帰山人の珈琲漫考

なか野庵の想い出~(3)変りもの

ジャンル:グルメ / テーマ:うどん・そば / カテゴリ:食の記:回顧編 [2009年05月18日 19時00分]
なか野庵の休業日は不定休で、しかも予告無しに休むことも、休みのハズが開店していることも、しばしばあった。原則として、大将が「魚釣り」に出かけることで休業が決定し、天候により船が出るか出ないかの連絡一発が全てを左右する。営業時間中でも、客足が途切れた瞬間に大将が消えてしまう場合もある。
 
「魚釣り」とは言ったが、獲物はクロマグロなどで、もはや「漁」。マグロ目当ての場合に釣果を問うと、「外道ばかりで坊主と同じ、外道は欲しけりゃ持っていけ」と何度も私にも外道が渡された。マダイ・ヒラメ・カンパチ・カツオ・・・「オレの天職は釣りだ!蕎麦打ってるのは船に乗る経費稼ぎだ!」という大将の言葉に、常連は誰も反論しなかった(否、できなかった?)。
 
蕎麦職人は「釜前一生」なのだが、なか野庵大将の「釜前」は初見の女性客などに顔をしかめさせることも度々あった。巨大な特注砲金釜の前に仁王立ちする大将の右手には茹で箸、左手には瓶ビールかコップ酒、口にはくわえタバコ、なのだから。
 
なか野庵は「うどん」もメニューにある。これがまた旨い。しかし、昼の満席混雑時に「うどん」を頼むのは、キケンである。例えば、女性のグループ客で蕎麦とうどんとに分かれて頼むと、蕎麦が出てきて食べ終わってもうどんは出る気配すらない。うどん客は「遅すぎる」と半ばクレームを花番おっかさんに言い、おっかさんが大将にうどんを急かす。直後、大将の怒鳴り声。「そんなにうどんが食いたけリャあ、そこのうどん屋に行きゃあがれ!」。確かに、店の筋向い側の並びにうどん屋はあるのだが・・・この暴言(?)に二度と足を運ばなくなる客も多数いただろう。だが、「オレんとこは蕎麦屋だっ!」と言い放つ他方で、蕎麦とは別にうどん用「かえし」を用意し、うどんにも手は抜かない。
 
気難しく一刻で、だが気さくでお茶目でもある典型的な職人気質、この気質を人間の姿に凝縮したのが、大将だったのかもしれない。現代的な軽いホスピタリティなんか吹き飛ばして超越したところに、なか野庵の蕎麦屋としての本道と温かみがあるのであって、これを認めない客は無理に来なくて結構、と私も思って通っていた。
 
変り者には違いない大将だが、進取の気性も職人として見事。某日、大将が「沖縄にはウコンのスゴイのがあるらしいなぁ」と私に言った。聞けばTV番組で取り上げていたのを観たばかり、と。内容から判断して「そりゃあ、春うっちんだろうな」と私が返すと、「それだ、それだ。手に入ったらそれでウコン切りを打つんだがなぁ」。春うっちんの薬効を聞いて体の弱った客に食べてもらいたい、と言う。一旦店から出た私は、「わしたショップ」に走り、純「春うっちん」粉を入手して「なか野庵」に戻った。さすがに、大将も驚いていたが、即座に「春うっちん切り蕎麦」を打ち、目的とする客を呼び、皆で賞味。この間、数時間の中休みでの出来事である。他日では、私たち客の要望に応えて「コーヒー切り」「紅茶切り」も挑み、大将自身が納得できるまで何度も試行錯誤を繰り返していた。
 
変り者が打つ変わり蕎麦、素材に挑み客と勝負することが、なか野庵のホスピタリティだったのかもしれない。
 
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なか野庵の想い出~(2)蕎麦の山

ジャンル:グルメ / テーマ:うどん・そば / カテゴリ:食の記:回顧編 [2009年03月27日 03時00分]
なか野庵は馴染み客が多数を占める店ではあったが、中には「通」や「マニア」を自認するような蕎麦好きも訪れる。こうした初見は、この店の蕎麦をたぐる以前に度肝を抜かれる。
 
