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2011年5月30日月曜日

10年前のプレゼン -9 「永遠のフロンティア」


Buenos 10年前のプレゼン -9 「永遠のフロンティア」

Digital Punk 21 in東京大学 2001年1月 MITメディアラボ客員教授 中村伊知哉」の問題提起21点、No.19No.20

8. 産業革命よりルネサンス
・アナログの千年→デジタルの千年
・文字言語→映像ネットワーク=OSのバージョンアップ
現実→バーチャル=永遠のフロンティア

 この連載の初めのころ、さんざIT革命とあおっていたくせに、ネットバブル崩壊で「革命は終わった」などと転ずる論調に反発した、と申しました。過去の革命家たちからすれば、なんともチョロい革命だったのだねと冷やかされそうで。
 つまりIT革命というのは、ITを十年に一つ現れる新規ビジネスの類と見ていたので、ビジネスがポシャれば革命もおしまいという見方なのです。そんなもんじゃないでしょう。
 これに対し、ITは第三次産業革命であるとし、百年に一度のビジネス構造の変化だという考え方もありました。農業から軽工業へ、軽工業から重工業へ、そして重工業から情報産業へというわけです。
 だけどぼくは、これが2000年ごろに本格化した、つまり千年紀に現れた現象であるという偶然にも心を寄せておきたいんですよね。9世紀の作とされるドイツ・ロルシュ修道院のステンドグラスや、11世紀のバイユーのタペストリーにみられるように、1000年前は画像で意思表示し表現していた。15世紀の活版印刷により文字が大衆化された。そして今また映像で大衆が表現を始めた。これは頭のOSを切り替える作業であり、アナログの千年からデジタルの千年への移行期に当たるのではないかと。

 しかも同時に、バーチャル空間という無限の領域を人類は手にしつつある。土地を切り開き、海洋を開拓し、20世紀終盤には宇宙空間に飛び立って行った。だがその限界を悟ったとたん、今度は永遠に開発し続けることができる空間を得たのです。
 現実をいかに再現するか。そのころ日本の企業は、高精細や3Dの技術を追求し、大画面での表示を求め、リアルに表現することに血道を上げていました。が、アメリカの企業は、ネットというバーチャル空間を、まるで西部開拓時代のように、砂金を求めて掘り進めていたのです。その空間は、カリフォルニアにとどまらず、太平洋の、そのまた向こうの、うんとうんと大海原に広がっていることを知りつつ。


9. おとなよりこども
・バーチャルの作法:おとなは千年失敗してきた
・映像ネットワークの様式美:新メディアの表現は新人にしかできない
グーテンベルクの3世紀、ぼくたちの3世紀

 そこでぼくの話は、やはり子どものことに戻ります。これから千年かけてバーチャルの作法を作っていくことになるのですが、アナログのリアル社会の作法を大人がきちんと作れてきたかというと、別にそんなことはなくて、格差も貧困もなくならないし、平和が訪れたわけでもない。フロンティアの設計が今の大人たちにできる保証はないわけです。若い世代、こどもたちがデジタル社会を担います。
 当初テレビは映画屋が作り、ネットはゲーム屋が作りました。でもその後、テレビはテレビオリジナルの人材が育って発展したように、ネットもモバイルもそのジャンルからデビューする新人が担っていくことになります。そろそろ、そうした世代が仕切るようになる、それがプレゼン当時の状況。
 今もときどき話します。グーテンベルクが活版印刷を発明し、宗教革命が起こり、産業革命が起こり、市民革命が起こり、近代が成立するまで3世紀。グーテンベルクらは自らの技術が3世紀後に起きる変化を予想していなかっただろう。ではデジタル革命の最中、ぼくらはこれから3世紀後に何が生じているか想像しているだろうか。それを想像することは、今を生きるぼくたちの特権。
 
 そんな雰囲気で、当時ぼくたちは、デジタルと子どもに関する活動を進めました。95年ベルギーで開催された情報G8の場で日本が提案した「ジュニアサミット」を足がかりに、ぼくは98年に役所を飛び出し、その秋にMITで第二回ジュニアサミットを開催したことが活動の第一歩。
 MIT Okawa Centerというメディアと子どもの研究機関を作るプロジェクトがスタートし、このプレゼンの半年後には「100ドルパソコン」構想を西和彦さんをサポートする形で発表。京阪奈学研都市にCSKの子どもワークショップセンター「CAMP」を開設するかたわら、2002年にはNPOCANVAS」を設立しました。以来、1300件を超えるワークショップを内外で提供し、2010年「デジタル教科書教材協議会」の設立につながっていったわけです。
 でも、まだまだ。デジタルの千年は幕を開けたばかりです。

2011年5月26日木曜日

沖縄国際映画祭「映像クリエイターへの道」


■Pop 沖縄国際映画祭「映像クリエイターへの道」

公開講義「映像クリエイターへの道」。未来のクリエイターたちへのメッセージを送る瀬下寛之さん、仲村颯悟さんとの公開トークです。

瀬下寛之さん。映画、テレビCM、ゲームなどなどさまざまなジャンルのCGVFXの制作・監督に従事してます。ぼくの6歳下。映画「ファイナルファンタジー」のアートディレクター、松本人志「大日本人」「しんぼる」のVFX監督。最近では「ワンピース3D〜麦わらチェイス〜」の絵コンテも担当してるんですよね。

松本人志ファンの瀬下さん。「大日本人」では海原はるか師匠による「しめるのじゅう」とか、板尾さんや原西さんの化け物のCGを全部手がけたという。あれは着ぐるみを元にCG編集したんですか?「いやそうじゃなくて、ぜんぶゼロから作り込んだ架空なんです。」
え、あんなものを元から作り込んだ? ばかばかしい! しかもそれをあろうことかカンヌに持って行ったんですよね。反応は?「これまで観たことのないクリエイティビティを観たって。」そりゃそうです。くだらないものを徹底的に作り込む気合いは日本しかできない。ハリウッドにゃムリ。本気のバカバカしさがニッポンの持ち味。

かたや仲村颯悟さん。1996年生まれの15歳。つまり中学生。2009年にコンペに応募した短編「やぎの散歩」の脚本が13歳のときに選ばれ、自らメガホンを取ってショートフィルムを作ったところ全国から高評価を得る。14歳のときに初の劇場用長編作「やぎの冒険」が20109月に公開、日本映画史上初の中学生監督としてデビュー。作品は全国で上映されています。
沖縄にはヤギを食べる文化があって、ヤギを大切にする風土があります。映画では、それを察したか、ヤギのシロが逃げる。みんなで追いかける。追いかけっこを通じて、食べること、生きることの意味を描く。しっとりとした作風ながら、力強さを感じさせます。堂々たる大器です。
過去の作品も気になる。「ピンポンダッシュ大作戦」。「ポンポン男」。「耳切坊主」。タイトルを聞いただけで、ぼくも瀬下さんも「観たい観たい」!

