「家族の絆(ゲンナリ)」、他
・「何度目だ、ナウシカ」から「何度目だ、時かけ」へ。
・『時をかける少女』のサブタイトルは「~いじめられっ子の屍を超えてゆけ」にするべき。それで、テーマ曲も『ゴルトベルク』じゃなくて『フーガの技法』か『音楽の捧げもの』に変更すべき。
・あのいじめられ男子の描写は、どんなグロシーンよりもエグいよ。『エルフェンリート』なんか目じゃない←いや、第一話しか見てないけど。
・つうか前にあれ(『時かけ』)を見た時、どう考えても設定に無理があるよね、と思ったの覚えている。SFとしては致命的な。でも何に無理があったのかは覚えていない。まあそんなことはどうでもいいんだろうけど、アレは。
・昔は学校が舞台になっているものを見るだけで辛かった。それが大丈夫になったのは、完全に「社会復帰(本当は社会的失敗も社会の一部なんだけどね)」を諦めて自分の死と対峙しなければならないようになってから。要するに、そっち側の世界の方がより身近になり、学校のある世界を「向こう側の世界」としてしか認識出来ないようになってからようやくその呪縛から解き放たれた。逆に言えば、そうでもないとそこからは逃れられなかった。
・つまり「時をかける少年少女達(或いはピーターパン的なそれ)」の裏には、そこ(学校生活)で一生癒えることのないダメージを背負わされた者達が多数存在しているということ。
・そしてそういう者達は、「ほろ苦い青春」というものを手に入れる一生に一度のチャンスを逃し、その代わりに「暗黒時代」を獲得する。その後幾ら人生が好転しようと、もう二度それ(青春時代)は手に入らない。
・だからあれを「鬱アニメ」として受け取る人が結構いるのね。獲得してしまったそれを思い起こさせるから。或いは二度と取り返しが付かないことを再確認させられるから。自分があれを見たのはもうそれを「向こう側の世界」としてしか感じられなくなっていた後なので、特にそれが「鬱アニメ」として機能することはなかったけど。
・自分は何度生まれ直しても同じ結果になる自信がある。なんせ、物心ついた時から既に色々とつまずいていたし。つまずきながら生まれて来たみたいなもんだ。そして周りに合わせようとすればするほど駄目になっていった。でもその時はそれが唯一の選択肢だと思っていた。だから「もしあの時ああしていれば…」とか、そういう夢すら見ることが出来ない。
・最近アニメを見ること自体がすごくしんどくなって来た。
・そういやこれって、『サマーウォーズ』の番宣の意味も兼ねて放送されてるんだよな。なんかあの予告を見ただけで反吐が出そうなんだが。いや、内容はよく知らないけど「家族の絆」とか聞いただけで吐きそうになる。マジで。
・家族ってのはさあ、もっと殺るか殺られるかの関係だったり、幾ら切り離したくても切り離せない呪いみたいなものだったり、或いは、お互いがお互いを道具として利用し合っているということを無理にでも意識することによって、それで初めてお互いを許し合えるようになるような、そういう抜き差しならない関係のことなんだよ。
・「家族の絆」とかに夢見ることが出来る人間は、それを包むオブラートを獲得していたお陰でその苦味を知らずに済んだんだろうけど、そのオブラートまでスイーツ加工するのはどうかと。いや、別にそうしてもいいんだけどさ。少なくともそのオブラートすら獲得出来なかった人間が他に沢山いるという認識くらいは持っていてくれよと。「家族の絆」とか「家族愛」とか言ってる連中は本当にそういうことに無自覚で無神経だから。
・それで「それを獲得出来なかったのはその人間の精神が未熟だったことに起因する」みたいなエハラー的世界観を押し付けてきたりするんだよな。
・まあ「家族の絆」とか「家族愛」に心酔することが出来る人間は、(その一部を形作っている)自分自身に心酔することが出来る人間だけだということです。いや、それはそれでいいんだけど、勝手に自己完結してね、と。
・もしノリピーが単騎であの逃亡劇を繰り広げたのだとすれば、幻滅よりもむしろ関心の方が上回る。ただ、実際には何らかの組織的配慮やアドバイスを受けてのものなんだろうな。
・それにしても相変わらずなんて常識的な悪魔なんだ。>デーモン小暮閣下の地獄のWEB ROCK: Aug.10.DC11:これまで余りどこでも
・というか、規範的であるからこそ「悪魔」でいることを許されているというのはあるな。
・一応書いておくと、別に自分は特別『時かけ』が嫌いというわけではない。自分が本当に腹が立つのは精神論プロパガンダ的なアニメ。って、それって日本のアニメ全般に言えることじゃないか。だからもう少し限定すると、よりそれを現実と地続きであるかのように描いているアニメと言った方がいいかな。
