘えている」などと付け加えられ、そういった道徳的抑圧の正当性の根拠として用いられてしまうことが多いので。
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だが、そこで唱えられる道徳理論は全く馬鹿げたものだ。何故なら、仮に日本人が全ての食料を残さず綺麗に平らげたところで、それによって世界中で飢餓に苦しんでいる人達が救われるわけでもなんでもないからだ。もし飢餓に苦しむ人達がいることを懸念するのなら、「食べ物を残さない」などということではなく、もっと他の方法を取ることを考えなければならない。

さらに、この手の道徳にはもう一つ大きな問題がある。それは、そこでは“恵まれた日本人”と“恵まれない国の人達”という構図にだけしか焦点が当てられないことだ。しかし、資源の奪い合いは何も経済的に豊かな国とそうでない国の間だけで行われているものではない。それは当然、経済的に豊かな国に住む者達同士の間でも、つまり日本人同士の間でも行われている。だから飽食の国と言われる日本においても、飢えに苦しんでいる人間なんてのは幾らでもいる。ところが、遠く離れた国の飢餓問題は度々懸念事項として取れ上げられる一方、国内における飢餓問題はそれとして取り上げられることは全くない。それどころか、国内におけるそれは、恰も存在すらしていないかのように扱われる(貧困は取り上げられることはあるが、それは他国の飢餓問題などとは異なった性質のものとして伝えられているように思える)。

▼(1)国内に飢餓問題は存在してはならない

何故そんな現象が起こるのか。それは、日本人にとって遠く離れた国に住む者達は、資源の奪い合いという争いにおいて、直接的な利害関係の当事者であるという認識が薄いからだろう。その一方で、国内に住む者同士は、お互いそのことが非常に明白だ。

――現代においては、ありとあらゆる資源は既に何らかの組織や集団に囲い込まれてしまっている。よって、その資源を手に入れるためには、先ずその組織や集団に上手く取り入るか、もしくは社会・文化システムを利用して囲い込まれたそれを上手く手に入れる術を身に付けなければならない。現代社会においては、そういう形で資源の奪い合いが行われる。そして幾らこの国に食料が捨てるほど溢れていようとも、社会的にある程度良いポジションを獲得することが出来なければ、或いは獲得したそのポジションを維持することができなくなれば、その奪い合いに敗れ、食料を手に入れることができなくなる。その結果として、飢えの問題が生じてくる。

つまり、もし国内の飢餓問題を解決すべき懸念事項として取り上げたならば、今現在ある程度余裕のある生活を送っている者は、当然その問題の原因と責任の一旦を担っていることになるから、その生活は現状維持、というわけにはいかなくなるだろう。そしてそのことが、多くの者に自身の不利益につながるのではないか、という懸念を抱かせることになる。

実際は、国内の飢餓問題を解決しようとすることは、即ちセーフティネットを強化するということであり、必ずしも国全体として損をするということになるとは限らない。だが、メシウマ現象に代表されるように、どうも日本人は、お互いを同胞として認識するというよりは、むしろ敵対関係としての側面の方を強く意識している。経済的な事柄が絡む問題は特にそうだろう。だから、そういった事柄が絡む問題において、多くの者による理念の共有と合意を必要とするシステムを成立させるのは非常に難しい。

日本人の強い努力信仰(努力の下の平等)もまた、それを阻む大きな原因となっている。努力信仰における努力の摂理に従えば、個人の努力具合は概ね結果として反映されることになっている。少なくとも、不断の努力によって其々に平等に与えられた精神の力を上手く引き出すことができれば、“最低限の人間的生活”くらいは手に入ることになっている。一部の例外を除けば。それによって人々は、努力さえすればなんとかなる、という希望を抱き、苦労を矜持に変えて人生を乗り切っていく。