そんな両名ですが、好対照なんですよね。ゴリゴリのデジタル技術で世界を渡り歩くマルチクリエイターの瀬下さん。沖縄にこだわって地を這うアナログ+リアル作品で勝負する映画監督、仲村さん。
瀬下さんのアイディアの源は、「よむこと、きくこと」。本を読む。ラジオを聞く。音楽を聴く。そんなときに構想が沸いてくるんですと。ふうん、文字と音をインプットして、アウトプットはバーチャルな映像なんですね。
仲村さんが構想する源は? 「風景」。沖縄の風景を眺めているときに着想するそうです。なるほど、歩くこと、見ること、ですね。見て、感じて、映像に転化すると。ふむ、対称的。

瀬下さんはデジタル、仲村さんはアナログ。互いにどう見ます? 瀬下さん「デジタルは道具でしかない。アナログを表現するためにものを作ってるんです。」御意。仲村さん「デジタルやってみたいです。あんなの作りたいです。」じゃぁ今なにが欲しい?「クレーン!」アナログやんけ。
「監督なんて誰でもなれるじゃないですか。」天才・仲村さんはしれっとのたまう。ムリムリムリ。キャメラ手にして撮るだけならできるけど、カントクというのは、キャメラも照明も舞台も衣装も役者さんたちも引き連れて世界を創り上げるリーダー。人間としての魅力が要りますよね。なんてことをぼくが言うのもヘンなので、代わりに、「監督以外になりたいものは?」と問うと、「パン屋」。パン? またアナログなことを。どんなパン?「白い粉がかかってる。」いや、中味は?「すっごいフワフワ。」そうじゃなくて、味は?「味は・・なくてもいい。」このひとやっぱり天才だ。

瀬下さんはどんな作家が好き?「キューブリックと宮崎駿。」それもずいぶん対称的ですね、コンピュータ+宇宙の行き着いた空想を描いた作家と、八百万の土俗の神々を描いた作家とは。「いずれも突き抜けた神秘を追求しているんです。」なるほど、同根なのか。
仲村さんはこれからも沖縄にこだわるの?「しばしこだわり続けたい。」ニューヨークにこだわるウディ・アレンとか、奈良にこだわる河瀬直美さんとかに通じるね。「映画って全然みないからわからないです。大人たちがもっと映画みろって言うんでTSUTAYADVD借りてくるんだけど、つまんなくて。」おおーっ、ぼくも瀬下さんも「見なくていい見なくていい!」
将来どこか行きたいところは?「タイとか。」なるほど、そういう空気感や湿度が大事なのね。

クリエイターは、います。クリエイティビティは、日本にあふれています。こういうかたがたが、世界に表現を発信していきます。
がんばろう。
日本は、こういうかたがたが復興していってくれると信じます。

2011年5月23日月曜日

10年前のプレゼン -8 「映像で考えて映像で表す」


■Buenos 10年前のプレゼン -8 「映像で考えて映像で表す」

Digital Punk 21 in東京大学 2001年1月 MITメディアラボ客員教授 中村伊知哉」の問題提起21点、No.1618

8. 生産より編集
・選んで捨てて合わせて伝えて動かすDJ
Napster/Gnutella:囲い込みロイヤリティ→オープン、フリーコピー前提のモデル

 創造力・表現力というコンテンツを生産する力以上に重要になってくるのが編集力。
 あふれる情報の海から、情報を捨てて、拾い上げて、組み合わせる。それによって自分の表現を作り、相手を揺り動かす。これはDJの仕事。無数の音源の中から曲を選び、組み合わせ、別の音楽を作り、オーディエンスを踊らせる。
 当時、将来なりたいカッコいい仕事のトップに、ゲームクリエイターをおさえてDJがトップについたこともあって。
 この1年後ぼくらはNPO法人CANVASを設立して、子どもの創作ワークショップ活動を始めますが、DJになろうワークショップは初期の目玉シリーズでした。情報の編集をポップミュージックで実践してみる。
 このころNapsterGnutellaなどのP2Pモデルもずいぶん論議になっていました。囲い込みを前提とする著作権ビジネスから、フリーコピーを前提とするモデルへの移行は可能なのか。成功例を作るしかない、というのがお定まりの結論でしたが、十年経って、どうですか。


9. バーチャルよりリアリティー
・映像で考えて映像で表す
リアルという技術は現実に近づけるだけ、超えるにはバーチャル、そのリアリティー

 ここで青い話を一つ。
 ラスコーのネアンデルタール人は文字を持たず、洞窟に絵を遺しました。絵で考え、絵で表すコミュニケーションだったのですね。それから文字ができ、印刷技術が産まれ、レコードや映画やテレビやコンピュータが産まれ、20世紀終盤に来て、映像を作り、映像を保存・蓄積し、映像を世界に発信する手段を人類は得ました。改めて、映像で考えて映像で表す手段を得た。2〜3世代も経てば、言葉で考え文字で表すよりも、映像で考え映像で交信するほうが通常になるのではないですか。
 その際、いま追求されている高精細、立体といった「リアル」という技術は本質的なものなのでしょうか。つきつめてつきつめて行っても、結局、現実の精細度や現実の立体度に接近し、なぞるだけであり、現実を超えることはありません。それなら現実のほうが豊か。それよりも、現実では決して実現できないものを表現する技術、バーチャルにしかできない様式、そのリアリティーを追うのがぼくらの仕事ではないでしょうか。
 なんて話。いや、青い、青い。


