かつて「韓国に学べ」が叫ばれた時代があった ― 2025/01/26
二十年前の2000年代初め、日本では「韓国に学べ」が流行のように叫ばれたことがありました。 韓流ブームの契機となった「冬のソナタ」より前のことです。 これを覚えておられる人は少ないでしょうねえ。 例えば当時の雑誌などには「韓国をうらやむ日本人―エステから経済改革まで」とか「韓国人気で分かる日本の失ったもの」のような見出しをつけた記事があふれていたのです。
韓国では1997年にアジア通貨危機が襲来し、時の金泳三政権はIMF(国際通貨基金)に救済を要請して国家破産をかろうじて回避しましたが、経済は大不況となり、失業者があふれかえり、自殺者が急増する事態となりました。 金泳三政権を引き継いだ金大中大統領は規制の大幅な緩和などの各種政策を断行し、この危機を乗り越えて2年後の2000年頃には経済を回復させ、韓国は元気を取り戻しました。
その時の日本はバブルが崩壊して10年ほど低迷が続いていた時期で、「失われた10年(今は失われた30年)」と言われるくらいでした。 そういう日本で、「韓国に学べ」がまるで合唱するかのように叫ばれたのでした。
まず経済面ではIT革命です。 韓国はブロードバンド普及率が世界一で、「日本はITの分野で韓国に完全に追い抜かれた」などと言われたのです。 また韓国では政府が主導してクレジットカードを普及させ、それによって消費が増大し、好景気につなげました。 一方、現金での買い物が普通である日本は「遅れている」と決めつけられたものです。
政治面では、金大中大統領は2000年に北朝鮮の金正日総書記と首脳会談を持つなど、大胆に外交路線を変えました。 それに対して日本では、「韓国に比べてわが日本は‥‥」とか「日本とは余りにも志操が違い過ぎる」とか「韓国では希望に満ちた大変革が起きているのに、わが日本では何の変化の可能性も見えない」とか言われたものです。
また韓国では2000年に総選挙が行われましたが、その時に「落選運動」というのがありました。 これは市民団体が、選んではいけない立候補者を定めて落選させようと運動するもので、20人中19人を落選させるという大きな成果を収めました。 これを見た日本のマスコミや市民団体は「韓国は世界で最も先進的な民主社会になる」と絶賛し、「韓国の落選運動に学べ」と呼びかけました。
そして2001年に仁川国際空港が開港しました。 滑走路数など規模が日本の成田や関空よりも大きいハブ空港とされ、世界の航空業界は日本よりも韓国の方を重視するようになったと言われたものです。 韓国はアジアと世界を視野に入れた戦略思考を持っている、それに比べて日本はそんな思考が欠けていると評されていましたね。
そしてまた韓国では金大中大統領以降、死刑執行を行なっていません。 金大中自身が政治活動ゆえに死刑宣告を受けたことがあったことが関係したようで、死刑への拒否感があったものと考えられています。 このために死刑廃止論者たちは、日本は韓国に立ち遅れていると批判しました。 ちょっと前までは独裁国家とされていた韓国でしたが、今は死刑執行しておらず人権国家の仲間入りをした、日本は韓国に学ばねばならない、となったのです。
以上のように2000年代初め頃の日本では、ちょっと思い出しただけでこのような「韓国に学べ」という声が叫ばれたのでした。 そして2002年の日韓ワールドカップと2003年の「冬のソナタ」を契機とする韓流大ブームへとつながっていったのでした。
今の日本では信じられないでしょう。 つい数年前の文在寅政権時代、日本の雑誌には「韓国社会の『深刻過ぎる問題点』」とか「韓国の『最大危機』、いよいよ『アメリカから見捨てられる日』がやって来る」とか「平昌五輪と韓国危機」とか「サムスン共和国の崩壊が始まった」とかの見出しを付けていて、それが売れていたのですから。
「韓国に学べ」と仰ぎ見たかと思えば、20年経ったら見下す‥‥。 日本のマスコミさんは腰が据わっていないと言うべきでしょうが、それよりもそんなことに躍らされる日本人が情けないですね。
木村幹『全斗煥』(3)―反共主義で時代に取り残される ― 2025/01/19
https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/01/11/9746259 の続きです。
木村幹『全斗煥』(ミネルヴァ書房 2024年9月)を読んで、それまで知らなかった韓国現代史の知識を多く得ることができました。 そのうち私が思い込んでいたものを訂正したことを、前回と前々回の拙ブログで紹介しました。 今回は全斗煥が有していた「反共主義」という思想について、この本で論じられていることに成程と思われたので紹介してみたいと思います。
先ずは子供時代の「共産主義」経験です。
全斗煥が(少年時に)暮らした大邱において重要だったのは、この街が「朝鮮のモスクワ」との異名を取った、左派勢力の極めて強い地域だったことである。 ‥‥ 全斗煥が中学校に入った頃の大邱では、左翼勢力の活動が依然続いていた。 多くの学校もその枠外ではなく、生徒たちをも巻き込んだ混乱が続いていた。 とりわけ全斗煥が入学した大邱工業中学校は将来の工場労働者を育成する機関であり、左翼勢力の影響力が相対的に強かった。 全斗煥は次のように回想している。 (22・25頁)
一中学校に過ぎない我が学校でも左翼分子たちによる扇動と暴力が頻発した。 理念や政治体制に敏感ではない学生たちはその様な学校の雰囲気に失望と憤怒を憶えざるを得なかった。 それは私自身も同じだった。 一部教師と上級生の中から飛び出す、授業ボイコットや反動教師の追放といった過激な言葉に、学生たちは混乱した。
ある日、左翼系列の責任者が化学の授業に乱入し、授業ボイコットを呼びかけた。 教室の外には左翼系列の上級生幹部10余名がゲバ棒を持って立っており、険悪な雰囲気が流れていた。 一部の学生はいち早く教室の外に逃げ出し、残る学生も恐怖心で息を殺していた。 私はこの状況に怒り、机を叩いて立ち上がり、左翼系列の上級生幹部に顔を向けて声を挙げた。 「俺たちの両親は苦労して学費を準備し、勉強をさせてくれている。 そうやって俺たちを学校に行かせてくれているのに、勉強しないなんて言うことがあっていいものか。 俺が責任を取るから、お前たちは安心して勉強しろ!」 (以上25頁)
このエピソードは、後に「テロの脅威の前に、あるいは命取りになるかも知れない恐怖の瞬間に、斗煥が見せた反共意識と胆力、そして筋の通った説得力はその後も長い間、校内の話題となった」と伝えられるほどのものでした。 従って全斗煥の「反共主義」の原点は、幼い時からの大邱での地域社会および学校生活での体験にあると言えます。
全斗煥は大人になって「反共主義」をさらに強化していきます。
彼の生涯において一貫しているのは、共産主義に対する敵意であり、‥‥ 陸軍士官学校に入学し、その「反共主義」を更に強化する。‥‥ そして士官学校卒業後、陸軍士官に任官した全斗煥は、この「反共主義」を自ら実践する機会を獲得した。 いち早くアメリカ式の特殊戦訓練を受けた彼は、その経験を生かして、北朝鮮からのゲリラを撃退し、ベトナム戦争で功績を挙げ、更には北朝鮮が掘った韓国内への進入用トンネルを発見して、朴正煕の寵愛を得ることに成功する。 事実、冷戦期においても、全斗煥ほどにこの時期の「共産主義」に関わる事件に、数多くの現場で遭遇した人物は稀である。その意味で、全斗煥は反共主義に影響され、反共主義の下で多くの機会を与えられ、そしてその結果、台頭してきた人物だということができる。 (334~335頁)
このように全斗煥は「反共主義」を強固にし、またそれによって世に認められた人物となったのです。 ところでこの「反共主義」の中身ですが、この本では次のように「現実的なものではなく、イデオロギー的なもの」と論じます。
全斗煥にとっての「共産主義の脅威」とは、現実のものというより、イデオロギー的なもの、そして休戦ラインを越えた「向こう側」にある、非日常的なものに過ぎなかった。 (336頁)
全斗煥にとってベトナム戦争への参戦は、憎き共産主義を最前線で葬るためのものというよりも、自らがアメリカで学んだ最新の戦術を実行し、現実の戦争を経験し、自らの軍人としての能力を向上させる為の場として理解されている。 (336頁)
同様のことは、これまた全斗煥が遭遇した1・21事件(1968年)、つまり北朝鮮ゲリラの大統領官邸襲撃未遂事件についても言うことができる。 この事件における彼の回想において顕著なのは、北朝鮮ゲリラの身体的能力に対する驚嘆であり、畏敬にも近い感情である。 そこには彼らを共産主義者として憎むのではなく、同じ軍人として優れた彼らと競い合い勝利したい、という思いに溢れている。 それはあたかも彼らを戦場での相手としてよりむしろ、スポーツ競技の相手として見るのに近い視点になっている。 (336頁)
彼(全斗煥)は二度のアメリカ留学を経験した。 このような全斗煥の経験は、朴正煕に代表されるような先立つ世代の将校の多くが、日本軍やその統制下にあった満州国軍の出身であったのとは明瞭な対照をなしている。 全斗煥が受けた陸軍士官学校第十一期生以降の教育も徹頭徹尾ウェストポイント(アメリカ陸軍士官学校)式に行なわれたものであり、彼らはそのことに強い誇りを持っていた。 (337頁)
当時は東西冷戦の真っ最中で、アメリカとソ連は激しく対立していました。 その対立は自由資本主義か社会主義(最終目標が共産主義)かのイデオロギー的なものであり、イデオロギー=観念であるからこそ、その対立は厳しく鋭いものでした。 全斗煥は共産主義の現実(経済的な行き詰まりなど)を見てではなく、当時のアメリカに学んでイデオロギーの「反共主義」を強めたのでした。 そしてそのアメリカは世界で、時には黒幕として反共謀略工作を行ない、時にはベトナム戦争のように公然と反共行動をしました。 前者の反共謀略工作として、この本では次を挙げています。
