経済成長は生活・労働環境改善の必要条件であって十分条件ではない
確かに、生活・労働環境の改善のためには経済成長が必要になるのは間違いない。しかし、それがそのままブラック企業&貧困対策になるという主張には疑問を覚える。
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例えばうちの父はとある工場で半非正規(元々非正規だったが親戚のコネで準社員という微妙なポジションを設けてもらった)で働いていたが、そこの給料はバブル期も今も同じである。何が違ったかと言えば仕事量だ。バブル期は毎日14,5時間働いていた。残業代は出たが、有給なんて使える雰囲気ではなかったらしい(使えば辞めざるを得なかっただろう)。要するにブラックだったわけだ。
一度父がそこでの仕事を辞めて赤帽を始めると言い出したことがあって、皆で止めた。赤帽が如何にやばいかという知識は皆話に聞いて知っていたからだ。あの時赤帽を始めていたら、うちの一家はとっくの昔に全員死んでいただろう(妹だけは何とか生き残っていそうな気もするが)。
その時期、父にでも就けるもっとまともな働き口が潜在的にあったのかどうかは分からない。だが、年齢もある程度いっていて、特別な技能も持たない者には似たような環境の職場しかなかったのではないかと思う。例えバブルでも。その前に働いていた物流系の職場も色々酷かったようだし(商品をくすねるのが習慣になっていて、お前も貰っとけ、みたいに渡してくるらしく、それが嫌で辞めたらしい)。仮にもっとマシなものが存在していたとしても、そこに辿り着く能力が無かったのは確かだ。底辺に落ちる人間というのはそういう能力が決定的に欠けていて、それ故そこに落ちるわけだから。
何にせよ、そこで絶望工場に踏み留まったからこそ所帯を維持できたわけだが、毎日もの凄く疲れた感じで帰ってきては数時間寝て直ぐにまた働きに行く父の姿は、労働とは如何に糞か、ということを自分の脳髄に刻み込んだ。自分の場合子供時代も常に暗黒時代だったが、その先にある未来もまたこんな感じなのかと思うと、益々気分が落ち込んだ(そこから逃れる可能性の存在すら想像できなかったし、ただ現在の苦痛を我慢することだけで精一杯だった)。
そのころは借金もあり、両親共に常に暗い顔をしていた。そして常にうちには金がないぞ、金のことは言うな、というオーラを嫌と言うほど出してくるのだった。だから体育館シューズや上履きが小さくなって履きづらくなっても中々新しいものを買ってくれとは言い出せず、ずっと我慢して履いていたのを覚えている。
それに加え、周りは景気が良くて浮かれているのに、にもかかわらず自分の家は貧乏、という対比がまた辛かった。バブル期には色んなおもちゃがブームになったが、貧乏な家の子が買って貰えるのは常にパチモンばかりなのだ。パチモンのルービックキューブは硬くて回しづらかった。
とにかくバブル期は本当に惨めだった。その後の不景気以上に。
――これが自分のバブル期の思い出だ。もちろん、これはあくまで個人の体験でしかない。だが、バブルほどの経済成長があっても、貧困の問題が無くなるわけではないというのは事実だ。自分の家よりもっと貧乏な家もあったわけだし。
だが「一億総中流」というフレーズが示すように、バブル期にはそれが存在しないことになっていたのだ。或いは認識されても「単なる努力不足」としか見られなかっただろう(人生が上手く行く人間が増えれば増えるほど、ちょっと努力すれば誰でも平均程度の生活環境を手に入れることができるはずだ、という努力信仰、バイアスもまた強まる)。そうなればそれに対するまともな対策が取られることもなくなるだろう。経済成長にはそうした副作用もあるということだ。
しかも景気が良くなればその分物価もまた高くなるわけで、にもかかわらず底辺の賃金がそれほど上がらないとすれば、景気が良くなることでかえって生活が苦しくなるというような層が出現する可能性がある。こういった問題は経済成長やデフレ対策では対処できない。つまり「最大の対策」にはなり得ない。「経済成長、デフレ対策こそ最大の貧困対策」と言う人はよく脱成長主義を嗤うが、自分はこういった問題を軽視し続けてきたこと、つまり経済成長に伴ってシッカリとそれに見合うだけの還元が下の者にもなされるシステムを構築出来なかったことが、脱成長主義を生んだ一つの原因だと思っている。
