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ポジティブ・アレルギー

物事を顧みず、ひたすら自身にとって都合の良い部分だけを見て突き進まなければならない、ポジティブ社会への拒絶反応

「敵の提供」という政治手法×リアル爆弾ゲーム

テレビをつけると、『たかじんのそこまで言って委員会』が放送されていた。もう長らく見ていなかったが、久しぶりに少し見てみるか、と思ってそのままチャンネルを変えずにいると、そこには、犬がションベンをするのに何故そこでションベンをするのか聞いても無駄なのと同じで、中国人に何を聞いても無駄、というようなことをのたまう勝谷誠彦の姿が。ああ、全く変わってないんだなこの番組、と思っていると、なにやらゲストとして呼ばれている三人の中国人が、如何に中国人にモラルがないかということを熱弁するという光景が繰り広げられ始めた。しかし、敵対する国の人間に自国の不満を述べさせることでその国への敵愾心を煽り、自国の体制の正しさアピールするとは、また随分と古風なプロパガンダ手法を持ち出してきたものだ。

そのうち、日本人は就職する時にまず給料のことを考えるが、それよりもどのような仕事をするかということを考えるべきだと言う話に。仕事で自己実現というやつですか。かと言ったかと思えば、就職活動で仕事口が無いというが、低賃金でもコンビニで働けばいい、日本人は甘やかされ過ぎている、と言って委員会メンバーに絶好のアシストを繰り出す中国人ゲスト。ああ、これが本題か。そして待ってましたとばかりに、その通りだ、中国人はコンビニで頑張って働いているのに、日本人は全然やりたがらない、と食らい付く辛坊治郎。そこに、自分の経営するうどん屋のアルバイトがどんどん止めていく、若者は甘やかされすぎだ、と畳み掛ける勝谷誠彦。そこでもう見ていられなくなってチャンネルを変えた。コンビニアルバイトで自己実現って一体何のこっちゃ。ただ文句を言わず先も見えない不安定雇用で働けと言っているだけの話だろう。というか、コンビニで働いている日本人なんて幾らでもいるが。

実のところ、殆どの人間にとって国籍や人種の違いなんてのは、本当はどうでもよいのだと思う。例えばこの人達にとっての「中国人」とは、「我々の思い通りに動かない人間」の隠喩なのだろう。つまり「甘やかされた若者」もまた「中国人(或いは「犬」)」なわけだ。そして委員会メンバーに絶好のアシストをしてくれる中国人ゲストは「名誉日本人」。たまに自分の意見に反対する人間を誰かれ構わず在日認定していくタイプの人がいるが、それもこう考えれば辻褄が合う。つまり、一見国籍のことを言っているようでいながら、本当は国籍の話なんて全然していなくて、単に自分の意見に賛成してくれる味方としての「日本人」と、賛成してくれない敵としての「在日」に分類しているだけの話なのだ。
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▼(1)意味よりもイメージの方が重んじられる

にしても、「甘え」というのはつくづくマジックワードだと思う。そもそも社会的な厳しさとは、他人が自分の思い通りに動いてくれないことより生じる苦しさのことだろう。若者が安い給料で思い通りに働いてくれない、というのもまた社会の厳しさの一つだ。ところが、その厳しさに直面した者がそれに耐え切れず、思い通りに動いてくれない他人を「甘やかされている」と言って非難し始める。だがそれは、内容的には「俺を甘やかせ」と言っているのと同じだ。しかしそれをそのままストレートに発すると印象が悪いので、「甘えるな」と言い換えることによってそれがなされる。そしてそれが共感的趨勢を獲得した場合、それはそのまま受け入れられることになる。言葉というのは、案外意味なんてどうでもよくて、むしろイメージの方が重要ということなのだろう。

他人を「甘えている」と言ってを批判する者達は大抵、自分はこんなに苦労したのだから、お前達ももっと苦労すべきだと言う。だが、その苦労は個人的なものでしかない。自分には自分の事情、他人には他人の事情がある。その自分の事情(自分は苦労した)を相手が考慮してくれない、ということこそが社会の厳しさの真骨頂だろう。そもそも、自身の経験や実感という物差しで、其々全く異なった条件を持つ他人の人生の努力度数を平等に測ろうとすることこそが大間違いであり、それこそが平等主義の根源だ。実際には、その者が自身の持つ限界に対してどれ程の割合で苦労したかなんて外からは決して分からないわけだから(当人だってそれは知りえないだろう。限界を超えて破綻しない限り)。その意味で言えば、これまで散々「平等主義」を批判してきた委員会メンバー達は、むしろ平等主義の申し子と言ってもいいだろう。自分が苦労したのだからお前も苦労すべきだ、或いは、誰もが定められたある一つの雛形に収まるべきだ、というのは、平等主義的な思想が前提になければ成立しないからだ。つまり、「平等主義」を批判することで平等主義が推し進められてきた、という側面が間違いなくある。これもまた「言い換え」の一つの例だろう。

▼(2)「敵の提供」という政治手法

大阪は貧乏人の街だ。にもかかわらず、高給取り達が貧民をバッシングする番組が、その貧乏人の街でもてはやされている。困窮者を叩けば叩くほどその人気は上がっていく。この番組を見ると、現代日本社会において貧民と富豪、労働者と資本家、人民と政治家、というような対立構造はもはや重要ではない、ということがハッキリ分かる。

