日本式の礼節は韓国人には通じない
確かに、日本人は初対面では、双方の情報が多くないので、無駄に相手を警戒させないためにも、相手を無駄に威圧したり警戒させるような態度や言動は控え、相手の意を迎えることで穏やかに関係をスタートさせようとするのが普通でしょう。
それに対して韓国人が初対面の相手に迎合することは、少なくとも私の経験から言うと極めて少ないと思います。韓国人は、初対面の相手には、とりあえず自分と自分の意見を尊重させようとします。そのために、自分を少しでも大きく偉く見せようとします。既に皆様ご承知の通り、韓国人は対人関係を上下でしか認識出来ないためです。
だから韓国人には、とりあえず最初にがつんと言って、こちらが上であるということを相手にわからせろと私たちは言います。しかし「初対面の相手に対し、いきなりがつんと自分が上であることを誇示する」という態度は日本人的には大変にはしたなく、見苦しいものです。
そのため、自らがそういう態度を取るのを憚るばかりでなく、他の日本人がそういう態度を取ることを非難する日本人は大変に多いのです。そのくせ韓国人が初対面で尊大な態度をとっても、それにさほどに目くじらを立てないから、日本人は不思議です。
ただ目くじらを立てないだけではありません。そういう日本人は韓国人にひどく寛容です。それに加えて日本人には先に述べた迎合癖があるので、韓国人から見れば、日本人は自ら進んで韓国人の下位に甘んじようとしているようにしか見えないでしょう。
日本人の多くは、韓国人の対人関係を上下でしか認識出来ないという習性を知らないためか、あるいは知っていても実物と遭遇すると彼らが被っている人間の皮に惑わされるのか、それとも日本人としての分別が邪魔をするのか、なかなか初手からがつんと食らわすことが出来ません。
日本の礼節に則って相手の意見に耳を傾け、その意見に賛成出来なくとも頭から反対せず一定の理解を示そうとし、相手を刺激しないようにします。まことに大人の態度だと思います。
しかしその態度を「大人の態度」と受け止めるのは日本人だけです。韓国人はその態度を見て「この日本人はもうウリの下僕だ」と確信するでしょう。
しかし、日本人ならわかると思いますが、穏やかにこちらの意見に耳を傾け、その意見に一定の理解を示し、頭から反対せず、こちらを刺激するような激しい反応をしなかったからと言って、その日本人が自ら進んで下位に立とうとしているわけではありません。それどころか、その態度自体が相手を下に見ている可能性さえあります。
この辺りの機微は日本人同士でも、悪く言えば腹の探り合い、良く言っても本音と建前のせめぎあいで、わかりにくく面倒くさいこと甚だしくはありますが、とにかく日本では相手が穏やかにこちらの意見を聞いているからと言って、それが必ずしも承諾や受容を意味したり、ましてや自ら下僕を任じているわけではありません。
これは日本人同士でも面倒くさいし勘違いしやすいことですから、韓国人に理解を求めるのは酷ですし、たとえ求めても韓国人には理解出来ません。韓国人にしてみれば、一度自ら下位に立ったくせに、しばらくすると韓国人を上と思わないようなことを言ったりしたりする日本人に困惑するに決まっています。
韓国人の持つ代表的な日本人のイメージに、「顔は笑っているが、懐に刀を忍ばせている」というのがありますが、日本人の迎合癖が、韓国人のそのイメージをより強固なものにしているのは間違いありません。
確かに日本人が韓国人に迎合してやれば、その場は上手く行くかもしれません。穏やかに和やかに話が出来るということは、日本人的にはとても快適です。しかしその迎合が貫徹されなければ、必ず悶着が起きます。実際、今ある日韓問題の全てが一切の例外なく、日本人の迎合癖に由来すると言っても過言ではありません。
日本人が韓国人に迎合することが日韓友好を促進させると思っている日本人がいるとすれば、直ちにその考えを改めるべきです。たとえ初手から衝突することがあっても、激しく罵り合うことになっても、是は是であり、非は非であり、虚は虚であり、実は実であるということを徹底することが、日本はもちろんのこと、韓国にとっても最終的には益になるのです。
対人関係を「上下」でしか認識出来ない相手に、「お互いさま」は通用しません。「お互いさま」が通用しない相手に、日本式の礼節は通用しません。日本式の礼節で韓国人に接すれば、必ずそれは後に禍根を残すことになります。
