ある文化圏の常識が他の文化圏でも受け入れられるとは限らない
伊藤剛氏の「自分の知らないマンガは(どれだけ部数が出ていても)マイナーと断じる」ひとがよくいるという問題 - Togetterまとめ
メジャー/マイナーは必ずしも売り上げ部数の多寡によって決定されるというわけではないだろう。何故ならある層においてメジャーなものが、他の層でもメジャーであるとは限らないからだ。むしろこれは文化圏の問題。
もし売り上げ実績を重視する企画部署なら、単にその実績を示せば納得させることができるはずなので、むしろやり易いはずだろう。だがそれで納得させられないということは、そこで「企画を阻む」者は自身が所属する文化圏、或いは潜在的顧客層として想定している文化圏でそれが受け入れられるのは難しいと判断しているからだろう(――何故俺達を潜在的顧客層として見てくれないんだよ、という思いもあるかもしれないが、大手メディアが広告で成り立っている以上、それに合致すると看做される層にターゲットが絞られるのは現在の構造上やむを得ない)。
なので立案側は、その文化圏においてもそれが十分受け入れられる可能性があることをプレゼンしなければならない。その際、自身が所属する文化圏でそれが如何にメジャーであるかを挙げたところで、相手側にとってそれが重要な要件になるとは限らない。何故なら特定の文化圏でウケたものが他の文化圏でもウケるとは限らないからだ。
今でこそ有名になった『まどか☆マギカ』だって放送当初はあの絵柄故に回避した人は多いはず。そういった懸念を抱くことはおかしなことでもなんでもない。
また、海外では有名だが日本では殆ど知る者がいない、というようなものだって幾らでもあるだろう。海外で人気を博したからといって日本でも人気を博すとは限らないわけだ。逆もまたしかり。だから企画を通すか否かを判断する際は、そのマーケットに合うか、ということを考慮せざるを得ない。
もちろん提案を受けた側が単に世間的に知られているか否かだけで企画を通すか否かを判断しているとすれば、その人はフィルターとしてまともに機能していないということになるわけで、それを問題視するならば分かる。
だがこの議論は元々、自身の所属する文化圏において「みんながすでに知ってる」ものが他の文化圏で取り扱われないことへの不満から端を発しているものであり、多くの人々もその部分に食いついている以上、このコメントも取って付けたものにしか見えない。
実際、本当に「みんながすでに知ってる」ものだけしか扱われないことを問題視するなら、売り上げ実績があるのに扱われないことを批判する必要などないはずだ。何故ならそれは「みんながすでに知ってる」ものを扱おうという姿勢であり、まだ知られていないものが扱われる確率を下げる可能性を孕んだものでもあるからだ。
▼自身の文化圏での常識で外部と折衝するということ
さらにここにはもう一つ大きな問題が潜んでいる。
「ハガレン、ブラクラ、よつばと!」を全く知らない人なんて幾らでもいるはずだ(むしろ多数派だろう)。多くの人々にとってそれらは必ずしも知る必要がないし、実際それらがマイナーである文化圏は存在するだろう(そもそも漫画やアニメという娯楽がメジャーなものとして認知されるようになったのは最近になってからなわけで)。
にもかかわらず、ここではそれらが知られていて当然という前提で話が進められている。そしてそれらを知らないこと、それらをマイナーと判断することが断罪されている。
最初に言った通り、メジャー/マイナーは文化圏の問題だ。日本と海外の常識が異なるように、アニメ・漫画ファン内の世間的常識とそれ以外の世間的常識は異なる(もっと言えばアニメ・漫画ファン内でもメジャー/マイナーの認識は其々で異なるはずだ)。つまり「世間で有名」か否かもまた環境によって異なるわけだ。
そもそも「世間」とは概念的なものであり、何らかの妥当性を担保してくれる絶対的存在ではない。その捉え方もまた様々だ。そして今世界中で起こっている紛争を見れば分かるように、そういった様々な世間的常識が一つに統一されることは決してなく、それらは常に衝突し続けるものなのだ。
そういう普遍的事実があるにもかかわらず、自身の所属する文化圏の常識が外でも通用して当たり前であるかのような姿勢で外部との折衝に臨み、それが通用しない状況に出くわした時、その事実を相手の無知のせいと認知するなら、それこそ認知的不協和解消のための修正そのものではないか。
