3行日記・・・・・友さん きょうの出来事。
町内清掃日。ついでに我が家の植木の剪定、草取りに汗を流す。
近所のおばあさんが「すっきりしましたね。金魚は大きくなりましたか」と、見に来てくれた。
昨夜の窯焚きミスッて、ちょっとブルーだったが、おかげで、ちょっとスッキリ。
28日、政府は国連本部で「障害者の権利宣言」に署名した。
昨年12月、国連総会で全会一致で採択された同条約は、
障害者の権利と社会参加を勧めるために
「あらゆるしかるべき立法、行政、その他の措置」を講ずることを、締約国に義務付け、
障害者政策の前進のために、関係者の大きな期待がかかっている。
条約の発効には、20カ国の締結が必要だが、現在は5カ国だけ。
署名は113カ国に達している。
今後批准に向け、国内法の整備が求められる。
障害者自立支援法の「応益負担制度」の撤廃、障害者差別禁止法の制定など
運動を強めなければならない。
2007.09.30 |
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戦犯の孫の坊ちゃまが、ダダこねて挙句の果てに政権をほったらかしてからは、あきれ果てて政治にコメントする気になれず、元気のある政治ブロガーたちの奮闘に拍手を送りつつ、
悶々としていた。
がしかし、新しい内閣も出来、役者もそろったことだし、ここら辺で一言。
この間、自民党のテレビジャックは凄まじいものがあった。
小泉劇場の時は、好き嫌いはともかく、あの主演男優のパフォーマンスもあり、それなりの舞台ではあった。
ところが、今度は、2流の役者の田舎芝居を、これでもかこれでもかと見せ付けられた。
(両舞台の本質は同じだが・・・)
一説に、この田舎芝居を仕組んだのは、読売、日テレのトップというのがあるが・・・。
片や、一見誠実そうな福田2世タヌキ、片や、一見ノー天気なやくざ麻生。
ボケも突っ込みもなし。そりゃ同じ穴から出てき、しかも水戸黄門よりも、結末は見えている。
二人並んでも、絵になるはずも無いのに、今時のお笑いよりは視聴率稼げたのかもしれない。
メディア戦略が功を奏し、誕生した福田内閣が50%の支持率だと言う。信じられない。
メディア資本が、ますます政治権力の中枢に近づき、害毒を垂れ流すのか!
よくないことだが、ここで国民不信というか、主権者は一体なに考えとんか!と言いたくなる。
この劇場は、そもそも先の参議院選挙での民意が準備したもの。その民意がこれだけの支持を与えるなんて!
福田氏は「方向性は変わらない」と、明言している。
小泉、安倍以来の構造改革路線、アメリカについてイラク戦争へ行く、憲法は変える、と。
「希望と安心の国づくり」がキャッチフレーズ。
賛成!大賛成です!それは国民誰もが今願ってること。
ところが、同じ言葉でも、いつ、誰が言うかでまったく意味は違ってくる。
大企業から金を貰い、そのぼろ儲けを応援するために、規制緩和、労働法制の改悪を進め、
多くのワーキングプアを生み出し,貧困と格差を広げて、青年から「希望」を奪ったのは誰か!?
相次ぐ増税と、社会保障切捨てで、お年寄りや障害者から「安心」を奪ったのは誰か!?
構造改革路線を、小泉と2人3脚で進めたのは、時の官房長官福田氏ではなかったか。
テロ特措法、自民の「新憲法草案」の責任者も福田氏。
この内閣の顔ぶれは、この間、選挙で注文をつけた「大企業中心、対米従属、改憲」の政治を、
役者を変えて、しょうこりもなく推し進める布陣だ。
勿論、国民の責任じゃないけど、
残業で夜中に帰ってきて、どうしても一言言っておきたいと書き始め、しかも、焼酎チビチビだったもので
ちょっと感情的になった。
俺、最近よく言うんだけど、「関心なくても、関係ある。」と。
民主主義って、残酷なところもある。
50%も支持して、その道が続くとする。うちの知的障害の仲間たちも「法の上の平等」で
その道に連れて行かれるのだ。政治のことを考えるのが難しく、参加することができない彼らは
「多数」に連れて行かれ、苦しみを更に重くしなければならない。
いつも弱者は自分が関われないところで政治や社会に翻弄される。
こういう論法はおかしいのかな。無関心や無知は多数を占めると、社会的な罪を犯すのだと言う考えは。
目の前の、障害を持つ仲間たちは、民主主義を味方につけられないじゃないか。
彼らに代わって、いや彼らとともに呼びかけたい。
日本の政治が今変わろうとする時、みんな、しっかりと見つめ考えて、「関係」して行こうじゃないか。
民主主義が、衆愚政治となり、主権者を不幸にすることがないように。
わけても、子どもやお年寄りや障害者や、社会的な支えを必要とする人々を。
早晩、この政権は座礁し、新しい船を国民自身の手でつくる日が来るだろう。
ちょっと、率直なところです。
ご意見聞かせてください。
では、また。
テーマ:それでいいのか日本国民 - ジャンル:政治・経済
2007.09.28 |
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朝からのどがいがらっぽくて・・・。
タバコのせいかなと思っていたが。
夕方から、なんだか熱っぽく・・・、どうも風邪をひきかけたらしい。
ここ15年ぐらい、数回しかひいたことないのに。
私の風邪対策は、鼻うがい。
あれ、おかしいかなと思ったら、パブロンのうがい薬を規定どうりに薄め、鼻の奥にシューッ!
鼻腔での、殺菌で、肺に入れない。
これ効きますよ!これからのシーズン、ぜひお試しあれ。
なぞと、人の世話を焼く前に、うがいだけでは手遅れ状態かも。
痛いなあ!情けないなあ・・・!
今日は、はよ、寝ろ。
みなさん。
お先に。
テーマ:痛いよ。 - ジャンル:心と身体
2007.09.26 |
| Comments(0) | Trackback(0) | ・ゆう楽庵つれづれⅠ
関西の知人に「子どもの頃、十五夜綱引きをしていた」と話したら、珍しがっていた。
ネットでちょっと覗くと、薩摩半島のあちこちで十五夜綱引きが行われているようだ。
私の郷里は種子島。
月見をした覚えはない。
綱引きをしていた。しかも、子どもたちだけの行事だった。
夏休みが空けてしばらくすると、
学校から帰ると、子どもたちは部落の公民館に、藁をもって集まる。
綱引き用の綱を綯うのだ。
当時、最南端の西野本村という部落には、50人近い小中学生がいただろうか?
上級生の指導で、大きな栴檀の木の枝に引っ掛けて、みんなで綱を綯った。
2.30メートルはあったろうか、1週間以上はかかったような気がする。
小さな縄を綯い、それを又ないあわせていく作業だったように記憶している。
そして十五夜。
夕方公民館に集まり、浜に行く。
浜までは500メートルほどの距離。
途中、うっそうとした原生林の防砂林がある。しかもそこら一帯は墓地。
怖がる低学年や女の子を上級生たちがはさんで、綱にしがみついて通り抜けたものだ。
防砂林を抜けると、白い砂浜は昼のように明るかった。
そこで、部落の東西に分かれて綱引きをするのである。綱が切れるまで、・・・大概のところで切っていたのかもしれないが・・・。
そして今度は、切れた綱を引きずり、砂に埋めて、綱隠し。
その綱を、探しあうのだった。
え?
ほかの部落もやってたのかな?
何で子どもたちだけの行事だったのかな?
今になって思えば、そんなことも知らない。
今度ゆっくり調べてみんといかん。
・・・だから、お月様に団子を備えて・・・そんな月見は、大きくなってから知った。
昨日が十五夜。満月は明日。
子どもの頃を思い出した。
テーマ:季節 - ジャンル:日記
2007.09.26 |
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今日カレンダーを見たら、今日が15夜で満月は27日。
あれ?中秋の名月って15夜じゃなかったのかな?
それって満月に決まってるんじゃ?
夕方のテレビではっきりしました。
15夜が中秋の名月だが、その日は必ずしも満月ではない。
期待してたけど、今日は曇りで月はかくれんぼ。
娘が「お父さん、月見ようか」って誘ってくれたけど・・・。
残念!