つまり努力信仰の上では、「資源の奪い合い」に敗れて窮地に陥っている者は基本的に努力を怠った者なのだ。だから、努力の下の平等という原則からすれば、再配分は不公平以外の何ものでもなく、なすべきではない、ということになる。

 ***


もし国内の飢餓問題が表立って取りざたされることになれば、当然その問題を何とかしなければならない、ということになってくる。しかしながら、その問題の解消に向けて動き出すことは、多くの者にとって不利益をもたらすことであると思われている。尚且つそれは、努力の摂理を否定するか、もしくはその摂理の下で不公正が行われることを意味する。その結果、その“解決しなければならないが、解決するわけにもいかない”厄介な問題は、“存在してはいけない問題”として処理される。

▼(2)自国の不幸から目を反らすために取り上げられる他国の不幸


だが、幾らそれが忌避されようと、その問題は厳然として存在し続けている。なにしろ人の生き死にが掛かった問題だ。そう簡単に隠しきれるものではない。

隠しきることもできないし、解決に向けて動き出したくもないとなれば、もうその者達が道徳的に“なっていなかった”からそういう状況が作り出された、として、窮地に陥っている当人達にその原因と責任の全て押し付け、逆に糾弾するしかない。そこで他国の不幸が持ち出されることになる。「あんなに大変な国の人々でも、目を輝かせ、希望を持って生きているのに、お前達ときたら…」というように。

他国の不幸は気軽に取り上げることができる。もちろんそれが国家間の関係において大々的に取り上げられることになれば、日本もそれ相応の負担を迫られたりすることにもなるが、少なくとも、日本に住んでいる会社員がアフリカの飢えた子供達に職を奪われ、衣食住に不自由するなんてことはまず無い。つまりその問題を取り上げたところで、それによって直接自身の生活が大きく変化するという心配はしなくてもよいわけだ。だから、国内におけるそれと違って、遠く離れた国のそれは安心して取り上げることができる。

どこか遠くの国の話で、直接自分の生活に影響を及ぼすことはないという意味では、それはある種お伽の国の話に近いかもしれない。お伽の国のアフリカの飢餓、みたいな。そうであるが故に、国家間の関係において日本がその責任を問われても、特段ナイーブな気持ちになることもない。そういった条件が整っているからこそ、例えば「食べ物を残さない」は、現状を維持したままでできるお手軽な贖罪のための道具として重宝される。そして他国の不幸は、「あんなに不幸な国もあるのに甘えるな」として、自国の不幸を「個人の怠惰」に包み込んで隠すための道具として利用されることになる。

ここでひとつ確かなのは、実のところ、殆ど誰も他人の飢えや不幸など大して気にもしていないということだ。日本人が多くの食料を廃棄処分にするのを止めたところで、世界中で飢えに苦しんでいる人達が救われるわけでもなんでもない。しかし、国内の飢餓問題に目を向けると、それは必ずしもそうとは言えない。例えばコンビニなんかでは賞味期限が切れそうになった商品は基本的にどんどん廃棄処分されることになるが、考えようによっては、それを日本で飢えている人達の下へ届けようとする動きが起こっても、そのためのシステムを作ろうとする動きが見られても全くおかしくないはずだ(もちろんそのためには、様々な困難をクリアせねばならないことになるが)。なんせ、世間では飢餓問題に懸念が示され、「もったいない」を世界中に流行らせよう、などと言っているわけだから。ところが、そういった言説が実際にそのような動きにつながることはない。

つまり、遠く離れた他国の不幸が取りざたされる時、それはその“問題自体”に興味があるからというより、むしろ自国の厄介な問題から目を反らし現状を維持するための、現実逃避の道具として取り上げられていることの方が圧倒的に多い、と考えた方が妥当だろう。