日本人が日本式のやり方で韓国人に接する限り、日韓間の悶着は積み上がり続けるでしょう。それがいつの日か臨界を超えることがないと誰が言い切れるでしょうか。
そうならないためには、日本人が日本式のやり方で韓国人に接するのを止めるか、さもなければ韓国人との接触を断つかのふたつにひとつしかありません。
更に日本人が日本式のやり方を捨ててまで韓国人と接しなければならないほどの理由があるのかということを考えた時、選択肢がひとつしか残らないということは、かねてより弊ブログで提唱しているとおりです。
日米韓包囲網を作れば、韓国が必ず穴になる
さて、多くの日本人が大なり小なり感じているように、昨今の日中関係は剣呑です。
日本に対して、中国がいつ本格的な武力行使を始めても不思議ではない状態にあることは、先般の中国海軍によるレーダー照射事件からも明らかです。中国の狙いは尖閣諸島だけではありません。本命は沖縄ということも徐々に日本人に知られつつありますし、更にエスカレートして、日本全土を手中に収めようと中国が考えていることも、決して杞憂ではないでしょう。
日本侵略を目論む中国にとって、目の上のたんこぶは間違いなくアメリカです。
日本の自衛隊もそれなりの実力を持っていますが、日本の自衛隊だけが相手であれば勝算はあると中国が考えていても不思議はありません。現時点では、日本の武力行使には多くの手枷足枷がはめられており、たとえ自衛のためであっても、突然行使された武力にすぐさま武力で応じることが難しいのが現実です。
そればかりではありません。日本は核兵器を持っていませんが、中国は核兵器を持っています。中国が日本を核兵器で攻撃しても、それに対して日本が中国に核兵器で報復することは出来ないのです。つまり中国は、日本からの報復を全く恐れることなく、思う存分日本に対して核攻撃が可能なのです。
確かに、日本に核兵器を使用すれば、国際世論は中国非難一色になるでしょう。ですが、一度核を撃ち込まれてしまえば、国際世論の非難など何になるでしょうか。
世界には法律はありますが、それを遵守させる強制力もなく、法律に違反した国を取り締まる警察もいません。核攻撃された国に肩入れして、何の見返りも求めず自国の国民を犠牲にしてまで仇討ちしてくれる国など存在しないのです。
ですから日本と中国がサシで戦えば、中国が勝てると思っている中国人は結構いるだろうと思います。
しかしそれが日本とアメリカの連合軍であれば、話は別です。日本の自衛隊だけでも精鋭ですが、それにアメリカ軍が加わるとなれば、いくら数押しが得意な中国でも勝てる見込みは極めて小さいでしょう。それにアメリカは核兵器を保持しています。実際に使った経験さえありますw 大朝鮮と揶揄される中国ですが、それでも朝鮮人よりは現実を見ることが出来る中国人が多いのではないかと思います。
だから中国は、今後日米離間を画策するだろうという有識者の意見を、3月24日のたかじんの委員会で見ました(動画の該当部分は17分20秒辺りから)。
それについては私も全く異論がなかったのですが、続けて「(中国は日米離間と同時に)日韓が協力出来ないような状況を作りたがっている。だから日米韓がまとまれるような体制を作れるかどうかが重要だ」と述べられたところで、軽くずっこけました。
確かに、地政学的に見れば日米韓で中国包囲網を作れれば理想的と言えるでしょう。ですがもし実際に日米韓で中国包囲網を作れば、必ず韓国が穴になります。しかも致命的な穴になりかねません。これは私が嫌韓だから言うのではありません。韓国が日本に対して敵意や害意を抱いているのはもはや明白ですし、反米意識も決して小さくはありません。また彼らが多国間における協調性に大きく欠けるということは、既に六カ国協議の時に露呈しております。
それにこういう発言は、日本にとって、韓国がアメリカと同等程度の重要性がある国だと視聴者に誤認させる発言じゃないかといらっとしました。
その発言の後は、韓国に関する言及が全くなくなったので、その有識者の真意は如何ともはかりかねましたが、ただやはり、未だに日本の有識者には、こういう人が多いのだろうとは思います。
中国からの脅威に、少しでも多くの対抗材料を探したい日本人にとって「同じ黒い髪黄色い肌」「同じ西側」「アメリカを介しての間接的同盟国」をよすがに、韓国を味方と思いたい気持ちはよくわかります。