満月が拝めることを期待して・・・。
テーマ:その他 - ジャンル:その他
2007.09.25 |
| Comments(0) | Trackback(0) | ・ゆう楽庵つれづれⅠ
夕方、小学校に豆腐を売りに行ったT君が、「修学旅行で先生が少なくて、売れ残った」と。
そうかそういう頃か。
私の小6の修学旅行は、鹿児島、霧島に3泊4日だった。船で種子島から鹿児島に出て1泊・・・だから、島の修学旅行はこうなる。
ちなみに、中学のときは、九州一州の5泊6日だった。
初めて船で島を出て、霧島の山々を見たり、動物園に行ったり、デパートにいったり・・・それなりに・・・。
一駅だけ汽車にも乗った。
地図ではあんなに大きく線路が書かれており、テレビで観る鉄道は、複線で列車もどんどん行きかうのに、単線の鹿児島本線を見て「えー、こんなものか」と思ったものだった。
島の最南端の小学校に帰り着いたのは、午後4時前。
子どもたちを初めて旅に出した母親たちが迎えに来ていた。
それぞれに土産を見せたり、再会が新鮮だったように思う。
母は「土産は?」と聞いてきた。
「なにも・・・」
私はそういって、千円を母に差し出した。
そのときの小遣いは、千円以下という決まりだった。
「おまえ、1円も使わなかったのか」と、母はびっくりして「ガムもチョコレートも食べなかったのか?」と聞いてきた。
「旅館のメシを、腹いっぱい食ったから、欲しくなかった」と答えた。
切ながる母に、汽車で乗り合わせたおばさんにガムをもらったことは伝えた。
そして、「小遣いは千円、きっかり使った。」と、グローブを見せた。
実は、出発前に「よく手伝ってくれるから、欲しいものを買っていい」といわれ
「グローブが欲しい」といったら、千円を持たせてくれていたのだ。
最後の夜、山形屋での買い物があり、もう少し安いものもあったのだが、思い切って満額の買い物をしてしまった。
ドキドキしたのを覚えている。
グローブなんか持ってる子は、何人もいなかった頃・・・。
「そのお金は別と言ったでしょ。お前は馬鹿な子だね」
母は、ほろりと涙を落とした。
「じいちゃん達にも、元気で行って来たよと土産でも買ってくるものよ。人が、おいしいおやつ食べてたとき、どうしてたの。」
と言い、母は、涙を拭きながら、町の雑貨屋でお土産のお菓子を選んでいた。
おいしいおやつが欲しくなかったのじゃないかもしれない、
うちは貧乏だからと、特別に無理をしたわけでもない、
グローブだけで十分嬉しかったのだ。
母の涙は、決して自分の行いを、悲しがってのものではない、
そう思うと、ちょっと嬉しかったのを、今でも覚えている。
修学旅行。
中学校のときの小遣いは5千円だった。
半分ほど使い、じいちゃん達にもお土産を買った。
二度と、同じ涙を、母には落とさせなかった。
テーマ:感謝! - ジャンル:日記
2007.09.20 |
| Comments(2) | Trackback(0) | ・自画像・自分史断片
今日実習総括があった。
S君は、控えめなタイプで、話し合いのときなど引き気味だと、自分から言った。
みんな、あんまり積極的に積極的にと言うもんで、ちょっと考えた。
いわさきちひろの絵本に「ひさの星」というのがある。
ある村にひさという女の子がいました。
ひさは、物静かな子で目立たず、いつもいるかいないかのように、みんなの後ろにちょこんといるような子でした。
ある日、村に大雨が降り、男の子が川で流されかけました。
助かった男の子が泣きながら
「ひさが、ひさが」と叫ぶので、村人たちは、てっきりひさが川に突き飛ばしたと思い、ひさを懲らしめようと探すが、見当たりませんでした。。
落ち着いた男の子に話をよく聞くと、ひさが男の子を助けようとして川に流されたらしいのです。
そこで村人たちは、ひさをさがすが、とうとう見つかりませんでした。
その夜、空に新しい星がかがやいていたそうです。
村人たちは、その星を「ひさの星」と呼んで、手を合わせました。
というような話。
世の中には、声高に叫んで、前に出る人もいるが、そういう人に限って、困難な時には逃げ出すことがある。
目立たず物静かでも、芯のしっかりした人は、逆風にもぶれずに困難にも負けないものだ。
私は、学生運動に参加したり、労働組合づくりや、作業所作りに取り組んできたので、人の前に出て、声高にか叫んだりする役回りを演じてきた。
本当にどうしようもない困難に直面しても、揺れずぶれずにおれるだろうか。
私の中には、ひさへの憧れがある。
物静かで目立たないが、芯からの本当の強さがある。
「ひとそれぞれでいいんじゃないか。それぞれに自分の出し方があって。課題にきちんと向き合って、ぶれない確かな自分というものをもっていれば。人にはそれぞれの役回りというものもある。」
S君に、ひさの絵本の話をした。
テーマ:頑張れ自分。 - ジャンル:日記
2007.09.19 |
| Comments(2) | Trackback(0) | ・道場日記・オッス!!
今日のムシムシ蒸し暑さはなんだ!
週頭から疲れるよ。
仲間たちは、窯出しをして、みんなで作品の高台にペーパーかけて仕上げた。
私は、書類の整理をしたりデスクワーク。
午後、大学の後輩の千代ちゃんが訪ねて来てくれた。
前原市の市議会共産党議員 伊藤千代子。3期目。2回もトップ当選。
とてもいい人間的センスのもち主で、誠実で頑張りやさんです。
田舎の、これでも政治家かと言いたくなるおじさんどもとやりあったり、
議員も大変みたいで、体もあまり丈夫じゃないので、
「あんまり頑張りなさんな」と言っておいた。
皆さん。僕の千代坊を応援ください。
「ちよ便り」というブログをアップしてます。
時々のぞいて、激励してください。 今日は、もう寝ます。
おさきにおやすみ。
2007.09.18 |
| Comments(0) | Trackback(0) | ・ゆう楽庵つれづれⅠ
俺、家族物にはめっぽう弱い。それに、「島」とか「別れ」とかがつくともうだめだ。涙が出て困る。
今回は、島は無かったが、「別れ」が起点。
昨夜のNHKスペシャル「家族の肖像」第4集。
阪神淡路大震災で親を失った少年と少女が、今若い父と母になった姿を追うドキュメンタリー。
6年生で、両親をなくした綾香さん。
妊娠して婚姻届けを出すが、家族を持つことがイメージできず、「家族だっていつまでも一緒にいられるわけ無いじゃない」と、苦しみ「赤ちゃん捨てようか」と夫にメールを送る。(この夫かずのりさんが優しいんだな)
12年間家族との思い出を忘れることで生きてきたのだ。
臨月すぎてもつわりは無く、「お母さんになるんだと強く思いなさい」と、医者に励まされるが・・・。
手術で出産することになる。・・・生まれたての女の子の映像に、「パパとママに会いたい!」と泣き叫ぶ、病室にこだまする綾香さんの声が重なる。
誠さんは、5年生の時に母と兄を亡くした。
父は、5年前、酒におぼれ借金を残し蒸発した。3年前に結婚し、2歳の息子がいるが、自分を捨てた父には一生会わないと言う。
(この奥さんが又、なんとも言えず優しいんだな、自身も左手に麻痺があり、誠さんの心の痛みをさりげなく包むやさしさが感じられた)
そんな時2人目の子を授かったのを知り、父に電話をする。
「妻とこの子がいなくなるなんてたまらない」と、はじめて、父の胸の内を思う。
そこにいる家族。
望んでも一緒にいられなかった家族。
なかなかの秀作でした。
家族。
種子島の田舎で、苦労と共にまっすぐに大事にされて育った私は、
今親になり、
家族の大切さとか、あり難さとか、そんな言葉ではなく、
娘たちの人生にとって大事なものを伝えているのだろうか、
まったく自信が無い。
私の親は、言葉で家族はとか、人生はとか、生きるとはとか、なにも気の効いたことは言った事がない。
でも、私は、自分の人生のその原点を、家族と種子島で暮らした日々に位置づけている。
娘たちが家族を持つ時、
娘たちは何を思うだろうか。
今ある家族は、
娘たちの中にどういう風にいきるのだろうか。
しみじみ考えさせられた。
テーマ:テレビ番組・ドラマ - ジャンル:日記
2007.09.18 |
| Comments(3) | Trackback(0) | ・マスコミ・テレビ・新聞Ⅰ
貴重なコメントありがとうございます。
まだこのブログ使いこなせなくて・・・。
ひとつだけ分かった事。
「拍手」いただいた後に出る画面からの「コメント」は、「公開する」にしても、公開されず、私しか観れません。
TPCのkuboチャンに聞いても、この仕組みはそんなものだそうで。
この世界に疎い私には、そんなものかなーとは思いましたが、
「拍手」は、控えめに表現するもので、「拍手コメント」はちょっと、はずかしめに、でもちょっとひとこと、ブログ主にだけ、と言う感じで、・・・らしい。だから、この入り口からのコメントは公開されないらしい。
「公開してもいいぞ、俺は聞いて欲しい、ブログ主だけではなく皆にも」と言う人は、グログそのものの画面の下の、「comment]をクリックして、コメントする、と言うのが、通常らしい。
私としては、これ皆に見て欲しいな、(今度の「ヒロシです」さんの教えとか、)とか、「公開」にしたのに、消されているとか思われたりするのは、・・・そんな色々な気遣いがあって。
だから、みなさん。
もし差し支えの無いコメントは、ブログ画面の下の「comment」からお入りください。
ヒロシですさん。
よろしかったら、コピーして公開したいですが、いかがですか?