▼(3)国家間の比較を個人に適応するという誤謬

他国の不幸が自国の不幸を隠す道徳的抑圧の正当性の根拠として利用される時、必ず用いられるのが、国家間の比較を個人に適応するという誤謬だ。

国家間における何らかの条件の比較において、「日本人は恵まれている」と言うのなら分かる。その場合において“恵まれた日本人”と“恵まれない国の人々”という構図でものを見るのは決しておかしなことではない。しかし、個々人の問題としてのそれを見るのなら、そのような構図で物事を語るべきではないだろう。何故なら、どんなに恵まれないとされる国でも、一掴みの人間は非常に恵まれた裕福な暮らしをしているかもしれないし、如何に恵まれているとされる国でも、「生まれて来て良かった」と思うことすらできず、ただ苦痛だけを抱えて死んでいく人間もいるだろうから。

つまり、国家という枠組みでの「恵まれている」と、個人という枠組みでの「恵まれている」は全く別問題なのだ。アフリカにはあんなにも恵まれない人々が、などと言われるが、日本にも同じような不幸で死んでいく者達はいるはずなのだから。ただ割合が違うだけで。そして個人にとっては、その割合が低いか高いかよりも、どちらに入るかの方が重要だ。

そもそも、飢餓問題というのは「資源の奪い合い」の結果として生じているものだ。そしてその「資源の奪い合い」がどのような形で行われているかということは、其々の場所や文化によって異なってくる。つまり飢餓問題一つとっても、其々の国では其々異なった事情によってその問題が生み出されている。当たり前の話だが、国内の問題を語る時、遠く離れた国の事情を見てそれを語ってもしかたがない。遠く離れた国のある問題の実情が幾ら酷いからといって、国家としての枠組みで比較的その度合いがましな国のその問題が、個人の努力によって解決するという証明にはならない。そして国家というマクロな枠組みではなく、個々人の問題としてのそれを見るのならば、やはりその枠組みも、国家という枠組みではなく、個人という枠組みで物事を見なければならないはずだ。

ところがこの手の道徳的抑圧が行われる時、国家間の比較というマクロの視点が、個々人というミクロの問題にそのまま適応され、それを土台としてその正当性が語られる。これが意図的に行われているとしたら、かなり悪質だ。

よく、ミクロの問題において「日本人は恵まれている」などという人間がいるが、それは全くおかしな話だ。というのも、「日本人は恵まれている」というのは、あくまでマクロの視点における比較だからだ。だが、言うまでもなく「日本人」は一つの生物ではない。だから、個人という枠組みでそれを見るなら、「私は恵まれている/いない」という比較になる。もし、個人の枠組みにおいて「日本人は恵まれている」と言うのなら、それは「私は恵まれている」ということに他ならない。だが、他の日本人は「私」とは別の生き物だ。それを恰も一つの生物であるかのようにして物事を語るとするなら、それは余りにも滑稽な話だろう。

▼(4)「個人の怠惰」と「心の病」で隠蔽される自国の不幸


この動画においてもまた、「不思議な国ニッポン」の一般的流儀に従い、自殺の原因が恰も「心の豊かさ」の無さにあるかのように仄めかされている。

しかしながら、実際のところその多くは、病気などで現在の生活を維持することができなくなったり、社会のポジション争いに敗れて食料や住居を手に入れることができなくなったが故のものなのではないか。或いは、近い内にそうなることが確実になったからこそ、そして再びそのポジション争いに参加する道を絶たれたからこそのものなのではないか。確かに、「心の病」は自殺に大きく関係しているかもしれない。しかしそれは、「心の病」を煩うから自殺するのではなく、あくまで、それを煩うと社会的なポジション争いや、獲得したポジションを維持することが難しくなり、それによって資源の奪い合いに敗北せざるを得なくなる、という形で自殺と関係しているだけに過ぎないのではないか?