1953年のイランのモサデク政権崩壊や、1972年のチリのクーデター等、冷戦下の世界では自らの政敵に「共産主義者」のレッテルを貼りつけるシナリオの下、アメリカの支援を受けて行なわれた政変が数多く存在した。 (339頁)
1980年に全斗煥は、「反共主義」のためなら謀略も辞さないという、それまでのアメリカのやり方をまねて5・18光州事件を起こし、韓国を掌握したのではないか、と考えられます。 さらに全が大統領になって国内の民主化運動を弾圧したのも、この強固な「反共主義」の信念から来るものでしょう。
しかし1970・80年代になってデタント(東西緊張の緩和)が進み、アメリカは共産主義であってもその存在を容認する方向に変わっていきました。 すなわち、頭から相手を否定するようなイデオロギーではなく、現実をそのまま見て受け入れるようになり始めていたのです。 ところが全斗煥は反共イデオロギーに凝り固まっていたのか、そういう世界の変化についていけませんでした。
重要なのはそのような彼らが触れた「アメリカ」が、冷戦期における超大国の多様な社会における限られた部分でしかなかったことである。 だからこそ、1970年代に入り東西両陣営の融和が進み、アメリカ自身が「反共主義」的な外交政策を放棄する時代になると、全斗煥らの考え方や方針はアメリカと大きな齟齬を見せるようになってくる。 (337頁)
時代は既に1980年代に入り、「冷戦後」の時代へ向かっていたことである。 つまり世界は既に、かつてのような「反共主義」の名のもとに行なわれる露骨で剥き出しの政治工作を許容しない時代に突入していた。 (339頁)
全斗煥は政権が獲得した最大の成果であり勲章でもあった1988年ソウル五輪を守らねばならないために、「『反共主義』の名のもとに行なわれる露骨で剥き出しの政治工作を許容しない時代」のもと、国際社会の歓心を買うために、国内の民主化を認めねばならないというジレンマに陥ります。
全斗煥が憧れ学んだアメリカは、最後には彼の敵対勢力(金泳三や金大中などの民主化運動人士)を支える最大の脅威の一つとなったのである。 (338頁)
東西冷戦のなか、「反共」のためなら謀略も辞さないという昔のアメリカに学んだ全斗煥は、そのアメリカを含めて世界が変わっていっているのに、「反共主義」に固執したと言えるでしょう。 この本の最後では、次のように結論付けています。
冷戦体制が生み出した「反共主義の子」全斗煥は、時代が「冷戦後」に向かう状況の中、政権を獲得し、時代から取り残されていくことになる。 世界が冷戦に本格的に覆われたのは、長く見ても1945年から1990年までのわずか45年間。 その期間は、90年に及ぶ全斗煥の人生の半分に過ぎなかった。 「反共主義の子」がその人生を全うするには、冷戦は余りに短かった、のかも知れない。 (339~340頁)
全斗煥の前の大統領だった朴正煕は、日米欧から資本と技術を導入して産業を興す経済政策が大成功を収めて高度経済成長を実現し、それが今度は中国等の発展途上国の経済発展モデルになったという点で〝時代を先取り”しました。 しかしその次に大統領となった全斗煥は反共主義に固執して、「時代から取り残された」のでした。 全斗煥大統領の執政は大きな成果があったにもかかわらず、それをぶち壊すような過ちを犯した原因はここにありそうです。 (終わり)
木村幹『全斗煥』を読む(1)―捏造の北朝鮮軍事情報 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/01/06/9745027
木村幹『全斗煥』(2)―歴史問題は中曽根訪韓から https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/01/11/9746259
【全斗煥に関する拙稿】
全斗煥 元大統領 死去 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/11/23/9442532
全斗煥政権がオリンピックを誘致し成功に導いた http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/02/08/8784411
全斗煥の功績 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/02/13/8787078
オリンピック誘致で全斗煥政権を応援した日本の市民団体 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/01/30/8778939
芥川賞「砧を打つ女」の李恢成が死去 ― 2025/01/14
1971年に「砧を打つ女」で芥川賞を受賞した李恢成さんがお亡くなりになりました。 合掌。
「砧」は在日社会では1960年代まで打たれていたのですが、廃れてしまいました。 在日女性が砧を打つ姿を記憶している人は、今は年齢では70歳以上でしょう。
私は1990年代に在日一世の方から、もう使わなくなった砧の道具をもらい、砧について調べ、論文を書いたことがあります。 これに関し、20年ほど前に某新聞のコラムで紹介されたことがありましたので、スキャンして掲載しておきます↑。 なお個人情報部分は空白にしましたので、悪しからず。 読みにくければスキャン画像をクリックして、ズームを調整してください。
拙ブログでも「砧」について新たな資料等を紹介しましたので、お読みいただければ幸甚。
【砧に関する拙稿】
砧(きぬた)―日本の砧・朝鮮の砧― http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku18dai.pdf
日本人に伝わった朝鮮の「叩き洗い」洗濯文化 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/11/07/9631945
砧を頂いた在日女性の思い出(1) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/09/21/9297618
砧を頂いた在日女性の思い出(2) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/10/07/9303008
砧を頂いた在日女性の思い出(3)―先行研究 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/10/12/9304894
砧を頂いた在日女性の思い出(4)―宮城道雄 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/10/22/9308333
砧を頂いた在日女性の思い出(5)―宮城道雄(2) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/11/02/9312276
朝鮮で活躍した宮城道雄 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/05/05/6435151
「演歌の源流は韓国」論の復活 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/01/10/6285379
第66題 砧(きぬた) http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/dairokujuurokudai
第90題 朝鮮の砧 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daikyuujuudai
第106題 砧 講演 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyakurokudai
第107題 砧 講(続) http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyakunanadai
第108題 「砧」に触れた論文批評 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyakuhachidai
第109題 ネットに見る「砧」の間違い http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyakukyuudai
第114題 韓国における砧の解説 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/hyaku14dai
第115題 다듬이 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku15dai.htm
第118題 砧―日本の砧・朝鮮の砧 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku18dai.pdf
北朝鮮の砧 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/12/22/2523671
砧という道具 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2008/01/05/2545952
