「知れば知るほど・・・」をお忘れなく
さて、昨日29日は日韓併合条約発効100周年の日だったそうですが、読売新聞では「日韓併合条約発効100年、大規模デモ見られず」という見出しを付けて、「大規模な反日デモなどは見られず、韓国メディアの報道ぶりも総じて抑制的だった」と、一所懸命印象操作していたのが笑えました。
こんなのは言ってみれば、「酒を飲んでは大声でわめき散らし猛り狂って暴力を振るい、周囲の人たちに精神的にも物理的にも迷惑をかけていた酒乱が、最近は酒を飲んでもブツブツわけのわからない独り言を言って周囲の人たちを睨んで唾を吐きかけるだけで、以前のようにキチガイじみた大暴れをすることは少なくなった。ずいぶんおとなしくなったもんだ」というようなもので、決してその酒乱がまともになったわけではありません。
それをさも「現在、韓国の反日は消滅し、普通の国になりつつある」と印象づけようとする報道は、一体何を意図したものなのかと勘繰ってしまいます。
当該記事では、「東亜日報は28日付社説で、「世界の潮流をとらえ、侵略を許さない国防力と経済力を持っていれば、日韓併合はなかった」とし、「100年前の恥辱を繰り返さぬよう過去を教訓にする」ことを訴えた」と、韓国の東亜日報日本語版の社説の一部を紹介して、韓国の反日が抑制的であったことを強調しようとしておりますが、この社説の全文を読めば、彼らの反日は相変わらず健在で旺盛なことを確認出来ます。
「知らない国は好きな国」なのが日本人ですから、韓国を知らない日本人にこのような印象操作は、実に効果的だろうと思います。
「知らない国は好きな国」の日本人ですが、その日本人から見た韓国は、「知れば知るほど嫌いになる国」です。「嫌い」というネガティブな感情よりは、「好き」というポジティブな感情を持つ方が、精神衛生的に良いことは十分わかっていますが、それでもなお、日本人が韓国を知らないままでいることは断じてお勧め出来ません。
もし日韓が完全に縁切り出来るならば、あるいは完全ではないにせよ、在日の完全総帰国と日韓国交断絶が実現するならば、韓国を知らないがために好きであっても、とりあえず短期的には問題ないでしょう。長期的には「韓国を知らない」→「知らないから、韓国は好きな国」→「日韓国交再開運動勃発」となる可能性が非常に高いので、「韓国を知らないまま」では、結局元の木阿弥になると思いますが。
しかし問題は、「日韓が縁切り出来るならば、日本人は韓国を知らないままで居ても良いか否か」ではなく、「日本が韓国と完全に縁切りすることは、現状では不可能である」という現実です。この現実から目を背けて、単に韓国との縁切りだけを望むのは、お空のお月様を取ってくれろと泣く子供と同じです。
日韓チャットに連日通い、三日に一度はこうしてブログで韓国についての考察記事を書く私を見て、知人の中には「よっぽど韓国が好きなんだなwwww」と揶揄する人もいます。本当に嫌いなら、韓国関連について見るのも考えるのも嫌なはずだという理屈は、十分理解します。実際嫌ですからw
ただ、「嫌いだから見ない聞かない言わない考えない」では、日韓間にある諸問題は解決するどころか、爆裂増殖しかねません。それも、日本側に望ましくない形で。
例えば、韓国に対して見ざる聞かざる言わざる考えざるを貫いた結果、竹島は現在どのようなことになっているでしょうか。竹島問題が発生するのとほぼ同時に韓国が言い続けている対馬の領有主張ですが、多くの日本人はこれを、ごく一部の極端で過激な反日韓国人が騒いでいるだけで、それに対して嫌韓日本人が大袈裟に反応しているだけだと思っているという現実を見ても、「韓国を知らないし、知ろうとしない」、「韓国が嫌いだから見ない聞かない言わない考えない」ということが如何に日本(人)にとって危険なことか、弊ブログをご覧の皆様にはご理解いただけるのではないかと思います。
また、韓国からしばらく目を離すと、「韓国人も(良い意味で)変わった」という与太に引っかかりやすくなることも、韓国が嫌いなのに韓国ウォッチと考察を続ける理由のひとつでしょう。
前述の日本マスコミの「韓国の反日は薄らいでいる」という印象操作報道などは、「韓国人も(良い意味で)変わった」という与太の典型的な例と言えます。
韓国人は、絶望的なほどに変化しません。もちろん、薄くて浅くて上っ面な連中ですから、表層部分は変幻自在です。顔面でさえ平気で歪曲捏造する彼らですから、彼らの口先が変化することは、確かに頻繁です。しかしその薄くて浅くて上っ面から透けて見える彼らの本質部分は、今も100年前も全く変わっていません。
私が日韓チャットを始めて8年余、ブログを始めてまもなく丸5年になります。今では、私が日韓チャットを始めた頃のように、出会い頭に「謝罪しろ!」という韓国人は、確かに皆無と言って良いほど激減しました。しかし、だからと言って、彼らにそう言わせていたものが消滅したわけではないのです。
弊ブログを見て、「また同じようなことを書いてやがるwww」と思われる方は多いと思います。書いてる私自身にしても、目新しいことを書いて読者の皆様のご期待に応えたいのは山々なのですが、彼らは悪い意味で全く変わらないために、目新しいことがありませんから、書けません。弊ブログが同じことを繰り返し書くのは、「彼らは、(悪い意味で)変わっていません」というアナウンスにもなっているのではないかと思います。
この「(悪い意味での)変わらなさ」も、韓国人を構成する重要な要素のひとつです。それを知らなければ、「彼らも変わった」あるいは「彼らも変わり得る」という与太に、ころりと騙されるわけです。
