Win10にアップグレードしたら音飛びやノイズが入るようになった
当初気づいた不具合は――Notion4が起動できない、Windows UpdateでWindows Defenderの定義更新に失敗する、くらいだった。
しかも前者はPresonusから最新バージョンをダウンロードしてインストールし直すことですぐに解決。後者も以下のページを参考にし、パソコンを立ち上げて即座にWindows Defenderを起動し、そこから定義ファイルをアップデートしたら解決した。
日々の備忘録: Windows Defender の定義の更新でエラー その後 解決
そんなわけで、タスクバーがダサくなったり設定画面が無駄にデカかったりエクスプローラーの縁が無駄に幅を取るようになったりと疑問を抱く部分はあるものの、Win7には無かったタスクビューは便利だし、世間的には不人気なフォントもむしろ自分としては好ましく感じるし、これはWin10悪くないんじゃないの、と思い始めた矢先、Reaperでちょっと重いプラグインを立ち上げただけで酷い音飛びとノイズが入ることに気付いた。
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最初にテストした時はとりあえず適当にファイルを読み込んで再生したりHarmorとB2を立ち上げて鳴らしてみたくらいだったのでこの不具合に気付くことができなかった。しかしもう一個B2を立ち上げてオーバーサンプリング設定にし、さらにRematrixを立ち上げた程度でもうアウト。CPU消費は10%にすら届いていなくても症状が出るので、おそらくレイテンシ関連なのだろう。
しかもこれ、Reaperを立ち上げてある程度重いプラグインを立ち上げた状態でfoobar2000など別のアプリでファイルを再生した場合でも起こる。Reaperのオーディオ・デバイス設定画面を開く(――この状態だとReaperは再生できなくなる)と収まるので、どうもReaper側から悪い影響を受けているらしい。
そこでとりあえずReaperをインストールし直してみたところ、だいぶマシにはなったがやはり依然酷い状態。さらにUR28Mのドライバが一つ古いバージョンだったので入れなおしてみたが、これは何の効果もなし。以前UR28MとASIO4ALLのドライバが競合してノイズが乗る症状が出たことがあったが、今回はASIO4ALLも入れていない。
それでネットで色々原因を探っていたら、Native Instrumentsがオーディオ問題を改善するためのかなり詳しい情報を提供しているのを見つけた。
オーディオ処理のためのWindows最適化 | ナレッジベース | サポート
様々な項目があるが、結論から言うと、パフォーマンス・オプションでバックグラウンドサービスを選択し、電源管理で「最小のプロセッサの状態」をデフォルトの5%から80%以上に上げると症状は改善した。特に後者の設定が重要だったらしい。
コントロールパネル->電源オプション->プラン設定の変更->詳細な電源設定の変更
しかし疑問なのは、Win7ではこのような症状は出なかったということ。考えられる可能性としては
・Win7で「最小のプロセッサの状態」項目を変更していたが忘れていて、それがWin10へのアップグレードで変更された
・Win7とWin10で電源管理の挙動が異なり、Win7で以前使用していた時のCPUの使い方をするためにはこのような設定をしなければならなくなった
・Win10はWin7よりレイテンシに関する問題が大きくなった
あたりか。
最初のケースならいいのだが、もし最後のケースが当てはまるならWin10はクソとしか言いようがないしWin7に戻すべきなのだが、さてどうなんだろう。もう面倒くさいのでできるだけ戻したくはないのだが。ロールバック時にパソコンがおかしくなったという話もよく聞くし。
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尚、「最小のプロセッサの状態」をそれぞれ5%,50%,100%に変更した時のクロック周波数をタスクマネージャで見てみると以下のようになった(core i7 4770K 3.50GHz)。
5%↓
50%↓
100%↓
そういえば、以前からずっと気になっていたIzotopeのIris2が$49で投げ売りされていたので買ったが、これが凄まじく重かった。CPU消費だけならBazilleなんかの方がさらに重いが、これの場合、CPUをそれほど消費していなくても「最小のプロセッサ」を100%にしておかないとすぐにノイズ化しだす。それさえなければ間違いなくベストバイだったのだが。
菅野完氏のミソジニー原因説記事について
日本会議の名を一躍世間に知らしめ、それによって己の名も上げた菅野完氏によるこの記事は、掲載当初から大きな反響を集め、ほぼ無批判で受け入れられた。しかしこの記事で用いられた手法には問題のあるものが多い。以下、それについて一つ一つ述べていく。
【目次】
▼(1)免罪の可能性と憶測に基づく私刑の誘導
▼(2)自意識批判という中傷、属性批判という絨毯爆撃
▼(3)飴と鞭を背後に忍ばせた二分法
▼(4)基本的人権(個人の尊重)問題の対立化
▼(5)強さの理由
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▼(1)免罪の可能性と憶測に基づく私刑の誘導