まだそのやり方も、分からないんだが・・・。
2007.09.17 |
| Comments(0) | Trackback(0) | ・このブログについて
子どもの頃、敬老会があった。
集落の皆がご馳走を作って、田んぼの真ん中にある公民館に集まり祝ったのを覚えている。
まだ夏の名残が残りつつも、田んぼには茜が舞っていた。
椎の実が熟れはじめ、風は白かった。
母は何歳かな?77歳、喜寿かな?
母親の年もちゃんと勘定できない息子になってしまったか。
原付を乗り回し、元気そのものだったが、
夏には、あっちこっち痛むといっていた。
これまで元気が良すぎたんだと思わなきゃ。
次女が お祝いの絵手紙を描いていた。
電話してみるかな。
ここ早良の里では、彼岸花が咲きはじめた。
何の前触れも無く、季節が来ると、ぱっと咲く。
ことしは 咲き初めを雨風に叩かれている。
彼岸の中日ごろには、田んぼの畦道は真っ赤になるだろな。
ってとこで さっき電話したら
母は76歳との事。覚えとこう。
「げんき?」「おお」・・・
特に話があるわけでもない。
「敬老の日だから電話してみただけ」
と言って、娘に代わり締めてもらった。
2007.09.17 |
| Comments(0) | Trackback(0) | ・ゆう楽庵つれづれⅠ
もう10年ぐらい前からだ。
テレビで、アメリカ資本の保険会社のコマーシャルが異様に増えた。
これは偶然ではない。
日本の公的医療保険がだんだん骨抜きにされ、医療への不安が増す中で、国民が「保険に入っとかなきゃ」と思うようになって来たことと重なってきたのだ。
つまり、この国に民間保険の市場が形成されていったのである。
そしてそれは、医療保険市場の開放は、アメリカ政府の日本政府への要望によって推し進められてきた。昨日書いたように、米国政府を金で買って利潤追求をしてきた米保険会社の要求によって、日本市場が作られてきたのである。
今日は、次の2点について見てみたい。
日本の医療制度がどう変わってきたのか?
アメリカはどうやって市場開放を日本に押し付けてきたか?
戦後スタートした、国民皆保険の医療制度の変遷
1969.12
革新美濃部知事の下、東京都で全国初の「老人医療無料化」を実現
1970年代初
老人医療無料化、革新自治体を中心に全国に波及
1973.10
福祉元年 「老人福祉法の改正」で老人医療無料化の法制化
自治体は、「老人医療費助成制度」で所得制限緩和と年齢前倒し実施
「高額療養費制度」発足 公費医療制度充実
1970年代中
老人医療に続き、乳児医療、障害者医療無料に
母子家庭医療無料化など福祉医療制度充実
1981.4
第二臨調・行政改革 土光会長・中曽根長官
1982.11
中曽根内閣発足 サッチャー・レーガン・中曽根路線
マスメディアを臨調側に取り込み、プロパガンダ機関として活用、現在も!
1983.2
老人保健法施行 一部負担金の導入 この法で老人医療をコントロール
1984.10
健保本人1割負担導入(健保本人10割給付崩される、それまでは窓口負担はタダだった。)
少子高齢化、高齢者医療費の増高、老人の社会的入院などのキャンペーン
1990年代通
老人医療の一部負担金のさらなる増額
1996.1
橋本内閣発足 橋本行革 構造改革・規制緩和
介護問題の深刻化など、介護保険導入のためのキャンペーン
1997.9
健保本人2割負担
2000.4
介護保険制度スタート(公費による措置から保険に)(制度改悪のための雛型)
医療事故など医師・医療機関不信を煽るキャンペーン
2001.1
老人医療に一部定率負担が導入される
2001.4
小泉内閣発足 小泉構造改革「骨太の方針」 医療制度改革大綱
2002.4
『診療報酬』 史上初のマイナス改定が実施される
2002.7
医療制度改革関連法案一括成立
2002.10
老人医療に定率負担導入 健康保険法・老人保健法などの改悪が実施される
6ヶ月超の入院患者に特別負担
福祉医療・公費医療制度の後退が進む
2003.4
健保本人・家族ともすべて原則3割負担に 介護保険料(第二期)引き上げ
2004.1
16年税制改悪実施 配偶者特別控除の上乗せ分廃止(所得税現年・住民税翌年)
2004.4
6ヶ月超の入院患者の特別料金全面実施
2005.1
17年税制改悪実施 公的年金控除切下げ 老年者控除の廃止
老年者非課税枠の廃止 定率減税半減・廃止
2005.10
介護保険利用者負担増 食事負担1380円~・居住費負担320円(多)1970円(個)~
厚生労働省「医療制度構造改革試案」発表
2006.4
介護保険料(第三期)引き上げ 一期2900円、二期3300円、三期4300円基準額
2006.10
70歳以上の現役なみ所得者の3割負担先行実施
介護保険負担増とのみあいで、療養病床の食事費負担増と居住費負担導入
2007.10
老人保健法75歳移行終了(5年の経過措置終了)
2008.4
新高齢者医療制度スタート 後期高齢者だけの健康保険が発足 原則1割負担
前期高齢者の窓口負担、69歳まで3割負担継続、74歳までは2割負担となる
以上、社会保障制度研究会がまとめたものを引用した。
要約すれば、
1970年代、国民の要求と闘いによって、老人医療の無料化を初めとする社会保障前進の時代
ところが、1980年代に入り
第Ⅱ臨調を司令部に、政府財界の猛烈な巻き返しが始まる。
「老人福祉に金を使うのは、枯れ木に水をやるようなものだ」
「牛も乳が出なくなったら賭殺場に行く」と大臣が暴言を吐きながら、
老人医療の有料化と健保本人負担を導入した。
90年代へ向けて
医療への負担は重くなり、国民健康保険料の引き上げなどにより保険証の取り上げも進み、国民の医療と健康への不安を拡大してきた。
2000年には介護保険制度が作られたが
それは、公的保険の形をしながら、実際は相次ぐ改悪で、国庫負担を減らし、個人負担強化、給付制限を強め、私的保険へと変質してきている。
国民は医療や介護への安心をもはや、公的制度には頼れなくなっており、「ほかにも保険をかけていないと!」という状態になってきている。
そこに、健康、介護等生きることに関しての「市場」が出来、どんどん拡大しているのである。
その市場は、米保険会社の稼ぎの場として、彼らに金で買われた米国政府が日本政府に押し付けて、作らせてきたものだ。
軍事や外交において、日米が対等だなどと思い込んでいる人は、政治的立場がどうであれ殆どいない。
「日米規制改革および戦争政策イニシアチブに基づく日本政府への米国政府の年次改革要望書」なるものがある。
アメリカは大使館を通じ、ここ10数年「年次改革要望書」を日本政府に出し、定期的な協議をしている。
そして、日本はサミットの時に、年1回回答を出す。米はそれを評価して「貿易障壁報告書」を議会で確認するとの事。
郵政民営化の頃は、大使館で週1回ペースで会合を持ったこともあり、米側担当者は、「米の要望を日本に飲ませるために作ったもの」と認めているそうだ。(共産党の大門議員が国会で追及し、当時の小泉首相も認めた。)
さて、
どんなことが要望され、それは国会でどうなってきたか。
いくつか紹介しよう。
96年より、人材派遣の自由化を要望
99~04年、労働者派遣法など労働法制の相次ぐ改悪
99~04年 簡易保険の廃止 郵政公社の民営化を要望
05年、郵政民営化
01年から、医療制度の改革、混合診療の解禁と、株式会社の参入を要望
次は、シッコへの道を開けと要求してきているのである。
これ以上くどくど言う必要もないだろう。
日本の医療制度改革の行方が問われている時、
シッコから示された教訓をしっかりと、汲み取ろうということだ。
「この道へは、絶対に進入禁止なのだ!」
長々と書いたけど、大いに関係ある事。
沢山の人に関心を持って考えて欲しいと思う。
少し意地悪く言えば
無関心な人たちによって
シッコへの道に連れて行かれるのは
ゴメンだ!ってこと。
社会的無関心は、社会的な罪を作る。
お付き合いありがとうございました。
