撮らん専断す
ハリウッド業界人が推す「ザ・ブラックリスト2012」計78本の中で下から2番目に低い得票だったジャック・パグレンの脚本を、ウォーリー・フィスターは初めての監督作品にして、デジタルカメラでは‘撮らん’と35mmフィルムでの撮影を‘専断す’る…他に謳うネタが、無い?
『トランセンデンス』(Transcendence) 観賞後記
『トランセンデンス』は、《もし、コンピュータに科学者の頭脳をインストールしたら――》という「もしもシリーズ」の新作である。昨2013年には『ローン・レンジャー』で第34回ゴールデンラズベリー賞の最低リメイク・盗作・続編賞を獲ったものの最低主演男優賞を逃してしまったジョニー・デップが、‘今度こそ’とばかり志村けんに代わって熱演している…「だめだこりゃ」。
この作品を‘Transcendence’(超越)した駄作へと転落させているのは、精神転送した後の人工知能の描き様。話運びの焦点が、‘Singularity’(シンギュラリティ:技術的特異点)というテーマ自体から、ナノマシンと再生医療によるオカルトへ移ってしまったところで、ハイどっちらけ。『G.I.ジョー』のナノマイトによる破壊シーンを逆に回したような画、退屈の極み。9つ歳下の師匠クリストファー・ノーランが監督した『インセプション』の撮影をしておきながら、ウォーリー・フィスター自身には‘Inception’(発端)として植え付けられなかった…陳腐だ。
《無数なる個物の相互否定的統一の世界は、逆に一つの世界が自己否定的に無数に自己自身を表現する世界でなければならない。かかる世界においては、物と物は表現的に相対立する。それは過去と未来が現在において相互否定的に結合した世界である。現在がいつも自己の中に自己自身を越えたものを含み、超越的なるものが内在的、内在的なるものが超越的なる世界である。過去から未来へという機械的世界においても、未来から過去へという合目的的世界においても、客観的表現というものはない。客観的表現の世界とは、多が何処までも多であることが一であり、一が何処までも一であることが多である世界でなければならない。過ぎ去ったものは既に無に入ったものでありながらなお有であり、未来は未だ来らざるものでありながら既に現れているという矛盾的自己同一的現在(歴史的空間)において、物と物とが表現的作用的に相対し相働くのである。》 (西田幾多郎 「絶対矛盾的自己同一」/『思想』202号 岩波書店/1939年)
PINN(Physically Independent Neural Network)という通名の人工知能と、R.I.F.T.(Revolutionary Independence From Technology)と名乗る反テクノロジー過激派組織とは、『トランセンデンス』の世界においては、《表現的に相対立する。それは過去と未来が現在において相互否定的に結合した世界である》。それを消化も昇華もできないまま、安っぽいメロドラマに仕立ててしまったウォーリー・フィスター…彼こそがPINNかR.I.F.T.の餌食にされるべき存在であろう。‘Transcendence’(超越)と‘Immanence’(内在)…
人間の脳ミソの中に《内在的なるものが超越的なる世界》を探した『インセプション』は、「遅すぎた夢物語」であっても面白かったが、《超越的なるものが内在的》であることを表現できていない『トランセンデンス』は、《未来は未だ来らざるものでありながら既に現れているという矛盾的自己同一的現在(歴史的空間)》を全く描けていないので救いようの無い超駄作だ。こんなことならば‘撮らん’方がよかったと‘専断す’べきだった映画が…『トランセンデンス』。
『トランセンデンス』(Transcendence) 観賞後記
『トランセンデンス』は、《もし、コンピュータに科学者の頭脳をインストールしたら――》という「もしもシリーズ」の新作である。昨2013年には『ローン・レンジャー』で第34回ゴールデンラズベリー賞の最低リメイク・盗作・続編賞を獲ったものの最低主演男優賞を逃してしまったジョニー・デップが、‘今度こそ’とばかり志村けんに代わって熱演している…「だめだこりゃ」。
この作品を‘Transcendence’(超越)した駄作へと転落させているのは、精神転送した後の人工知能の描き様。話運びの焦点が、‘Singularity’(シンギュラリティ:技術的特異点)というテーマ自体から、ナノマシンと再生医療によるオカルトへ移ってしまったところで、ハイどっちらけ。『G.I.ジョー』のナノマイトによる破壊シーンを逆に回したような画、退屈の極み。9つ歳下の師匠クリストファー・ノーランが監督した『インセプション』の撮影をしておきながら、ウォーリー・フィスター自身には‘Inception’(発端)として植え付けられなかった…陳腐だ。
《無数なる個物の相互否定的統一の世界は、逆に一つの世界が自己否定的に無数に自己自身を表現する世界でなければならない。かかる世界においては、物と物は表現的に相対立する。それは過去と未来が現在において相互否定的に結合した世界である。現在がいつも自己の中に自己自身を越えたものを含み、超越的なるものが内在的、内在的なるものが超越的なる世界である。過去から未来へという機械的世界においても、未来から過去へという合目的的世界においても、客観的表現というものはない。客観的表現の世界とは、多が何処までも多であることが一であり、一が何処までも一であることが多である世界でなければならない。過ぎ去ったものは既に無に入ったものでありながらなお有であり、未来は未だ来らざるものでありながら既に現れているという矛盾的自己同一的現在(歴史的空間)において、物と物とが表現的作用的に相対し相働くのである。》 (西田幾多郎 「絶対矛盾的自己同一」/『思想』202号 岩波書店/1939年)
PINN(Physically Independent Neural Network)という通名の人工知能と、R.I.F.T.(Revolutionary Independence From Technology)と名乗る反テクノロジー過激派組織とは、『トランセンデンス』の世界においては、《表現的に相対立する。それは過去と未来が現在において相互否定的に結合した世界である》。それを消化も昇華もできないまま、安っぽいメロドラマに仕立ててしまったウォーリー・フィスター…彼こそがPINNかR.I.F.T.の餌食にされるべき存在であろう。‘Transcendence’(超越)と‘Immanence’(内在)…
人間の脳ミソの中に《内在的なるものが超越的なる世界》を探した『インセプション』は、「遅すぎた夢物語」であっても面白かったが、《超越的なるものが内在的》であることを表現できていない『トランセンデンス』は、《未来は未だ来らざるものでありながら既に現れているという矛盾的自己同一的現在(歴史的空間)》を全く描けていないので救いようの無い超駄作だ。こんなことならば‘撮らん’方がよかったと‘専断す’べきだった映画が…『トランセンデンス』。