何故このような状況が成立するのかと言えば、それは「敵の提供」という政治手法が上手く状況にマッチしているからだろう。困窮状態にある社会ほどより大きな不満が渦巻いている。しかし、日本では社会的成功者を批判するのは僻みと捉えられ世間体――そう、意味よりも重要なイメージ――が悪いから、それをするのは憚られる。そこに、あいつらが努力不足なせいで社会は低迷しているんだ、お前達は苦しんでいるんだ、というように、不満を晴らすための的としての敵の提供が行われる。それによって、あいつらに苦労さえさせれば社会は上向きになり、自分達の生活もまた上向きになる、というような希望がもたらされる。だからこそ、その不満を晴らすための敵を、希望をもたらしてくれるこの手の番組が人気を博す。その希望ゆえに、貧民同士、お互いに食らいつき合う。その熱狂で、現実の不安や苦痛を吹き飛ばそうとする。そしてその争いによって生まれし不安や苦痛が、また人々をさらなる闘いへと誘う。つまり、現代社会における敵とは富豪でも資本家でも政治家でもなく、世間という実態を持たない化け物なのだ。ブラック企業が蔓延るのも、ブラック世間あってのことだろう。

このことは、周りの者全てが世間という敵になりうる、ということもまた意味している。そこでは資本家と労働者などという分類はもはや意味をなさない。だからこそ日本ではお互いどんどん疑心暗鬼になり、競争原理は働かず、つぶし合いにしかならない。是正も再分配も団結もできない。

▼(3)リアル爆弾ゲーム

自分の経験から言うと、小学校低学年くらいのころから、集団におけるリーダー役は既にこういう「敵の提供」という手法を上手く使いこなしていた。まるで爆弾ゲームのように、中心人物を除いたメンバー全員に「敵」の役割が順繰りで回ってくるのだ。そしてその敵との闘いというイベントによって、メンバーは日常の不満や退屈を紛らわす。いつ自分にその敵としての役割が振られるのかと怯えながら。というのも、ターゲットとされる対象は、「今からお前が敵だ」などと明白にそれが宣言されるわけでもなんでもない。それは、中心人物のちょっとした素振りや一言、そのイントネーションや顔の表情などを周りの者が読むことで、つまり阿吽の呼吸で決定される。だからその行事を妨げるのは極めて難しい。何故なら不要な目立ち方をすれば、用意にその役割が自分に割り振られることになるからだ。

要するに、そんな子供の頃からもう既に大人社会と大して変わらぬ様相が形成されていたわけだ。これはある種の文化といってもいいだろう。そしてその文化の根は相当深い。自分が集団への帰属に大きな恐怖感や嫌悪感を感じ、極端にそれに消極的になってしまうのも、恐らくこういう経験を積み重ねてきたことが大きく関係しているように思う。つまり、集団や枠組みへの参加が、リアル爆弾ゲームへの参加を想起してしまうわけだ。だからどうしても上手くそれができない。しかし、その参加能力の無さ故に、より大きな社会という集団におけるリアル爆弾ゲームにおいて、固定化された敵としてのポジションを獲得してしまうことになるという。

「自由意志による自己決定」こそが自己責任の源

小6自殺、母に編んでいたマフラーで首つる : 社会 : YOMIURI ONLINE

世間の側に立つフリをして自分を守り、社会的ポジションを獲得した者は生き残り、自分よりも世間の側に立ち、その「正しさ」で自分を踏みつけにした者は死んでいく※1
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とはいえ、誰も好き好んで世間の側に立ち、自分を踏みつけにしているわけではないだろう。例えば切腹は何も自分の好きでそれをしていたわけではなく、そうせざるを得ないような状況に追い込まれるが故のものだ。それと同じように、世間の側に立って自分を踏みつけにしなければならないような状況が形成されるからこそ、それは行われる。

だが、「自由意志による自己決定」を前提とした近代主義的な世界観から見れば、そのような状況を招いたこともまた自己責任ということになる。こういった世界観に毒されている者ほど、窮地に陥った時、より激しく自分自身を踏みつけることになる。世界の秩序の中心にソレを備え付けるということは、自己が困窮していれば即ちそれは自分自身が選択を誤った(正しい選択のための努力を怠った)ことの結果であり、自分の責任だ、と認識せざるを得なくなるからだ。つまり、「自由意志による自己決定」を前提として物事を捉え続ける以上、自己責任からは逃れられない。

よって自己責任による自身への踏みつけ行為から脱却するためには、まず「自由意志による自己決定」に疑いの目を向けなければならない。しかしこの考え方は、近代社会におけるあらゆる常識や社会システムの前提となっている。恐らくこれを否定することこそが、近代社会における最大のタブーだろう。故に自己責任もまた否定できない。これが近代主義的な思想の限界であり、現代社会の様々な問題の行き詰まりにもまた、このことがかなりの割合でもって関わっているように思う。



※1 もちろん、環境が許さなくなればどの道死なざるを得なくなるし、一刻も早くこの苦痛を終わらせたいという思惑が働く場合もあるだろう。だがこの場合、一般的枠組みの外には、まだしばらくは生き残ることができる環境は残っていたはずだ。枠組みに残るのか死ぬのか、という二択は、世間の生み出す「正しさ」の内面化あってのものだろう。

競争原理を阻害する≪競争社会≫×安定のための「競争」

努力信仰が強い日本では、結果の良し悪しは一旦努力度数に変換した上で解釈されることが多い。そのため、例えばある競争で「10対0」の結果が生み出された時、勝者はよく努力した褒美としてもう10点プラスされる一方、敗者は努力が足りなかったペナルティとしてさらに10点マイナスされたりする。そして次にこの両者が相対する時は、「20対-10」の状態で勝負を始めなければならなくなり、一方は以前よりも益々不利な状況での競争を余儀なくされる。