まるで反比例の法則が業界の慣わしかのように、「旨い蕎麦」ほど「量は少ない」というのが半ば常識である。したがって、「味見や腕見」だとか「小腹ふさぎ」だとかでは無くて、昼食や夕食、「食事」として蕎麦を食すならば、大盛りや追加は前提となる。しかし、なか野庵ではこの常識が見事に裏切られる。多い。圧倒的に多い。
 
事前に多いと聞かされていた私でさえ、当初は実際の盛りを見て唖然とした。以後、私がこの店を知人に紹介する場合は、「いいか、蕎麦は滅法旨いが、量も多いぞ。だから最初は大盛りを注文するな! ああ、どのメニューでもだ。もし不足なら次から大盛りにすればよいから…」と、言っていた。しかし、「旨い蕎麦ほど量は少ない」という反比例法則の常識にとらわれ、私の忠告を無視して、結果口を押さえ腹をさすり討ち死にする者も後を絶たない。
 
なか野庵で「大ざる」(ざるそばの大盛り)を注文する。正統な直径21cmの丸型(ざる並盛は角型、もり並盛は長方形)の「ざるせいろ」に盛られて出てくる。盛られた蕎麦でせいろの置き簀が全く見えない。「もう一筋蕎麦を乗せると、盛った蕎麦の山から落ちる」ギリギリの蕎麦の山。否、実際には「せいろ」が置かれている盆に蕎麦がこぼれ落ちていることも…これが、この店の「大ざる」である。
 
どうしてこんなに盛るのか?を大将に尋ねたことがある。曰く、「そりゃあ、洒落たお大尽が食う蕎麦もあるけどよォ、俺んとこは街中で会社員が食事に来るんだろ?そうしたら、きちんと食事になる分を出すのが筋ってぇもんだろが、違うか?」…違わない。全く正論である。ありがたい正論だ。
 
しかし、使っている蕎麦粉は信州大町のK製粉所の水車石臼引で最高品。東京あたりでは同じ粉を使って、5分の1程度の量で出す(こちらが普通)。原価無視というか、価格破壊というか、なか野庵は非常識である。さすがに製粉所から「そんなに(一人前に沢山)使ってもらったら困る」と言われたことがあるらしいが、大将は「一旦俺が買った粉だ。どれだけ使おうが俺の勝手だ!」と全く意に介さなかったらしい。
 
「何だ、旨い蕎麦屋とか言っているが自家製粉じゃあないのか」と思うのは、大将とおっかさん夫婦だけで毎日昼夜営業し続け、「大ざる」値上後800円でやってきた蕎麦屋であることから見て筋が違う。そして、その辺の自家製粉を気取った半端な蕎麦屋よりもなか野庵の蕎麦自体が遥かに旨いのは、どういうわけだろうか。
 
店の立地と役割を読んで「きちんと食事になる分を出すのが筋」という正論で、量と質を両立させていた奇特な蕎麦屋を、私は未だ他に知らない。
 
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なか野庵の想い出~(1)もりとざる

ジャンル:グルメ / テーマ:うどん・そば / カテゴリ:食の記:回顧編 [2009年03月12日 03時00分]
しばらく前まで「蕎麦を食べたい」と思う都度に、「なか野庵の蕎麦」が脳裏に浮かび、他の蕎麦を食べる気が失せて困っていた。最近はそこまでではないものの、「ウマイ蕎麦屋」の話がでる度に「なか野庵」を思い浮かべないことは無い。この店は稀代の蕎麦屋であった。
 
知人に教えられ、初めて店を訪ねた時に「なるほど」と思った。店の構えも配置も、伝統的な蕎麦屋の小店のつくりであること。うどんも丼物も、さらには中華そばまでメニューにあるので、ほとんど大衆食堂にしか見えないこと。蕎麦には「もり」と「ざる」が両方あること。
 
