真の似非セレブ
別に見栄を張っているわけではなく、品物をまとめる丈夫な紙袋として使っている可能性もあるだろう。◆資産価値もブランド力も健在だが、暴走族や新規住民との確執が…(中略)
また土地柄ゆえ自尊心が強く、それは主婦同士の見えの張り合いにも表れるという。普通のスーパーで買い物をした際、わざわざ高級スーパーである「ikariスーパー」の袋に詰めて持ち帰る強者もいるとのこと。
「真の豊中市民はそんなことをしないので、仲間内では“エセセレブ”と呼んでいます」
それに豊中や箕面に特別なブランド価値があるなんて思っている大阪人なんて殆どいないのではないか。
そもそも金だけでなく知名度もなければセレブとは言わないので、むしろ金を持っているだけで自分達がセレブだと思っているこういう人達こそが真の似非セレブと言える※。
地元の名士、というのはあるかもしれないが、それも一歩外に出たらセレブでもなんでもないわけで。それがこうやって全国に向けて発信されてしまうと、会社の外に出て「俺は部長だぞ!」と言っているのと似たような滑稽さがにじみ出てしまう。そんなもん知らんがな、という。
※日本ではいつの間にか本来の意味ではなく単なる金持ちをセレブと呼ぶような風習が出来ているようなところもある。しかしIkariの袋を見栄を張って使うことが恥ずかしいことなら、単なる金持ちが著名人を気取るそういう風潮もまた恥ずかしいことになるだろう。
正論を口にしないことと正論の内容を否定することは全く別
↓「マンションを売る日は決まっているのに、杭打ちをやり直せば完成が遅れる。元請けにやり直しを求めると『やかましいことを言うな』と言われる」
ディレクターが黒いものを白と言ったら「ハイ、真っ白です!」って返します。(中略)だぁ~れも、そんな正論なんか聞いてませんし、言ったとしても、会社も世の中も変わりませんから。(中略)めんどくせぇヤツだな、と思われたら次の仕事がもらえませんから。素直に従った方が「じゃあ次も」って気になってくれるでしょ
https://twitter.com/tokukichi1/status/657195951187095552
「いじめはよくない」「人の者を盗んではいけない」「人を殺してはいけない」――
こういったことを幾ら言ってみたところで、それらの問題が改善するわけではないだろう。正論とはそういった効果のないスローガンのことを意味する。よってそれが主張として下らないのは確かだ。そんなことは分かりきったことであり、その上で其々がこの現状についてどう考えるか、ということを述べてこそ主張と言えるからだ。
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だが議論の上で正論を唱えるのと、正論で唱えられている内容自体を否定するのは全く別のことである。この二つを一緒くたにして何かを語るなら、それは余りにも乱暴すぎる。正論を唱えないことは、いじめや強盗や人殺しを許容することではないのだから。
ここでもそういった乱暴な形での語りが行われている。実際ここで鈴木氏が述べているような振る舞いを建設業で行ったら、杭工事偽装やむなし、ということになるだろう。
そしてこの社会が、そうした振る舞いをする人や企業ほど競争に勝ち残りやすい構造になっているとすれば、それはまさに大規模な市場の失敗が起きていることを意味する。
もちろん「市場の失敗を起こすべきでない」という正論を唱えることに意味は無い。だが今実際に市場の失敗が起こっているということを認識し、その問題に対処しようとすることは重要だろう。
しかし昨今はどうも正論の下らなさを根拠にしてその「対処」までもを否定するという、正論以上に下らない主張が幅を利かせているように思えてならない。
それからこのツイートでは鈴木氏の発言を「「お笑い芸人だけどこんなに政治に関心持ってますよアピール」が一切なく」と評価しているが、目上の者や趨勢を批判するのが政治なら、目上の者や趨勢の肩を持つのも政治である。よってむしろこれは極めて政治的な発言と見るのが妥当だろう。
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この記事を見る限り、恐らくこの芸人はある種のヒールのような存在として活躍しているのではないかと推測する。ヒールが憎まれ口を叩くのは当然である。しかしながら、その単なる憎まれ口に何か深みがあるかと言えば、そうではないだろう。
何も考えず上の者の言うことにホイホイ従っていたらそれだけで大金が手に入るような状況が手に入れば、大抵の者は彼と同じことをしてしまう。だがそれは体裁上余り表立って肯定することができない振る舞いでもある。それを体裁を気にする必要がないヒールが堂々と肯定してみせたことが、同じくそういった状況でそういった振る舞いをしている者達の自己肯定感を刺激し、ウケているに過ぎない。
もちろん鈴木氏個人の中では、ヒールとして生きることへの強い葛藤を乗り越えた末の、それなりに重みがある発言なのかもしれない。だが主張の内容としては全く深みのないものである。そこら辺は理解しておく必要があるだろう。
そしてこれは逆に言えば、そういう状況にない人が、つまり十分な見返りを期待できない人達が上の者や社会に文句を言うのは当然である、ということをも意味する。全ての者が鈴木氏のように経済的に恵まれた状況を手に入れられるようにすべきだ、という正論が通じないのと同じように、「社会に文句を言わず前向きに生きろ」などという正論もまた通じないのである。
あとこの人は「世の中のほとんどの人に異論を述べる資格なんてないんです」とも言っているが、主張を行うのに資格を設けない、というのは民主主義の大前提なので、これは民主主義を否定する発言に他ならない。近代国家において、まともな人間として見られようとすれば決して口にすることができない様な主張をこうも事もなげに言ってしまう辺り、さすがヒールである。
「嫌なら見るな」=「気に入らないことがあっても黙っていろ」
同番組は視聴者から「若手男性芸人が裸で抱き合ったりわいせつな行為を繰り返していた。深夜番組とはいえ限度を超えている」などの苦情を受けていた。
また、放送倫理・番組向上機構(BPO)の青少年委員会、汐見稔幸委員長も同番組について「放送基準に背馳すると思われる内容を含んでおり、特に性的に刺激の強いシーンが目立つものであった」などと言及していた。そんな同番組だが現在は放送を終了している。
土田は、事の発端である視聴者の苦情について「何なんですかね、チャンネル変えられないんですかね、この人んちね」「1局じゃないんでね、テレビ。別にお金を取って放送やってるわけじゃないし」と厳しく批難した。
さらに土田は「あなたの家の手元には、リモコンってものがあるでしょ」と次第に低いトーンの声で語り、最後はマジギレ口調で「変えりゃあいいんだよね、気に食わないんなら」と言い放った。
「嫌なら見るな」論法は一定の説得力を持ち、多くの人々から支持されている。しかしこの論法には大きな問題がある。
例えばこの場合「嫌なら見るな」を実践するなら、土田氏は視聴者の苦情やBPOの言及に対して文句を言わず知らないふりをしていなければならなかった。しかし彼はそれができなかった。土田氏の「嫌なら見るな」論法に乗っかった者達もまたそれは同じだ。
もちろん、芸能人にとって視聴者の苦情やBPOの言及は見なくても自身に影響を与えてくるものであり、だから何か言わずにいられないということもあるだろう。しかしそれは視聴者にとってのテレビもまた同じことである。テレビであれネットであれ公共性を持つ媒体は環境の一部であり、その環境は人々の生活に影響を及ぼす可能性を持っている。よってこの場合、どちらか一方だけが特別視されるべきではない。
要するに「嫌なら見るな」に賛同する者も、対象の姿を見てそれに不快感を感じて文句を言っているわけだから、「嫌なら見るな」を全く実践できていない。このように、「嫌なら見るな」論法はそれを用いて他人を批判する時、それ自体が批判対象と同じ性質を持つ行為になるという大きな矛盾を抱えている。
そのことを加味して考えると、「嫌なら見るな」が持つ実質的意味とは、結局のところ「気に入らないことがあっても黙っていろ」という一方的要求でしかない。
テレビでの例に戻ると、例え深夜とはいえテレビは公共の場なのだから、何をやってもいいということにはならない。だからどこまでがオッケーでどこまでが駄目なのかという線引きをしていかなければならない。しかしそれは議論を闘わせて決めていく(変えていく)べきであり、何の論拠も挙げずレトリックだけで一方を黙らすようなやり方で決定すべきではない。少なくとも民主主義的ルールに則って考えるならば。
これは反規制側と規制側双方に言えることである。
例えばこの場合、番組への抗議に抗議したい人達は、公共の電波の上で「若手男性芸人が裸で抱き合ったりわいせつな行為を繰り返」すような表現を用いることの必要性、そのような表現を排斥すべきでない理由を述べればよかったわけだ。逆にこのような表現を問題視した側も、それの何が問題なのかちゃんと理由を挙げて批判すべきだろう。そして双方の主張を闘わせればよい。
しかし実際は「嫌なら見るな」と同じような単なる一方的要求としての「ならぬものはならぬ」で規制されていくことも多いだろう。反規制派はむしろそこを突くべきなのではないか。これまでの流れから見て、「嫌なら見るな」=「気に入らないことがあっても黙っていろ」≒「気に入らないからそれをするな」=「ならぬものはならぬ」なら規制派の方が一枚上手だろうから。
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自己防衛として「嫌だから見ない」のはありだし、「嫌なものをわざわざ見て疲弊するのはやめたほうがいいよ」とアドバイスするのもありだろう(――そちらの選択をしたらしたでまた「現実逃避だ」と言ってケチを付けてくる者がいたりするのだが)。だが何の論拠も挙げずただ「嫌なら見るな」というレトリックだけで相手を黙らせようとするのは余りにも虫がよさすぎる。そしてそれを向けられた側がそのような要求に従う故もない。
もちろん、中には本当にどうでもいいことでケチをつけてくる厄介な人もいるし、それに苛立つこともあるだろう。だが民主主義の性質上、それを未然に防ぐことはできない。共産主義にユートピアがないのと同じように、民主主義にもまた自分の嫌いなものと接せずに済むユートピアなどないのだ。
洗脳と教育、マインドコントロールとコミュニケーション能力
教育と洗脳は違う、という人もいるだろう。しかしその定義自体曖昧だし、ルールの遵守という判定法を設けるにしても、ルール自体その時代や場所によって変動するし、同じルールでも立場によって解釈が異なってきたりもする。労基法のようにルールそのものが機能していないケースだってあるし、ルール自体が既に洗脳の仕組みかもしれない。
もちろん、それを使った行いが実際に犯罪として社会的に認知されればその呼び名は定まるかもしれない。だが逆に言えばそうならないものに関しては各々がどう認識するかという、単なる好き嫌いで判定せざるを得ないということになる。
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美代子容疑者、弁護士も洗脳されかけた - 社会ニュース : nikkansports
例えばこの場合などは、「美代子容疑者、弁護士も洗脳されかけた」などと書かれているが、実際は単に彼女が生まれ持ったコミュ能力の高さをそこで発揮しただけなのではないか。つまりマイナスの属性を持たない者がコミュ能力の高さを発揮すればそれは人当たりの良さになるが、犯罪者であることが社会的につまびらかにされたような者がコミュ能力を発揮すればそれは洗脳(文脈上、マインドコントロールの方が内容的にあっているように思うが…)と言われたりする。
この事件などは「マインドコントロールもの」として扱われることが多かったが、暴行監禁連れ戻し殺害という物理的手段を併用している以上、幾ら美代子容疑者のコミュ能力が高くてもそれによる服従を「マインドコントロール」というのには無理があるだろう。それは単なる暴力による服従なわけだから。どちらかと言えば暴力団案件と考えた方が適切だ。実際、物理暴力に過度に依存していることからして、彼女のマインドコントロール能力は汎用性に乏しいと考えられる。中核を構成するメンバーとの序列関係なども、単に相性によるものと考えた方が妥当なのではないか。
それに、オウム事件などは事件が明らかになった後も帰依し続ける者がいたし、事件の後になってから入信する者さえいたが、この事件では捕まった中心メンバーの誰も美代子容疑者をかばおうとしていない。
兵庫・尼崎の連続変死:逮捕1週間 「疑似家族」に亀裂 息子「縁切りたい」距離置く供述
監禁事件でよくある、逃げ出せる状況があったのに逃げ出さなかった、という事例でもない。むしろ何度も被害届けや通報があったのに警察が事件性がないものとして取り合わなかったということの方に異常性が見られる。
それよりむしろ「地獄の研修」に象徴されるような、物理的暴力の代わりに苦役を用い、そこで従順な者を「成長」したとして優遇する一方そうでない者を大勢の前で侮辱して恥をかかせる――そういった恐怖心を利用して選択を誘導する手法の方が余程内容的に「マインドコントロール」と呼ばれるに相応しいのではないか。
だがそれは決して「マインドコントロール」とは呼ばれない。何故ならそれは一般企業で有用なものとして普通に用いられている教育手法だからだ。その一般企業を顧客として抱えているマスコミがそれを「マインドコントロール」と言うわけにはいかないだろう。