10. 増えるよりなくなる
・モーターは埋め込まれ、誰も意識しなくなった
・ウェアラブルとタンジブル
Bits meet Atoms
G140sのメインフレーム  →G270sPC →G32000sのユビキタス

 ゼロックスのマーク・ワイザーが「ユビキタスコンピューティング」を唱えたのが1993年。ぼくはそのコンセプトにかなりハマりました。そうか、コンピュータって、服や家具やクルマや街並みに溶け込んでいって、姿を消す、つまり、「消えてなくなる」ことが進化の目標なのか。自らを消し去ることが進化である。それは美しい。滅びの美。日本的な美しさです。だいいち、「神々が偏在する」というラテン語であるユビキタス。一神教の世界では理解しにくいでしょう。われら「やおよろず」の国民が体現してあげなければいけないのではないですか。
 そこはメディアラボのネグロポンテ所長はさすがギリシャ海運王の跡取り、多神教ギリシャの血を引く。わかっていました。ぼくにこう言いました。「モーターは100年前、産業を支えるツールとして大変な期待を集めていた。だが、クルマにしろビデオカメラにしろ、いろんなマシンに埋め込まれていき、姿を消し、今や誰もモーターの存在を意識しない。モーター音がしたら、つまりモーターが存在感を示したら、モーターの失敗と映る。コンピュータもそうなる。」
 当時はウェアラブルコンピュータブームでもありました。ユビキタスの一概念。服、メガネ、靴、身につけるものにPCを溶け込ませ、ネットと常時接続する。ケータイでいいんじゃね?という話は当時もありました。
 でも、モバイルとウェアラブルは根本的に違います。どう違うか?モバイルは、「いつでも」。ウェアラブルは、「いつも」。その違いです。モバイルは、「いつでも」望むときにオンにする。ウェアラブルは、24時間「いつも」ずーっとつながっている。当時、まだモバイル定額制ってのがなかったですから、この違いは大きかったですね。
 その後モバイルはずんずん進化し、スマートフォンまで行き着きました。一方、ウェアラブルは停滞しています。24時間オンのサービス設計はまだまだ可能性がありますが、ウェアラブルが十年たっても停滞している理由は、ファッション側のデザインにあると思います。ウェアラブルのほうがカッコいい、というデザインをまだ創出できていないから。IT側ががんばっていても展望は開けません。

 このプレゼン当時、ネグロポンテ所長は「Bits meet Atoms」を唱えていました。ビット=情報とアトム=物質とが結合する。バーチャルとリアルが融合するということ。90年代を通じ、それはインターネットという姿で実現しました。リアル空間で行われていること、仕事も暮らしも、学校に行ったり遊んだりすることも、みなバーチャル空間でできるようになりました。AtomからBitへの移行。
 そして当時はその逆運動が起きようとしていました。バーチャル空間がリアル空間に進出しようとしていたのです。それがウェアラブルであり、ユビキタス。すべてのモノがつながって交信し合う環境のイメージを思い描いていた時期でした。
 それはちょうどコンピュータが第3世代に入った時期でもありました。第1世代であるメインフレームは、大勢で1台のコンピュータを使う。30年後の第2世代はパーソナル・コンピュータ。一人一台。そしてその30年後、第3世代のユビキタス。一人が何台ものコンピュータをぶらさげる、ということです。
 どうでしょう。第3世代は定着したでしょうか。

2011年5月19日木曜日

第3回沖縄国際映画祭


■Pop 第3回沖縄国際映画祭

海岸に設営された巨大ステージ。
沖縄小学生映像祭・青春映像祭の文字の下に子どもたちの映像が映し出されています。
ガレッジセール、世界のナベアツ、パンクブーブー、大宮エリーさんがコメント。
3回 沖縄国際映画祭の一コマです。

あれから1年たちました。

この1年の違いは、スリムクラブがスターになっていたこと。

そして、日本が揺れていること。

このステージの直前は、AKB48のチャリティーライブ。海岸が大観衆の歓声で満たされていました。AKB2日前、急遽沖縄入りが決まったんだそうです。そのロジスティックは大変だったでしょう。吉本興業のかたも「地震から2週間での開催は内容が変更に次ぐ変更で、スタッフみな徹夜続きやで」。

それでもこの時期、まだ原発の行方が不安視され、あれこれと自粛ムードがただよう中、あえてチャリティー目的として開催したわけです。
開催に先立って、実行委員長の大崎吉本興業社長は、「人々の顔から多くの笑顔が消えようとしているこのようなときであるからこそ、さらに、「エール,ラフ&ピース(Yell ,Laugh&Peace)」をコンセプトとし、被災地への募金活動をはじめとしたチャリティーのほか、被災地から遠く離れた沖縄の地から被災者 のみなさまのもとへ、地元沖縄のみなさまや国内外の出演者・関係者からの数多くの「心のつながり」と「エール」をお届けすることを趣旨と致します。」と発表。

これに対し、溝畑宏観光庁長官も東北地方太平洋沖地震被災地への支援を目的として「第3回沖縄国際映画祭」の開催を英断されたことについて、心からの敬意と感謝を申しあげます」とメッセージを送ってきました。溝畑長官はぼくの小学校の同級生ですが、やたらリスクを取る人ですな。

ぼくがスーパバイザーを務めた昨年と同様、愉快なイベントが並んでいますが、思い通りにいかなかったこともあるらしい。例えば今回はもっと国際色豊かにしたかった。しかし、海外の側に日本との仕事を自粛するムードがあったんだそうです。ならばこちらから海外へ情報発信しよう。という思いがスタッフに満ちたそうです。

チャリティー+海外発信。
いいイベントです。

昨年、ぼくの役割はお笑い映像を各国から集めるWorld Wide Laughの審査でしたが、今年は
公開講義「映像クリエイターへの道」のファシリテート。未来のクリエイターたちへのメッセージを送る瀬下寛之さん、仲村颯悟さんとの公開トーク。
トータルテンボス、ブラマヨ小杉さん、フットボールアワー岩尾さん、楽しんごさんのステージのあとに登壇しました。Ust配信も行いました。
その話は、次回。