これが≪競争社会≫であり、このベクトルをさらに推し進めるべきだとするのが≪競争原理主義者≫の主張。つまり、より豪華なニンジンを前にぶら下げれば人々の意欲は増すはずであり、より大きな罰を与えれば、その恐怖によって駆り立てられ、人々は競争に励むはずだ、というわけだ。
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だがこのやり方だと、競争に敗れた者はそのたびに益々不利になっていくから、参加するまでもなく結果が見えてしまうような関係性がどんどん増えていくことになり、参加への意欲を保つことができる人間は逆にどんどん低減していくことになる。貴重なリソースを支払って最初から負けることが分かっているような賭けに参加する者などいない。結果、其々の競争はトーナメント化の様相を呈していき、一回勝負のようになっていく。そしてそれは一部の者達だけのものとして独占され、囲い込まれていく(ex.新卒しか取らない/空白期間があればそれで終わり/保証人がいないと部屋を貸しません。住む場所がない人間は職を得られません/無能な人間は何をやっても駄目、の内面化)。逆に予選落ちした者は、もはやその時点で競争どころか、公式戦に参加する余地すらなくなる。つまり、このやり方は競争原理を働かせるどころか、むしろそれを阻害するためのものだ。

「殴るぞ」と自白迫る録音公表 大阪、弁護団が告訴へ - 47NEWS

元々競争(成果主義)の行き着く先はこんなもの――行政が民間意識を持つというのはこういうこと――であり、社会生活自体が競技化するとロクなことはないだろう。そもそも、本気での競争を続けれ続けるほど、それだけ選手寿命が縮むことになるのは言うまでもない。実生活における選手寿命というのは文字通り寿命のことだから、比喩ではない本当の競争を社会生活に持ち込むのは余りにも無理がある(肉体がそうであるように、精神もまた無限に修復可能な永久機関ではない)。

とはいえ、実際には社会生活の維持に不可欠な関わり合いへの参加自体が≪競争社会≫の「ペナルティ」によって阻害され、そこで意欲が失われてしまう者が出てくるという問題もある。その意欲を競争原理の一つとして見るなら、やはりそれを無視することもできないだろう。

そしてもし競争原理を働かせようとするのなら、全ての人間がいつでも工程に参加可能にして、尚且つそこでまともな試合(やり取り)ができるような環境を整えなければならない。だが、≪競争原理主義者≫はこれに断固として反対する。反対の理由としてよく言われるのが、それでは努力して結果を出した者が不公平感を感じ、モチベーションを失ってしまう、まるで社会主義のようだ、という理屈だ。だが、実際にこのような≪競争社会≫で多くの者の意欲が奪われている以上、そのやり方は失敗した社会主義と同じ轍を踏んでいることになるわけで、それを維持し、さらに推し進めようとする者が、社会主義の失敗を持ち出して参加への意欲を働かせようとするための環境整備を批判するというのは全くおかしな話だ。

そもそも、≪競争原理主義者≫が競争への意欲が失われた者に常日頃から言っているのは、モチベーションとは個人の意志の強さによって獲得されるものであり、それが獲得できないことを環境のせいにするべきではない、ということではなかったのか。それが競争原理(参加への意欲)を働かせるために必要な環境整備の話になると、突然モチベーションの獲得は環境によって決定付けられる(そんな環境ではモチベーションを失う者が出てくる!)かのように言い換えられる。

つまり、≪競争原理主義者≫ほど競争原理を阻害しようとする傾向が強く、そしてその阻害を実現するための政治的手段として、内容ではなく“何となく勇ましく良いイメージを持ったレッテル”としての「競争」が用いられている。

 ▼安定のための「競争」

このことから分かるのは、如何に人々は(ガチの)競争を嫌い、安定を求めているか、ということだ。恵まれた環境に身をおき続けたが故に自身の限界を知らずに済んだ一部の人間を除いて、殆どの人間は競争が激化すればするほど生活の維持が難しくなり、人生という競技における選手寿命が縮んでしまう、ということを実は知っている。そして、全ての人間が安定を手にすることができる社会など存在しない、という強い思いもまた同時に抱いている。

だからこそその競争に歯止めを掛け、一度手に入れた安定が覆されないように社会的ポジションの囲い込みや固定化を行い、競争原理を阻害しようとする動きが出てくるわけだ。そしてそれを成し遂げるための政治的手段の一つとして「競争」という“正”のレッテルが用いられる(しかしそれ故にこの安定志向という本音は、アンケート結果くらいでしか出てこない)。つまり、囲い込みによって安定した“上がり”のポジションを確保し、いずれ“上がった”者として安全な立場から他人の競争を眺められるようになりたい、というその希求こそが人々に「競争」を叫ばせている。実のところ人々が連想する競争とは、安定へと辿り着くための工程としてのそれでしかないわけだ。

2010年失意の旅

Miroslav Philharmonik で弦楽四重奏スタイルの曲を鳴らしてみた。これも以前に作ったものの焼き増しだけど(前回はSGMを使用した)。尚、ミロスラフ版に移植するに当たって曲のタイトルも変更した。

2010年失意の旅(5分32秒)