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こういったことは貧困問題だけでなくブラック企業問題についても言える。最近でこそ漸く法令遵守の問題がクローズアップされてきたものの、これまで長年多くの企業が法律を無視した運営を続けてきたのは周知の事実だ。バブル期ほどの経済成長があってもだ。つまり、デフレ脱却、経済成長だけではブラック企業はなくならないということだ。
すき屋が人手不足で開店できない店舗が出てきた、だから経済成長こそ一番のブラック企業対策だ、みたいな話にしても、その人手不足で大変なはずのゼンショーの売上高はむしろ伸びている(利益率は下がっているが)。
(株)ゼンショーホールディングス【7550】:連結決算推移
皆「ざまあみろ」みたいなことを言っているが、これを見る限り、全然効いていない。
そして景気回復の波に乗って頭角を表した新鋭もまたこんな感じだ。
【新・外食ウォーズ】2015年に年商300億円へ - フードスタジアム
こういうのを見るとウヘェとしか思わないが、ブラックに染まらないことを「甘え」と考える人達もまた大勢いて、それは決して少数派とは言えないだろう。「『あさくま』には優しい善良な店長が多くてこれまで怒鳴ったことがない人ばかりだった。そこで練習させました。例えば今月の方針を発表する場で興味なさそうに横を向いているスタッフがいるというシーンを設定。そこで私が『コノヤロー 聞いているのか! こっち向け』と雷が落ちたような怒鳴り声をあげ、手本を見せる。それから店長に『今の通りにやって!』と指示し、練習させる。同じようにして、『人の話を聞けないのかコノヤロー』『人の話を聞いている時は目を見ろ!』と力いっぱい怒鳴りつけたり、『よくやった!偉いぞ』などと感情を込めて褒める練習を6時間以上行った。最初はうまくできないけれど練習しているうちにはだんだん大きな声が出るようになったり、気持ちが入るようになるものです。テンポスの店長・社員研修などでは大声を出させる訓練があり、ヘトヘトになるまでやらせます。それを訓練しているうちに限界以上のもっと大きな声が出るようになって、そこで個人個人が達成感を味わうようになるのです。」
その上、市場原理が働き始め、人々が予めブラックと判別している職場を忌避するような動きが見え始めるや否や、早速助成金などで市場介入し、市場の機能を台無しにしようともくろむ動きも出始めている。
ワタミやゼンショーに「ブラック助成金」? 厚労省の「人手不足対策」に警戒の声 - BLOGOS
重要なのは、自民党がわざわざ渡邉美樹を迎え入れたことに象徴されるように、ブラック企業をブラックなまま温存させねばならないと考える勢力があって、それは決して小さなものではないということだ。それをデフレ脱却、経済成長さえすればよい、として放っておけば、どんどんブラック企業にとって都合よくルール改正がなされていくだけだろう。
現に、ブラックな環境の下で下っ端の者を使い捨てにするのが経済効率的に良い、とする経済学的言説があり、政策面においても、どちらかと言えばそのような方向性の説に則ったものが採用されてきたのではないか。個人による違法行為がどんどんクローズアップされ、厳罰化の方向に向かった一方、企業による違法行為については逆に見過ごされ続けてきたのも、それが「識者」達の中で経済成長的に有益だという一定のコンセンサスがあったからこそではないか。つまり、それは経済成長を妨げないため(――即ち景気対策)、という理由で意図的に見逃されてきたという面があるのではないか。
そうでもなければ、双方に対するこのような扱いの差は説明できないように思える。「成長戦略」として残業代ゼロ法案(違法の合法化)が審議されているのはその典型だろう(この法案も派遣法と同じく、無際限に拡大するのが初めからの狙いであることは明白だ※1)。
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デフレ対策は、これから底辺に落ちるのを未然に防ぐという意味では「最大の対策」と言えるかもしれない。だが既に実際にそこに落ちてしまっている人、経験を積む機会を失い、現在どれだけ頑張っても何の
