記憶に残るのは、北方領土の択捉(えとろふ)島での豊かな暮らし。
島に上陸したロシア人と父との間で交わされた、あるやりとりの光景も忘れられない。
北海道七飯(ななえ)町の洋裁店経営、宝金(ほうきん)和江さん(93)は1932年、島南東部の小さな集落・入里節(いりりぶし)で生まれた。
幼少時から足が悪く、小学校には長姉におんぶされて通った。
父要蔵さん(1888~1964年)は、コンブや千島のり、ギンナン草などの海藻類を採って生計を立てた。
新潟県出身で、東京、函館、カムチャツカで水産関係の勉強をしてから島へ渡ってきていた。
数人を雇い、コンブから抽出するヨードの研究も行っていた要蔵さん。
事業は好調で、暮らし向きが良かった。
「もう、裕福で、裕福で、裕福で」
海藻類を売ると、函館から1年間分のコメが山のように届き、キャラメル、きび団子、ようかんといった菓子類にも事欠かなかった。
ところが、45年の終戦後にロシア人が進駐してきた。
多くの日本人家庭では襲撃を恐れて女性に男性の格好をさせたり、屋内に隠れさせたりしていた。
だが、宝金さんの父は違った。
学校にある大きなテーブルに白い布をかけ、ハマナスの赤い実で作った自家製ジャムと、スープでロシア人を迎えた。
「よくいらっしゃいました」
新しく建てた家にはロシア人将校を入居させるなど、一貫して温かくもてなした。
「ハラショー、ハラショー(素晴らしい、素晴らしい)」
喜んだ客たちは「もしロシア人が何か悪いことをしたら、チョロマ(ロシア語で「ろうや」)に入れるので、言ってください」と約束した。
幼い頃にこのやりとりを見ていた宝金さんは言う。
「向かい方さ、結局」
敗戦から引き揚げまでの約2年間、ロシア人が集まるフォークダンスや映画上映会にも参加し、友好的な時間を過ごしたという。
そんな古里を強制退去させられたのはつらかった。
特に入里節には、三つ子の出産時に37歳で亡くなった母親のお墓があった。
離れるさみしさを紛らわせるように、「さらばラバウルよ また来るまでは」と始まる軍歌「ラバウル小唄」の地名を「択捉」と置き換え、みんなで歌って港へ向かったのを覚えている。
16歳で引き揚げてからは苦労の連続だった。
幼い弟らの学費を工面するため洋裁を習い、姉と2人で寝る間も惜しんで働いた。
要蔵さんは農業を始めた傍ら、「島の人たちがバラバラにならないよう、同じ人たちで一つの村を作りたい」と道知事に陳情したり、入里節の郷土誌として全戸名簿を作成したりした。
「自分のことより人のことを考える、まじめな人でした」
今年6月、北方領土から函館港への引き揚げ船の乗船名簿の閲覧会で、父やきょうだいの名前を見つけ、涙ぐんだ。
死後の世界で両親に会えたら、こう伝えたい。
「娘として恥じない人生をちゃんと送ってきたよ」
きっと褒めてくれるはずだと信じている。【伊藤遥】
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