しかし菅野氏が攻撃ターゲットとする左派系メディアとやらは、かねてから男女平等を訴えてきたため、日本会議に親和性のあるような人達から散々「フェミ」云々と言われ叩かれてきたのではないか。夫婦別姓という選択肢があることを菅野氏よりずっと早くから訴えてきたのが彼らではなかったか。そしてもしその記者が所属する出版社やその者自身がこれまで女性や子供の権利に関する記事を書いてきたとするなら、それこそこんな説に納得できるはずはないだろう。「日本会議は、とりわけ細川内閣誕生以来、『壮大なる反対運動団体』になってるんです。曰く、『男女共同参画反対』『慰安婦報道反対』『夫婦別姓反対』『性教育反対』と。(中略)
「男女共同参画にしても、慰安婦報道にしても、夫婦別姓にしても、性教育にしても、全部、『女子供』の話です。これ、皆さん方、メディアの人々も、そしてその需要サイドである我々社会も、最もバカにする分野の話ですよね?」と念を押す。(中略)
ここまで話すると、女性記者と30代以下の記者と外国メディアの記者は本当に見事なまでに、「あああ!!目からうろこが落ちた!」という顔をされる。しかし、おっさん記者は全然気づかない。(中略)
最後まで理解しないのは、左派系メディアのおっさん記者だけでなく、週刊誌メディアの人の中にもたまにいる。前者の場合は、「いや、そんなことはない、自民党は国家神道の復活を目指しており。。。」とか明後日なことを言う。後者は、最後まで「それの何が悪いの?」って顔をしている。
週刊誌メディアの人が最後まで理解できないのは、職業柄だから仕方ないと思う。だってそういうメディアなんだから。「日本会議って『ニッポンのオッサン会議』なんすよ?」って話しても「いやー困ったな。うちはそのオッサンが客なので」って話なんでね。だから不思議なのは、左派系メディアの頑迷さ
いくら口すっぱく「右派運動って考えるのやめたらだろうでしょうね?あれは、壮大なるミソジニー運動だしマチズモ運動ですよ?」と伝えても、左の人は理解してくれない。そして最後には「だとして、だから何が問題なのか?」という。「そんなことよりも、9条ガー 国家神道がー」となる
結局これらは左派系メディアのものの見方でもオッサンのものの見方でもなく、全て菅野氏自身によるものの見方ではないのか。「慰安婦報道でさえそうですよね?慰安婦報道は、どちらのサイドからのものであれ、『論争報道』になっている。『日本の言い分が正しい。いや韓国が正しい』と。しかしこれ、完全に『女性の人権』って観点抜けてますよね?そういう報道ないですよね?」と。
今話したようことを、資料も見せ、エビデンスを見せ、連中が書いた雑誌記事などを並べてみても、40代以上の左派系メディアの人々は、「そんなことはない!!!!戦争やりたがってるんだよ!!!!」と意固地になって聞く耳を持たない。(中略)
2年前の僕ならこの理屈に気づけなかった。自分がいかにクソか、自分がいかに人を傷つけるかを直視せざるをえなくなり、自分を変えようと、持ち金全部はたいて、カウンセリングに通い、病院に通い、専門家に助けを求めたから、自分のミソジニーを理解できた
慰安婦問題が女性の人権問題であるなんてのは大前提の話だろう。しかしそれを日韓の対立としてしか見ていなかった人間からは、その視点が恰も目新しいものであるかのように映る。
慰安婦は許されない、女性の人権侵害だとかいうけどさ ... - Yahoo!知恵袋
というか、「『女性の人権』って観点」が抜けた報道をしていたら、そのことで叩かれるはずもないだろう。エビデンス云々と言うなら、左派系メディアとやらがこれらを「最もバカにする分野」として扱ってきたことこそ立証してみせるべきだろう。
一方で、これが菅野氏自身のものの見方であるという説には「需要サイドである我々社会も、最もバカにする分野」「自分がいかに人を傷つけるかを直視せざるをえなくなり」といった、彼自身の発言によるエビデンスがある。重要なのは、これはあくまで菅野氏自身のメンタリティであって、「オッサンのメンタリティ」ではないということだ。菅野氏はオッサンだが、かといってオッサンが彼と同じようなものの見方をしているとは限らない。ごく当たり前のことだ。
とすれば話がかみ合わないのは当然だ。何故なら、こういった問題を以前から気にかけてきた側はこれらを「最もバカにする分野」などと見ているはずがないのだから。
これに関してもそうだ。散々バカにされながらも「日の丸君が代」や体罰の問題を取り上げ続けてきた側はそれをよく覚えているが、いじめを行った側が往々にしてそれを直ぐ忘れてしまうように、バカにしてきた側は直ぐに忘れてしまう。「ここ10年ほど、日本会議が主要な行動フィールドとしているのは、学校現場です。性教育反対しかり、親学しかり、江戸しぐさしかり、そして日の丸君が代しかり。しかし『子供の話』として、これをどこか軽く扱ってるところありませんか?」と。(中略)もしあのまま行ってたら僕は、今頃日本会議のイベントで君が代歌ってるだろう。
つまりここには、菅野氏自身がそうだったように、散々女性や子供の権利を軽んじる見方をしてきた人達が、女性や子供の権利を軽んじる発言を殆どせず、尚且つそれらの権利向上を訴えるような記事を書いてきた人達にミソジニーとレッテルを貼り、攻撃を行っている、という可能性がある。
菅野氏の主張に同意し、彼と一緒になって記者やその者が持つ属性を攻撃している人達は、そういった免罪の可能性は鑑みなかったのだろうか。何しろこの主張の根拠は彼自身の個人的体験と感覚のみだ。そんな理由で罪をきせられ罰を与えられたのではたまったものではない。具体的な名称は出していないものの、これは憶測に基づく私刑の誘導であり、個人の権利の侵害ではないか。
▼(2)自意識批判という中傷、属性批判という絨毯爆撃
しかしなぜこんな雑な主張が出てきたのか。菅野氏ばりに憶測を働かせてみるなら、そもそも右翼と証する彼が本来なら必要のない左翼・右翼という対立をわざわざねじ込んでいることからして、実は彼の興味の中心は左翼退治であり、そのダシのために女性や子供が持ち出されただけだからではないか、という疑念が頭をもたげる。