韓国ロッテワールドの砧 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2010/05/11/5080220
韓国ロッテワールドの砧のキャプション http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2010/05/12/5082741
砧―日本の砧・朝鮮の砧 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/07/05/6888511
角川『平安時代史事典』にある盗用事例 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/04/07/1377485
「砧」と渡来人とは無関係 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/04/14/1403192
「砧」の新資料(1) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/12/09/6655266
「砧」の新資料(2) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/12/10/6656721
「砧」の新資料(3) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/12/11/6657527
「砧」の新資料(4) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/12/13/6659222
「砧」の新資料(5) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/12/14/6659970
「砧」の新資料(6) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/12/16/6661166
佐藤春夫の「砧」 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/02/05/8008944
韓国の足踏み洗い http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/08/18/1733824
韓国ドラマにおける洗濯場面 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/11/23/2453257
木村幹『全斗煥』(2)―歴史問題は中曽根訪韓から ― 2025/01/11
https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/01/06/9745027 の続きです。
日本と韓国は歴史問題でこれまでずっと摩擦を続けてきたし、これからもなかなか収まりそうもありません。 ところで日本側の認識では1965年の日韓条約で歴史問題は「最終的かつ完全に解決」としてきたのですが、韓国側ではくすぶり続けてきました。 歴史問題が日韓の外交問題に浮かび上がったのは、全斗煥大統領の時からです。
全斗煥大統領は1984年に日本を国賓訪問した時、天皇から植民地支配を謝罪する言葉が欲しいと要求し、すったもんだの末、宮中晩さん会の際の天皇陛下が挨拶に「両国の間に不幸な過去が存したことは誠に遺憾」と述べたことで一旦は決着しました。
しかしその次の盧泰愚大統領が国賓訪問した際、韓国側は前の全大統領の時よりも〝さらに一歩踏み込んだ謝罪“の言葉が欲しいと要求し、これもすったもんだの末、天皇陛下は「我が国によってもたらされたこの不幸な時期に、貴国の人々が味わわれた苦しみを思い,私は痛惜の念を禁じえません」という言葉を述べました。 これで歴史問題は決着してもう問題化しないと思いきや、その後の慰安婦問題等々で、日韓関係は泥沼状態からなかなか抜け出せずに今に至っていることは周知だと思います。
以上の経過から、日韓の歴史問題の原点というか出発点は1984年9月の全斗煥大統領国賓訪問の時であると、私は思ってきました。 しかし木村幹『全斗煥』(ミネルヴァ書房 2024年9月)によれば、出発点はそれより以前にあるということを知りました。
日本の現職首相の韓国訪問は‥‥1983年1月の中曽根康弘による訪問が初めてであった。 ‥‥ここで今日の日韓関係にまで繋がる大きな出来事がひとつあった。 それは韓国側が首脳会談において、中曽根からの「過去の反省」の言葉を求めたことである。 結果、中曽根は晩さん会の場で次のように述べている。
他方、日韓両国の間には、遺憾ながら過去において不幸な歴史があったことは事実であり、我々はこれを厳粛に受け止めなければなりません。 過去の反省の上にたって、わが国の先達はその英知と努力によって一つ一つ新しい日韓関係のいしずえを築いてこられました。
会談終了後、全斗煥は韓国国会にてこの首脳会談を次のように評価している。
日本首相のわが国への初の公式訪問を通じて両国政府は、昨日を反省し、明日を設計するについて志を同じくした。‥‥
今日において重要なのは、ここにおいて韓国側がこの首脳会談を本来の目的であった「経済協力」問題や朝鮮半島の平和と安定について議論することに加えて、「過去の不幸な歴史」を巡る問題を解決するものとして明確に位置づけ、また日本側の「反省」を求めたことである。 李承晩や朴正熙が訪日した際に行われた首脳会談では、韓国側は同様の「反省」を求めてはいないから、ここに大きな変化が存在することが分かる。 (以上 『全斗煥』 255~256頁)
1983年1月に訪韓した日本の中曽根首相は、韓国側が「過去の反省」を求めてきたのに応じて、「過去において不幸な歴史があったことは事実であり‥‥過去の反省の上にたって‥‥」と挨拶したのでした。 このような日韓間のやり取りが起きた背景には、前年8月にいわゆる教科書問題(「侵略」を「進出」に書き換えた)で日本が中国や韓国から批判を浴びた事件がありました。 これがあったからこそ、日韓首脳会談で歴史問題について韓国側が要求しそれに日本側が応じたという経過になったのです。 歴史問題が日韓首脳外交に取り上げられたのは、この時が初めてでした。
そして韓国側は中曽根首相の「反省」の挨拶を外交的勝利ととらえたようで、翌年の1984年大統領国賓訪問時にも要求して天皇陛下の「遺憾」発言を引き出したと考えられます。 『全斗煥』では次のように記しています。
このような全斗煥政権の姿勢がさらに明確になるのが、この中曽根訪韓の塀例を意味をも込めた訪日においてであった。‥‥ 全斗煥が重要視し、また韓国の世論も注目したのが、戦前に大日本帝国の元首として朝鮮をも君臨した、昭和天皇自身からの謝罪の表明であった。 全斗煥の訪日は、韓国の国家元首として初の公式な国賓訪問であり、当然それを迎える歓迎晩さん会は、国際慣例上は元首格として扱われる天皇の主催によって行われる‥‥ そこでは天皇による歓迎スピーチが予定されており、韓国側はここに植民地支配に関わる文言が入ることを強く期待した。
日本側は抵抗した。‥‥天皇が過去の問題について自らの意見を述べるのは「天皇の政治利用の禁止」を定める憲法の規定に反する、と主張したからである。 しかし韓国側は天皇による植民地支配に関わる発言を執拗に要求し、結果、1884年9月6日に行われた晩さん会で昭和天皇は、「今世紀の一時期において両国の間に不幸な過去が存在したことは誠に遺憾であり、再び繰り返されてはならないと思います」と述べることになった。 (以上 256~257頁)
結局、日本側は韓国側の「天皇の謝罪」要求を受け入れました。 そして韓国政府はこれを了承したのですが、韓国のマスコミは〝これでは謝罪になっていない”と厳しく批判し、世論を誘導していきます。
韓国メディアの多くは昭和天皇が用いた「遺憾」という言葉は謝罪を意味しておらず、韓国側が要求した条件を満たしていない、と批判した (257頁)
韓国では歴史問題で日本に対する厳しい世論が盛り上がります。 この世論を背景に、日韓の外交では韓国側が要求し日本側が謝罪するという「パターン」が生まれました。
重要なのは、こうして日韓両国が二回の公式首脳会談を通じて、外交関係における歴史認識の重要性を再発見し、会談ごとに日本側が謝罪の意思を示す、という一つのパターンが出来上がったことである。 (259頁)
この「パターン」は全斗煥大統領時代に生まれ、継続・拡大していきました。 次の盧泰愚大統領では1990年の国賓訪日時に更に強く要求し、「痛惜の念」という天皇陛下の言葉を引き出したのです。 つまり韓国がより強い「おわび」の要求を日本にしたら、日本はそれに応じてより強い反省で答えたのでした。 このようにして韓国側は歴史問題で日本に要求し、日本側はその要求に応じるという外交「パターン」が定着しました。 韓国の大統領が替わるたびにこの「パターン」が繰り返されたのでした。
そしてついに、2012年には時の李明博大統領が「痛惜の念とかいう言葉で誤魔化すな」と天皇発言を否定し、「天皇は韓国に来たければ独立運動家に謝罪しろ」と言うくらいに激化しました。 さらにその次の朴槿恵大統領は2013年に、「(日本と韓国の)加害者と被害者という歴史的立場は、1000年の歴史が流れても変わることはない」と、1000年経っても解決しないとまで発言したのでした。
