私の闇の奥

藤永茂訳コンラッド著『闇の奥』の解説から始まりました

良く生きる(VIVIR BIEN)(1)

2014-08-31 14:23:32 | æ—¥è¨˜ãƒ»ã‚¨ãƒƒã‚»ã‚¤ãƒ»ã‚³ãƒ©ãƒ 
 近頃は時間の余裕と考える力の不足から、時折いただくコメントにお答えしない失礼を冒していますが、前回のブログ『良く生きる(VIVIR BIEN)』(序)に若い方から次のようなコメントをいただき、これには是非お答えしなければと思いました。:
■先生は帝国主義に見られるような異常な残虐性や収奪への盲目の欲望を「ヨーロッパの心」と述べていらっしゃいますが、「アメリカ・インディアン悲史」で先生ご自身が示唆されたように、アイヌや沖縄に対する日本の本州の人間のこれまでの振る舞いを考えると、こうした収奪への欲望はヨーロッパに限ったことではないとも思えます。「帝国主義的なるもの」ははたして「ヨーロッパ的なるもの」だけなのでしょうか。そうでないとするなら、「帝国主義的なるもの」はどこにその根を持っているのでしょうか。先生は今この問題についてどうお考えでしょうか。■
雑用にかまけてお答えするのが遅れているうちに、海坊主さんが、怠け者の私に代わって、コメントの形で適切な解答を書いて下さったようです。読んで下さい。
 「収奪への欲望はヨーロッパに限ったこと」では勿論ないと私も考えます。しかし、“「帝国主義的なるもの」はどこにその根を持っているのか”という問いに対して、幼稚で、考えの練れていない私の帝国主義論あるいは植民地主義論を申し上げてもあまり意味がありません。私の関心は、むしろ、ヨーロッパと呼ばれる地球上の極めて小さな地域の人間たちが、地球のそれ以外の広大な地域に住む人間たちに巨大な影響を与えて来たという歴史的事実にあります。コロンブス以来、西欧が自余の世界に加え続けた暴虐は全く桁外れの大きさです。それを産み出して来た、個人として、集団としての、人間の心を、私はファノンにならって、「ヨーロッパの心」と呼びたいと思うのです。
 ポール・ヴァレリーの「精神の危機(La crise de l’Esprit)」というエッセーの中では、l’Esprit européen の、そして、それが形成したヨーロッパの圧倒的な優越性が論じてあり、ヨーロッパ精神の危機が、そのまま人間の精神の危機であると言わんばかりに、その将来が、次のように、案じてあります。
■ところで、現代は次のような重大な質問を認めます----ヨーロッパは、あらゆる部門において、その優越を維持しうるだろうか。ヨーロッパは、現実にそうであるところのものに、すなわち、アジア大陸の小さな岬になってしまうのだろうか。それともヨーロッパは依然として、そう見えているところのもの、すなわち地上の世界の貴重な部分、地球の真珠、巨大な身体の頭脳であるだろうか。■(桑原武夫訳)
 20代の後半から長い間、ポール・ヴァレリーに傾倒した時期が私にはありました。芸術的な面でヨーロッパに深い思い入れを持った期間とも重なります。しかし、今は違います。ヨーロッパ、ヨーロッパの心というものに一定の距離をおいて向い合うことが出来るようになったと思っています。「精神の危機」についても、ヴァレリーの思考の限界と致命的な欠陥を読み取ることが出来るようになりました。「ヨーロッパは、現実にそうであるところのものに、すなわち、アジア大陸の小さな岬になってしまうのだろうか」というヴァレリーの危惧が遠くない未来に現実となることを、今の私は強く望むようになっています。しかしながら、我がヴァレリー病はすでに膏肓に入ってしまっていたらしく、今度、モラレスのVIVIR BIENという標語に出会った時も、まず思い出したのは、世に良く知られたヴァレリーの詩「海辺の墓地」の中の“風立ちぬ”の一句でした。:
■Le vent se lève. Il faut tenter de vivre ! (風が立つ。生きようと試みなければならぬ。)■
しかし、アンデスの山々を吹き渡る風に頬をさらすモラレスならば、直裁に Il faut vivre bien! と蒼穹に向かって叫ぶことでしょう。彼が「良く生きよう」という時、それは、死の影の下に敢えて生きようと試みるのでもなければ、より豊かな消費生活を求めるのでも、ましてや、他人の犠牲において他人より良く生きることでもない筈です。自然の一部としての人間が、周りの自然、周りの人間たちと調和しながら生きることを、モラレスは「良く生きる(Vivir bien)」と言うのだと私は考えます。そこには、かつて私が心酔したヨーロッパの「繊細の精神」も「幾何学的精神」もないでしょう。しかし、そのかわり、大自然の中でゆっくりと息づく人間たちには、それなりの豊かな静謐さとエネルギーと知恵と感性があります。彼らにも斬首やハラキリの残酷はありましょう。しかし、ヒロシマ・ナガサキの発想とその残酷を許容する悪魔的感性とは縁がありますまい。
 前置きが長くなりました。今回のG77の集会は2014年6月14日、15日の二日、ボリビアのサンタ・クルスで行なわれました。その公式のウェブサイトには、14日開会式のモラレスの講演のスペイン語原文とその英訳が出ています。