2011年5月17日火曜日

非日常と寄り添ってみる

Buenos 非日常と寄り添ってみる
 田んぼのあぜ道を、白いヘルメットにジャージ姿の子どもたちが歓声を上げて、自転車で駆け抜けていきます。学校の帰り道。帰る家があるんだな。うららかな晴天の相馬。地震から2ヶ月が経ち、すっかり日常を取り戻したのでしょうか。

 いえ、そのすぐ脇の建物に、「遺体安置所」と急ごしらえで作られた看板。生々しい記憶と、耐乏生活がたちこめる、この一帯はまだ有事のさなか。 
 もう一歩、海に近づけば歴然です。

  
沼になってしまった地に半分沈んだ漁船。
ひっくり返って腹をみせている大型船。
横倒しで水に浸かったワゴン車。
柱だけを残して陸に立つ漁民の家。
あとかたもない浜辺。
かすかに壁が残るため、かつて村だったとわかる地帯。
暴力。暴力。暴力。
がれきに鳶が群がっている。
やつら、何を求めているのだろう。
見渡す限りの田に水が張ってある、その水はみな海水だ。
それを平穏に見下ろす高台の住宅地。

昨日、民主党の衆参議員15名とともに、福島と宮城の被災地を訪れました。「関東大震災では流言飛語から虐殺まで起こったが、阪神淡路も今回もそういうことがなかったのは、メディアの発達と情報の流通によるのではないか。」「だが海外への情報伝達よりも国内での共有が遅いのは問題だ。」「危機を乗り切るのに重要なのは教育だ、集団生活を身につけさせる必要がある。」
直前までバスの中で賑やかに議論していた議員たちも、凄惨な現場に立ち入ると、言葉も失い、呼吸の音すらしません。
2ヶ月経っても、前が見えません。


 これを、この見渡す限りの光景を、復旧するのだろうか。覆水を盆に返すのだろうか。圧倒的な光景を前に、その気力は湧くのか。国にとっての投資価値を、経済面でも、社会維持の面でも必須だと、この国会議員たちは評価するのだろうか。地元住民、避難民たちは、この非日常を生き抜いていく決意なのだろうか。
しばし立ち止まるのみの人もいるだろう。土地を変えても旧来のように互いに寄り添いたい人もいるだろう。現実から逃避したい人もいるだろう。

ぼくの目の前には、とうに吹っ切れた風情で、被害状況を淡々と語る地元の人。「×印の書かれた車の中には遺体があったということです」と淡々と語る地元の人。
被災地の復旧が短期マターで、全国の復興が長期マターと考えられているところ、実は、被災地復旧のほうが覚悟に長期を要するのかもしれません。
ぼくは日本全体の復興や建設には興味がありますが、被災地対策や復旧策には強い意見はありません。それは極めて地元マターだと考えるからです。そして改めて、この地の人々が現役と子々孫々に向く覚悟に委ねるほかあるまいと佇むのです。


 大都会、仙台も同じ。
信号が灯らずおまわりさんが交通整理をしている。
道路脇にはセダンや軽トラが折り重なり、ビルのガラスは全壊したままだ。
同じ地域なのに、やられている建物もあれば、壊滅したビルもある。
閉店したボウリング場、営業中のラーメン屋、閉店したカローラ販売店、開いているびっくりドンキー、閉店したダイソー、賑やかなパチンコ屋。
そのまだら模様は、どうして起きたのだろう。建物の質なのか、立地の運・不運なのか。
まだら模様の中で営まれている、日常。
ぼくからみれば非日常だが、これが今ここでの日常。
そこから、より日常に向かっていく、のでありましょう。

 

 だが、津波に飲まれた地帯では、そんな模様はない。
土色で一色。
破壊。破壊。破壊。
がれき置き場には、車、金属、家電、と区分された空間に、原型をとどめない車、金属、家電の断片が丘を作っている。
木材や壁土などの大量のがれきは小山を築き、いく台ものクレーンやショベルカーが上に登ってせっせと作業をしているが、どうにも仕事が減りそうにない。
海辺で2本の筒が天にそびえる下水処理場も、波に破壊されて仁王立ちのまま息を引き取っており、修理には数千億円が要るという。

降り立ってみる。
リアルタイムのNHKで見た、波が田畑を、車を、家々を瞬く間に飲み込んでいった津波。
いま目の前で起きているすさまじい事実に深く触れず、騒がず、冷静なナレーションで引きのアングルから見つめたあの映像。

降り立ってみる。
360°、みたことのない、非日常。
ここも、ここから、より日常に向かっていくのでありましょうか。

眺めていても、何も思い浮かびません。
マスクを取り、ニオイをかいでみました。
思い切り、かいでみました。かいだことのないニオイがしました。
でも、何も思い浮かびませんでした。

2011年5月16日月曜日

10年前のプレゼン -7 「パンクはまだ来ない」


■Buenos 10年前のプレゼン -7 「パンクはまだ来ない」

Digital Punk 21 in東京大学 2001年1月 MITメディアラボ客員教授 中村伊知哉」の問題提起21点、No.14No.15

8. 国際化より土着
少年ナイフ、HANA-BI

 渡米してつくづく骨身にしみたのは、日本政府で上げた業績など何ら価値がないということ。どんな法律を作り、どんなプロジェクトを立ち上げ、どんな社会形成に寄与したか。なんてことはアメリカから見れば地球の片田舎の壁新聞ぐらいの値打ちしかない。
 だけど、そんな連中も、「少年ナイフ」やってましたとつぶやいた瞬間に表情も態度もガラリと変わる。晩飯テーブルの入口近くに座っていたのが主賓席に移れと言われるぐらい常にインパクトがありました。世界で認められるコンテンツを出すことの値打ち。
 だけど、その少年ナイフの国際性というのは、実に日本土着のものだとぼくは思うのです。戦後、海外から入ってきた洋楽を日本が吸収し、日本なりの調理法を確立し、日本なりの洋楽を作った。少年ナイフは、ヘビメタやグラムを経て、煮詰まった世界のロックシーン、パンクやニューウェーブが巻き起こる中で、日本から最もシンプルな形で、「音楽ってこれでええんちゃう?」という回答を日本テイストで示したのだろうと思います。