戦前において女性や子供の権利が大きく制限されていたということは、少なくとも義務教育を受けた人間なら誰でも知っている常識だろう。育鵬社の教科書が採択されている学校ではどうか知らないが。というより、戦前の日本の秩序の特徴としてまず持ち出されるのがそれだったはずだ。女性には選挙権がないとかね。つまり、「戦前回帰」は女性や子供の権利の制限を内包するわけで、それらを対立軸としておく事自体が誤りだ。「戦前回帰」とかさ、そういう陰謀論みたいな話
そもそも以下の記事にもあるように、『家族条項』を「女だけの問題」にするのは矮小化だろう。「と、考えると、彼らが今改憲議論で、『緊急事態条項』と『家族条項』にこだわる理由もわかるでしょ?緊急時には女子供はすっこんどれと。家族の言うことを聞けと。」と。
憲法24条を「女だけの問題」にしてはいけない(深澤真紀)
「女だけの問題」として見ることはむしろ日本会議を利するだけだ。それは『緊急事態条項』でも同じことだろう。
要するに、「左派」と「陰謀論」という言葉を結び付けたいという欲を押さえられなかったからこそ、そちらをメインに置いているからこそ、こういった明確な瑕疵を持つ理屈を持ち出さざるを得なかったのではないか。
もちろんそれは下衆の勘ぐりである。ただ一つ確かなのは、属性偏重主義を取らなければこういった結論にはならなかったということだ。
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もし本当に女性や子供の権利が軽んじられることを問題だと思うなら、実際に行われたそういう発言を一つ一つ拾い、それを根拠にその者を批判していけばいいだけだろう。その記者や左派系メディアを批判したければ、実際に彼らが行ったそれを論拠にして批判すればいいだけだ。
そこには妙な憶測など必要なければ、ミソジニー批判、メンタリティ批判などといったものも必要ない。何故なら重要なのはその者の内心ではなく、実際に行われた行為だからだ。幾ら女性を蔑んでいても、実際にそのような行為を表に出さない限りは何ら問題はない。これは内心の自由という基本中の基本だ。「日本会議は小さい。しかし、彼らがレペゼンしてるのは『ニッポンのオッサンのメンタリティ』。国粋主義でも宗教でもない。あなたにもそしてこんな偉そうなことを言ってる僕の中にもあるかもしれないドロドロとしたミソジニーをレペゼンしてるんだから、強いんです」
それ以前に、そもそも他人の自意識なんて誰にも分からないはずだろう。当人ですらよく分からないのだから。それをこうであると決め付け、それを根拠として批判する行為は、端的に言って中傷である。結局のところ、この世に存在するありとあらゆる自意識批判は内容的に、私の魂はあの者達のそれよりも位が高い、というアピールのバリエーションでしかない。それに乗っかることで飴は手に入るかもしれないが、誰かの権利を守るためには全く不要なものだ。
同時に、オッサンとか左派とか、特定の属性でまとめて不特定多数をぶっ叩く必要性もどこにもない。それどころかこういった属性攻撃とは絨毯爆撃に他ならない。それが個人の権利を踏みにじるものでもあることは言うまでもないだろう。
そしてそういった属性偏重主義を貫くが故に個人の権利が軽視され侵害されていくというこういった成り行きは、正に日本会議がこれまでやってきたことと同じではないのか。
実際ここで行われているのは――以前キモオタであることを理由にこんな嫌がらせをされた。その人物は女性という属性を持っていた。別の場所である女性が言及して欲しい問題に言及してくれなかった。それを誰かは男性への差別的意識からだと言っている。やっぱり女性と言うのはそういうものなのか。酷い、オバサンは酷い――みたいなものと全く変わらない。
「自分がいかにクソか、自分がいかに人を傷つけるかを直視せざるをえなくなり、自分を変えようと、持ち金全部はたいて、カウンセリングに通い、病院に通い、専門家に助けを求めたから、自分のミソジニーを理解できた」らしいが、属性批判から脱することができず、叩く属性を変えただけではそれを克服できたとは言えないだろう。それでは「傷つける」対象を変更しただけだ。
▼(3)飴と鞭を背後に忍ばせた二分法
そもそも問題の根本は、全ての者に等しく与えられるはずの権利が特定の属性を備えていることを理由に制限されてしまう、或いはその権利自体が否定されてしまう、ということのはずだ。それはつまり基本的人権の否定であり、個人の尊重の否定である。
即ち本来ならそれを重んじるか否かの問題が、あたかも特定の属性と属性との対立であるかのように摩り替えられてしまう。それこそがこういった問題をさらに深刻なものにしているのではないか。
なのに何故そこでさらなる対立を再生産しようとするのだろうか。何故属性攻撃に対し、属性攻撃で応じなければならないのだろうか。それは基本的人権は守られるべきだ、という人達を分断してしまうことにもなりかねないのに。
「オッサンのメンタリティ」とここで表現される問題も、その本質は、権限を持った者が自身の趣味趣向に合わせて個々人の権利を制限してしまうことだろう。これは性別に関係なく生じる現象のはずだ。そう考えると、日本会議を支持する女性達は必ずしも自縄自縛でそれをしているとは断定できなくなる。単に自身の趣向に合ったライフスタイルを他人に強要しているだけ、という見方もできるからだ。
もちろん、何故女性支持者がいるのか?という問いに、彼らは名誉男性だから、という答えを見出している人がいるように、「名誉何々」的な枠組みが機能していることも否定はできない。しかしだとすれば、この説に乗っかって女性の側に立つ男性は正にその裏返しとしての名誉女性的性質を持つことによってその場での立場を確保していることになる。