もし仮に奥山氏の説を採るにしても、世界中の、いや日本中に限定するにしても、そのあらゆる文化圏での常識を知った上でマイナーか否かの判断を下している者などいないため、「マイナー」という言葉を使ったことがある人は全てその修正を行っていることになる。
つまり奥山氏の説による認知的不協和解消とは全ての者に当てはまるものなのだ。よってもしその事柄を他者を批判するための論拠として用いるなら、それは奥山氏の仮説を採るにしてもやはり明確に誤りである。何故ならそれを是とするということは、自身は超越者である、と言っているのと同じことになるからだ。
結局のところ、自身が所属する文化圏での常識を他の文化圏の人達が知らないことを「無知」と断罪することが問題なのだ。
例えばDTMをやっている人間でDAWやKontakt、VSTを知らない人間はまずいないだろう。だからといって、その外の文化圏の人にそれらを知っていて当然という前提で話をするとおかしなことになるだろう。だから外の文化圏の人達と折衝する際には、自身が所属する文化圏の常識が通用しないという前提でもって臨まなければならない。
逆に自分達が所属する文化圏での常識を絶対視してしまい、その常識でもって外部と折衝しようとすれば、齟齬が生じるのは避けられないだろう。
そういった振る舞いはオタクにありがちな負の特徴の一つとして世間から疎まれてきたものでもある(――実際はオタクに限らず他の文化圏の人間も普通にそのような振る舞いを行っているのだが)。もしそういった態度を取るなら、それは周りからウザがられても仕方がないだろう。そしてそのような状況は決して相手側の無知から生じているわけではない。
というか、普通に考えて蒼樹うめや「ハガレン、ブラクラ、よつばと!」をマイナーと言っただけで無知だのなんだのと糾弾してくるような人とは関わりたくないだろう。
蒼樹うめ展、すごい人気。
しかし、これだけの実績をあげても、ことマンガに関してはメディアの側には「私が知らない作品はマイナー。視聴者・読者は誰も知らない」と言い張るひとが必ずのようにいて企画を阻む。過去にハガレン、ブラクラ、よつばと! を「誰も知らない」と言われた経験あり。
— 伊藤 剛 (@GoITO) 2015, 10月 3
メジャー/マイナーは必ずしも売り上げ部数の多寡によって決定されるというわけではないだろう。何故ならある層においてメジャーなものが、他の層でもメジャーであるとは限らないからだ。むしろこれは文化圏の問題。
もし売り上げ実績を重視する企画部署なら、単にその実績を示せば納得させることができるはずなので、むしろやり易いはずだろう。だがそれで納得させられないということは、そこで「企画を阻む」者は自身が所属する文化圏、或いは潜在的顧客層として想定している文化圏でそれが受け入れられるのは難しいと判断しているからだろう(――何故俺達を潜在的顧客層として見てくれないんだよ、という思いもあるかもしれないが、大手メディアが広告で成り立っている以上、それに合致すると看做される層にターゲットが絞られるのは現在の構造上やむを得ない)。
なので立案側は、その文化圏においてもそれが十分受け入れられる可能性があることをプレゼンしなければならない。その際、自身が所属する文化圏でそれが如何にメジャーであるかを挙げたところで、相手側にとってそれが重要な要件になるとは限らない。何故なら特定の文化圏でウケたものが他の文化圏でもウケるとは限らないからだ。
今でこそ有名になった『まどか☆マギカ』だって放送当初はあの絵柄故に回避した人は多いはず。そういった懸念を抱くことはおかしなことでもなんでもない。
また、海外では有名だが日本では殆ど知る者がいない、というようなものだって幾らでもあるだろう。海外で人気を博したからといって日本でも人気を博すとは限らないわけだ。逆もまたしかり。だから企画を通すか否かを判断する際は、そのマーケットに合うか、ということを考慮せざるを得ない。
だいいち、テレビ等の大メディアが「みんながすでに知ってる・親しんでいるもの」だけ扱おうという時点で退廃じゃないの。
— 伊藤 剛 (@GoITO) 2015, 10月 4
もちろん提案を受けた側が単に世間的に知られているか否かだけで企画を通すか否かを判断しているとすれば、その人はフィルターとしてまともに機能していないということになるわけで、それを問題視するならば分かる。