 そういう話は当時、映画でもありました。97年のカンヌで今村昇平「うなぎ」がパルムドールを、河瀬直美「萌の朱雀」がカメラドールを獲得。98年ベネチアでは北野武が「HANA-BI」でグランプリ。これらはいずれも日本の土着を描いた作品で、エキゾティシズムでもオリエンタリズムでもなく、等身大のアジアが欧州に評価されたのでした。とことんローカルなものこそが国際性を持つ。世界が平板になった。その証明。
 極めつけの「千と千尋の神隠し」がベルリンでグランプリを取るのは2002年。キル・ビルやラストサムライが日本テイストをハリウッドから世界発信するのはさらにその翌年。だけどその胎動はこの講演の時期にもう沸き立っていました。


9. 道路より広場
・小澤征爾、ピカソ
印象派、ヌーベルバーグ、パンクはまだ来ない

 日本として、どういう環境を用意すべきなのか。エリック・レイモンドが既に「伽藍とバザール」で喝破していたとおり、「場」でありましょう。インターネットはクリントン-ゴア政権が情報ハイウェイと唱えたため、道路のイメージが強かったのですが、この講演のころにはすっかり広場になっていました。
 しかも、教会のように、お偉方が民衆に教義をたれる放送型の集会ではなく、みなが自分のアイディアや商品を持ち寄ってつながるバザールのようなコミュニティです。そのコミュニティ力がこれからの社会を制する。今では小学校の教科書にも載りそうな常識ですが、当時はまだそうした見方は少数でした。
 そのような折り、ボストンの地方紙が「ボストンを代表する人物」というアンケートを取りました。1位が小澤征爾さん。ボストンを代表する外国人、ではありません。全ボストニアンの中で、外人である小澤さんがトップ票。東京にしろ横浜にしろ大阪にしろ、その街を代表する人物として外国人が上位に食い込むことは日本ではまぁありますまい。
 だけど、100年前のパリの文化をスペイン人たるピカソやロシア人たるシャガールが作ったように、オープンさはコミュニティの価値を決定します。そうしたオープンさは、リアルな街だけでなく、オンラインのコミュニティも同様。そういう場をプロデュースできるかどうかが問われるわけです。

 ところで、絵画でいう印象派、ファッションでいうココ・シャネル、映画でいうヌーベルバーグ、音楽でいうパンクロック。こうした「表現の転覆運動」は、まだデジタルでは起こってはいない。転覆運動はおおむね、表現様式が確立し、動きが澱んだところで発生する。
 インターネットが普及したが、連続的な表現変革の爆発が起きるのはまだこれから。それは、映画やテレビやゲームといった既存のジャンルで食えなくなった人たちが流れてきている現状では起こることはなく、デビューからいきなりネットやモバイルという新メディアで勝負する新世代が起こすことなのです。そろそろ起きるんじゃないでしょうか。

 これが当時のプレゼン。そして、その後、起きましたね。GoogleYouTubeFacebook、日本ではニコ動やmixiや魔法のiらんど。それらの上でネットメディアにしかできない表現が花開いてきました。かつてのような、天才アーティストがガツンとくる作品を打ち出すというよりも、大勢の連結したひとたちがコミュニティやコミュニケーションを奏でるという形で。
 天才の力量は、コンテンツの面よりも、アプリケーションやプラットフォームなどのツール面に強く発揮されています。しばらくこの基調が続くでしょう。一人の天才がガツンと行くのはアナログでリアルの得意技。多数による参加とコピー・流通推奨というデジタルの特性を最も活かす方向でシステムが開発されていき、その上でのコミュニケーションが新しい表現や文化を紡ぎ出していく。

2011年5月12日木曜日

がばいiPadワークショップ

■Kids がばいiPadワークショップ
長崎空港から山道をレンタカーで1時間弱。美しい山並みを望む人里に、武雄市立山内東小学校はあります。
iPadでゲームを使った音楽ワークショップ。クリエイターの季里さんが授業を行うので見学に来ました。
22人の5年生が3班に分かれて、ゲームで楽しく合奏。音楽を体験します。

季里さん「ピアノやバイオリンなど、音楽を習う子が都市・いなかを問わず減っている。でも、ゲームはやってる。ゲームで楽しく音楽を楽しむことはできないか、と考えたんです。しかも、ゲームは集まって遊んでもバラバラにプレイしたりしている。音楽の一番の楽しさは一緒に奏でること。これをやってみようと。」

テーマ曲はドボルザーク「新世界より」。ぼくが中学生のころ掃除のテーマ曲でした。これを聴くと掃除したくなります。
まずカラヤンの演奏を映像で見て、ドボルザーク、ボヘミアの地理、アメリカ音楽、オーケストラの構成といったことを学んでから、この授業のために開発されたiPadゲームの操作に移るのですが、目の前にある一人一台のiPadをさわりたくて子どもたちはウズウズしています。授業の模様はUstで中継され、RKBのテレビ取材もありました。でも生徒たちはぜんぜん気にしていない様子。

ゲームは、曲に合わせて楽器のパートをリズムタッチしていくものです。弦楽器、金管、木管、パーカッション、7種のパートから自分の担当を選ぶ。曲が流れると、自分の楽器のパート部分に合わせて、青、赤、オレンジの四角いボタンが現れる。それを指でタッチしてクリアしていく。太鼓の達人の要領です。その総得点を3チームで競うのです。

子どもたちは、先生が「こんなに集中するか!」と言うぐらい真剣。休み時間もみんな休まず練習を重ねています。そしていよいよチームごとに演奏。というかタップ合戦。みんなとっても上手にできました。他チームのプレイを見聞きしている子も、タップしてリズムを取ったり、口ずさんだりしています。能動的に参加することで、聴き方が変わるんですね。季里さん「これが通常の授業の中で普通に使えるかが問題なんですけど。」

終了後、このゲームを作ったゲームクリエイターたち、プログラマーや音楽プロデューサなどが「ゲームの作り方」をレクチャー。この授業はここが肝心なところ。真剣に練習し、プレイしたゲームがどうやって作られたのか。これも子どもたちは興味津々。そして、パラッパラッパーやたまごっちゲームがどうやって作られたか。季里さんの「ゲームをプレイするだけじゃなく、絵でも形でも音でも、作って、作って、作ってね。」というメッセージは確実に響いたことでしょう。次の授業は創作系をやりたいですね。「コンピュータと英語が大事になります。勉強してね。」とも。

