帰山人の珈琲漫考

たかがヒッチじゃないか!

ジャンル:映画 / テーマ:映画感想 / カテゴリ:観の記:映面 [2013年04月18日 04時30分]
「たかが映画じゃないか!」よりも、「自分の仕事を楽しんで、非難される覚えはないわ!」の方が強い…この事実は明白。だが、これを映画で描く場合…「たかが映画じゃないか!」
  たかがヒッチじゃないか (1)
 
『ヒッチコック』(Hitchcock) 観賞後記
 
《学生時代からのヒッチコックファンだったが、「サイコ」を見てからというもの、一人でホテルへ泊まって、どうにもバスルームへ入れなくなってしばらくの間、とても困った。》 (平岩弓枝 「平岩弓枝さんと裏窓をみる」/『朝日新聞』 1985年11月24日)
 
《PH 技術とはシャワーシーンのことをいうのですわ。このシーンは、撮影現場でなく、編集台で創られたものです。ジャネット・リーの身体にナイフがささるところは絶対に見えないでしょう。
──ラッシュのときに、一秒の何分の一かの時間で、ジャネット・リーか彼女の吹替えが息をしているのを母上が気づかれて、父上に注意されたとか……。   
PH 母はすばらしく精密なんです。シナリオの段階でさえ、父にどのディティールがうまくいかないか言うことができました。おそらく、父にそんなことが言えたのは母だけでしたでしょうね。「私はこの部分はよくないと思う」なんて父に注意できるのは、よほどの人物でなければ無理だと思いますから。》
(‘Entretien Avec Patricia Hitchcock’ Par Bruno Villien “Cinématographe”/「ヒッチコックという名の娘 パトリシア・ヒッチコックは語る」 ブルーノ・ヴィリヤン:インタビュー 『シネマトグラフ』98号 1983年/原養子:訳/『シネアスト 映画の手帖』1:[特集]ヒッチコック 青土社:刊 1985年)
 
《…で、この人が日本に来た時に、まあ立派な立派な日本の、もう名、名立派な料理店で、座らして、ご飯食べさした時に…(略) で、「あなたの殺し方凄いね。いつでもあなたの殺し方見て私はゾッとするんです。あなたのアイデアですか?」 「いや。それは私じゃありません。」 「誰がやるんですか?」 「これがやるんです。」 で、隣におくさんが、じーっとご飯、食べてるとこ見て、「これが作るんです。」何ていう所が、いかにもヒッチコックらしくて、ヒッチコックがどんなに、お客さんを喜ばせるかいう事が、良くわかりますね。》 (淀川長治 「バルカン超特急」解説/『世界クラシック名画撰集』/IVC)
 
例えば映画『エド・ウッド』(Ed Wood/1994年)のとおりに、‘史上最低の映画監督’のエド・ウッドは恋人や妻を‘家畜’にしていたが、‘サスペンス映画の神様’のアルフレッド・ヒッチコックは妻アルマ・レヴィルの‘家畜’だった…映画『ヒッチコック』でもよく描けている。
  たかがヒッチじゃないか (2) たかがヒッチじゃないか (3)
まぁ、CBE(1987年)・KBE(1993年)を貰ってからアメリカ合衆国大統領(『ニクソン』Nixon/1995年)を演じた男サー・アンソニー・ホプキンスと、CBEを辞退(1996年)してDBE(2003年)を貰ってから大英帝国女王(『クィーン』The Queen/2006年)を演じた後も当の女王から招待された晩餐会を辞退した女デイム・ヘレン・ミレンとでは、やはり格が違うということか? 本作『ヒッチコック』では、ヘレン・ミレン(アルマ・レヴィル役)とスカーレット・ヨハンソン(ジャネット・リー役)とトニ・コレット(ペギー・ロバートソン役)の猛女3人が、各個に独特の色気を感じさせて好演。他もまぁキャスティングはほぼ好評する。
 
