ひどく熱い
「大坊珈琲店のマニュアル」(大坊勝次:著『大坊珈琲店』 関戸勇:写真 猿山修:装丁)は、《一九七五年七月一日に大坊珈琲店は開店しました。暑い日でした。》、と始まる。その日の東京の最高気温は摂氏23.3度、それから38回の同月同日の中では下から6番目に低い最高気温だったが…それでも「1975年夏、人人は融けかかったアスファルトに己が足跡を刻印しつつ歩いていた」のであろうか? 烈烈たる開店だったから?…「ひどく暑い」。
大坊珈琲店を人人は、‘レトロ’とか‘ノスタルジック’とか‘時に置き去りにされた’とか‘時が止まった’などと評している。また、「こんなコーヒー屋に自分もなりたい」と同業者は言う。
《…古びた木の扉を開けると、中にはようやく20人ほど座れる小さな空間がある。この小さな店で36年間コーヒーと取り組んできた主人…は、珈琲屋の先駆者といえる存在だ。先駆者の常としてもちろん適当な手本はなく、ロースターも抽出器具もコーヒー論さえも自前で開発し、36年間自らが旨いと信じるコーヒーを出し続けている。…煙草のヤニで黒光りする壁と天井に囲まれたこの空間には、時を重ねたものの持つ懐かしさと同時に一種の緊張感がただよう。この緊張感は、たぶん長い間コーヒーを追い続けた…求道者的な姿勢がもたらすものだろう。》 (「コーヒー空間逍遙」/月刊喫茶店経営別冊『blend ブレンド―No.2』/柴田書店:刊/1983年)
これは、大坊珈琲店のことではない。荻窪にあったコーヒー屋『琲珈里』、その店主である阿蘇輝雄氏のことである。記事では、《歴史も姿勢もかなり異なった2つの店》を紹介する。
《『琲珈里』が珈琲屋のプロトタイプだとすれば、一方『大坊珈琲店』はソフィスティケイトされた珈琲屋とでもいえばよいだろうか。8年ほど前、コーヒー専門店ブームのさ中にできた店だが、それにしてはあのギラギラしたマエムキの迫力を感じない、妙にここちよく突き抜けてしまった店だ。(略)こういう姿勢を保ちながら、この珈琲屋がリラックスした雰囲気を身につけているのは、この空間がある遊びを感じさせるからだろう。例えば、コーヒー20g=100ccなどと豆の使用量と仕上りの量でメニューの表示をしたり、ドンブリ風のカップでカフェ・オ・レを出したり、頭の上の棚にはズラリ、ミステリーを並べたり、松の一枚板のカウンターが絶妙なバランスで撓んでいたり等々……。それぞれに深い子細があってこうなっているのだが、こういった遊びの仕掛けが、この店から無意味な真剣さを取り除いて、ゆったりとくつろいだ空間にしているのだ。》 (前掲同)
大坊珈琲店の‘洗練’も‘寛寛’も、開店当初はもとより8年を経ても、《歴史も姿勢もかなり異なった》類の‘奇矯’であり‘狂逸’であった。つまり、もしも「こんなコーヒー屋に自分もなりたい」のであれば、まずは《遊びの仕掛け》が本質であって、積年による貫禄なんぞは周囲が勝手に熱を吹いただけ。‘大坊珈琲店’は最初から‘大坊珈琲店’だったのである。
2013年12月23日に大坊珈琲店は閉店した。その日の東京の最高気温は摂氏8.4度、それまで38回の同月同日の中では下から6番目に低い最高気温、確かに寒い日だった。閉店日の店へ詰めかけた客らを嶋中労氏は、《みなブライアン・フリーマントルを気どって、大坊に別れを告げに来た人ばかりである。》と、“Goodbye to an Oldfriend”(『別れを告げに来た男』)に喩えた。また、『dancyu』(ダンチュウ)2014年2月号は‘オオヤミノルさんが最後に聞いたこと。’と称して、「ロング・グッドバイ 大坊珈琲店」という文を掲げた。客の一人である村上春樹氏(レイモンド・チャンドラー『ロング・グッドバイ』翻訳)を意識したのだろうか? 嶋中氏によるフザけた‘別れ’はともあれ、ダンチュウに載った《遊びを感じさせ》ない、まるで鎮魂や追悼を本気で表するような文と題は、性根の腐敗で臭いだけ。大坊珈琲店は遺構ではない。大坊勝次氏は霊ではない。愛好と切磋琢磨の対象である。