「コミュニケーション能力」は本来、文化的・感覚的乖離がある者と相対する時に如何に円滑にその者と意思疎通を取ることができるか、という能力のはずだ。だが、現在ではそれは単に政治的折衝能力のことを指してそう呼ばれている。企業がよく言う「コミュニケーション能力の高い人材」というのは、対内的には上の者(上司)に媚びへつらい、対外的には折衝相手を上手く篭絡する能力を持つ者のことに他ならないだろう。後者はそのまま「マインドコントロール能力」と呼んで差し支えないし、前者は上の者には逆らえない雰囲気の形成に寄与することで間接的にマインドコントロールを下支えすることになる。だがこのようなマインドコントロールとコミュニケーション能力の関係性が大っぴらに取りざたされることはまずない。
こういった言葉の使い分けは、過労やいじめ自殺の場合でも行われている。そういう状況に陥っている者には、先のことはともかくとりあえず一端その場から離れるという手もあるはずだが、彼らはそこから手を離したらもう終わりで、死ぬ以外に道は無いと思い込んでいる。つまりそう思い込ませるような環境が周りに成立している。だがその自殺が「洗脳」や「マインドコントロール」によるものと言われることはない。何故ならその環境は我々が社会規範やシステムを通して関与し、作り上げているものでもあるからだ。故にその環境による教育は単に「世間の厳しさ」という名で呼ばれることになる。
つまり、洗脳やマインドコントロール自体は別に特異なものでもなんでもなく、むしろ日常的なものとして常に存在している。国によって一般的な思想や世界観の傾向が全く異なってくるのもそのためだろう。
もちろんある集団内におけるそれが取り分け巧みであった場合はそこに注目するのもよいだろう。だが尼崎の事件で特異だったのはむしろそれよりも暴行監禁連れ戻し殺害という物理的暴力と、それだけのことを大勢の犠牲者を出しつつ長年続けてきたにもかかわらず、今の今になるまで全く発覚しなかったことの方だろう。実際、美代子容疑者が物理暴力なしにこの活動を続けていれば、事件として発覚しなかった可能性も高いのではないか(恐喝罪で検挙される可能性はもちろんあるが、それで活動が止んだかどうかは疑わしい)。にもかかわらず、そこではむしろ「洗脳」や「マインドコントロール」の方が特異性として大きな注目を集めた。
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美代子容疑者が何をやっていたのかといえば、それは一言で言えば営利活動だろう。何らかの繋がりを持った者に因縁を付け、金を搾り取る。組織に取り込んだ人間を脅して親類の下に営業活動に行かせる。そしてまたその親類などを巻き込み、どんどん事業を拡大していく。違法行為を一端脇においておくと、それは企業が他の企業を買収してどんどん成長していく姿に似ている。
もちろんそこでは明らかな違法行為が行われていたわけだが、道端で起これば直ぐに事件として検挙されるような事柄が、学校や会社や親類内で行われると全く事件として取り扱われなくなるという一般的現象――多くの「普通の」組織や集団がお世話になっているその現象の下支えがあったからこそ、事件の発覚がここまで遅れたという面もあるだろう。
そういった組織の在り様や組織内の人間関係を見ると、学校や会社でのそれを想起せざるを得ない。そしてそれ故に、この事件が持つ特異性である物理的暴力や警察の不手際よりも、世間一般における人間模様との内容的類似性の方に意識が向いてしまう。その居心地の悪さを払拭するため――彼らのそれらと我々のそれらを差異化するために用いられた識別札が「洗脳」や「マインドコントロール」だったのではないか。故にそれが不必要に強調されることになった。我々のこれと彼らのあれは根本的に違うものなのだと。だから似たような内容を持っていても我々は正常なのだと。そういう自己確認(「我々との違い」は物理的暴力を挙げるだけで十分なはずなのに、それだけでは済まされなかった)。
だが洗脳やマインドコントロール自体は特別異常なものではなく、日常に溶け込んで空気のように普通にそこに存在しているものだ。そして社会的不人気性を炙り出されない限りそれらは「教育」「コミュニケーション能力」といった名で呼ばれる。この恣意的使い分けが自分にはとても気持ち悪く感じる。それらが全く逆のイメージを持っているだけに。
「昔の人なのにすごい」は「上から目線」?
【賢者に学ぶ】哲学者・適菜収 先人に「上から目線」の愚+(1/2ページ) - MSN産経ニュース
人間そのものは大して変わらなくとも、文化や社会システム、生活スタイル、常識や流行の思想といったウワ物はどんどん変わっていくわけで、にもかかわらず、時代を超えて通用する言説があるとするなら、それに「すごい」という評価を送るのは別におかしなことでもなんでもないだろう。つまり、「昔の人なのにすごい」の成立要件として「人間精神が進化」が関与していなければならない必要性はどこにもない。賢者の言葉を紹介した本が売れている。ゲーテやニーチェ、カフカといった先人の言葉をコンパクトにまとめたものが多い。こうした中、巷(ちまた)でよく聞かれるのが、「ゲーテは今から200年も前の人なのにこんなにすごいことを言っていたのか。驚きました」「ゲーテの言葉は今の世の中でも十分に通用しますね」といった類いの反応だ。「どれほど上から目線なのか」と逆に驚いてしまう。たかだか200年後に生まれたというだけで、一段上の立場から「昔の人なのにすごい」とゲーテを褒めるわけだ。これは近代-進歩史観に完全に毒された考え方である。すなわち、時間の経過とともに人間精神が進化するという妄想だ。
彼らに悪気がないことはわかる。ただ感じたことを口にしただけだ。だからこそ深刻なのだ。捻(ね)じ曲がったイデオロギーが体のレベルで染み付いてしまっている。たしかにこの200年で科学技術は進化し、生活は豊かになった。当時、電話は存在しなかったが、今では誰もが携帯電話を使いこなしている。しかし、ほとんどの現代人はケータイの構造を理解していない。与えられたものを便利だから使っているだけであり、200年前どころか原始人となにも変わりはない。むしろ、石器を手作りしていた原始人のほうが、世界を深く認識していた可能性がある。現代人が先人より優れている証拠はどこにもない。一方、劣化を示す兆候は枚挙にいとまがない。その原因は《未来信仰》にある。
かつては「昔の人だからすごい」という感覚はあっても「昔の人なのにすごい」という感覚はなかった。偉大な過去に驚異を感じ、畏敬の念を抱き、古典の模倣を繰り返すことにより文明は維持されてきたからだ。過去は単純に美化されたのではなく、常に現在との緊張関係において捉えられていた。(中略)
現代人の趣味に合わないものは「昔の人の価値観だから」と否定されるようになった。大衆は自分たちが文化の最前線にいると思い込むようになり、古典的な規範を認めず、視線を未来にだけ向けるようになった。過去に対する思い上がり、現在が過去より優れているという根拠のない確信…。畏れ敬う感覚が社会から失われたのである。
それに、知識や発見の積み重ねを進歩と捉えるなら、「進歩史観」は必ずしも間違いではない。そして外部環境における進歩は進化ではないので、それに対して「人間精神が進化するという妄想」を抱いているなどと言うことはできない。またこのことは、個々人の能力差はあれど、同じ能力を持った者であるなら、積み重ねられた知識を利用できるだけ現代の方が有利――実際には、情報が氾濫しすぎていて取捨選択が難しいという面もあるだろうが――、ということを意味する。即ち、「すごい」は昔の人達は条件的に不利であったのにもかかわらず…、という驚きとして捉えることもできる。これは別に上から目線でもなんでもないだろう。
要するに、少なくともここに例として挙げられ批判されている発言からは、「人間精神が進化する」という考えを見出すことはできない。にもかかわらず、それにそういったレッテルを貼るなら、それこそ妄想の産物なのではないか。また、「昔の人の価値観だから」が表しているのは差異であり優劣ではない。よって、ここから「現在が過去より優れている」を読み取るのも誤りだ。
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さらに妙なのは、ここでは「時間の経過とともに人間精神が進化する」ことを否定しながら、「一方、劣化を示す兆候は枚挙にいとまがない。」とし、昔と今では人間の感覚が大きく異なっているとしていることだ。200年前の人達全員に訊いて回ったわけでもないのに、「「昔の人なのにすごい」という感覚はなかった」と断定してしまうこと自体相当無理があるが、何にせよこの人物は「人間精神の進化」という大きな変化を否定する一方、「劣化」という大きな変化が人間に起こっていると主張している。
進化論になぞらえて主張を展開しているので、敢えてそれに乗っかってみると、例えば、人間の尾骨はシッポが退化したものだと言われているが、それも進化の結果と言える。つまり、退化も進化の一部なわけだ。よって、もし「劣化」を退化のような大きな変化として捉えた時、それはむしろこの人物自身が「人間精神の進化」が存在すると主張していることになる。さらに、ここでは人間精神に優劣を設け、それが優なるものから劣なるものへと変化しているかのような主張が展開されているが、これは、進化とは劣なるものから優なるものへと変化することだ、という説と同じような誤謬の上に成り立っている。
また、「石器を手作りしていた原始人のほうが、世界を深く認識していた可能性がある。」というように、蓄積された知識や技術、そこから生み出される道具を利用できる環境にある現代よりもそれらがなかった昔の方が進歩していたと規定するなら、それは「進歩史観」ならぬ「退歩史観」ということになる。つまり、《未来信仰》を否定しようとするあまり、《過去信仰》に陥ってしまっているのだ。まあ「保守」ならば《過去信仰》を持っていても当然なのかもしれないが、これはこれで妙な話だ。
昔から革命だ、維新だの言う胡散臭い連中はいたはずだし、同じように「「B層」が国を滅ぼす」※1――検索してみると、この人はそんな本を出版しているらしい――に代表されるような、賛同者の優越感をくすぐる言説をばら撒いて身を立てる自尊心ビジネスもまた存在していたことだろう。そしてそれに乗っかった人達も大勢いたはずだ。さらに言うなら、例えばポルポトは美化された太古の生活に戻ることを大儀に掲げていたように、《過去信仰》もまた革命とは無縁ではない。現在、自我が肥大した幼児のような大人が、闇の世界で万能感に浸るようになっている。革命、維新などという近代的虚言を弄んでいる連中は、歴史と一緒に大きく歪(ゆが)んだ頭のネジを巻きなおしたほうがいい。
「人間精神の進化」がないのなら、現代人が昔の人達よりもとりわけ賢明であると言うことはできないが、同時に昔の人達が現代人に比べてとりわけ賢明であったと言うこともできない。結局のところ、この言説のそもそもの間違いは、「差異」を無理矢理「優劣」に置き換えてしまおうとしたところにある。しかし、例えどのような規格でそれを測ろうと、必ず劣なる者が存在せざるを得なくなるだろう。つまりそれは、人間は常に劣なる存在を伴ってしか存在し得ないことを意味するわけで、この考え方は、人間は劣なる存在である、という結論にしか辿り着かない。
【追記】 もちろん、物事に優劣を付けること自体は否定しない。だがその場合、何でそれを測ったのかという、感覚依存ではない明確な物差しを提示すべきだろう。でないとそれはただの好き嫌いの話にしかならない。【了】
※1 この手の手法は、言説をCD、それに賛同することで得られる優越性を握手権と考えると、実にAKB商法的なものだと言える。CD(言説)自体はどうでもよいという。ある政治家や社会的傾向に問題があるのなら、その問題を指摘すればいいわけで、それらを支持する者はB層、みたいなレッテル貼りに支えられることで初めて成立するような言説は出来損ないとしか言いようがない。
「死にたい」は問題解決への希求×字義上の意味と感覚上の意味
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しかし、殆どの人間はそれを文字通りそのままの意味で捉える。すると、じゃあ死ねば?ということにしかならない。このように、そこで想定された文脈が読めず、言葉を文字通りそのまま受け取ってしまう者のことを巷ではアスペなどと言ったりするわけだが、この問題の場合、実に殆どの人間がアスペになってしまう。
これは、そのような問題に直面している者が極めて少数である――過去にそれに直面していた者ですら、問題が解決してしまうとそれを忘れてしまったりする――が故の現象だが、このことは、文字が持っている文脈というのは、それだけ個々人の感覚や経験に大きく依存して成り立っていることを表している。
そして、こういった感覚的趨勢からはずれた言説が内包する問題は、特に注意を促されたり深く考えたりでもしない限り、常に文脈をはずれて解釈され、時義上の意味で握りつぶされたり、面白おかしく曲解されたまま世間に流通し続けることになる。
趨勢に媚びることで精神的気高さを証明しようとするのが日本型ルサンチマン
この手の相手の印象を貶めることによる反駁方法、及び自意識批判は批判として本当に下らないものだと思う。しかしそれ以前に、そもそもこの「ルサンチマン」という言葉の一般的な捉えられ方自体が既に誤っているように思えてならない。