以上を振り返ってみると、〝日韓外交の失敗”は1984年の全斗煥大統領の訪日ではなく、それより前の1983年の中曽根康弘首相訪韓の時から始まったと言えます。
『全斗煥』を読んで、韓国現代史の知識を改めねばならないところです。 (続く)
木村幹『全斗煥』を読む(1)―捏造の北朝鮮軍事情報 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/01/06/9745027
【日韓歴史問題に関する拙稿】
韓国で歴史問題が国内政治化したのは2003年から https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/03/21/9474297
韓国が対日請求権解釈を変えたのは1992年から http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/03/15/9472590
韓国では日本の存在感はない http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/02/17/8789342
韓国の反日外交の定番 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/01/22/7546410
世界で唯一日本を見下す韓国人 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/10/06/8216253
中韓は子供と思って我慢-藤井裕久 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/12/27/7157809
実は韓・中を見下している「毎日新聞」社説 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/02/19/7226754
毎日新聞 「“強い国”こそが寛容に」 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/06/15/7344974
韓国を理解できるか https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/02/14/7572016
木村幹『全斗煥』を読む(1)―捏造の北朝鮮軍事情報 ― 2025/01/06
昨年(2024)の朝鮮半島は大きく揺れましたね。 ①1月、北朝鮮が「韓国は敵だ」として統一を放棄。 ②11月、北朝鮮軍がウクライナ―ロシア戦争に参加。 ③12月3日、韓国の尹大統領が非常戒厳令を宣布したことに端を発して、韓国の政局が大混乱。 この余波はまだまだ続くようです。 ④12月29日、韓国の務安空港で飛行機事故により179人死亡。 朝鮮半島は激動の時代を迎えているようです。 目が離せませんね。
そんなことはともかく、拙ブログを続けます。 木村幹『全斗煥』(ミネルヴァ書房 2024年9月)を購読。
全斗煥は韓国では非常に評判が悪いですが、大統領時代にソウルオリンピックを誘致し、北朝鮮からの露骨な妨害に耐え抜いてオリンピックを成功へ導き(ただし開催前に退任)、韓国経済の高度成長を持続させ、そして韓国の世界的地位を高めて次の盧泰愚時代にソ連・中国等との国交樹立に繋げるなどの業績は評価せねばならないと考えています。
全斗煥 元大統領 死去 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/11/23/9442532
全斗煥政権がオリンピックを誘致し成功に導いた http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/02/08/8784411
全斗煥の功績 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/02/13/8787078
オリンピック誘致で全斗煥政権を応援した日本の市民団体 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/01/30/8778939
ところで木村幹著『全斗煥』を読んで、全斗煥について私の知らなかった事実を多く知ることができました。 今はこれらのうち、私が全斗煥について思い込んでいたことがこの本によれば実は違っていた、ということを書きたいと思います。
1979年12月の粛軍クーデターで韓国全軍を掌握した全斗煥は、翌年5月17日に非常戒厳令の拡大や金大中ら有力政治家の逮捕など、軍がすべてを支配するというクーデター(5・17クーデター)を起こしました。 これに対し光州では学生らが反発して軍部隊と衝突したのが1980年5月18日の光州事件(「5・18光州民主化運動」と呼ばれる)です。
この5・17クーデターについて全斗煥は、“北朝鮮が戦争を仕掛ける”という情報があったということを理由としました。 私は、“それはあり得るだろう、北朝鮮と長年に渡って対峙してきた韓国軍なのだから北朝鮮情報は確かだろう”と思っていました。 ところがこの本では次のように記されています。
(1980年)5月10日午前、日本の内閣情報調査室から極秘の情報が来た、と全斗煥の『回顧録』は記す。 彼によればその内容は以下のようだった、という。
「北朝鮮は、韓国政府が1980年4月中旬、金載圭を処刑すると予想していた。 そして金載圭処刑時に激しい抗議デモが発生し、決定的な機会が訪れると判断し、南侵の時期を4月中旬頃に予定した。 しかし、金載圭の処刑が遅れたことにより、この計画を延期し、5月に入って学生と労働者の騒乱が激化すると、北朝鮮は韓国国内の騒乱事態が最高潮に達すると予想される1980年5月15日から5月20日の間に、南侵を敢行することを改めて決定した。」
全斗煥はここから「情報を分析した結果」北朝鮮が仕掛けてくるのは、正規戦ではなく非正規戦だと判断した、と『回顧録』に記述する。 即ち、北朝鮮の正規軍が休戦ラインを肥えて侵攻するのではなく、学生運動や労働争議に紛れる形で韓国国内に浸透し、韓国政府を転覆させようとするのだ、というのである。 (以上 木村幹『全斗煥』ミネルヴァ書房 2024年9月 167~168頁)
つまり北朝鮮が南侵するという情報は韓国軍が探知したものではなく、日本から、しかも内閣情報調査室から提供されたものだというのです。 北朝鮮軍事情報を韓国軍が知らないで日本が先に知っていたなんて、常識的に言ってあり得ないです。 しかも自衛隊ではない内閣情報調査室が韓国軍に直接通報したとなると、これは更にあり得ないです。
この北朝鮮情報を知らされた韓国の野党政治家は、アメリカに本当かどうか問い合わせます。
しかし、政治家たち、とりわけ野党の政治家たちは‥‥この「情報」と「分析」を信じなかった。 野党党首の金泳三は即日、アメリカ大使館を訪問し、ここから韓国政府の伝える北朝鮮の韓国侵略説は妄説だとする情報を得た、と発表した。 慌てた全斗煥は、翌5月13日、米韓合同司令部を訪問し、この点を確認しようと試みるも、アメリカ側の反応は、「米韓合同司令部は北朝鮮による侵略がひっ迫しているという情報は持っていない」という突き放したものだった。 (同上 168頁)
アメリカは“北朝鮮が侵略する”という情報を否定したのでした。 とすると日本の内閣情報調査室から提供されたとする情報は本当なのかという疑問が出てきたはずと思うのですが、全斗煥は突っ走りました。
(5・18光州事件前日の)5・17クーデターについて、全斗煥は次のように述懐する。(『回顧録』)
「韓国への侵略という内容の極秘の情報を受け取った私は、学生たちの抗議行動が流血事件を引き起こし、野党勢力が最終通牒を政権に突き付ける状況に至り、この極端な社会不安が北朝鮮の誤った判断を引き起こす可能性があると考えた。 また、中央情報部長署理と保安司令官を務める立場から、国家の危機を収拾するため、自ら積極的な役割を果たさなければならないという責任感を再確認せざるを得なかった。 日本を通じて入手した極秘の情報は、韓国への侵略を決定した北朝鮮が、とりわけ大学での紛争を「導火線」として利用するという内容のものであり、北朝鮮による挑発と大学での紛争はもはや切り離せない関係になっていた。」 (以上 186頁)
「日本を通じて入手した極秘の情報は、韓国への侵略を決定した北朝鮮が、とりわけ大学での紛争を『導火線』として利用するという内容」というのは、軍事同盟国でもない日本からの情報ですから本来は確認を取らねばならないところだったでしょう。 しかし全斗煥はそんなことをせずに5・17クーデターを起こしました。 そしてこれが翌日の光州事件(5・18光州民主化運動)へ繋がっていったのでした。 ですから全のクーデターの口実に、日本が利用されたということです。 とすると、「日本を通じて入手した極秘の情報」というのは誤情報というものではなく、最初から捏造だったのではないかという疑問が生まれます。
光州事件について私は、“北朝鮮の侵略に韓国内の学生らが呼応しようとしていたから、全斗煥が危機意識を持って韓国軍を動員して対処しようとしたところ、市民が反発して事件が起きた”と思っていたのですが、それは間違いだったようです。 全斗煥はクーデターを起こして権力を掌握する際の口実に、“日本から北朝鮮侵略情報が通報された”という話を捏造したのだろうと思われます。 私の韓国現代史の知識を改めねばならないところです。 (続く)
【光州事件に関する拙稿】
光州事件は民主化運動として普遍化できるのか? https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/05/25/8859204
