REAPER:ReaEQをディエッサー化するFXチェイン
・ReaDe-Esser.RfxChain
ディエッサーはSpitfishやIQ4を使ってもいいのだけど、一応こんなこともできるよということで。
▼使い方
FXウィンドウを開き、そこで右クリック。メニューから「FX chains -> Load FX chain」をクリック。
すると「FXChains」フォルダが開くので、そこに「ReaDe-Esser.RfxChain」を移動し、開く。これは通常のやり方だが、単にFXウィンドウを開き、そこに「ReaDe-Esser.RfxChain」をドラッグ&ドロップするだけでもチェインは読み込まれる。
FXチェインの中身はこんな風になっている。
後はそこでReaEQを選択し、ドライ/ウェットで効き具合を調節するだけ。
↓実際に使ってみたところ
ReaCompやReaXcompもディエッサー用に設定してあるので、必要ならそちらにもチェックを入れる。こちらもドライ/ウェット、必要ならリリースやスレッショルドで効き方を設定する。
さらに「Band2 (5050Hz - )」にチェックを入れ、ReaEQ側でバンド2を有効にすれば、5050Hz~7242Hzの帯域もディエッシングすることができる。この処理を必要とすることはまずない、と思う人は「Band2 (5050Hz - )」を削除し、その他の「ReaDe-Esser.RfxChain」プラグインを全て選択し、「FX chains -> Save selected as chain」をクリックし、「ReaDe-Esser.RfxChain」に上書きする。そうすれば少しだけ軽くなる。
▼仕組み
ReaFir――「Band3 (7242Hz - )」や「Band4 (9550Hz - )」――でシビランスが目立つ帯域だけを抽出。
それを其々「3/4」「5/6」チャンネルで後に送る。その信号をReaEQのパラメータ・モジュレーション「Gain(Band)」で受け取り、その帯域の音量が一定以上になると、自動的に音量が減衰するように設定。
要するにReaEQをダイナミックEQ化し、それでシビランスを削っている。さらに細かく調整したい場合は、このパラメータモジュレーション画面を開き、「Release」や「Min volume(スレッショルドに相当)」を調節することもできる。
ただ、この方法だけではどうも処理が遅くなって鋭いアタックに間に合わないようなので、ReaFirの前に「JS:Delay/time_adjustment」を入れて、「3/4」「5/6」チャンネルに少し速めに信号が送られるようにしている。
↓左が「JS:Delay/time_adjustment」のアウト、右がReaFir「Band3 (7242Hz - )」のイン/アウト
尚、ReaCompはシビランスが目立ち始める上の帯域の方だけに反応するよう設定してある。
ディエッサーはSpitfishやIQ4を使ってもいいのだけど、一応こんなこともできるよということで。
▼使い方
FXウィンドウを開き、そこで右クリック。メニューから「FX chains -> Load FX chain」をクリック。
すると「FXChains」フォルダが開くので、そこに「ReaDe-Esser.RfxChain」を移動し、開く。これは通常のやり方だが、単にFXウィンドウを開き、そこに「ReaDe-Esser.RfxChain」をドラッグ&ドロップするだけでもチェインは読み込まれる。
FXチェインの中身はこんな風になっている。
後はそこでReaEQを選択し、ドライ/ウェットで効き具合を調節するだけ。
↓実際に使ってみたところ
ReaCompやReaXcompもディエッサー用に設定してあるので、必要ならそちらにもチェックを入れる。こちらもドライ/ウェット、必要ならリリースやスレッショルドで効き方を設定する。
さらに「Band2 (5050Hz - )」にチェックを入れ、ReaEQ側でバンド2を有効にすれば、5050Hz~7242Hzの帯域もディエッシングすることができる。この処理を必要とすることはまずない、と思う人は「Band2 (5050Hz - )」を削除し、その他の「ReaDe-Esser.RfxChain」プラグインを全て選択し、「FX chains -> Save selected as chain」をクリックし、「ReaDe-Esser.RfxChain」に上書きする。そうすれば少しだけ軽くなる。
▼仕組み
ReaFir――「Band3 (7242Hz - )」や「Band4 (9550Hz - )」――でシビランスが目立つ帯域だけを抽出。
それを其々「3/4」「5/6」チャンネルで後に送る。その信号をReaEQのパラメータ・モジュレーション「Gain(Band)」で受け取り、その帯域の音量が一定以上になると、自動的に音量が減衰するように設定。