実際オッサンはここで彼の持論に乗っかって名誉女性的振る舞いをしなければ、その者が普段女性や子供の権利問題にどのような態度を取っているかに関係なく叩かれそうな雰囲気だ。
菅野氏のこれなど正に名誉女性の振る舞いそのものではないか。一方、自説に同意しない記者はミソジニーのレッテルを貼られ、見せしめとして叩かれる。僕の講演の最後2分間は、「女子供の話だとバカにした結果、女子供の話を真剣に弄る人らが改憲勢力の首魁になった。だから24条なんですよ!女子供の話だとこれ以上バカにするのをやめましょう」と絶叫して終わる。
そういった恐怖、或いは自身が嫌いな属性を叩くことができるという飴を後ろにチラつかせた二分法で反論を封じ、物事をある方向へと誘導しようとするような手法が効果を発揮するからこそ「名誉何々」問題が生じるわけであり、それを問題とするならこのような手法に乗っかるべきではないだろう。
そしてそれはくしくもあの手の人達が愛国者であるか反日・在日であるかを何らかの選択と紐付けして判定するやり方そのものでもある。
女性や子供の権利を守るにしても、それは女性や子供という属性の力を強めることではなく、属性に囚われない個人の権利を守ることだろう。だが個人の権利を抑圧するこういった手法を肯定し、一般化していくなら、当然別の場所で同じ手法を用いてその権利が抑圧される可能性も高まっていくことになるだろう。
▼(4)基本的人権(個人の尊重)問題の対立化
この説のもっともらしさは「オッサン」を権力を持った存在として捉えているからこそ成り立っているのではないか。だが菅野氏が己のメンタリティを「オッサンのメンタリティ」と摩り替えたように、属性闘争になればそれが底辺の何の権限も持たないオッサンのそれに摩り替えられることになるのは必定だろう。
――突然よく分からない場所に連れて行かれ、帰りは自分でバスで帰ってくださいと言われる。大した説明も受けないまま仕事が始まり、どう考えても一人では捌き切れない量の作業を押し付けられ、捌き切ろうとすると数量確認がおろそかなってバイトのオバちゃんからどやされ、確認作業を重視すると社員から文句を言われる。それがマラソンのように絶え間なく続く。もちろんほぼ最低賃金だ。
「○○君はウチのエースやからな!」と社員からおだてられていた人が、明日仕事があるかないかわからない、人の都合がついたら仕事は無いが、そうでなければ出勤になるので気が休まらない、と愚痴をこぼす。
派遣事務所の女性社員から、○○さん、次の一週間お休みです~。と告げられる。その結果夜勤にもかかわらず月給13万。もちろん、年金や社会保険料は未払いの状態でそれだ。それが一ヶ月おきに続く。そして6ヶ月未満で切られる。なぜならそれ以上勤めると有給が付いてしまうからだ。そしてそうやって辞めて行ったはずの人が、また二ヵ月後くらいに呼び戻されていたりする。
底辺では一ヶ月更新などザラだ。どんな理由があろうと、もし働けなくなったら男も女も平等に切られる。というか向こうの勝手な都合で一ヶ月経ってもいないのに辞めさせられたりもする。もちろん自己都合退職だ。嘘だけど。そして後からやってくる人やってくる人皆何らかの問題を抱えていて一週間ほどで入れ替わっていき、そもそも何故あの人を辞めさせたんだ?一番マシだったのに、ということになったり。
底辺では凄まじい轟音が鳴り響いている現場も多い。一度イヤーマフを付け忘れてしまったが故に、聴力を大幅に失ってしまった、なんてこともある。もちろんそういった現場でも特別な手当などつかない。そもそも底辺のオッサンは年収200万にさえ中々届かない。
――こういう状況に身を置いているオッサンは幾らでもいる。オッサンという属性が持つ神通力などこの程度のものだ。
ここで属性闘争に乗っかっている女性は、そういうオッサンと同じ権利を与えられ、同じような状況へ押し込まれて満足できるのだろうか。或いは今似たような状況であがいている女性の皆さんは、菅野運動によってもたらされる、「女性」或いは「オッサン」に対する「オバサン」という属性への魔法効果を武器にしてそこから這い上がることが出来る自信はあるだろうか。
もちろんそれに乗っかった以上、這い上がれなくてもオッサンと同じ権利が与えられていればそれは自己責任として処理されることになるだろう。
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問題の属性闘争へのすり替えは、全く新しいものでもなんでもない。近年では貧困問題が世代間闘争へと摩り替えられたのが記憶に新しい。さらに言えば、そもそもこういったものは日本会議に親和性の高そうな人達が以前から重宝してきた手法だったのではないか。先に挙げた知恵袋のページなどはその典型だ。
慰安婦は許されない、女性の人権侵害だとかいうけどさ ... - Yahoo!知恵袋
そして結果行き着くのがこういう場所だ。基本的人権/個人の権利は属性にかかわらず設定される絶対的なものだが、属性と属性の権利の引っ張り合いは相対的なものとなる。そういうものに変質させてしまった以上、必然的に権利の底はなくなる。そしてもっと酷い人もいる、ということでお互いドンドン下へと引っ張り合いすることになる。これこそ属性闘争の醍醐味と言える。よく考えてほしいわ。
行けば(ほぼ)必ず死ぬってわかってる戦場へ行かせられる。
なのに男は何一つ文句も言わずに黙ってた。
今でも死に物狂いで帰ってこれた元兵士も黙ってる。
そのことで
「無慈悲に戦争に行かされた!男の人権侵害だ!!」
なんていうやつが一人でもいたか?!
言ってないだろ?
