コーヒー・タイムマシン
‘Sukinamono Itigo Kohi Hana Bizin Futokorode site Utyu KenButu’
「好きなもの いちご コーヒー 花 美人 懐手して 宇宙見物」 (寺田寅彦)
◎プラス・ゼロ
国際共同実験OPERA(Oscillation Project with Emulsion-tRacking Apparatus)は2011年9月22日に超光速ニュートリノの検出を発表した。その途端に報道各社が「時間旅行も可能」とか「タイムマシン可能に」などと言いはじめたこと、失笑である。だが、あの「時に憑かれた作家」が存命ならば何と言ったか? それは気になる…
◎マイナス100
《自分の出会った限りのロンドンのコーヒーは多くはまずかった。大概の場合はABCやライオンの民衆的なる紅茶で我慢するほかはなかった。…パリの朝食のコーヒーとあの棍棒を輪切りにしたパンは周知の美味である。ギャルソンのステファンが、「ヴォアラー・ムシウ」と言って小卓にのせて行く朝食は一日じゅうの大なる楽しみであったことを思い出す。マデレーヌの近くの一流のカフェーで飲んだコーヒーのしずくが凝結して茶わんと皿とを吸い着けてしまって、いっしょに持ち上げられたのに驚いた記憶もある。》 (寺田寅彦「コーヒー哲学序説」/『経済往来』第8巻第2号/1933年)
寺田寅彦が随想に記したロンドンとパリでのコーヒー飲用は、1911(明治44)年の体験を回想したものである。今2011年より数えてマイナス100年である1911年は、「カフェープランタン」(3月)、「カフェーパウリスタ」(6月)、「カフェーライオン」(8月)などが相次いで開店し、日本における都市部での「カフェー」隆盛の起点の年でもあった。尚、同年3月1日には日本初の西洋式演劇場として設立された帝国劇場が竣工した。帝劇が竣工する3日前の1911年2月26日に誕生したのが岡本太郎、その父である岡本一平は当時の帝劇で天井画や舞台背景美術、舞台装置などの仕事に携わった。
◎マイナス79
《ルネ・クレール作「自由をわれらに」は近ごろ見た発声映画の中でもっとも愉快なものである。…このおもしろさはもちろん物語の筋から来るのでもなく、哲学やイデオロギーからくるのでもなんでもなくて、全編の律動的な構成からくる広義の音楽的効果によるものと思われる。…ルネ・クレールの映画のおもしろみを充分に味わうには、その中に含まれた俳諧的要素を認めることも必要ではないか。》 (寺田寅彦「映画雑感」/『東京帝国大学新聞』/1932年)
関東大震災(1923年)後の帝国劇場は内部を改修され、演劇場ではなく松竹系の洋画封切館として運営されていた。『自由を我等に』(À nous la liberté/1931年)が日本で公開されてスグの1932(昭和7)年5月8日、寺田寅彦は帝劇で本作を観た。その鑑賞記に表れる「俳諧的要素」、この頃の寺田寅彦は毎週金曜日にカフェーやレストランで松根東洋城と連句を巻いて楽しんだ。映画鑑賞の12日後の日記には、
《五月二十日 金 航研。帰途、モナミで松根と連句。二の裏三句目を作るため松根と数寄屋橋までバス同乗。新田で球。十時半コロンバンへ行く。松根、四句目持参。》 (寺田寅彦「日記」/所載『寺田寅彦全集』第22巻・日記5)
とあり、前年までは主として「不二家」で、1932年から「モナミ」新宿分店で連句会を続けている。この喫茶(カフェー)も兼ねたレストラン「モナミ」は、銀座に本店を、新宿と東中野に分店を開いて、いずれも多くの文学者や芸術家が集い続けた。「モナミ」の命名は岡本かの子(旧姓本名:大貫カノ)、岡本一平の妻で岡本太郎の母である。岡本太郎は後に総合芸術運動体「夜の会」を花田清輝と発足する(1947年)、その会場として皆がコーヒーや紅茶を1杯ずつで粘っていたのが東中野の「モナミ」である。
《もしかりに宇宙間にただ一つ、摩擦のない振り子があって、これを不老不死の仙人が見ている、そして根気よく振動を数えているとすればどうであろう。この仙人にとっては「時」の観念に相当するものはただ一つの輪のようなものであって、振動を数える数は一でも二でも一万でもことごとく異語同義(シノニム)に過ぎまい。よしやそれほど簡単な場合でなくとも、有限な個体の間に有限な関係があるだけの宇宙ならば、万象はいつかは昔時の状態そのままに復帰して、少なくも吾人のいわゆる物理的世界が若返る事は可能である。このような世界の「時」では、未来の果ては過去につながってしまうかもしれぬ。》 (寺田寅彦「時の観念とエントロピーならびにプロバビリティ」/『理学会』/1917年)