日本が韓国と縁を切ることが現実的に可能かどうかはともかくとして、それを目指すためには、まずその土壌を作らなければなりません。「知らない国は好きな国」の日本人に、「韓国と縁を切りましょう!」と言っても、日本人の多くが韓国を知らなければ、そんな主張が受け入れられるはずもありません。
まずは韓国を知ること、それも韓流捏風のような歪んだ恣意の混ざったものではなく、ありのままの韓国を知ることが重要だと思います。
日本と韓国が縁切り出来るかどうかは、その周知徹底が完了してからの議論になるでしょう。
そういうものであるという理解
私は氏のファンであり、「小説家」として高く評価しております。
要は、氏を「歴史家」とか「史学者」などというカテゴリーで判断しようとするからその著述に対して「あれ?」と思うのであって、正しく「小説家」として判断するならば、優れた作家であることは確かだと私は考えております。
弘法も筆の誤りと言うように、完全無欠の人間など存在しません。氏にも誤りはあります。氏を「歴史家」と評価した人々があまりにも多かったために、氏自身がその評価に惑わされたことも、氏の誤りのひとつではないかと、私は個人的に思っております。
さて韓国人について理解が難しいことのひとつに、彼らの文明人としては飛び抜けた異常性と、常に激しく矛盾する思考パターンというものがあります。これは日韓チャットの常連日本人の間でも、非常にしばしば話題になります。
いや、話題と言うのは正しくないかもしれません。むしろ日本人として、そのような生き物に擦り寄られることから逃れられない悲嘆と言った方が良いでしょう。
文明の恩恵に頭のてっぺんまでどっぷり浸かっていながら、そのあまりにも非文明人的な行動や思考は、彼らを詳しく知らない者には俄かに信じることが出来ませんし、彼らを詳しく知る者にとっても、理解に苦しむことのひとつです。
理解に苦しんだ挙句、私たちは様々な理由付けを試みようとします。
彼らをあまり詳しく知らない間であれば、一人を見て全体を判断するなという韓国人の御託に惑わされて、偶然運悪く、4800万人いる韓国人の中で飛び抜けて異常なたった一人の韓国人に出会っただけだと思おうとしてみたり、あるいはやはり韓国人の御託に乗せられて、日韓の過去に答えを求めようとしてみたりします。
韓国人をかなり詳しく知る韓国ウォッチャーならば、さすがにそういう韓国人のおためごかしには引っかかりませんが、彼らの異常性に理由付けをしたがるのは同じです。
韓国ウォッチャーの間での、韓国人の異常性に対する理由付けには諸説あります。
まず韓国人が亞人類とかヒトモドキといった、人類と近縁ではあるが別種の生物であるという説、次に一応人類ではあることは認めなくもないが、精神構造あるいは遺伝子レベルで根本的に壊れているという説、もしくは同じく一応人類であると推定しなくもないが、他の人類とは大きく異なる淘汰選抜が行われた結果であるという説などがあります。
人の皮を被った生物には人権が付されるという文明人の不文律のために、これらを実際に検証することは、事実上不可能です。故に、どの説が正しいかということはここでは言いません。
彼らの素っ頓狂っぷりを見るにつけ、その根源を探りたくなる気持ちは痛いほどわかります。しかし、私たちがどのような理由付けを行なおうと、彼らが変わることはありません。
理由付けはあくまで、私たちが納得するためのものであって、彼ら及び彼らと接することによって生じる問題の解決に寄与するものではないからです。
私たちがまず理解するべきは、彼らの人類としての異常性そのものです。その原因や理由は、どうでも良いとまでは言いません。もしそれが解明されれば、トリビアとしての価値は発生するでしょう。
しかし現代社会において、それを検証することには限界がありますし、そういうことに躍起になっても、得るものはさほどありません。それよりもまずは、彼らをありのままに理解することが、私たちにとっても重要なことだと思います。
彼らの「ありのまま」があまりにも異常且つ矛盾に満ちているために、それをそのまま理解することは大変難しいことだとは思いますが。
日韓権威付けスパイラル
さて日本には、海外から渡来した物を、ただそれだけでありがたがる舶来偏重の伝統があります。これは、渡来文化を消化吸収して、独自文化へ発展昇華させる日本の伝統と裏表の関係にあると個人的には思っているので、一概に悪いとは言いません。
言いませんがこの伝統は、しばしば悪用されるのもまた事実です。ことに日韓間では、この悪用が非常に多いように思われるのは、嫌韓の僻目でしょうか。
例えば、韓国の芸能人が日本に来てコンサートをします。韓国へ帰って「日本でコンサートツアーを大成功させた」とか、「日本列島が熱狂した」とでも言えば、韓国でも売れます。何しろ韓国では「日本で大流行」というフレーズが宣伝文句になるのです。
それで首尾よく韓国で一定の人気が出れば、再び日本へ持って行って「韓国で大人気のナントカカントカ」という宣伝文句を付けて売れば、舶来偏重の日本人の中には、ころりと騙される人が結構いるわけです。
更にこれに権威と呼ばれる人がお墨付きを与えれば、一般人は最早疑うことさえしません。
例えば故司馬遼太郎氏が、朝鮮人から見た倭人を次のように書いています。
「倭人がすぐに肌脱ぎになるのを、朝鮮人は底冷えするような軽蔑のまなざしで見ていただろう」 「儒教の作法に従えば、「人」は肌をあらわにしないもので、倭人のようにすぐに裸になるのは、より禽獣に近いと彼らは見ただろう」 |
更に司馬遼太郎氏は知人の在日に尋ねてもみたそうですが、やはりどの在日に聞いても、朝鮮人が人前で肌をあらわにすることは絶対ないと言っていたそうです。