きっと言いたいことは山ほどあるはずなのに、何一つ文句言わずに今でも我慢してる。
文句言うのは決まって女ばっかり。
またこういった摩り替えは、「権利には義務が伴う」「本当に助けが必要な人とそうでない人」という対立関係に置き換えられることも多い。杉田水脈氏が「保育園落ちた、日本死ね。」をそのような手法で批判しているのは正に象徴的だ。
【杉田水脈のなでしこリポート(8)】「保育園落ちた、日本 ... - 産経ニュース
本来どちらかが重んじられればどちらかが軽んじられるようなものではないはずの問題を属性や条件で分断し、対立化させてしまうとこういうことになるのは必然と言える。「保育園落ちた」ということは「あなたよりも必要度の高い人がいた」というだけのこと。言い換えれば「あなたは必要度が低いので自分で何とかしなさい」ということなのです。(中略)この問題が起きた直後に山田宏前衆議院議員が「生んだのはあなたでしょう、親の責任でしょ、と言いたい」と発言しました。私はもっともな発言だと思った
『家族条項』に関しても、その本質は女性の権利がどうこうというより、個人の権利の制限や政府の責任放棄が目的だろう。
つまり重要なのは属性に伴う権利ではなく、全ての者に無条件に適用される、個々人に応じた権利であり、そのためには属性や条件による対立は極力避けねばならない。ところがあの記事ではひたすら対立が煽られている。
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それに加え、普段ヘイトスピーチはいけない、と言っていた人達からこういった属性批判への批判が出てこないのも妙な話だ。対象とされている属性がマイノリティではないからだろうか。しかしならばそれはマイノリティでない人達と対立することを意味する。そしてそのような枠組みでマイノリティが何らかの権利を得たとしても、それは属性に左右されない共通ルールに基づいたものではなく、対立する多数派属性の温情によってもたらされたもの、という性質も漏れなく付いてくることになるが、それでいいのだろうか。
▼(5)強さの理由
基本的人権/個人の尊重の問題を対立化させて分断。自意識批判という中傷、属性批判という絨毯爆撃。それらによる恐怖と飴を後ろに備えた二分法を用い、憶測を根拠とした私刑へと誘導する。
あの記事はそういった多くの問題を抱えている。しかしそういった内容を持つ菅野氏の記事に寄せられたのは、絶え間ない賞賛と喝采の荒らしだった。属性偏重主義に個人の権利は飲み込まれ、免罪や私刑への懸念も消し飛んでしまった。普段はそれらを非常に重んじているはずのコミュニティでさえ。
既に述べたように、こういった手法は日本会議周辺においても重宝されてきたものだろう。そういったことから鑑みるに、日本会議の強さとはミソジニーなどではなく、むしろこういった仕組みにこそあるのではないか。
よく考えてみれば、日本に限らず近年大きな求心力を得た人達は皆こういう手法を巧みに用いていたのではないか。
つまり、同じような構造を持ったシステムが、別の文化圏では中身だけが入れ替わって首尾よく機能していた。そして今回菅野氏の記事に起こったのと同じような熱狂が別の場所でも起こり続けている。そういう話なのではないか。
そう考えると日本会議が急に身近な存在に感じられてくるのではないか。少なくともオッサンの自意識に潜むミソジニーによる陰謀、というパラサイト・イヴみたいな話よりもずっと明快だろう。何より実際にそれらの手法が用いられているか否か外部から確認可能なわけだから。
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「基本的人権」や「個人の尊重」という言葉が鼻で笑われるような社会において、手っ取り早く世の中を変えることができそうなこの手の対立構造が変化を望む人達にウケるのは理解できなくはない。
とはいえ、それはこれまでもずっと行われてきたことであり、そういった対立構造における争いの上に現状があると考えるのが妥当だろう。そしてそれが機能すればするほど、その性質上、その分だけ個人の権利もまた抑圧されることになる。
結局、基本的人権や個人の尊重の問題において、こうすれば劇的に改善する、というような特効薬はない。しかしながら、それを抑圧している自意識批判や属性批判といった性質の悪い手法を真面目な議論から追い出すことは可能なはずだ。
そういったレッテル貼りに頼らずちゃんと論拠を挙げて何かを述べるということは、当たり前のようでいてわりと難しい。それ故それらはそういう技能を持たない者達にも発言権を確保するという、言論のバリアフリーとしての側面も持っている。とはいえそれは、こういった手法を今のように野放図にのさばらせておく理由にはならないだろう。
真の似非セレブ
別に見栄を張っているわけではなく、品物をまとめる丈夫な紙袋として使っている可能性もあるだろう。◆資産価値もブランド力も健在だが、暴走族や新規住民との確執が…(中略)
また土地柄ゆえ自尊心が強く、それは主婦同士の見えの張り合いにも表れるという。普通のスーパーで買い物をした際、わざわざ高級スーパーである「ikariスーパー」の袋に詰めて持ち帰る強者もいるとのこと。
「真の豊中市民はそんなことをしないので、仲間内では“エセセレブ”と呼んでいます」
それに豊中や箕面に特別なブランド価値があるなんて思っている大阪人なんて殆どいないのではないか。
そもそも金だけでなく知名度もなければセレブとは言わないので、むしろ金を持っているだけで自分達がセレブだと思っているこういう人達こそが真の似非セレブと言える※。
地元の名士、というのはあるかもしれないが、それも一歩外に出たらセレブでもなんでもないわけで。それがこうやって全国に向けて発信されてしまうと、会社の外に出て「俺は部長だぞ!」と言っているのと似たような滑稽さがにじみ出てしまう。そんなもん知らんがな、という。
※日本ではいつの間にか本来の意味ではなく単なる金持ちをセレブと呼ぶような風習が出来ているようなところもある。しかしIkariの袋を見栄を張って使うことが恥ずかしいことなら、単なる金持ちが著名人を気取るそういう風潮もまた恥ずかしいことになるだろう。
全体主義でないという誇り
