誤った二分法を用いた批判の禁止について
政権批判とは主に以下の記事にあるようなイスラム国に敵対する国々への資金援助やそこで行われた声明に関してのものだろう。
「軍事援助」か「人道援助」か?:「イスラム国」に付け入られた言葉 - ハフィントンポスト
「イスラム国」側に、湯川遥菜さん(42)は昨年8月、後藤健二さん(47)は同11月以降に拘束され、1月20日に突然、「イスラム国」側が2人を人質にして身代金を要求した。安倍首相が3日前の1月17日に訪問先のエジプトで行った政策演説を待っていたかのような動きだった。(中略)
援助の目的は、日本語ではイラク、シリアの難民・避難民に向けて「ISILがもたらす脅威を少しでも食い止めるため」、英語ではto help curb the threat ISIL poses となっている。英語の方がやや強く、逐語的には、ISIL がもたらす脅威を抑制するのを助けるため、と訳せる。
いずれにしてもISの「脅威」に対する対応策である。ISはテロ組織を超える軍備でイラク・シリアを席巻してきた。そんな脅威に対応する助けとしての援助だから、軍事援助か、とIS側が受け取ることは十分予想できるだろう。日本は基本的に援助を非軍事に限定しているが、彼らの文化が異なることも想定する必要がある。
堂々たる人道援助だったのに、テロ組織に付け入られる隙を見せてしまったことが悔しい。(中略)
演説草稿を起案した部局と2人の人質問題を担当する部局が異なり、スピーチライターには人質問題の息詰まる状況が伝えられていなかった可能性もあるだろう。
しかし、昨年12月には、後藤健二さんの妻に約20億円もの身代金を要求するeメールがあり、外務省も状況を調査していたと伝えられる。そのさなか、首相の中東訪問を飾る大型の政策演説だった。スピーチライターが身代金要求のことを知っていたら、もう少し慎重な言葉遣いになっていただろう。「イスラム国」側から映像を通じて身代金を要求されてから、「人道支援」だと強調したが、不用意だったかもしれない。
首相「空爆でイスラム国壊滅を」 エジプト大統領と会談 :日本経済新聞
いくら中立を保つと言ったところで日本は彼らの仇敵であるアメリカの同盟国なわけで、そうである以上安倍首相のこの声明があろうがなかろうが遅かれ早かれあの手のグループに目を付けられることにはなっただろう。また日本は中東にエネルギーの多くを依存していることもあり、そこの治安改善のためにも反イスラム国目的での支援を行うのは別におかしなことではない。【ニューヨーク=永沢毅】安倍晋三首相は23日午後(日本時間24日朝)、エジプトのシシ大統領と会談し、米軍による過激派「イスラム国」掃討を目的としたシリア領内での空爆について「国際秩序全体の脅威であるイスラム国が弱体化し、壊滅につながることを期待する」と述べた。
ただその際に、あまつさえ人質が取られていることを分かっていながら何故わざわざイスラム国を刺激するような――或いは(戦いの正当性を与えるという意味で)敵に塩を送るような――物言いをしたのか、それに一体何のメリットがあるのか、ということについて疑問を持つ者が出てくるのは当然のことだろう(そもそも現実主義的立場から見ると使い道が自由である金銭による支援は人道目的か否かの区別ができないという問題もあるが)。
だがこの対応について疑問を呈すると、テロに与するのか、テロに屈するのか、テロを利用して政権批判をするな、などという言葉が返って来ることになる。
イスラム国を「利用」して安倍批判をするな! - Blogos
(向こうには向こうの正義があるのだろうがこちら側からすれば)「「誘拐」した連中が「悪」に決まってる」のは当然だ。幾ら人質の側に不用意に危険地帯に赴いてしまったという落ち度があろうと、或いは幾ら事件に対する当局の対応に不手際があろうと、それによってテログループ側の拉致・監禁・暴行・殺害等の罪が相殺されるわけではないからだ。よく考えるべきだ。だれが悪いのか?安倍さんが悪い?後藤さんが悪い?湯川さんが悪い?政府の対応が悪い?エジプトでの演説が悪い?外務省の訳が悪い?