台風もどっかへいって よかったです。
2007.09.17 |
| Comments(1) | Trackback(1) | ・安心の医療を
「生きるべきか、死ぬべきか・・・アメリカではそれを決めるのは保険会社。そのうらには、治療費を払えないと言う理由で命を落とす多くの国民がいる。そしてムーアは語りかける、本当にこんな社会でいいのか?何か間違っていないか?今こそ立ち上がれ!と。」
先日、マイケルムーアの「SICKO」を観てきた。
「病的な変態野郎」とでもいう意味だそうだが。
同じドキュメンタリー映画といっても、スティーブン・オカザキの「ヒロシマナガサキ」とは又違う、自分の主張をドキュメンタリータッチでやる、と言う感じ。ここは映画論ではないので、中身に入る。
仕事中に事故で2本の指を切断した大工に、医者が「薬指をくっつけるのにⅠ,2万ドル、中指は6万ドル、どうするか」と尋ね、健康保険を持たない彼は安いほうを選び、中指が無い。
夫が心臓発作を起こし、妻がガンを患った50代の夫婦。保険料が安く給付も低い保険に入っている彼らは、自己負担金が払えず、家を売り払い娘夫婦の地下室に引っ越さなければならなくなる。
腎臓移植で命が助かるかもしれない重病の夫を抱える妻。家族の腎臓がマッチしても、保険会社が金を下ろさなくて、待っているうちに夫が死亡。「なぜ」と、彼女は夫の写真を手に涙をとめることが出来ない。
(アメリカでは、腎臓移植をせず死ぬまで透析などで病院にくくりつけたほうが儲かるという話を聞いたこともある)
病院をたらいまわしにされた末に死んだ子ども。
支払いが出来なくなり、病院から路上に捨てられた女性・・・。
標準より痩せすぎていたり、太りすぎていたりで保険加入を拒否されたり、医者がガンと診断したのに「あなたの年齢でそのガンはありえない」と保険会社が決め付けたり・・・。そんな笑い話のような話まで、映像が映し出す。
ストーリーを追うときりがないが・・・。
アメリカ医療の最大の特徴は、公的な国民皆保険制度が無いこと。公的医療保険は、高齢者(長期入院と外来処方薬は給付外)や貧困者対象でこくみんの25%が加入。60%が、営利を目的にした民間医療保険に加入している。のこり15%は無保険者で4700万人にも上る。
そのため、病院にかかれずに死亡する人が年間1,8万人にも上るそうだ。
WHOのランキングでは、アメリカの健康保険充実度は37位らしい。
どうしてこんなことになったのか?
70年代のニクソン政権の時代にさかのぼり、その事情と経緯を振り返る。
利潤追求に走る民間保険会社、そこから高額の政治献金を受け取る政治家、そして、公的医療保険制度は官僚的で社会主義への一歩だとする宣伝。
90年代に政府が運営する国民皆保険制度を提唱したヒラリー・クリントンも、彼らにつぶされ結局は金をつかまされることになる。
保険会社が利益を追求するために、国家の医療政策を金で買収する、絵に描いたような金権政治。
こうして、保険会社の思惑が通る法律が出来ると、更に儲けようと、保険料を払わないための徹底した努力をする。何年も前の既往症を見つけたり・・・。
シッコは、ちゃんと保険に入っている人たちについての物語だ。
アメリカの医療保険の大半は、HMO(健康維持機構)という、民間保険会社が医師に給料を支払って管理するシステム。
つまり保険に入ったら、保険会社のネットワーク傘下の(雇われているようなもの)医者を自分のドクターに決めて、どんな病気や症状でもその医者に診てもらう、そして許可が下りたら、これまた保険会社お抱えの専門医に予約を取ることが許される仕組みらしい。
保険会社は、治療は不必要と診断した医者には、「無駄な支出を減らすた」と奨励金を出し、加入者には、笑い話のような理由まで探し、保険金を支払わない。
国家的規模で「医は算術なり」の体制を作り上げているのである。
アメリカ国民の命は、こうして保険会社に握られているのだ。
カメラは、つづいて、カナダ、イギリス、フランスに入る。同じ西側諸国だ。これらの国々では、国民はほとんど無料に近い医療を受け、医師は国民の健康のために仕事をする。
この違いは何なのか!?
つぎに、カメラは、敵国キューバの医療事情を映し出す・・・。
「アメリカの医療制度はビョーキ(sicko)だ!」と吠えるムーアは、
「医療に関しては利益を追求してはならない」「誰かを助ける際に、利益が関与してはならないんだ。」
健康保険は「非営利で、政府によって運営されるべきなんだ。国民の、国民による、国民のための医療制度を」と訴えている。
ムーアのドキュメンタリーは、単なる「記録」でも「告発」でもないという。
「現実を変えることだ」と。
そして、単に医療制度についてではなく、「もっと大きなメッセージを受け取って欲しい」と。
「我々はどんな人間なのか?なぜこういう行動をとるのか、どうしてこういう人間になってしまったのか。我々の魂はどこへ行ってしまったのか。いったい僕らはどうしたんだ?僕はそれを探り続けていくつもりだよ。」と。
長々と、紹介だけに終わったが、ぜひとも観て欲しい。
これは、対岸の火事ではない。
日本の医療「改革」への警鐘だ。
そして、アメリカの保険会社はつぎは、
日本国民の命と健康を狙っている。
ムーアの叫びに答え、現状を変えるために動き出さねば!
次の機会に、そこら辺について見てみる事にする。
長々とありがと。
2007.09.16 |
| Comments(1) | Trackback(0) | ・安心の医療を
急に秋らしくなってしのぎやすくなった。
明日から台風の影響もあり、湿って熱くなるらしい。
虫の音がすごい。
飯倉から早良にかけてのケヤキの街路樹に、うるさいぐらいのリーンリーン。何虫かな?
我が母屋と庵も。草ではなく木に止まる緑色の虫。
田舎育ちの癖に名前も知らない。いちいち図鑑で確かめなかったから。
木曜夜の陶芸教室が終わり、帰宅し、風呂を沸かしながら一服。
世間は、安倍辞任で騒然。
論評する気もなくなった。なんか、惨めで哀れさえも感じる。
勿論、その政治責任に目をつむろうと言うわけではないが。
うちにもいるな。
我儘ばかり言って、人の話は聞かず、最後は自爆する奴。
うちの仲間と比べたら、仲間たちにすまないか。
話し変わって、
例えば、最近の若い娘さん。腰がむき出しになってるだろ?
そこに蚊が止まっていて、「あ、さされるぞ」と思ったとき、教えてあげる?
後悔してるよ。痒そうに掻く姿を見てから。
俺、自分がいやなオヤジと思われたくなかったもんな。
見ようと思わずとも、目に入るんだよ。
俺ってかねてから仲間たちに、注意深く細やかな目配りしてるから。習慣になってるの。
(決して言い訳ではなく!いや、言い訳かな?)
そんなもの着てくるなとかいって、ファッションの自由は侵害できないし。
かといって、知らんふりしたら、相手は不幸になってしまった。目の前で。
やっぱ、後悔するね。
自分の体裁考えて、人を不幸にしてしまった。
なんでこんな事で、いちいち悩まないかんのや!
又後悔が増えた、そんな1日ではありました。
明日は、実習生の総括会議と、本焼きの窯焚きで、深夜まで残業。
さ、風呂はいって寝よっと!
今日は、詰まらん話だけ。
お付き合いありがと。
2007.09.13 |
| Comments(3) | Trackback(0) | ・仲間とともにⅡ
昨日は、午前中 養護学校のお母さんたちが見学に来て。
最近は若い職員に案内説明させていたが、前回私の話を聞いた人たちが新しいお母さんたちを誘って、又いろいろ聞きたいとのご指名だったので、1時間半ほど対応。
親も子どもたちの卒業後のことで大変だ。
午後になると、安倍首相の辞任報道。
ぼんぼんの無責任ぶりも極まれり。イラク特措法でアメリカに迷惑をかけられないと言うのが、最大の政治的理由。
やり方も内容も・・・あきれてコメントもないと言うか。
夕方からは、かねてから観たかった映画SICKO。
これもまた、一言では語れない重さ。
素朴な質問。シッコってそもそもどういう意味?