司馬遼太郎氏が歴史小説を書く際には、膨大な文献資料で史実を丹念に調べて、更にその地に実際に訪れ、書こうとする人物の子孫やゆかりの人物と話し、その人となりをつかんでから書くという周到さが、日本人的には大変好ましく感じられます。
それが故に、司馬遼太郎氏を歴史小説家ではなく、史学者と勘違いする日本人さえいるほどです。その司馬遼太郎氏が書くことなら、まさかそれが嘘や、あるいは事実誤認であるとは俄かに思えません。少なくとも私は、韓国を余り知らない頃は、司馬氏の話を鵜呑みにしておりました。
ところが、自分で事実を少しずつ確認するにつれ、「あれ?」という部分が出てくるのです。
例えば、韓国ウォッチャーなら誰でも、韓国人が示威のために公衆の面前で服を脱ぐことがあるのを知っています。韓国の男性芸能人が必要以上に肌を露出している画像も、見ようとしていないのに頻繁に目に入ります。ちなみに日韓チャットでは、初対面で詳細な個人情報を根掘り葉掘り執拗に聞き出そうとする韓国人に、「自己紹介のために、往来でパンツ一丁になって、「私の全てを見て!」と言う人はいないぞ」と言うと、「韓国ではそれが普通です」と言った韓国人もいましたw
それは昔と風俗の変わった現代だからだというのであれば、1970年代の韓国の写真でも、日程統治時代の朝鮮の写真でも、あるいは18世紀の朝鮮風俗画を描いた金弘道の絵にも、諸肌脱ぎの朝鮮人を普通に見ることが出来ます。
このように司馬氏の言ってることが事実とは異なると気付いても、日本を代表する歴史小説家が言ってることであれば、名も無い庶民がそれを否定することは躊躇われます。
こうして「朝鮮人は儒教に基づいた礼儀作法を備えた人々で、その彼らから見た日本人は、禽獣に近い野蛮人」というお墨付きが、日本の歴史小説の権威によって付されるわけです。
司馬氏のように誰もが認める権威でなくても、例えば「韓国人の知人がいる」とか「韓国に住んでいる(住んでいた)」という人でも良いでしょう。あるいは、韓国そのものについては直接詳しくないが、韓国人が韓国起源と主張するもの(=およそ日本の伝統文化全てと言って良い)に詳しい人でも良いと思います。
そういう人たちがよく知りもせずに気軽に舶来偏重に基づいて韓国及び朝鮮関連のものに高評価を与えることは珍しくありませんが、それはまず最初に日本人を騙し、次に韓国人も騙し、更に韓国人が日本人を騙すのに加担することになります。
そういう人の中には、もちろん悪意で行なっている者もいるでしょうけれど、混じりっ気なしの善意で行なっている者もいなくはないだろうということが、非常に厄介です。
もちろん韓国や朝鮮のものであっても、良いと言えるものも、あるいは、もしかしたら、ことによると、俄かには思いつきませんが、丹念に探せば、あるかも知れないという可能性は、絶対にないとは言い切れません。
しかし、特に日本の伝統文化について、必要以上に朝鮮との関連や由来や起源を主張し、権威付けを行なおうとする人の話は、眉に唾をつけて聞くことを忘れぬようにしなければ、日韓権威付けスパイラルに巻き込まれる可能性があるでしょう。
敬而遠之、可謂知矣
さて、韓国人と接するようになると、最初のうちは彼らの発する「言葉のようなもの」にとらわれ惑わされます。しかし、やがて慣れてくると彼らの発する「言葉のようなもの」そのものよりも、彼らがそれを発する状況や態度で、真意が透けて見えるようになります。
何しろ韓国の身上は何事も薄くて浅くて上っ面。日本人は何事につけ掘り下げるのが大好きですが、韓国人については掘り下げれば掘り下げるほど、彼らの薄くて浅くて上っ面を痛感することになります。
と言うか、根本的には韓国を含む朝鮮全体については、丁度韓国料理のように、どんな繊細な味付けをしようと、どんな素材を使っていようと、にんにくと唐辛子を大量にぶち込んで刺激的ではありますが単調な味にしてしまったり、何もかもをぐちゃぐちゃに混ぜてしまって、素材それぞれの味どころか、原材料に何を使ったかもわからなくしてしまうのにも似ています。
それらに無理やり理屈をつけて「強い辛味の後から来る旨味が」とか「単にからいだけではなく甘味が」とか「混ぜることによって新しい味が」などと言うことは出来る場合も、確かに皆無ではありません。しかし、それらはもともと意図して演出されたものではなく、たまたま結果的にそうなったのを、日本人が掘りに掘り下げまくって無理繰り評価しているだけであるのと同様、朝鮮関連については最初のインパクトが大きいことはよくありますが、その後に来る「何も無さ」が、本質と言って良いでしょう。
更にこれも再々申し上げていることではありますが、少なくとも現代人の時間感覚では、韓国人を含む朝鮮人が変わることはありません。天文学的とまでは言いませんが、考古学的時間感覚ならば変わり得るかもしれませんが、現代人にそれを待つだけの余裕もありません。
彼らが変わりたいと望んでも変わることが出来ないのか、変わりたいと望むことそのものをしないのかについては議論の余地があるかも知れませんが、それを議論して、仮に答えや結論が出たとしても、彼らが現代人の時間感覚において変わらないことに違いはありません。
彼らが変わらぬ以上、変わるべきは彼らに対峙する方です。日韓の場合、それは当然日本人ということになります。
日本人は、ただでも他人にゆずりへりくだることが人間関係を円滑にすることであると信じている上に、平等意識が煮詰まり過ぎてナチュラルに逆差別意識を持つようになっている方が少なくありません。そのためか、韓国人を含む朝鮮人全般を、日本人と同じかそれ以上に優れた人々であると言い、日本人は常に彼らを不当にサベツしているのだと思い込み、それを正すことこそが平等であり正義であるかのように勘違いしている人が、いまだに多いようです。