実際、「景気回復」「人手不足」が喧伝される現在においても、自分の周辺では全く雇用条件が改善する兆しは見えない。
以上のことから自分は、バブル期ほどの経済成長があっても、(土方系など一部業種を除く)底辺ではさほど賃金は上がらず、糞な仕事が糞なまま増えるだけで、それだけではさほど生活環境や労働環境は改善されないのではないか、という認識を持っている。底辺には「ボーナスで還元」も株高による収入増加もないし。
「最大の対策」説を述べる人の多くは、よく、弱者の見方のであるはずの左派が福祉ばかり唱えて雇用環境改善のために必要になる経済成長を軽視している、むしろ弱者を苦しめている、と馬鹿にする。だが経済成長こそが「最大の」ブラック企業&貧困対策となってしまった時、それは「弱者の見方であるはずの左派の脱成長主義」の単なる逆バージョンでしかなくなるだろう。
経済成長のための対策と再分配や労働者保護のための法整備と適切な運用は「ブラック企業&貧困対策」に必要な車輪の両輪であり、それらがどちらも等しく重視されねば対策として上手く機能するはずもないのだ。
もしそうでないと言うなら、せめて「最大の対策」が上手くいった結果、実際に底辺にいる人達の賃金や生活費はどのようになって、労働環境はどのように改善すると予想しているのか、それを具体的に示してもらいたい。そういう具体的な予想があれば、後でその説に対する検証も可能だ。だが実際は、肝心の内容に関してはうやむやなまま、イメージだけ先行してこういった説が力を獲得して行っているように見える。
※1「残業代ゼロ制度」 年収300万円以下の人も対象になるかは今後議論
風評は市場の本質×風評としてのイズム
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▼(1)日本ブランドの失墜
例えばブランド戦略が成立するのは、イメージが人々の消費行動を決定付ける主要な要因となっているからだ。いくら実用面だけを追及しても、決してそれは人気商品にはならない。それが人気商品として他の競合商品に打ち勝つためには、それなりのイメージが伴っていなければならない(ex.実用面を最優先させたファションは、いわゆるオタク・ファッションになる)。
同じように、健康食品と呼ばれる類の商品は、必ずしもそれが健康に良いから売れているわけではない。多くの健康食品は「健康に良い」というイメージによってそれが消費されている。後になってから、むしろそれは健康に悪かったという事実が判明する場合だってある。海外から個人輸入した健康食品によって重篤な病に蝕まれ、亡くなった者すらいる。つまり、健康食品の人気は健康に良いという事実ではなく、「健康に良い」というイメージや風評によって支えられている。
そして多くの日本企業は、世界的な健康ブームに乗り、日本ブランドが持つ安全性というイメージを積極的に利用して商品を売り込む戦略を取っていた。ところがそんな折、今回の原発事故が起こった。
東京新聞:「関東産」でくくられ 県産野菜に風評被害も:埼玉(TOKYO Web)
食の放射能検査、不満続々…国で統一基準を(読売新聞)
■「厳しい値」
暫定規制値についても、疑問の声が上がる。野菜類の規制値(根菜、芋類を除く)は1キロ・グラムあたり放射性ヨウ素2000ベクレル、同セシウム500ベクレル。茨城県で出荷制限となっているパセリは軽くて表面積が大きく、重量で比較すると他の野菜に比べて数値は出やすいが、実際に食べる量はわずか。県農政企画課は「現実にそぐわない数字」と指摘する。
銚子市漁協への指導要請=水揚げ拒否で千葉県に-農水省 - 時事通信
日本の農産品、25カ国が規制 中東や南米にも拡大 - 47NEWS
多くの国々は日本ブランドを敬遠し、日本人もまた東日本ブランドを敬遠し始めている。そういった市場の動向に懸念を抱き、憤る者も多い。低線量被曝なら安全なはずなのに、何故売れないんだ。うちの商品は放射能(放射性物質)で汚染されていないのに、何故売れないんだ。「現実」にそぐわない規制を緩和すべきだ、と言って。そしてその怒りを、放射線に対して悲観的な見方をする消費者や、そういった情報を流す者達に向ける者も少なくない。