さて、この授業を推進したのが樋渡啓祐武雄市長。全国最年少(当時)で市長になり、市役所に「がばいばあちゃん課」を作って「佐賀のがばいばあちゃん」のロケ誘致をしたり、「日本ツイッター学会」の会長に就き、市職員全員にツイッターのアカウントを割り振って情報発信させたりするパンクなひとです。久しぶりにお話ししました。「今度Facebook課も作る」とのこと。嵐を巻き起こしてください。

2011年5月9日月曜日

10年前のプレゼン -6 「ボクシングとプロゴルフ」


■Buenos 10年前のプレゼン -6 「ボクシングとプロゴルフ」

Digital Punk 21 in東京大学 2001年1月 MITメディアラボ客員教授 中村伊知哉」の問題提起21点、No.12No.13

12. クリエイターよりオーディエンス
・プロの育成より利用者の訓練
ペヤング、カメックス、シーマン、通天閣

 プロよりしろうとという観点から、人材育成策についても、政府が進めるプロの育成ばかりでなく、オーディエンス、利用者のリテラシー向上を進めるべきとの議論です。
 高度なクリエイターやプロデューサの育成は今も重要課題であり、産業政策として推し進めるべきもの。しかし、日本の本当の強み、ポップカルチャーの原動力は、一億人の審美眼であり、誰でもピカソ力。だれもがマンガを描けてだれもがたて笛を吹ける図画工作音楽力、創造力、表現力にあり、これを長期的に維持・向上させることが戦略。
 これは渡米してメディアラボで子どもとデジタルに関する研究所を作るプロジェクトを始めた基本的視点なので、当時は繰り返し話していました。

 ペヤングについて。役所で省庁再編を担当していたころ。ペヤングがどういう意味か気になって仕方なくなり、ネットで調べたのですが、当時はまだペヤングは検索に引っかからず。すると部下の係長がすぐさま調べ、「ペヤングはペア・ヤングの略で、若者がペアで食べる想定で開発された まるか食品のブランド」との回答を得ました。彼がペヤングの発売元、まるか食品株式会社にPHSで電話をしたところ、受付嬢がよどみなく答えたというもの。
 驚きました。中央省庁の名をかたる怪しい昼休みの電話にたちどころに応対できるコミュニケーション力。欧米では昼休みは電話に出ないか、厄介な質問はどこかに回されて切れてしまうかということが茶飯事で。この、庶民の力量がきっと日本を支えています。電話できちんと用事が済むのでネットの普及が遅れた、という面も否めないのですが。
 なお、この電話をかけた係長は2009年の衆議院選挙で民主党から当選、情報通信議員連盟を旗揚げし、その事務局長に就任しています。

 カメックス、シーマン、通天閣。
 これも何かのネタだったはずですが、すみません、何だったか思い出せません。


13. 支援より抑圧
・米の産業覇権、仏の文化保護、中国欧州米国を追うモデルの日本
・ボクシングとプロゴルフ
Qちゃん

 引き続きコンテンツ政策。
 国は、どっちなのか。そろそろハッキリしようよ。という問題提起。
 かつてぼくがパリでスパイのようなことをしていた93-95年時、ガット・ウルグアイラウンドで、アメリカがヨーロッパの映画の市場開放を求め、フランスと激突しました。アメリカは映画を「産業」とみて攻め立てたのですが、フランスは映画を「文化」だとして防戦に出たわけです。これに対し日本政府の対応方針を東京に打電したところ、「担当省庁なし」という答えが返ってきてずっこけました。コンテンツ政策に望む基本的な思想がないんですよね。
 日本はずっと外国を追ってきました。遣隋使や遣唐使をよこし、南蛮文化を取り入れ、鎖国を経てまたも欧州の先進国に学んで維新を断行、戦後はアメリカを追い、そしてバブル後の失われた十年では、追うべきモデルを失って立ちすくんでいる。そう見えました。コンテンツ政策のような国の形を問う領域では、そういう軸の在りかが露骨に表れます。

 コンテンツ産業を育てると言っても、どういうものを相手にするのかも考えがバラバラ。ボクシングのように、身を削り、鬼気迫る鍛錬の中で、チャンピオンになった者だけがフェラーリに乗るがあとはバイト暮らし、の世界を作り上げるのか。あるいは、試合では全くみかけないんだけどサラリーマン相手にレッスンすればそこそこみんな機嫌良く食えるプロゴルフの世界を作り上げるのか(ゴルフの世界は当時とすっかり状況が変わったようですが)。
 パンクの生き残りとして、業界支援策の中から決してパンクは産まれなかったことはわかります。階級があり、抑圧があり、不満があるからこそ産まれる文化を政策として扱えるのか。ポップカルチャーと政策との折り合いの悪さをどう手なずけるのか。当時から今なお問い続けるぼくのテーマです。

 さて、Qちゃん。この講演の前年、シドニー五輪。NBCは録画中継ばかりだったので、ボストンでは女子マラソンの生中継を見られません。そこで日本の知人に電話をかけ、テレビの前に受話器を置いてもらって実況を聞きました。国際電話でテレビ音声を聞くと、とぎれとぎれに聞こえました。
 するとどうでしょう。異様に興奮したのです。大事なことを、とぎれとぎれに聞くと、とても興奮する。ことを学びました。1936年ベルリン五輪の前畑がんばれ中継は、多くの日本人が鉱石ラジオでとぎれとぎれで聞いたといいます。興奮したことでしょう。
 ラジオ、テレビ、ネット、モバイル、ファイバー、衛星。技術は進んでも、コンテンツと人の関わりやリアリティーの部分は何も変わっていない。コンテンツ政策は、このあたりから始める必要がある。という一節。
 このときには、NBCの囲い込みビジネスモデルの失敗、96年アトランタ五輪から進歩していないテレビとデジタル化の関係なども話しましたが、十年たってもテレビと五輪の関係は基本的には変わっていませんね。「五輪のリアルタイムネット中継を実現する政策を述べよ」は毎年ぼくが学生に出す宿題のままです。
 ところでこの4年後、アテネ五輪で野口みずきさんが金メダルを取った際、高橋尚子さんは、「コロラドで合宿中だったので、日本に電話かけて国際電話で中継を聞いた」とコメントしました。ぼくと全く同じことをなさってるじゃないですか。ずいぶん興奮されたことでしょう。

