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ポジティブ・アレルギー

物事を顧みず、ひたすら自身にとって都合の良い部分だけを見て突き進まなければならない、ポジティブ社会への拒絶反応

分類という傲慢、それをぼやかす誠実さ

恩年92歳というご高齢ながらまだまだ現役で活動中のフランスの作曲家、
デュティユー氏の若き日の作品(因みに彼は去年、その齢にして来日まで
果たしているというから中々のツワモノだ)。

フルートとピアノの為のソナチネ/デュティユー


ただこの印象派風の曲を聴いても分かる通り、彼は現代の作曲家であり
所謂ゲンダイオンガク風味をまぶしたような曲も書いてはいるものの、
完全にそちら側に重心を移し切ることはしない。
それ故、ゲンダイオンガクに馴染みのない人が彼の曲を聴くと
ゲンダイオンガクに聴こえてしまうということは往々にしてあるが、
ゲンダイオンガクを聴く人からは「これはゲンダイオンガクじゃない」
と言われてしまう微妙な立ち位置の作曲家。

彼のことをなんだか煮え切れない作曲家と感じる人もいるだろう。
しかし個人的には、その境界線上を行ったり来たりしながらも
結局ゲンダイオンガクには染まりきらず、自分の信じる音楽に留まり
続けるという彼のその姿勢にこそ魅力を感じたりする。
「何か新奇なことをして名を上げてやろう」といった下心や、
「進歩」という幻想にしがみ付くための手段として音楽を使っている
という欺瞞が感じられないというか。
あくまで目的は音楽の方にあるということが感じらとれるというか。

 ***

人間は本来意味などありはしない現実に対して様々な意味を付加し続ける。
そして各々は己の獲得した感覚や思想、宗教、文化的背景、立場などから
生み出した“物差し”で物事を分析・分類し、それによって何らかの法則を
見出すことによって現実を理解した気になり、それにすがることで
「意味の無い現実」という恐怖から逃れ、安心感を得ようとする。
人間はそういった習性を持っている。

その為、例えばジャンルという分類からの逃避は得てして
「ジャンルに囚われない」と意識する形でジャンルに囚われる
羽目になるのが大方の辿る道。だが人間がそうしたサガを持つ以上、
物事を分類するという行為自体は否定出来ないものの、現実を国境線の様に
ハッキリとした線引きで仕切ることなど出来る筈もないというのもまた事実。
もしハッキリとした線引きがあるとしたら、それは紛れもなく人間が
捏造したもの。それも分類に対して何の誠実さも持たない人間の手に
よるものだ。何故なら、分類という作業に本当に真摯に向き合った時、
どのような場所や時代、思想、立場でも揺るがない真に正しい普遍的な
“物差し”などありはしないということに気付くからだ。そして分類に必要な
情報の全てを手に入れることすら出来ない(例えば人間は他者の感覚や
経験を決して知ることが出来ない)ということにも気づくだろう。

あらゆる線引きは、所詮数多ある線引きの一つでしかない。
現実は常に人間達が生み出した様々な線引きが重なりあいながら、
その時点に於いてどの線引きがより力強さを獲得しているかでしかない。


だから分類に対して本当に真摯な人間は、その分類が単に自らが現実で
迷わない為に目印として張り付けた付箋(レッテル)でしかないのではないか、
という後ろめたさや、それが“個人の主張”でしかないのにあたかも
“全ての人間に共通するもの”だと偽装しているという罪悪感を感じながらも、
人間のサガとしてそれを行い続ける。

ただそれを行いつつも、その人間の持つ「誠実さ」だけが罪滅ぼしとして
その線をなるべくぼやけたものにしようとする。断定を避けようとする。
例えそれが自身にとって不利益を齎す行為だと理性では分かっていても。

彼の音楽からは、その“煮え切れなさ”故に、逆にそういった意味での
「誠実さ」を暗喩的に感じることが出来る。尚且つ全人類に共通すると
される「進歩」という幻想、つまり“集団”の価値観(実際はそれも数の力
を上手く利用して力を得た個人の価値観でしかない)よりも、最終的には
自分という“個人”の音楽の方を信じるという姿勢を見出すことが出来る。