要するにReaEQをダイナミックEQ化し、それでシビランスを削っている。さらに細かく調整したい場合は、このパラメータモジュレーション画面を開き、「Release」や「Min volume(スレッショルドに相当)」を調節することもできる。
ただ、この方法だけではどうも処理が遅くなって鋭いアタックに間に合わないようなので、ReaFirの前に「JS:Delay/time_adjustment」を入れて、「3/4」「5/6」チャンネルに少し速めに信号が送られるようにしている。
↓左が「JS:Delay/time_adjustment」のアウト、右がReaFir「Band3 (7242Hz - )」のイン/アウト
尚、ReaCompはシビランスが目立ち始める上の帯域の方だけに反応するよう設定してある。
ポジション争い問題である労働問題は何故道徳的に解釈されるのか
――以下、しばらくただの愚痴が続く
監督役の社員って基本働かんよね。うちの部署の監督役社員が現場ですることといったら、生産しているものの出来がラインに流していい程度のものかどうかを判断することと、必要があれば2、3の情報を伝えるだけ。後は現場にいてもやることがないのでずっとボ~っとしているだけだ(ずっと現場にいるわけではないが)。まあそれだけなら大してなんとも思わないのだが、そういう人間から、効率が悪いだの作業の合間にボ~っとして人がいるだの言われると腹が立つ。一番働いてないのはお前だろうと。
効率のことにしても、ノルマ分が達成できないペースで回っているなら、それに対して注文をつけるのなら分かる。だが、十分それが達成可能なペースで回っているのに、何を文句を言うことがあるのだろう。どうもその監督社員は、通常より1サイクル多めに回したい野望のようなものを持っているようだ。だが自分達は工場ではなくラインとの契約になっていて、そのラインでの生産が追いつかない時に臨時で雇われている身でしかない。つまり、通常よりも多めに生産すればその分体を消耗するだけでなく、生産に余剰が出ればそれだけ早く契約が打ち切りになるわけで、こちらとしては全く何の得もないのだ。それで頑張る気になるはずもないだろう。
この社員は以前にも、使い捨ての自分達に対して向上心がどうだの、早く一人前にだの言っていて、何か勘違いしているな、と思っていたが、やはり思った通りの人間だったようだ。その上――この工場は食品関係なので、帽子から髪の毛を出さないようにしなければならないのだが――自分は帽子から髪の毛を出しながら、髪の毛が出ている人がいる、と言って注意したりして、あきれ果てた。ギャグかと思ったわ。
――ここまでただの愚痴
▼ユートピア不在の現実におけるポジション争いとしての労働問題
何が言いたいかと言うと、結局労働問題というのはポジション問題でしかないということだ。3Kな上に人手が足りない時だけ発生する一時的ポジションもあれば、実際に行為としての労働をせずに、自分が出来てもいないことを偉そうに言っているだけで労働をしたことになるポジションもある。つまり、行為としての労働と「勲章としての労働」は全く別のものなのだ。さらに言えば、大きな資産があれば、そもそも労働問題は免除される。即ちその問題は所詮ポジション次第ということだ。
純粋な行為としての労働を幾ら沢山したところで経済が良くなるわけではない。それで収入が増えるわけではない。国民が皆「せーの」で一斉にそれをしたところで国家の財政が安定するわけではない。利益は行為としての労働そのものから生み出されているわけではないからだ。それどころか、いくら生産(労働)したところで、その効率を上げたところで、ものが売れなければそれはマイナスにしかならない。つまり、行為としての労働は経済的豊かさとも全く別のものなのだ。こうしたことを考えると、労働における主軸はあくまでポジションであり、行為としてのソレは従たる物であるということになる。実際、ポジションとしてのソレを獲得して維持していれば、行為としてのソレをしていなくとも労働していると看做されるが、ポジションとしてのソレを獲得出来ずに行為としてのソレと同等のことをしたところで、世の中的には労働したことにはならないだろう。
さらに言えば、労働がポジション問題であるということは、赤字の会社がそれでも経営を続けようとするところにも表われている。労働とは必ずしも利益そのものを出すためのものではなく、あくまで持続可能なポジションを獲得し、守るためのものなのだ。
こういったことから、恰も行為としての労働から富が沸いて出るかのような前提を持って進められる話や、労働を苦労や努力と読み替え、それ故に労働は尊いとする言説が如何に現実離れしているかが分かる。実際には、漠然と「労働している」という時、それはその者が何らかの収入を得られるポジションを確保している、ということしか示さない。