回答を教えるのでよく聞いてほしい。悪いのは…
イスラム国を名乗るテロ集団と、本質を理解できないアナタの頭の中である。
しかし逆に、犯行の卑劣さが認定されたからといってそれによって危険地帯に出かけていった者が負う結果責任を免れられるわけでもなければ当局の不手際が相殺されるわけでもない。それらへの評価は其々別個になされるべきものだ。つまり犯行を「許しがたい暴挙」と評価すると同時にその事件における当局の対応も悪かった、と評価することは十分可能なわけだ。
だが「政権批判するな」言説ではこれらに対する評価が天秤の両端に置かれる。そしてテログループの犯行と政府の対応のどちらが悪いのか、という誤った二分法による選択を迫るのである。だから政府の対応を批判するとテログループの犯行よりも政府が悪いと主張しているかのように取られたり、或いはその悪質さを和らげるものだと捉えられ、上のような非難が飛んでくることになる。
だがこの理屈で行くと、例えば桶川ストーカー殺人事件における警察の対応も批判してはならないことになってしまう。何故なら警察批判を行うと実際に事件を起こした者の罪を和らげることになってしまうからだ。しかしそんなバカなことはないだろう。
事件を起こした者がそれについて相応しい責めを負わなければならないのは当然のこと、それと同時に警察側の事件の対応や捜査についてもまた問題がなかったか、もっと上手くできなかったのか、という検証がなされてしかるべきだ。でなければ同じ過ちを何度も繰り返すことになりかねない。しかし「政権批判するな」言説の論理を採用すると後者の検証が出来なくなり、対応の改善もできなくなってしまうのだ。
***
またそれとは別に、「政権批判をするな」と言う言葉が出てくること自体が既に妙だ、という問題もある。というのも、資金援助や声明を問題視する言説がありそれに異議を唱えるなら、それらの必要性を説けばよいだけだからだ。
そこで「政権批判をするな」と言ってしまうとその主張は政策ではなく政権闘争としての性質を持つものになってしまう。だが「政権批判をするな」の正当性は政権闘争にするな、ということだろう。つまりそれは自己言及になってしまうのだ。
もちろん政府を批判する側にもまた単なる政権闘争としての性質を持つ言説は多々あったことだろう。ただその場合もその批判が誤りであることを示せばよいだけの話であり、批判自体を禁止する必要性など全くない。
というか、独裁国家でもないのに「政権批判をするな」などという言葉が飛び交うなんておかしいだろう。
自己責任は国が職務放棄や職務怠慢をしてよい理由にはならない
自己責任とは逃れえぬ結果責任についての事前警鐘であり、人質は既にその結果責任を負っている。というか結果責任である以上、誰が何と言おうともそれは負わざるを得ない。
しかし適切な情報公開を前提とした選択の自由にそのような結果責任が付きまとうように、国家には常に自国民保護のため最善をつくさなければならないという責務※1が付きまとう(もちろんそれはテロリストの言いなりになれとかそういうことではない)。そして一方における自己責任はもう一方の側たる国家が職務放棄や職務怠慢をしてよい理由にはならない。
中にはメンタルに問題を抱えた人が妙な行動をとって面倒な事件に巻き込まれるなんてことも起こってくるだろう。だがそういった問題に対処するのもまた国家の仕事なのだ。そしてそれは、「現実は厳しい(面倒な問題に対処しなければならない)」ということを予め分かっていながら国家を作るという選択を取った自己責任から生じた結果責任としてのものでもある。
つまり自己責任と言うならそれもまた自己責任であり、そうであるなら尚更国家の構成員たる我々もまた何らかの形でその結果責任を負わなければならないということになる。
凶悪なテロリストが存在するように、世の中は善人ばかりで構成されているわけではないのだから、人質なんて助ける必要はないといような主張が出てくるのは仕方がない。だがその根拠として自己責任を挙げるのは誤りだ。むしろそれは「自己責任なんて知るか(俺達に責任を負わせるな)」という主張と相性が良いものなのだから。