彼の曲が持つ方向性の“煮え切れなさ”を自分がマイナス要素として
感じることがないのは、多分そういったことが関係しているのだと思う。

まあ、実際当人がどういう想いで作曲をしているかは全然知らないので、
あくまで自分が彼の曲を聴いて勝手にそういった事を想起しているだけなのだが。

必死で生きて来た者だけが…

その者にとって、今以上の人生も今以下の人生も
存在し得なかったという事実を知ることが出来る。

一つだけ分かっていることがある

いつこの環境が奪われてもおかしくない状況にある。

死はもう直ぐそこまで迫っているのかもしれないし、もしかしたら
何だかんだ言いながらもあと十年くらいは生き続けるのかもしれない。
いつ、どこで、どのような死を迎えることになるのか、それは分からない。

ただ一つだけ分かっていることがある。

俺は「道徳」と「精神論」によって殺される。

いや既に殺されたのだ。
この二つによって「価値ある生」を獲得する機会が奪われた。

たとえ二度目の死がどんな形で訪れようとも、それ自体に大した意味は無い。
何故なら、この命が忌まわしいものでしかなかったという事実はもう既に
決定しているからだ。生まれてきたことを後悔しながら死んでいくことは
既に確定しているからだ。後はただ、「死」という恐怖を忌避するために、
苦痛しか齎さない「忌まわしき生」を抱え込むだけの時間しか用意されていない。

とにかく憎い。

精神論という宗教が。道徳という凶器が。

そしてそれらの道具を上手く用いることで屍の山を築き上げ、それを踏み台に
することで磐石な足場を獲得して置きながら、その足場にしている屍達の
存在を否定し、その苦痛を不必要なまでに貪ろうとする人間達が。

だが、こんな風に人間を憎まざるを得ない俺はもはや、
「価値ある生」の亡骸である「忌まわしき生」を巣にして
この世に居残り続けるただの怨霊でしかないのだろうな。

ひとの苦しみについての迷想

呪いの曲PART2、「せめて安らかに」に込められた呪いと願いについて。

「PART1」が道徳を用いて他者を欺き縛りつけるという、婉曲的な方法で
その地位を奪い合うことで己の罪を誤魔化し逃れようとする人間の資質に
対する呪いだったのに対し、この「PART2」は人間の存在そのものに対する
呪いが込められている。

元々この曲は、何処かのひきこもりが親を殺したというニュースを聞いた
時に頭に浮かんできたものをザッとmidiに書き付けたというところから
生まれている。その時思った。この事件を起こした者もきっと自分と
同じ様に生まれてきたことを後悔している類の人間なのだろうと。

社会に上手く順応出来た者からすれば、それに上手く順応出来ない
人間は単なる変人、或いは敢えてそれをしようとしない悪人でしかない。
だからそれを社会の敵として、異物として疎外し排除することも容易い。
人によってはその“異物”を自身にとって都合よく改造し、
それを社会の歯車の一部として利用することを唱える人もいるだろう。
徴兵制をマインドコントロールの手段として使うことを唱えた橋下徹氏や
東国原英夫氏、町山智浩氏、そしてそれに賛同した人達の様に。そして
その人達はきっと自らのその行いを“善きこと”だと認識していることだろう。

だが、社会に上手く順応出来なかった者から見ればその世界観は一変する。

社会に順応出来た人間からすればそれが出来ない人間が変人なのだろうが、
それが出来なかった人間からすれば逆に周りの人間が全て変人なのである。
社会の中に異物としての自分がいるのではなく、社会という異物の蠢きの
渦の中に自分がいるのである。そして変人が達が作った風土やシステム、
価値観に囲まれてその生活を送らなければならない。

思い浮かべて見てほしい、自分が変人だと思う人間達を。そしてその変人達
に囲まれ、その変人達が作ったルールや風習、価値観を強要されることを。
尚且つ、それに上手く馴染めなかったということで断罪されるという様を。
現に社会に上手く順応出来なかった人達はずっとその様な環境で生活を
送ってきたし、そしてこれからも送っていかなければならないのだ。

この曲の前半部分は単なる単旋律で出来ている。そしてそこには何の和声も
付いていないのだが、それにはこうした社会(和声)が勝手に個人(旋律)
の価値や意味や役割を決定し、それに強引に隷属させようとするその傲慢さ
に対する“個人”からの拒絶の意が込められている(その後“社会”は現れる
のだが)。自分がポリフォニックな曲に興味を抱くのも、多分この辺りに
その理由があるのだと思う。