逆に言えば、その者にとって収入を得ることができる持続(乗り換え)可能なポジションを手に入れることができなければ、いずれその者は無職になる。つまりその社会において、全ての者に“(人間は平等でない以上)その者にとって”収入を得ることができる持続可能で獲得可能なポジションが用意されていなければ――そのようなユートピアが成立していなければ――その分だけ無職が存在することになる。その中で人々はポジション争いという競争を行っている。しかし競争だから、当然全ての者が社会的に認められたポジションを獲得することはできない。
労働問題というのは結局このような、全ての者に持続可能で獲得可能な社会的ポジションが用意されていないというユートピア不在の現実において、誰がどのようなポジションを獲得したか、という話でしかない。
▼労働問題は何故道徳的に解釈されるのか
ところがその現実問題は、観念的な道徳問題に摩り替えられてしまう。そこではユートピアの存在を軟弱者の夢想と嘲笑う一方で、恰も全ての者に社会的に認められる持続可能なポジションが用意されているかのようなユートピア的状況※1が、或いは苦労した人ほど報われ(てい)るそれが既に成立しているかのような前提で話が進められる。競争の負の側面である敗者(離脱者)の出現という現実は、それにより個人の意志の問題に置き換えられる。
さらにそこでは、競争は表向きには賛美されているが、実際には競争原理を働かせるために必要な要件――出来るだけ多くの者が参加可能で、持続可能なものであること。そして参加した全ての人間に勝利や良い勝負の可能性を予感させること――が根こそぎ刈り取られ、極力それが働かないような仕組みになっている(しかもそのような仕組み作りは大抵、競争意識を高めるため、という大儀の下で推し進められる)。
だが幾ら現実を意志の問題として精神論に置き換えてみても、解決しないものはしない。それに極力競争原理が働かないような仕組み作りをしているわけだから、当然そこから離脱する者も出やすくなる。問題を改善するには、先ずそこに手をつけ、より多くの人にとって持続可能且つ獲得可能なポジションを増やすしかない。だが実際にはそれは難しいし、かといって、自分達のポジションをよりよきものとして守るために、或いは不公平感のために、その者達にプラスのインセンティブを与え、それに向かい易くするような状況の改善もしたくない。それなしに何とかその者達を働かせたい。こういった思惑と現実のギャップを埋め合わせ、辻褄を合わすために労働問題は道徳的に――つまり個人の心掛けしだいで解決できる問題として――解釈されるわけだ。
※1 この公然の嘘を余りにはっきりと否定してしまったが故に「社会に受け皿がない」判決は問題になった。もしそれが本当なら、初めから社会に見捨てられていた彼にはそもそも社会規範を守ったり、責務を果たす必要が全くなかったことになる。つまり彼はそもそも近代法の外にいたことになる。そして刑罰を報復と捉え、それを筋の通ったものとして認めるなら、彼の行為もまた筋の通ったもの(彼の存在を否定した集合体への報復)であったということになる。
監督役の社員って基本働かんよね。うちの部署の監督役社員が現場ですることといったら、生産しているものの出来がラインに流していい程度のものかどうかを判断することと、必要があれば2、3の情報を伝えるだけ。後は現場にいてもやることがないのでずっとボ~っとしているだけだ(ずっと現場にいるわけではないが)。まあそれだけなら大してなんとも思わないのだが、そういう人間から、効率が悪いだの作業の合間にボ~っとして人がいるだの言われると腹が立つ。一番働いてないのはお前だろうと。
効率のことにしても、ノルマ分が達成できないペースで回っているなら、それに対して注文をつけるのなら分かる。だが、十分それが達成可能なペースで回っているのに、何を文句を言うことがあるのだろう。どうもその監督社員は、通常より1サイクル多めに回したい野望のようなものを持っているようだ。だが自分達は工場ではなくラインとの契約になっていて、そのラインでの生産が追いつかない時に臨時で雇われている身でしかない。つまり、通常よりも多めに生産すればその分体を消耗するだけでなく、生産に余剰が出ればそれだけ早く契約が打ち切りになるわけで、こちらとしては全く何の得もないのだ。それで頑張る気になるはずもないだろう。
この社員は以前にも、使い捨ての自分達に対して向上心がどうだの、早く一人前にだの言っていて、何か勘違いしているな、と思っていたが、やはり思った通りの人間だったようだ。その上――この工場は食品関係なので、帽子から髪の毛を出さないようにしなければならないのだが――自分は帽子から髪の毛を出しながら、髪の毛が出ている人がいる、と言って注意したりして、あきれ果てた。ギャグかと思ったわ。
――ここまでただの愚痴
▼ユートピア不在の現実におけるポジション争いとしての労働問題