映画館の人に聞いたら、「病気ヤロウ」みたいな意味だそうで。
なるほど、病気を題材に、アメリカの医療制度が病的にゆがんでると言うことか。
いや、これは医療問題だけではない、医療を通して、社会の病的なある方を鋭く告発している。
もひとつ、夕方仲間の問題もおきて・・・。
昨日は消化不良。
今朝も、胃もたれ状態。
いずれ詳しく、整理したい。
2007.09.13 |
| Comments(0) | Trackback(0) | ・仲間とともにⅡ
また、最近ずーと思ってる
わけわからん話。
まなざしが人を育てる。
15年、陶友で働き、ささやかながら みんなで頑張ってきて
そう思う。
ここにくる仲間たちは、
最近養護学校を出てきた人たちはそれほどでもないが
みんな つらいいやな思いをしてきてる。
いわれなき偏見や無理解によって
学校でいじめられたり、職場で馬鹿にされたり。
地域や、ある場合は家庭においてすら
そのままの姿の自分を
受け止めてもらった思いがない。
常に否定的な視線を浴びながら生きてきた。
自分を大事に思ったり、だから頑張ろうとか言う
心の働きを、自分の中に感じた経験はきわめて希薄なのだ。
彼らは、
言葉巧みな、指導や援助やましてや「サービス」などは求めていない。
まずは、まなざしに触れたいのだと思う。
自分を、そこにそのままの姿で存在して良いと認めてくれるまなざしを。
肯定的なまなざしこそが
彼らの生きる希望を照らし、勇気を引き出してくれる。
この、肯定的なまなざしを
地域に、社会に、
と思う。
今週は実習生やら見学者やらで超満員。
あっぷあっぷだーっ。
追記
後で冷静に読むと、「私は時々、『なんばしよっとか!』というにらみを利かす。」という事実を付け加えるべきだと反省。
俺が一番修行が足りなくやさしさにかけているんだな。
2007.09.11 |
| Comments(4) | Trackback(0) | ・実践的福祉労働論
空気が人を育てる。
そりゃ酸素が必要なの 当たり前だろ!?
いや、その、人々の関係が作り出す空気。
雰囲気と言うよりも、やはり空気と呼びたい。
教育学部で出てんだから
それらしい専門用語があるだろうに、
やはり空気と呼びたい。
陶友には
そんな 人を育てる空気がある。
だれでも ありのままを受け入れようとする空気。
みとめあおうとする空気。
はげましあおうとする空気。
共感しあおうとする空気。
助け合おうとする空気。
まだ そうしあえてないかも知らないが
そうしあおうとする空気。
立派な理論で指導援助するよりも
みんなで作り上げてきたこの空気が みんなを育てている。
その空気に触れると
だれもが
自分の中に眠っているもう一人の自分に気づき
自分から
もう一人の自分に会いに行こうとする。
そんな空気が
ここにはある。
そんな気がする。
うん。数年前からそう思うようになって来た。
時々、俺、この空気を汚してるな、と自戒しながら…。
2007.09.10 |
| Comments(2) | Trackback(0) | ・実践的福祉労働論
10日、臨時国会が始まった。
まだテレビも観てないので、様子は分からないが…。
課題はいろいろだが、まずは障害者自立支援法の抜本的な見直しのために、野党の協力を求めたい。
昨年4月施行以来、心配されていたことが現実になった。
「応益負担」の導入で、施設利用料が払えなくて、やめた人が、厚生労働省の調査でも1625人に上るそうだ。
少ない数?
その陰には、負担にあえぐ数百万の障害者がいる。
彼らにとって施設をやめると言うことは、大げさに言えば生きるしかばねに等しい。
施設が唯一の社会との接点。
社会的に、人間として生きるスタートなのだ。
それを奪われたら、どうやって人間として生きて行くというのか!
また、施設や事業者に支払われる報酬単価の引き下げと、日払い方式への変更は、経営を脅かし、職員の労働条件を悪化し、人手不足を深刻にし、障害者支援体制を維持することさえも困難にしている。
障害者関係者の声と運動に押され、昨年12月政府は1200億円の「特別対策」を打ったが、問題の解決には程遠い状況である。
見直して欲しいことは色々ある。
更には、障害程度区分判定が身体機能に偏っており、知的や精神など障害状況が正しく反映されていないこと。
「精神障害者退院支援施設」は、病院の敷地内での看板の架け替えにすぎず、5万人とも6万人言われる社会的入院の解消には実質なんにも役立っていないこと。
通所施設利用者の半数以上が通う、小規模作業所の移行先となっている地域活動支援センターの補助金は、無認可とほとんど変わらず「法定施設」とは名ばかり・・・などなど。
野党が安定過半数を占めた参議院で、野党が
①「応益負担」を、もとの「応能負担」に戻すこと。
②報酬単価を引き上げ、もとの月払い方式に戻すこと。
少なくともこの2点で一致し、共同して行動し、関係者の声にこたえて欲しい。
実りある議論を求めると共に、
国会の数に依存せずに、数の力を生かすためにも、
現場からの声を大いに上げて行きたい。
2007.09.10 |
| Comments(0) | Trackback(0) | ・障害者自立支援法Ⅰ
バイトの面接に受かって書類がいるという。
本山(仮名)38才。
どこからどう見ても、話していても「知的障害」には見えない。
中学校の特殊学級を出て、理容師の見習いを数ヶ月やったが物にならず、ずっと在宅。
時々家業を手伝い小遣いをもらったり短期バイトをしながら、20年暮してきた。
陶友に来て3年になる。
時々父親の仕事を手伝いながら…。
母親は、心臓の1級障害。父親は現在、交通事故で長期の入院をしている。
複雑な事情で、本人は家庭内一人暮らしである。
常にケイタイを手にし、ケイタイの話題からしか人と話せなかった。今も手放せない。
サイトで競馬などをしているようだ。
あるときから夜のバイトを始めた。ホストクラブの皿洗いだそうだ。
まともにこのようなことを職員に報告するとか相談することはない。ましてや、担当である私には…。
自分の課題を持って人と向き合えないのである。
愚痴るように若い気安い職員にこぼしたことを総合すれば、次のような事情だ。
ケイタイサイトで、スロットの攻略法を買ったらしい。ご丁寧に、金貸業者つきで。
50万円。元利合計で100万近く返さなければならない羽目になり、とても親にはいえない、そこでバイトを始めたと。
なるべく時給が高い、夜のバイトだそうだ。時給1000円。
5ヶ月ほどがんばったが(かなり頑張っただろう、昼は大体、陶友に出てきていたから)、きついからやめるという。
身体はともかく、年下の人からも、馬鹿呼ばわりされるのがたまらないらしい。
一通りの事情をつかみ、いろいろと話した。
サラ金がどういうものか。
金を返せない人に貸したほうが、相手にとってはうまいんだぞ。一生利子に喰らいついて離さないのだから、親に相談したほうが良いと勧めるも、自分で頑張るだけ頑張るといい、今日に至った。
破産手続きも考えられたが、本人が言うとおりにさせた。
「どうしてもの時は、ちゃんと相談するように」と言い聞かせて。
(相談する力がないことぐらいは解っているので、愚痴を拾ったら、次のバイと探しに、ぶつかった。)
あんな世界にいいことあるもんか。あぶく銭で遊ぶ奴から金を巻き上げることを考える連中の中で、大事にされる訳ないだろう。一番弱いものが、憂さ晴らしにいじめられるんだ。
一通り、世の中も教えなければならない。
サラ金からの通知も来て、母親にもバレたが、それどころではないらしく、今度は、工事現場で交通整理をしたりする警備員の仕事らしい。
バイトするぐらいのことできるんなら、陶友は辞めてフリーターでもやれば?たったの1万にも満たない給料のために…。
「ここに来ると気持ちが安らぐ」のだそうだ。
当座の必要な金稼ぎのためには、少々頑張れても…。就職はいやなのだろう。
実際、就職を前提にした実習先を紹介しようとすると、間髪いれず「いいです!」と、断る。
今まで口にしたくないようないやな思いをして、世の中と付き合ってきたのだ。
いや、付き合いきれずに逃げてきたのだ。
とりあえずここで、羽を休める必要があるのだろう。
やっと少しづつ、人と関わるという事もできてきている。
弱い仲間たちには、優しい面も見せるようになっている。
怒鳴られることも、馬鹿にされることもなく、自分の出番もある。
も少し、時間をかけよう。
2007.09.10 |
| Comments(0) | Trackback(0) | ・仲間とともにⅠ
久しぶりに、映画館に足を運んだ。
日系3世のスティーブン・オカザキ監督のドキュメンタリー映画「ヒロシマナガサキ」が,KBCキネマで上映中だ。
1931年日本の満州の満州侵略開始から、41年12月8日真珠湾攻撃、45年8月6,9日の原爆投下まで、米国の資料映像で追う。
そして、「8月6日と9日 広島と長崎に原子爆弾投下 戦争で唯一の使用例である」「直後の被爆地の写真や映像は米政府が25年間公表を禁じた」のテロップ。
原宿の雑踏、バンドに興じる若者たち。