※1 もちろん全ての国家がそのような責務を負っているわけではない。だがそのような責務を負わない国家にするなら、構成員は今以上に厄介な結果責任を背負い込まなければならないことになるだろう。
2015-1-20
- 実際は草食動物の方が肉食動物より交尾に積極的な傾向があるのに人間界では逆に交尾に積極的な者を肉食系、そうでない者を草食系と言う現象、人間の実態よりイメージを重んじ勝ちである特性をよく表している。
- はてなブックマーク - 運転し続けたい - NHK クローズアップ現代
都市部に住める金持ちだけが他人事として叩けるこの状況って、金持ちだけが環境に配慮できる(配慮しないものは罰せよ)、みたいなのに似てる。
- つまようじ少年と同じくらい熱心に違法企業についても報道すればいいのにと思う。実際どうでもいいだろう、つまようじ少年なんか。
- これこれこういう理由でルールを変えた方がいいと言うなら分かるが、ガラパゴスは駄目。これからはグローバルスタンダードに合わせていかなければならない、みたいな理念でそれを変えようとするのは、生態系的な観点から見ると、これから我々島の生き物が生き残っていくためには大陸に合わせて生態系をどんどんぶっ壊して行かなければならないってことなので、革新派というよりむしろ過激派と言った方が妥当な気がする。
- 「~な奴の特長」みたいな記事よくあるけど、アレってこういう特長を持つ奴を差別しましょうぜ、以外に何か意義はあるのだろうか。
- 鬱病の治療などで認知行動療法なるものがあるが、鬱病になるような人間は日常生活で実質的な負の認知行動療法を受け続けてきた結果そうなったわけで、それをこれからも受け続けなければならない環境におかれているなら、そんなことではどうにもならないような気がするのだが、どうなんだろう。
ちゃんと論拠を挙げて批判しているのなら何の問題も無い。むしろ気にいらない言説に反論ではなく「脊髄反射」などといった中傷で応じることの方がはるかに問題。というか、なぜ「視野が広がるなあ。なるほど一理あるなあ。」と予め正しい受け取り方が規定されているんだ。ちきりんさんとか、猪子さんとか、堀江さんとか、高城剛さんとか岡田斗司夫さんといった人の発言に、完全に同意する必要は全くないんだけど、「へえ、そういう考え方もあるのか!視野が広がるなあ。なるほど一理あるなあ。」くらいの受け取れずに躍起になって脊髄反射の反論する奴って何なの?だろう。
— 田端 信太郎 (@tabbata) 2015, 1月 11
- HELIXの第一話。ウイルス学者らしき女性が防護服もなしに凶悪なウイルスを媒介している可能性のあるサルを探しに行き、それを見つけて「おいでー」と近づいて行ったら顔面に飛びつかれ、同行している男性に「傷はあるか!」と騒いでいたが、「おいでー」の失敗が顔面に飛びつかれることだとしたら、成功は一体何なんだ。
「嫌なら見るな」=「気に入らないことがあっても黙っていろ」
同番組は視聴者から「若手男性芸人が裸で抱き合ったりわいせつな行為を繰り返していた。深夜番組とはいえ限度を超えている」などの苦情を受けていた。
また、放送倫理・番組向上機構(BPO)の青少年委員会、汐見稔幸委員長も同番組について「放送基準に背馳すると思われる内容を含んでおり、特に性的に刺激の強いシーンが目立つものであった」などと言及していた。そんな同番組だが現在は放送を終了している。
土田は、事の発端である視聴者の苦情について「何なんですかね、チャンネル変えられないんですかね、この人んちね」「1局じゃないんでね、テレビ。別にお金を取って放送やってるわけじゃないし」と厳しく批難した。
さらに土田は「あなたの家の手元には、リモコンってものがあるでしょ」と次第に低いトーンの声で語り、最後はマジギレ口調で「変えりゃあいいんだよね、気に食わないんなら」と言い放った。