先日見た在韓日本人のブログでは、ハングルで書かれた漢字語の記述が、誤って日本語音になっているのを見て「これは差別語か!?」と憤慨し、わざわざ管理者に誤記理由の調査を依頼したりしておりました。しかし日本語音とは言えハングル表記なわけで、これは普通に考えて韓国人向けの表記なわけです。それをわざわざ差別語にする理由は、少なくとも日本人側にはありません。
この発想にならえば、韓国の日本語表記で「トンカス(「トンカツ」の誤記。ハングルでは「ツ」が表現出来ないので「ス」か「チュ」になるのを、そのままカタカナ表記してしまう例で、非常に頻繁にある)」と書いてあれば、「これは日本人に対する差別語か!」と憤慨しなくてはなりません。
このような、韓国人に対する馬鹿げた平等意識は、韓国人の「日本人は日本人であることそのものが原罪だ」という意識や、韓国人の持つ「永遠の加害者たる日本人の、永遠の被害者である韓国人は、永遠の債権者である」という意識と絶妙にマッチし、結果的に共依存的関係になってしまっているのでしょう。共依存を続ける者たちが行き着く先は、共破滅(こんな言葉があるかどうか知りませんがw)です。
真の日韓友好とは、互いに近く親しく付き合うことではなく、互いに敬して遠ざけることです。少なくとも日本側では、それを目指して今後の日韓関係を考えるようにするべきだと思います。
そのためには、私たち日本人が正しく韓国を知り、韓国に対する正しい意識と態度を持つように変わることこそが肝要だと、改めて申し上げたいと存じます。
日本人は在日に反論する資格がない
日韓チャットではあのような論法で、他者と言うか日本人の口を塞ごうとする韓国人は極めて一般的なので、今更特別驚くほどのことではありません。が、今回のポイントは「日本人の母親と朝鮮人の父親を持ち、日本で生まれ育った在日が、日本の公共電波で堂々とそう言った」ということではないかと思います。
韓国人の両親を持ち、韓国で生まれ育ち、韓国社会に生きざるを得ない韓国人が日韓併合を全否定するとしても、それはある意味しかたがありません。韓国では、日韓併合を肯定する人には歴史を語る資格どころか、生きる資格さえ認められないからです。
これは法律などで明文化されているわけではありません。よく「韓国には親日罪がある」と言われ誤解されていますが、「親日反民族行為者財産の国家帰属に関する特別法」とは、かつて日帝統治時代の朝鮮において、親日反民族行為により財産を得た者の子孫から、その財産を没収するための法律であって、現在の親日行為を処罰する法律ではありません。
ですから現在の韓国において親日行為を罰する場合は、名誉毀損や非道徳的あるいは反道徳的といった理由で処罰するわけです。そうすることで、ある意味、法律として明文化するよりも対象をあいまいに、ありていに言えば恣意的に設定できるわけです。
韓国においては「道徳的」という言葉もクセモノです。韓国における「道徳」とは、基本的に他人の行ないに対する非難や攻撃材料であって、自ら行ない示すものではありません。もし誰かが「非道徳だ」と言えば、言われた相手は無条件に悪者です。故に韓国においては、必然的に「日本=非道徳」となっております。
現在の韓国においては(日本にも派生してますが)「未来志向の日韓関係」などという薄っぺらな言葉が横行しておりますが、それに対する「過去の日韓関係」とはどのようなものかと言えば、これはもう韓国人からすれば無条件且つ絶対的に日本が悪辣非道なわけです。
韓国人が「未来志向の日韓関係」と言う場合、「過去の日韓関係において日本が無条件且つ絶対的に悪辣非道だった」ということを絶対不変の真理とした上で、日本がそれを心から深く反省し、その前提で韓国と付き合うこと、つまり日本が韓国に対して常に卑屈でへりくだった態度をとるべきということであり、日本人が考えるような「日本と韓国は過去に色々あったけど、それらは全部水に流して、お互い前向きになってこれからの付き合いを考えようね」などというものではありません。
その韓国で、日韓併合を肯定する発言に対して弾圧や封殺があっても、それはむしろ当然の話です。それに同調することは言うまでもなく、単にそれを否定しなかったり、そう言った者を非難しないだけでも、反民族的=反道徳的なわけです。韓国では反民族的という烙印を押されれば、生きていくのに多大な困難が生じます。
しかし今回の発言は日本で、しかも片親が日本人で、更に日本で生まれ育った在日が、日本人に対してそのような発言を行なったわけです。仮に本当に反民族的でも、日本で生活するなら(本国韓国人と比較すれば)何らの支障もない在日が、です。
生活に支障があるとかないとか、そういう実際上の問題や、細かい理屈は抜きにして、日韓併合を肯定する意見は、韓国人として感情的に許すことが絶対に出来ないと言うのならば、それはそれで理解できます。
しかし、NHKの討論番組に出ていた在日の発言は「自分の感情的に、その意見は受け入れられない」というものではなく、言論封殺以外に受け取りようのない「語る資格がない」というものでした。
彼がそう言ったのは何故でしょうか。ひとつには、自分が感情論で話していると思われたくなかったというのがあるかもしれません。
韓国では違うようですが、日本の討論や会議において、感情論は原則的に禁忌です。討論や会議で感情論を展開する者は、それこそ「発言する資格がない」と言われてもしかたがありません。日本で生まれ育った在日なら、それは熟知していたでしょう。
もうひとつには、実際に言論封殺が出来ると確信していた可能性です。
個人的には、後者の方が可能性が高いと思います。つまり在日社会においては、日本人との議論に際し、日本人に対する言論封殺が充分に機能し、それによって議論を自分に都合の良い展開に持っていけることを、あの在日はこれまでの人生で学習しているのではないかと思います。