ソロストリングスのサンプルの長さは大体どれも 5秒くらいで余り長くない※1ので、ループ音色を主体として使用。奏法の切り替えをちゃんとやろうと思えば弦四だけでも 16チャンネル以上必要になってくる(タンク系のプラグインには所謂キースイッチの機能がない)ので、一工夫いりそう。今回は曲調が余りそれを求めていないことや、また上手くそれを使いこなす自信もなかったのでそこまでしなかったが。しかし実際にそれを行うにしても、其々のサンプルで結構音量差があったりするので、調整はかなり難しそう。
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ミロスラフの場合、SGM などと違ってサンプル自体に予め表情がついているので、当てるだけでもわりとそれっぽくなる傾向がある。これは一つの利点だろう。ただし、ヴァイオリンはかなり後ろがふくらみ気味になるので、それが邪魔になる場合、コンロールチェンジや DAW のオートメーションで後ろを押さえる処理が必要になる。それもあって、例えばこの曲の場合、長めの音はある程度ヴェロシティを小さめにし、逆に短めの音は相対的にヴェロシティを大きくした方がバランスが取れる感じだった。あと、ヴァイオリンの音色は 7900Hz 付近と 9200Hz 付近に結構耳障りな音が含まれているので、ここは少し削った方がいいように思った。それから 3400Hz 付近はヴァイオリンのおいしい音が含まれていると同時に、圧迫感を感じさせる原因にもなり易いので、ここをどう処理するかは悩みどころ。

悩みどころといえば、midiの段階でかなりパンを広げていたのは失敗だった。高音は多少外に広がっていてもそれほど気にはならないが、低音が余り端の方で鳴っているとどうしてもバランスが悪く聞こえる。しかたがないので後になってから DAW 側で幾らか中央に寄せてみたものの、これ以上寄せると音が変わってしまい、初めから設定をやり直さなければならなくなるので、ここら辺で手を打った。とはいえ、単純にパンを中央に集めて設定しなおせば上手くいくというわけではなく、その場合、パン以外で音場を広げる何らかの工夫がまた必要になってくるんだろうけど。

しかし、弦四の打ち込みは聞けば聞くほど幾らでも修正すべき点が出てきて、本当にきりがなくなる。従って、どこで打ち切るかというのが大きなポイントにもなってくるわけだが、手抜きをすれば直ぐにバレるし、ちゃんとしたものを作ろうとすれば余りにも手間がかかりすぎるので、まあできれば余り手を出さない方がいいジャンルなのかもしれない。

因みに、今回は使わなかったが、ソロストリングスの MACRO には

「Swell」
「VSpeed(Variable Speed)」
「ATPush(Aftertouch“Push”)」
「VStart(Velocity to Start Point)」

の 4つが割り当てられている。「Swell」は所謂エクスプレッション。「VSpeed」は音の立ち上がりの早さを決める項目。数値を上げるほど音の立ち上がりが早くなる。「ATPush(Aftertouch“Push”)」はアフタータッチによる変化のし具合の調整?「VStart」は――音色によって変化は異なってくるかもしれないが、ソロストリングスの場合――数値を上げれば上げるほど、早いタイミングでヴィブラートが掛かり始める。ただし、数値を最小にしてもヴィブラート無しにはできない。ストリングスの方にはノンビブラートのサンプルが用意されているが、ソロにはそれが用意されていない以上、ノンビブラートは無理ということか?

尚、同じソロストリングスでも音色によって其々アサインの初期設定が異なっているので注意。アサイン関しては、左上にある「CTL」をクリックして点灯させ、その上で意中のパラメータをクリックすると「MIDI CTL」画面が開くので、そこで設定や確認を行う。あと、ベンドレンジは「TUEN」→「BENDER」で設定。

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そういえば、これを作る際にミロスラフをマルチアウトで鳴らしてみようと思ったらどうしてもできなくて、前にはできたはずなのに何故だ?…と思っていたら、DXi版を使っていたからだった。VSTi版に切り替えると普通にできた。どうも REAPERv0.999 では DXi のマルチアウトは使えないようだ。



※1 これに限らずサンプルは基本的に短いものが多い。例えばフルートの高音などは 3秒くらいしか収録されていなかったりする。7GB 程度でオーケストラの音色の殆どをまかなおうとするとこれが限界ということか。というか、今回使用したソロストリングスのループ音色のうち、「Violin 1 LP」以外のすべてが、つい最近出た SampleTank FREE に含まれていた…。何この謎の慈善事業。タンクのプラグインも制限無しで使えるみたいだし。そんなことするなら、ミロやソニックのプラグインエフェクトもタンク並に充実させてくれればいいのに。何故フリーよりもしょぼいままなのか。

生きる(届け出ない)べきか、死ぬ(届け出る)べきか


それが問題だ。

asahi.com(朝日新聞社):大阪の「91歳」遺棄 年金詐取容疑で長女を聴取

 大阪府和泉市の民家の洋服ダンスから高齢男性の遺体が見つかった事件で、大阪府警は12日、男性の長女(58)が数年間にわたって厚生年金数百万円を詐取した疑いが強まったとして、任意で事情聴取を始めた。容疑が固まり次第逮捕する方針。捜査関係者が明らかにした。府警はDNA型鑑定の結果、男性は生きていれば91歳になる宮田浅吉さんと断定。2004年ごろに死亡したと推定される。

 捜査関係者によると、長女は、宮田さんが死亡して受給資格がないのに、厚生労働省から厚生年金数百万円を詐取した疑いが持たれている。府警によると、宮田さんの口座には2カ月ごとに約30万円の年金が振り込まれていた。ここ数年は長女と2人暮らしで、府警の任意での聴取に対し、長女は「父の口座に振り込まれる厚生年金を定期的に引き出して生活していた」と説明しているという。

