ウリとナム
「ウリ」は、日本語では「我々」と翻訳されており、少しでも韓国のことを知っている人には耳慣れた言葉です。対する「ナム」の方はあまり見聞きすることはありませんが、「ウリ」の対義語と理解していれば良いかと思います。
私も、韓国について一通りの知識を仕入れておりますので、この「ウリ」と「ナム」についての概略は、かなり早い段階から、一応知ってはおりました。しかし、最近これについて、私は大きな勘違いをしていたことに気づきました。
韓国人の長所としてあげられるものに「人懐っこい」という点があります。個人的には、彼らの「人懐っこさ」は「馴れ馴れしさ」と感じることが多いので、単純に長所として数えて良いものかどうかに若干の疑問があります。が、それはそれとして、彼らは一度「ウリ」と認定すれば、まるで10年来の知己のごとく振舞うことは事実です。
この「ウリ」に対してですが、私は無意識に「遠近」あるいは「濃淡」があると考えていました。つまり「近いウリ」「濃いウリ」と、「遠いウリ」「薄いウリ」というのがあるのだろうと、無意識のうちに理解していました。
例えば、実際に付き合いのある韓国人の友人と、日韓チャットで知り合っただけの日本人とであれば、いくら同じ「ウリ」として接するにしても、当然に前者の方が「濃いウリ」だと思っていました。
しかし最近は「もしかしてこの考え方は、日本人的な解釈だったのではないだろうか」ということに気づきました。
昔、裴勇俊のオフィシャルサイトで、ファンを「家族」と呼んでいるのを見たことがあります。日本人的な感覚では、赤の他人とはっきり理解している相手から「家族」と呼ばれることに対しては、たとえ好意を抱いている相手からであっても、かなり強い違和感を抱くと思います。
ましてや韓国人の裴が日本人のファンに向かって、よくもまあ抜け抜けと「家族」などと呼べるものだなあと、妙に感心したのを覚えています。
で、そんなことはほとんど忘れかけていたのですが、最近になって日韓チャットで「身内」と入力したところ、「家族」と翻訳されていることに気づきました。それを見た瞬間、裴がファンを「家族」と呼んでいたことを思い出し、「あ、そうか、裴はファンに対して、「身内」の意味で「家族」って言ってたんだな」と気づきました。
日本人的感覚では「身内」は、必ずしも「家族」とは限りません。赤の他人同士であっても、例えば同じ会社や同じクラブのメンバーなどに対してならば、「身内」という呼称を用いることがあります。ですから、裴が自らのファンクラブのメンバーを「身内」と呼ぶのであれば、日本人的にもそれほど違和感はありません。
なるほどなるほど、つまり韓国では「身内」と「家族」は同じ意味なのだなと、納得してから、ふと思いました。
日本では、「家族」と「身内」であれば、「家族」の方がより近くより濃い関係にあたります。「家族」と呼ぶ対象全てを「身内」と呼ぶことは出来ても、「身内」と呼ぶ対象全てを「家族」と呼ぶことは出来ません。だから違う言葉で区別しているわけです。しかし韓国では、この言葉がどちらからも行き来出来るようです。
これはどういうことかと言うと、私が無意識に理解していたような「濃いウリ」や「薄いウリ」、「近いウリ」や「遠いウリ」などというものが無いということです。
つまり「ウリ」と言えば濃いも薄いもなく一色の「ウリ」でしかありません。語弊があるかもしれませんが、コンピュータの「1」と「0」のようなもの、と言えば近いかもしれません。韓国人にとって「ウリ」と言えば「1」であり、「ナム」と言えば「0」で、その中間など無いのではないかということに気づきました。
そう考えると、彼らがたちまち親密になるくせに、一瞬で裏切る理由も理解できます。日本人の場合、対人関係とは積み重ねなのですが、彼らの場合は単に「1」と「0」を切り替えるだけなのです。
韓国や韓国人についてある程度知っているつもりでも、実は日本人的に解釈している部分というのはあるものだなあと痛感した「ウリ」と「ナム」でした。
※お知らせ※ |
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コメント
ガクブルものですが、いつもながら流石の、目から鱗が落ちる解析ですね
極端から極端にはしる、「ほどほど」ができないミンジョクだとは思っていましたが・・・。なるほど。
しまいにゃ、「人間関係すらデジタル化した我々こそ、最先端の人類ニダ!」と勘違いするのではないでしょうか?w
そして2進法や電子計算機の起源を主張!(笑)
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朝鮮人が自分勝手で相手への配慮が欠ける(ように見える)のも、これが根本にあるんですね。
内か外かの二元論。
自分から見て「ウリ」に認定したなら、相手から見ても同じ範囲内にいる「ウリ」であって当然だから、相手の気持ちを慮る必要などない、と。
(ええ、ここんとこ小難しいレスばっかつけてたので、たまにはちょっとちゃかしてみたら、みなさん真面目なので反省ですよ・・・^^;)
韓国の家庭では、よくいう「親が子供の気持ちを分かってくれない!」みたいな葛藤ってないんですかね?
皆が同じ気持ち、同じ考えなのが当然で正しい姿だと?
・・・あ、あ、!!
そう考えると、ここには書ききれないほどの彼らの謎な行動が氷解します。
なぜ「会話」ができないのか(同意を求めるだけ)、なぜ「考え」ないのか(正解を覚えるだけ)、なぜ反論するとキレるのか、なぜ統一に夢を持つのか・・・有か無か、 yes か no か!!
