コーヒーを隆とせよ
西洋の社会を語るにも拘らずバタ臭くは無い、むしろカサカサと乾いていて軽い感じ、「ロブスタの浅煎り」とでも喩えられようか、不思議な後味が残るコーヒー本を読んだ。
『珈琲と吟遊詩人 不思議な楽器リュートを奏でる』(木村洋平:著/社会評論社:刊)は、大まかに言えばタイトル通りにコーヒーと吟遊詩人とリュートを並べ語る本である。
「第一話 珈琲とカフェの文化史」において、著者木村洋平氏は、現代の日本における珈琲店を「四つくらいに分けて」その特徴を捉えて、登場人物の発言として評している。
《一、まず、スペシャルティコーヒーの専門店。
どれも均一にレベルの高い味がする。
二、次に、シアトル系を始めとする良質なコーヒーチェーン。
ここも安定して、わりと美味しい珈琲が手軽に飲める。
三、自家焙煎の珈琲専門店。
主人のやり方一つで、味ががらりと変わるので、バラエティーが豊か。
四、珈琲よりも雰囲気や安さにこだわったカフェ。
珈琲の味は、似たり寄ったり。》 (p.23)
この評に対して私は全く同意できない。一に関して、スペシャルティコーヒーの専門店であってもレベルの低い味がする店はかなり多い。むしろ、「スペシャルティコーヒーの専門店は、旧来の非スペシャルティコーヒー店よりも相対的にレベルが高いハズ」という予断自体すら誤っている、という実態であろう。二に関しても、シアトル系が良質(?)とする見解は私には度し難く思える。どのチェーンであっても訪店する都度に味は全く安定していないし、そのほとんどが「わりと美味しくない珈琲」を衒って出す店ばかりだ。三と四に関しては、異論はない。だが、この4分類の並べ順がおそらく著者の好みを示しているのであろうという臆断も含めて、著者と私とでは珈琲店を捉える認識自体がまるでズレていることは間違いない。どちらが正しいとか誤りとかいう問題ではないし、巷間では著者の認識の方がイマドキなのだろうが、私は私でハッキリと異を唱えたい。
『珈琲と吟遊詩人』において、第一話とエピローグを除いた残りの章は、コーヒーに軸を置いた話ではないが、それでも興味深くも面白く読みとれる箇所もあり楽しい本だ。
《…なんらかの訳語として「吟遊詩人」という言葉が発明されたのに、今度は、
「吟遊詩人」に当たるヨーロッパの言葉を探して、逆に翻訳しようとすると、
なにも見当たらないのですね…西洋の歴史と、西洋風のファンタジー世界に
埋没していると思われた「吟遊詩人」が、まさか日本語の独創だったとは!》
(「第二話 吟遊詩人の歴史」 p.84)
この「吟遊詩人」という言葉を取り巻く状況は、抽出技法や産地ブランドに象徴される日本の「コーヒー」にそっくりである。西洋の歴史と、西洋風のファンタジー世界に埋没していると思われた「ネルドリップ」や「ブルーマウンテン」は、まさに日本の独創だったのである。日本における「吟遊詩人」も「コーヒー」も、明治・大正期に概念を輸入し始めて、昭和初期に変転しつつ確立へ向いて、1960年代以降に一度は完全に固着し、1980年代以降にその固定概念が打ち破られる時期を迎えている相似、実に面白い。エピローグにおいて、《珈琲こそは、世界中を遍歴する異邦人ではないか》(p.235)と著者は語っているが、異邦を独創で解する日本の癖はコーヒーにも見出されるのだ。
『珈琲と吟遊詩人』を著者は、《…ごくふつうのエッセイとも、教養書とも、物語ともつかない、少し風変わりな本になった》(「プレリュード」 p.2)と自評し《…本書の文章(会話)がリズミカルに、明快に読んでもらえたら、とてもうれしい》(「あとがき」 p.250)と望む。しかし、「吟遊詩人」「僕」「祖父」「小学校の先生」の4人を登場人物として対話形式で内容が展開されている本書は、著者の語りたい蘊蓄を「僕」だけでなく他の登場人物にも散らして喋らせているため、その蘊蓄を並べた話題のわざとらしさが交互に表れ、それが気に障って文章のリズム感が相殺されている。《…扱った話題の「珈琲豆」を充分な仕方で抽出できずに、どこか説明が浅煎りに過ぎたり、逆に、思想が深煎りで苦すぎたりしたかもしれない》(「あとがき」 p.251)とも著者は釈明しているが、私には説明も思想もどちらも浅煎りに過ぎて、違和感が後残る「ロブスタの浅煎り」に感じた。
「不思議な楽器リュート」に関しても、有棹弦鳴楽器であるリュート属の紹介をBarbat(バルバット)やKora(コラ)あるいは琵琶にまで言及すれば、「吟遊詩人」の絡みでもSogd(ソグド/粟特)人やGriot(グリオ)あるいは巡遊伶人や琵琶法師へ至当に触れることになったのであろうが、本書では紙面の都合か? 話題が拡がらず残念である。だが仮に本書の続編を期待するのであれば、まず珈琲狂としては、リュートはともあれコーヒー本としても隆(りゅう)とした内容を奏でてほしい、『珈琲と吟遊詩人』を超えて。