光州事件の方がましだった―朝日ジャーナル(2) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/01/20/8772995
光州事件のほうがましだった―朝日ジャーナル http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/01/15/8769881
「5・18光州事件」小考 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/10/25/8712337
1970~80年代の韓国民主化連帯闘争 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2011/01/16/5639024
韓国在住華僑の現在(2) ― 2024/12/30
https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/12/25/9741920 の続きです。
―いっそ帰化を選べばいいのではないですか。
「帰化の敷居は余りにも高い。 うちの次男と嫁も帰化の試験に二回も落ちた。 例えば、帰化試験に1947年にボストンマラソンで優勝した韓国人(徐潤福)が誰かという問題。 我々は孫基禎選手(1936年ベルリンオリンピック マラソン優勝者)を知っていても、正直言って他の選手はよく知らないのではないか。 ほとんどの韓国人も答えられないのだ。 韓国に暮らす在韓華僑たちは、韓国に最も愛情を感じている親韓派だ。 在韓外国人の中で、犯罪率も一番低いと知られている。 私も母が韓国人で、在韓華僑たちは、妻や嫁が韓国人である場合も多い。 活動する時も韓国語をたくさん使う。 こんな人たちには帰化に加算点とは言わなくても、試験なんかもちょっと易しくしてくれればいい。」
ここは日本の帰化試験とは違いますね。 日本では社会で意思疎通ができるかどうかの日本語テストで、小学3年程度の日本語能力を試験します。 日本の高校や大学を卒業していれば、免除されることがあります。
一方、韓国では韓国人としての常識があるかどうかのテストになりますが、ここにあるように韓国人でも普通知らないような事柄が試験に出ます。 韓国の新聞にはこんな帰化試験問題を紹介して、「これが韓国人の資格なのか?」と揶揄する記事がありましたね。 https://www.kmib.co.kr/article/view.asp?arcid=0016487244
―現在、漢城華僑協会の会員数はどれくらいですか。
「全国的には1万9千人、ソウルには約9千人前後だった。 だんだん減っていく趨勢であるが、最近は6千人まで落ちた。 過去に朴正熙政府の時に推進した政策が原因で、多くの在韓華僑たちが海外に移住したのが、第一次人口流失だった。 華僑三~四世代たちになって、台湾国籍を敢えて不便でも持っていなければならない理由がなくなってきている。 実は我々の世代ぐらいでは「私は中国人」という概念を持っているのだが、華僑三~四世代たちはそんな概念が弱くなっている。 年取った方たちも、海外旅行に行くのに不便だという理由で多くが帰化を選んでいる。 うちの妻の親戚たちは八親等もみんな帰化した。 過去には韓国に国籍を変えれば、後ろ指をさされる雰囲気もあったが、このごろはむしろ羨ましがる雰囲気だ。」
在韓華僑が大きく減る原因となった「朴正熙政府の時に推進した政策」は、是非知ってほしいものです。 朴正煕大統領は1961~1979年の18年間、韓国を統治しました。 その時に華僑を抑圧する政策を施行したのです。 具体的にいうと、土地所有・営業店舗・株式保有の制限、農地所有・貿易商・定期刊行物発行・金融機関設立の禁止などです。 すなわち会社経営や不動産取得を厳しく制限して、例えば中華料理店は個人経営の小店舗だけに限るようにしたのです。 また華僑たちが集まって組織化されることも阻止しました。 このために華僑たちの多くが国外に脱出し、日本や台湾、アメリカなどに移住しました。 仁川にあった中華街はこの時に廃れたそうです。 在韓華僑は1970年に3万2千人、1980年に2万7千人、1990年に1万9千人と減りました。
この時期の日本では在日韓国・朝鮮人への民族差別に反対する運動が盛んでしたが、“本国の華僑差別は問題にしないのか“という批判がありましたねえ。 当時の運動団体の主張では“自分たちは日本の政府や社会を相手とするものだ”ということで、本国での華僑差別には全くの無関心でした。 彼らの人権感覚は日本国内の自分たちの問題に限られていて、本国には考えが及ばなかったのです。
「過去には韓国に国籍を変えれば、後ろ指をさされる雰囲気もあった」というのは、初めて知りました。 在韓華僑社会では帰化を否定していたのですねえ。 これは在日韓国人が帰化を民族の裏切りと指弾して否定していたことを想起させるものです。 どちらも過去の話でしょうが、共通点があることに驚きました。
―ソウル延禧洞にある漢城華僑中学・高校の全面的な再整備に着手しましたが、子女の教育問題はどうですか。
「在韓華僑たちも、韓国と同じ学齢人口の減少問題を同じように抱えている。 外国人学校という特性と韓国の教育関連法令の制限、台湾政府の支援を全く受けられない自立型教育団体であるところから、色んな難しさがある 。 今度、日本の「甲子園」で優勝した韓国系の京都国際高校のように、韓国の教育制度に編入されて、多文化教育に特化したポジショニングを通して、韓国社会の融合にプラスになるように、制度改善も推進する考えだ。」
ここで日本の京都国際高校が出てきたのにはビックリ。
―台湾国籍の「旧華僑」と、中国国籍の「新華僑」の関係をどのように定めるお考えですか。
「同文同種という言葉がある。 在韓華僑たちの国籍は、台湾(中華民国)であるが、本籍は中国の山東省だ。 また我々を養育し、生活を営む所は大韓民国だ。 徐々に融和をしていかねばならないのではないか。 実際に、個人的に親しい関係はいいのだが、政府的な次元で入っていくと問題となる。 分かりやすく言えば、在日韓国人のうち民団(韓国系)と朝鮮総連(北朝鮮系)関係を思い浮かべればいい。 ある程度時間が必要ではないか。」
「旧華僑」とありますが、昔は「老華僑」と呼んでいました。 この記事にある「華僑協会」の会員とほぼ重なりますね。 そして1992年の韓中国交正常化に伴い、多くの中国人が韓国に渡ってきました。 これが「新華僑」です。 大半が中国吉林省等出身の朝鮮族です。
「旧華僑」と「新華僑」は、前者が「台湾」国籍の漢民族、後者が「中国」国籍の朝鮮民族と違っています。 「徐々に融和をしていかねばならない」とあるように、今のところ両者は仲があまり良くないようです。 記事ではこの関係を在日の「民団」と「朝鮮総連」になぞらえて説明するところにもビックリというか新鮮ですね。
ちなみに韓国の新華僑=中国朝鮮族はコロナ禍前の2019年に54万人だそうで、旧華僑を圧倒しています。 韓国のニュースでは、韓国人の新華僑に対する差別が時おり報じられますね。 (終わり)
【拙稿参照】
韓国在住華僑の現在(1) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/12/25/9741920
『華僑のいない国』―「週刊朝鮮」の書評 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/10/31/9629925
在日韓国人と華僑―成美子 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/09/25/8964788
韓国における外国人差別 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daigojuugodainoichi
合理的な外国人差別は正当である http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daiyonjuukyuudai
韓国在住華僑の現在(1) ― 2024/12/25
韓国の週刊誌『週刊朝鮮2832号』(2024年11月4日~)に、韓国に在住している華僑のインタビュー記事(イ・ドンフン記者)が出ていました。 在韓華僑と在日韓国人とを比較してみると興味深いです。 主要部分を訳してみました。 ところどころで私のコメントを挟みます。
華僑協会選挙に挑戦した「黒白調理師」呂敬来 親韓派在韓華僑たちは韓国でも大きな財産
国内の中華料理業界の第一人者に選ばれる呂敬来シェフが、漢城華僑協会選挙に挑戦する。 最近、世界的に人気を引いているネットフリックス番組の「黒白調理師」を通してよく知られている50年の料理経歴を持つ呂敬来シェフは、台湾国籍の父親と韓国国籍の母親の間に生まれた台湾国籍の在韓華僑である。 ‥‥
「漢城」とはソウルのこと。 日本ではかつて「京城」と呼んでいましたが、中国では昔から「漢城」でした。 これは今も続いています。 昔日本では、「京城」は差別語だから使うなと騒ぐ市民団体がありました。 その時、中国は「漢城」とまるで“中国の城”のように言うのに、これは構わないのかと反論する人がいましたねえ。
漢城華僑協会は台湾政府の指導監督を受けて、在韓華僑の出生・死亡・戸籍など各種行政事務を代行する、一種の半官半民団体である。 漢城華僑協会は、旧韓末に起きた壬午軍乱(1882)の時に、清軍とともに朝鮮半島にやって来た在韓華僑たちが、その間蓄積した不動産などの固有財産を実質的に管理してきた主体として、現在ソウルだけで1万人近い会員を擁しているものと知られている。