 <だからこそ救いが無い>


だが、もし仮に自分と近い感覚の持ち主が大勢を占めていたならば、
その社会はどうなっていただろうか。

そうであれば恐らく、今善良な市民として滞りなく生活を送っている人達は、
多数派である自分と感覚の近い者達に疎外され排除され断罪されていただろう。
その異質感から学校では常にいじめの対象にされ、卒業しても何の職にも
ありつけず、ニートやひきこもり、ホームレスになるしかなかったことだろう。
或いは個人として、若しくは暴力団の様な集団として非合法な活動を行う
ことでその生計を立てていたかもしれないし、後はカルトにでも入信していた
かもしれない。そしてその内の何割かは、生まれてきたことを後悔しながら
非業の死を迎えることになるだろう。

つまりその時、自分と感覚の近い多数派の人間は、きっと今の
社会に於ける多数派と同じ罪を犯していたのではないかということ。

というのも、自分も含めて殆どの凡庸な人間は、結局自身がそういう立場に
置かれてみて、そしてその社会の失敗を自分自身の苦痛として体験し、
それが限界を超えてからでないとその失敗に気づき、疑問を持ち始める
ことが出来ないであろうからだ。

自分も昔は今は忌み嫌う精神論を信じていたし、道徳や善悪を信じていた。
特に自分のような何の取柄も無く、毎日が苦痛で仕方がないと感じていた
ような人間は、そういう幻想にでもすがるしかなかった。もし本当にそういう
ものが存在するのならば、きっと自分も人並みの人間として生きていける
ようになる筈だと。そうでもして自分の理性を誤魔化し続けるようなこと
でもしないと、その先のことを考えたり準備したりするどころか
今その時点の状態を持続させることすら難しかった。
結局その持続の先には絶望しか待っていなかったのだが。

しかし、もし自分が何とか普通を装って生きていくことが出来ていたならば、
今もそういった馬鹿げた論理で他者を断罪していたかもしれない。

自分はその絶望によって漸く自分のその考え方の誤りに気付いた。
精神論や道徳、善悪のインチキに気付くことが出来た。
正義というものが単なる麻薬でしかないということが分かった。
しかし、逆に言えばその絶望無しにはそのことに気付くことが
出来なかったということでもあるだろう。

だからこそ救いが無いのだ。

人類はその存続の為に多様性という性質を手放そうとしない。
それ故、生まれてくる人間の資質にどうしてもバラツキが出てくる。
しかし、社会というその場所や時代で主流となる集団が作り出す枠組みは
生まれてくる人間ほどの多様性を持ち得ないため、どうしても社会から
異物として扱われる者達が出てくる。だが、社会はその様々な資質を持った
人間達を上手く収める為に枠組みを多様化しようとする努力はしない。
それどころか、社会は常にその枠組みを画一化することを画策している。
より多くの人間が「自分殺し」をしなければならないベクトルへと向かおうとする。
そしてその失敗に気付くことが出来るのは、ほんの一握りの秀でた感覚の
持ち主と、限界を超えた消耗によりもはや戦う力すら失った一部の人間達
だけなのだ。

つまり人類は、生まれてきて良かったとすら思えない人間達を、
そしてその者達が味合うことになる苦痛を、
その存続の為の生贄として求め続けるのだ。

そういった人類の存続という大儀の下で平気な顔をして生贄を貪り続け、
その因習を改善しようとすらしない人間という存在への怨念。
そしてそれと同時に、その生贄として生まれて来ざるを得なかった
生まれてきたことを後悔しなければならない人間達が「せめて死ぬ時くらいは
安らかに死ねますように」という願いがこの曲には込められているのだ。

せめて安らかに

呪いの曲「PART2」。因みに「PART1」はコレ

せめて安らかに(3分11秒)

ただ「PART2」といっても楽曲的に直接「PART1」と何らかの繋がりが
ある訳ではない。繋がりは単にそれが「呪いの曲」であるということだけだ。
いわば「サスペリア」と「サスペリアPART2」の関係みたいなもの。
しかもこの「PART2」の方が先に作られたという所まで同じ。

音源はXP-50。

尚、この曲に込められた呪いと願いについては
「ひとの苦しみについての迷想」に書いた。

続・印象派的現実

<他候補が橋下公約に着替えたら>

やっぱりまだ気持の区切りが付けられないので
コレの続きを書いてみる。(最後に追記2/4あり)
----------

 *(1)*

前回の記事では、自分みたいな絶対橋下氏に当選して欲しくなかった派や、
逆に絶対に当選して欲しかった派以外の殆どの有権者は、結局
「この人なら何か流れを変えてくれるんじゃないか」という印象だけで
その投票先を決めてしまうのではないか、ということについて書いた。
そしてその一つの要因として対立候補の「テレビ映りの悪さ」を挙げた。