しかし韓国は、日本の味方のふりをすることは盛んですが、本当に日本の味方になることは絶対にない国です。その理由は、これまで弊ブログで散々述べてきました。そんな国に包囲網の一端を委ねれば、必ずそこから綻びが生じるのは必然です。
日本がもっと韓国に対し、強圧的且つ狡猾に振る舞えるようになれば、あるいは彼らを上手に使えるようになるかもしれませんが、無条件で韓国が日本の味方である前提で安全保障の話をする有識者が後を絶たない今の日本に、そんな芸当は決して出来ません。
韓国は、どうしようもない国です。そのどうしようもない国を日本の安全保障の勘定に入れることは、危険きわまりない発想であるという認識を、一人でも多くの日本人に持ってもらいたいと思った次第です。
「理想」を実現するために「現実」を直視するということ
さて以前から再々申し上げている通り、弊ブログでは異論反論を歓迎しております。議論は、異論反論がある方がより具体的なものになると思っているからです。たとえ捨てハンでも、堂々とコメント欄で異論反論を唱える人の方が、余人の目に触れにくいところでコソコソ陰口を叩いて溜飲を下げている人よりずっと建設的というものです。
今回戴いたのは「異論反論」と言うよりはご批判なのですが、なかなか興味深いと思いました。
>彼らは彼らの脳内に、理想の韓国人像を作り、それを自分だと思っています。しかし現実は、当然に異なります。普通の人間ならば、自らの理想と現実が食い違えば、現実の方を直視し、それに基いて理想に到達すべく努力なり研鑽なりをするのでしょうが、韓国人は違います。彼らは、現実の方が間違っていると考えるのです。 まるっきり日本人の保守勢力と同じじゃん。 現実が理想に追いついてないから、理想の方を変えようってことで「憲法改正」を謳っているのが現政権。 そして、それに賛同しているのが今の日本国民。 どこに違いがあるというのでしょう? よその国民を卑下し自分たちを顧みない人たちが「韓国人は変わらない」なんてよく言えたものです。 2013/03/21-06:51 | URL | 一見さん #-[ Edit] |
確かに、日本国憲法はその前文で次のように謳っています。
日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。 われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。 |
まことに「崇高な理想と目的」だと思います。しかしこの「崇高な理想と目的」を達成するためには、日本国民の努力だけではなく、「平和を愛する諸国民の公正と信義」「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会」「いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」「政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務」といった諸条件が必要になります。
では現在の国際社会において、これらの諸条件が十全に満たされていると胸を張って言える人はいるでしょうか。全世界ではなく、日本の周辺地域に限定しても、私はとてもこれらの諸条件が満たされていると思うことは出来ません。
つまり、掲げた「理想」を実現するための前提が成立していないのが、「現実」なのです。その「現実」を直視すれば、「理想」を達成するための前提を考え直さなければならないと考えるのは、日本人であれば当然でしょう。
「理想」を実現するために「現実」を直視する、ということが出来ないのが、韓国人です。彼らにとって「理想」は前提であり結論です。それを認めない「現実」の方が間違っており、正されるべきは彼らの考える「理想」が認められないという「現実」、あるいは「現実を現実として認識する人々の意識」なのです。
即ち前掲のコメントは、当人にそのつもりは完全になかったと思いますが、結果的には私たち日本人が、「理想」を実現するために「現実」を直視し、「現実」に則した対応が出来るということを、図らずも示唆してくださることになったのではないかと思います。