このエントリーだけで、良質な本を1冊読んだような感じです。
「韓国理解の基礎知識-本当の意味での-」って、シリーズですねえ。ありがたいw
なんで、(自分の知る限り)こういう解析が今までなかったのか、不思議です。
ペ・ヨンジュンがファンに家族と言うのに
違和感ありましたが そういうことでしたか・・・
ウリ=ウチ。
私個人の解釈ですが、
「ウリ」はそのまま「ウチ」と言語的に一致していいんじゃないかなと思っています。
「うち」を漢字に当てはめますと、内、家、中、と内輪的なものになりますね。たまに裡が出ますが、これも意味的には内に近いでしょう。
ですから「身内」が「家庭」に置き換わってもおかしくは無いです。
ただ、文化の違いで、意味合いも異なってきているのでしょうね。あちらの方がより濃い感じかなと。
All or Noting
今日のエントリーで永年の疑問がひとつ解けたような気がします。
ウリとナム・・・・要するに人間関係だけでなく、彼らの関わる政治や社会、環境すべてが「ウリとナム」の基準で考えられているわけですね。早い話、何事に対しても All or Noting で判断すると。
黄文雄氏・呉善花氏・石平氏の対談本『売国奴』において、呉善花氏が「韓国人は国家に対して「孝」の意識を持つ」旨の発言をしていました。
「孝」は「親孝行」という言葉使われるように、「家族」に対して使われる言葉です。一方、家族の外の存在である「国家」に対しては「忠」を使うべきなのですが、韓国人は「孝」の意識を持っているという。
これ即ち、本来家族の外の存在であるはずの社会・国家・民族ですらも、韓国人にとっては「家族」であることを意味します。これで彼ら言動が理解できます。
韓国人が公私混同が激しいのも、それは社会全てが「家族」という「私の空間」だから。
韓国人が友人に馴れ馴れしいのも、それは友人が赤の他人ではなく「家族」の中の人だから。
在日朝鮮・韓国人が日本への帰化を頑なに拒むのも、それは韓国・朝鮮という「家族」からの離脱を意味するから。
『売国奴』での呉氏の発言から私はこのように理解しましたが、このエントリの内容とも相通じるように思いました。
みごとな分析です
すごく納得いきます。
ここの分析は、きれいに論理展開していて、なるほどとうなずかされます。
そのへんの新書より中身が濃いかもしれません。
ウリ・ナム論
はじめまして
いつも楽しく読ませていただいています。
今回のウリに濃淡がないとの話、私も日頃から同様に考えていました。
半島の住民は二元論でしか物事を把握できないようです。
個人的には濃淡のかわりに自らの都合でウリ・ナムの範囲が伸縮するようなイメージを持っています。
いつものことながら、秀逸!
また一つ、疑問が解消されたような気分です。 以前の"概念がない"に関する考察と混ぜてみてもおもしろいと思います。
またかせっちさんのコメントからも色々と考えさせられました。
>韓国人が公私混同が激しいのも、それは社会全てが「家族」という「私の空間」だから。
そういった文化的な背景があることは存じませんでしたがやはり金太郎飴、薄々ながら感じ取れてしまうものです。
自分の場合は大学でファインアート系の映像学なんぞを専攻していましたから、朝鮮人がその分野において非常に後進的である理由をなんとなく理解していました。
なんと言いますか、作品中に「客観」を考慮した部分が無いんです。
ほとんどが主観、皆が自分と同じように世界を見ているものだ、とか、観るべきだ、とか、そういう意識なしには逆に創れんだろコレわwといったような作品を常に披露してくれました。 率直に言えばつまんないです。
今考えれば、彼ら的には「作品を使って会場を私の空間にする」という考えではなく、「既に私の空間である会場だから何しても受け入れられる」といった感じだったのかもしれません。
マニアックな話しですみません。。。
いつも感心しながら拝見させていただいております。
特に今日のテーマは興味深いものでした。これには私も気がつかなかった・・・。ありがとうございます。
なるほどなるほど。
宿屋飯盛さんも言っておられるように、本当に「All or Nothing」なんですね。
1か0かは、非常に解り易い例えでした。
なるほど・・・・>Unoさん
管理人様の御説はもちろんのこと、Unoさんのアートなお話、大変興味深かったです。
皆が自分と同じように世界を観るべきだ・・・・・(ウザイ・・・・)
そういや、自分が昔韓国語習っていたとき、大して面白くもない韓国映画を2,3見たことがあります。その時の感想、
「なんか、ネトネトしてる・・・・」
あのなんとも言えないネトネト感は、この辺りに由来していたのかな、なんてふと思ったりしました。
ポチさん
ぼくも2,3本韓国映画を観たことがあります。 正確には特亜コミュニティー部屋に強制連行されて観させられたんですが。
そのうちの一つは邦題で「猟奇的な彼女」とかいうやつ。 内容はほとんど記憶にありませんが、隣でLee君が逐一ネトネトと解説やらお国自慢を入れてきてウザかったのは鮮明に覚えていますw
(中国人に「少林サッカー」を観せてもらった時もそんなだったっけ)
あの時点でぼくはウリ認定されていたのかも分かりません。
確かに濃いも薄いも無く、引き込めると思われればトコトン引き込んできやがるかもしれませんね。。。