だがこの議論は元々、自身の所属する文化圏において「みんながすでに知ってる」ものが他の文化圏で取り扱われないことへの不満から端を発しているものであり、多くの人々もその部分に食いついている以上、このコメントも取って付けたものにしか見えない。
実際、本当に「みんながすでに知ってる」ものだけしか扱われないことを問題視するなら、売り上げ実績があるのに扱われないことを批判する必要などないはずだ。何故ならそれは「みんながすでに知ってる」ものを扱おうという姿勢であり、まだ知られていないものが扱われる確率を下げる可能性を孕んだものでもあるからだ。
▼自身の文化圏での常識で外部と折衝するということ
さらにここにはもう一つ大きな問題が潜んでいる。
「ハガレン、ブラクラ、よつばと!」を全く知らない人なんて幾らでもいるはずだ(むしろ多数派だろう)。多くの人々にとってそれらは必ずしも知る必要がないし、実際それらがマイナーである文化圏は存在するだろう(そもそも漫画やアニメという娯楽がメジャーなものとして認知されるようになったのは最近になってからなわけで)。
にもかかわらず、ここではそれらが知られていて当然という前提で話が進められている。そしてそれらを知らないこと、それらをマイナーと判断することが断罪されている。
奥山犛牛 @bogyu
マイナーと言い張るのは、世間で有名な作品を自分が知らないという認知的不協和を解消しようとする試みだね。人はたいてい「私がそれを知らないのは無知だからではなく、知る価値のない情報だからだ」と考えるものだ。
最初に言った通り、メジャー/マイナーは文化圏の問題だ。日本と海外の常識が異なるように、アニメ・漫画ファン内の世間的常識とそれ以外の世間的常識は異なる(もっと言えばアニメ・漫画ファン内でもメジャー/マイナーの認識は其々で異なるはずだ)。つまり「世間で有名」か否かもまた環境によって異なるわけだ。
そもそも「世間」とは概念的なものであり、何らかの妥当性を担保してくれる絶対的存在ではない。その捉え方もまた様々だ。そして今世界中で起こっている紛争を見れば分かるように、そういった様々な世間的常識が一つに統一されることは決してなく、それらは常に衝突し続けるものなのだ。
そういう普遍的事実があるにもかかわらず、自身の所属する文化圏の常識が外でも通用して当たり前であるかのような姿勢で外部との折衝に臨み、それが通用しない状況に出くわした時、その事実を相手の無知のせいと認知するなら、それこそ認知的不協和解消のための修正そのものではないか。
もし仮に奥山氏の説を採るにしても、世界中の、いや日本中に限定するにしても、そのあらゆる文化圏での常識を知った上でマイナーか否かの判断を下している者などいないため、「マイナー」という言葉を使ったことがある人は全てその修正を行っていることになる。
つまり奥山氏の説による認知的不協和解消とは全ての者に当てはまるものなのだ。よってもしその事柄を他者を批判するための論拠として用いるなら、それは奥山氏の仮説を採るにしてもやはり明確に誤りである。何故ならそれを是とするということは、自身は超越者である、と言っているのと同じことになるからだ。
結局のところ、自身が所属する文化圏での常識を他の文化圏の人達が知らないことを「無知」と断罪することが問題なのだ。
例えばDTMをやっている人間でDAWやKontakt、VSTを知らない人間はまずいないだろう。だからといって、その外の文化圏の人にそれらを知っていて当然という前提で話をするとおかしなことになるだろう。だから外の文化圏の人達と折衝する際には、自身が所属する文化圏の常識が通用しないという前提でもって臨まなければならない。
逆に自分達が所属する文化圏での常識を絶対視してしまい、その常識でもって外部と折衝しようとすれば、齟齬が生じるのは避けられないだろう。
そういった振る舞いはオタクにありがちな負の特徴の一つとして世間から疎まれてきたものでもある(――実際はオタクに限らず他の文化圏の人間も普通にそのような振る舞いを行っているのだが)。もしそういった態度を取るなら、それは周りからウザがられても仕方がないだろう。そしてそのような状況は決して相手側の無知から生じているわけではない。
というか、普通に考えて蒼樹うめや「ハガレン、ブラクラ、よつばと!」をマイナーと言っただけで無知だのなんだのと糾弾してくるような人とは関わりたくないだろう。