理想を掲げることが悪いことだとは、私は全く思っていません。掲げた理想に向かって邁進努力することも、悪いことだとは思いません。しかし、自分が考える「実現されていない理想」を認めろと他人に押し付け、それが受け容れられなければ火病り、あるいは上っ面を整えることで「実現されていない理想」が実現されたかのように誤魔化したり、「実現されていない理想」を実現されていると嘘をついて騙したりすることが、悪いのです。
私たち日本人は、そういう「朝鮮人のような真似」を、対岸の朝鮮半島でなく、この日本国内で3年3ヶ月の長きに渡り展開させてしまったという「現実」を、決して忘れないようにしなければならないと、今回戴いたコメントを読みながら改めて強く心に刻んだ次第です。
何故韓国人は変われないのか
私が「韓国人は変わらない」と考えている理由は、まず彼らの「現実を直視しない」という性質です。
彼らは彼らの脳内に、理想の韓国人像を作り、それを自分だと思っています。しかし現実は、当然に異なります。普通の人間ならば、自らの理想と現実が食い違えば、現実の方を直視し、それに基いて理想に到達すべく努力なり研鑽なりをするのでしょうが、韓国人は違います。彼らは、現実の方が間違っていると考えるのです。
彼らは盛んに歴史を変え、名前や誕生日を変え、容貌を変えますが、彼ら自身を変えようとすることはありません。
次にこれもまた再三ならず申し上げていることに、韓国人は自らの非を認めないというのがあります。自分に悪いところがあることを認めない者は、改善をしません。自分には悪いところがないと確信しているのですから、当たり前です。
100年前、私たちの祖先は朝鮮人も変わり得ると考え、その実現のため朝鮮半島に莫大な援助と投資を行ないました。
その結果が、現在の韓国です。
なるほど100年前と比べれば、見た目はずいぶんと変わりました。二階建て以上の建物が存在しなかったと言われるソウルの街には高層ビルが乱立し、大八車さえなかった道路には自動車が溢れかえっています。庶民が飛行機に乗って海外へ行くことも、別に珍しいことではなくなりました。携帯電話はもちろんのこと、iPadやiPhoneを持っている韓国人も一般的だと聞きます。パソコンを操作しインターネットに接続することが、韓国人の日常生活の一部となっていることも事実でしょう。
ですがその中身はどうでしょうか。私が見る限りでは、100年前の朝鮮人も今の韓国人も、中身は微塵も変わりません。100年前からの朝鮮の歴史を振り返り、今の韓国人を観察すれば、嫌でもそのことを思い知らされます。100年前の朝鮮人よりも今の韓国人の方が、文明の利器を手にした分だけ厄介になっているとは言えるかもしれませんが、本質的な部分は何も変わっていないのです。
生物の進化の速度で言うならば、100年はおろか、1000年という時間さえ一瞬かもしれません。ですので、100年ぐらいで結論を出すのは早いと言う人がいるかもしれません。ですが、私たちが一生どころか数世代、数世紀を掛けても感知出来ない速度で変化するものを「変化する」と言うのは、学問的には意味のあることかもしれませんが、現実的にはあまり意味がないと私は考えています。
少なくとも、この100年で韓国人は微塵も変わりませんでした。「韓国人は変わり得る」と考える人は、あと100年を費やして韓国人を変える、あるいは韓国人が変わるのを待てと言うのでしょうか。それは私たちの先人が遺した教訓を無にするに等しい所業ではないでしょうか。
「韓国(朝鮮)人も変われる」という思想に基づいて彼らに接することは、「韓国人が変わるのを期待するのは無駄なことである」という教訓の実例を増やすことには、役立つかもしれません。しかし私たちは既に多くの教訓を得ています。これ以上同じ教訓を増やすことは、「韓国人は変われない」という事実の説得力を深めるには役立つかもしれませんが、それに伴う犠牲を思うと賢明とは思えません。
日本人も、朝鮮人よりは変われると言っても、そんなにコロコロ変わるものではありませんし、何もせずに変われるものでもありません。「韓国人も変われるはずだ」と思う(あるいは思いたい)日本人が、いまだに一定数存在するのも、日本人が根強く持つ人の好さに由来するものだということは、よくわかります。
ですがもう十分ではないでしょうか。メディアがこれほどまでに発達し、家に居ながらにして古今東西の情報に接することが出来る現在、何故100年前の情報不十分な時代の人々と同じレベルで思考しようとするのでしょうか。