だが、そういう人達は根本的な勘違いをしている。というのも、今までそれらの商品が売れていたのは「安全だから」ではない。安全か否かについて全く心配する必要がないという安心“感”が伴っていたからこそ売れていたのだ。しかし、今やそれは「健康に良い」どころか、「極端な量さえ摂取しなければ健康に害を及ぼさない」ものになってしまった。危険性は低くとも、気にせずに済むものから気にしなければならないものになってしまった。このイメージ毀損は、市場における商品価値という観点から見れば極めて大きな影響を持っている。
放射能暫定限度を超える輸入食品の発見について(第34報) - 厚生労働省
旧ソビエト連邦チェルノブイリ原子力発電所事故に係る輸入食品中の放射能濃度の暫定限度は、ICRP(国際放射線防護委員会)勧告、放射性降下物の核種分析結果等から、輸入食品中のセシウム134及びセシウム137の放射能濃度を加えた値で1kg当たり370Bqとしている。
実際、日本もまた、チェルノブイリ事故の際には現在よりもより厳しい――今なら「良識的な日本人」から「現実にそぐわない」と評されるような――基準を設けていた。
つまり、実際に安全か否かはそもそも重要ではない。端的に言えば、日本ブランド、東日本ブランドは今、市場で全く人気がないのだ。安全性云々以前に、それらが持つイメージが大きく損なわれ、市場価値を失ってしまった。だから売れない。合計で年間何ミリシーベルト以下なら大丈夫、みたいな言い訳をしなければならない商品が、他の競合商品と競り合って勝てるはずもない。とりわけ、日ごろから「安全性」というイメージに敏感であるが故に日本ブランドの商品を買っていた消費者が、今度は逆にそれを忌避すべきものとして認識するようになるのは当然の成り行きだろう。
▼(2)風評との戦いは市場との戦い
こういった現象を風評被害だと言って憤る人達は、安全なものを安全でないと思い込んでいる「愚か者」がいるから商品が売れない、と思っているようだ。だから市場における人気の無さは「被害」に置き換えられ、「愚か者」や「不適切情報(放射能に対する悲観的見方)」を流す「加害者」との戦いが始まる。
もちろん、低線量被曝については必ずしも問題がないとは言い切れないため※1、実際に安全でないと思っている人もいるだろうし、中には単なるデマを信じて買い控えをしている人もいるだろう。だがそれは本質ではない。極端な言い方にはなるが、内容がどうであろうと、危険であろうとなかろうと、需要があればものは売れるし、需要がなければ売れない。人気があるものは売れるし、人気が無いものは売れない。そういった風評に左右されるのが市場だ。そして今の今まで、そういった風評を最大限に利用してきたのが日本ブランドだったはずだ。それが今、失墜したのだ。
さらに言えば、「被害」説を採る人は、「愚か者」が「適切な情報」に触れ、それを理解すれば再び商品が人気を取り戻すことができると考えているようだが、それも誤りだろう。何故なら、人間の感覚は知識によってコントロールすることができるようにはできていないからだ。ストレスを自意識でコントロールできないように、「キモい」という感覚を理屈で払拭できないように、イメージや不安(感覚)を知識で完全にコントロールすることなどできない。この問題の対処法は、人々が不安疲れで不感症になるのを待つことくらいしかない。
要するに、日本・東日本ブランドは安全性に問題があるから云々以前に、人気が無いから、市場価値が無いから売れない。だが、未だにその事実を受け入れられない者も多い。だからその「人気の無さ」を「被害」に読み替え、風評と戦う者が現れる。しかしながらそれは市場の否定にも等しい行為であり、不人気商品が上手く流通しないことに腹を立て、何故買わないんだ、と言って逆切れしているに等しい。客が馬鹿だから商品が売れない、と言っているに等しい。
▼(3)風評としてのイズム
道徳的な理由で騒ぎ立てる人達はともかく、実際に被災した人達が、原発事故の影響で努力する場を失ってしまったり、或いは自分の努力の結晶が市場で爪弾きにされたりすることのやるせなさをどこかにぶつけたい、という気持ちは分かる。なんせ自分もまた、人間マーケットにおいて廃棄されるべき烙印を押された商品(労働力)だからだ。市場というのは元々そういう冷酷さを持っている(それが市場によって媒介されるものである以上、必ず売れ残りや使い捨てという問題が生じる)。