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というのも、「ルサンチマン」というのは元々「貧しき(弱き)ものこそ幸いなれ」という宗教的・文化的背景を持つキリスト教文化圏において、弱者性を強調することで自身の魂の高貴さ(優位さ)を証明し、それによって想像上の復讐を行う、というものだろう。そしてそれゆえに益々弱者であることがより強固に固定化されてしまう、と。それが奴隷根性と言われ、問題とされたわけだ。
しかしながら、日本には「貧しき(弱き)ものこそ幸いなれ」などという文化的・宗教的背景など存在しない。もちろん、富める者はどこか道徳的に問題を抱えているに違いないとか、汚い手を使ってきたに違いないとか、そういったものの見方はわりとメジャーのものとして存在はしている。だがそれは、貧しき者や弱者の精神が高貴である、ということを示しはしないだろう。むしろ自意識原因論的な宗教(世界)観がより強く幅広く根付いている日本では、貧者や弱者は無限の可能性を持つ精神の力を引き出す努力を怠った、怠惰で卑しい精神の持ち主、として認識されているのが一般的なのではないか。
多くの宗教では、社会的成功と精神的な優劣は必ずしも一致するとは限らないとされている。それはそれらの宗教が物理的な成功と人間的(精神的)成功を分散させ、バランスを取ることで、物理的な貧しさや社会的地位の低さに苦しんでいる者の苦しみを軽減させるという役割を担っているからだ(――もちろんそれは、そういった精神安定剤を弱者に与えることで騒乱を回避しようとする政治的意図と結びついてもいるだろう)。それゆえ社会的に優位な環境を獲得できなかった(あえてしなかった)者の魂は精錬であるとされ、そこから弱者は気高い魂の持ち主である、というような解釈が生まれてくる。
一方、日本の宗教観(一般的世界観)はそれらとは全く逆で、精神的な優秀さこそが社会的成功の秘訣だとされている。つまり日本の宗教は成功分散型ではなく、社会的成功者(もちろんこれは富める者を意味しない)こそが人間的にも優であり成功者であるとされる、一体型タイプなのだ。
そのような宗教的背景を持つ日本において、弱者でいることによって精神的な優位さを証明することなどできるはずもない。当然、天国で報われるなどという発想もないだろう。もちろん、弱者でいることによる想像上の復讐もまたマイナーなものとしては存在しているかもしれないが、それが恰も一般的なものであるかのような前提でもって論を組み立てるなら、それは誤りだろう。
それどころか、自意識原因論的な宗教観が根強い日本においては、社会的な成功者ほど精神的にも(相対的に)優であるとされるため、多くの弱者は弱者であることをアピールするどころか、むしろ弱者でありながら強者の側に立ち、強者の立場や論理で物事を考えたり主張したりすることで己の矜持や精神的気高さを証明しようとする。例えば労働者が経営者の側に立ってものを考えたり、いじめられっ子がいじめっ子の気持ちを忖度したり、貧乏人が金持ちに優位な政策を支持する…といったように。全部自分が悪いんです(自意識原因論的世界観の守護者となって世間に媚びる)、が評価されるのもこういったものと無関係ではないだろう。
――先ず周りの様子を見て社会的にどちらが良いイメージを持っているかを確かめ、自らをそれに一体化させるよう試みる(もちろん“世間”を判定するのはその者の感覚であるため、一体化させようとしたそれが実際に一般的に優位であると評価されているとは限らない)。もし自らが世間から卑しいとされる属性を持っていた場合は、その属性を持つ他の者を踏み絵として踏みつけてみせることで、私は弱者ではあっても怠惰で愚かなあれらの者達とは違い、人間的成長のために日々努力を続けている気高い弱者なのです、と趨勢側にアピールしてみせる。或いは自分自身を貶めて見せることで強者に媚びる。こういった習癖に飲み込まれ勝ちなのが日本における弱者の一般的傾向だろう。
しかしながら、これは自意識原因論的な観点から見るとごく当たり前の行為だともいえる。何故ならそのような視点からものを考えると、卑しい自意識を持つ者は社会的にも人間的にも成功しない、ということになるからだ。だから社会的・人間的成功を収めるためには、まず精神的な高貴さを手に入れなければならないことになる。そしてそのためには世間に評価されねばならない。何故なら、自意識の優劣という概念は一人きりでは決して生まれ得ないものであり、結局のところその出自は世間由来のものであるからだ。
つまり、貧者の魂こそ清浄であるというような自意識(ルサンチマン)を持っている“から”貧乏から抜け出せないのだ、というような自意識原因論、自意識の過剰評価こそが日本型ルサンチマンの源なのだ。
そして自意識の優劣と結果を結び付けて考えるがゆえに、成り上がった者は弱者の側に立つどころか、むしろより激しく弱者を攻撃することになる(あいつらは自分と違って苦労が足りず、弱者であることを自分で選択した者達だから、望み通りより強く踏みつけてやるべき、ということになる)。一方成り上がることができなかった者達は、希望――精神的に成長できれば、“気付き”を得ることができればこの状況を覆すことができるはずだ――と矜持のため、自己責任(自意識原因論)を死守し続け、それで自分自身を締め上げて衰弱し、自滅して死んでいく。これこそが日本におけるルサンチマンの一般的形態だろう。
日本に民主主義は馴染まない(無理)、というような主張を目にすることは珍しくないが、そのように思わせる状況にもこういった日本型ルサンチマンが関係しているのは間違いないだろう。というのも、民主主義というのは本来各々が「せーの」で一斉に綱を引っ張り合い、それによって釣り合いを取ることでバランスを取り、最悪を回避する、というもののはずだ。ところが日本型ルサンチマンに飲み込まれている弱者は、自分の側に綱を引っ張るどころか、社会的な評価を気にしすぎるがゆえに、むしろ自分に相対する強者の側に付いて一緒に綱を引っ張り始める。そんなことで民主主義が機能するはずもない。
つまり日本におけるルサンチマンを、ああ、自身の弱者性を強調することで精神的優位さを証明しようとし、それによって想像上の復讐を果たそうとするアレのことね、と言うのは、「欧米か!」とツッコミの入るボケのようなものでしかない。
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そもそも想像上の復讐ということに限定して言うなら、非趨勢側からの反発を疎ましく思う趨勢側がその反発に対し、「それはルサンチマンだ」と指摘し、蔑む行為もまたルサンチマンと言えるだろう。というのも、それは趨勢側に対する反発が決して止むことはないという“動かしえぬ現実”に対し、レッテルとしての「ルサンチマン」を貼りつけ、お前達の自意識(魂)は低劣だ、と中傷することで想像上の復讐を果たしていると見ることもできるからだ。
このように、ルサンチマンは基本的に誰もが備え持っているものであり、それゆえ単にルサンチマンを指摘したところで、それはその相手に「人間だ」と言っているようなものでしかない。こういったことはルサンチマンについて少しでも考えてみたならば直ぐに気付くはずのことだろう。にもかかわらず、そのような感情を抱くことが恰もとりわけ劣った卑しい人間の特徴であるかのように捉えられ、そして尚且つ欧米型のそればかりが強調され続けてきたのは、結局のところ、多くの者が「ルサンチマン」の内容ではなく、それが持つレッテルとしての機能にしか興味を示してこなかったことの結果なのではないか。
差別の問題にすると絶対的正義の側に立てる?
結局のところ、「絶対的正義の側に立てるので差別の問題にしたがる」は、「差別」という言葉が持つ悪の代名詞としての性質を利用するのは汚い、ということを主張したいのだろう。だが、そういった性質を持っているのは今や「正義」にも言えることだ。実のところ、その手のレッテルを全く用いずに文章を組み立てるのはかなり難しい。
とはいえ、悪の代名詞を貼り付けるという政治手法を問題とするなら、全てとまでは言わないまでも、極力そういう性質を強く持つ単語を(「正しさ」の根拠として)持ちいずに論を組み立てる努力をして欲しいものだが、実際に「差別」のソレを問題とする者が他のソレを問題としているかと言えばそれはかなり疑問で、むしろ他の「悪の代名詞」に関しては積極的に利用している、という人の方が圧倒的に多いのではないか。
※1 胸を張って趨勢側の正義に反対する、と言い切る者が少ないのもまた日本の特徴の一つであると言えるだろう。正しさの根拠を趨勢に依存する者が殆どで、私は趨勢とは別の正義を求めている、と主張する者が滅多にいないというか(ex.「普通」に異論を唱えるはずデモで、「普通の市民」が主体となって行っているデモですアピール)。「普通/趨勢」であることが何らかの「正しさ」の根拠になるはずもないのだが(ex.テロリストに兵隊として育てられた子供はテロリストになって人を殺すのが普通)。
「今ままで大して興味も持ってなかったクセに」について
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しかし、ワールドカップやオリンピックなどは、そのようなライト層までもを巻き込まなければ成功を収めることは難しいだろう。そしてそうやってより広く一般の耳目を集め、多くの人々の興味を引くことができるからこそ、未来の根強いファンや優秀な選手が生まれてくる可能性も高まるし、そこに金も流れやすくなるという側面がある。
つまり、あるジャンルが大きな力を持ち、それを維持し続けるためには、定期的に「普段は大して興味を持っていない者達」に騒いでもらわなければならない。そういう人たちにも興味を持ってもらい、「可能性」を広げなければならない。もちろん、考え方としては着実に根強いファンだけを増やしていく、という方向性も考えられる。だが、そのような思惑が目論見通り上手くいくことは滅多にないし(全員のうちの誰が未来の根強いファンや優秀な選手になる素質を備えているかは誰にも分からない。よって「可能性」を膨らませるしかない)、市場規模を広げ維持するためには、やはりそれと同時により多くの人々の興味を引く工夫もまたこらさなければならない※1。そのためには、一度興味を持ったからにはこれからもずっと興味を持ち続けなえればならない、みたいな高いハードルを設けるのはマイナスでしかないだろう。
では、「こんな時だけ騒ぐこと」が駄目だとされる根拠は一体何なのだろう?大会が失敗して欲しいとか、そのジャンルがいつまでも一部の人達にのみ愛でられるマイナーなものであって欲しいと願うなら、確かにそれは駄目なことだろう。だがそれが駄目の根拠として挙げられているわけではないだろうし、他にそれが駄目なもっともらしい理由も見当たらない。実際のところそれは、ただ単に「気に食わない」というだけのことでしかないように思える。
もちろん、流入する人数が増えればそれだけ場が荒れやすくもなるのは事実であり、そこに問題を見出す者もいるだろう。だが一方で、ライト層を取り込まないとその市場が大きく成長することができないというのもまた事実だ。そもそも、そのジャンルがメジャーになるということは、場の荒れが常態化することを意味するわけで、場の荒れとメジャーになることは元々切っても切り離せない関係にある。
また、場が荒れることを問題とするにしても、新参者が盛り上がりの輪の中に参加することや、そのジャンルにおいて無知である者がその話題に言及すること自体は荒らし行為とまでは言えないし、それを糾弾するのはおかしい※2。それに実際には、むしろ新参者の流入を快く思わない古参のファンが場を荒らしていることも少なくないのではないか。つまり、場を荒らすのは必ずしも新参者だけとは限らない。
※1 そういえば以前、女性の野球ファンを増やすことを目的として高校野球の前座にジャニーズを呼んだところ、前座が終わって試合が始まると同時にジャニーズ目当てで来た大勢の客が一挙に退散するというなんともお寒い一幕があった。流石にそのジャンルとは全く関係のない餌で人をひきつけようとするようなやり方が上手くいくはずもなかった。
※2 全ての分野に明るい人間などいない。また、殆どの人間は殆どの分野において無知である。つまり無知な分野への言及が駄目であるとすれば、殆どの人間は常に口をつぐんでいなければならないことになる。
「世の中にはもっと恵まれない人達がいるのだから…」について
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この論理に従うなら、例えば金銭的により恵まれている者は、少々の金銭問題の不満には目をつぶらなければならないことになる。折衝能力に優れている人間は、そうでない人間に多少のエコヒイキがあったとしても、それを我慢しなければならないだろう。より立場的に恵まれた位置にいる人間は、そうでない人間に不満を感じても、「彼らは自分のように恵まれていないのだから」と口をつぐんでいなければならないだろう。そして現状にある程度の満足を感じている人間は、そうでない人間が有利に扱われたとしても、色々と我慢していなければならないだろう。
だが実際はどうか。大抵の場合は逆の使われ方をしているのではないか。より金銭的に恵まれている人間がそうでない人間に我慢を強いたり、立場的により恵まれた人間がそうでない人間に対してさらなる我慢を強いるために用いられていることが多いのがこのセリフなのではないか。
