帰山人の珈琲漫考

されど映画じゃないか!

ジャンル:映画 / テーマ:映画感想 / カテゴリ:観の記:映面 [2016年12月30日 01時30分]
『映画術 ヒッチコック/トリュフォー』という本を題材にした映画の予告編で、黒沢清がアルフレッド・ジョゼフ・ヒッチコックを評して《作家性という点でみると、極端に端っこにいる人》と言っていた。「ヒッチは端だが役に立つ」といったところか? ウフフ。
 されど映画じゃないか! (1)
 
《…『映画術』という本が日本語で出ていて、これを案外大勢の人が読んでいたりする。(略) 『映画術』、作者本人が自作について語ったんだから、これはもうやりきれないくらい由緒正しい書物な訳で、ちょっとうっかりしたことは言えなくなってしまう。(略) サスペンスとかエモーションとかマクガフィンだとかいった言葉を駆使して、結局のところ「面白ければいいじゃないか」という断定。それは、例の「たかが映画じゃないか」という名文句と相まって、ひとつの思想にまで発展する。これはどういう事態か。》 (黒沢清 「ヒッチコック/ロメール」/『シネアスト 映画の手帖』1:[特集]ヒッチコック 青土社:刊 1985年)
 
 されど映画じゃないか! (2)
確かに『映画術 ヒッチコック/トリュフォー』(フランソワ・トリュフォー:著/日本語版 山田宏一・蓮實重彦:訳 晶文社:刊 1980年 増補改訂1991年/原書“Le Cinéma selon Hitchcock”1966 増補改訂1983)が出版されて以来、「たかが映画じゃないか」などと《ちょっとうっかりしたことは言えなくなってしまう》羽目になった。これはどういう事態か。このヒッチ本を出したトリュフォーの「筆致はマジだが役に立つ」の蔓延であり、シネフィル(cinéphile)にとっても「本人が説いた フィルは死ね」の‘死ねフィル’であり、ヒッチ作品に無意味なマクガフィン(MacGuffin)を探しながら観て‘幕がFin’というやりきれない事態である。
 
『ヒッチコック/トリュフォー』(HITCHCOCK/TRUFFAUT) 観賞後記
 
《このドキュメンタリーの唯一の、そして最大の効用は、見終わった瞬間、断片的に挿入されたヒッチコックの全ての作品を見たい!という猛烈な飢餓感に襲われることだ。だからこそ、「映画術」へのオマージュとしてはまったく申し分のない出来栄えである。》 (高崎俊夫/Webサイト『映画.com』 映画評論 2016年11月30日)
 
 されど映画じゃないか! (3)
いいや、私は‘飢餓感’なんて少しも覚えなかった。この映画は、先行した『映像の魔術師 オーソン・ウェルズ』(Magician: The Astonishing Life and Work of Orson Welles/2014)と同じく、チャールズ・S・コーエンの注文に応じて作られた。ウェルズ映画の監督に起用されたチャック・ワークマンと同様、ヒッチ映画の監督に起用されたケント・ジョーンズも、巨匠を意識し過ぎるあまり思うように身体が動かなくなるような、そんなぎこちない作りに堕した。2つの映画は共に、「編集は映画の持ついくつかの様相の一つではない。それは正に映画の様相なのだ」とウェルズが遺した言を活かしていないし、「台詞と視覚的な要素をはっきりと区分し、つねに、できるかぎり台詞にたよらずに、視覚的なものだけで勝負することがかんじんだ」とヒッチコックが遺した言も活かしていない。さらに言えば、映画『ヒッチコック/トリュフォー』が《「映画術」へのオマージュとして》作られるのだとすれば、「映画館のウィンドーの写真とかポスターを見て、これは面白そうだとか、詰まらなそうだとか判断する、そういう人達を無視してはならない」とフランソワ・トリュフォーが遺した言を活かして、トリュフォーを主眼に追うべきだったのだ。『映画術 ヒッチコック/トリュフォー』という本の真の語り手は、ヒッチコックではなくてトリュフォーなのだから。
 
《そもそもすべては友人のフランソワ・トリュフォーからの電話で始まった。パラマウントのフェリー夫人が「カイエ」の同人を、ホテルジョルジュ・V(サンク)のヒッチコック自身の部屋で行なわれる記者会見に招待するというのである。そこで我々は念入りに準備を整えたのだった。一方の手には以後必需品となるテープレコーダーを、もう一方の手には紙を、そして胸には希望よりは不安を抱いていった。(略) トリュフォーの顔を伺うと、彼もこちらを見返してきた。(略) 会見がこういう調子のままなら我々は手ぶらで帰るしかない。だから私は何とか彼に面白い事を言わせるような質問をすることにした。少し考えたあと質問をした。「アメリカでの作品のうちで、どれが出来が悪いとあなたはお考えですか」 質問の罠にかかるまいとして考え込むのを満足の面持ちで私は見ていたが、答えを聞いてまた袋小路においやられ、私はくさってしまった。哄笑とともに「全部だよ」と言い放ったものである。(略) 会見のしめくくりの言葉として今のはぴったり決まったので、彼はほかに質問が出るのを懼れ、今にも別れの言葉を言いそうになった。(略) 今度こそ終わりだった。皆立ち上がり、引上げてゆく。彼はめいめいに握手をし、さながら葬儀が終わったかのようだった。事実我々はヒッチにうまいこと葬られてしまったわけである。我々は彼に感謝の言葉を述べ、彼もまた我々に同じことばを返してくれた。トリュフォーと私は情けない顔をして最後に部屋を出た。廊下でフランス・ロッシュが「マーヴィン・ルロイだって最後にはまじめなことを言ったわよ」とがっかりしていた。うなだれて「カイユ」の事務所に戻った。》 (Claude Chabrol ‘Histoire D'une Interview’ “Cahiers du Cinéma”/クロード・シャブロル「ヒッチコック会見記」 『カイエ・デュ・シネマ』39号 1954年/鈴木圭介:訳/『シネアスト 映画の手帖』1)
 
 されど映画じゃないか! (4)
フランソワ・トリュフォーらがアルフレッド・ヒッチコックに《うまいこと葬られてしまった》この1954年6月28日の会見から2968日後、ユニバーサル・スタジオの会議室でインタビューが始まった。ヒッチコックに「たかが映画じゃないか」と翻弄された8年後に、トリュフォーが「されど映画じゃないか」と敗者復活戦に挑んだ成果、それが『映画術 ヒッチコック/トリュフォー』である。だから、この本を題材にして作る映画では、その後を追う映画監督らに語らせるべきはヒッチコックについてではなくてトリュフォーに対してなのだ。だが、今般の映画はそうでないので、観ているうちにウフフと笑う気力も失せた。自分の本が映画『ヒッチコック/トリュフォー』になったと知ったならば、当のトリュフォーは《情けない顔をして》こう言うのではないか? ‘salle de cinéma’(映画館)のウィンドーの写真とかポスターを見て、これは面白そうだとか、詰まらなそうだとか判断する、そういう人達を無視してはならない…「されど映画じゃないか!」
 
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kisanjin

Author:kisanjin
鳥目散 帰山人
(とりめちる きさんじん)

無類の珈琲狂にて
名もカフェインより号す。
沈黙を破り
漫々と世を語らん。
ご笑読あれ。

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