コーヒーの可否
腰巻の惹句は、“やっと読める ほろ苦い 恋の話”…獅子文六のコーヒー小説『可否道』が今2013年4月にちくま文庫で復刊された。この復刊は、「可」であるか?「否」であるか?
獅子文六の『可否道』は、読売新聞に連載され(1962年11月~1963年5月)、新潮社より単行本が刊行され(1963年8月)、朝日新聞社の『獅子文六全集』第9巻に収録され(1968年11月)、角川書店より『コーヒーと恋愛(可否道)』と改題して文庫化されてきた(1969年3月/当初のカバー絵は赤祖父ユリ、増版を重ねた後に村上豊へ変更された)。今般のちくま文庫版は、『獅子文六全集』を底本としながら『コーヒーと恋愛』と再改題した筑摩書房による再文庫化である。復刊は歓迎であるが、私は解説とカバーデザインが嫌だ。
《…いつものようにぼくはJ町の古本屋街をぶらぶらし、某書店の文庫本コーナーをながめていました。様々な単語が複雑な街を形成しているような背表紙群から、ぼくの目に飛び込んできたひとつの言葉。「コーヒーと恋愛」。(略) コーヒーと恋愛、と心でなんどかつぶやいたあと、ぼくはまったく同じタイトルの曲をつくりました。この解説(のようなもの)を依頼されたのも、そういう経緯からです。(略) この曲をぼくはそのときとりかかっていたアルバム(『東京』というタイトルが、あとでつくことになります)の最後に、そっと入れることにしました。そっと入れたのは、すこし恥ずかしさがあったからでしょうか。(略) ちなみにぼくはコーヒーに対するうんちくは好きではありません。なぜなら、おいしいものなんていうのは、それを口にするひとの心が決めることだと思っているので。どこそこのどんな豆を使っている、なんて話はほとんど興味がありません。それよりも、その喫茶店なりカフェの照明の明るさや、壁の色や、かかっている絵のほうがぼくには大事です。》 (曽我部恵一「解説」/『コーヒーと恋愛』 獅子文六:著 筑摩書房:刊)
曽我部恵一の曲「コーヒーと恋愛」は、曽我部を中心とするバンド「サニーデイ・サービス」の2ndアルバム『東京』の最後に《そっと入れ》てあるらしいが、何故か(アルバムよりも先行して発売された事実はある)3rdシングル「恋におちたら」のカップリングとして収録されている(但し、ミックスが異なる)、という実際にこそ《すこし恥ずかしさがあった》のか? この「恋におちたら」より以降、「サニーデイ・サービス」のCDジャケットのアートワークを一手に担った小田島等は、ちくま文庫版『コーヒーと恋愛』のカバーデザインでも、自らのデザインした『東京』CDジャケットをセルフリメイクしている。つまり解説者の脈をたどった起用と思われるが、「サニーデイ・サービス」ファンにしか効かない楽屋落ち、「否」とする。好みの問題だが、角川文庫版『コーヒーと恋愛』の細川忠雄による解説こそ「可」としたい。
《この作品は…読売新聞に「可否道」という題名で連載されたものである。コーヒーは普通珈琲と書くが、明治の中期中国人が東京の上野に、「可否茶館」というコーヒーの店を経営したことがある。作者はこれからこの題名を選んだものだが、「可」と「否」をきかせ、これを茶道のように「道」とつけたところに、作者独特の諧謔がある。》 (細川忠雄「解説」/『コーヒーと恋愛(可否道)』 獅子文六:著 角川書店:刊)
細川忠雄が「可否茶館」の開設者を《中国人》と記した点については、「鄭永慶はその姓名から中国人と思われがちであるが、れっきとした日本人である」、と盛んに強調し続けている星田宏司の噛み付きようが目に浮かぶところ…「優」や「良」ではない「可」とする?