――にしても、こういった世間の動向にはどうも釈然としないものも感じてしまう。というのも、これまでこの社会は、市場による結果を「正しさ」の主たる根拠にしてきたはずだからだ。それが突然、市場を否定し、人気の無さを「被害」であるとする主張が主導権を握り始める。そしてこれまで散々「自己責任」を唱えてきたはずの社会が、「人々を不安にさせるから」という理由で好ましくないとされる情報を隠し、人々の消費行動をコントロールしようとし始める。中国や北朝鮮を“日本とは違って”言論の自由が無い国であるとし、問題視してきたはずの民衆が、パニックを防ぐためという大儀と「煽るな」という恫喝によって、ボトムアップ的に情報統制をしこうとし始める。共産主義――努力を一旦作業に置き換えることで個々人の努力具合を測り、それを結果に反映させようとする、努力によるユートピアシステムの造成――を嘲ってきたはずの人達が、努力が実らないことの不公正さを説いてみせる。そういった手のひら返しがあるにもかかわらず、かといってパラダイムシフトが行われた様子もない。
こういった現象から分かるのは、多くの人々にとって内容としての理念や原理、主義などは、初めからどうでもよかったということだろう。市場における商品は内容よりもまずイメージが重視されるように、「市場原理」や「自己責任」、「言論の自由」、「共産主義/資本主義」などの理念やイズムも、ただその肩書きが持つイメージや風評が、その時々の都合で体よく利用されてきただけに過ぎない。結局そういうことなのだろう。
――しかし、幾らそうやってこの状況に理屈を付けて自分の感覚を納得させようとしてみても、やはりこういった世間的趨勢の出鱈目さに対する気持ち悪さはどうしてもなくならない。
※1 線量限度の被ばくで発がん 国際調査で結論 - 47NEWS
【ワシントン30日共同】放射線被ばくは低線量でも発がんリスクがあり、職業上の被ばく線量限度である5年間で100ミリシーベルトの被ばくでも約1%の人が放射線に起因するがんになるとの報告書を、米科学アカデミーが世界の最新データを基に30日までにまとめた。報告書は「被ばくには、これ以下なら安全」と言える量はないと指摘。国際がん研究機関などが日本を含む15カ国の原発作業員を対象にした調査でも、線量限度以内の低線量被ばくで、がん死の危険が高まることが判明した。 低線量被ばくの人体への影響をめぐっては「一定量までなら害はない」との主張や「ごく低線量の被ばくは免疫を強め、健康のためになる」との説もあった。報告書はこれらの説を否定、低線量でも発がんリスクはあると結論づけた。
嘘が経済を回し、自己責任がそれを止める
ここでは何かこういったことが特殊なことであるかのように扱われているが、むしろこういったことは非常に一般的なことであると考えた方が妥当だろう。
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これに限らず、体裁と実態を本気で一致させようとすると、多くの商売や労働は成り立たなくなる※1。そして多くの者が、ありもしない何らかの効能や、機能以外のイメージに突き動かされるからこそ、経済は調子よく回り続けることができる。経済活動にはそういう一面がある(故に多くのCMは、内容を説明するよりもイメージに訴えかける)。よって、ブルーベリー・アイ的なものを全て厳密に否定していくと、相当数の人間が職を失うことになる。それどころか、本当のことばかりを言っていると職を得ることはおろか、人付き合いすらできなくなるだろう。つまり、そういった欺瞞に依存しないと「自立(持続可能な依存状態)」すら獲得することができなくなるわけだ(――とはいえ、こういったものをいつまでも放置しておいてよいのか、ということは逐一考えていく必要はあるだろうが)。
▼自己責任が経済を萎縮させる
この手の健康食品、或いは自己啓発・資格ビジネスなどもそうだが、それらはそこで述べられた効能以上に、私は健康に、人生に良いことをしている、という幻想を売っている側面の方が強いと考えた方が適切だろう。で、そういった消費生活を送って失敗をすれば大抵は自己責任ということになるわけだが、そう考えると、自己責任という概念が重んじられるのは――その根本は自由意志への信仰だが――、大局的観点から見た経済的配慮、という作用もまた大いに関係しているのではないかと思えてくる。ここら辺を余り厳密に突き詰めていくと、その曖昧さに依存する形で生み出されている多くの商売は成り立たなくなってしまうわけだから。
