色彩の演出
ファッションがコーヒーやカフェに抱く想念はいかなるものか?それは時勢を示すのか?
《…都市の室内としてのカフェの存在を誰よりもよく知っているのはモードに
翻弄される人間たちだろう。自己の死体を確認するかのように、自ら進ん
でその美しい風景となることを望むこの人間たちにとって、カフェは華やか
な日常の舞台なのだ。輝やかしいモードの物神が銀座の街に降り立った
昭和初頭、新しい時代の呼び声に歓喜して、「カフェー」のなかに軽快な
ダンスのステップを響かせたのは断髪にセーラーズボン姿のモダンガー
ルたちだった。以来、カフェはモードの物神と結託し、ショーのまわり舞台
を回すかのように次々と新しい装いのもとに立ち現れては消えていった。
(略) 黒々しい服に身を包み、あらゆる色彩を拒否するかのように濃い眉
墨で顔の表情まで消し去った、異様な風体の若者たちが原宿の街に出
没したのは一九八三年夏のことである。現代の闇族を標榜せんとするこ
の若者たちに唯一の生彩を与えたのは、都市の裏側を見るような灰色の
空間、すなわち、打ちっ放しのコンクリートを剥き出したガランとした倉庫
のような「カフェ・バー」だった。(略) 俗にカラス族と呼ばれるこの若者た
ちの生みの親は当時、ボロのように見える服をファッションとして提出し、
アンチ・ファッションのレッテルを貼られた二人のデザイナー、山本耀司と
川久保玲である。自らの創造空間の中で独自のスタイルを築きあげてい
るこの二人のデザイナーは現代のファッション界で最もアヴァンギャルドと
されている存在だ。が、その最も新しいファッションを身につけ、最も新し
い形態のカフェの中にいる若者たちが、開かれた世界を仰ぎ見ることなく、
手足を捥ぎとられた人形のように惚けた姿態を晒しているというのは一体
どうしたことだろう。(略) さらに、この二人のデザイナーたちの創造世界
が、“打ちっ放しのコンクリート”の「カフェ・バー」を背景としてはじめて実
現されるものであることを思えば、今後、不敵なモードの物神が人間の避
難所であるこのカフェそのものを棲み家として、世界をわがものとして行く
ことは必至であろう。》 (南風愛「剝脱した風景、黒の演出――カフェと
現代ファッション」/『ユリイカ』1987年4月号:特集*喫茶店 滅びゆく
メディア装置/青土社:刊)
《『ニューヨーク・タイムズ』紙のファッション・レポー ターであるバーナディー
ン・モリスはこう観察している。
日本人のコレクションには美学的な考察が重要であり、それは山本
耀司が意外な場所につける隠しポケットや、川久保氏が生地の表
面効果のために用いる切り込みに具体 化されている。これらは、
生花や〔浮世絵〕版画、料理の盛りつけなどにみられる日本人の芸
術センスが自然と拡張されたものである。
(“Loose Translators.” New York Times,30 January 1983)
(略) 新しい着こなしを確立したためにアメリカのメ ディアに称賛された川
久保玲、山本耀司、そして三宅一生の三頭政治は東京をファッショ ンの
国際的主要拠点へと変貌させた。》 (メリッサ・マッラ=アルバレス「西洋
が東洋をまとったとき――川久保玲と山本耀司、そしてファッションにお
けるジャパニー ズ・アヴァンギャルドの台頭」/蘆田裕史:訳/
『Dresstudy』(ドレスタディ)57号2010年春/京都服飾文化研究財団:
刊)
ファッションの国際的主要拠点へと変貌した(?)東京で、コーヒーやカフェを想う催事?