1992年、韓中国交と同時に韓国が台湾と断交してから、中国政府も在韓華僑たちを包摂するために、「統一前線」次元で漢城華僑協会との接点を増やしてきた。 これに漢城華僑協会の次期指導部がどんな人物で構成されるのかは、駐韓中国大使館と駐韓台北代表部(台湾大使館格)など、両岸の焦眉の関心事でもある。 ‥‥
呂敬来シェフが現在副理事長である漢城華僑中学・高校は、在韓華僑子女たちが通う学校である。 学校の裏山には、壬午軍乱の時に清軍を率いて朝鮮半島に渡ってきて在韓華僑たちの始祖とされる呉長慶提督の祠堂である「呉武荘公祠」もある。 後日に朝鮮総督として君臨し、中華民国初代大総統までなった袁世凱も、呉長慶の麾下の幕僚の一人だった。 ‥‥
韓国の華僑の歴史が140年以上前の1882年の「壬午軍乱」から始まることは、覚えておいておかねばならないものです。 そしてその数年後の1880年代末に、仁川で中華街(チャイナタウン)が形成されたといいます。 さらに「袁世凱」という、日本近代史に登場する人物が出てきました。 袁世凱は朝鮮近代史でも重要人物です。
華僑は中華民国国籍でした。 1937年から始まる日中戦争の時は敵国民になりそうですが、実は日本は中国に宣戦布告しておらず、また中華民国でも汪兆銘政権(傀儡と言われています)を承認していましたから、敵国民扱いをしなかったようです。
次からは、彼との一問一答。‥‥
―原籍はどこで、祖先たちはいつ朝鮮半島にやって来たのですか。
「原籍は中国の山東省日照で、私が生まれた所は京畿道水原だ。 父の時に韓国に渡ってきた華僑二世だ。 ただし父は私が6歳の時だったか、早く亡くなって、詳しい話は聞けなかった。 光復(1945年)以前に韓国に渡ってきたが、朝鮮戦争が勃発したために帰れなかったと聞いた。 このようにして韓国に定着するようになった。」
朝鮮植民地時代の華僑は1930年頃には6万7千人程でしたが、1931年の「万宝山事件」によって激減し3万7千人になりました。 その後また増加して、1945年の解放時は約8万人だったとされています。 華僑は主に朝鮮半島の対岸である山東省から来ており、呂敬来さんも親が山東省出身だと明かしています。 「万宝山事件」は韓国人があまり触れたがらない有名な事件です。 だからでしょうか、この記事には「万宝山事件」が出てきません。 関心のある方はお調べください。
解放後、朝鮮が南北に分断されたために華僑も分断されました。 また中国本土では国共内戦が勃発し、韓国は国民党(蒋介石)側であったため、韓国に亡命する中国人が相次ぎました。 そして1950年から始まる朝鮮戦争で、さらに混乱していきました。
―弟さんの呂敬玉シェフは韓国に帰化したと聞いたが、台湾国籍では不便はないですか。
「弟の呂敬玉シェフ(前ロッテホテル中国料理「トリム(道林)」の総括シェフ)は、早くに韓国に帰化した。 弟は妻の親戚である侯徳武シェフ(前新羅ホテル中国料理「パルソン(八仙)」の総括シェフ)が帰化したので、本人も帰化したものと思う。 私は、実は帰化の必要性を感じないのだが、年月が経って子供たちが大きくなってきたから、不便を感じる。 子供たちが会社に就職しても国籍問題でビザの発給に困難が伴う。 海外出張などに、色んな難しさがある。」
―具体的に、海外出張がなぜ難しいのですか。
「台湾に戸籍がある旅券は台湾のノービザ協定が適用されるが、在韓華僑たちの台湾旅券はノービザ協定が適用されない。 たとえ会社から明日ヨーロッパに出張に行けと命令されれば、ビザが必要だ。 韓国人たちはほとんどの国家にビザが必要ないが、我々の場合は当該国家のビザ発給部署が韓国ではなく東南アジアにある。 そんな場合、我々はビザをもらうために追加で何日か必要になる。 自然と競争力が落ちて、現実的な不便のために帰化をする人も多い。 私も以前にヨーロッパやアメリカに行く時、ビザの問題で相当に難しかった。」
―台湾政府の方に不便だと訴えてみましたか。
「台湾政府側にずっと要求しているが、簡単でない。 実は韓国だけでなく、ベトナムなどの東南アジアでも台湾に戸籍はないが台湾国籍を持った華僑たちが多い。 公平の原則によって、韓国にだけ便宜をはかれば「誰かはしてあげて、誰かはしてあげない」と混乱が発生することもあり、容易くしてやれない政策的困難があるのだと分かった。」
在韓華僑はもともと中華民国(台湾)国籍なのですが、だんだん韓国に帰化する人が多くなっているようです。 台湾は世界的に承認している国家が少ないので、在韓華僑たちが海外に出る時にビザの取得でかなり苦労しているようです。 (続く)
【京城に関する拙稿】
第79題 全外教の歴史誤解と怠慢―「京城」について― http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/dainanajuukyuudai
第62題「京城」は差別語ではない http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/dairokujuunidai
第24題 「差別語」考 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/dainijuuyondai
京城と名前 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/10/13/1851214
朝日の歴史無知 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/10/20/1861618
韓国で今も使われる「京城」―朝日の間違い http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/10/03/6591244
趙甲済、48年前の投稿―「京城」は誤り https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/03/17/8805084
韓国語の雑学-고려장(高麗葬) ― 2024/12/18
韓国の戒厳令騒動は、まだまだ余波が続くようです。 大統領の弾劾訴追案が国会を通過しましたが、これからは憲法裁判所(憲裁)が認めるのかどうか、ですね。 憲裁の裁判官9名中6名が賛成すれば弾劾が成立するのですが、欠員が3名いて、現在6名だそうです。 ですから一人でも反対すれば弾劾は否定されます。 微妙なところですね。 まあそんなことは関係なく、拙ブログを続けます。
韓国の高齢者問題を扱うニュースを見ていると、「고려장」という言葉が時おり出てきます。 https://www.youtube.com/watch?v=OhUxgeO0DK4&t=16s このニュースではタイトルに出てきています。 これは漢字で「高麗葬」と書くもので、日本語では「姥捨て山」という意味です。 韓国はかつて自らを“孝道(親孝行のこと)の国であり、親を捨てるなんてあり得ない”と言っていたものでした。 しかし近年韓国も高齢化社会を迎えて、そんなことも言っていられなくなったようで、ニュースに出てくるようになりました。
ところで日本の「姥捨て山」が、韓国ではなぜ「高麗葬」なのか。 ちょっと調べてみました。 백과사전(百科事典)にあった説明が一番まとまっているようなので、これを訳してみました。
고려장(高麗葬)
高麗時代に年取った親を他の場所に捨てる風習があったという説話。 その説話は、数百年前に作られたものと推定される。 高麗葬という用語がその説話と結合したのは19世紀末から植民地時代にかけての時期で、このために大日本帝国の歴史歪曲説とか単純な流言飛語が広がったとかの、様々な説が出回っている。 学界で主流とされている文献学上の説は、仏典に出てくる逸話や中国の孝子伝に出てくる逸話が朝鮮に入ってきて、高麗時代を背景に現地化されて、全国に広まったというものである。
高麗葬に似たものとしては、日本では江戸時代に「姥捨て山」といって、年を取り病気になった人を背負子に負い山に行って捨てたという説話が世に知られている。 この説話を元に作られた映画が、カンヌ映画祭のパラムドール賞受賞作である「楢山節考」である。 これ以外にも、ヨーロッパ、インド、東南アジア、サハラ以南のアフリカ等でも、これと同じような説話が出回っているので、この老人遺棄説話はユーラシア―アフリカ全域に広がっている共通の説話と見ることができる。 現在は考古学的調査や文献学的調査などを通して、その話は高麗葬と同じようにほとんど実存しなかったものであって、児童教育を目的として作られた民衆説話であると見られている。
特に韓国の場合、古代の文献を詳細に見ても、飢饉や戦争などの特殊な状況ではない平時にこのような行為を風習としていたという記録は全くないのであって、現在関係する研究者たちはこの風習があったという可能性を否定している。 実存しない風習を語っているに過ぎないというのが、現代の韓国歴史学会の定説である。
そのために説話として存在していた話が植民地時代に朝鮮の生徒たちを教育するために制作された朝鮮の童話を集めた童話集に採録され、説話だったものがある時に民衆たちに歴史的事実として受け入れられたと見られている。 すなわち説話であり童話だったものが、ある瞬間に歴史的事実にすり替わって民衆の意識の中に根を下ろしたのである。