日本では酷いサベツを受けていると吠える割に、在日がちっとも日本から出て行かないのは、日本における在日サベツより、北朝鮮や韓国での僑胞・帰胞差別の方がずっと激しく酷いからというのに加えて、日本人相手には通用する言論封殺論法が、本国韓国人相手には全く機能しないというのも、大きな理由なのかもしれません。
そう考えると、今回のNHKの番組については、在日の日本人に対する意識と討論姿勢を、ネットユーザー以外の日本人にも露骨に見せたという点で、実は高く評価される番組だったのではないかと思います。
日韓の「友好」の違いを認識しよう
さて、一体何のために発表したのかさっぱりわからない菅談話ですが、案の定と言うか当然と言うか、日本はもちろん、韓国でも不評の上に、中国や北朝鮮や韓国内の親北朝鮮勢力に対しても、日本に対する余計な非難材料を与えるという無駄な成果を発揮している模様です。
まことに無駄であっただけではなく、マイナスでさえあった菅談話ですが、ひとつ思うのは、この菅談話で言う「未来志向の日韓関係」や「日韓の絆」「パートナーの関係」とは、具体的にどのようなものを想定しているのだろうかということです。
以前から弊ブログでご紹介しているように、韓国人の考える韓日友好とは、日本が韓国のためだけに全面的且つ片務的に協力し援助し配慮することです。
具体的には、日本が持つ資本や技術を全て韓国に無償で与え、日本に与えられた評価や賞賛は全て韓国に譲るか、少なくとも韓国と共有し、韓国人の日本への入国滞在は無制限に自由にし、日本にいる韓国人はその居留資格に関わらず日本人と同じ権利を持つが義務は全く負わなくとも良いというものです。
更に具体的な内容を知りたい方はこちらのブログをご覧になれば、韓国人の考える韓日友好というものが大変よく理解出来るのではないかと思います。
菅談話で語る「未来志向の日韓関係」や「日韓の絆」「パートナーの関係」とは、このようなものを想定しているのでしょうか。
もしそうだとすれば、菅政権とは日本人のための政権ではなく、韓国人のための政権であることは疑う余地がありません。そうでないとすれば(と言うか、そうであるはずがないと思いたいのですがw)、菅談話で語る「日韓の絆」とか「パートナー関係」というのはおそらく、小学校辺りで言う「同じクラスのオトモダチ同士なんだから仲良く協力しましょうね」的関係のことではないかと思います。
「同じクラスのオトモダチなんだから、オトモダチにお勉強を教えてあげたり、オトモダチが教科書を忘れたら見せてあげたり、消しゴム貸してあげたりするぐらいは当たり前」程度の考えで日韓友好を考えているのは、実は菅政権に限ったことではなく、多くの、特に韓国をよく知らない日本人も同様だと思います。
いくら親韓でも、まさか「同じクラスのオトモダチなんだから、オトモダチに自分のおやつや食事、おもちゃや服を相手が望むだけ分け与えてあげたり、オトモダチがテスト中にわからない部分があれば自分の解答用紙を見せてあげたり、自分がテストで100点取ったら、それはオトモダチの成績になるのが当たり前」とまで考えている日本人は、おそらくいないでしょう。
しかし、韓国人は「韓日友好」をそのように考えています。しかもそれを韓国側が何も言わなくても、日本側が自ら進んでそのようにすることこそが、本当の韓日友好だと思っています。ですから、韓国側から見ると日本人の考える日韓友好は、常に薄くて歯痒く物足りないものになります。
その結果、日本人的には友好を促すつもりでしたり言ったりしたことが、韓国人的には友好どころか、不満を募らせるだけだったということになるのは、今回の菅談話を見ても明白です。
要は、日本側に韓国側が望み求めるだけの「友好」を与えるつもりがあるのかどうかということです。それがないのであれば、日本人の中途半端な「友好」は、逆効果にしかなりません。そのつもりがあるとすれば、韓国人的友好は成立するかも知れませんが、それは客観的には日本人の韓国人に対する一方的な隷属でしかありません。
日本人が「韓国人の望む韓日友好」を理解すれば、それを目指そうと考える日本人はおそらく圧倒的少数派になるでしょうけれど、その前に「韓国人の望む韓日友好」というものを、俄かに信じることが出来ない日本人が圧倒多数でしょう。
しかし、「韓国人が望む友好」が具体的にどのようなものかも知らずに「日韓友好」を唱えることは愚の骨頂であるということをまず、日本人は理解するべきではないかと思います。
もちろん逆に、韓国人に「日本人の考える友好」を理解させるという手も無くはないのですが、そんな努力をするぐらいなら、犬に代数を教える方が余程楽で現実的だと思います。
「親切な日本人」を気取りたい人へ
やや目新しいと言える動きがあったとすれば、京都の朝鮮学校に対する抗議活動で在特会のメンバーが逮捕されたことでしょうか。同時に、京都の朝鮮学校による公園の不法占拠も捜査されるとの由。
在特会の手法は、弊ブログの迂遠で柔弱なアプローチとは全く異なり、直接的且つ行動的なため、往々にして過激との謗りを受けますし、日本のマスコミも在特会の印象操作に忙しいようです。
今回の件が適法だったか否かについては、詳細を知らぬ身ゆえ、判断のしようがありませんが、今までの在特会の活動方針を見る限り、法に触れぬギリギリのラインは保っていたのではないかと個人的には思っております。弊ブログとしては肉を切らせて骨を断つ在特会の行動力を称え、及ばずながら声援を送りたいと思います。
さて、日韓チャットの韓国人は、「日本人は親切だ」と非常に頻繁に言います。その割に、具体的にどのように親切だとか、実際にどんな親切を施してもらったかという話は、不思議なぐらい聞きません。