『珈琲と吟遊詩人 不思議な楽器リュートを奏でる』(木村洋平:著/社会評論社:刊)は、大まかに言えばタイトル通りにコーヒーと吟遊詩人とリュートを並べ語る本である。
「第一話 珈琲とカフェの文化史」において、著者木村洋平氏は、現代の日本における珈琲店を「四つくらいに分けて」その特徴を捉えて、登場人物の発言として評している。
《一、まず、スペシャルティコーヒーの専門店。
どれも均一にレベルの高い味がする。
二、次に、シアトル系を始めとする良質なコーヒーチェーン。
ここも安定して、わりと美味しい珈琲が手軽に飲める。
三、自家焙煎の珈琲専門店。
主人のやり方一つで、味ががらりと変わるので、バラエティーが豊か。
四、珈琲よりも雰囲気や安さにこだわったカフェ。
珈琲の味は、似たり寄ったり。》 (p.23)
この評に対して私は全く同意できない。一に関して、スペシャルティコーヒーの専門店であってもレベルの低い味がする店はかなり多い。むしろ、「スペシャルティコーヒーの専門店は、旧来の非スペシャルティコーヒー店よりも相対的にレベルが高いハズ」という予断自体すら誤っている、という実態であろう。二に関しても、シアトル系が良質(?)とする見解は私には度し難く思える。どのチェーンであっても訪店する都度に味は全く安定していないし、そのほとんどが「わりと美味しくない珈琲」を衒って出す店ばかりだ。三と四に関しては、異論はない。だが、この4分類の並べ順がおそらく著者の好みを示しているのであろうという臆断も含めて、著者と私とでは珈琲店を捉える認識自体がまるでズレていることは間違いない。どちらが正しいとか誤りとかいう問題ではないし、巷間では著者の認識の方がイマドキなのだろうが、私は私でハッキリと異を唱えたい。
『珈琲と吟遊詩人』において、第一話とエピローグを除いた残りの章は、コーヒーに軸を置いた話ではないが、それでも興味深くも面白く読みとれる箇所もあり楽しい本だ。
《…なんらかの訳語として「吟遊詩人」という言葉が発明されたのに、今度は、
「吟遊詩人」に当たるヨーロッパの言葉を探して、逆に翻訳しようとすると、
なにも見当たらないのですね…西洋の歴史と、西洋風のファンタジー世界に
埋没していると思われた「吟遊詩人」が、まさか日本語の独創だったとは!》
(「第二話 吟遊詩人の歴史」 p.84)
この「吟遊詩人」という言葉を取り巻く状況は、抽出技法や産地ブランドに象徴される日本の「コーヒー」にそっくりである。西洋の歴史と、西洋風のファンタジー世界に埋没していると思われた「ネルドリップ」や「ブルーマウンテン」は、まさに日本の独創だったのである。日本における「吟遊詩人」も「コーヒー」も、明治・大正期に概念を輸入し始めて、昭和初期に変転しつつ確立へ向いて、1960年代以降に一度は完全に固着し、1980年代以降にその固定概念が打ち破られる時期を迎えている相似、実に面白い。エピローグにおいて、《珈琲こそは、世界中を遍歴する異邦人ではないか》(p.235)と著者は語っているが、異邦を独創で解する日本の癖はコーヒーにも見出されるのだ。
『珈琲と吟遊詩人』を著者は、《…ごくふつうのエッセイとも、教養書とも、物語ともつかない、少し風変わりな本になった》(「プレリュード」 p.2)と自評し《…本書の文章(会話)がリズミカルに、明快に読んでもらえたら、とてもうれしい》(「あとがき」 p.250)と望む。しかし、「吟遊詩人」「僕」「祖父」「小学校の先生」の4人を登場人物として対話形式で内容が展開されている本書は、著者の語りたい蘊蓄を「僕」だけでなく他の登場人物にも散らして喋らせているため、その蘊蓄を並べた話題のわざとらしさが交互に表れ、それが気に障って文章のリズム感が相殺されている。《…扱った話題の「珈琲豆」を充分な仕方で抽出できずに、どこか説明が浅煎りに過ぎたり、逆に、思想が深煎りで苦すぎたりしたかもしれない》(「あとがき」 p.251)とも著者は釈明しているが、私には説明も思想もどちらも浅煎りに過ぎて、違和感が後残る「ロブスタの浅煎り」に感じた。
「不思議な楽器リュート」に関しても、有棹弦鳴楽器であるリュート属の紹介をBarbat(バルバット)やKora(コラ)あるいは琵琶にまで言及すれば、「吟遊詩人」の絡みでもSogd(ソグド/粟特)人やGriot(グリオ)あるいは巡遊伶人や琵琶法師へ至当に触れることになったのであろうが、本書では紙面の都合か? 話題が拡がらず残念である。だが仮に本書の続編を期待するのであれば、まず珈琲狂としては、リュートはともあれコーヒー本としても隆(りゅう)とした内容を奏でてほしい、『珈琲と吟遊詩人』を超えて。