2011年5月6日金曜日

リアルプロジェクトとは

■Buenos  リアルプロジェクトとは

KMD学生向けに「リアルプロジェクト」に関するメッセージを書いておきます。
今年は震災のせいで授業スケジュールが変わり、こういうことを話す場がない(その責任はぼくとKMDにある。申し訳ない。)ので、ここに残しておきます。

・どのRP(リアルプロジェクト)を選ぶかで2年間が決まります。2年終わるころまだRPが立ち上がらずアタフタする学生がいるが、そういうRPを選んだキミが悪い。
・大学院というのは世の中がどういう方向に行くかを感じ取る場でもある。眼力を養うのがスキルより大事。そのスタート時で本気じゃないと、2年たってもゼロ成果となる。
(事例:MITのビジネススクール、eビジネスコースにいた連中が10年前のネットバブル崩壊後みな分散し、金融とかコンサルとかのコースに逃げたが、たぶん活躍できていまい。これからeか金かコかの見極めもしようとせずスキル磨いてもダメなんだよ。)

・RPの条件は2つ。プロジェクト=作ることが第一条件。リアル=スポンサーがいることが第二条件。
・RP第一条件。DもTもMもPも、作る。調査・分析・ウォッチは、ぼくらのプロジェクトではない。よそでやるといい。
・RP第二条件。スポンサーがいること、企業であれ政府であれ何であれ、そのプロジェクトに賛同し協働することを組織決定した社会的存在があること。

・RPを立ち上げるには外部の機関決定という高いハードルがあり、学生がそう簡単にできるものではありません。それができるくらいならたいていとうに就職できています。
・RPを立ち上げるのは教授の義務であり、責任です。通常、教授が企画し説得し調整し、それでやっと始まるものです。
・RPは担当教授がスポンサーに対し全責任を負います。学生は負いません。RPは学生が教授にプレゼンするものではなく、教授がスポンサーにプレゼンするものです。
・RPを選ぶというのは、「どの教授が」「どのスポンサーと」「何に取り組んでいるか」、この3点を見極めることです。

・RPの評価はスポンサーだけができます。リスクを取って機関決定しているからです。他の教員には評価権はありません。リスクを取っていませんから。
・ぼくはA教授やB教授のプロジェクトにリスクを負っていません。そのプロジェクトだめじゃんというツッコミはいくらでもできますが、そのツッコミは無意味です。
・ツッコミに意味があるのは、そのプロジェクトにリスクを負って機関決定している組織ないし個人だけです。担当教授は、そこに耳を傾ける義務があります。
(事例:MITメディアラボのスポンサー会議は真剣そのもので、それは大金を払っているスポンサーが教授陣の業績を叩く場だからです。学生が発表していても責任は教授にあり、スポンサーの意向で教授がクビになることもあります。)
(事例:KMDのクラスター会議のような内輪向けの場はメディアラボにはありませんでした。だって学生の評価は担当教授が行うものだし、プロジェクトの評価はスポンサーが行うものだからです。)

・KMD学生の発表にぼくがいつも「スポンサーはどこでどういう評価だ」としか聞かないのはそういうわけです。
・スポンサーへの説明責任を認識していないプロジェクトはリアルではなく、内輪のお遊びです。
・ぼくのプロジェクトの学生が発表するものを他の教授が○×つけるというのは、ぼくに対する評価であり、たとえ○つけられてもうれしくないし×つけられてもso what?です。
・たとえばスポンサーたちがぼくのチームと共同でA技術を採択して進めているものをぼく以外のKMDがB技術を推奨した場合、so what?です。スポンサーたちは社運をかけ世界情勢を見極めつつ判断しカネと人材を出しているの対しKMDは何も出さないからです。
・ぼくの学生がぼくの代理で発表している案件に対し他の教員から批判が出たら、答える責任はスポンサーを代弁すべきぼくにあります。
・学生諸君は授業料払ってリスク取ってるから、発言権があります。教授陣にはありません。ここは明確にしておくべき。
(事例:MITメディアラボの学生はみな授業料免除で逆に給料をもらってるから発言権がない。)
・KMDの会議で学生がRPについて発表し教授が評価するような場があるけど、あれはあくまで「教育」の場(プレゼンのお稽古と言ってもいい)であり、RPの評価の場ではありません。

・いやスポンサーでなくても「学会」が評価してくれる、という反論がありますが、一般のアカデミックな大学院ならそれをゴールにしてもいいでしょうけど、KMDは違います。
・リアルプロジェクトを学会が評価できないのは、学会はそれに対しリスクを負っていないからです。
(事例:MITでさえ、学内でウケてるものを外に持ち出しても歯が立ちませんでしたよ。ウケるのはシーグラフみたいな学会ばかりで。当時、日本メーカはけんもほろろ。だって、世界企業は、世界で闘ってますから。)
・ぼくは学会は大事だと思わないが、学会が大事だと思うなら、自分で学会を作る。それがKMDのスピリットだとぼくは思います。

・以上の見解はぼくの個人意見であり、多くのKMD関係者が違う意見である(のではなかろうかと思う)ことを申し添えます。

2011年5月5日木曜日

ポリシープロジェクト3


■Buenos ポリシープロジェクト3

ポリプロの3つめ。
 
3. ポップパワー
 日本のポップカルチャーの生産基盤を整備するとともに、海外展開を推進する。ポップカルチャー関係者のコミュニティ「JAPA」(日本ポップカルチャー委員会)を核としつつ、音楽業界、出版社、プロダクションなどと個別にプロジェクトを企画・運営。内閣官房知財本部、総務省、文部科学省、経済産業省などとも連絡調整。