この話題に関しては既に、オリンピック競技は選手・チーム間の競争であり国家間の競争と見なすのはオリンピック憲章に反する※、そういう人間が組織委員会の会長を務めるのはどうなのか、とか、独唱の意味も分からないのか、といったようなツッコミが入っているが、それらとは別の視点として。「どうしてみんなそろって国歌を歌わないのでしょうか」と問いかけ、サッカー女子の澤穂希さんや、ラグビーの五郎丸歩選手が君が代を歌い、その様子を見て国民が感動した、と述べた。「口をモゴモゴしているだけじゃなくて、声を大きく上げ、表彰台に立ったら、国歌を歌ってください」と選手団に呼びかけた。
場内ではみんなで声を合わせて歌う「斉唱」ではなく「国歌独唱」とアナウンスされ、ステージ上のモニターにも「国歌独唱」と表示されていた。
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全体主義では皆でマスゲームの完成度を高めていくことは誇りとなるだろう。一方、自由主義・個人主義では各々が個別にそれに組するか否かを判断することこそが誇りとなる。
つまり、仮に愛国的視点から見た場合でも、日本を全体主義国家として見ているか自由主義国家として見ているかで為すべき振る舞いは変わってくるわけだ。よって国歌を歌わないことをもってして愛国的でないなどと言うことはできない。
そもそも、ただ国歌を歌うか歌わないかというような条件だけで選別された「仲間」ほど下らなく脆いものはないのではないか。そんな絆が生み出せるのはせいぜい後ろ弾くらいのものだろう。
※JOC - オリンピズム | オリンピズムってなんだろう 第3回
国旗を掲げたり国歌を演奏したりするのはあくまで選手のためであり、間違っても森氏のような人達を感動させるためではない、と(国別のメダルランキング表が禁じられているというのはIOCとOCOGが、ということ)。オリンピックは国同士の競争ではなくて、その競技に出場する選手やチーム同士の競争です、と定めているんだ。
でも、表彰式では勝った選手の国の国旗をかかげたり、国歌を演奏したりしているよ。
それは、メダルを獲得した選手たちをたたえるための、ひとつの方法としてやっているんだ。お父さんも含めて、みんなはメダルの数を国別で数えたりして、ついついオリンピックを国同士の競争のように見てしまいがちだろう? でも、オリンピックで勝利をおさめた栄誉は、あくまでも選手たちのものだとオリンピック憲章では定めていて、国別のメダルランキング表の作成を禁じているんだよ。
因みに森氏の 「国歌を歌えないような選手は日本の代表ではない」という主張は政治的見解による差別に他ならず、IOC 倫理規程の以下の条文にも反している。
IOC倫理規程 Ethics 2012年版・英和対訳 - 日本オリンピック委員会(PDF)
参加者間に、人種、性別、種族的出身、宗教、哲学的、若しくは政治的見解、婚姻状況、
又はその他の根拠に基づき、参加者を差別することがあってはならない。
神山典士氏の『FAKE』評について
そもそもドキュメンタリーが調査報道的でないことに憤る、ということ自体妙な話だ。ドキュメンタリーは別に何かを追及することだけを目的とはしないからだ。自称超能力者を取材する時、そのトリックを暴くことを主眼とするものもあれば、その人物の人生や日常を映し出して見せることを主眼とするものもある。一言で言えばこの作品は、「中国の山奥に分け入ってジャイアントパンダの生態撮影に成功しました」という類の記録映画だった。最近では、ナレーションも音楽も挿入せず、ひたすら被写体を撮り続ける「観察映画」もあるが、この作品にもどこにも調査報道の跡はない。
そういえば昔、ニートをテーマにしたドキュメンタリーと銘打った番組で、取材者側が取材対象に、わりと強い口調で「何故働かないんですか」と再三問い詰めていたものがあり、これのどこがドキュメンタリーなんだ?と思ったことがあったが、そういうものならば神山氏も満足したのかもしれない。
何故そのような例を挙げたかというと、どうもこの記事は断罪が目的化してしまっているように見えるからだ。でないと「パンダが吠える」「 まるで甘やかされて育った「末っ子長男」の性癖そのものだ。 」(これは森氏に向けられたもの)などという、彼が信奉するはずの調査報道からは程遠い言葉が出てくるはずもない。
しかしそういったものや視点が「調査報道」や「ノンフィクション」という肩書きでパッケージングされた途端、もっともらしさや格調高さを醸し出してしまったりする。それこそ報道の抱える大きな問題点ではないか。
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以下、気になった部分を幾つか挙げてみる。
聴覚障害者が手話が終わりきる前に意図を把握したり、話の途中で既になされた質問に応えたりすることは普通にあるだろう。普段聴覚障害者がそういうことをした時、「まだ手話が終わっていませんよ」などとは言わないだろう。失礼だから。何故そのような対応を取るかと言えば、予断があるからだろう。こいつならそれをしても問題ないという考えがあるからだろう。佐村河内氏の記者会見における私の「まだ手話が終わっていませんよ」という発言も、そこだけ切り取れば「聴覚障害者を侮辱している」というイメージで解釈することもできる。だがそれは編集によって見せる角度を変えただけのイメージ操作だ。調査報道ではない。
予断を持つことは仕方がないかもしれないが、そういった予断の貫徹は本来調査報道においては最も避けねばならないものだ。また、何らかの嫌疑がかかっているからといって、その者に失礼な態度を取ったり侮辱したりしてよいというわけでもない。それもまた調査報道には不必要なものだ。
代作問題で渦中の佐村河内守さん 会見ノーカット14(14/03/07) - YouTube
実際に切り取られる前の映像も見てみたが、やはりおちょくっているようにしか見えない。イメージ操作だと言うが、他にどう解釈すればよいのだろう。そして質問自体も謝罪を求めること、すなわち断罪を目的としたものになっている。神山氏は調査報道の一環としてこの質問を行っているはずだが、しかし子供への謝罪を迫るのは一体何を調査するためのものなのだろう。そういった断罪の目的化は調査報道の姿勢に反するのではないか。
Ⅲ 佐村河内氏は「作曲」したのか ―― 委員会が確認した事実・その1(PDF)
また、記事ではBPOの調査報告から以上の部分を引用しているが、この調査報告には以下のような記述もある。「佐村河内氏には交響曲を作曲する音楽的素養や能力はなかった。(略)佐村河内氏が果たした役割は、新垣氏に楽曲のイメージ構想を指示書等で伝えるプロデューサー的なものだった。実際にメロディ、ハーモニー、リズムを作り、譜面にして曲を完成させたのは新垣氏である」