Mid/Side分離ルーティング再び

以前に Mid/Sid分離ルーティングについて書いたことがあるのだが、今になって微妙に間違っていたことに気づいた。で、せっかくだから、リベンジも兼ねてもう少し詳しくそれについて書いてみようと思う。使用したDAWはいつも通り、REAPERv0.999。

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「始めに戻る」→「画一的雛形社会」

【ノーベル化学賞】「私は受験地獄の支持者だ」「若者よ、海外に出よ」根岸さんが会見(MSN産経ニュース)

「私は日本の(悪名高い)受験地獄の支持者だ」。理由は、高度な研究になればなるほど、「基本が大事になるから」。それをたたきこんでくれたのが、日本の教育だった、というわけだ。

ある人物にとって組み合わせが良かった環境が、他の者にとってもまた良い組み合わせになるとは限らない。というか、地獄に身を置いたことのある人間が地獄を支持するはずなどあるまい。その者のモチベーションと存在意義を枯渇させる環境こそが地獄なのだから(希望があれば、それは本当の意味での地獄とは言えないだろう)。自分にとって意義ある行為に邁進するのは、地獄でもなんでもない。何故「受験地獄」が悪名高いのかというと、画一化された雛形に無理矢理全ての人間を押し込もうとした結果、多くの人間のモチベーションを奪う結果になったからだ。全ての人間を似たような環境に置き、全ての人間が同じ目体を共有し、そこで求められた作業に邁進することさえ怠らなければ、誰もが幸福を手にするチャンスがある、という平等主義的ユートピア論が「受験地獄」の生みの親(最初からそれがほんの一掴みの人間にしか実りのないものだと分かっていたら、多くの者はそれに乗っからない)。そしてこのユートピア論の崩壊が「ゆとり教育」の出自。よって、もし「受験地獄」を復活させるなら、それは双六で言うところの「始めに戻る」に当たる。
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学校でも会社でも家庭でも、或いは地域社会や同好の士の集まりでも、新参者がやってくると、まず予め用意された雛形にその者を押し込もうとするのがこの国の慣わし。日本ではそれもってして≪教育≫と呼び、その雛形に上手く収まることを≪成長≫と呼ぶ。そこで上手く≪成長≫できなかった者は、様々な罰とペナルティが与えられる。人々はそのような環境に身を置くことで、雛形に収まれないことが如何に恐ろしい結果を招くか、ということを実際の経験を通して学んでいく。その恐怖という動機の後押しによって、雛形に収まる努力と苦痛を強いられるのが日本的雛形社会。

だが、雛形に収まることだけに全身全霊を尽くしてきた者は、後になって、自分はどうやってもその雛形に収まることが不可能だった、ということを知った時、或いは自らが依存してきたその雛形を失ってしまった時、もはやなす術がなくなり、廃人になるしかなくなる。逆に、雛形に上手く収まり続けることができたとしても、自らが順応したその雛形に沿った思考や行動しか取れなくなってしまう。切迫した事情により、雛形に収まることばかりを重んじ、それ自体が目的化してしまうと、そういった雛形依存症に陥ってしまう危険性がある。其々の個人、或いは其々の局面に相対する時、その都度それに最も相応しいであろう関わり方を探り出し、形成していくのは非常に骨の折れる作業だ。しかし用意された雛形こそが真理であり、最も正しい関わり方であるとするならば、そんな努力をする必要はなくなる。つまり「受験地獄」は、教育者がその(意味での)努力を放棄し、怠けるための手段でもあったわけだ。

さらに、恐怖による後押しと苦痛による代償によって雛形への順応を手に入れた者の多くは、「恐怖と苦痛の平等」を保つための復讐に手を染め、それにモチベーションの多くを費やすことになる、という問題もついてまわる。自分はこれだけ苦しんだのだから、お前達ももっと苦しむべきだ、と。だが、他人の苦痛は自分の感覚として直接感じ取ることはできないから、必然的に自身が受け取った苦痛を過大評価することになり、それ故、認識上における自身と他者との苦痛のバランスはいつまでたっても改善されず、その復讐というミッションは永遠に達成されることはなく、際限なく続く。それを諦めない限り(メシウマ祭りが良い例)。この憎悪と恐怖の渦の中で、本来育つはずだったモチベーションが奪い取られ、ねじ伏せられ、すりつぶされていく。これが現代日本社会が抱えている問題。

「受験地獄」を復活させたところで、この問題を悪化させることはあろうとも、その解決には役立たないだろう。というか、一度失敗したものをそのまま蒸し返したところで、良い結果が生まれるはずもない。根岸氏がそれを支持するのは、予め用意されたその雛形に自らの体質が上手く合致していたからだろう。つまり、彼にとっての「受験地獄」とは、己の獲得したモチベーションを存分に注ぎ込むことができる「天国」だったというわけだ。だが、冒頭でも言ったように、ある人物にとって組み合わせが良かった環境が、他の者にとってもまた良い組み合わせになるとは限らない。ならば、如何にして其々にとっての「天国」を用意するか、ということこそが次の教育の課題なんじゃないか。

いずれにせよ、かつてその画一化された雛形への押し込み行為が多くの者のモチベーションを奪い去る結果になり、それによって「ゆとり教育」が生み出された、という経緯を忘れてはならないし、ノーベル賞は復古主義の正しさを担保したりもしない。それだけはしっかりと認識しておかなければならないだろう。