確かに、下を見れば幾らでも下があるわけで、多くの恵まれない者達もまた、最下層の者達よりは恵まれていると言える。しかしながら、そのようにしてもし仮にこのセリフの論理を優先させていくなら、相対的に恵まれているとされる全ての人間は、その最下層の人間達よりもちょっとだけ恵まれている状態にまでどんどん下方修正されていく可能性を否定できないことになる。もちろん、実際にはこの論理を用いる側の恣意的な線引きによってそれは回避されたりされなかったりすることになるのだが。つまり、このセリフの裏にはそのような恣意性の問題が隠されている。さらには、このセリフを大儀として下方修正や満足のいかない現状の維持が誰かに求められ、それが実行力を持つ時、それを求める側の人間は大抵、それらの人間より相対的に恵まれていることが多い、という大きな矛盾もまたこのセリフは抱えている。
そもそも、現状に対して大きな不満を抱えている者がただそれに対して不満を述べることさえ我慢できない人間がこのようなセリフを吐くこと自体がおかしい。不満をもらさずにいられる程度の現状への満足を獲得している人間は、それが気に入らなくても、より恵まれている者として我慢していなければならないはずだからだ。
人によっては、自分の方が恵まれていないぞ、そんな自分だって我慢しているのだから…ということをそのセリフを通して言っているのかもしれない。だが、自分が我慢しているから他人もまた我慢しなければならない、というのは少し自分本位すぎるだろう。自分が我慢するのは勝手だが、それは他人が口をつぐまねばならない理由にはならない。不公平だと思うなら、自らもその者達と同じように現状への不満を述べればよいだけのことだろう。
「現実を見ろ/現実逃避するな」の不可解さについての考察
というのも、全ての人間が自分の思い通りになり、全てが自分の見たいもので埋め尽くされているような都合の良い現実など存在しないだろう。よって、もしその者が現実を直視し、それを受け入れることをポリシーとしているのならば、いくら目の前に自分の思い通りにならない人間がいても、或いはいくら自分の気に入らない状況が目の前に繰り広げられていても、その現実を不平不満を言わずただ粛々と受け止めていかなければならないはずだ。態度の気に入らない者がいる程度のことで憤っているようでは、お話にならない。
ところが「現実を見ろ」というセリフは、決まって自分にとって都合の悪い態度を持つ他者としての現実に投げつけられる。つまりその行為は、セリフの意に反し、常に現実に対する拒否反応として表出されるという奇妙な特質を持っている。
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▼(1)「現実を見ろ」を背後で支えるルサンチマン
何故人は、自分の気に入らない他人――即ち現実――を目の前にした時、「現実を見ろ」と叫び、憤るのか。
まず一つハッキリしておかなければならないのは、前述したように、そこでの≪現実≫とは全ての人間が共有する条件としての現実とは全く異なったものであるということだ。それはあくまでその者が、「現実とはこのようなものだ/こうであるべきだ」と想起する状態の言い換えでしかない。
しかし、自分の思う≪現実≫と目の前の状況が異なっているから憤る、というのは正に現実への拒否反応そのものであり、そのような人間が「現実を見ろ」などと言っても全く様にならないはずだろう…本来ならば。ところが、実際にはその手の拒否反応は大勢の者に受け入れられ、支持されている。では何故そのような拒否反応が支持されるのか。それは、そこでは≪現実≫が個人には抗いようのないものの象徴として捉えられているからだろう。そして同時に、それは社会的趨勢(世間)のことを指して用いられていることが多い(――実際にはその者がそれを趨勢と認識しているだけで、一般的にはむしろマイナーな趣向や思想だったりすることも多いのだが、それもまたその者にとっての≪現実≫であることには違いない)。
つまり、「現実を見よう(受け入れよう)としない」とは、(個人ではどうやっても太刀打ちできないはずの)社会的趨勢に従おうとしないことを意味し、それ故それは愚かな行為ということになる。そしてそれはさらに、趨勢に従おうとしないということは自分が趨勢と張り合えるだけの力を持っていると思っているからに違いない、という推論――こういう言説を幾度となく見てきた――を経由することで、未熟さや傲慢さの表れであるということにもされる。こういった考え方が「現実を見ろ」という憤りのもっともらしさを支えている。
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だが実際は、全ての人間が一つのベクトルに収束することなどあり得ず、必ず趨勢とは異なったベクトルの動きが生じてくる、というのが全ての人間が共有する条件としての現実のはずだ。もちろん、現実への拒否反応が生じることもまた共有条件としての現実の一つではある。しかしその一つの現実で、他の共有条件としての現実を消し去ることはできない。
このことから分かるのは、その拒否反応にもっともらしさを見出す人間の中では、個人の力は趨勢にはかなわないという思いが、他の共有条件としての現実を覆い隠してしまうほど強力に作用しているということだ。
しかしそれだけでは、他人が趨勢に反する態度を取っているからといっていちいち憤ったりする理由にはならない。それが憤りに結びつくためにはもっと他にも何らかの要素が必要になる。ではその要素が何かと言えば、それは趨勢へのコンプレックスだと自分は思う。
――≪現実≫をまるで『水戸黄門』における印籠のように掲げ、趨勢に従え、と他者に迫る。しかし、だからといって別にその者達は≪現実≫を、社会的趨勢としての世間を崇拝しているわけではない。むしろそれを疎ましいものと思っていると捉えた方が妥当だろう。何故なら彼らは、≪現実≫を「嫌でも従わざるを得ないもの」や「従わなければ痛い目に遭わされるもの」であると唱えているわけだから。そもそも、もし好きで趨勢に従っているなら、いちいちそれをしようとしない/上手くできない人間に対して憤る必要はあるまい。
「現実を見ろ」という者達は、好き好んで≪現実≫に付き従っているわけではない。痛い目に遭わされるのが嫌だから仕方がなくそれに従っている。となれば当然、そこからは大きなストレスが生み出されることになるだろう。しかしその者達にとっての≪現実≫は、決して抗うことができない存在を意味しているから、それに直接その怒りをぶつけることはできない。その代わりに、溢れ出すストレスを趨勢的でない者に「厳しい現実」としてぶつけることで、復讐を果たす。恐らくは、自分だって好きで従ってきたわけじゃないのに、そのせいで沢山苦しんできたのに、それをしない人間がいるのは不公平だ、という僻みを入り混じらせながら。要するにルサンチマン。それこそが「現実を見ろ」という憤りを生み出す原因になっていると思われる。
これは、今現在において趨勢としての≪現実≫にストレスを感じていない者にも当て嵌まることだろう。というのも、立場的・腕力的に明らかに優位な者が周りの者を従わせようとするだけなら、「俺に従え」と言えばいいだけのことだからだ。それをわざわざ「現実に従え」と言い換えるのは、そこに復讐という性質――感覚上において、自らが受け取ったダメージと(原理的に常に過小評価される)他者が受け取ったダメージの均衡を取ろうとすること――が混じっていてこそのものだろう(もちろん、政治的にその方が格好がつくからということもあるだろうが)。
▼(2)現実認識の甘さが「厳しい現実」の魅力を引き立てる
≪現実≫の不可抗力的象徴性やルサンチマンは、「現実を見ろ」という拒否反応のもっともらしさや憤りの説明にはなるが、それだけでは多くの者にそれが正当性のあるものとして受け入れられていることの説明にはならない。そこには何の魅力もないからだ。苦味のある薬を欲する人間はいても、苦味のある毒を欲する人間はいまい。つまり、何かしらの旨みがなければ、それが多くの者に受け入れられることはない。
では、≪現実≫を受け入れること――趨勢に順ずること――のどこに旨みがあるのか。それは「現実逃避するな」という要求の背後にある考え方から読み取ることができる。
「現実逃避するな」というセリフは、「現実を見ろ(受け入れろ)」と同じような意味で用いられていることが多いのではないか。実際、現実を受け入れることを要求した同じ口から、「現実逃避するな」というセリフが出てくること、或いはその逆のケースを目にすることは珍しくない。だがこれもまた実に妙な話だ。というのも、この二つのセリフは本来全く逆のベクトルの意味を持っているからだ。
現実逃避というのは、今目の前にある現実――自らに苦痛をもたらすこの状況――を変えようのないものとして受け入れ、その逃れようのない現実の中で、如何にして苦痛を軽減させるか、という工夫として行われるものだ。もしその者が目の前の現実を受け入れていないなら、現実逃避などせず、どうにかしてそれを変えようとしてあがくことだろう。例えば、「現実を見ろ」と言って憤り、その目の前の現実を変えようとしたりするように。要するに、現実逃避は≪現実≫を受け入れることが前提になっている。よって、現実を受け入れることを要求した相手に「現実逃避するな」と言うなら、それは全く相反する二つの要求を突きつけていることになる。
その矛盾はさておき、現実の厳しさを突きつけられた者が、その苦痛を和らげようとして行っている工夫を止めさせようとするならば、そこにはそれなりの理由がなければならない。でなければそれは、単に相手により大きな苦痛を受け取らせようとしているだけ、ということになるからだ。それではただの卑劣漢でしかないだろう。
では何によってその正当性は担保されているのか。それは、「現実逃避するな」と言う者達が決まって困窮者達に対して投げつける、「そのような状況に追い詰められたのは、現実に立ち向かわずに逃げ続けてきたからだ」という類のセリフの裏にある考え方によってだろう。そこには、現実を直視し、一般的傾向としての趨勢に従いそれに適応しようとする努力を怠ってきたが“故に”人は窮地に陥る、という世界観がある。だからこそ苦しんでいるものは自業自得で、もっと苦しまねばならない、ということになる。しかしこれは逆に言えば、地道に趨勢に適応しようとする努力さえ続けていれば人は報われる、という希望がその裏に存在していることを意味する。そしてその希望故に、現実逃避を止めよと要求する者は卑劣漢であることから逃れることができている。
だが、≪現実≫に立ち向かえ続ければ――趨勢に収束するような努力を続ければ――なんとかなるという希望は、極めて甘い現実認識の上に成り立っていると言わざるを得ない。何故なら、実際は初めから≪現実≫に収束する能力を持っていない者もいれば、それに立ち向かい続けたが故にボロボロになり、つぶれていく者達も多数いるはず※1だからだ(趨勢の雛形に収まることが難しい資質を持った者がその努力を続けるということは、自己の存在自体を否定し続けることを意味する)。しかし、「現実逃避するな」から導き出される希望には、それらの条件が一切考慮されていない。
ただ、満足の行く現状を手に入れることができた者がさらにボーナスとして、私が≪現実≫に立ち向かい続けたが“故に”この現状を手に入れることが出来た(これは万能感そのものだ)、という自己肯定感をもさらに入手することができるという、趨勢への収束者に対する甘さを湛えているだけだ。
そしてその甘い現実認識が生み出す希望と自己肯定感、それを備えた「現実逃避するな」が「現実を見ろ(受け入れろ)」とイコールで結ばれることで、後者のセリフの正当性もまた保証されることになる。その甘さが、「嫌でも従わざるを得ない」や「従わなければ痛い目に遭わされる」といった厳しい現実を魅力あるものへと変貌せしめ、人々を惹きつける。
「現実を見ろ」の正当性は、このようにして支えられている。
▼(3)まとめ
ということで、最後に「現実を見ろ/現実逃避するな」というセリフ(或いはその使われ方)が持つおかしな点についてまとめてみる。
・現実への拒否反応を起こしている者の口からそのセリフが発せられる。
・己自身の認識としての一つの≪現実≫を絶対視し、あたかもそれが全ての者が共有すべき秩序であるかのような前提でもって話が進められる。
・憤りの根本にはルサンチマンがある――他に説明が付くだろうか?――はずだが、日本では余り一般的でないキリスト教文化を背景にして形作られるタイプのルサンチマンはやたらと問題視される一方、何故かこの手の日本文化を背景にして形作られるルサンチマンだけは全く問題視されない。
・本来正反対のベクトルを持つはずの「現実を見ろ」と「現実逃避するな」が同じものとして用いられている。
・趨勢に従おうとすることが「現実に立ち向かう」などと言い換えられる。
・甘い現状認識が希望を生み出し、それが「厳しい現実」の正当性を支えている。
※1 目の前にいる者が、そのような者ではないと断定することは誰にもできないだろう。こうすればこうなったはずだ、こうできたはずだ、という個々人の人生の可能性と結果を知ることができるというのなら、その者は私は神であると言っているのと同じことだからだ。
万能感とは、状況と認識の因果の逆転現象のことを言う×万能感無しに努力神話は成立しない
宮崎駿監督iPadについて「ぼくには、鉛筆と紙があればいい」と語る