もちろん生存の危険な極限の状況で親を捨てることがあるにはあったが、風習と呼べるものではない。 朝鮮時代でも庚申(1670~71)飢饉の時期に、親を捨てて逃げた男性についての記録があるが、これは単発的な事件であり、風習ではなかった。 朝鮮朝廷は父母や祖父母を捨てたり虐待した者に対して綱常罪(三綱五常に反する罪)を問うて極刑に処し、このような事件が発生した地域の有力者をはじめ、その地域を管轄する地方官を厳しく懲戒し、地域の行政等級を下げる等の強力な措置を取ったりした。
高麗時代は平均寿命が42・3歳で、自然死が極めて少なく、人口ピラミッドが三角形で、疾病や事故死の確率が大変高く、高齢人口が維持されていなかったので、高麗葬は風習として存在しなかった可能性が高い。
今の韓国のニュースで出てくる「고련장(高麗葬)」は、“親を他の所(他の家族や老人ホームなど)に送る、あるいは押し付ける”、それはすなわち“親を捨てる”ことだという意味で使われているようです。 https://www.youtube.com/watch?v=m_nRrnFJQ48 このニュースでは、親を療養院(老人ホーム)に送ることを「現代版高麗葬」と言っています。
そういえば、かつて日本でも老人ホームに行くことを「楢山に行く」とか「楢山参り」とか言っていましたねえ。 今は、こういうことは言わないようです。
【拙稿参照 ―韓国の高齢者問題(ただし10年以上前のものです)】
韓国の老人孤独死 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/10/09/7003945
韓国の「祖孫家庭」問題(1) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/12/06/7097028
韓国の「祖孫家庭」問題(2) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/12/11/7105330
韓国の「祖孫家庭」問題(3) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/12/15/7109387
韓国で、おばあさんと赤ちゃんの痛ましい死 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/08/04/6530632
【韓国語の雑学―これまでの拙稿】
韓国語の雑学―客妾(객첩) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/03/10/9666292
韓国語の雑学―남부여대(男負女戴) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/11/14/9634052
韓国語の雑学―전산이기(電算移記) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/06/17/9594956
韓国語の雑学―賻儀 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/11/26/9543701
韓国語の雑学―将棋倒し http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/04/15/9235466
韓国語の雑学―下剋上 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/04/22/9237987
韓国語の雑学―「クジラを捕る」は包茎手術の意 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/12/10/9325273
韓国語の雑学―내로남불(ネロナムブル) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/01/04/9334079
韓国語の雑学―東方礼儀の国 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/06/17/9388692
韓国語の雑学―동족방뇨(凍足放尿) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/09/02/9418323
日本への悪口言葉―韓国語の勉強 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/07/19/6907092
『在日コリアンが韓国に留学したら』を読む(2) ― 2024/12/11
https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/12/06/9737449 の続きです。
次にアイデンティティと大いに関係のある言葉です。 韓光勲さんが韓国に留学した目的は、韓国語の習得です。
僕は母語が日本語で、韓国語を勉強するために韓国に留学しに来ている。 (151頁)
僕は、韓国語を「取り戻したい」と思って韓国にやってきた。 (157頁)
(韓国語は)僕の母方の家族が一度失ってしまった言語。 父方の家族が話す言語だ。 それは母語でもなければ、単なる「外国語」でもない。 (158頁)
韓さんは自分の民族的アイデンティティを確認するために韓国語を勉強しておられるようです。 これは私のように外国語を趣味や教養でやる者とは違って、勉強の意気込みがすごいですね。 しかし彼が民族を取り戻すべくここまで思い入れて学んでいる韓国語は、本国の韓国人から評価されません。
(韓国での)飲み会の席で初めて会った30代くらいの韓国人女性に、英語でこう言われたのだ。 「Can you speak English? Because your Korean is not fluent. (あなた、英語を話せる? あなたの韓国語は流暢じゃないから)」 驚いてすぐに反応できなかったが、やがて怒りでワナワナ震えた。 こんな侮辱はない。 「あなたの韓国語は流暢じゃない」なんて一番言われたくない言葉だ。 おまけに「韓国語じゃなくて英語を話せ」と言われているのだ。(150~151頁)
韓国語のレベルは中級~上級くらいだと思う。 当時、語学堂では、上から2番目のクラスに所属していた。 韓国語能力試験の6級(最高級)合格したこともある。 その韓国人女性の言葉は、僕をバカにしているだけでなく、韓国語を学びにわざわざソウルにやってきた僕の人格を否定する言葉だと感じた。 在日コリアン三世として育った僕が、どんな思いで韓国語を勉強してきて、語学堂にいま通っているのか。 少しでも想像力を働かせてほしい。 とにかく悲しかった。 (151頁)
こうやって僕が学んできた韓国語を、韓国人から侮辱されるのはたまったものではない。 (158頁)
誰でもそうですが、成人になって外国語をいくら学んでも、なかなか流暢に話せるものではないです。 「韓国語能力試験の最高級」を合格したとしても「レベルは中級~上級くらい」「上から二番目のクラス」であるなら、本国の韓国人と対話したら「かなり違う」「流暢でない」と感じられてしまうのは当たり前でしょう。 しかし韓さんはそれを言われて、「僕をバカにしている」「人格を否定している」「侮辱されている」と反発を感じたと言います。
私のように日本人なら「ハングンマル チャラシネヨ(韓国語、お上手ですね)」と言ってくれますが、在日は同じ韓国人ですから「ハングギニンデ ジェデロ モタヌンガ(韓国人なのに、ろくに喋れないのか)」と言われることになります。 本国の韓国人は「民族を取り戻すために韓国語を勉強しています」と聞かされても、「韓国人のくせに」となってしまうようです。 韓さんが「少しでも想像力を働かせてほしい」と願っても、相手の本国韓国人は温かい目で見るのではなく大きな違和感を持つのですから、先ずは韓さんの方が「想像力を働かせる」べきではないでしょうか。
また韓さんは日本でも似た体験をしたと言います。
初対面の人に名前を名乗ると、「日本語が上手ですね」とか「日本には長く住んでいるのですか」と言われることがあるのだ。 もちろんイラッとする。 僕は古文が昔から得意だし、日本史はセンター試験ではほぼ満点だったし、今でも明治以降の外交文書や擬古文はすらすら読める。 ライターもしているし、「あなたよりも日本語能力は高いですよ」と思う。 生粋の大阪生まれで、関西弁をこんなにべらべら話しているのに、「日本に長くすんでいるか」なんて愚問でしかない。 (152~153頁)
初対面の日本人に「韓光勲(ハン・カンフン)」と名乗ると、その日本人には来日した外国人なのか日本で生まれ育った外国人なのか、区別がつかないものです。 そんな日本人が失礼にならないように思って口から出た言葉が「日本語が上手ですね」「日本に長く住んでいるのですか」なのでしょう。 「愚問」ではないし、悪気もないので「イラッとする」こともないと思うのですが‥‥。 日本で「韓光勲(ハン・カンフン)」と名乗ると相手の日本人はどう受け取るのか、これもまた先ずはご自分の方から「想像力を働かせればいい」のではないでしょうか。 なぜ他人に「想像力を働かせる」ことを要求するのか、ちょっと理解できないところです。
日本で「日本語がうまいですね」と言われるとき。 あるいは韓国で「あなたの韓国語は流暢じゃないから」と英語で話されるとき。 僕の心はやっぱり傷ついてしまう。 同じ社会に住んでいる人として対等に扱われない感覚。 いつまでも「よそ者」として仲間に入れてもらえない感覚。 そうした感覚を抱かせてしまう言葉 (157頁)
