帰山人の珈琲漫考

紅茶で考えるコーヒー

ジャンル:グルメ / テーマ:コーヒー / カテゴリ:珈琲の記:2012 [2012年04月29日 23時00分]
‘tea or coffee?’という慣用句は、「紅茶vs.コーヒー」という対立構図を象徴し、‘fuzzy’(ファジー)であると同時に‘fussy’(ファシー)でもある課題を示している。コーヒーについて考えるに、これまでワインの本カカオの本から捉えてきたが、今般は紅茶の本からも考えてみる。さて、ワイン本やカカオ本に比して有益か?
  紅茶で考える
 
『世界の紅茶 400年の歴史と未来』 (朝日新書338)
 (磯淵猛:著/朝日新聞出版:刊)
 
紅茶店主であり紅茶研究家でもある磯淵猛氏は、日本の紅茶界において著作多数。コーヒー界でいえば堀口俊英氏(1948年生まれ)の年代に近しい1951年生まれの著者・磯淵氏であるが、例えばコーヒー界の首領(?)であり意見番(?)である田口護氏(1938年生まれ)に対照する存在の荒木安正氏(1935年生まれ)や堀江敏樹氏(1936年生まれ)といった先達、彼らの著した紅茶本をも数で上回るほどに多作。
 
磯淵氏は本書『世界の紅茶 400年の歴史と未来』の発刊(2012年2月)直後にも、『紅茶の教科書』(新星出版社)の改訂第二版(2012年4月/初版は2008年11月)を出したが、こうした網羅性が高い紅茶の入門書の類は間違いが多くて閉口する。
《スリランカの茶の栽培は、…きっかけはサビ病でコーヒーが育たなくなったことで、初の茶園はキャンディで1857年に生まれた…》 (前出『紅茶の教科書』改訂版p.35)
この10年早い誤記は、紅茶と同時にコーヒーの歴史をも変転曲解させ、許し難い。
 
変わって本書のように、気安くやや野放図に言い放った著述の方が、磯淵氏自身の志向や思考が垣間見え、著者の持ち味がよく出ていて解りやすい、と私には思える。
 
《紅茶の歴史は短い。中国からヨーロッパに伝わり、その時点からだと四〇〇年、イギリスがインドのアッサムで紅茶を作ってからだと二〇〇年にも満たない…》 (「第五章 未来の紅茶」 p.206)
《その短い間に一二〇ヵ国を超える国々で愛飲されるようになった。国も人種も、生活習慣も変われば、同じ紅茶であっても使われ方や飲まれ方は違っていて当然である…》 (「はじめに」 p.4)
 
書名の副題通りに、(変に茶全般で何千前かの歴史に拘泥せずに)「紅茶の歴史は短い」と言い切り、その飲用実態の変容を寛容に捉える著者の姿勢が存外好ましい。この視座はコーヒーの歴史でも当てはまる。コーヒーがヨーロッパに伝わってから約400年、そして、《ナポレオンの出現と大陸封鎖がコーヒー文明に与えた世界史的規模の影響》(臼井隆一郎『コーヒーが廻り世界史が廻る』中公新書)から約200年。無闇に「神農」だの「シバの女王」だのを担ぎ出してまで、現時の飲用実態とは縁も遠い箔を付けて体裁ぶる紅茶やコーヒーの話より、よほど明快で真実味ある視座。
 
《未来に向かって紅茶がどう進化していくのか、三十年前を振り返り、さらに三十年後を考えてみたものである…》 (「はじめに」 p.5)
《…もし将来、いつの日か、数十年先か、もっと先か、紅茶が無くなったらどうなるか考えてみよう…》 (「第五章 未来の紅茶」 p.206)

他方、書名副題にある紅茶の「未来」に関しては、拍子抜けするほど考察が不足し、《紅茶はなくなってはいけない》などという薄く蒙昧な言ばかりが並べられた。しかし、具体であれ抽象であれ紅茶の「未来」を示しきれない本書と同様に、「未来」を考えたコーヒー本を相対させようにも、こちらも一冊すら提示できない現状のコーヒー業界、かなり水色(すいしょく)が悪い。紅茶も紅茶ならばコーヒーもコーヒー、というところ? 『世界の紅茶 400年の歴史と未来』は必ずしも佳作と断じきれぬが、紅茶に限らずコーヒーにも通底する課題自体をジャンピングさせているか、そう読めば意義深い。
 
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kisanjin

Author:kisanjin
鳥目散 帰山人
(とりめちる きさんじん)

無類の珈琲狂にて
名もカフェインより号す。
沈黙を破り
漫々と世を語らん。
ご笑読あれ。

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