生産に社会的価値が生まれるのは、それを消費する者がいるからだろう。逆に言えば、それを消費する者がいなければ、その生産は社会的価値を持ち得ない。よって消費を否定するなら、それは同時に生産の価値をも否定していることになる※1。もちろんそれが消費されずとも、その生産は個人的なものとしての価値を持ち得る。が、その時のその生産は――取り分け創作などは――周りから見れば正に自慰行為そのものだろう。彼の作品づくりとて、まずは純粋な自慰行為――もちろん、ここでのそれは自己満足のための行為を指す――からスタートしたものであるはずだ。そしてそれが消費されることによって初めて、その生産は単なる自慰行為という認識フレームから脱却することができている。あなたが手にしている、そのゲーム機のようなものと、妙な手つきでさすっている仕草は気色わるいだけで、ぼくには何の感心も感動もありません。嫌悪感ならあります。その内に電車の中でその妙な手つきで自慰行為のようにさすっている人間が増えるんでしょうね。電車の中がマンガを読む人間だらけだった時も、ケイタイだかけになった時も、ウンザリして来ました。(中略)一刻も早くiナントカを手に入れて、全能感を手に入れたがっている人は、おそらく沢山いるでしょう。(中略)あなたは消費者になってはいけない。生産する者になりなさい。
***
ここで重要なのは、自慰行為と生産は必ずしも排他的ではないということだ。自慰行為であると同時に、生産としての価値を持っている、という状況も当然あり得る。つまりこの対立は、生産者と消費者の対立というより、むしろ自慰行為で金儲けが出来る(している)人間とそうでない人間の対立と見た方が妥当なのではないか。
そしてそれ故にその対立の根は深い。何故なら、自慰行為で生計を立てられるような人間なんてほんの一掴みだし、金儲けとまでは行かなくとも、創作などの自慰行為を社会的価値を持った生産にまで引き上げることが出来るような人間もまた、やはり限られているからだ。もちろんそれで金儲けをしたり、それを社会的価値を持つ生産にまで引き上げるためには、それ相応の苦労が必要となるだろう。だが、多くの人間はそもそも、幾ら自慰行為と仕事とを一致させたくてもできなかった人間であり、幾らそれを価値ある生産へと昇華させようとしてもできなかった(できない)人間だ。そしてそうであるが故に、その満たされなさを個人的趣味としての自慰行為で補っている面がある(というか、全く自慰行為無しに生きていられる人間なんていったどれだけいるのだろう?「私はそうだ」と思う人がいても、大抵それは自身に対する自慰行為認定が甘いだけだろう)。
ところが、その満たされなさを補うためのものとしての自慰行為を、それを社会的に価値あるものにまで昇華できる能力を持った者が非難してしまうわけだ。要するに彼の主張は、自慰行為批判というよりも、むしろ自慰行為批判という体をなした自慰行為の特権化なのではないのかと。
▼(2)人生における因果の認識は常に状況の後に作られる
彼は全能感を、恰も生産とは間逆のベクトルに位置するものであるかのように捉え、それを否定的に見ているように思える。だが、だとしたらそれは大きな誤りだ。では、何故それが誤りであるのか。それを説明するためには、まず全能感/万能感※2とは何か、ということを明らかにする必要があるだろう。
<追記7/20※2>途中から「全能感」という表現が「万能感」という表現に置き換わっていたことに気づいた。自分はこの二つを基本的に同じものとして解釈しているのと、間を置いて続きを書いたこともあって、より馴染みのある表現に摩り替わってしまった模様。仮に専門的に見てこの二つに厳密な違いがあったとしても、どちらも「状況と認識の因果の逆転」という要素が鍵となることには違いないはずなので、表現が入れ替わっても趣旨自体は変らないということで、ご理解をお願いいたします。
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――その者が果たしてどのような人間となり、どのようなことをなし、どのようなことをなさないのか。それは、その個がどのような資質と環境をもって生まれてきて、どのような人物や環境と出会い、そしてどのような経験を積んでいくか、ということで決定されていく。ところが個人の意思は、その内のどれ一つとして選ぶことができない。
経験などは、一見自分の意思である程度選択することができる余地があるようにも思えるかもしれない。だが、一応セオリーみたいなものはあるにしても、其々の条件は皆違っていて平等ではないから、未来を知ることができない以上、経験の選択というのはただサイコロを振っているようなものでしかない。少なくとも、其々で条件が余りにも違いすぎる「人生」という項目においては、最善の選択なんてものは元々存在し得ない。それが最善のものであったのか、それとも最悪の選択であったのか、というような判断は、常に後になってから意味づけられるものであるからだ。
さらに言えば、意思による自由な選択といっても、その選択は、その個人が持つ条件と、その個人がどのような環境に置かれているかという、二つの条件によって常に限定されている。意思による選択は、常にこの二つの条件の奴隷であって、そこには無限の可能性などありはしない。そして、その者はどのような選択の可能性を抱えているか/いたか、ということは誰にも分からない。
これらの条件からどのようなことが言えるかといえば、それは自意識が自分という状況をコントロールしているとするには、余りにも無理があるということだ。選択はギャンブルに過ぎず、選択を制限する条件は運によって決定される。そしてどのような選択が実際に可能であって、可能でなかったのかということは、実のところ誰にも分からない。その選択がその者の後の状態にどのように関係し、影響をもたらすことになるのか、ということも。実際には、後になってからもその因果の詳細を知ることはできないだろう。人生という、余りにも広範で、其々によって余りに条件が違いすぎるその枠組みにおいては。
要するに、まず何らかの状況が先にあり、意味づけや認識は、常にその後追いとして生み出されている。「こう思うから/思ったから」ある状況が作り出されるのではなく、ある状況が作り出された後に、その状況の解釈として、「こう思うから/思ったから」が生み出されている。自意識は常に状況の後続者なのだ。
例えば、「私は生産をしたい/私は生産をしようとしている/私は生産をしている」という認識は、自意識によってそのように認識されるような状態が先に成立しているが故のものであって、そのように認識したからその状況が作り出されているわけではない。そして、それ自体は同じ経験であっても、その後に作り出された状況によって、「今から思えばアレもいい経験だった」となることもあれば、「アレが原因でこんな酷いことになった」ともなり得る。それが確定されるのは未来の話であって、現在ではない。つまり、その者が預言者でもない限り、自意識が状況をコントロールしているなどと言うことは到底できない。
だがそれでももし、個人の自意識の努力(選択)具合によって状況をコントロールし得るのだと看做すのならば、それは誰かがサイコロを振って良い目が出たら、そこから過去へ遡って、「あの時自分が良い目が出るように努力をしたから良い目が出たのだ」とか、「あの時の自分の心がけがなっていなかったから悪い目がでてしまった」というような考えを肯定しているのに等しい。
ところが、それでも世間一般では、まるで個人の意思が自己を好き勝手に動かしてきた結果として、其々が持つ現在の状況が作り出されているかのように言われる。その状況が生み出されることになったのは、その者が持つ自意識がそうなるように選択したからそうなったのだと言う。つまり、まず先に自意識の認識と働きかけがあって、その自意識の働きかけによって後の状況が形成されていくと看做すのが、最も一般的な見方となっている。そこでは状況と認識の逆転現象が起こっているのだが、この逆転現象こそが万能感の正体と言えるだろう。
そして状況と認識の優位が逆転するということは、自意識は物事の因果をも見通すことができる、ということにもつながっていく。――例えば、「お前はもっと良い選択ができたはずだし、もっと努力できたはずだ。そしてそうしていればそんな状況に陥ることはなかったのだ」などと言う者がいるとしよう。しかしそれが真であるためには、その者の自意識がその対象が持つ選択の可能性と、それによって見出された其々の選択が今の状況にどのように関係しているか、いないかという因果を見通す力を持っていなければならない。つまりこの主張は、(その者自身はそのことを意識していないだろうが)己の自意識が、本来知ることなどできないはずの因果の詳細を見抜くことができている、という前提をもってなされている。そのような前提を持ちうるのも、この万能感の下支えがあってこそのものだろう。
▼(3)万能感が無ければ努力神話は成立しないし、生産もまた難しくなる
で、再び話を戻すと、――この万能感というのは、別に特殊なものでもなんでもない。多くの者は、元々この万能感を持っている。もしそれを失ってしまえば、己の存在意義の根拠を自己のコントロール機能に依拠している多くの自意識は、アイデンティティが崩壊し、やがて自己と共に自壊へと向かうことになるだろう。つまり、万能感を持っているということは非常に一般的であり、むしろそれを持っていない者の方が稀であり、尚且つ、それを失ってしまうことは、その者にとって余り良い状態とは言えないことの方が多い。そして何よりも、この万能感は努力神話の根源だ。この自意識万能論説が否定された時、努力神話は完全に瓦解する。何故ならそれが否定された時、「努力しようとする意志」は、実はある状態が作り出された後に、その状態を受けてそのように認識しているだけの単なる受身的感触であって、意志は努力という状態を生み出している功労者ではない、ということになるからだ。
よって、とりわけ努力神話を信じている者は、その根本をなしている自意識万能論説、つまり、自意識の万能感を否定することなどできないはずなのだ。だが、宮崎氏はどうみても努力神話の信仰者であろう。従って、むしろ彼は、本来なら万能感を擁護しなければならない立場のはずなのだ。
***
そして万能感が努力神話と切っても切り離せない関係にあるのと同じように、それは生産とも高い親和性を持っている。というのも、――場合によっては社会的価値を持つ生産を特に意識することもなくなんとなくしていた、なんとなくできていた、という状況もあるだろうが――それがなされる場合の多くにおいて、その者が持つ自意識は、基本的に己の意識の力が目の前の状況をコントロールし、意図するように作り変えることができるという錯覚を抱いていることが殆どであるだろうから。逆に、その者が持つ自意識が、ある事柄をなすことに対して「できるわけがない」と認識していた場合、その者によって価値ある生産がなされることになる可能性は極めて低くなるだろう。つまり、その者がそのような錯覚――つまり万能感――を抱くことができるような状態になければ、それだけ生産行為は難しくなる。よって、万能感は生産と逆ベクトルにあるどころか、むしろ――例外はあるにせよ、多く場合において――その前提として必要とされるものなのだ。
だから全能感を否定しながら生産を奨励するというのは、一般的傾向から見てかなり無理がある。もちろん、努力神話を否定した上でそれをも否定し、それよりも生産のための環境を整える方が重要だ言うのなら、それは分かるのだが。どちらにせよ、遊び(自己満足)と生産が相反するようなものである、というような見方には、やはり納得できない。
<追記7/20> ↑自己満足(意義の感触)は、モチベーションの元にもなっている。蓄積されたものも含めて、それが完全に失われると廃人にならざるを得ない。
※1 おそらく彼の中では、生産を「消費者たり得ない純粋(神聖)な子供」への奉仕活動とすることで、その矛盾を解消しているのだと思うが。
「批判をするな」「無駄だから止めろ」というイカサマ論法
そもそも、例えどんな人間であっても批判をする権利が認められている、というが民主主義の大前提だろう。もちろん、果たしてそれが本当に批判として成立しているか、ということは問われることになるが。そういう面から見ても、“「批判をするな」という批判”は単に一方的に――自らでさえ踏みつけにしている――その規範に従うよう要求しているだけであって、批判にすらなっておらず、二重に誤っている。
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相手の主張を遮るために用いられる似たような論法としては、他にも「無駄だ(その意見が力を持つことはない)から(批判を)止めろ」というものがある。だが、誰もが完全に納得するような状態なんてものは存在し得ず――独裁によって表面上それが作り出されることはあるが――、例えどのような状況が成立していようとも、常にそれに対して不平不満を述べる人間が出てくるというのが人間社会の大前提だろう。よって、本当にその考えが正しいと思っているのなら、自らが「無駄だから止めろ」と言うのを止めればいいだけの話だ。
つまり、これもまたただのイカサマ論法でしかない。いや、もちろん局所的にはその発言が社会的抑圧として機能することで、その小集団内で誰も表立って不平不満を言わなくなるような状況が作り出されることはある。だからそれは完全には無駄な行為であるとは言い切れない。が、その時のそれは、主張というよりもむしろ内容的には単なる脅しであり、ただの一方的要求になっているので、やはりそのような論法もまた、議論や対話の上で有効な意見として認められるべきではないだろう。大体、それが無駄になるという、恰も未来のことを知っているかのような前提で物事を言うこと自体、おかしな話だ。
▼人間は「無駄でないから」何かをするのではない
無駄云々についてもう少し言うなら、人々が怒ったり笑ったり悲しんだりするのは、別にそれによって何らかの目的が達成されるからではないだろう。だからといってそれが無駄であるとは言えまい。それは批判にしても同じことのはずだ。何らかの動機に突き動かされて批判をしているということは、その時点でもう既にその行為は無駄とは言い切れないわけだ。