「嫌なら見るな」論法は一定の説得力を持ち、多くの人々から支持されている。しかしこの論法には大きな問題がある。
例えばこの場合「嫌なら見るな」を実践するなら、土田氏は視聴者の苦情やBPOの言及に対して文句を言わず知らないふりをしていなければならなかった。しかし彼はそれができなかった。土田氏の「嫌なら見るな」論法に乗っかった者達もまたそれは同じだ。
もちろん、芸能人にとって視聴者の苦情やBPOの言及は見なくても自身に影響を与えてくるものであり、だから何か言わずにいられないということもあるだろう。しかしそれは視聴者にとってのテレビもまた同じことである。テレビであれネットであれ公共性を持つ媒体は環境の一部であり、その環境は人々の生活に影響を及ぼす可能性を持っている。よってこの場合、どちらか一方だけが特別視されるべきではない。
要するに「嫌なら見るな」に賛同する者も、対象の姿を見てそれに不快感を感じて文句を言っているわけだから、「嫌なら見るな」を全く実践できていない。このように、「嫌なら見るな」論法はそれを用いて他人を批判する時、それ自体が批判対象と同じ性質を持つ行為になるという大きな矛盾を抱えている。
そのことを加味して考えると、「嫌なら見るな」が持つ実質的意味とは、結局のところ「気に入らないことがあっても黙っていろ」という一方的要求でしかない。
テレビでの例に戻ると、例え深夜とはいえテレビは公共の場なのだから、何をやってもいいということにはならない。だからどこまでがオッケーでどこまでが駄目なのかという線引きをしていかなければならない。しかしそれは議論を闘わせて決めていく(変えていく)べきであり、何の論拠も挙げずレトリックだけで一方を黙らすようなやり方で決定すべきではない。少なくとも民主主義的ルールに則って考えるならば。
これは反規制側と規制側双方に言えることである。
例えばこの場合、番組への抗議に抗議したい人達は、公共の電波の上で「若手男性芸人が裸で抱き合ったりわいせつな行為を繰り返」すような表現を用いることの必要性、そのような表現を排斥すべきでない理由を述べればよかったわけだ。逆にこのような表現を問題視した側も、それの何が問題なのかちゃんと理由を挙げて批判すべきだろう。そして双方の主張を闘わせればよい。
しかし実際は「嫌なら見るな」と同じような単なる一方的要求としての「ならぬものはならぬ」で規制されていくことも多いだろう。反規制派はむしろそこを突くべきなのではないか。これまでの流れから見て、「嫌なら見るな」=「気に入らないことがあっても黙っていろ」≒「気に入らないからそれをするな」=「ならぬものはならぬ」なら規制派の方が一枚上手だろうから。
***
自己防衛として「嫌だから見ない」のはありだし、「嫌なものをわざわざ見て疲弊するのはやめたほうがいいよ」とアドバイスするのもありだろう(――そちらの選択をしたらしたでまた「現実逃避だ」と言ってケチを付けてくる者がいたりするのだが)。だが何の論拠も挙げずただ「嫌なら見るな」というレトリックだけで相手を黙らせようとするのは余りにも虫がよさすぎる。そしてそれを向けられた側がそのような要求に従う故もない。
もちろん、中には本当にどうでもいいことでケチをつけてくる厄介な人もいるし、それに苛立つこともあるだろう。だが民主主義の性質上、それを未然に防ぐことはできない。共産主義にユートピアがないのと同じように、民主主義にもまた自分の嫌いなものと接せずに済むユートピアなどないのだ。
REAPER:ラウドネス・アナライズ&ノーマライズ
SWSエクステンションのダウンロードは以下から
SWS / S&M Extension
フォーラムの関連スレ
Analyze and normalize loudness with SWS - Cockos Confederated Forums