何が言いたいかと言うと、結局労働問題というのはポジション問題でしかないということだ。3Kな上に人手が足りない時だけ発生する一時的ポジションもあれば、実際に行為としての労働をせずに、自分が出来てもいないことを偉そうに言っているだけで労働をしたことになるポジションもある。つまり、行為としての労働と「勲章としての労働」は全く別のものなのだ。さらに言えば、大きな資産があれば、そもそも労働問題は免除される。即ちその問題は所詮ポジション次第ということだ。
純粋な行為としての労働を幾ら沢山したところで経済が良くなるわけではない。それで収入が増えるわけではない。国民が皆「せーの」で一斉にそれをしたところで国家の財政が安定するわけではない。利益は行為としての労働そのものから生み出されているわけではないからだ。それどころか、いくら生産(労働)したところで、その効率を上げたところで、ものが売れなければそれはマイナスにしかならない。つまり、行為としての労働は経済的豊かさとも全く別のものなのだ。こうしたことを考えると、労働における主軸はあくまでポジションであり、行為としてのソレは従たる物であるということになる。実際、ポジションとしてのソレを獲得して維持していれば、行為としてのソレをしていなくとも労働していると看做されるが、ポジションとしてのソレを獲得出来ずに行為としてのソレと同等のことをしたところで、世の中的には労働したことにはならないだろう。
さらに言えば、労働がポジション問題であるということは、赤字の会社がそれでも経営を続けようとするところにも表われている。労働とは必ずしも利益そのものを出すためのものではなく、あくまで持続可能なポジションを獲得し、守るためのものなのだ。
こういったことから、恰も行為としての労働から富が沸いて出るかのような前提を持って進められる話や、労働を苦労や努力と読み替え、それ故に労働は尊いとする言説が如何に現実離れしているかが分かる。実際には、漠然と「労働している」という時、それはその者が何らかの収入を得られるポジションを確保している、ということしか示さない。
逆に言えば、その者にとって収入を得ることができる持続(乗り換え)可能なポジションを手に入れることができなければ、いずれその者は無職になる。つまりその社会において、全ての者に“(人間は平等でない以上)その者にとって”収入を得ることができる持続可能で獲得可能なポジションが用意されていなければ――そのようなユートピアが成立していなければ――その分だけ無職が存在することになる。その中で人々はポジション争いという競争を行っている。しかし競争だから、当然全ての者が社会的に認められたポジションを獲得することはできない。
労働問題というのは結局このような、全ての者に持続可能で獲得可能な社会的ポジションが用意されていないというユートピア不在の現実において、誰がどのようなポジションを獲得したか、という話でしかない。
▼労働問題は何故道徳的に解釈されるのか
ところがその現実問題は、観念的な道徳問題に摩り替えられてしまう。そこではユートピアの存在を軟弱者の夢想と嘲笑う一方で、恰も全ての者に社会的に認められる持続可能なポジションが用意されているかのようなユートピア的状況※1が、或いは苦労した人ほど報われ(てい)るそれが既に成立しているかのような前提で話が進められる。競争の負の側面である敗者(離脱者)の出現という現実は、それにより個人の意志の問題に置き換えられる。
さらにそこでは、競争は表向きには賛美されているが、実際には競争原理を働かせるために必要な要件――出来るだけ多くの者が参加可能で、持続可能なものであること。そして参加した全ての人間に勝利や良い勝負の可能性を予感させること――が根こそぎ刈り取られ、極力それが働かないような仕組みになっている(しかもそのような仕組み作りは大抵、競争意識を高めるため、という大儀の下で推し進められる)。
だが幾ら現実を意志の問題として精神論に置き換えてみても、解決しないものはしない。それに極力競争原理が働かないような仕組み作りをしているわけだから、当然そこから離脱する者も出やすくなる。問題を改善するには、先ずそこに手をつけ、より多くの人にとって持続可能且つ獲得可能なポジションを増やすしかない。だが実際にはそれは難しいし、かといって、自分達のポジションをよりよきものとして守るために、或いは不公平感のために、その者達にプラスのインセンティブを与え、それに向かい易くするような状況の改善もしたくない。それなしに何とかその者達を働かせたい。こういった思惑と現実のギャップを埋め合わせ、辻褄を合わすために労働問題は道徳的に――つまり個人の心掛けしだいで解決できる問題として――解釈されるわけだ。
※1 この公然の嘘を余りにはっきりと否定してしまったが故に「社会に受け皿がない」判決は問題になった。もしそれが本当なら、初めから社会に見捨てられていた彼にはそもそも社会規範を守ったり、責務を果たす必要が全くなかったことになる。つまり彼はそもそも近代法の外にいたことになる。そして刑罰を報復と捉え、それを筋の通ったものとして認めるなら、彼の行為もまた筋の通ったもの(彼の存在を否定した集合体への報復)であったということになる。