・『時をかける少女』のサブタイトルは「~いじめられっ子の屍を超えてゆけ」にするべき。それで、テーマ曲も『ゴルトベルク』じゃなくて『フーガの技法』か『音楽の捧げもの』に変更すべき。
・あのいじめられ男子の描写は、どんなグロシーンよりもエグいよ。『エルフェンリート』なんか目じゃない←いや、第一話しか見てないけど。
・つうか前にあれ(『時かけ』)を見た時、どう考えても設定に無理があるよね、と思ったの覚えている。SFとしては致命的な。でも何に無理があったのかは覚えていない。まあそんなことはどうでもいいんだろうけど、アレは。
・昔は学校が舞台になっているものを見るだけで辛かった。それが大丈夫になったのは、完全に「社会復帰(本当は社会的失敗も社会の一部なんだけどね)」を諦めて自分の死と対峙しなければならないようになってから。要するに、そっち側の世界の方がより身近になり、学校のある世界を「向こう側の世界」としてしか認識出来ないようになってからようやくその呪縛から解き放たれた。逆に言えば、そうでもないとそこからは逃れられなかった。
・つまり「時をかける少年少女達(或いはピーターパン的なそれ)」の裏には、そこ(学校生活)で一生癒えることのないダメージを背負わされた者達が多数存在しているということ。
・そしてそういう者達は、「ほろ苦い青春」というものを手に入れる一生に一度のチャンスを逃し、その代わりに「暗黒時代」を獲得する。その後幾ら人生が好転しようと、もう二度それ(青春時代)は手に入らない。
・だからあれを「鬱アニメ」として受け取る人が結構いるのね。獲得してしまったそれを思い起こさせるから。或いは二度と取り返しが付かないことを再確認させられるから。自分があれを見たのはもうそれを「向こう側の世界」としてしか感じられなくなっていた後なので、特にそれが「鬱アニメ」として機能することはなかったけど。
・自分は何度生まれ直しても同じ結果になる自信がある。なんせ、物心ついた時から既に色々とつまずいていたし。つまずきながら生まれて来たみたいなもんだ。そして周りに合わせようとすればするほど駄目になっていった。でもその時はそれが唯一の選択肢だと思っていた。だから「もしあの時ああしていれば…」とか、そういう夢すら見ることが出来ない。
・最近アニメを見ること自体がすごくしんどくなって来た。
・そういやこれって、『サマーウォーズ』の番宣の意味も兼ねて放送されてるんだよな。なんかあの予告を見ただけで反吐が出そうなんだが。いや、内容はよく知らないけど「家族の絆」とか聞いただけで吐きそうになる。マジで。
・家族ってのはさあ、もっと殺るか殺られるかの関係だったり、幾ら切り離したくても切り離せない呪いみたいなものだったり、或いは、お互いがお互いを道具として利用し合っているということを無理にでも意識することによって、それで初めてお互いを許し合えるようになるような、そういう抜き差しならない関係のことなんだよ。
・「家族の絆」とかに夢見ることが出来る人間は、それを包むオブラートを獲得していたお陰でその苦味を知らずに済んだんだろうけど、そのオブラートまでスイーツ加工するのはどうかと。いや、別にそうしてもいいんだけどさ。少なくともそのオブラートすら獲得出来なかった人間が他に沢山いるという認識くらいは持っていてくれよと。「家族の絆」とか「家族愛」とか言ってる連中は本当にそういうことに無自覚で無神経だから。
・それで「それを獲得出来なかったのはその人間の精神が未熟だったことに起因する」みたいなエハラー的世界観を押し付けてきたりするんだよな。
・まあ「家族の絆」とか「家族愛」に心酔することが出来る人間は、(その一部を形作っている)自分自身に心酔することが出来る人間だけだということです。いや、それはそれでいいんだけど、勝手に自己完結してね、と。
・もしノリピーが単騎であの逃亡劇を繰り広げたのだとすれば、幻滅よりもむしろ関心の方が上回る。ただ、実際には何らかの組織的配慮やアドバイスを受けてのものなんだろうな。
・それにしても相変わらずなんて常識的な悪魔なんだ。>デーモン小暮閣下の地獄のWEB ROCK: Aug.10.DC11:これまで余りどこでも
・というか、規範的であるからこそ「悪魔」でいることを許されているというのはあるな。
・一応書いておくと、別に自分は特別『時かけ』が嫌いというわけではない。自分が本当に腹が立つのは精神論プロパガンダ的なアニメ。って、それって日本のアニメ全般に言えることじゃないか。だからもう少し限定すると、よりそれを現実と地続きであるかのように描いているアニメと言った方がいいかな。
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