テレビ界においては、CMになると突然音が大きくなる、突発的に大きな音が鳴る、チャンネル間の音量差のため視聴者がいちいちボリュームを変更しなければならないなどの問題を改善するため、CMを含めた一本の番組の平均ラウドネスを、ヨーロッパでは-24 LUFS ±1、アメリカでは-23 LUFS
音楽作成においてもラウドネスは無関係ではない。マスタリングを行う際、これまではRMSを目安として音圧コントロールを行うのが一般的だった。それは今でも十分有用ではある。しかしRMSはあくまで物理的な音量を測るものでしかない。一方ラウドネスは人間の聴覚上の特性を加味し、どれくらい大きな音として聞こえるかを測るものなので、より実際の感覚に近い結果が期待できる。
またRMSは統一規格ではないため、使用するメータによって結果が大きく異なるという弱点もあった。その点LUFS(呼び方が違うだけでLKFSも同じ)は統一規格であるため、規格を満たしているメータなら何を使っても同じ結果がでる。そのため比較が行いやすいというメリットがある。
そのラウドネス規格で簡単にファイルをアナライズ&ノーマライズできるようになったのだから、これは使わない手はない。そんなわけで、以下はSWSのラウドネス・アナライズ&ノーマライズについて解説していく。
-----------------------------------
資本主義リアリズムとしてのCM
トヨタのあのCMに関してその原因をファミコン世代に求めるのは無理があるのではないか。というのも、アクアのCM曲は最初ニコ動の初音ミク楽曲『千本桜』のピアノ・バージョンだったわけだから(それが何パターンか放映された)。
その後FF、モンハン、ドラクエと付け足されていったが、FFはやはり『千本桜』と同じようにニコ動ピアニストまらしぃ氏の演奏であり、モンハンとドラクエは1982年生まれの柿本賢作氏の作品である。
西沢学園のアダマウロCMが良い例だが、社会的地位を獲得し決定権を握った者が自身の趣向をCMに反映させるのは昔からよくあることだ。だからあのCMを見た時は、いよいよニコ動画世代がそういう決定権を持つ時代になったのか、と思ったものだ。
--------------------------------------
しかしこの記事が興味深いのはむしろその思想部分である。
バブル世代やシラケ世代はゲームで遊ぶこと以上に、アウトドアを楽しんだ。合コンのハイキング・バージョンの「合ハイ」やポパイなどの雑誌に煽られてサーフィンをするためにはるばる鎌倉に行ったり、「私をスキーに連れてって」や「ロマンスの神様」に流されてスキー場で遊んだり、子育てをするようになったら今度は家族をキャンプ場に連れて行くオートキャンプブームに没頭した。(中略)
いずれにせよ、グローバルスタンダードの文化だった。アウトドアブランドの大半は海外のものだし、遊び方もハリウッド映画や外タレの広告モデルが手本になった。日本でカッコいいと評価された車は世界で売れた。お金持ちなら外車を買ってアウトドアに繰り出した。
そのくせファミコン世代はというと、正直言ってヤンキー系じゃないとアウトドアをそもそもしていないし、ヤンキー文化にグローバルスタンダードも合ったものではないことは言わずもがなだ。引きこもってファミコンをやってばかりのダメ人間でも時が経てば中年になり、文化的程度を伴わないままに車を買う側になれば、ああいう表現のCMが横行するのだ。(中略)
アメリカも、ヨーロッパも、韓国すらも、このように車をいかに素晴らしい映像表現で映すか、と言う点では同じ映像の水準がある。カメラワークとか、ストーリーとか、自動車の描写とか、BGMやナレーションや字幕の入れ方とか、そういうものに共通する質がある。それから「映画風の画質」も欠かせない。
良い車のCMには、カッコ良く走っている様子だけでなく、これを買えばこんなに素敵な暮らしができますよ、というふうな良いライフスタイルの提示が備わっている。モデルの格好とか、風景とか、子芝居とかをみればわかるように、文化的程度の底上げを喚起するような演出が行われている。