1932(昭和7)年5月27日、服部奉公会常任委員会と末広恭二(同年4月9日没)追悼会が重なって多忙であった寺田寅彦は、常例の連句を巻きに行っていない。同年同月同日の朝、世田谷の梅ヶ丘に浜田俊夫(31歳)が突如として出現している。約3ヵ月前に京橋の桜橋にある濱田理髪店に生まれた浜田俊夫と同一人物である。浜田俊夫は、日本橋の白木屋に勤務している元ホステスの恋人レイ子を同年12月16日に起きた大火で喪った。浜田俊夫は白木屋大火に駆けつけた際、野次馬の人垣の中で、大人びた小憎らしい顔の小学一年生「ヒロセタダシ」を突き飛ばした。
◎マイナス41
「時に憑かれた作家」広瀬正(本名:広瀬祥吉)は、浜田俊夫と伊沢啓子との数奇な人生を描いた処女長編作「マイナス0」をSF同人誌『宇宙塵』(90-99号)に連載した(1965年)。この作品は改稿されて『マイナス・ゼロ』(河出書房新社:刊)として刊行され(1970年10月)、第64回(1970年下半期)直木賞候補に上ったが落選。また、同1970年にもう1人の「時に憑かれた作家」ジャック・フィニイ(Jack Finney)の『ふりだしに戻る』(Time and Again)が出版された。1972年3月9日に広瀬正は心臓発作で急逝(享年47歳)、棺に「タイムマシン 搭乗者 広瀬正」の紙が貼られた。
◎マイナス・ゼロ
近づく10月1日は「日本コモディティコーヒー協会」の創設記念日で、「コーヒーの日」でもあるが、今2011年はその前後日を加えて、自分で淹れたコーヒーを傍らに置き、時間旅行をしている心地で、マイナス100年に寺田寅彦がパリで飲んだコーヒーやマイナス79年に寺田寅彦が「モナミ」で飲んだコーヒーなどを想いながら、マイナス41年に刊行された『マイナス・ゼロ』と『ふりだしに戻る』を再読してみたい、と企てる。10月1日の前日9月30日は広瀬正の誕生日(1924年生)であり、今年10月1日の翌日10月2日のマイナス100年にジャック・フィニイが誕生した。超光速ニュートリノの存在実証を待たずしても、コーヒー・タイムマシンは転寝でも作動するに違いない。
‘Sukinamono Itigo-Kohi Utyu-Zin Futo Gorone site Medaka KenButu’
「好きなもの 一期コーヒー 宇宙塵 ふと 転寝して 目高見物」 (鳥目散帰山人)
「好きなもの いちご コーヒー 花 美人 懐手して 宇宙見物」 (寺田寅彦)
◎プラス・ゼロ
国際共同実験OPERA(Oscillation Project with Emulsion-tRacking Apparatus)は2011年9月22日に超光速ニュートリノの検出を発表した。その途端に報道各社が「時間旅行も可能」とか「タイムマシン可能に」などと言いはじめたこと、失笑である。だが、あの「時に憑かれた作家」が存命ならば何と言ったか? それは気になる…
◎マイナス100
《自分の出会った限りのロンドンのコーヒーは多くはまずかった。大概の場合はABCやライオンの民衆的なる紅茶で我慢するほかはなかった。…パリの朝食のコーヒーとあの棍棒を輪切りにしたパンは周知の美味である。ギャルソンのステファンが、「ヴォアラー・ムシウ」と言って小卓にのせて行く朝食は一日じゅうの大なる楽しみであったことを思い出す。マデレーヌの近くの一流のカフェーで飲んだコーヒーのしずくが凝結して茶わんと皿とを吸い着けてしまって、いっしょに持ち上げられたのに驚いた記憶もある。》 (寺田寅彦「コーヒー哲学序説」/『経済往来』第8巻第2号/1933年)
寺田寅彦が随想に記したロンドンとパリでのコーヒー飲用は、1911(明治44)年の体験を回想したものである。今2011年より数えてマイナス100年である1911年は、「カフェープランタン」(3月)、「カフェーパウリスタ」(6月)、「カフェーライオン」(8月)などが相次いで開店し、日本における都市部での「カフェー」隆盛の起点の年でもあった。尚、同年3月1日には日本初の西洋式演劇場として設立された帝国劇場が竣工した。帝劇が竣工する3日前の1911年2月26日に誕生したのが岡本太郎、その父である岡本一平は当時の帝劇で天井画や舞台背景美術、舞台装置などの仕事に携わった。
◎マイナス79
《ルネ・クレール作「自由をわれらに」は近ごろ見た発声映画の中でもっとも愉快なものである。…このおもしろさはもちろん物語の筋から来るのでもなく、哲学やイデオロギーからくるのでもなんでもなくて、全編の律動的な構成からくる広義の音楽的効果によるものと思われる。…ルネ・クレールの映画のおもしろみを充分に味わうには、その中に含まれた俳諧的要素を認めることも必要ではないか。》 (寺田寅彦「映画雑感」/『東京帝国大学新聞』/1932年)