そもそも人間は、予め何らかの達成すべき目的を持って生まれてくるわけではない(多くの宗教ではそういう説を採るが)。それでも人間は存在し、何かを行う。つまり、そこに意味や目的がある――無駄ではない――から人間は存在しているのではなく、人間が存在しているからこそ、何かが行われるからこそ、そこに意味や目的が生まれてくる。
これがもし、何かしらの目的を達成する可能性を持たないものは無駄であり、それはなされるべきでないとするならば、初めから存在に先立って何らかの目的を持っているわけではない人間自体が無駄であり、存在すべきでないものとなる。当然、人間の存在が前提となる、「無駄か否かの判断」自体も無駄ということになる。「無駄だからすべきでない」説は、人間の存在自体を、そしてありとあらゆる行為そのものを否定するものでもあるわけだ。
――まあそういう自分は、自分の存在も人間の存在も無駄だと思っているけど。でもそれはあくまで自分からしてであって、他人もそうだとは限らない。「無駄だからすべきでない」説の一番奇妙なところは、初めから人生の目的も意味も世界観も一致していないであろう他人にとっての必要・不必要を、勝手に自分の感覚で決めているところだ。あんたの感覚は「人間の総意」か何かなのか?と。
「国家/社会/世間」という概念は、それ単独では正しさの根拠になり得ない
◆<ケース1>チームが惨敗した場合
asahi.com(朝日新聞社):W杯惨敗フランス、政治問題に発展
サッカーのW杯南アフリカ大会で内紛の末に惨敗したフランス代表が24日、帰国した。排外的な与党議員有志らが、移民社会出身の選手らの再教育を求める趣旨の要望書を政府あてに提出。大のサッカーファンというサルコジ大統領はといえば怒り心頭の様子で、自ら代表の再生に乗り出した。(中略) 右派与党の民衆運動連合(UMP)の有志議員13人は23日、「もうたくさんだ」と題する要望書を政府に提出。国歌斉唱や祖国への忠誠など代表選手の義務を定めた憲章をつくり、選手全員に守らせるよう求めた。リベラシオン紙によると、UMP議員の中には、アネルカ選手ら移民社会出身者を「社会のクズ」とさげすむ人もいたという。
◆<ケース2>チームが善戦した場合
【W杯】TV観戦の橋下知事「意気揚々と国歌…教育現場はズレてる」(産経ニュース)
この手の人らは何かあるたび、それにかこつけてこういうこと言い出すからなあ。物事が上手くいかなければ、それはその者達の国歌斉唱/祖国への忠誠心の度合いが足りなかった結果であり、よって人々にそれを義務づけなければならないと言い出し、逆に物事が上手くいったらいったで、それは国歌斉唱/祖国への忠誠心のお陰であり、だからもっとそれを推し進めるためにやはりそれを義務化しなければならないと言い出す。結局どっちに転がっても自分の都合の良いように持っていけるという無敵論法。こういった手法は、「社会のクズ」のように、「国」の部分を「社会」に入れ替えて用いられることも多いが、むしろこういう無敵論法にこそ「もうたくさんだ」が突きつけられるべきなんじゃないのか。サッカーのワールドカップ(W杯)をテレビ観戦していたという大阪府の橋下徹知事は30日、「惜しかった。PK戦は酷ですね。日本代表はあそこまでよくがんばった。国民は大いに盛り上がって感謝している」と話した。
そのうえで「会場では国旗が掲げられ、国民は意気揚々と国歌を歌っていた。うちでも子供たちに歌わせた。教育現場と国民の感覚はずれている。国旗、国歌は日本の象徴であり、しっかりと教えるべきだ」と述べた。
というか、国歌を一生懸命歌った/歌わなかったことと結果の良し悪しを結びつけるなんてのは、完全にオカルトでしかないだろう。それに、国歌斉唱や祖国への忠誠心を示すためのより強固なシステムが確立されている国の代表としては北朝鮮が挙げられるが、あそこはそんなに良い国だろうか。国の代表、象徴を称える、国民の鬼気迫る笑顔はそんなに素晴らしいものに見えるだろうか。
別にこれに限ったことではないが、どんなことであれ、その当人が無理矢理それをやらされていると感じていれば、その者が持っている本来の力を上手く発揮できるはずもない。当人が望んでそれをやっているからこそ、その者が持つ本来の力が引き出される可能性が生まれ、その者がその物事に関わることの価値もまた生まれてくるわけであって。それを脅しによって無理矢理自分の思い通りに動くよう仕向け、それによって相手が実際に嫌々自分の思い通りに動いてくれたところで、そんな恐怖に裏づけされた自作自演に一体何の価値があるのだろう。そんなやり方では、表向きは方針通りに動いているようであっても、人々の内心では不平不満の大合唱が巻き起こっているであろうことを想像するのに難しくないし、そういう集団のまとまりは、何かちょっとしたきっかけで脆く崩れ去りかねないだろう。まあそういうことを思い浮かべる想像力が無い、もしくはそれを何とも思わないからこそ、こういう形での要求を平気で他人に突きつけることができるのかもしれないが。
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▼「×国を愛せ→○俺を愛せ」「×社会に従え→○俺に従え」
これは「国家」だけでなく、「社会」でも「世間」でも同じことだが、それらは確かに組織/群れとしての実体はあるものの、かといって実際に実体を持った主体としてそれらが存在しているわけでもなんでもない。何故なら、それらはあくまで概念上の存在だからだ。
そうである以上、国家像や社会像、世間像もまた人の数だけ存在する。それが何か統一的な内容を持った一つの主体として統合され、実体化するなんてことは在り得ない。そして其々の持つそれらは、それがどのような形であるべきか、ということで常に競合し合っている。つまり、この世界は個々人の持つセカイ観がぶつかり合うことによって成り立っている。だから絶対的な真理としての「国家」や「社会」は存在しないし、その概念はそれ単独では何らかの正しさの根拠にはなり得ない。このことは、「どのような国家や社会が正しいのか」ということは設問になり得ても、「(特定のそれではなく、概念としての)国家や社会は正しいか」ということは設問として成立しない、ということを考えてみればよく分かるだろう。
ところがこの手の人達は、その概念そのものを自身の正しさの根拠とし、他人に何かを要求する。それが何を意味するかと言えば、本来ならば数多存在し、競合し合っているそれらの中でも、とりわけ自身の抱く国家像や社会像――個人的なセカイ観――を恰もその場所における唯一無二としてのそれ、つまりその概念における真理としてのそれであるかのように特権化しているということだ。そうであるが故に、自らが「国家」や「社会」、「世間」の代弁者であるとして、他人に何かを要求できる。或いは、自らの抱くセカイ観に照らし合わせて芳しくない状況が作り出されていることを見て、“「国家」や「社会」が、「世間」が軽んじられている”と言って憤ることになる。
だが実際には、そこで言うところの「国家」や「社会」、「世間」とは、しょせん自分自身の持つセカイ観のことであり、個人的感覚のことでしかない。そこで軽んじられているのはあくまで「俺の国家観」であり「俺の社会観」でしかない。そしてむしろその“軽んじ”は、――その者達が実際にそれを「国家」や「社会」と呼ぶかどうかはともかく――基本的に其々が持つそれらの概念(「国家/社会」)を重んじたが故に起こる、セカイ観同士の衝突としての結果なわけだ。
つまり、「国を愛し、忠誠を誓え」と言って他人に何かを要求するということは、結局「俺(のセカイ観・感覚)を愛し、俺への忠誠を誓え」と言っているに等しく、「社会に従え」と言って他人に何らかの態度を取ることを要求することは、自分自身の個人的感覚以外に何の根拠も示すことなく、ただ単に「俺に従え」と言って他人に迫っているだけでしかない。そこでは、「どのような国家や社会が正しいのか」という問いを通り越し、いきなり「(概念としての)国家や社会は正しい」という意味不明な結論が導き出され、それを理由として要求が行われている。
▼ジャンルとしての≪セカイ系≫は、現実社会におけるセカイ系願望によって否定される
数多ある内の一つでしかない個人的なセカイ観を真理に置き換え、その真理を根拠として他人に何かを要求する――そういう意味では、こういった態度はセカイ系願望の表れとして見ることも出来るだろう。
しかしそうしてみると、どうもバランスが悪い。というのも、現実社会においては、個人的な「国家/社会/世間像(セカイ観)」を真理化し、それを根拠として他人に何かを要求するという手法――セカイ系的前提を必要とするそれ――が、非常に一般的なものとして人々に重宝されている一方、創作物におけるジャンルとしての≪セカイ系≫は大変イメージが悪く、人気がないからだ。
創作物において、何をもってして≪セカイ系≫とするかということは、ちゃんとした定義は存在せず、其々見解は分かれることだろう。ただ一つ言えるのは、そもそも娯楽作品としての物語は、元々其々の持つ個人的なセカイ観を如何に魅力的なものとして拡充し、提供できるか、ということで成り立っているわけで、そういう視点から見ると、分類としてのそれはともかく、実は全ての物語はそういったセカイ系的な側面を兼ね備えている、ということだ。さらに言えば、そもそも人間は自らの持つ固有の条理性によって様々な事象を因果で繋ぎ合わせ、物語化することで現実を理解している。というか、人間はそういう形でしか現実と触れ合うことができない。そういう意味では、基本的に「現実物語」自体がセカイ系そのものとも言えるわけだ。
もちろんここでいうセカイ系とは、一般的に言われるジャンルとしてのそれとは意味も内容も異なる。が、人間は本質的にそういった個人的セカイ観という制限から逃れることはできないということから考えても、単にそれがことさら強調されているという理由だけで、ジャンルとしてのそれを否定するなんてことはできないだろう。もちろんだからといって、それが持つ内容自体が批判を免れるわけではない。そこに何か無理や欠陥、手抜きがあり、そこで提示されたセカイ観が破綻していれば、やはりそれは批判されるし、倫理的な面から咎めを受ける場合もあるだろう。他の創作物と同じように。が、ジャンルそのものが否定される言われはどこにもないはずなのだ。
――だが、現実社会における折衝においてはそうはいかない。というのも、現実社会ではそもそも、其々異なったセカイ観を持った者同士がその場所でどのように折り合いをつけて暮らしていくか、ということが常に議題となっているからだ。つまり現実社会では、其々のセカイ観が常に競合し合っているということが先ず大前提としてある。そしてその上で、それらをどう整理していくか、というのが議論であり対話であり其々の主張であるわけだから、その大前提をいきなり否定し、「私の持つこれこそが本物のセカイ観(「国家/社会/世間像」)である。だから人々は無条件にそれに従うべきだ」というようなセカイ系的主張は認められるべきではない。ところが何故か、創作物における≪セカイ系≫――ジャンルとしてのそれ――は否定され勝ちなのに対して、現実社会におけるセカイ系は大人気という。一体なんなんだろうね、これは。
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いやまあ、自分のセカイで世界を塗りつぶしたいという強いセカイ系願望を持つ者からすれば、他人のセカイ観の拡充であることがことさら強調される≪セカイ系≫的創作物は競合対象としてもとりわけ目立ったものとして認識せざるを得ないだろうから、その者がそれに対して特別腹立たしく思うというのはある意味当然と言えば当然であり、その憤りは理屈としては分かるのだが…。
にしても、現実社会でそういったセカイ系願望を撒き散らしている者達が、それ故に創作物におけるジャンルとしてのそれをゴミ扱いするという日常的風景には、いつまで経っても中々馴染めない。相手のそれを否定することによって自身のセカイ観に相対的な価値をプラスしようとするよりも、素直に「他人のセカイ観が例えどれだけ世間から評価されようとも、俺にとっては俺のセカイ観こそが最高だ」と言って胸を張っていればいいのに。それが認められるのが創作や空想なわけだから。そして相手が個人的セカイ観を現実社会における正しさの根拠として持ち出した時のみ、それを精一杯否定すればいい。
微妙に嫌な感じ
自分は「FF」派だけど、初代開発者が「FF」と呼んでいるからといって「FF」という呼び方が「正しい」ってのは疑問に思うな。例えば日本にはニホンとニッポンという呼び方があるが、これを天皇がそのうちのどちらかの方が正しいと言ったら、それまで広く一般的に用いられていたもう一方の呼び方は間違いだったということになるのか?それ以降その呼び方を用いてはいけないことになるのか?そんなわけはないだろう。
そもそも言語は一個人のものとしては成立しない。例え国を作ろうがゲームを作ろうが、その者は言語の創造主にはなり得ない。それが広まらなければ言語として機能し得ないからだ。そしてそれは常に変容していくもの。故に、本来言語に正誤はない。あるのはただ意味が伝わるか伝わらないか、それだけだ。勿論、実際には正誤を判断するための基準とされるものがあるにはあるが、それはあくまで便宜から生じたものであり、その「正誤」はそのシステムの上に限定される「正誤」でしかない。国語のテストで正解とされる言葉だけが「正しい」わけではないし、それ以外は使うべきでないという考えがあるとしたら、それが如何に偏狭で独裁的なものであるかというのは言うまでもないだろう。