《土曜日付の読売新聞の『編集手帳』が、「敬愛する同業先輩」として、小欄読者にはおなじみの石井英夫さんを取り上げていた。お返しでいうわけではないが、その石井さんはかつて、尊敬する「コラムの鬼」として、昭和30、40年代の『よみうり寸評』の筆者を挙げていた。昭和44年の秋、60歳の若さで亡くなった細川忠雄である。『忘れられた名文たち』の著者、鴨下信一さんら文章の目利きたちからも絶賛されてきた。週末に図書館でコラムの数々を読み返し、改めて舌を巻く。時事問題への切り込みの鋭さは言うまでもない。(略) 特注の分厚い画用紙のような原稿用紙に、鋭く削った鉛筆で、文字を刻んでいったという。死の前日、奥さんから差し出された原稿用紙に、3本の小さな線を書いて倒れた。書き出しのノンブルの(1)でないか、と周囲の人は想像した。 》 (「産経抄」/『産経新聞』 2011年10月17日)
読売新聞の記者にして論説者であり「コラムの鬼」でもあった細川忠雄が解説を寄せた、角川文庫版『コーヒーと恋愛』は1969年3月に刊行された。同年の11月29日に細川忠雄は死んだ。その直前に文化勲章を受けた獅子文六は、同年翌月の12月13日に死んでいる。『可否道』にとって1969年とはその書名を改められ、またそれを書いた者と解いた者が失われる、という因縁めいた凄まじい話を含む。この背景を感受してこそ、コーヒーの「可否」を論ずる価値があるのであり、今般のちくま文庫版『コーヒーと恋愛』にはそうした生き死にまでを論ずるような迫力ある仕立てを感じない、誠に残念である。
ちなみに《コーヒーに対するうんちくは好きではありません。》という曽我部恵一は、歌の「コーヒーと恋愛」で「娘さんたち気を付けなコーヒーの飲み過ぎにゃ」とも言う。コーヒー狂の私はコーヒーに対する‘うんちく’は好きでも、他人に対する‘大きなお世話’は嫌い。なぜなら、おいしいものなんていうのは、それを口にするひとの心が決めることだと思っているので。どこそこのどんな豆を使っているという話には興味があるが、《娘さん》だかが勝手に《コーヒーの飲み過ぎ》で仮にたとえ何億人死んでも、そんな話には興味がない。それよりも、コーヒーの「可」とするところと「否」とするところ、可否を考える道のほうが私にとっては大事なのである。そう想いつつ、ほろ苦いコーヒー小説『可否道』を読み直す。
獅子文六の『可否道』は、読売新聞に連載され(1962年11月~1963年5月)、新潮社より単行本が刊行され(1963年8月)、朝日新聞社の『獅子文六全集』第9巻に収録され(1968年11月)、角川書店より『コーヒーと恋愛(可否道)』と改題して文庫化されてきた(1969年3月/当初のカバー絵は赤祖父ユリ、増版を重ねた後に村上豊へ変更された)。今般のちくま文庫版は、『獅子文六全集』を底本としながら『コーヒーと恋愛』と再改題した筑摩書房による再文庫化である。復刊は歓迎であるが、私は解説とカバーデザインが嫌だ。
《…いつものようにぼくはJ町の古本屋街をぶらぶらし、某書店の文庫本コーナーをながめていました。様々な単語が複雑な街を形成しているような背表紙群から、ぼくの目に飛び込んできたひとつの言葉。「コーヒーと恋愛」。(略) コーヒーと恋愛、と心でなんどかつぶやいたあと、ぼくはまったく同じタイトルの曲をつくりました。この解説(のようなもの)を依頼されたのも、そういう経緯からです。(略) この曲をぼくはそのときとりかかっていたアルバム(『東京』というタイトルが、あとでつくことになります)の最後に、そっと入れることにしました。そっと入れたのは、すこし恥ずかしさがあったからでしょうか。(略) ちなみにぼくはコーヒーに対するうんちくは好きではありません。なぜなら、おいしいものなんていうのは、それを口にするひとの心が決めることだと思っているので。どこそこのどんな豆を使っている、なんて話はほとんど興味がありません。それよりも、その喫茶店なりカフェの照明の明るさや、壁の色や、かかっている絵のほうがぼくには大事です。》 (曽我部恵一「解説」/『コーヒーと恋愛』 獅子文六:著 筑摩書房:刊)