「日本の人口の75%が1945年以降に生まれた」のテロップのあと、「1945年の8月6日に何が起きたか?」のインタビューに、知っている若者は誰もいない…。
オカザキ監督が、500人以上の被爆者に会い、30人のインタビューを撮影したうちから、14人の被爆者と、原爆投下に関わった4人の元空軍兵士のインタビュー、記録映像などで構成されたドキュメンタリー。
「ドキュメンタリー映画とはシンプルなものです。」
「私にとってヒロシマナガサキ以上に迫力があり、心をかき乱し、感動的な物語はありません。苦痛、葛藤、真実が、被爆者の言葉に、表情や瞳の中に表れています。彼らは核戦争の脅威をじかに体験した人々なのです。この物語はあまりにも強烈なので、私たちが登場人物をありのままに率直に写しだすだけで、それぞれの人物からの反戦のメッセージが、おのずと、より深く個人的な方法でかもし出されるのです。」
「・・・ナレーションやコメント、学術的、政治的な解釈は一切ありません。あるのは、14人の被爆者の体験だけです。・・・これらの人々が、原爆投下の日にいったい何を見、何を感じたのか、そして原爆によって彼らの人生がどのように変わってしまったのかについて語っています。」
「被爆者はわたしたちそのものなのです。・・・彼らにおきたことは、誰にでも起こりうることなのです。
私たちは現在、不確実な時代に生きています。核兵器の脅威は現実のものであり、恐怖に満ちています。今ほど被爆者の体験が重要な意味を持つ時代はないのです。」
以上、監督のあいさつ文から引用しました。
被爆当時の自分の写真を手に、ジッとカメラを見据えて、一言一言語る証言者たち。
シャツを脱ぎ、裸の上半身を見せながら、谷口さんは、
「この骨はですね、非常に薄くなっていますから、うっかり大きな咳でもするとすぐ折れてしまうんです。その中でこうして、傷をさらけ出して話さなきゃいけないということは、再び被爆者を作らないため」
と語ります。
カークさんは、
「何人か集まると、必ずバカな奴がこう言う。『イラクに原爆おとしゃいいんだ!』核兵器が何なのかまるで分かっちゃいない。分かってたら言えないことだ」
下平さんは、
「体の傷と、心の傷、両方の傷を背負いながら生きている。苦しみはもう私たちで十分です、といいたいですね。」
証言は静かに結ばれ、きのこ雲にテロップが重なる。
「現在 世界には広島型原爆40万発に相当する核兵器がある。」
あれから62年。
核の拡散、核戦争の危機が深まる一方、人々の無関心や、「被爆者が死に絶えることを待っている」かのようなこの国の政治のあり方を前に、被爆体験の空洞化が危惧されている。
「その時死んじゃった人は、まあ不幸にしてあれだけども、私は生き残った被爆者のほうが、もっと苦しかったと思っています」(病院で診察をする肥田医師)
「登場する人々はとても率直で、自分たちに何が起きたかについて話をしたがっていましたし、物語を共有したがっていました。私は誰一人説得していません。」(監督)
いわれなき差別と苦しみと対峙しながら、60年を生き抜き証言する彼らの勇気と願いを、人類の明日への警鐘、未来への希望として生かさなければならない。
関心がなくても、必ず、関係するのだ。
追記
この「ヒロシマナガサキ」は、今年8月6日、
全米でテレビ放送されたらしいが
その反響は どうだったんでしょう?
「原爆投下は、戦争終結を早め多くの命を救った」
これが、アメリカ人の常識であり
そう教育されていると聞く。
日本にも
「だから仕方なかった」
と迎合する風潮もある。
気になるところだ。
2007.09.09 |
| Comments(1) | Trackback(1) | ・9条・平和Ⅰ
昨日、囲炉裏塾に参加しました。
テーマは「出生前に障害がわかったら」
参加の皆さんの意見は、工房陶友のホームページの活動報告を参照ください。
「大脇さんが泣きました。」ってあるけど。
・・・? お・ぼ・え・と・ら・ん・ば・い・・・?!
若者ばかりの中で、きんちょうしっぱなしで、
そこに久しぶりのクロキリのロックが ジワーッと効いてきたのかな?
その日は、実習総括もあったし、塾生はほとんどが実習生で、同窓会みたいなところもあり、みんなが語り合う姿に、
感動したんでしょう。
毎度のことながら、
目が覚めたら、そこは陶友の長椅子の上。
りょうこちゃんが、バンビの枕と毛布を出してくれてたのは覚えてたんだけど…。
よわくなったもんだなあ。
なんか、疲れ取れないね。
心中、爽やかなれど。
そらの色、>。陽の角度、風のにおい・・・秋近しですね
2007.09.09 |
| Comments(0) | Trackback(0) | ・のんべえの詩(うた)
今、現場実習の学生が6人来ている。
(ちょっと多すぎ、私の調整ミスで。)
社会福祉士や教職のために単位が必要なのだ。
私は、「単位を取りに来た人は帰ってください、作文でも何でも書けば単位はあげます、人が生きていることを自分の食いぶちにするな」と恫喝する。
実習を受け入れるにあたっては、学校側の実習教育目的も考慮したうえで、最も基本的なことに重点を置いている。
ひとつは、人と関わるということ、自分に向き合うこと。
2つ目に、学ぶということ、自分の頭で考えるということ。
私の主観的な印象で申し訳ないが、今時の学生は人と関わると言うことが、希薄である。
大学では、特別な目的を共有する集団に関わるとかでもない限り、人と深く関わる経験を積む場はないようだ。
気が合わなければ、「はい、さいなら」で済まされるのだ。
実習と言う場は、関わらざるを得ないのである。逃げられない。
しかも、相手はこれまでに関わったこともない、理解しがたいことも多い知的障害者である。
みんな緊張もあり、無難に、上手くやろうとして、腫れ物に触るようであったり、初めは消極的である。
まずはそこを一歩踏み出さなければ…。
一日彼らは、それぞれの作業に入り、仲間たちと関わる。
そして毎日最低でも1時間の反省会。体験し学んだこと、感じたことを出してもらいながら、討論する。
必要に応じて、テーマを決めて学習会も。
「障害とは何か」「憲法」などなど。驚くほど、基本的なことを学んでいないのである。
今時学生がよく使う言葉が「コミュニケーションをとる」。
ほとんどが「会話をする」ぐらいの意味で使っているので、私はその言葉を使うことを禁止する。
関わった事実をそのまま報告するように。
たとえば
衝撃的な話を聞いて、何も話せずにちょっとへこんでしまう。「コミュニケーションがとれなかった」と。
それは違う。相手があなたに話そうと思い、それを聞いてあげることが出来たこと事態が、コミュニケーションである。
関わった事実の質や内容を、具体的に検証することが大事だと言うことに気づかせなければならない。
結果を気にせずに、自分をモットさらけ出してぶつかっていくように求める。「あんたが何かして上手くいかんでも、死ぬようなことはないから」と、乱暴なことを言いながら。
実際、静止していくら眺めても、相手は見えないのである。
ぶつかり格闘しながら、少しずつ見えてくるものなのだ。
実践とはやってみることなのだ。結果を見て検証し、又仮説を立てやってみて…、そうやって考えが深まり、やることも発展していく。
理論と実践はそういう関係にあるのだということを教え、励ましていくのである。
そして大事なのは、ぶつかっていく時に、自分が相手に映し出されていくのである。
未熟で情けない自分、ちょっとほめたくなるような自分…。
人と関わると言うことは、そこに映し出される自分に向き合うことでもあるということ。自分に、真摯に正直に向き合えない人がどうして人と向き合えるだろうか。ましてや、援助を必要とする仲間たちに…。
日誌にコメントを書いたり、討論会をしたり、学習会をしたり・・・結構、大変ではある。
こんなに実習に力を入れる現場は聞いたことがない。自分の学生でもないのに。うちに就職するわけでもないのに…。
私は、「日本一の実習現場だからね。」なんて恩着せがましく言う。
「これは私たちの若者たちへの期待なのだ」と。
学ぶ、考えると言うことについて。
討論の時も、人と比べたり、いい事を言おうと思うな、率直な等身大の自分を出せ、と要求する。
悪しき教育のお陰で、あらかじめある、どこかに隠されている回答を探そうとしてしまうから、自信がなくて発言が消極的になる。
周りの評価も気になる。
実際に、能力差は学校間、個人間ある。
だからこそ、人と優劣を比べるのではなく、昨日の自分、今日の自分より明日の自分が成長することが一番大事だと教え励まさなければならない。
あなたの答えがあなたの正解、それぞれの正解を出し合いながら、討論し皆でモットいい正解を探すのだ、学ぶとはそういうことだ、だから自分の頭で考え自分を出そうと、討論する意味も教えなければならない。
集団討議は、自分の頭や心が、皆の頭や心とつながり大きくひろくふかくなっていくのだと。
・・・そうやって、日を追うごとに、若者たちの表情が、目の輝きが目に見えて変わっていく。
一方、職員は?