《…メルシーボークー、(mercibeaucoup,)の2013-14年秋冬コレクション
が原宿クエストホールで開催された。テーマは「コーヒー」。コーヒーには、
「理解と信念と熱意と愛がある」とメルシーボークー、なりのあたたかな解
釈をしている。テーマのコーヒーは、総柄プリントや、豆を象ったピアスな
どのアイテムに落とし込まれた。よく見るとニットの網目もコーヒー豆の形。》
(2013年3月20日/Fashion Press)
《カフェインでハイテンションな「メルシーボークー、」 毎シーズン恒例となっ
た顧客対象イベント「メルシー祭り」。(略) デザイナー・宇津木えりが掲げ
る今季のテーマは「コーヒー」。コーヒー豆を細かく散らしたり、コーヒーの
湛えられたカップを大きく描いたりなどしたプリントの他、ポケットの袋布と
して、今シーズンはコーヒーモチーフが取り入れられた。更に全体のカラー
パレットにもコーヒーを反映。くすんだブラウンと濃紺にネオンカラーを組
み合わせている。》 (2013年3月22日/FASHION HEADLINE)
《東京コレクションでショーを発表してから、2シーズン目となったジュンオカ
モト。前回同様、デザイナー岡本氏が創作した物語と服作りをリンクさせ
たコレクションを発表。今回、インビテーションと物語の書かれた小冊子が
入った封筒に同封されていたのは、3粒のコーヒー豆。
「コーヒーが嫌いな彼女の為の甘い朝食」と題したストーリーとともにコレク
ションを展開した。今回のストーリーは、コーヒーが嫌いな彼女にどうした
らコーヒーを飲んでもらえるか(或は、一緒に飲めるか)を考える彼が、夜
一人で起きて甘い朝食を用意し、その朝食を食べた彼女がコーヒーを飲
む、という話。コレクションは、ストーリー同様、スイートで優しい、ロマンチッ
クなムードが漂っていた。ショーは、コーヒー豆プリントのミニ丈ドレスにカー
ディガンをあわせた色違いの2体のルックでスタートした。柔らかい素材を
用いたハイウエストのフレアドレスがガーリーな印象。黒地にシルバーの
コーヒー豆プリントは、ブラウスやドレスの他に、メンズのアイテムでも用い
られ、コートの裏側やロールアップしたシャツの袖口、パンツの裾から覗く
プリントが遊び心をくすぐる。》 (2013年3月23日/apparel-web.com)
今2013年の東京コレクションから読み解けば、嘗て南風愛氏が《今後、不敵なモードの物神が人間の避難所であるこのカフェそのものを棲み家として、世界をわがものとして行くことは必至》、とした予言は大きく外れたように思える。物神が棲み家にするべき「カフェ」が必ずしも人間の避難所では無くなってしまったから…確かに宇津木えり氏も岡本順氏も今時のデザイナーらしく、《黒の演出》を脱して豊かな「色彩の演出」を見せる、そこに問題は無い。だが、街には「カフェー」も「ミルクホール」も「純喫茶」も「カフェ・バー」も滅して、スターバックスやドトールやマクドナルドといったチェーン店が蔓延っている、そこに《輝やかしいモードの物神》が降り立つべき処は無い。「ウチ(家)カフェ」とやらにも降りたくはないだろう。南風愛氏による1987年当時の喝破にも訂正が必要。
《物神の罠が到る処にめぐらされ、“流行”という物神信仰が声高に唱えら
れる大量消費社会にあって、人間はその呪文のなかに取りこまれ、次第
に世界を見失っていくことに気づかないのである。そして、このように人間
に執拗に取りつき、盲目にしていく物神たちのなかでも、そのごく身近で
猛威を奮う、人間にとって最も不遜な存在はモードの物神であろう。(略)
ここにファッションの支配下に置かれたカフェは、眼に見える美しい罠と
なって世界を飾り、人間の夢で満たされることを願っているのかも知れな
い。》 (南風愛「剝脱した風景、黒の演出――カフェと現代ファッション」
/『ユリイカ』1987年4月号:特集*喫茶店 滅びゆくメディア装置/青
土社:刊)