http://www.g77bolivia.com/en/address-president-evo-morales-ayma-opening-g-77-special-summit-heads-states-and-governments-towards

Axis of Logicというサイトには別の英訳が出ていて、これも参照させてもらいました。:

http://axisoflogic.com/artman/publish/Article_66853.shtml

以下の翻訳では、適時、注釈のようなものを挿入します。
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『世界中の人民間の兄弟的友愛を求めて』 エボ・モラレス・アイマ

50年前、偉大な指導者たちが、反植民地闘争の旗をかかげ、主権獲得と独立への道をすすむ行進に人民と共に参加することを決意した。当時、超大国と多国籍企業は、南半球の諸国民の貧困という犠牲において、彼らの成長の糧とするための領土と天然資源のコントロールをめぐって、互いに争い合っていた。
この状況下、1964年6月15日、貿易と開発に関する国連会議の最終日に、南半球の77の国(現在は132国プラス中国)が、その集団的利益を増進し、個々の主権的決定を尊重しながら一つのまとまったブロックとして行動することによって、その貿易通商交渉の力を強化するために会合した。
過去50年の間に、これらの国々はその折の国連での決議声明を越えて前進し、南と南の協力関係に支えられた発展、新しい世界経済秩序、気候変化に対する責任の分担、互恵貿易に基づく経済関係を優先する協調行動に踏み切っている。この旅程において、脱植民地的支配を目指した闘争は、自国の天然資源に関する自己決定と主権の主張とともに特記されるべきものである。
世界各地での諸国民の平等と正義を求めるこうした闘争と努力にも関わらず、世界全体の階級的構成とそれによる不平等はむしろ拡大した。現在、世界の10の国が全世界の富の40%をコントロールし、15の多国籍企業が世界の総生産の50%をコントロールしている。現在も、100年前と同じく、自由市場と民主主義の名をかざして、ほんの一握りの帝国主義的勢力が国々を侵略し、貿易封鎖を行い、世界中の物価を強引に設定し、他国の経済を窒息させ、進歩的政府の転覆を計画し、この地球上の誰それを問わずスパイ行為の対象にしている。ごく僅かなエリート国家と多国籍企業が、独裁的形態で、世界の命運と経済、天然資源をコントロールしている。
地域間、国家間、社会階層間、そして各個人間の経済的社会的不平等は途方もなく拡大した。世界人口の約0.1%が人類の全財産の20%を所有している。1920年にはアメリカ合州国の企業経営者は雇用人の20倍の収入を得ていたが、現在では、それが331倍になっている。この不公平:富の集中と略奪的自然破壊の行為は、時が経てば経つほど持続不可能なりつつある構造的危機を表している。これは将に構造的危機である。それは資本主義的発展のあらゆる構成要素に打撃を与え、それぞれの危機が互いに強め合って、国際金融、エネルギー、気候、水資源、食料、社会制度、価値観を巻き込む危機になっている。それは、資本主義文明にもともと内在する危機なのである。
金融危機は金融資本の貪欲な利潤追求によって促進され、それが深刻な国際的金融投機に導き、膨大な富を蓄積した一定のグループ、多国籍企業、あるいは、権力中心に有利な立場を与えることになった。
投機的利益をもたらすこうした金融バブルは、結局、破裂し、その過程で, 低利金融を受けた労働者や貪欲な投機屋を信用して貯金を託した中産階級の預金口座保持者を困窮に落し入れた。それらの投機屋たちは一夜にして破産するか、あるいは、彼らの資金を国外に持ち出して彼らの国そのものを破産に追いこむことになった。
我々はまたエネルギー危機にも直面していて、この危機は先進諸国が過大なエネルギーを消費し、また、多国籍企業がエネルギー(石油など)の買いだめをすることで生じている。それと平行して、全世界の石油埋蔵量の減少と石油と天然ガスの開発コストの高騰を我々は目の当たりにしており、化石燃料の漸減と地球規模の気候変動の為に生産能力が落ちている。