彼らの多くは、実際に日本人に親切にしてもらったことがあるどころか、実際に日本人に接したことがあるわけではなく、イメージとして日本人はウリに親切にするのが当然であると思っているので、そのように言ってるだけなのではないかと思います。
だから彼らは、初対面の日本人にいきなり「親切」を求めます。来週日本に行くから案内しろとか、日本語を独学しているが難しいので無料で教えろとか、眠れなくて退屈だから何か面白い話をしろと、当然のように言います。
そんな彼らの期待に応えなければ、彼らは「やはり日本人だね!」と言うか、「お前は日本人のイメージをぶち壊している」と激しく非難します。
期待に応えてもらえなかった韓国人が「やはり日本人だね!」と言うのは、「日本人はやっぱり悪い奴らだ」という意味でしょう。これはある意味、彼らが基本的に持っている日本人のイメージを正直に表していると思います。
クセモノなのは「お前は日本人のイメージをぶち壊している」という非難です。
「一部を見て全体を判断するな」と口癖のように言う彼らが、一部の日本人を見て日本人全体のイメージが壊れると言うのですから、韓国人をよく知る日本人が聞けば噴飯物の台詞ですが、韓国人を知らない素直な日本人に対しては、大変によく効くと思われます。
何しろ日本人は、優れた日本人の功績を同胞として誇るよりも辱めることを恐れる人が普通です。普通の日本人ならたいていの人が「日本人全体を個人である自分が貶めること」を恐れることを、韓国人はよく知っています。
いずれにしても、彼らの「日本人はウリに親切にするのが当然である」という意識は、日本人の持つ有形無形の資産全てが、無条件且つ無償で韓国人に譲渡されて当然であるという意識に直結しています。これは出生地や居住国に関わらず、朝鮮人なら普遍的に持つ意識のようです。
基本的に朝鮮人は、相手がひとつ譲れば、全てを譲るよう求めます。何故なら、ひとつでも譲った以上、「譲られること」は譲られた者の権利になるからです。また、足ることを知らない朝鮮人への親切は、行ったきりであれば上出来で、下手をすれば災禍となって返ってきます。親切にすればするほど、物を与えれば与えるほど、彼らの不満は募るのです。
それらを熟知した上で、自らの持つもの全てを彼らに譲り、更に災いを招くことも覚悟の上で彼らと接するならば、それはその人の自由です。朝鮮人に「親切な日本人」を気取りたい人は、自らの有形無形の資産や所有物をなげうって、思う存分「親切な日本人」を気取れば良いと思います。自身の資産や所有物でやる限りにおいて、それは全くの自由です。
しかしそれを、全く権利を持たない他人の資産や所有物でやるのは論外として、一部の権利しか持たない公共施設や共有物でやることも、絶対に許されません。
今回の京都の朝鮮学校の件は、親切な日本人を気取りたいからではなく、事なかれ主義に基づいた行政の怠慢が根源だと思いますが、それを指摘し、抗議活動を行なった在特会を非難する人々(マスコミ含む)は、「親切な日本人」を気取りたい人々なのであろうと思います。
そういう人々は、自分が無関係だと思っているから気軽に非難出来るのだろうと思いますが、類似の事例は日本全国朝鮮人の居るところ全てで起こり得ます。というか日本そのものが、朝鮮人の欲望の対象です。
自らが当事者となり、朝鮮人に身ぐるみ剥がされても尚、「親切な日本人」を気取れる自信のある方は、今回の在特会の行動を非難しても良いと思います。
もっとも本当にそういう事態になれば、非難の声をあげる力さえ朝鮮人に奪われているかもしれませんが。
韓国人ご推薦の「良い韓国人」
さて、日韓について詳しくない日本人は、韓国人の話にころりと騙される者が少なくありません。どのような話かと言うと、何も知らない日本人が聞いたら、一見客観的でバランスが取れているように聞こえますが、その実は、偏見に基づく酷い捏造や歪曲を含んだ日本批判です。
私が実際に見た具体例をあげるならば「韓国の親日派は、一貫して不正な方法で韓国にアンフェアな社会を作っている連中だ。このような韓国の親日派を日本人は応援すべきではなく、むしろ日本の恥だと思うべきだ」などというようなものです。
これは日韓について何も知らない、あるいは半端にしか知らない日本人が見ればそれらしく見える御託です。しかし、韓国の親日派が如何に不正な方法でアンフェアな社会を韓国に作ってきたかについては、この御託の前段で詳細な説明があるのですが、何故韓国の親日派を日本の恥だと思わねばならないのかという点については、一切の論理的な説明がありません。こんなふざけた御託でも、日韓について何も知らない、あるいは半端にしか知らない日本人なら素直に、「韓国の親日派は日本の恥だ」と思わされてしまうのでしょう。
日本に対して好意を示す韓国人ほど、このような話法を好んで用いる傾向が強いようです。何故なら、彼らにとって「日本が好き」というのは民族に対する背信行為なので、それを正当化するためには「日本はこんなに悪い国で、日本人はこんなクズばかりだが、寛容で誇らしい韓国人である私は、そんな日本や日本人でも許してやって、仲良くなってやるのだ」という大義名分が、韓国人には自他共に必要だからでしょう。
故に日本に対して好意的な韓国人ほど、友好の美名の下に、巧みに偏見を隠して、酷い捏造や歪曲を含んだ日本批判をします。日本についても韓国についてもよく知らないけど、そう言えば何となくそんな話を聞いたことがあるという日本人なら、そうだったのかと感心したり、なんて日韓について良く知っていて、冷静に分析し、客観的に判断している韓国人なのだろうと思うように誘導するわけです。