「2013年冬、人人は凍てついたアスファルトに己が呼気を白く映しつつ歩いていた」ので あろうか?…「当店のコーヒーは最も味がなじむ温度にしてありますが特に熱いコーヒーをお望みの方は申し付け下さい」、と大坊珈琲店は掲げていたが、大坊勝次氏は特に熱い。「大坊珈琲店のマニュアル」(『大坊珈琲店』)は、《コーヒーを作ることだけが、 何かを伝えるにせよ私に出来る唯一のことかもしれません。》、と結んでいる。果たして、「ひどく熱い」。
大坊珈琲店を人人は、‘レトロ’とか‘ノスタルジック’とか‘時に置き去りにされた’とか‘時が止まった’などと評している。また、「こんなコーヒー屋に自分もなりたい」と同業者は言う。
《…古びた木の扉を開けると、中にはようやく20人ほど座れる小さな空間がある。この小さな店で36年間コーヒーと取り組んできた主人…は、珈琲屋の先駆者といえる存在だ。先駆者の常としてもちろん適当な手本はなく、ロースターも抽出器具もコーヒー論さえも自前で開発し、36年間自らが旨いと信じるコーヒーを出し続けている。…煙草のヤニで黒光りする壁と天井に囲まれたこの空間には、時を重ねたものの持つ懐かしさと同時に一種の緊張感がただよう。この緊張感は、たぶん長い間コーヒーを追い続けた…求道者的な姿勢がもたらすものだろう。》 (「コーヒー空間逍遙」/月刊喫茶店経営別冊『blend ブレンド―No.2』/柴田書店:刊/1983年)
これは、大坊珈琲店のことではない。荻窪にあったコーヒー屋『琲珈里』、その店主である阿蘇輝雄氏のことである。記事では、《歴史も姿勢もかなり異なった2つの店》を紹介する。
《『琲珈里』が珈琲屋のプロトタイプだとすれば、一方『大坊珈琲店』はソフィスティケイトされた珈琲屋とでもいえばよいだろうか。8年ほど前、コーヒー専門店ブームのさ中にできた店だが、それにしてはあのギラギラしたマエムキの迫力を感じない、妙にここちよく突き抜けてしまった店だ。(略)こういう姿勢を保ちながら、この珈琲屋がリラックスした雰囲気を身につけているのは、この空間がある遊びを感じさせるからだろう。例えば、コーヒー20g=100ccなどと豆の使用量と仕上りの量でメニューの表示をしたり、ドンブリ風のカップでカフェ・オ・レを出したり、頭の上の棚にはズラリ、ミステリーを並べたり、松の一枚板のカウンターが絶妙なバランスで撓んでいたり等々……。それぞれに深い子細があってこうなっているのだが、こういった遊びの仕掛けが、この店から無意味な真剣さを取り除いて、ゆったりとくつろいだ空間にしているのだ。》 (前掲同)
大坊珈琲店の‘洗練’も‘寛寛’も、開店当初はもとより8年を経ても、《歴史も姿勢もかなり異なった》類の‘奇矯’であり‘狂逸’であった。つまり、もしも「こんなコーヒー屋に自分もなりたい」のであれば、まずは《遊びの仕掛け》が本質であって、積年による貫禄なんぞは周囲が勝手に熱を吹いただけ。‘大坊珈琲店’は最初から‘大坊珈琲店’だったのである。
2013年12月23日に大坊珈琲店は閉店した。その日の東京の最高気温は摂氏8.4度、それまで38回の同月同日の中では下から6番目に低い最高気温、確かに寒い日だった。閉店日の店へ詰めかけた客らを嶋中労氏は、《みなブライアン・フリーマントルを気どって、大坊に別れを告げに来た人ばかりである。》と、“Goodbye to an Oldfriend”(『別れを告げに来た男』)に喩えた。また、『dancyu』(ダンチュウ)2014年2月号は‘オオヤミノルさんが最後に聞いたこと。’と称して、「ロング・グッドバイ 大坊珈琲店」という文を掲げた。客の一人である村上春樹氏(レイモンド・チャンドラー『ロング・グッドバイ』翻訳)を意識したのだろうか? 嶋中氏によるフザけた‘別れ’はともあれ、ダンチュウに載った《遊びを感じさせ》ない、まるで鎮魂や追悼を本気で表するような文と題は、性根の腐敗で臭いだけ。大坊珈琲店は遺構ではない。大坊勝次氏は霊ではない。愛好と切磋琢磨の対象である。
「2013年冬、人人は凍てついたアスファルトに己が呼気を白く映しつつ歩いていた」ので あろうか?…「当店のコーヒーは最も味がなじむ温度にしてありますが特に熱いコーヒーをお望みの方は申し付け下さい」、と大坊珈琲店は掲げていたが、大坊勝次氏は特に熱い。「大坊珈琲店のマニュアル」(『大坊珈琲店』)は、《コーヒーを作ることだけが、 何かを伝えるにせよ私に出来る唯一のことかもしれません。》、と結んでいる。果たして、「ひどく熱い」。