気候変動の危機は無法な資本主義的生産と消費のレベル、歯止めのかからない産業化によって引き起こされている。すなわち、大気を汚染するガスを過剰に排出し、それが全世界に影響を及ぼす温度上昇と自然災害を引き起こしているのである。いまの資本主義的産業化時代以前の15000年以上の間、空気中の温室効果ガスの量が250mppを越えることはなかった。しかし、19世紀以降、特に20世紀,21世紀になると、略奪的資本主義のために、400mpp に上昇し、その結果、地球全体の温度上昇は非可逆的な過程となって気候変動を生起し、その最も目覚ましい影響は南半球の最も貧しく影響を受けやすい国々で観察されて、とりわけ、島国は氷河の解氷による水位上昇の被害を蒙っている。
地球温暖化は水の供給危機も引き起こしている。この危機は水道事業の私営化、水源の枯渇、淡水の商品化によって、さらに深刻なものになっている。その結果、水道水の供給を受けられない人々の数が急増しつつある。世界各地での水不足は武力紛争や戦争を引き起こし、それが更にこの再生不可能の資源の入手を困難にしつつある。世界人口は増大しているが、食糧生産は減少しつつあり、この傾向は食糧危機を引き起こしている。食糧生産の土地面積の減少、都市部と田園部の不均衡、多国籍企業による農産物種子の配給と農業技術情報の独占、さらに食糧価格をめぐる投機などの問題が参加しているのである。この集中と投機の帝国主義モデルは、また、世界における不平等で不当な権力の分布に特徴づけられる制度的危機を生起してきた。それは、国連の組織、IMF(国際通貨基金)、WTO(世界貿易機関)の内部で顕著である。これらすべての事態の進展の結果、人民の社会的権利は危殆に瀕している。世界全体に対する平等と正義という希望の実現は遠のくばかりであり、自然そのものが消滅の脅威にさらされている。我々はすでに限界に達しているのであり、人間社会と人類と母なる自然とを救うための全地球的行動が緊急に必要である。
{注釈1}
ここまでがモラレスの開会基調講演の導入部であり、世界的危機的情勢のモラレスらしい要約とそれに対処する行動への呼びかけです。モラレスが喫緊の行動開始を呼びかけた今回のG77 50周年記念集会はなかなかの盛況でした。“南”ではない中国が加わった現在の133のメンバー国の103国が代表を送り、13人の大統領、4人の首相、5人の副大統領、8人の外相が出席者に含まれていました。133国とはすごい数です。名簿を見ていると嬉しくなります。ほかの国家集団では考えられないような国々の名が共存混在しているのです。いわゆる“国際社会”からの札付きの除け者である、北朝鮮、エリトリア、ジンバブエもありますし、パレスチナ、キューバ、コンゴも、また、ルワンダ、ウガンダ、ブルキナ・ファソの名も見えます。まさに清濁併せ呑むの大連合。
「こんな、ナンデモカンデモゴッタマゼ、の集合体に何も出来はしない」とお思いの方が大勢でしょう。おにうちぎさんからのコメントにも次のように書いてあります。:
■G77の活動が成果を結ぶことを願っています。?歴史の現実は厳しくて、過去、主に冷戦期に第三世界と名乗っていたゆるい連合が何度か世界的な会合をし宣言を発していましたが、あまり成果を上げずに解体してゆきました。多くの魅力的なリーダーがいましたが、倒れて行きました。?合州国が途方もない武力と資本力以外の点では日々壊れつつあり弱体化している中で、それを暴発させないで、G77のような連合が上手にリーダーシップを発揮できたならば世界の悲惨の総量は大きく減るはず。どうかそうあってほしいものです。■
おにうちぎさんの本当のお気持ちは決して楽観的ではないようです。私の想いもほぼ同じで、ルムンバ、サンカラ、ネールー、チトー、スカルノ、などなどの懐かしい名前が脳裏を掠めますが、モラレスのボリビア多民族国(Estado Plurinacional de Bolivia, Plurinational State of Bolivia)の今後に希望をつなぎたい気持も、一方では、強く抱いています。これから先のモラレスの語り口を辿れば、その理由が分かって頂けると思います。

藤永 茂 (2014年8月31日)