だが、自分が多くの有権者が結局「印象」によってその投票行動を
決定したに違いない、と確信したのにはもっと別の理由がある。

それは、もし他の候補が橋下氏と公約を取り替えて立候補していたら
一体どのような結果になっていただろうか、と考えた時、それによって
今回の投票結果が大きく覆ることになったとは到底思えなかったからだ。
いやそれどころか、もし他候補が橋下氏と同じ公約を掲げていたのなら、
その候補者は今回の結果以上に酷い結果を手にすることになっただろう。

例えば、橋下氏は当初掲げていた「府債発行ゼロ」の公約を当選直後に
取り下げた。これは当然公約違反になる訳だが、しかし大方の人間はこの
行為を、現実的に無理な公約であるならばさっさと取り下げた方が良いし、
むしろ潔い行為だ、と捉えたんじゃないだろうか。実際、彼はこの公約
違反によって大きなダメージを受けることにはならなかったように思う。

確かに、無理な公約を何時までも引きずり続けるよりはさっさと取り下げた
方が良いだろう。だが、そもそも府債を全く発行しないという方針が
現実的ではないということは当初から誰もが知るところだった筈だ。
つまり、これは公約の達成を断念したのではなく、始めから無理であると
分かっていながら敢えてついた「嘘」に他ならない。もし普通の人間が
こんなバレバレの嘘をついたのならば、その後ろめたさでオドオド感が
滲み出て、もうその時点でその候補者の当選は彼方へと遠のいていたに
違いない(その後ろめたさこそが良心であり、誠実さの表れなのだが)。
ところが、橋下氏は本来ならば大きなマイナス要素になる筈のその嘘で、
逆に無駄に税金を使わないという「緊縮財政への強い意志」を府民に
印象付けることに成功し、むしろそれをプラス要素へと転換した。
つまり、「不適切な内容」を「イメージの力」で覆したのである。

こんな離れ業をやってのけることが出来る人間が他候補にいただろうか。
いや、他候補だけでなく、そんなことが出来る人間を他に思い浮かべる
ことが出来るだろうか。自分にはそんな人間は思い浮かばない。

「二万%出馬しない宣言」に代表されるように、必要とあらばどんな
あからさまな嘘でも平気でつくことが出来る、正に百戦錬磨の嘘つき
エキスパート橋下氏ならではの荒業。この場合、嘘つきエキスパート
といっても別にバレない嘘を付く為の高い能力を持っているという
ことではない。嘘を付いても集団内に於けるその人気や地位を保ち続ける
ことが出来る能力、その嘘をマイナス要素にせずに使うことが出来る高い
能力を持った者のことだ。

しょっちゅう嘘をついていながら、その嘘で全く評判を落とすことのない
人物がいる一方、滅多に嘘をつかないのに、たった一つの嘘でその評判が
ガタ落ちになってしまう人物がいるのを目の当たりにしたことはないだろうか。
橋下氏は前者のタイプの中でも取り分けその能力に長けた非常に稀有な人物
であったのだろう。だからこそ、その公約が「嘘になる」ことを府民が
知っていたのにも拘らず、その評判は全く落ちなかった。他候補ならば
致命的になりかねない「内容」のことをその「コミュニケーション能力」で
取り繕い、プラス要因に変えるという方法でその局面を乗り切ることが出来た。
つまりそれは、府民が内容ではなくイメージで彼を選んだということだろう。

 *(2)*

そしてこれは彼の他の公約についても同じ様なことが言える。

例えば「小学校の校庭の芝生化」。こんなことを他候補が言い出したら、
それこそ指を差さされて笑われていたに違いない。それ程典型的な無駄な事業。
金が無いので節約しなければならない、いつ財政再建団体に転落しても
おかしくないという自治体が、何故こんな何の必要性もなく経済的波及効果
も期待出来ない贅沢事業を行わなければならないのだろうか。さながら沈み
行くタイタニック号の上で演奏される弦楽四重奏を想わせる贅沢さだ。
「もうどうしょうもないから、せめて最後に贅沢したんねん」
というのなら分からないでもないのだが。