討論も関わり全て全職員参加が原則である。調理員も事務員も。
それぞれに、自分の仕事ぶりをさらけ出しながら、自己点検する機会なのだ。討論でも、お客さんはいない。
特に若い職員にとっては大いなる学びの場である。
日誌のコメントを書く。
ああでもないこうでもないと、自分に引き寄せ、自分を振り返りながら。
この際、身内の若者をほめておこう。彼らは、実習生の指導と言う任務を非常に積極的にとらえ、取り組んでいる。仕事は大いに増えるのに。その取り組みの中で、自ら成長しようと言う率直な努力をしている。だから、楽しいと言う。
私は立場もあるし、少しは偉そうなことも言わなければならない。
世代が離れすぎ、テレもありフォーマルな場での関わり程度でいるが。
望んでも「友さん、これこれについてえ…。」なんて声かけたくなるような顔つきはしてないし…!
「いいんです。ぼくはこどくにたえます」
実習指導は、職員教育の機会でもある。
職員の発言やコメントを見て、その成長ぶりや課題も見えてくる。
こうして、職員も実習生も、自分と向き合いながらぶつかり合いながら、今日も、真剣勝負。
初めはそうでもなかったが、ここ3,4年、実習生の受け入れには力を入れてきた。それは、実習生のためにしてあげるというものではなく、陶友自身のためであると言うことが明らかになったから。
共にかかわりあう中で、新しい力を育ててきた。
実習の仕方も発展がある。
ある程度まとめ、現時点で定式化する必要もある。
先日、学生の日誌にコメントした。
「支援とは、共にかかわりあう中で、新しい価値を創造するものじゃないといけないんじゃないか」と。
横で見ていて、何かしてあげようというような印象を持ったので。
すると、リヤカーで豆腐を売りに行った学生が、どういう声賭けをしたらもっと売れるか、いろいろ工夫して、仲間と一緒に試そうとしたり、もっと買ってもらえるようなチラシを作ろうとしたりの変化が出てきた。
これもひとつの発展である。
あらら!ちょっとまとまりなくなった。
こうして、1週間、あるいは2週間、4週間とそれぞれの実習を終えていく。
最終日は総括会議とお疲れさん会。
やったという確信に満ちた顔を見ると、今時の若者も捨てたもんじゃないなと思い、可愛くなって、うちの職員にして元を取らな…、なんて思ってしまう。
今日はここまで。 ご愛読(?)に感謝。
2007.09.08 |
| Comments(0) | Trackback(0) | ・道場日記・オッス!!
いやあ、びっくり。
つよしくんがあのカナちゃんをなだめてしまった。
休みがちだったカナちゃんも、お父さんが退院してきたのと、2学期が始まり妹たちも学校行くようになり、規則正しい生活に切り替わったのか、ともかく作業所に出てくるようになった。
がしかし、きちんと作業には入れるわけではない。
途中で寝そべったり、外に出て行ったり…。なかなかだ。
それでも、職員が目を離さないようにしながら、勝手な行動をしないよう、休憩したり出かけたりしてもも良いから自分で意思を伝えるように求めている。
この、「自分で意思を伝える」言語コミュニケーションがなかなか出来ない。筆談もやったりと、辛抱強くいろいろ手を尽くすのだが。
言語は通常会話程度は獲得しているが、心理的要因に基ずく、コミュニケーション障害と考えられる。
今はターゲットは実習生。手を引いて外に出て、「どこに行きたいの?何をしたいの?」と聞かれても、だんまりで引っ張っていこうとする。
遂には膠着状態になり腕や洋服にしがみつき、自分の要求を通そうとする。
ここでは今は、基本的にはそうゆうやり方は、受け入れない方針で臨んでいる。。一度妥協したら、そうゆうやり方で要求が通るとと思い込み、状況は改善されない。最初が肝心。
本人が、筆談ででも自分で伝えることが出来たら、「きょうは、なんかやるきがない きゅうけいしたい」・・・なんじゃそりゃ!と言うような内容でも「じゃちょっと休んでていいよ」と、対応してきている。
現在の方針が絶対に正しいとは思ってはいない。障害の陰に隠れた逃げや甘えがある。だから、職員に通用しないが、まだ訳の分からない実習生は、通してくれるだろうと言う読みがあるのだ。したたかだ。
方針をコロコロ変えると、やってることがが正しいかも間違いかも見えなくなる。
一度掲げた方針は、一定の評価が得られる段階までは動かしてはならない。実践に当たっての原則だ。
そこで、昨日は、切り離しほったらかして、職員も実習生も二回に上がり終礼を始めた。
案の定、地団太踏んで床をたたきながら、大きな声で泣き喚きだした。
実習生も皆気になるようだったが、私は「はい無視して会議に集中!」と促した。
泣き喚き、感情を発散すると、後にだいぶ落ち着いて話も出来るようになるのが常だから、様子を見ようと言う方針だった。
タイトルからいけば、ここまでは、イントロと言うことになるが…。
そこに戸締り終えたつよしくんが通りかかり、捕まってしまったのである。彼のシャツを引っ張りしがみつき泣き喚く。
実は以前もそうゆう事があり、つよしくんは、怖がり引きつり大変だったことがある。彼は非常に優しく育てられ、気持ちのいいほんわりしたやさしさを持っており、周りの人たちを癒す不思議な力を持っている。
一方で、非常に波風に弱い。あの時の、恐怖におののく姿は、顔面は真っ赤に引きつり、飛び跳ね、始めてみる姿だった。
私は、どうなるかと、終礼を進めながら、時々注意深く見ていた。
肩をたたきながらなだめようとしたり、つかまれた手を解こうとしたり、困惑しながらも決して、拒否したり逃げ出そうと言う感じではなかった。
しばらくして、少し落ち着いてカナが手を離したとき、ツヨシは帰り支度のためロッカーのある2階に上がってきた。
「先輩だから頼むね。トントンと優しくしてくれ。」と私は声をかけた。
帰り支度を終えたツヨシは、落ち着きかけたカナの肩をトントンと叩きながら顔を覗き込み、なにやら聞いていた。
そして、カナチャンは電話をかけ始めた。
私には彼女のやることは、おおよそ見通せていた。
養護学校のときの先生に連絡を取り、会いに行きたかったのだ。
この時のカナの声は、二階からもはっきりと聞き取れた。
「つよしくんも一緒にいい?」
一件落着。
ツヨシは、近くの養護学校まで付き合ってやることにしたようだ。
その様子を見届けた私は、実習生たちに「ツヨシがどうやって、問題を解決したか講義してもらおうか?」と、半分冗談で投げかけた。
「本人の気持ちを聞いただけよ!」と、回答も添えて。
(あとでツヨシに聞くと「バランスがあると。」と答えていた。つかみかかってきた時の体のバランスだそうだが、もしかしたらそれは、微妙な心のバランスのことなのかも知れない。)
あの恐怖に引きつっていたのは、2ヶ月ほど前。ツヨシがここまで、受け入れて向き合うとは!
職員一同、ビックリした!