韓さんは、日本では喋りや身のこなし等はすべて日本人と同じなのに外国籍であるから「よそ者」扱いされ、韓国では同じ韓国人なのに言葉が流暢でないから「よそ者」扱いされる、だから「仲間に入れてもらえない」「対等に扱われていない」という感覚になるようです。 これは韓さん個人の感覚なのですが、そうならばどう行動すればいいのか、です。 だからこそ「仲間入り」しようと努力するのか、あるいはどうせ仲間入りできないのなら「よそ者」でも構わないとするのか、それともそんなことは何も考えないとするのか、「よそ者」扱いする日本人が悪いとして闘うのか、‥‥いろんな道が考えられます。 その道は韓さん自身が判断して選択すべきことだと思います。
在日コリアンは「社会の常識」を揺り動かす存在になれるとも思う。 もし「あなたは韓国人の名前なのになぜ日本語が話せるんですか?」と質問されたり、少しでもこういうテーマに関心のある人に出会ったりしたときは、「名前や言葉、国籍、民族、出身地って、本当にいつも一致するものなのでしょうか?」と逆に質問してみたい。 その人の常識を揺り動かしたい。‥‥ 新たに出会う人にそうやって質問していけば、僕の周りにいる人の持つ「常識」をちょっと変えることくらいはできる。 (167頁)
「名前や言葉、国籍、民族、出身地はいつも一致する」という「社会の常識」を揺り動かそうという韓さんの話は、世の中にはそういう “一致しない”外国人もいることを知ってほしいという点に限れば理解できます。 なお「出身地」は、韓さんの言うものと一般に使われているものとが少し違っているようです。
ところで「名前や言葉、国籍、民族、出身地って、本当にいつも一致するものなのでしょうか?」という質問に対して、私ならこう答えます。
「 “一致しない”つまり “韓国人なのに韓国語ができない”あるいは “まるで日本人なのに韓国人”であることで本人が納得しているのなら、『イラッとする』事態に我慢できるだろう。 しかし子や孫の世代までも我慢させることが果たしてどうなのか。 いつまでも “一致しない”状態を続けるわけにはいかず、将来のいつかは “一致する”方向に行くことになると考える。」 (終わり)
【在日に関する論考集(20年以上前のものです)】
『在日コリアンが韓国に留学したら』を読む(1) ― 2024/12/06
韓国ではビックリ事態。 戒厳令が敷かれたかと思うと、6時間後に解除。 混乱が続いているようです。 今ここではそんなことに関係なく、拙ブログを続けます。
韓光勲『在日コリアンが韓国に留学したら』(ワニブックス 2024年10月)を購読。 まず著者の韓光勲さんの経歴は、この本の最後のページによると
1992年大阪市生まれ。 在日コリアン3世。 2016年、大阪大学法学部卒業。 2019年、大阪大学大学院国際公共政策研究科博士前期課程修了。 2019年4月から2022年7月まで、毎日新聞で記者として働く。 2023年3月から約1年間、韓国で留学生活を送った。
それではどんな家庭だったのでしょうか。 家族構成は本文では次のように書かれています。
父は韓国生まれで、23歳のとき日本に働きにやってきた。 母は大阪市生まれの在日コリアン二世。 (4頁)
父は韓国・済州道で生まれ、23歳まで済州道にいました。‥‥ 母親は大阪市西成区で生まれ育った在日コリアン二世。 (94頁)
僕の兄2人と姉 (16頁)
以上から判明することは、まず父親の姓が「韓」であり、韓光勲さんは父親の姓を受け継いでいることです。 韓国の当時の戸籍法(今は家族関係登録簿)では、子供は生まれると父親の戸籍に入って、父親の姓を受け継ぐからです。 なお両親が事実婚で韓さんが婚外子の場合、母親の戸籍に入って母親の姓を受け継ぎますが、当時としては極めて特殊事例なので考える必要はないでしょう。
韓さんは4人兄弟の末っ子として1992年に生まれました。 とすると、韓国で生まれ育ったニューカマー(来日)の父親と日本で生まれ育ったオールドカマー(在日)2世の母親は、1980年代に結婚したと推定できます。
次に、家庭内ではどんな言葉が話されていたのかです。
家族の会話はもっぱら日本語だ。 (4頁)
家庭ではずっと日本語を使っているからだ。 (15頁)
父親の母語は韓国語です。‥‥ 母親の母語は日本語で、韓国語は話せません。 自然と、家での共通言語は日本語になりました。 父は日本語が堪能です。 (94頁)
ニューカマーとオールドカマーとが結婚して日本で暮らす場合は、家庭内の言葉は日本語になりますね。
ただ一般的にニューカマーは母国(韓国)の父母や祖父母、兄弟らとの関係が切れておらず、コミュニケーションを取っているものです。 だから韓さんの場合、父親はしょっちゅう母国に帰っていただろうし、そして家族・親戚らも来日していただろうと思われます。 また韓さん自身も幼い時から母国のハラボジ・ハルモニ宅に帰省することがあっただろうと推測します。 ですから家庭内の日常語は日本語でも、本場の韓国語に接し喋る機会は多かっただろうと思うのですが、この本ではそんな話が出てきませんね。
韓さんの本では、民族性について強い影響力を持っているはずの父親の存在感が薄いです。 読んでいて、父親は家から離れていると思ったくらいでしたが、次の記述でそうではないと判明しました。
韓国出身の父は当初、(2018年文在寅政権時の)南北対話に大きな期待感を持っていた。 父は南北対話を伝えるニュースを見ながら涙を見せていた。 (119頁)
次に韓さんのアイデンティティです。 彼は次のように述べます。
僕は日本では「韓国人」として扱われることもあるが、「日本人」として扱われる場合も多い。 国籍は大韓民国であり、韓国のパスポートを持っているから「韓国人」なのかといえば、必ずしもそうではない。 初対面の人に「国籍は日本ですよね」と言われる場合が多くある。 これは仕方ないと思う。 僕の生活様式は完全に日本だ。 だが、行政の場に出ると、全く違う。 完全に「韓国人」として扱われる。 厳密にいえば「特別永住者」という立場だ。 (148頁)
僕の場合、「名前」は韓光勲で、「国籍」は韓国、「出身地」は大阪、「第一言語」は日本語、「民族」は韓国人、「アイデンティティ」は在日コリアンだ。 日本か韓国のどちらかに統一されていない。 それには歴史的な経緯がある。 このことを初めて会った人に理解してもらうのは骨が折れる。 (166頁)
ここにある「統一されていない」は、鄭大均さんが言うところの「今日の在日韓国人に見てとれるのは、韓国籍を有しながらも韓国への帰属意識に欠け、外国籍を有しながらも外国人意識に欠けるというアイデンティティと帰属(国籍)の間のずれであり、このずれは在日韓国人を不透明で説明しにくい存在に仕立て上げている」(『在日韓国人の終焉』文春新書 2001年4月 4頁)にあることと同じですね。 自分を客観的に証明する法的地位(韓国国籍や特別永住)と自分を主観的に意識するアイデンティティ(言語や生活様式など)とが統一されておらず、“ずれ”があるのです。 韓さんは、その“ずれ”を周囲の日本や本国の人には理解してもらうのに「骨が折れる」とおっしゃっています。
ただ、このような“ずれ”は在日だけが有するものではなく、他の外国人にも当てはまります。 日本で生まれたとか幼少の時に来日したという外国人の中には、幼稚園からずっと日本の学校に通ってきたという人が多くなりました。 外見も名前も国籍も外国人なのに、言葉や身のこなしは完璧な日本人という“ずれ”を有することになります。 近頃は、外国人のこの“ずれ”をテーマにしたユーチューブがよく出てきていますね。
韓さんは外見までもが完璧な日本人で、外国人だと分かるのは名前や国籍を自ら名乗る時だけになっているようです。 ですから何も喋らなければ全くの日本人として見せることになり、周囲も本人が言わなければ同じ日本人と思うでしょう。 とすると外国人だと発覚した時の“ずれ”の感覚は、当然に大きいでしょう。 従って別に言えば、これは在日特有の問題ではなく、外国人問題の一つの類型としてとらえるべきではないかということです。 そしてその解決は、当人がその“ずれ”をなくすのか、それともそのままにしておくのかになるでしょうが、自分で判断して選択する以外になく、周囲はそれを理解し尊重することが求められるでしょう。 (続く)
【在日に関する拙論(最近のものです)】
在日韓国・朝鮮人自然消滅論(1) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/11/26/9734747
在日韓国・朝鮮人自然消滅論(2) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/12/01/9736094
在日の「国籍剥奪論」はあり得ない https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/11/19/9732903
在日の定義は歴史意識にある―『抗路11』 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/03/24/9670017
在日韓国人と本国韓国人間の障壁 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/12/12/9641974
在日のアイデンティティは被差別なのか―尹健次 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/06/12/9387023
『抗路』への違和感(2)―趙博「外国人身分に貶められた」 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/06/02/9383666