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同国人が何らかの分野で世界的に評価されると、その権威を利用して世論を特定のベクトルへ誘導しようとする動きが必ず出てくるのが世の常。だが、その者がどのような肩書きや属性を持っていようと、それに惑わされず、その主張の内容こそを検討し、評価する、というのはあらゆる学問における大前提のはずだろう。それを蔑ろにするなら、学問よりも政治の方が重要であり、前者は後者の犠牲になるのもやむなし、と言っているのと同じだ。そういった権威主義を払拭することも、教育の持つ重要な役割の一つなんだと思う(教育は権威を根拠として行われるので、原理的に無理という声が聞こえてきそうな気もするが、肩書きよりも内容で判断することの重要性を説くことくらいは可能だろう)。まあそりゃ政治も大事だけどね。でも、そういった安易な権威主義に頼る政治もまた、それはそれでクオリティが低すぎる。

熊を極めに行った男

俺はゴリラみたいな人型系ならまず素手で勝てると思う:アルファルファモザイク

まあこれはジョークなんだろうけど、昔、実際に熊に間接技を極めに行った藤原喜明という男がいてだな…。



これ確か、熊の主要な武器である爪と牙を奪った上に、組長は身体に吸収剤仕込んでいるはずなんだけど、それでこの有様だからなあ。これを見ると、素手の人間が幾ら鍛錬を積もうとも、野生の動物に相対すると、降りかかる火の粉レベルにしかならない、ということがよく分かる。とはいえ、実際に熊に“組みに行った”人間は彼ぐらいしかいないんじゃないだろうか。多分彼は、足さえ取ればなんとかなる、とか本気で思っていたからこそこういうことが出来たんだろうが、勘違いの力というか、それはそれである意味凄い。

しかし、よくもまあこんな企画を組んだもんだ。時代が変わったというか、今じゃ絶対無理だろう。

大儀は内容ではなく活動によって保たれる

中国人観光客のバスを妨害 福岡、街宣車が取り囲む(朝日新聞)

 29日午後4時ごろ、福岡市中央区の福岡市役所前の路上で、中国人観光客らを乗せた観光バスの周辺に右翼団体の街宣車十数台が集まり、約20分間にわたりバスが足止めされる騒ぎがあった。街宣車から降りた十数人の男らが、バスをけったり、たたいたりして、「降りてこい」などと叫んだという。警察官が現場にかけつけ、バスは無事出発し、けが人はなかった。

 市などによると、現場には福岡市中心部で買い物などをした外国人観光客が集合し、バスに分乗してクルーズ船の待つ博多港に帰るところだった。ツアーには約1300人が参加しており、大半が中国人客だったという。

ある意味、ここには仕事の本質があるような気がする。

何をもって日本の利益とするのかは人其々の見方があるのだろうが、少なくとも国力という観点から見た場合、一番重要なのは経済力であり、それを無視することはできないだろう。よってこの場合、如何にして観光で訪れた中国人により多くのお金を日本に落とさせるか、ということを重んじてこそ、最も現実的な愛国的態度と言えるんじゃないだろうか。ところが、愛国という大義名分を掲げた者達が実際にここで行っているのは、むしろ日本の経済的利益を害する行為だ。

では、この者達のやっていることが全て間違いなのかと言えば、そうとも言えない。というのも、他国との軋轢が大きくなればなるほどこの人達のやるべきこと、つまり仕事が増えるからだ。そしてその仕事をこなすことによって、彼らは存在意義を保つことができる。人間としての誇りを得ることができる。だから他国の人間に憎悪を植えつけるのは、彼らにとっては営業活動であり、仕事作りであり、己の生活や存在意義を守る営みの一環でもあるわけだ。そうであるが故に、これはただ否定すればそれで済む、という単純な問題として見ることもできない。というのも、こういった状況の形成――それ自体が目的化した仕事第一主義――は特殊なものでもなんでもなく、むしろ非常に一般的なものでもあるからだ。

全共闘、港湾労働、そして牛丼:日経ビジネスオンライン

訴訟:賃金未払いなど、すき家側が認める--アルバイト3人訴え(毎日新聞)


例えばこの場合。元々低賃金のアルバイトにサービス残業をさせ、そのことを訴えられると、今度は盗み食いをしたという因縁をつけ、その者達を刑事告訴してみせる(これは結局不起訴になった)。そうやって組織の腕力によって不正の事実を握りつぶそうとするその企業が掲げる理念は、「世界から飢餓と貧困を無くす」だ。掲げた目的と間逆の状況を生み出しているという意味では、街宣車軍団がしていることと全く同じ。

このような状況を作り出しているのは別にこの会社だけに限ったことではないだろう。どの企業も私生活を犠牲にすることを求めていながら、より豊かな社会づくりに貢献するだの、人々の健康と生活を守るだのという大義名分を掲げている。そしてそこで働く人達の多くもまた、その主張を受け入れ、仕事をすることは社会をよりよくすることだ、などと言いってはばからない。まあ実際にそう思っている人間がどれくらいいるかは分からないが、表向きはそのように主張し、それがこのような形での営みを裏で支えているという側面もある。
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▼(1)嘘つきは文化の始まり、嘘の終わりは死の始まり