  具体的活動
 ・「JAPA」(日本ポップカルチャー委員会)の組織改変に向け調整中
 ・「クールジャパンコンソーシアム」形成に向け経済産業省ほか関係者と協議中
 ・音楽業界によるJ-Pop情報の海外発信プロジェクト「Sync Music Japan」で
  学生がフランスのTV向け番組を制作中
 ・音楽で東京を元気にするプロジェクト「TOKYO TOMORROW」で
  ライブの企画実施+配信を学生が準備中
 ・Mr.Childrenでおなじみ、『ap bank fes』を共同主催。
 ・講談社との共同研究「グッドモーニング・フランス」(モー仏。)にて
  週刊モーニングを欧州向けスマートフォン配信の準備中
 ・吉本興業と「パパパーク」ワークショップを企画中

参考 
 JAPA(日本ポップカルチャー委員会)
   世話役  中村伊知哉
   http://www.ppp.am/japa_member.html
 NPO法人 TOKYO TOMORROW
   副理事長 菊池尚人(KMD准教授) 監事 猪野聰之輔(KMD研究員)
    http://www.tokyo-tomorrow.jp/

  Sync Music Japan
   http://www.myspace.com/syncmusicjapan
  パパパーク(PaPaPARK!
   http://papapark.jp/papapark.html

2011年5月2日月曜日

10年前のプレゼン -5 「プロと恋人」


■Buenos 10年前のプレゼン -5 「プロと恋人」
 「Digital Punk 21 in東京大学 2001年1月 MITメディアラボ客員教授 中村伊知哉」の問題提起21点、No.10No.11

10. プロよりしろうと
プロと恋人、ケータイとCD/マンガ

 これは21のプレゼンでいちばん力を入れたスライドです。
 デジタル化の最大の意義は、高速大容量性でも高精細でも効率化でもなく、誰もが情報を生産・発信できるようになる「情報民主化」だと考えていました。そしてそれはアメリカより日本がかなり先行している。女子高生がケータイでメールし、男の子たちが2ちゃんねるで悪さをしでかしている。
 この年の年末にTIME誌パーソンオブザイヤーのネット投票で2ちゃんねらーの大量投票により、田代まさし氏がオサマビンラディン氏を抑え1位を獲得しました。ネットで連結した連中の発信力がエスタブリッシュなメディア・パワーを圧倒する。その波は東洋から。
 アメリカがその意味を理解するのはさらに5年後の2006年末、同誌パーソンオブザイヤーを「YOU」と表記しWeb2.0を持ち上げるまで待たなければなりませんでした。テクノラティが、ブログで使用されている言語を世界総計すると日本語37%、英語33%という衝撃的なデータを公表したのは2007年春のことです。

 このころ、コンテンツ業界は既に苦しんでいました。CDが売れず、マンガが売れない。パッケージメディアが収縮する。その一方で、若者のこづかいはケータイへと流れる。コンテンツ業界から通信業界への怨嗟が聞かれました。
 でも待ってよ。筋違いじゃない?ぼくはこれは、プロの表現がしろうとに負けてると思ったのです。彼ら彼女たちにとって、ミュージシャンの楽曲より、恋人のささやく声や、友だちの悩みメールのほうがおかねを払う値打ちがあったのです。つまり、キラーコンテンツは、身近な人とのコミュニケーションなのですよ。プロもアマも恋人も友だちも、デジタルではフラットで、若いユーザはいち早くその環境に対応してしまっているのです。
 
 当時やっと成立したコンテンツという概念ですが、もう既に、コンテンツとコミュニケーションとコミュニティの3者関係が交錯していて、新しいスキームに移りそうだなぁと思っていました。でも、うまく説明できませんでした。
 政府は「プロのコンテンツ振興」に力を入れようとしていましたが、ぼくは「全国民の情報生産・発信力の向上」政策に転換すべし!と唱え、だけど聞き入れてはもらえなかったので、子どもの創造力・表現力を向上させるNPOCANVAS」を自分で立ち上げたり、$100パソコン構想をMITに働きかけたりすることになります。
 今になって思えば、「コンテンツエコノミー」から「ソーシャルエコノミー」へ、ってやつで、コミュニケーションやコミュニティを軸にしてコンテンツを消費するというか、コンテンツを軸にしてコミュニケーションやコミュニティを活性化するというか、まぁそういう十年後のモデルがきちんと見えていれば、今ごろぼくもIPOでフロリダに引退なのでしょうが。


11. タダより有料
・絵の具は高いが絵はタダ
 ・20世紀の産業行政 成長産業にしろ →21世紀の利用行政 タダにしろ

 ここからコンテンツについて。
 ネットワークの整備とコンピュータの普及を背景として、政府はこのころコンテンツ政策に力を入れ始めます。この年、2001年には文化芸術振興基本法、2004年にはコンテンツ産業振興基本法が議員立法で策定されるなど、コンテンツ産業を後押しする施策が講じられていきました。
 ただし、コンテンツ産業は成長が期待されながら、実のところ一貫して日陰者扱いでした。メーカや通信会社にはお金が流れ込むのですが、なかなかコンテンツには回らない。ソフトはハードのしもべ。当時も、コンピュータやOS・アプリケーションソフトといったツールは潤っているのにそれを使って生まれる作品が利益を上げるのは難しいという構図でした。
 その後ぼくは、10年間のコンテンツ産業の市場規模は5.8%成長しかみせていないのに、ツールの市場は22.0%増、コンテンツの量は20.9倍になっているというペーパーを書きましたが、そのバランスを長期的にどうすればよいのか、ここではその問題提起どまりです。

 なお、ぼくは91年には政府でコンテンツ政策の柱を作ろうと動いていたので、コンテンツに注目が集まるのはうれしかったものの、伝統芸能や競争力のないアナログ分野もごっちゃにして「産業政策」に乗せるのは不適当だと考えていました。
 産業の成長はもちろん重要な政策テーマですが、それと文化政策や利用政策とが優先順位のないままに混在することで、目指すべき方向がブレて、施策も混乱するからです。
 ここでは、産業の成長を目指す以上に、コンテンツを利用する側の効用を最大にする道を採れとしています。産業振興偏重ではなく利用重視に切り換える。これは著作権論議や現在のソーシャルビジネスにもつながることだと思います。