陶友の仲間たちは、日常の小競り合いはあるものの、このようにこれまで、どんな仲間をも関わりあいながら、彼らなりの理解の力で受け容れてきた。
これだけは、感心できる、陶友がつくりあげて来たものだと。
最後までありがとうございます。
よろしければコメントください。
【“NO.51 つよしくんの、ウルトラC!!”の続きを読む】
2007.09.06 |
| Comments(5) | Trackback(0) | ・仲間とともにⅠ
8.28付け「金のことを言うときたないが・・・」で
「日本の福祉現場はワーキングプアで支えられている」と書いたが
9.5付け「赤旗」新聞に、表題の記事があった。
福祉人材研究会の「福祉保育労働者の労働と生活の実態調査」から。
いくつか紹介したい。
福祉職場の6割が20,30代の若者。8割が女性。
賃金(税込み)は、
正規職員で、
15万~25万が35.9%。20~25万が25.6%。25万~30万が13.3%・・・10~15万(生活保護基準以下)が6%。
常勤パートでは、
10~15万未満が7割近く。短時間パートは10万未満が9割。
25歳~30歳未満の正規職員の4割、常勤パートの5割が
親兄弟世帯と同居の「パラサイトシングル」
「人手不足」の「忙しすぎ」、「賃金の安さ」から、
「仕事をやめたいといつも思う」「時々思う」が61%。
正規の55%、常勤パートの90%が「勤続10年未満」で、
短期離職者が多い。
以上のデータが、アンケート調査の結果、明らかになっている。
現場を担う人たちの像が見えてくる。
それは、30歳未満の若者であり、圧倒適多くが女性。
彼らは、低賃金と仕事の大変さで、働き続けることが困難で、職場に定着せず、経験も未熟。
ひとり立ちした生活が見込めず、いわゆるパラサイトシングルが多い。
やっぱりというか、残念ながらと言うべきか、
私が経験的、実感的に指摘してきたことが、調査数字で証明されることとなった
しかも、この間の、社会福祉基礎構造改革(介護保険の導入や相次ぐ改悪、障害者自立支援法等)で、経営危機が進み、職場のパート化で、非常勤職員は4割を超えた。
なんとも頼りないもので…。
これで国民は、安心して保育や介護や支援を受けられるだろうか?
厚生労働省は、「他の分野に比べても適切な給与水準を」と、新しい「福祉人材確保基本指針」を定めたが、要は財源確保である。
日本の福祉を、安心して頼れるものにするために、「指針」の実効性を求め、大いに声を上げて行きたい。
(財源論については、次の機会に触れたい。)
最後までおつきあい、ありがとうございます。
よろしければコメントお待ちしてます。
2007.09.05 |
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頭はは悪いのに 頑張りすぎて間違ってQ大に入ってしまった。
そこから始まり。
教育学部は1学年35人。
新入生歓迎コンパには、全学年から参加があった。
学部4年の大先輩が、歓迎の挨拶をしてくれた。
「学部卒業史上最高の初任給を取るぞ!」と。
当時、グループダイナミックスという学問が、企業の人事管理に受けていたらしく、その先輩が息巻いた。
拍手が起こった。
おれは、しらけた。
こいつら、バカや!
国立大学、貧乏でも国民の税金で勉強させてもらえる…。
それなのに、自分の食いぶち、立身出世のことしかいわない・・・「こいつらバカや!」強烈にそう思い、失望した。
あれだけ、寝ることさえ惜しみたどり着いたところが、こんな世界か!?
島の同級生の3分の1が集団就職で、都会に行った。みんなで見送った。船が水平線の彼方に見えなくなるまで。15の少年少女を、親もじいばあも、友達も先生も、皆泣きながら…。
貧しかったり、親が病気だったり・・・。 島には4つも公立高校はあったんだぞ。それでも・・だ。
一緒に勉強してた頭のいい奴がいた。マサタカ・・・小さな農家で、母ちゃんが精神病で・・・いしょに勉強してたのに、集団就職の船に乗った。
こいつらのことを抜きにして、なんで自分の給料のこと言うんか!
それが始めて物を考え出した、俺の青春の始まり。
こんなバカにだけはなりたくねえ!その時から、なんのために、俺は大学に来たのか、何を学べば良いのか!?
初めて自分に向き合った。
青春の入り口。
2007.09.04 |
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思春期は劣等感に覆われている?
おおらかと言うか、のんびりと言うか、そのままと言うか、15の春まで種子島で育った。
まじめで働き者の父と母、兄妹4人。私は百姓の次男。
別に特別に将来に夢も持ったこともない。年子の兄貴がスポーツ万能で、中学の時は兄貴のあとにくっついて、柔道部にいた。(こう見えても結構強かったんだぜ)
兄貴は柔道で身を立てるため、その道の鹿児島の一流高校に進学した(華々しく全国制覇一歩前までいったよ。弟は全国制覇!)。俺は気が弱く、おとなしく、なんとなく一人で勉強するのが好きで、ちょっと成績も良かった。
親は、農業を継げとか、何も言わず、好きなことをやれと言って、貧乏をしながら、俺を、鹿児島の進学校に行かせてくれた。
のほほんと種子島でやっていたし少年は、初めて、壁にぶつかる。
島では特に勉強をしなくてもトップ周辺なのに、高校に入ったらなんと450人中400番。少しずつ見えてくる。自分がどんなものか。
島から来たから友達もいない。
孤独と劣等感。それにホームシック。ついていけない授業中、窓から失対(失業対策の官公需の仕事)のおばちゃゃんが、校舎の横の草むしりをしてると、母を思い出だし涙が出てきたものだった。
鹿児島は教育立県を標榜し、すさましい受験教育をしていた。
我が高校は新設校で、今考えたら、よくもあんなことしたなと思うぐらい。。
450人9クラス。50人はトップクラス。次の100人が準トップクラス2つ。あとは、バカクラス。
準トップクラス以上から国立大学に何人通すか、これが最大の教育目標。勿論、バカクラスの俺たちはおとなしく卒業してくれれば良いだけ。
いじけるよな。初めて、劣等感と言うものを味わった。
自分がどうしたいと言うよりも、親をガッカリさせたくなかった、それが一番だった。母は、俺が小学4年の頃、当時田舎では大学に行く人は誰もいなかった頃、百姓をしながら、どんな苦労をしても「この子は大学に行かせたやりたい」と決めたそうだ。(あとで聞いたのだが)
当時4当5落と言った。4時間しか寝ないで頑張れば通る、5時間寝れば落ちる。俺は、体力にまかせ寝ないで3年間頑張って、間違って、30番~50番ぐらいになってしまって、Q大に受かってしまった。
友情なんか培うゆとりもなかった。それでも、島出身の何人かと心許す友達にはなれた。
何を書きたかったのか忘れた。
劣等感にさいなまれ、それでももがききった、ニキビの少年。
また、あの時の俺に会いに行こうと思う。
2007.09.03 |
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ここんとこ3,4日、まともにお陽さんが顔を出さないと、さすがに涼しい。
六本松を思い出した。
ちょっとセンチになっている。
あの狭い何もないキャンパス。我が青春の六本松。
普通一年半で通過するそこに、俺はさまよいながら、2年も留年し3年半もいた。
もっとも、大学にはほとんど顔を出さなかったから、六本松周辺に3年半と言うことだ。拠点は、田島寮。
そこで得たものは、友と、生き方の指針。それと、教育学部進学のためのぎりぎりの単位。
頭悪くてどうしようもなかったのに、体力に任せて受験勉強をし、間違って合格してしまった。場違いなところにきてしまい、自分の居場所も見つけられず、ひたすら劣等感とどろどろとつきあった。
そんな俺にも友と呼べる奴が出来、「何のために学ぶのか、時代をどう生きるのか」幼くも、必死にもがきあった。
学費値上げ、ベトナム戦争、水俣、オイルショック・・・時代が生き方を問い詰めてきた。
初めて自分自身が生きることを正面から問うた、まさに青春。今や、ちょっと甘酸っぱいかもしれない青春。青春は、常に友とあり。
最近、学生の実習生が来てるので、どうしても自分の学生時代を思い出してしまう。
直接の音信はたまにしかないけど、いまでも俺はあの頃のあいつらと生きている。
優秀な奴が多く、俺なんかちっぽけ過ぎて、でもなんでか、皆俺の貧乏な生き方をほめてくれる。この間、先輩が「大脇君を見ると応援しなきゃっておもうもんな」といってくれた。
居場所のない劣等感を乗り越え、自分を好きになりかけたのもあの頃。
あんなに優秀な奴が一杯いたのに、悩みこんだら、そいつらの所に相談に行けばいいのに、みんな俺の部屋に来て一緒に、焼酎を飲んでいた。一著前に、「きょうのしごとはつらかったあ、あとはあ、焼酎をあおるだけえ」と、岡林の山谷ブルースを歌いながら…。
その頃から、俺は何にも出来ないけれど、一緒に悩むことだけは出来るな、と思った。俺みたいなあほでも、健気に生きていれば、誰かの力になることも出来る。
そのことを体で知ってから、俺の自覚的主体的人生が始まった。
それが、六本松。
友が教えてくれた、俺の生き方。
今、自分の顔で、ここにいる。
おーい、おっさんおばさんになった友よ。飲もうよ!
2007.09.03 |
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