「物神の罠が到る処にめぐらされ、“流行”という物神信仰が電子報道の洪水に乗る大量情報社会にあって、人間はその呪文のなかに取りこまれ、次第に世界を見失っていくことに気づかないのである。そして、このように人間に執拗に取りつき、盲目にしていく物神たちのなかでも、そのごく身近で猛威を奮う、人間にとって最も不遜な存在は、驕慢と独善を情熱にすり替えて‘神’のフリをした偽者たちであろう。ここに偽の物神の支配下に置かれたカフェは、耳触り好く甘く囁く罠となって世界を飾り、人間の夢を打ち砕くのかも知れない。そこはコーヒーを想念するファッションにも色彩が無い」
《…都市の室内としてのカフェの存在を誰よりもよく知っているのはモードに
翻弄される人間たちだろう。自己の死体を確認するかのように、自ら進ん
でその美しい風景となることを望むこの人間たちにとって、カフェは華やか
な日常の舞台なのだ。輝やかしいモードの物神が銀座の街に降り立った
昭和初頭、新しい時代の呼び声に歓喜して、「カフェー」のなかに軽快な
ダンスのステップを響かせたのは断髪にセーラーズボン姿のモダンガー
ルたちだった。以来、カフェはモードの物神と結託し、ショーのまわり舞台
を回すかのように次々と新しい装いのもとに立ち現れては消えていった。
(略) 黒々しい服に身を包み、あらゆる色彩を拒否するかのように濃い眉
墨で顔の表情まで消し去った、異様な風体の若者たちが原宿の街に出
没したのは一九八三年夏のことである。現代の闇族を標榜せんとするこ
の若者たちに唯一の生彩を与えたのは、都市の裏側を見るような灰色の
空間、すなわち、打ちっ放しのコンクリートを剥き出したガランとした倉庫
のような「カフェ・バー」だった。(略) 俗にカラス族と呼ばれるこの若者た
ちの生みの親は当時、ボロのように見える服をファッションとして提出し、
アンチ・ファッションのレッテルを貼られた二人のデザイナー、山本耀司と
川久保玲である。自らの創造空間の中で独自のスタイルを築きあげてい
るこの二人のデザイナーは現代のファッション界で最もアヴァンギャルドと
されている存在だ。が、その最も新しいファッションを身につけ、最も新し
い形態のカフェの中にいる若者たちが、開かれた世界を仰ぎ見ることなく、
手足を捥ぎとられた人形のように惚けた姿態を晒しているというのは一体
どうしたことだろう。(略) さらに、この二人のデザイナーたちの創造世界
が、“打ちっ放しのコンクリート”の「カフェ・バー」を背景としてはじめて実
現されるものであることを思えば、今後、不敵なモードの物神が人間の避
難所であるこのカフェそのものを棲み家として、世界をわがものとして行く
ことは必至であろう。》 (南風愛「剝脱した風景、黒の演出――カフェと
現代ファッション」/『ユリイカ』1987年4月号:特集*喫茶店 滅びゆく
メディア装置/青土社:刊)
《『ニューヨーク・タイムズ』紙のファッション・レポー ターであるバーナディー
ン・モリスはこう観察している。
日本人のコレクションには美学的な考察が重要であり、それは山本
耀司が意外な場所につける隠しポケットや、川久保氏が生地の表
面効果のために用いる切り込みに具体 化されている。これらは、
生花や〔浮世絵〕版画、料理の盛りつけなどにみられる日本人の芸
術センスが自然と拡張されたものである。
(“Loose Translators.” New York Times,30 January 1983)
(略) 新しい着こなしを確立したためにアメリカのメ ディアに称賛された川
久保玲、山本耀司、そして三宅一生の三頭政治は東京をファッショ ンの
国際的主要拠点へと変貌させた。》 (メリッサ・マッラ=アルバレス「西洋
が東洋をまとったとき――川久保玲と山本耀司、そしてファッションにお
けるジャパニー ズ・アヴァンギャルドの台頭」/蘆田裕史:訳/
『Dresstudy』(ドレスタディ)57号2010年春/京都服飾文化研究財団:
刊)
ファッションの国際的主要拠点へと変貌した(?)東京で、コーヒーやカフェを想う催事?