日本の車CMだけが、2000年代半ば以降こうした表現をかなぐり捨てている。つまり、北朝鮮以外のマトモな国では当たり前な文化的程度の維持や成長のための機能を放棄してしまっているのだ。ファイナルファンタジー、マリオ、低燃費少女ハイジ、ドラえもんなどと、幼児性を抱えたまま中年になった人間にウケそうなサブカルのひねり出したような低俗表現が横行している。こんなことをやっている国は日本しかないのだ。
ファミコン世代は日本をガラパゴス化し、落ちぶれさせている諸悪の根源である。
▼資本主義社会におけるファンタジー・チェンジ
バブル期が一番貧乏だった自分からするとそれらは全く異世界のファンタジーのお話でしかなかったが、筆者が例にあげるような「これを買えばこんなに素敵な暮らしができますよ、というふうな良いライフスタイルの提示が備わっている」CMで溢れている時代は確かにあった。
もちろん、それもまた幻想である。商品を買ったところで幸せで無い者が幸せになったり社会的地位の低い者が地位を得たりモテない者がモテモテになったりアクティブでない者がアクティブになったりするわけではないからだ。
しかし機能や事実を売っているだけだと経済は回らない。
ポジティブ・アレルギー 嘘が経済を回し、自己責任がそれを止める
効果の無い健康食品が結構なお金を動かしていたりするように、資本主義には常にそのような錯覚をさせるファンタジーが必要なのだ(DTMerが使いもしない、即ち実用性のないプラグインを沢山買ってしまうのも、これを買えば何か良い曲が作れるんじゃないか、よいミックスができるようになるんじゃないか、というような幻想に突き動かされているからだろう。もちろん中には単なるコレクターもいるだろうが)。
だがバブル崩壊後、筆者が提示したようなライフスタイルは多くの人々にとってもはや受け入れがたい悪い意味でのファンタジーでしかなくなってしまった(ヤンキースタイルにDQNという別称が付けられたように、多くの人々からキモいと思われるようになった)。その結果、例えば人々は自動車の購入を費用対効果でしか見れなくなってしまった。そうしてみると、自動車の購入は商売で必要だったり田舎や郊外に住んでいたりしない限り決して良い選択とは言えない。
そこに自己責任理論の定着が追い討ちを掛けた。自己責任の洗礼を受けた者達からすると、自動車の購入で得られるステータスは費用対効果の計算ができない馬鹿のすること、というネガティブなものでしかなくなってしまったのだ。
とにかく社会情勢が変化した――成長を期待して様々な場に競争が持ち込まれた一方それはトーナメント化し、一番重要な競争原理が働き難い環境ばかりが形作られた。その結果、貧乏人はどんどん増え、運よく正社員になれても長時間のサービス残業で仕事が終われば帰って寝るだけ。恋愛をしない人や子供を生まない人もどんどん増えていった。もはやバブル世代のように明るい未来なんて信じることはできない。
そのような状況を生きている者達からすれば、何の悩みも無さそうな家族が新車を買ってキャンプに出かけウキャウキャしているCMは目障り以外の何ものでもないだろう。それでは販促として逆効果だ。
しかし企業はそういう人達にも商品を購入してもらわなければならない。その結果、初音ミクやFF、モンハン、ドラクエという、現実的な痛みから逃れるためのファンタジーをモチーフとしたCMが生み出されたと考えれば中々合理的である(ドラえもんはむしろ旧態依然とした成熟路線だから嫌われた)。要するにこれは新規開拓の一手法だったわけだ。実際アクアの売り上げは悪くない。少なくともCMを販促のためのものとして考えるならあれは失敗ではなかったはずだ。
仮にあれらの要素をCMに用いることが「幼稚」だとするなら、成熟より儲けを取ったわけだ。一方で儲けより成熟を取るという選択肢もあっただろう。だがそれは個人的な趣味趣向や思想に固執する余りに身動きが取れなくなり儲けの機会を逃すことでもあり、少なくとも資本主義社会の経済人としては未熟ということになるだろう。