こういった、現状と余りにも乖離した歯の浮きそうな嘘が(是正されることもなく嘘のまま)まかり通り続けるのは、そもそも企業や世間――これは現代における「お上」に相当するだろう――にウケのよい振る舞いができない者は≪社会人≫としての門を潜らせてもらえない、大人として認めてもらえない、ということも大いに関係しているだろう。つまり、嘘(装い)が下手な人間はその枠組みの中に入れさせてもらえない。そうなればその者は、世間から「不逞の輩」として扱われ、苦々しい人生を送らざるをえなくなる。だから人々は「お上」へのおもねり能力に磨きをかけ、そうならないよう努める。そしてその努力――という名の実感――が成功体験として其々の持つ世界観に刻み込まれていくことによって、嘘はその者の中で徐々にマジになっていく。

そうやって嘘つき上手でないと生き残るのが難しい環境が作り上げられ、それを保全するような動きを取りながら、偽装問題が発覚すると「嘘を付くな」といって批判する世間の在り様を見るたびに、それは無理な要求だろう、と思ってしまうのだが…しかしながら、この嘘を付くことが下手だったりそれに抵抗がある人間をはじき出し、枠組みの内に入れさせない、というやり方――例えば面接試験/地獄の研修などは、正にその者が持つ対世間用の嘘の強度を測るためのものでもあるだろう――は、非常に理にかなったものでもある。というのも、活動の最中に本当のことを言い出す人間が出てくると厄介な問題が引き起こされることになるからだ。

例えば冒頭の街宣車軍団の中で、これってもしかして日本の国益を害する行為なんじゃないか?もしかして、この組織を解散することこそが、自分達ができる日本への最大の貢献なんじゃないか、などと言い出す人間が出てきて、それに賛同する者が増え始めると、そのプロジェクトはそこで終わってしまう。プロジェクトが終わってしまえば仕事がなくなり、その仕事に存在意義を依存している者達は、己の存在意義を失ってしまう。それはまずいだろう。だからそういった正直者の悪い種を組織の中に侵入させてはいけないし、万が一そういう悪い芽が内側で育ち始めたら、即刻除去せねばならない。

これは一般企業においても同じことだ。――「貧困を無くす」と言うからには、まずできることとして、自社で働く者達の給料を増やすべきなんじゃないか。低価格競争はデフレをより推し進めることになるからやらない方がいいんじゃないか。より豊かな社会を作るためには、個々人の生活を第一に考えなければならないんじゃないか。…などと言い出す人間が出てきては困るわけだ。多くの者がそのプロジェクトに生活と存在意義を依存している。だから決してそのプロジェクトを終わらせてはならない。そしてプロジェクトの存続を最優先にすると、非道な行いもやむなし、ということになる。だが、むき出しの非道ばかりだと、世間から、或いは己の良心から非難を浴びてやがてそのプロジェクトは破綻する。それを避けるためには大儀が必要になる。その非道さを覆い隠すことができる、より大きく漠然とした大儀が。例えば「世界から飢餓と貧困を無くす」ためとか、「社会をより豊かにするため」とか、「国家の繁栄のため」とか。或いは逆に、より大きな大儀を実現させるためには、先ずそれを実現させることができるほどの大きな力が必要であり、そのためには手段を選んでいる余裕などない、という形でそれが機能している場合もあるかもしれない。

その際にこしらえられる大儀は、漠然としてさえいれば、さほどもっともらしいものでなくともよい。おかしな話で、誰もが嘘(理に合わないこと)だと分かっていてもそのことに言及してはならない嘘があるし、そうやって嘘を付き続けていると、やがてそれが文化や規範へと成り代わり、還流して来たりもする。そしてその嘘の還流物を受け取ることで、人は自分の付いた嘘を嘘ではなかったかのように認識するようになる。その時その嘘はもはや、つこうとしてつく嘘とは一線を画したものになっているわけだ。

要するに、非道な行いと立派な大儀は、理屈上反目していても、機能的には共謀関係を結んでいる場合も多い。正しいから活動するのではなく、そこで形成された状況を維持するために「正しさ」が生み出される。活動しているから「愛国者」なのであり、活動しているからこそ≪社会人≫でいられる。そしてその肩書きが活動の「正しさ」を担保し(「正しさ」の根拠として属性や社会的地位を持ち出さずにいられる人間はそうはいまい)、その「正しさ」が立派な大儀をこしらえる。つまり、大儀があるから状況が作り出されるのではなく、状況が大儀を作り出し、それを守っている。これは、実質的には活動そのものが大儀に成り代わっているということでもある。例えば、私は仕事している、だから正しい、というように(そしてそれ自体が大儀に成り代わった「仕事」や「労働」もまた、例によって中身を表さない漠然さと、「社会のため」という諸事を覆い隠す大きさを持っている)。

これは活動の根本である「生きる意味」にも同じことが言える。人間は別に意味があるから生きているわけではない(人間が神の作ったゲームの駒であれば話はまた別だが)。意味があるから生きているのではなく、生きているうちに何かしらの充実感が生まれ、やがてその実感は「意味」という肩書きを獲得し、恰もそれが予め用意されていた大儀であったかのように認識されるようになる。つまり、状況を継続させることができるからこそそれは「正しさ」となり、その「正しさ」から逆算して大儀が生み出され、大儀があるからこそ状況を持続することができる。その循環が断ち切られるとそれはそこで終わってしまう。であるが故に、人は嘘をつき続けなければならない。何故なら、嘘の否定はその循環を断ち切る行為であり、それはそのまま、その状況の継続に存在意義を依存している者達の存在もまた同時に否定することになってしまうからだ。故にその断ち切り行為は、自己否定及び、他人の逆鱗に触れる行為に等しい。現代社会に身を置く人間は、そういった「生き延びたければ嘘を付け、自分を騙せ。それができなくなった時がお前の死の始まりだ」みたいな状況に置かれている。