関東大震災(1923年)後の帝国劇場は内部を改修され、演劇場ではなく松竹系の洋画封切館として運営されていた。『自由を我等に』(À nous la liberté/1931年)が日本で公開されてスグの1932(昭和7)年5月8日、寺田寅彦は帝劇で本作を観た。その鑑賞記に表れる「俳諧的要素」、この頃の寺田寅彦は毎週金曜日にカフェーやレストランで松根東洋城と連句を巻いて楽しんだ。映画鑑賞の12日後の日記には、
《五月二十日 金 航研。帰途、モナミで松根と連句。二の裏三句目を作るため松根と数寄屋橋までバス同乗。新田で球。十時半コロンバンへ行く。松根、四句目持参。》 (寺田寅彦「日記」/所載『寺田寅彦全集』第22巻・日記5)
とあり、前年までは主として「不二家」で、1932年から「モナミ」新宿分店で連句会を続けている。この喫茶(カフェー)も兼ねたレストラン「モナミ」は、銀座に本店を、新宿と東中野に分店を開いて、いずれも多くの文学者や芸術家が集い続けた。「モナミ」の命名は岡本かの子(旧姓本名:大貫カノ)、岡本一平の妻で岡本太郎の母である。岡本太郎は後に総合芸術運動体「夜の会」を花田清輝と発足する(1947年)、その会場として皆がコーヒーや紅茶を1杯ずつで粘っていたのが東中野の「モナミ」である。
《もしかりに宇宙間にただ一つ、摩擦のない振り子があって、これを不老不死の仙人が見ている、そして根気よく振動を数えているとすればどうであろう。この仙人にとっては「時」の観念に相当するものはただ一つの輪のようなものであって、振動を数える数は一でも二でも一万でもことごとく異語同義(シノニム)に過ぎまい。よしやそれほど簡単な場合でなくとも、有限な個体の間に有限な関係があるだけの宇宙ならば、万象はいつかは昔時の状態そのままに復帰して、少なくも吾人のいわゆる物理的世界が若返る事は可能である。このような世界の「時」では、未来の果ては過去につながってしまうかもしれぬ。》 (寺田寅彦「時の観念とエントロピーならびにプロバビリティ」/『理学会』/1917年)
1932(昭和7)年5月27日、服部奉公会常任委員会と末広恭二(同年4月9日没)追悼会が重なって多忙であった寺田寅彦は、常例の連句を巻きに行っていない。同年同月同日の朝、世田谷の梅ヶ丘に浜田俊夫(31歳)が突如として出現している。約3ヵ月前に京橋の桜橋にある濱田理髪店に生まれた浜田俊夫と同一人物である。浜田俊夫は、日本橋の白木屋に勤務している元ホステスの恋人レイ子を同年12月16日に起きた大火で喪った。浜田俊夫は白木屋大火に駆けつけた際、野次馬の人垣の中で、大人びた小憎らしい顔の小学一年生「ヒロセタダシ」を突き飛ばした。
◎マイナス41
「時に憑かれた作家」広瀬正(本名:広瀬祥吉)は、浜田俊夫と伊沢啓子との数奇な人生を描いた処女長編作「マイナス0」をSF同人誌『宇宙塵』(90-99号)に連載した(1965年)。この作品は改稿されて『マイナス・ゼロ』(河出書房新社:刊)として刊行され(1970年10月)、第64回(1970年下半期)直木賞候補に上ったが落選。また、同1970年にもう1人の「時に憑かれた作家」ジャック・フィニイ(Jack Finney)の『ふりだしに戻る』(Time and Again)が出版された。1972年3月9日に広瀬正は心臓発作で急逝(享年47歳)、棺に「タイムマシン 搭乗者 広瀬正」の紙が貼られた。
◎マイナス・ゼロ
近づく10月1日は「日本コモディティコーヒー協会」の創設記念日で、「コーヒーの日」でもあるが、今2011年はその前後日を加えて、自分で淹れたコーヒーを傍らに置き、時間旅行をしている心地で、マイナス100年に寺田寅彦がパリで飲んだコーヒーやマイナス79年に寺田寅彦が「モナミ」で飲んだコーヒーなどを想いながら、マイナス41年に刊行された『マイナス・ゼロ』と『ふりだしに戻る』を再読してみたい、と企てる。10月1日の前日9月30日は広瀬正の誕生日(1924年生)であり、今年10月1日の翌日10月2日のマイナス100年にジャック・フィニイが誕生した。超光速ニュートリノの存在実証を待たずしても、コーヒー・タイムマシンは転寝でも作動するに違いない。
‘Sukinamono Itigo-Kohi Utyu-Zin Futo Gorone site Medaka KenButu’
「好きなもの 一期コーヒー 宇宙塵 ふと 転寝して 目高見物」 (鳥目散帰山人)