もしどこかで「FF」と「ファイファン」という呼び方の非統一性によって何か不都合が生じることがあるとするならば、その問題が生じる集団内で話し合って便宜上の正しさを設定し、その場所ではそれを用いればいいだけだ。初代開発者が特定の呼び方を正しいと言っているからといって、いきなり全般に於いてその呼び方で統一する必要なんてどこにもない。その社会が極端な権威主義や画一主義を志向していでもしない限り。
他人のせいにするな!※ただし俺を除く
追記:
「他人のせいにするな!」というセリフにも様々な使われ方がある。例えば、相手の主張に瑕疵があることを述べる前の枕詞言葉的なものとしてそれが用いられることもある。この記事で指摘しているのはそういったものではなく、あくまでそれを他人に社会規範として要求するような使い方をする場合に於ける「他人のせいにするな!」に限る。
中央集権化する地方
これが噂の地方分権?そんな馬鹿な。其々の市町村や学校、個人に決定権を移譲し、それによって現場の自主性・独自性を高めようとすることこそが、地方分権の根本にある理念に合致する手法のはずだ。都道府県の首長に絶対的な権限を与え、その意向に異を唱える者達を要職から排除していくというのは完全にその理念に逆行するものであり、それこそ中央集権型の恐怖政治と言えるだろう。大阪府の橋下徹知事は23日、府の教育改革の一環として府内の公立小中学校に実施を働きかけている漢字の読み書きや計算などの反復学習を巡り、「きちんとやっている学校が少ない。(反復学習を)やった市町村とやらないところをオープンにする。やらないところの市町村長は次の選挙で落としてほしい。これが政治、地方分権だ」などと記者団に述べた。
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ここでは「地方分権」という単語が地方内部の中央集権化を推し進めるための大儀として用いられるという、何とも奇妙な逆転現象が生じている。そしてまるで魂(理念)を失ったゾンビの如く、裏返った「地方分権」が日本中を徘徊し、着々と地方の中央集権化を実現させるための仲間を増やし続けているのが現在の状況。この逆転現象(ゾンビ化)に歯止めをかけるための目立った動きや指摘はいまだ見られない。
とはいえ少し視点を広げてみれば、この現象は必ずしも「奇妙なこと」であるとも言い切れない要素を持っているようにも思う。
例えば「ヤバい」というのは良い意味だろうか、悪い意味だろうか?答えはそれが使われる状況による。「格好良い」という表現もまた、場合によっては本来の意味に反し、相手の容姿や振る舞いをからかうためのものとして用いられることがある。こきおろしの王様である「馬鹿」という単語でさえ、一種の褒め言葉として用いられることも珍しくない。かつて良いイメージで用いられていた「ゆとり」という単語は、今や完全に誹謗語だ。そして六本木は「ギロッポン」に、ジャズは「ズージャ」になる。いや、これは違うか。まあそれはともかく、このように言葉の意味はどんどん表と裏が入れ替わっていくものなのだ。同じ様に、昨今は「中央集権」の意味で「地方分権」という単語を用いるのがトレンディというわけだ。全く、言葉(大儀)の持つ意味(理念)はかくも簡単に変容してしまうものなのだな、と再確認した次第。
感情的であることを批判するということ
何故「財源の問題や外交・安全保障」が情緒的な話でないと思うのだろう。多くの人々は自殺の問題を他人事としてしか見ていないだろうから、情緒的になるといってもたかが知れているはずだ(人によっては「生かさず殺さず」の手駒が減ってしまうとして本気で激怒する人もいるだろうが)。むしろ人々が本当に情緒をむき出しにするのは、より身近に感じられ、より利害の対立が分り易い構図として提示され易い財源の問題や安全保障※1の問題に於いてだろう。河村官房長官は17日の記者会見で、民主党の鳩山代表が党首討論で医療事故や若者の自殺問題などを取り上げたことについて、「お涙ちょうだいの議論をやるゆとりはないのではないか。財源の問題や外交・安全保障などテーマは多々ある」と述べた。
長官は「人の命は重要なテーマだと考えているが、情緒的な話をしている段階ではない」とも語った。
そもそも、論理の裏には必ず感情/感覚が存在しているはずだ。理屈と感情が切り離せないものであるということは、人間活動を理解しようとする際に大前提として踏まえておかなければならないことだと思うのだが。
まあこの場合は、どうせ殆どの人々が他人事としてしか思っていないであろう問題を態々取り上げ、それで人気取りをするのはズルい、という河村氏の情緒がついつい口を突いて出てしまった結果としてのものなんだろうけど。
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それにしても、相手が感情的であるということを指摘し、それを暴くことが批判として妥当なものになり得ると認識されたり、実際にそれが批判として有効に機能してしまったりするのは、よく考えてみるとおかしな話だ。勿論、主張の際にやたらと怒鳴り散らす、怒りで我を忘れて暴力を振るう、誹謗中傷を行う、或いは余りにも極端な主張を行うなど、そういう状態にまで至った者がいれば、それに対して「感情的だ」と批判するのは分かる。だが、そうでもないのに取り分け相手が「感情的」であるということを指摘し、そのことで相手を批判しようとすることは、単なる自己言及に他ならない。何故なら、「感情的だ」という批判はあくまで印象批判――つまり感情的批判――でしかないのだから。よって、感情的な主張が駄目なものだとすれば、そのような批判はパラドックスを生み出し、批判として成立しない。さらにそれは、「私は感情的ではありませんよ――他者からそのように見られたい」という当人の情緒が表にさらけ出された瞬間でもあるわけで。
要は、感情的であること指摘することは、それ単独では批判として成立しないということ。もし誰かが感情に任せて行き過ぎた行為や論理を展開すれば、それに対する批判を行えばよいだけの話で。
※1 本当は自殺問題こそ最も重要な安全保証上の問題のはずなんだけど。少なくとも日本に於いては。というか、医療事故だって安全保障の問題じゃないか。これらが安全保障の問題でないとするならば、一体何の問題なのだろう。本当に「人の命は重要なテーマだと考えている」ならば、このような発言ないし認識が出てくるとは到底思えないのだが。もしかして、安全保障と言えば仮想敵国のことしか頭に浮かばないのだろうか。北朝鮮が何かする度に内閣支持率が上がる、という状態が長らく続いているが、いい加減そんなものに寄りかかろうとするのは止めた方がいい。人々の安全を脅かす本当の脅威は、むしろ国内にこそあるのだから…とは言ってみたものの、外部のそれに依存するのを止めれば、今度はその仮想敵国が内面化され、余計に酷いことになりそうな気もするな。特に自分みたいな人間は、真っ先に北朝鮮役を任せられそうだ。まあ、今でも充分それに近いものがあるが。
他人の犠牲というチャンス、「他人迷惑を掛けるな」という欺瞞
「再編に着手する最適なタイミング」というのはつまり、前々から再編の計画はあったものの、ただ再編したいという理由だけで人減らしを行えば世間から顰蹙を買いかねないしどうしよう、なんて思っていたら、ちょうどそこへ大不況という人減らしを正当化出来そうな口実が表れたので、これを好機として人員を削減しよう、ということだろう。シャープは12日、液晶パネル工場の一部を閉鎖するなどし、液晶事業を再編すると発表した。これに伴い、三重(三重県多気町)、天理(奈良県天理市)、亀山(三重県亀山市)の3工場で、計約380人の派遣社員を削減する。液晶パネル市場に余剰感が出るなか、古いラインの整理で生産効率を高める。 (中略)
井淵良明・副社長執行役員は同日午前の記者会見で、「(市場全体の余剰感をみても)再編に着手する最適なタイミングと判断した」と話した。シャープ全体では、約1300人の派遣社員がいる。
しかし、兵庫県の井戸知事がこれと似たような性質をもつ発言(「関東大震災が起きれば相当ダメージを受けるから、これはチャンスですね」)を行い、世間から一斉に叩かれることになったのは記憶に新しいところだ。ならば、井戸知事的に言い換えてみれば、「大不況が起こって人減らしの口実が出来たから、これはチャンスですね(今回の選択は、共倒れか切捨てかという状況に迫られた上でのものではなく、戦略的なものだろう)」といったような内容の発言をした井淵氏もまた、井戸知事と同じ様に世間から一斉に叩かれてもおかしくはなかったはずだ。だが実際にはそうならなかった。
井戸知事の発言が、目的の為に(自分の権限や影響力によって起こすことが出来るわけではない)震災という他人の不幸を期待するだけの内容だったのに対し、今回の発言は、実際に起こった不況という状況を利用し、目的の為に自らの持つ権限によって積極的に他者に不幸をもたらすことを旨としたものであり、井戸知事の発言よりもずっと酷い内容のものであったのにもかかわらずだ。
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では何故、井戸知事はあれほど激しく叩かれ、それよりも酷い発言をした井淵氏は殆ど叩かれなかったのか。それは結局、井戸知事の場合はその発言によって観念的に作り出された、震災よって利益を得る者と被害を被る者という対立に於いて、殆どの者が心情的に後者の方に身を置いた一方、井淵氏の発言では、それによって作り出された、「何らかの集団」に於ける多数派の生活水準を維持する為に、一部の人間を切り捨てる側と切り捨てられる側、及びそういった切捨てをよしとする人工的環境(常識)の成立を認める側と認めない側という対立に於いて、殆どの者が心情的に前者の方に身を置いたからだろう。
これはひどい。がしかし…
上記の記事では、井戸知事の発言は確かに酷いが、バランス的にいってちょっと叩かれ過ぎではないか、といったようなことを書いた。だが、今回の井淵氏の発言が殆ど非難されることも無くすんなりと世間に受け入れられたのを見て改めて思ったのは、井戸知事の発言は、その(純粋な)内容によって叩かれたわけではなかったのだな、ということだ。
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全ての人間が満ち足りた人生を送ることは出来ない。全ての人間がその寿命をまっとうすることが出来るわけでもない。そして何らかのシステムを健全に保ち続けようとすれば、適時そのシステムから誰かを切り捨てたり、割の合わないような役割を誰かに押し付けたりしなけれはならない。こういった非情な掟に対して抗おうとする性質もまた人間は持っていて、実際その力もまた常に(ある程度は)働いているのは確かだが、かといってその非情さが完全に克服されることはない。
勿論、実際にはシステムから切り捨てた者達もまた、その多くは何とかして現実に居残り続けようとするはずであり、切り捨てればそれでしまいというわけには行かない。それをすることによる副作用も必ずある。また、他者が不幸を背負えば背負うほど自身が利益を獲得出来るといったような単純な構造が存在しているわけでもない。物事の一部分を仮想的に切り取って観察してみるならともかく、現実には、其々の個人との関係性や物事の因果関係すらはっきりしてはいないことの方が圧倒的に多いことだろう。だが、誰かの生活水準を保つ為に、他の誰か※1の不幸がそのコストとして支払われているという事実は確実に存在し、それは誰もが知るところだ。そして、出来ることならそのコストを払うのは自分であって欲しくないという思いは誰もが持っていることだろう。
つまりそれは、人は常に誰かの不幸が自分の人生を維持する為のコストとして支払われることになるのを期待しているということであり、逆に、誰かからそのコストとして犠牲にされることに怯えているということだ。そして井出知事は多くの人々に「怯え」をもたらし、井淵氏は多くの人々に「期待」をもたらした。それが彼らの評価をわけ隔てた分水嶺となった。
だが、自分が他者を主に犠牲にする側になるのか犠牲にされる側になるのかを、黙って運に任せて成り行きを見守っているだけじゃ不安で仕方が無いことだろう。そこで道徳のお出ましとなる。それによって人々は、他者の犠牲を期待しておきながら、或いは他者を犠牲にするための具体的な行動を起こしておきながら、他者を犠牲にするのは良い結果にはならない、という偽の情報をばら撒き、或いは道徳的な感覚を他者に植えつけ、罪悪感によって雁字搦めにして自由を奪うことで、他者を出し抜こうとする。主に犠牲にする側になろうとする。
しかし、自分達の生活水準を保つ為に他者の不幸をコストとして払わせることも、他者を道徳で騙し束縛することも、他者にとっての大きな「迷惑」であることには違いない。つまり、人が社会で生きていくということは、「迷惑」の掛け合いに他ならない。
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でまあ、結局何が言いたかったのかと言えば、「他人に迷惑を掛けるな!」という台詞ほど欺瞞に満ちた台詞も中々ないよね、ということ。
というのも、普段人々は他人とやらがどんなに苦しもうが窮地に陥ろうが、それを何とも思っていないどころか、前述したように、心の奥底ではそうやって誰かが不幸になることを期待しているという一面を持っている。勿論、自らの手で積極的に他人を追い込もうとする人間だってそこらじゅうにいる。そういったことが行われるのは、日常的風景とすら言えるだろう。そのくせ、都合の良い時だけ「他人に迷惑が掛かる」という理由を根拠にして、誰かの何らかの行為を禁止したり、制御しようとしたり、批判しようとし始める。だがそれは、余りに虫が良すぎる話なのではないかと。というか、そもそも人が社会で生きていくことは基本的に迷惑の掛け合いなわけだし。