▼(2)活動への批判が活動のための燃料となる

で、再び冒頭の街宣車軍団の話に戻すと、≪日本≫を守っている彼らは、日本における「正しさ」の象徴である≪社会人≫の門を潜らせてもらえず、「不逞の輩」としてつまはじきにされた者達でもある。そういった者達が日本に人生を賭けているというのはなんとも皮肉な話にも思えるが、しかし、日本によってつまはじきにされた者達が≪本当の日本≫を守る、と称して日本に仇名していると見るなら、それはある意味当然の話とも言えるだろう。結果としてそれは報復になっているわけだから。

さらに言えば、自己の存在意義を「≪社会人≫として国のために働く」ことくらしか見つけることができなかった者達は、そうである以上、幾らその国の社会からつまはじきにされようとも、それを手放すことはできまい。その場合どうなるかといえば、売国奴の手に落ちた「偽の日本」によって自分達はつまはじきにされ、そしてその売国奴の手から≪本当の日本≫を取り戻すことこそが自分達の使命(仕事)だ、として、己の置かれた状況と獲得した存在意義とを一致させることになる。それが冒頭のああいう活動に繋がる。である以上、それをストレートに批判したところで、彼らはそれを売国奴からの攻撃として認識することになるだろう。故に、批判すればするほど、むしろそれがあの手の活動への燃料補給となってしまう。そしてその活動が彼らに誇りと生へのモチベーションをもたらし、それがさらに「生きる意味」となり、活動の源となる。冒頭で「否定すればそれで済む、という単純な問題として見ることもできない」と言ったのは、その裏にこういう構造が成立しているであろうからだ。

 ***

はてなブックマーク - asahi.com(朝日新聞社):「命の値段」、非正規労働者は低い? 裁判官論文が波紋 - 社会

fromdusktildawn 現状では、働きたくないでござる厨の29歳の引きこもりキモオタニートが、重度の障害を負うように上手に車にぶつかれば、才能+努力+運に満ちあふれた前途洋々のイケメン正社員と同じ額の逸失利益をもらえるわけだ

ただ、愛国者による売国奴との戦いも厄介だが、自分としてはこの手≪社会人≫による「不逞の輩」との戦いの方がずっと厄介に思える。なんせ活動人数が桁外れに多いし、日本中常にどこでも行われていて、逃げ場はないのだから。

そもそも当たり屋なんてものは、コミュニケーション能力に秀でた人間にしかできないだろう。それも大抵は組織的に行われる。むしろコミュ能力が低い人間は、事故に遭っても言いくるめられ、泣き寝入りさせられる可能性も高い。よって、脅威の対象として想定するなら、むしろコミュ能力の高い人間を見立てた方が筋が通るはずだ。コミュ能力が無いが故に孤立している者が、こういった犯罪を主導するというのはちょっと考えづらい(行く先がなくなった者が、捨て駒として組織に雇われることはあるかもしれないが)。しかし何故か、そういうこの手の犯罪と最も縁遠い場所に位置するであろう属性を持つ者が、しかも実際には起こってすらいない――というか、「重度の障害を負うように上手に」ぶつかるなんて計算してできるものでもないだろう――事件の引き合いに出され、断罪される。捏造や妄想を元にして対象を断罪する、或いは見当違いの対象に攻撃を加えるというのは、別に街宣車軍団や(正に活動自体が目的化していた)大阪地検特捜部の専売特許でもなんでもなく、多くの「普通の市民」にもまた共有された日常的行為でもあるわけだ(つまり、街宣車軍団や大阪地検特捜部が行ってきたソレは、決して特殊なものとは言えない)。

で、ぶった方がぶたれた(被害に遭った)と言って泣くとはよく言ったもので、恐らくこの手の人達からすれば、無職なんてのはその存在自体が不正行為であり、それ自体が日本社会への攻撃であるかのように認識されているのだろう。だからその攻撃に、被害者として反撃する。そもそも、「≪社会人≫として働くことに存在意義がある」と思っている人間からすれば、無職なんてのは存在してはならない者であり、ただそこにいるだけでアウトなわけだ(その存在を認めることは自己否定に繋がる)。つまりこういったものは、不正を正し、「社会をよりよくするため」の戦いでもある(でなければそれはただの嫌がらせにしかならない)。本来、非正規労働者はもちろん、無職であっても、企業に仕える「サムライ」としての≪社会人≫ではないものの、社会人であることには違いはないはずのだが、街宣車軍団が社会を愛国/売国で分け隔てるように、社会人もまた常識によって社会人/非社会人に分類されるわけだ。

自分としては、こういった≪社会人≫による「不逞の輩」との戦いが、せめて街宣車軍団くらいの頻度や規模になってくれればと思うわけだが、まあそれは無理な願いなのだろう。おそらく、街宣車軍団がそれを止められないのと同じ理由で、彼らもまたそれを止められない。そしてそれへの批判は、≪社会≫批判として、さらなる戦いの燃料となる…と言いながらもこうやって燃料を投下しているのは、まあ自分もこういう下らない戦いに参加することくらいでしか存在意義(生への実感)を確認できない者だからなのだろう。

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ひきこもりという役割を引き受け
ざるを得なかった一人として
人間について考えてみる。
でも、本当はただの断末魔ブログ。

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