昔の日韓チャットでは、挨拶もそこそこに「友達になってください!」と言う韓国人に、素直に「良いですよ」と応じると、「では日本の過去の蛮行を謝罪してください^^」と言われるのがパターンでした。
現在では、このパターンはすっかり鳴りを潜めたと思っていました。しかし、これは単に前述の「日本に対して好意的な韓国人が、友好の美名の下に、巧みに偏見を隠して、酷い捏造や歪曲を含んだ日本批判をする」というパターンに形式を変えただけということに最近気づきました。
つい先日も、日韓チャットの私の部屋に、「日本が好きだ」と言う韓国人がいました。私たちがいつものように韓国について話しているといたくご不満のご様子で、量産型らしく私たちの韓国評を「偏見だ」と「一部を見て全体を判断するな」と決め付けます。
更におこがましくも、「良い韓国人に会って考えを変えろ、個人的に会えば(韓国人は)良い人が多い」などと言うので、私が「良い韓国人、見せてください」と言うと、例によって「韓国へ来てみたことがあるのか?」「旅行でなく、3ヶ月ほど暮らしてみろ」などと典型的な朝鮮侮り全開で言い逃れようとします。
それを逃さず、淡々と「良い韓国人を見せろ」と問い詰め続けると、その韓国人はようやく「イ・スヒョン」と答えました。
私が「誰だそれ?」と聞くと、「地下鉄で日本人を生かして、自分はその身代わりとなって死んだ人だ」と言います。
私が「日本人を生かして、自分が死んだ?」と問い返すと、「はい、捜してみてください。地下鉄に落ちた酔っ払い日本おじさんを生かして、自分が代わりに死にました。映画もあります」と得意気に言います。
確かに、似たような話は聞いたことがあります。しかしこれは、地下鉄で起きた事故ではありませんし、線路に落ちた酔っ払いを救助しようとしたのは韓国人だけではなく日本人もいました。更に結局救助出来ずに3人とも死亡しているので、「日本人を生かして自分が身代わりになって死んだ韓国人」というのは、事実とまるで違います。
こういうのを「酷い捏造や歪曲」と言うのだと思い、その点を指摘して追及すると、その韓国人は「あなたたちは木を見て森を見ずだ」などと嘯きます。要するに、たとえ酷い捏造や歪曲を含んでいたとしても、自己犠牲精神を発揮した韓国人がいたことは事実であり、それだけを一途に評価しろと言いたいようです。
そんな韓国人こそ、極めて「ごく一部」の韓国人の話で、はっきり言えば例外とか誤差と言って良いでしょう。韓国人がそういう韓国人を「良い韓国人」の代表例として出した真意は何でしょうか。
しばらく考える内に、それは即ち、「その韓国人が死んだからだろうか」と思いつきました。そう言えば、「良い朝鮮人は死んだ朝鮮人だけだ」という言葉をどこかで目にしたことがあります。
その上、韓国人が推薦する「良い韓国人」さえも死んだ韓国人であるからには、「良い韓国人=死んだ韓国人」と理解することに何らの差し支えもあるまいと、深く納得しました。
真の日韓友好を達成するために、韓国人は全員可及的速やかに、「良い韓国人」になって欲しいものだと痛烈に思った熱帯夜でした。
韓国人の歪んだ身内意識
今年、広島で行われる平和記念式典には潘基文が参加するそうですが、如何に国連事務総長といえども、韓国人に原爆の意味が理解出来るのかどうか、甚だ疑問です。
まあ、その場限りの上っ面を取り繕うことは韓国人の得意とするところですから、式典の間ぐらいはなんとかこなすかもしれません。
さて潘基文と言えば、事務総長就任以来、国連の私物化(というか韓国物化)が激しく、いくつものトラブルや非難が報道されております。ただこの辺り、国際標準では非難の対象であっても、いわゆる【朝鮮人の理】においては当然のことなのだろうなあと、私は思っております。
実はこの辺りについて、昨晩日韓チャットで韓国人の意見を聞こうと思ったのですが、見事なくらいに量産型しか来ず、質疑応答にさえ至りません。
量産型しか来ないなら、この際量産型で妥協して質問してみれば良いのにと思われるかもしれませんが、量産型は質問そのものに絶対に真面目に答え(られ)ず、はぐらかしてごまかしてバカにして罵って逃げるだけなので、相手をするのは時間の無駄なのです。
しかたがないので、私の持つ朝鮮知識と私の知る限りの朝鮮人マインドに基づいて、その辺を考察してみようかと思います。
中国人もそうですが、朝鮮人も、一族の中で出世した者が一人でもあれば、一族郎党がそのコネにすがり、旨味を最大限に利用することは当たり前のことでした。「でした」なんてうっかり過去形にしてしまいましたが、実は今でもその傾向は甚だしいと聞きます。それは北朝鮮の首領様一族を見れば一目瞭然ですし、韓国の大統領にしても例外ではありません。
この場合、コネを利用する方に遠慮がないのは当然として、利用される方もこれを断ることは考えられません。そんなことをすれば、一族郎党から凄まじい非難を浴びてハブられることになりますし、もしそれがなくとも、自分の周囲を身内で固めることは、無条件で自分に味方する者が増えることになるわけですから、断る理由がありません。
朝鮮人の身内意識は非常に強いものがありますが、それは伝統的に国や政府や為政者支配者との信頼関係が希薄だったために、必要以上に血縁や地縁等にすがりつくようになったのでしょう。
それを朝鮮半島内だけでやるなら、他国人が批判したり非難するべきことではないのですが、国連事務総長のようにワールドワイドでも平然とそういうことをやらかすので、韓国人が行く先々でトラブルが絶えないわけです。
その上、日本に対して彼らは非常に歪んだ身内意識を持っております。彼らが何かにつけ「日本人の祖先は韓国人」と言いたがることなどは、その歪んだ身内意識の顕著な発露です。