これがあるのとないのとでは印象だけでなく意味合いも変わってくる。なければ最初から作曲者を偽っていたことになるからだ(この二人の関係は、元々佐村河内氏による編曲の依頼から始まっている。話し合って共作になることもあるが、基本はメロディーを作った方が作曲のクレジットを獲得する※)。新垣氏は、この「鬼武者」までの作曲については、佐村河内氏のメロディを一部使
用しアレンジしているので、作曲者を佐村河内氏ひとりとしても問題はないだろうが、
「交響曲第1番」以降の作曲については、作曲者は自分であると主張している。
少なくとも「編集によって見せる角度を変えただけのイメージ操作」をそれ程問題とするのなら、この部分に関する補足は必須になるはずだ。しかしこの記事にはそれがない。
「なぜ他人に創作を委ねたのか?」などという質問をする必要はないだろう。あの二人が、技能のない営業と技能はあるが営業力がない技術者という関係であったことは明らかなのだから。どちらも一人では金を稼ぐことが出来なかったが故にその関係が築かれ、そしてそこから抜け出せなくなった、というだけの話だろう。そして営業の方がどんどん悪乗りしていった、と。まあ骨組み自体はわりとどこにでもある話である。さらにいえば、森監督が「主観と客観の狭間の表現で苦悩する」ジャーナリストであるならば、このシーンのあとには次の質問を用意しておくべきだった。
「自分で作曲演奏できるのに、なぜ他人に創作を委ねたのか?」、と。
まったく音楽に無知無能な者が他者に創作を委ねるならば、まだ理由もたとう。けれど仮にも4分の曲を仕上げることができる者が、なぜ他者に創作を全面依存するのか。 それは無知無能よりも愚かな、唾棄すべき「打算」以外の何者でもない。
その問いかけすら放棄するこの作品は、ジャーナリズムではない。単なるエンタテインメント作品だ。ならば冒頭に掲げた「主観か客観か」という問いは、完全に無意味だ。ここには真相や真実を問う姿勢などないのだから。
それを神山氏のように問い詰めや謝罪の強要ではなく、実際に曲を披露させて見せることで伝え、各々に判断してもらってこそのドキュメンタリーだろう。正に王道とさえ言えるやり方だ。それの一体どこが駄目なのだろう。佐村河内氏は森監督の要請により、この作品の中で自ら捨て去った凡才をここに再生しなければならなかった。ただ凡庸なだけの旋律を世間に披瀝するために――――。
そして仮に佐村河内氏が金を稼ぐほどの作曲の技能がなかったと判断したとして、その者に、何故あなたは自分で曲を作って売らないのか?などと問い詰めることに、一体ジャーナリズムとしてどのような価値があるだろうか。ジャーナリズムは基本的にエンタテインメント要素を持っているものではあるが、それこそ人が恥をかく姿を見せて人気取りをする低俗なエンタテインメントの姿そのものではないか。
大体、自分で曲を作れる者が自分より高い技能を持つ者に作品の製作を依頼することを「唾棄すべき「打算」以外の何者でもない。」とまで非難する理由は一体なんなのか?そういった「打算」が駄目ならビジネス自体できなくなる。それ自体は別に非難されるようなことではないだろう。何らかの予断がなければこんな筋の通らない言葉は出てこないはずだ。
こういったことを見ていくと、まず先に非難があり、後から理由を探してきているのではないか、という疑念が沸く。一つ確かなのは、神山氏の言う通りに作ると、非難されるべき対象が周りから詰問されたり謝罪を迫られたり恥をかかされたりする姿の撮影に成功しました、という類の記録映画になってしまうということだ。個人的にはむしろそちらの方がウンザリなのだが。
※なんでもDREAMS COME TRUEは一方がラジカセに鼻歌を吹き込み、もう一方がそれを曲として仕上げるのだが、作曲のクレジットは前者になるのだとか。もちろん人にウケるメロディーを作る才能というのはあるだろうが、少なくとも労力的に言えば後者の方が何十倍も必要になるにもかわらず、前者だけが作曲のクレジットを獲得し、それゆえ印税もそちらにだけ入るというのは余りにも不公平ではないか、と思いながらそれを聞いていたのを覚えている。
仕事は苦しくなくてはいけないという固定観念がブラック化を生む
京都府向日市のごみ収集を担当する清掃職員の大半が、所定勤務時間中にもかかわらず、市庁舎横の職場でテレビ鑑賞やゲーム、昼寝などをしていることが19日、京都新聞の取材で分かった。背景に、業務内容が勤務時間に比べて少ない実態もあり、それを市は把握しながら是正に積極的に取り組んでこなかった。市は「徐々に仕事を増やしてきたつもりだが、踏み込めていなかった」としている。――マジかよ京都新聞最低だな。
清掃職員の所定勤務時間は午前8時半~午後5時15分で、現在、アルバイトと嘱託を含めて17人いる。市や関係者によると通常、ごみ収集は午前中には終了し、それ以降の勤務時間については大型ごみ収集などを行う当番以外、犬や猫の死骸収集といった急な出動に備えて待機することになっている。
しかし、急な出動はまれで午後は仕事がない状態が少なくとも十数年、恒常化しているという。関係者の話や取材では、正午前から多くの職員が職場にこもり、携帯電話のゲームや音楽鑑賞、読書のほか、仮眠をとる状態が続いているという。
市は「今後は外部委託や事務事業の見直しを含め改善したい」としている。
これだから公務員は、みたいなことを言う人もいるが、これは別に公務員だけに限られたことではないだろう。例えば自分が以前勤めていた食品工場では、監視役の上司が実際に働くのは製品の出来の確認やトラブルなどに対処する時だけだった(まあ他にも会議などはあるだろうが)。実際裏でゲームをしていたこともあった。でもその方がよかったりする。後ろでじっと監視されていたらやりにくくて仕方がないので。
なんにせよ、これが大勢の者から叩かれているところを見て、日本の職場がブラック体質から抜けられないのは政治家や経営者だけのせいではないのだな、と改めて思った。
そもそも、直ぐに出動できる態勢さえ整っていれば、待機時間中に何をしていても仕事に支障なんてないはずだ。
消防士さんの「待機中」が知りたい! - ウォッチ | 教えて!goo
それとも消防士が待機中に「テレビを見たり、卓球をしたり」「仮眠をとる」のも批判するのだろうか。逆にごみ収集の人達のそれを批判して消防士のそれを批判しないとすれば、それは一体何故?