ところがだ。これが「高齢者ら社会的弱者の予算が減るかもしれないが、
それは仕方ない」という、「命」の部分の予算にまで手をつけようとする
吉宗的なまでの倹約を訴える橋下氏側からの発案なのだ。そして何故か
それが受け入れられてしまう妙。こんなこと理性の世界では到底考え
られないのだが、やはり彼はこの難所もその卓越したコミュニケーション
能力で感覚の世界を巧みに操り乗り切ってしまう。
もしや彼は新手のスタンド使いなのではないか、と勘ぐりたくなる程だ。

「石畳と淡い街灯の景観づくり」などは言わずもがな。
あれが他候補からの発案であれば、一発レッドで即退場だっただろう。
だが、やはり彼はそのスタンド能力で、テレビの電波の届く範囲一帯に渡って
特殊なmixi空間を作り出し、その空間内の人間を「コッミュ、コミュ」にして
有権者という審判の目を軽くいなしてしまった。

「理性の知らない世界」は他にもまだある。
それは、彼の公約は露骨なまでのバラマキ政策で埋まっているのにも拘らず、
何故か「緊縮財政の橋下」というイメージが定着してしまったことだ。
勿論、バラマキ自体が悪い訳ではない。それも行政の重要な仕事の一つだ。
要は如何にその地域を上手く活性化させる為に効率よくばら撒くかが重要
なのだが、それ故、(バラマキ自体のイメージも悪いが)取り分け直接個人
に対するバラマキは特に厳しい非難が浴びせられることが多い。

彼の提案した「全公立中学校において小学校の給食費と同程度で給食
を実施」などは、結局子供のいる家庭の食費の一部を府が負担するという
ことだろう。つまり直接個人へのバラマキ。
「子供のいる若い夫婦への家賃補助制度」に至っては、「地域振興券」に
匹敵する程の露骨な直接個人へのバラマキといっていいだろう。
そして「出産・子育てアドバイザー制度の創設、小児科・産科の救急
受け入れ促進、乳幼児医療費助成の拡充、駅前・駅中に保育施設の整備促進」
といった余りに一部の層へと偏った明らかにバランスを欠いたバラマキ。

これらの政策の是非はともかく、この手の直接個人へのバラマキや
バランスを欠いたバラマキ政策を他候補、いや民主や共産の候補が唱えた
ならば、「だから民主は」「だから共産は」と激しくそれが非難される
ことになるのがいつものパターンだ。少なくともこれで「緊縮財政」という
イメージを取り繕うことなんてとても出来ないだろう。
だが出来てしまうのである。橋下氏と自民党の力をもってすれば。
ここでも「理性」は「イメージ」に大差を付けられて敗北する。

ただ、その手法として一つ素直に上手いなと思ったのは、
「子供」という要素の使い方だ。

「集団」という主体が存在しない以上、誰かが何らかの利益を得る時、
それは「個人」として受け取る他ない。だが、日本は民主主義を標榜
しておきながら「個人主義は悪」という偽装民主主義国家なので、建前上
それが個人の利益であることを忘れさせる為に、一旦「集団の利益」や
「他者の為」を想わせる何らかの理由を付して「マネーロンダリング」
ならぬ「個人ロンダリング」を行うことによって、「個人」という意識を
洗い流すという作業をしてからでなければそれを受け取ることが出来ない。
何故ならば、その手続きを省いてそのまま個人として利益を受けとることは
日本に於いて悪に他ならず、激しく他者から非難されることになるからだ。

橋下氏はその点を考慮し(多分、理性ではなく感覚的閃きだろうが)、
有権者という個人がバラマキを受け取り易いように、予め一旦非有権者
(他者)の子供(将来的投資であり集団の利益を想わせる)という要素を
使って「個人ロンダリング」を済ませてからばら撒くという手法を取ったのだ。
これによって、有権者という個人は安心してそのバラマキを受け取ることが
出来るようになるのである。めでたしめでたし…。

 *(3)*

その一方で、熊谷氏は

http://www.kumagai-osaka.com/manifesto.html
大阪にはスウェーデン一国に匹敵する約40兆円の府内総生産(全国第2位)を誇る強みと潜在力があるのです。(中略)これほどの強みと潜在力がありながら「ヒト・モノ・カネ」が効果的、効率的につながっていないことが大阪の最大の弱点です。先に示した経済規模に比較して、一人当たりの府民所得は303万円、全国7位に甘んじている(中略)私は4か年でこれを全国第2位、平均50万円アップの360万円まで引き上げます。(中略)産官学のあらゆる知恵と技術と力を結集して、大企業だけでなく中小企業の売り上げを増やすことが何より重要です。さらに、物流の効率化を進めてあらゆる産業の浮上を図るため、各種施策を実行します。(熊谷さだとし・基本政策より)