曽我部恵一の曲「コーヒーと恋愛」は、曽我部を中心とするバンド「サニーデイ・サービス」の2ndアルバム『東京』の最後に《そっと入れ》てあるらしいが、何故か(アルバムよりも先行して発売された事実はある)3rdシングル「恋におちたら」のカップリングとして収録されている(但し、ミックスが異なる)、という実際にこそ《すこし恥ずかしさがあった》のか? この「恋におちたら」より以降、「サニーデイ・サービス」のCDジャケットのアートワークを一手に担った小田島等は、ちくま文庫版『コーヒーと恋愛』のカバーデザインでも、自らのデザインした『東京』CDジャケットをセルフリメイクしている。つまり解説者の脈をたどった起用と思われるが、「サニーデイ・サービス」ファンにしか効かない楽屋落ち、「否」とする。好みの問題だが、角川文庫版『コーヒーと恋愛』の細川忠雄による解説こそ「可」としたい。
《この作品は…読売新聞に「可否道」という題名で連載されたものである。コーヒーは普通珈琲と書くが、明治の中期中国人が東京の上野に、「可否茶館」というコーヒーの店を経営したことがある。作者はこれからこの題名を選んだものだが、「可」と「否」をきかせ、これを茶道のように「道」とつけたところに、作者独特の諧謔がある。》 (細川忠雄「解説」/『コーヒーと恋愛(可否道)』 獅子文六:著 角川書店:刊)
細川忠雄が「可否茶館」の開設者を《中国人》と記した点については、「鄭永慶はその姓名から中国人と思われがちであるが、れっきとした日本人である」、と盛んに強調し続けている星田宏司の噛み付きようが目に浮かぶところ…「優」や「良」ではない「可」とする?
《土曜日付の読売新聞の『編集手帳』が、「敬愛する同業先輩」として、小欄読者にはおなじみの石井英夫さんを取り上げていた。お返しでいうわけではないが、その石井さんはかつて、尊敬する「コラムの鬼」として、昭和30、40年代の『よみうり寸評』の筆者を挙げていた。昭和44年の秋、60歳の若さで亡くなった細川忠雄である。『忘れられた名文たち』の著者、鴨下信一さんら文章の目利きたちからも絶賛されてきた。週末に図書館でコラムの数々を読み返し、改めて舌を巻く。時事問題への切り込みの鋭さは言うまでもない。(略) 特注の分厚い画用紙のような原稿用紙に、鋭く削った鉛筆で、文字を刻んでいったという。死の前日、奥さんから差し出された原稿用紙に、3本の小さな線を書いて倒れた。書き出しのノンブルの(1)でないか、と周囲の人は想像した。 》 (「産経抄」/『産経新聞』 2011年10月17日)
読売新聞の記者にして論説者であり「コラムの鬼」でもあった細川忠雄が解説を寄せた、角川文庫版『コーヒーと恋愛』は1969年3月に刊行された。同年の11月29日に細川忠雄は死んだ。その直前に文化勲章を受けた獅子文六は、同年翌月の12月13日に死んでいる。『可否道』にとって1969年とはその書名を改められ、またそれを書いた者と解いた者が失われる、という因縁めいた凄まじい話を含む。この背景を感受してこそ、コーヒーの「可否」を論ずる価値があるのであり、今般のちくま文庫版『コーヒーと恋愛』にはそうした生き死にまでを論ずるような迫力ある仕立てを感じない、誠に残念である。
ちなみに《コーヒーに対するうんちくは好きではありません。》という曽我部恵一は、歌の「コーヒーと恋愛」で「娘さんたち気を付けなコーヒーの飲み過ぎにゃ」とも言う。コーヒー狂の私はコーヒーに対する‘うんちく’は好きでも、他人に対する‘大きなお世話’は嫌い。なぜなら、おいしいものなんていうのは、それを口にするひとの心が決めることだと思っているので。どこそこのどんな豆を使っているという話には興味があるが、《娘さん》だかが勝手に《コーヒーの飲み過ぎ》で仮にたとえ何億人死んでも、そんな話には興味がない。それよりも、コーヒーの「可」とするところと「否」とするところ、可否を考える道のほうが私にとっては大事なのである。そう想いつつ、ほろ苦いコーヒー小説『可否道』を読み直す。