消える若者市場:日経ビジネスオンライン
現に、個人の経済的失敗は基本的に自己責任であるとされるが、大局面から見た財界のビジネス的・経済的失敗は、自己責任とされることはない。むしろそれは「消費に背を向ける若者」というように、消費者側の責任とされる(人口減少、平均年収の低下という決定的要因を把握しているにもかかわらず、最終的には「背を向ける」という消費者側の個人の意思の問題に落とし込まれてしまう)。
自己責任という言葉が一般レベルで使われたのは、イラク邦人人質事件が最初ではない。それ以前に、証券会社と契約した個人の顧客が軒並み大損をするケースが相次ぎ、ちょっとした問題になったことがあった。その時、証券会社側が持ち出してきた言い分が自己責任だった。恐らくこれが自己責任という言葉が日本で広く一般に知れ渡った最初の出来事だろう。つまり、個人と組織の経済的利益が競合した際に、組織(企業)側の肩を持つことを目的として持ち込まれた、というのが日本における自己責任の出自だった。そしてこの構造は、イラク人質事件でも引き継がれていた。というのも、あの問題が紛糾したのは、無謀なことをした人間の命を救うために集団の財産である税金を使うべきではない、という考え方がその根本にあったからだろう。そして多くの組織は、その概念が持つ機能を最大限に利用し、各々の経済的利益を守ってきた。
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だが物事はそう簡単にはいかない。というのも、――他人に自己責任を突きつけるだけの人間はともかく――自己責任の「正しさ」を内面に強く焼き付けられてしまった人間は、その分だけ警戒心が強くなり、騙されまいとし、冒険もしなくなるからだ。すると結果的に消費に消極的にならざるを得ない。経済というのは機能ではなくイメージ、つまり嘘で回っている。それを、こんなの嘘でしょ、と言って効能の不確かな商品を買うという冒険をしなくなれば、或いは、オシャレやステータスなどという虚飾のために消費するよりも家計を守ることの方を重んじるようになれば、当然ものは売れなくなる。
例えば今の時代、単純にコスト面だけを考えると、多くの者にとって家や車を買うことは決して賢い選択とは言えないだろう。これまでは未来の経済成長を当てにすることはもちろん、それがステータスだから、という動機もまた一緒になって消費を支えていた。つまり、アレを買えば私も幸せになれる、ワンランク上の人生を送ることが出来る、というような幻想が消費を後押ししていた面があった(「中高年に“若さ”を売れ」というのは、まさに幻想を売る商売)。しかし、自己責任の洗礼を受けた者達からすれば、それは逆に危機管理能力のない馬鹿のすること、というネガティブなステータスになる。つまり自己責任は、個人と相対する組織/集団側の経済的優遇という機能を持つと同時に、個人消費を冷え込ませる機能をも兼ね備えている。
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日経ビジネスオンラインの記事で取り上げられたような問題は、根本的には「無い袖は触れん」であり、せっせと血栓を作りながら「血流が悪い」と他人をどやし付ける人間がいる、というだけの話だろう。だがそれと同時に、組織が目先の利益を守ろうとして自己責任に依存し過ぎたが故に、個々人の危機管理意識が高くなりすぎ、それによって益々消費が冷え込んでいる、という一面もあるのではないか。つまり、血栓を作りながら「血流が悪い」と他人に不満をぶつけることに無理があるのと同じように、自己責任の機能に散々依存しながら消費の冷え込みを改善しようとすることにもまた無理があるのではないかと。
※1 多くの労働は、実際には大儀と異なった内容を持っている。と同時に、それは他人への迷惑にもなっている。人間もまた生存競争の最中にいる以上、どうしてもその活動は競合する。労働が崇高なものとされるのは、“金を稼いだこと”や“公認労働環境で作業したこと”をイコール“社会の役に立っている”と乱暴に読み替えているからに過ぎない。