《…メルシーボークー、(mercibeaucoup,)の2013-14年秋冬コレクション
が原宿クエストホールで開催された。テーマは「コーヒー」。コーヒーには、
「理解と信念と熱意と愛がある」とメルシーボークー、なりのあたたかな解
釈をしている。テーマのコーヒーは、総柄プリントや、豆を象ったピアスな
どのアイテムに落とし込まれた。よく見るとニットの網目もコーヒー豆の形。》
(2013年3月20日/Fashion Press)
《カフェインでハイテンションな「メルシーボークー、」 毎シーズン恒例となっ
た顧客対象イベント「メルシー祭り」。(略) デザイナー・宇津木えりが掲げ
る今季のテーマは「コーヒー」。コーヒー豆を細かく散らしたり、コーヒーの
湛えられたカップを大きく描いたりなどしたプリントの他、ポケットの袋布と
して、今シーズンはコーヒーモチーフが取り入れられた。更に全体のカラー
パレットにもコーヒーを反映。くすんだブラウンと濃紺にネオンカラーを組
み合わせている。》 (2013年3月22日/FASHION HEADLINE)
《東京コレクションでショーを発表してから、2シーズン目となったジュンオカ
モト。前回同様、デザイナー岡本氏が創作した物語と服作りをリンクさせ
たコレクションを発表。今回、インビテーションと物語の書かれた小冊子が
入った封筒に同封されていたのは、3粒のコーヒー豆。
「コーヒーが嫌いな彼女の為の甘い朝食」と題したストーリーとともにコレク
ションを展開した。今回のストーリーは、コーヒーが嫌いな彼女にどうした
らコーヒーを飲んでもらえるか(或は、一緒に飲めるか)を考える彼が、夜
一人で起きて甘い朝食を用意し、その朝食を食べた彼女がコーヒーを飲
む、という話。コレクションは、ストーリー同様、スイートで優しい、ロマンチッ
クなムードが漂っていた。ショーは、コーヒー豆プリントのミニ丈ドレスにカー
ディガンをあわせた色違いの2体のルックでスタートした。柔らかい素材を
用いたハイウエストのフレアドレスがガーリーな印象。黒地にシルバーの
コーヒー豆プリントは、ブラウスやドレスの他に、メンズのアイテムでも用い
られ、コートの裏側やロールアップしたシャツの袖口、パンツの裾から覗く
プリントが遊び心をくすぐる。》 (2013年3月23日/apparel-web.com)
今2013年の東京コレクションから読み解けば、嘗て南風愛氏が《今後、不敵なモードの物神が人間の避難所であるこのカフェそのものを棲み家として、世界をわがものとして行くことは必至》、とした予言は大きく外れたように思える。物神が棲み家にするべき「カフェ」が必ずしも人間の避難所では無くなってしまったから…確かに宇津木えり氏も岡本順氏も今時のデザイナーらしく、《黒の演出》を脱して豊かな「色彩の演出」を見せる、そこに問題は無い。だが、街には「カフェー」も「ミルクホール」も「純喫茶」も「カフェ・バー」も滅して、スターバックスやドトールやマクドナルドといったチェーン店が蔓延っている、そこに《輝やかしいモードの物神》が降り立つべき処は無い。「ウチ(家)カフェ」とやらにも降りたくはないだろう。南風愛氏による1987年当時の喝破にも訂正が必要。
《物神の罠が到る処にめぐらされ、“流行”という物神信仰が声高に唱えら
れる大量消費社会にあって、人間はその呪文のなかに取りこまれ、次第
に世界を見失っていくことに気づかないのである。そして、このように人間
に執拗に取りつき、盲目にしていく物神たちのなかでも、そのごく身近で
猛威を奮う、人間にとって最も不遜な存在はモードの物神であろう。(略)
ここにファッションの支配下に置かれたカフェは、眼に見える美しい罠と
なって世界を飾り、人間の夢で満たされることを願っているのかも知れな
い。》 (南風愛「剝脱した風景、黒の演出――カフェと現代ファッション」
/『ユリイカ』1987年4月号:特集*喫茶店 滅びゆくメディア装置/青
土社:刊)
「物神の罠が到る処にめぐらされ、“流行”という物神信仰が電子報道の洪水に乗る大量情報社会にあって、人間はその呪文のなかに取りこまれ、次第に世界を見失っていくことに気づかないのである。そして、このように人間に執拗に取りつき、盲目にしていく物神たちのなかでも、そのごく身近で猛威を奮う、人間にとって最も不遜な存在は、驕慢と独善を情熱にすり替えて‘神’のフリをした偽者たちであろう。ここに偽の物神の支配下に置かれたカフェは、耳触り好く甘く囁く罠となって世界を飾り、人間の夢を打ち砕くのかも知れない。そこはコーヒーを想念するファッションにも色彩が無い」