《ヒッチコックにおけるエロチシズムとは、まさしくこうした物質的なものなのだ。帽子の不在は、その裸の髪を触れることを男に許してしまう。眼鏡の不在は、存在の震えを直接見る者に告げてしまう。オーヴァーの不在は、肉体の線を露骨にきわだたせるわけでもないのに、男の指さきを、ブラウスの襟もとに誘ってしまう。(略) …われわれは、シャワー・ルームの中で裸身のまま殺される美女を見るときよりも遥かに刺激的なエロスの形象化をうけとめるのだ。》 (蓮實重彦 「防禦と無防備のエロス──『断崖』の分析」/『シネアスト 映画の手帖』1)
 
《彼は、映画をはじめからおわりまで、映画のなかにとりこんでおこうとする。つまり、彼は、映画しか作らない。その抑制こそが、かんたんにいってしまえばすべてであり、私は、もはや彼の映画のどれがどうなっていたというようなことは忘れて、アルフレッド・ヒッチコックという映画を、ずっと見てきて、というよりも彼の映画の記憶を生きているということになろうか。(略) それはあたかも、ヒッチコックの後継者といわれることもある作品が、どうしても自己抑制をさいごまで貫けなくて、つい画面に自分の感情をさらけだしてしまい、それこそ画面を、あたかも作り手の自信のなさ、不安を反映するように揺らせてしまい、ああやっぱりだめだったかと、映画を見ようと息をつめている観客を映画から離してしまいがちなのと反対なのだ。》 (小野耕世 「レベッカをマンガにすれば」/『シネアスト 映画の手帖』1)
 
映画『ヒッチコック』の難は、マイケル・ウィンコットが演じるエド・ゲインの存在。冒頭のシークエンスはまだ良いとしても、劇中に現れる妄想は《あたかも作り手の自信のなさ、不安を反映するように揺らせてしま》った典型であり、いただけない演出、《ああやっぱりだめだ》。
  たかがヒッチじゃないか (4) たかがヒッチじゃないか (5)
  
《ヒッチコックはヒッチコック映画的な人物である。自分のことを説明するのを嫌うのだ。だが、彼もいつかは告白することによって救われる彼の映画の登場人物のように振舞ったほうが良いだろう。ただ、自分が天才だと言うのは難しい。ことにそれが真実である場合はなおさらそうなのだ。》 (François Truffaut ‘Un Trousseau De Fausses Clés’ “Cahiers du Cinéma”/フランソワ・トリュフォー「合い鍵の束」 『カイエ・デュ・シネマ』39号 1954年/千葉文夫:訳/『シネアスト 映画の手帖』1)
 
《そして映画の質(タイプ)が非常に明確なのでわかりいい。ヒッチがこわい顔をして作ったのは「私は告白する」と「間違えられた男」と「サイコ」の三本だ。ヒッチ遊びは「ハリーの災難」、「鳥」、「ファミリィ・プロット」。(略) 「サイコ」はヒッチが珍しく見せたグロテスクであった。(略) それでヒッチが「サイコ」を手がけたのも思えば活動写真のクラシックであって、それは「北北西に進路を取れ」や「マーニー」のような連続活劇のお遊びではなく、フィルムの古い匂いをいま一度取り出したノスタルジィだった。笑わない素顔のヒッチだった。》 (淀川長治 「ヒッチ芸」/『シネアスト 映画の手帖』1)
 
映画『ヒッチコック』は《ヒッチコック映画的な》作品ではないし、また《フィルムの古い匂いをいま一度取り出したノスタルジィ》ですらない。それは、笑わない特殊メイクのヒッチだった。自分の人生が「サイコ」な映画『ヒッチコック』になったと知ったならば、《自分のことを説明するのを嫌う》当のヒッチコックは、こう言うのではないか?…「たかがヒッチじゃないか!」
  たかがヒッチじゃないか (6)
 
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kisanjin

Author:kisanjin
鳥目散 帰山人
(とりめちる きさんじん)

無類の珈琲狂にて
名もカフェインより号す。
沈黙を破り
漫々と世を語らん。
ご笑読あれ。

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