また、氏はあれらをファミコン世代のためのものと言うが、宮崎勉事件の時代を経験したその世代だけではまずああいうCMは作れなかったはずだ。そういう意味では、あのトヨタのCMは宮崎事件のスティグマから解き放たれたニコ動世代ならではのものだと自分は思っている。
『千本桜』が使われていることを知った時など、自分は「え、それ大丈夫?アンチも多いのに。というかブランドが安っぽくならないか?」と思ったが、よく考えてみると、そもそも殆どの人間はそれを単なるピアノ独奏曲としてしか聞いていないのだ。それに出自を知らない者がそれを知ったとして、大抵は「ほう、そういうものもあるのか」としか思わないだろう。要するにそういうことなのだ。
いずれにせよ、このようにCMというのはその時代や人に合わせて売る夢を変えていくものなのだ。
▼資本主義リアリズムとしてのCM
しかし氏のCMに対する見方は全く違う。氏にとってCMとは単に企業イメージや知名度を高めるためのものではない。販促のためのものでもない。氏にとってのそれは人々にライフスタイルの改善を促すものである。そして社会をグローバルスタンダード化するためのものである。そこでは資本主義が成功し、更なる成長へと邁進している様、そしてそこで活き活きと生活をしている人々の姿が描かれねばならない。それによって未熟な者達をグローバル社会を力強く生き抜くスタイリッシュな経済人として目覚めさせ、「現実」へと導かねばならない。
CMは時代や人々に合わせて変わっていくものではない。グローバルスタンダードに合わせて人々を指導し、変えていくものである。――そういう強いこだわりがここでは見られる。そしてそれに寄与しないCMや大衆文化、世代は駆逐されねばならないのだ。
こういった先鋭的な考えがエリート層からではなく大衆側から生まれてくるのは何とも資本主義的・民主主義的であると思う。そしてやはりその先にもまたディストピアが待っていることを予感させるのである。
***
まあ実際は単に嫌いなものを攻撃するための口実を無理矢理作ったら結果としてそういう思想が出来上がっていたというだけの話かもしれないが。とはいえそういう咄嗟の嘘がいつの間にか真になってしまったりするのもまた現実なわけで。
REAPER:プラグインからオートメーションを書く
今回の動画では、オートメーションWriteモードでプラグインからオートメーションを書く手法を、HOFA 4U Meterを使ってバイノーラル・パンのような効果を出すケースを例にとって説明。2:27頃から其々のオートメーション・モード(Write/Read/Touch/Latch)の違いについても説明しておいた。
HOFA 4Uシリーズのダウンロードは以下のページから出来る。
HOFA 4U - Free VST, VST3, AU, RTAS, AAX Plugins | HOFA-Plugins
また、動画では触れていないがデフォルトRecord Arm設定は「Preference -> Track/Send Defaults -> Record config」から変更することができる。これによって、例えばトラックを作成すると自動的にMIDIキーボードから入力が行える状態になるよう設定したりできる。
***
因みにエンディングで使っている曲は以前ここでも公開したものをPragueSoundsのヴァイオリンとチェロに置き換えたもの。ただしほぼベタ打ちにヴォリューム・オートメーションを施し、EQやリバーブなどのエフェクトを掛けただけなので、余り音源の本領は発揮できていないが。
そのPrague Solo Strings、去年の4月くらいにVer2が出る予定だったもののその後情報が途絶え、最初は積極的にフォーラムに書き込みしていたディベロッパーの人も全く問いかけに答えなくなっていた。なのでもうプロジェクトが頓挫したのかと思っていたが、数週間後にはVer2がリリースされる予定だとか。