いやもちろん、其々がどのような理由で自殺しているのかということは中々ハッキリとは分からないだろう。例えそれが自分自身のことであったとしても。ただ一つハッキリしているのは、例えどんな人間であろうとも、「資源の奪い合い」に敗北すれば生きてはいけないということだ。そして、衣食住が十分に保証された人間が自殺するのでなければ、それが「心の病」が原因だなどと断定することはできない。つまり、多くの場合「心の病」によって自殺しているのではなく、それによって「資源の奪い合い」に敗北するからこそ自殺しているのではないか。そしてそういった自殺が、結果として飢餓や住居の問題といった、日本における貧しさの問題を覆い隠すことになっているんじゃないか。

日本における貧しさは、「個人の怠惰」によって、そして「心の貧しさ」故の自殺によって隠蔽されている。どうも「恵まれた日本」は、そうやって維持されているように思えてならない。

道徳の欺きによって生み出される憎悪の「還元」リスク

どうも、規範の押し付けが憎悪や復讐心の生みの親になる、
ということを分かっていない人が多いような気がする。
道徳はドラえもんのポケットから出てくる便利な道具ではないのだが。
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誰かが何らかの不幸に見舞われても、その者が自分の好きで何かをした/しなかった結果そのような状況を招いたという認識を持っていたならば、諦めもつき易い。その結果を恨むとしても、過去の自分自身の判断や己の運の無さを恨むしかないだろうから。しかし、他人からの道徳的要請によって何かをした/しなかったせいでその結果が生み出された、とその者が認識していたならば、そうはいかない。

そもそも、現実が道徳と乖離している以上、その教えは必然的に欺きとして機能することになるのは避けられない。それはつまり、他人に道徳的要請を行うということは、結果として他人を欺く行為になり、その要請を真に受けた者達に不幸をもたらす結果にもなり得るということだ。となれば、その不幸を生み出す原因となった道徳を押し付けた/押し付けようとしている者は、当然その者達から恨まれることになるだろう。

それも、その者が道徳に強く縛られていればいるほど、それを強く信じていればいるほど、その反動として、その欺きによる恨みもまたより大きく増幅されていくことになる。人は己が強く信じているものに裏切られた時ほど、より大きな憎悪を抱くことになるだろうから。そしてその増幅された恨みは、何らかの形になって世間に還元されることになるだろう。その者が不特定多数の人間から無差別的に道徳的要請を受けたのと同じように、無差別性を伴って。

要するに、こうであらねばならない、という規範の押し付けがより強くより広く行われれば行われるほど、より多くの者達の中でより大きな恨みが生み出されることになり、それは何らかの形になって世間に還元されることになる、ということ。そういった条件を鑑みてみると、他人に規範を押し付ける時は、果たしてそれがその「還元」リスクにつり合うだけの意義を持っているかどうか、ということをよく考えた上で、それをなすべきか否かを慎重に判断した方がよい、ということになるだろう。

だから、ドラえもんから道具をもらったのび太のように、無邪気に道徳を振り回し、力にものを言わせた強引な規範の押し付け方を平気でしている人達を見ると、どうも違和感を感じてしまう。これだけ危機感危機感と叫ばれる世の中で、何故道徳の「還元」リスクについてだけは全く考えようとしないのか、と。

まあ日本の場合、道徳の欺きによって不幸に見舞われても、復讐の道を選ばず、そのまま道徳の奴隷として自滅していってくれる場合の方が圧倒的に多いので、そういうことは余り気にせずに済んでいるということもあるが。しかし、いつまでもそのような自殺依存症国家のままでいるというのはどうなのかねえ。

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後正面

Author:後正面
ひきこもりという役割を引き受け
ざるを得なかった一人として
人間について考えてみる。
でも、本当はただの断末魔ブログ。

働けど無職。
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※コメントは記事の内容(主題)に関するもののみ受け付けています。また、明らかに政治活動的な性質を持つ内容のコメントはお控え下さい(そういった性質を持つ発言は、それを許容するような姿勢を持つ一部のブログを除いて、自分のブログで行うものだというのが私の基本的な考え方です)。

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