しかしさらに奇妙なのは、明らかに敵愾心を抱いていると思わしき者に対しても、そういった台詞を吐くことが一般化していることだ。お互いに何らかの同じ目的を共有している者がいて、その者に対して迷惑が掛かるから、と言うのならまだ分かるが、明らかに敵と見做しているような者がその者にとっての敵である誰かに迷惑を掛けるのはむしろ当然のことだろう。敵に対して「迷惑を掛けるな」なんて言うのは、どう考えても理にかなっているとは思えないのだが。
いや、勿論言葉には額面どおりの意味以外にも他の意味が存在しているということくらいは分かってはいるが、つまるところ、「他人に迷惑を掛けるな!」という台詞に於ける「他人」とは、それを言った当人のことであり、そしてそれは、何の根拠も
まあ自分もついついこの欺瞞的台詞に手を借りたくなるのだが、でも自分の立場上からして、そんな
※1 そしてその不幸を背負う人間は、基本的に「誰でも良い」。だからこそ、秋葉原殺傷事件の加藤智大は不特定多数の者を犯行の対象として選んだ。いや、不特定多数の「誰か」でなければならなかった。何故ならば、特定の誰かを狙えば、その犯行が、何らかの特定のイデオロギー闘争や階級闘争の為の道具として扱われてしまうことになるからだ。他者の道具として使い捨てられることに対する怒りを持っている者にとって、それは我慢なら無いことだろう。「誰か」の生活水準を保つ為のコストが不特定多数の「誰か」の不幸によって支払われているように、それに対する反発もまた、不特定多数の「誰か」に対してでなければならない。原則的に言えば。まあ、といっても最終的には「誰か」にそれが利用されることになるのは避けられないのだが。自分が彼の犯行を利用して自分の言いたいことを言っているようにね…。
追記: ※2 「根拠も無く」というのはおかしいので訂正した。背景にちゃんとした根拠がある場合もあるので。要は、それは根拠の提示を省いて物事を進めたり、何らかの「常識」など、予め力を獲得している既存の考え方に沿った形で良し悪しを判断するために用いられることが多いということ。しかしこういった台詞が力を持つということは、予め力を獲得している何らかの枠組みや組織、考え方などが持つ問題を検証する機会が失われてしまうことを意味する。
いずれ「ナウく」なる運命
ナウいとは「今風の」「流行の」といった意味の形容詞で、その中でも最先端なものといった意を含んで使われることが多い。英語で「今」という意味の“now” に形容詞形にする接尾辞「い」をつけたものではあるが、ナウいが流行る1970年代終わりまでに形容動詞形の『ナウな』が流行っており、ナウいはこの『ナウな』の派生語と考えてよい。どちらにしても現代ではほとんど使われなくなっており、全くナウくない死語である。
解説にあるように、「ナウい」という言葉はかつては最先端を想わせる
ものを指し示し、それを賞賛するような意味で用いられていた…、筈だった。
しかし、今や(といってももうずっと前からだが)
その最先端のものを指し示す為に誕生した筈のその言葉は、
むしろ逆に、何かに対する珍妙さや時代錯誤具合を指し示し、
そのことを揶揄する様な意味合いで用いられるようになってしまった。
つまり、言葉自体は物理的に何ら変化していない筈なのに、ただ時間が
経過しただけでそれが間逆の性質を帯びたものへと変容してしまったのだ。
だが、こういった運命を辿るのは何もこの「ナウい」という言葉だけではない。
例えば当時の流行の最先端を象徴していた場所を映した昔のVTRなんかを
見てみると、その画面の中に映し出された人々は、今の尺度から考えると
とてもギャグとしか思えないような恥いファッションに身を包み、
それで平気な顔をして闊歩していたり、妙な踊りを踊っていたりする。
しかし、その時代は確かにそういった装飾具合や妙な踊りが
ファッションとして優れていると評価されていたのだろう。
もの自体が変わったのではない。人々の尺度が変わったのだ。
斬新だった筈のものが陳腐なものへ。
最先端だった筈ものが時代遅れのものへ。
持っていると羨ましがられた筈の物が、持っているだけで恥かしい物へ。
格好良かった筈のものが格好悪いものへ。賞賛が侮蔑へ。
そう、流行というものはいずれ「ナウく」なる運命にあるのだ。
(勿論、後に再評価されたり、細々と生き残り続けるものもあるが)
だとすれば、基本的に流行りものは「ナウい」という言葉が辿った
のと同じ様な道を辿ることはもう既に分かっているのだから、
今最先端のものとして流行っているもの(思想や風潮なども含めて)も、
それが流行として陳腐化する前に「ナウい」という称号を与え、
それをその一連の現象の流れの一部としてその言葉で指し示して
いいんじゃないかと思う。
そして、その一連の現象の成り行きを実際に体験し、
「死語」として“生き残った”数少ない生存者である
「ナウい」という言葉に、その自らの体験の語り部になってもらう。
人間は、例え同じものであってもその場の空気や雰囲気によって
そのものに対する評価を180度変えてしまうような、そういう
なんとも不確かで頼りない評価機能や判断力しか持っていない。
そういったことへ警鐘を鳴らし、自戒を促す意味でも、
流行りものは基本的に全て「ナウい」ということでいいんじゃないかと。
勿論、それを分かった上で敢えてその場所やその時代の
空気とダンスをするのであれば、それはそれでありだとは思うけど。
吾輩は正論である
吾輩は正論である。
現実的であったことはまだない。
*(1)*
「正論」というのは、何らかの整然とした秩序が成立
すべきであり、またそれがある程度成立している
ということを前提とし、その「こうであるべき」
秩序に基づいて物事の正誤を語ることである。
しかし、現実は常にその正論が前提とする秩序の
外にも広がっている。正論が想定しきれなかった
(或いは敢えてその想定から除外した)状況や要素が
数多存在している。それどころか、その前提とすべき
秩序でさえ競合する諸説が幾つも存在していたりする。
故に、正論は遠目から見ると一見立派そうに見えても、
実際に近くによってよく観察してみると実はひびだらけ
であったり、或いは本来そこに存在すべき筈の様々な
パーツが欠けていたりして、実用的な道具としては
先ず役に立たたない代物でしかなく、むしろそれは
現実的議論というよりも、ある種の思想を下支えする
ための教条的象徴としての性質を持ったものと考えた
方が妥当だろう。
実際、何らかの議論が巻き起こるような問題の多くは
そういった杓子定規な正論では解決出来なかったり、
それが想定しきれなかった(或いは敢えて目を背けた)
事柄が発端となって発生しているものが殆どであり、
そういったケースに於いて正論を主張したところで
それは「一周遅れ」の話題を再燃させて議論の邪魔を
しているだけ、ということにもなりかねない。
また、暴論や一般的言説から外れた発言を行って誰か
から正論を投げつけられて非難されるような人間も、
その正論の前提となる秩序が成立していなかった、
若しくはその秩序に欠陥があったが故に辛酸を舐め、
その秩序の裏切りに対する反発としてその様な考え
を抱くに至ったという道筋を辿っている場合も多い。
そういった場合に於いて、その暴論を吐く人間に
正論を突きつけることでその発言を諌めようとしても
その者がそれで納得する筈もなく、むしろ「まだ騙し
足りないのか!」と憤慨して益々火に油を注ぐこと
になるだろう。現実と正論の乖離により生まれた
「暴論」という火の手の前には「正論」はただ立ち
尽くすことしか出来ない。
ちょうど上記した様な道筋を辿って暴論を抱くように
なった者が「現実」という火の手に身を焼かれている
時に、幾ら正論でそれを消火しようとしても何の役
にも立たなかったのと同じ様に。
*(2)*
ところが、どうもそういった正論が前提とする秩序
に瑕疵があったが故に生み出された苦痛に由来する
叫びとしての暴論や、正論に裏切られ、それが通用
しない現実があることを知らしめたいという感情が
生み出した「正論の欺瞞告発としての暴論」を発して
いる者に、わざわざその者からすれば諸悪の根源で
しかない正論を用いてその発言を諌めようとし、益々
議論が泥沼化するようなケースが結構あるように思う。
それは正に火に油を注ぐ行為でしかないのに。
大体、正論というのは始めから先ず結論ありきの
論法であるため、その議論を終わらすことを目的
とする場合にのみ有効、例えば、相手が議論をする
に値しない態度を取りながら絡んでくるような場合の
一つの対処法などとして役に立つ(第三者に自説の
正しさや、そのやり取りに於いて議論としての有用性
がもはや終了していることをを印象付ける)だけで
あって、それを相手に突きつけるという手法を使った
時点で、もはやそれ以上その議論が発展することも
なければその相手と意義あるやり取りを成立させる
ことも出来なくなってしまう(その議論に於ける自身
の優位性を第三者に見せつけること自体を目的
としているのならば意義は無いとは言えないが)。
つまり、正論を用いるということはそれと同時に
「貴方とはもうこれ以上本気で対話をするつもりは
ありません」という意思表示でもある。
人が何らかの議論に於いて正論を語り始める時、
それはもはやその相手に対してそれを語っている
のではなく、そのやり取りを見ているであろう
第三者に向けてそれを発信しているのだ。だから
一方が正論を持ち出した時、もうそれ以降まともな
議論は成立し得ず、単に勝ち負けをギャラリーに
アピールし合うゲームとしての議論にしかなり得ない。
相手に語りかけるような口調で正論を説いている
人間がやたらと胡散臭く見えるのはそのためだ。
実質的に相手との対話を打ち切る意思表示であり、
尚且つもはやその相手にではなく第三者へのアピール
としての発言でしかないものを、まるで対話相手との
語り合いであるかのように装うようなことをしている
のだから、そりゃ白々しいわけだ。
そもそも、前述したように議論が紛糾する場合の多く
は正論の想定外、いやむしろ正論の瑕疵そのものを
問うことを出発点としているのであって、問題の渦中に
居る人間はわざわざ他者からそれを教わるまでもなく
そういった正論的な考え方が存在することは既に了解
済みであり、しかしながらそれが現実的でなかったり
その考え方に瑕疵があったりすることを問題として
議論を行っているのであって、そういう場に余りにも
在り来たりな正論を持ち込むという行為は、その議論
を茶化して引っ掻き回す行為以外の何者でもない。
(勿論、議論以前の前口上や、どうも相手がそれを
正しく理解していない疑いが有り、一先ずその事実
を確認することを目的としてそれを用いるのであれば
それはそれで充分意味はあるだろうが)
にも拘らず、正論と現実の乖離を出自とするであろう
議論や暴論を発する者に対し、ここぞとばかりに
駆けつけて正論を浴びせかけている人を見ると、
この人は自分の行っている行為の意味をちゃんと
分かってそれをやっているのだろうか?
という疑問を抱いてしまう。
何故なら、それは正論の瑕疵が生み出した暴論
という炎に油を注ぐ行為であったり、議論を茶化す
行為であったり、自身がゲームとしての議論にしか
興味がないということを周囲に悟らせてしまう行為
でしかないのだから。
<正論応援団の失敗>
正論に関連しては、もう一つ常々「それはどうか」
と思ってきた行為がある。それは、わざわざ自説や
自身の支持する説に対しそれが「正論である」ことを
アピールしてみせる行為。
恐らくこれは、その説が「正論」という称号を獲得
さえすればそれが他の説よりも優れたものだという
証明になるという思いがあって、その説を優位に
見せることを目的として、それを応援するような
気持ちで行われている行為なのだろう。
だがもう既に述べたように、問題の多くはそもそも
現実に対する正論の誤謬から生まれ、そしてそれを
前提として議論が行われているのであって、その説が
正論だと証明されることはむしろそれが「一周遅れ」の
説であることを示すことであったり、或いは様々な要素
を見落とした短絡的な説であることを証明することに
なってしまうだけなのである。
そしてそれ以前に、こういった自身が支持する説を
優位に見せる為に特定の単語が持つイメージを利用
して印象補填を行うという行為自体が、正論的な姿勢
と真っ向から反する行為であるという矛盾がある。
勿論、こういった手法は現実的には様々な議論の場
で常套手段として当たり前のように用いられている
ものではある。しかし、もしその者が正論的な姿勢を
重んじるのであるならば、極力そういった印象合戦の
ような手法を用いることを避け、その内容の充実度
でもって議論に望もうとする態度を取る筈だ。
そしてそれぞれの単語はその印象ではなく、その
言葉が指し示す所のものを相手に提示してみせる
という目的でのみそれを使用する事を心掛けるだろう。
そういう意味で「正論応援団」は正論的教義から
大きくはみ出した存在であり、そのような行為を
意図的に行っている以上、その者は正論の使者
どころか、正論的秩序に於いて戒められるべき
存在でしかない。
つまり、「正論応援団」は「正論」というものの本質
を見誤り、それに対する過度な評価を抱いてしまった
が故に、その自らが生み出した「正論」という単語の
優れたイメージの力に惑わされ、その力に頼りたい
という誘惑に駆られた末、印象補填という「正論的
姿勢」を踏みにじるような行為を行ってしまうという
二重の失敗をしてしまっているのだ。