「ざる」と「もり」の違いについては諸説あるし、「本来は海苔の有無だけが違いじゃあ無い」という話はよくあるが、だからといって、結局決定的な統一した違いは規定できない。「せいろ」という呼び名も含めて蕎麦の歴史的な観点でも違いは語れるが、実物の違いとしては、「ざる」は一番粉「もり」は二番粉、「ざる汁」は一番出汁「もり汁」は二番出汁、などを上げる説もある。
 
「なか野庵」の場合は、「もり」は海苔なしで「もり汁」をつけて薬味は「葱」だけ、「ざる」は海苔ありで「ざる汁」をつけて薬味は「葱と山葵」、という違いであった。「もり汁」は甘みが少なくキレのある汁で、「ざる汁」は甘みの強いコクのある汁である。
 
店の主人曰く、「ざる汁の甘さには海苔と山葵が合うが、もり汁に山葵は合わない。もりに葱以外の薬味を加えるなら、卓上の七味(唐辛子)だっ」。近年、この理屈で「ざる」と「もり」を分け、その主張通りに汁を仕立てる大衆的構えの蕎麦屋はごく少ない。但し、汁でざるともりを分ける場合は、「ざる汁」の甘みは「口味醂」「御前返し」という他店もあるようだが、なか野庵では「御前返しは御前返しだ」と更に別の上級品と主張していた。
 
その後、常連となった私が観たところ、なか野庵で客の「ざる派」と「もり派」はほぼ半分半分だったが、私は「もり汁」贔屓で、天ざるを注文しても「汁はもり汁」と言い、主人(大将と呼んでいたので、以後は大将)に「この貧乏人がっ!」と笑われた。ざるもりの金額差では無く、職人など下層階級好みの味という意味である。
 
ある日、花番(は大将の奥方だが、おっかさんと呼んでいた)が運んできた「もり汁天ざる」を早速食べようと猪口(ちょく)を口元に近づけた私は、「おっかさん、汁が間違っているよ、こりゃあざる汁だっ!」。おっかさん詫びながら、「でも、食べてスグわかったの?」。私、「まだ何も口につけてねぇよ!鼻で解らなきゃあ蕎麦好きとはいえねぇだろ!」。
 
理屈の違い、風味の違い、その筋通りの良い「ざる」と「もり」がなか野庵にあった。
 
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半端な祝膳

カテゴリ:食の記:回顧編 [2009年03月11日 02時00分]
1987年の私の誕生日ディナー。
サントネージュワインのロゼ。
パンプキンスープ。
サラダ。
スタッフド・ピーマン。
スパゲッティ・ヴェルデ・ボロネーゼ。
コールド・ビーフ。
ケーキ(La Palette製)。
コーヒー(浸漬法水出し)。
 
1987年の母50歳の誕生日ディナー。
ポレール・ブラッシュ・マスカットベリーA’86。
オイルサーディンのカナッペ。
ミネストローネ風白いんげんのズッパ。
小海老と胡瓜のスッタフド・トマトサラダ。
しめじと黒胡麻ソースのスパゲッティ。
鮭のポシェ・アイヨリソース。
ケーキ(フーシェ製)。
コーヒー(浸漬法水出し)。
 
この2つの夕餐は、あまり美しくない構成である。
まずワインを出すなら、もう少しまともな品は無かったものか。
全体にイタリアンのようだが、フレンチっぽい臭いもあり、一貫性が無い。
ケーキも(専門店からとはいえ)他店のモノを出すのはいかがなものか。
コーヒーだけは妙に凝った製法だが、その気合いが他と釣り合ったのか。
 
今から顧みると、自分の分はともあれ、五十路を迎えた母親の誕生日には、
例えカジュアルでももう少しマトモなディナーで祝ってやれなかったのか、
と悔やまれる中途半端さ・・・
加えて味のほうも、他の家族には好評だったが、
私には中途半端だった記憶が残っている。
これだけは(ケーキ以外は)作った料理人、
つまり当時(大学研究生という中途半端な身)の私自身を責めるしかない。
 
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kisanjin

Author:kisanjin
鳥目散 帰山人
(とりめちる きさんじん)

無類の珈琲狂にて
名もカフェインより号す。
沈黙を破り
漫々と世を語らん。
ご笑読あれ。

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