朝鮮儒教においては、子は父母や祖父母などの尊属に対し、無条件且つ絶対的に敬い従うのが当然の道徳です。「日本人の祖先は韓国人」と彼らが言う時、彼らは自分たちを日本人の尊属としてイメージしており、そのイメージにおいて彼らは、日本(人)が韓国(人)に無条件且つ絶対的に敬い従って、特別扱いするのが当然だと考えているのでしょう。蛇足ながらおそらく中国に対しても、韓国人は歪んだ身内意識を持っていると思われますが、その意識における尊卑の別は日韓の場合とは逆ではないかと思います。
それはさておき、日韓関係において、韓国人の主観的に尊属たる韓国は、たとえ国家的な勢力や評価が劣っていたとしても、道徳的には常に日本の上位であり、日本は尊属たる韓国に対して格別の待遇と配慮を行なうのが当然なわけです。
ところが実際に日本からは、彼らが期待するほどの特別扱いが得られていません。
これは即ち、彼らの「理」や「道徳」において、強く非難されるべき点であり、その一点だけでも、日本も自ら強く深く反省するべきだという意識が、彼らの対日意識の根底に存在し、それが彼らの「日本は絶対悪」という意識の一部にあるのではないかと思います。
神の御業
他にも北朝鮮がチェコに対する借金返済を、朝鮮人参の現物納付でしたいと言ったというニュースがあり、まあ偽札で払わなかっただけでも、朝鮮人としては誠意があるのかなと思った私は、相当朝鮮ズレしていると思います。
さて、ここんとこ日韓チャットにログインしても部屋を作る気にも誰かの部屋に紛れ込む気にもなれず、そもそも韓国人があんまりいないし、いても量産型だしで、待合室でだらだらする日々です。
そんなわけでチャットネタはありませんので、前回記事の補足でもさせていただこうかと思います。
前回述べた通り、馬が脚を折れば、他の部分がどれほど健康でも生命を失うのと同様、韓国人が韓国人社会において日本が絶対悪であることを否定すれば、如何なる立場の者であっても、韓国人社会においては、社会的生命の危機に陥ります。
何故なら、馬が4本の脚で身体を支える構造になっているように、韓国人の精神はそういう構造になっているからです。
これはもう理屈ではありません。これを理屈で理解しようとすれば、「馬が脚を折ったぐらいで治療もせずに安楽死処分なんて残酷だ」という誤解へまっしぐらに至るのと同じように、「韓国にだって日本を認めることは出来る」「日本と韓国は、対等で平和的な友好関係を構築することが可能である」などという誤解へと突き進むようになります。
このように言えば必ず「それは誤解ではない!実際に私の知ってる韓国人は云々」という御託が聞けるわけですが、何もわざわざ他人からそんな御託を承らなくとも、日韓チャットの常連韓国人の中にだって、長らく日本人と話すうちに日本の歴史や立場、主張を理解し、韓国人の無理解や誤解、曲解や捏造に憤る者ぐらいちゃんと存在します。
そういう理解に至ったある常連韓国人は、日韓チャットで同胞韓国人が得意満面で語る日本や日本人に対する悪口雑言に対し、その過ちを指摘し、根拠提示を求め、同胞に対して日本と日本人についての理解を促そうとしていた時期がありました。
しかし現在では、その常連韓国人は他の韓国人が入ってきて日韓論争になりそうな気配を察すると、「魔女狩りに遭うのは嫌なので潜水します」と言って沈黙するようになってしまいました。
この常連韓国人は、何度も何度も同胞に向かって日本や日本人に関する誤解や無理解を指摘し、曲解や捏造を正そうとしていました。しかしその度に、同胞から「お前はそれでも韓国人なの?」という台詞を、洪水のような悪口雑言と共に投げつけられ続け、その結果この常連韓国人は、「韓国人に日本が絶対悪ではないことを理解させることは、無駄な努力であるばかりか、自らの身の危険でもある」という結論に至ったのです。
馬の骨折でもごく軽度なら治療が可能なのと同様、韓国人といえども、ごくわずかな個人が日本や日本人に理解を示し、対等で平和な友好関係を構築する可能性は、私も否定しません。
しかし、皮膚を突き破るほどの重度の骨折を負った馬の生命を救うことは出来ないのと同様、韓国人社会全体においては、日本や日本人に対する好意的な理解を浸透させることや、対等で平和な友好関係を構築することなどは、絶対に不可能です。
私は、積極的に韓国人に日本や日本人に対する理解を促そうとしたことは、実はほとんどありません。何故なら、韓国人がそういう考えに至ることは、韓国人社会で韓国人として生きていくのに、大変なハンディキャップを背負うことになる可能性が高いことを知っているからです。逆に、日本や日本人に対する理解を深めていく常連韓国人には、「これ以上踏み込まない方が良い」と言ったことさえあります。
それでも、日本や日本人を理解可能で、対等で平和的な友好関係を構築出来る韓国人は、個人ならば確かに存在します。しかしそういう韓国人が自身の理解を浸透させようと韓国社会全体に働きかけたとしても、韓国人社会がそれを受け入れることが出来ないという現実がある以上、そんな韓国人がたとえ千万人単位でいたとしても、韓国社会全体が変わることはないのです。
馬が重度の骨折を負えば、人間の力では馬の生命を救うことが出来ないのと同様、日本は絶対悪ではないという理解を韓国人社会に浸透させることは、人間には不可能な領域です。それを成功させることが出来るとすれば、それもはや神の御業でしょう。
私は、自分を神だと思ったことは生まれてこの方一度もありません。だから、神の領域を犯そうと思ったこともありません。
弊ブログをご覧の方に、我こそは神という確信をお持ちの方がもしおわしますならば、是非その奇跡の御業を示していただきたいと切に願います。
ただ私の知る限りにおいて、自ら神を名乗る者が本当に神だった例はありませんが。