という、4年で一人当たり平均50万の所得アップの公約を掲げたのだが、
これが現実的ではないという印象を抱かれ、府民にそっぽを向かれた。

いや、府内総生産が全国第2位なんだから平均所得も全国第2位を目指す
というのは別におかしなことじゃないし、それくらいの目標を達成することが
出来なければ、いづれ大阪府が財政再建団体に転落することになるのは
避けられないと思うのだが。そんなに駄目かなあ、そういう努力目標を立てる
ことは。この公約を叩いていた人は、もしかして「一人当たり平均50万」
の“平均”をすっ飛ばして、「一人当たり50万」と受け止めていたんじゃ
ないだろうかという疑問も。だとすれば、それは確かに不可能だ。
いや、そこまで間抜けな人は余りいないと思うけど。

結局は精神論なのだろう。

精神論という名前の無い宗教で国中が覆われている日本に於いて、
甘いイメージが付加されたものはただそれだけで悪のレッテルが貼られる。
特に大阪という、少しでも気を抜けばその隙にどん底に蹴落とされかねない
世知辛い土地柄で生活してきた者達からすれば、「4か年で一人当たり
平均50万アップ」なんて甘い言葉は悪徳商法の罠以外の何物でもない様に
思えたのかもしれない。

それよりも、彼を支持した人達は「自分たちの給料を削るのか、無駄遣い
を減らすのか。知恵の使い方が府庁職員の腕の見せどころだ」みたいな
“厳しさ”をイメージさせる精神論の方に夢を感じたのだろう。なんせ
精神論では、精神の力は無限に強固で無限に溢れ出るものであり、
意志によってその力を上手く発揮することさえ出来れば誰もが最低限の
幸せを獲得することが出来るという、物理法則から切り離れた一種の無限性
を感じさせる魅力を持っているのだから。精神論的にはそういった厳しさを
イメージさせる方がむしろ“甘く(苦しんだ者ほど報われる説)”感じた
のかもしれない。勿論、本当は物理法則から逃れられる訳もなく、
今更幾ら無駄遣いを減らして職員の給料を削ったからといって
「府債ゼロ」なんて出来る筈もないのだが。

だが、実際により具体的で非現実的な「府債ゼロ」という「嘘の公約」で
「緊縮財政の橋下」というイメージを勝ち取った橋下氏。

そして、より抽象的で夢のある一人当たり平均所得50万円アップという
努力目標を語って、現実的ではないことを言う「嘘つき」だと思われた熊谷氏。

全く皮肉な結果となった。


もしかしたらまだ続く…、のかも。

(2/4追記) ただし、所得アップを「公約」として掲げた熊谷氏の行為はやはり
問題があったと言わざるを得ない。自分がここでそれを「努力目標」と言ったのも、
それが明らかに不可能であるという前提が既に頭の中にあるからであって、やはり
それも「府債ゼロ」と同じく公約違反になることが予め決まっていたということでは
相違ない。実際それを言った熊谷氏自身も、日本では政治家の公約違反が当たり前
のようになっている為、府民がそれを努力目標として捉えてくれるのではないか
という甘い考えがあったのだろう。

要は、嘘の上手い下手は勿論のこと、どうせ嘘をつくのならば厳しい嘘を
ついた方が良かった(それが“善きこと”という訳ではなく、あくまで
勝ち負けを競う場に於ける戦略上での話だが)、ということなんだろうな。
まあ、どちらにせよ熊谷氏が勝利することはあり得なかったとは思うが。

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プロフィール

後正面

Author:後正面
ひきこもりという役割を引き受け
ざるを得なかった一人として
人間について考えてみる。
でも、本当はただの断末魔ブログ。

働けど無職。
-------------------------
※コメントは記事の内容(主題)に関するもののみ受け付けています。また、明らかに政治活動的な性質を持つ内容のコメントはお控え下さい(そういった性質を持つ発言は、それを許容するような姿勢を持つ一部のブログを除いて、自分のブログで行うものだというのが私の基本的な考え方です)。

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