というか、待機中にも賃金支払い義務が生じるのはどこの民間企業でも同じはずだ。そしてもし待機中には賃金を払わなくても良いというルールが出来たら、ブラック企業は大喜びでそれを悪用するだろう。
この勤務の在り方を非効率だとして見直すにしても、ゴミ収集を午前中だけのパートにすると、小遣い稼ぎでゴミ収集をする酔狂な男性は滅多にいないだろうから、長期的に安定した人員を確保できなくなる可能性が出てくる。仮に他で仕事にありつけない人が仕方なくそこで働いたりしたら、ワーキングプアの出来上がりだ。そういうやり方は経済にとってもマイナスになる。
またそういうやり方で仮に午前の人員を確保できたとしても、午後の勤務で待機時間が生まれることには変わりはない。その時彼らがずっと「洗車」でもしていれば満足なのだろうか。
もちろん、仕事に支障が出ているのならそれは問題視されてしかるべきだろう。しかしそうでもないのにこれをことさら批判するということは、批判者は彼らに仕事の内容を求めているのではなく、単に苦しむことそのものを要求していることになる。
そもそも、ごみ収集だってゆっくりやれば午後にまで持ち越すことは可能なはずだ。よく、入力にマクロを使ったら上司に怠けていると叱責された、というような話を聞くが、これはそれと同じ類の問題と言えるだろう。正に今、大勢の人間がその上司になって彼らを叱責しているのだ。
この、仕事は苦しいものだ、いや苦しむべきものだ、という妙な固定観念は、労働環境を必要以上に悪化させる一つの大きな原因になっているのではないか。
▼ブランドとしては不人気だが、内容としてはまだまだ人気のある共産主義思想
このような批判がなぜ起こるかと言えば、あいつらだけズルい、というような気持ちがあるからだろう。
しかしもし自分の労働条件や環境に不満があるなら、もっと条件のよい仕事を探したり、自分が勤めている会社を批判したり、それと交渉したり、或いは法律の改定やその運用の仕方の改善を求めたりするべきだろう。
そしてそれは大抵利害の衝突を含む内容を持っているので、当然双方での綱の引っ張り合いになる。それが民主主義であり(其々が自己の利益を最大化しようとすることが社会に活力を与えると考える)資本主義というものだろう。
しかしこの場合、彼らを余分に苦しめたところで批判者達の労働条件・環境が良くなるわけでもなんでもない。利害が衝突しているわけでもなければ、彼らに富が集中しているわけでもない。それどころか待機中は賃金を支払わなくても良い、ということになれば、自分達にも不利益をもたらすことになる。つまり資本主義的な発想からはまず生まれ得ない批判と言える。
何故か日本では「公務員批判=社会主義・共産主義批判(即ち資本主義的)」であるかのようになっているが、むしろこの批判は、底辺に合わせることで平等化を図ろうとする共産主義的な発想の下でしか生まれてこないものなのだ(――なりたい職業ランキングにごみ収集が上がることは先ず考えられないし、実際彼らの労働条件や環境が批判者らのそれよりも恵まれているのかどうか自体疑わしいが)。
日本では表面上「共産主義=悪」ということになっている。つまりブランドとしてはそれは大変不人気なわけだ。しかしこのような批判を行う者が大勢いるということは、表面上はそれを毛嫌いしているように見えても、実は内容的にはそれに近しい思想を持っている人達が大勢いる、ということを示している。
しかもこの、内容的に共産主義的なものが「資本主義」という人気のブランドに包まれることで許容されるという、実に奇妙な現象が起こっている。このことが元々欠陥だらけの資本主義のパフォーマンスをことさら低下させているように思えてならない。
REAPER:動画に日本語テキストを挿入することが可能に
下の画像は以前説明で使用したGifにReaperでテキストを追加してみたところ。
以下、テキストの挿入方法などについて。
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REAPER:2バイト言語環境に一部ネイティブ対応
この問題に関しては、下記記事のように言語パックで設定を変更するなどの解決方法があった。
REAPER:センド画面の見切れ問題がVer5でついに解決
それがVer.5.11ではルーティング画面が2バイト言語環境にネイティブ対応となり、いちいち設定を弄る必要はなくなった。また、ReaEQとReaXcompの表示問題もこのバージョンで改善された。
↓
特にReaPlugsは言語パックで解決を図ることはできないので、普段からReaEQやReaXcompを使っている人にとってはかなりの朗報かもしれない。
ただし、解決したのはこの3つだけで、他の様々な表示問題に関しては依然として残ったままになっている。例えばReaSurroundは以下のようになっていて、まともに使用できない。
中々一度に全て解決とは行かないようだ。とはいえ一歩前進には違いない。
尚、今現在言語パックでも解決を図れない問題は、このReaSurroundとフォント関係(パフォーマンス・メータやプロジェクト・ベイなどで文字が小さくなる、プレファレンス画面で不具合が出る)、
※Ver.5.12より動画に日本語テキストを挿入することが可能になった。
REAPER:SWSサイクル・アクション・エディタ
このマクロはSWSのサイクル・アクション・エディタ(Cycle action editor)を利用して作成している。
Reaperは元々カスタム・アクションというマクロ作成機能を持っている。サイクル・アクションはそれをさらに強化したものだ。具体的には、ループ処理やトグルのオン・オフ情報をトリガーとした条件分岐、実行するたびに異なった内容の命令を処理させる機能、などを持っている。
以下はサイクル・アクション・エディタについて。
【目次】
▼(1)サイクル・アクション・エディタの使い方
▼(2)サイクル・アクションが持つ機能について
▼(3)実際の使用例
--<LOOPを用いた例>
--<Stepを用いた例>
--<CONSOLEを用いた例>
--<IF分岐とダミー・トグルを用いた例>
--<IF分岐とエクスクルーシブ・トグルを用いた例>
▼(4)最後に
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REAPER:トラックにイメージをD&Dすると…
ただしこれが出来るのはTCPのみで、MCPにD&Dしてもトラック・アイコンにはならない。
また、MCPのトラック・アイコン表示にはShow & hideのアクションが用意されているが、TCPのトラック・アイコン表示は「Remove track icon」でアイコン自体を消去するしか非表示にする方法はないようだ(ver.5.1)。