「韓国人も変われるはずだ」というのは、根拠のない願望あるいは夢想でしかありません。
私は「韓国人は変わらない」と考えていますが、「韓国人に変わって欲しくない」と考えているわけではありません。しかし、どんなに私たちが「韓国人に変わって欲しい」と願っても望んでも夢見ても、韓国人自身が変わろうとしないというのが、動かしがたい現実なのです。
手話を用いて人間とコミュニケーションが取れるゴリラは実在します。漢字を読めるチンパンジーも実在します。だから韓国人の中にも、人がましくなり得る者が存在する可能性は否定しません。
しかしほとんどのゴリラが手話を駆使して人間とコミュニケーションを取れるようになるわけではありませんし、ほとんどのチンパンジーが漢字を読めるようになるわけでもないように、全ての韓国人が人がましくなることはないというのが、今私たちの目の前に厳然と存在する現実なのです。
「韓国人も変わり得る」と思いたい気持ちはわからなくもありません。しかし自分が認めたくない現実から目を逸らして夢想へ逃げ込むのでは、朝鮮人と同じと言われてもしかたないでしょう。
日本に朝鮮化を求める人々
こういう態度を、日本人はとみに嫌います。何故なら、こういう相手とは「お互いさま」が成立しないからです。
日本人は基本的に「お互いさま」を旨とします。「お互いさま」では、自分が譲れば相手も譲ってくれるだろうと期待します。譲られた方も、相手が譲ってくれたということは、自分も譲ることを期待されているのだろうなと察し、相手が譲ったのと同じ程度に譲ります。そうやって「お互いさま」は成立します。
阿吽の呼吸などと言って、この「お互いさま」はまことに高度な対人意識を要求されます。これには外国人はもとより、当の日本人もかなり疲れるものがあります。
ですが疲れても、この方が「長い目で見れば」いろいろ捗るのは間違いありません。実際、そうやって日本は発展して来ました。そのことを日本人は経験則として知っているので、日本ではこれが暗黙の社会規範的なものになっています。
暗黙であるがゆえに、「お互いさま」という社会規範の存在を知らない者は、日本にもそれなりにいます。日本人ならば、若年者や、極端に教養の無い者にそういう傾向が強いのですが、若者や馬鹿者とはそういうものだと日本人ならたいてい皆知っているので、余程度を越さない限り彼らが「お互いさま」を習得するまでは遠巻きにして近寄らないし近寄らせません。
外国人が日本社会の「お互いさま」を知らないのは、これもしかたありません。日本の暗黙の社会規範を、他文化圏の者に悟れと言うほど、日本人は傲慢ではありません。ただその代わり、「お互いさま」を知らない外国人を、同じく「お互いさま」を習得していない日本人の若者や馬鹿者に準じる扱いとするのも、やむを得ないというものでしょう。
日本人は「お互いさま」が成立しない相手を遠ざけますが、これには自己防衛の意味もあります。こちらが譲っているのに相手が譲らなければ、こちらは譲り損になりますし、一度や二度ならまだしも、それが永続的に続けば、譲る方はひたすら搾取されるばかりになります。
更に問題なのは、「お互いさま」の不成立は単に当事者間の損得にとどまらないことです。こちらが多少損をしても譲るのは、互いに譲り合うことが全体の利益になることを期待するからです。落語の「三方一両損」などは、まさに「皆が少しずつ損をすることで、結果として安寧秩序という全体的な益を得る」という教訓を含んだ噺でしょう。
日本人が韓国人を嫌う理由のひとつに、この「お互いさま」を日本人には強く求めるくせに、韓国人自身は実行しないか、極端に韓国側の負担を少なくしようと画策するというのがあるのは間違いないでしょう。
嫌韓に「人種差別主義者」とか「排外主義者」というレッテルを貼りたがる者がしばしばいます。しかし嫌韓は人種差別や排外思想に基いて発生したものではありません。嫌韓の根底にあるのは、韓国人のこういった所業に対する嫌悪感と危機感なのです。
どれほど嫌韓を抑え込もうとしても、韓国人が自分たちの所業を真摯に省み、誠実に改めない限り、あるいは韓国人が日本人の視界と意識から完全に排除されない限り、今後嫌韓が増えることはあっても減ることはないでしょう。
嫌韓を作り出しているのは、韓国人自身です。ですから嫌韓を非難するならば、嫌韓を作り出している韓国人の所業をまず徹底非難し、それを改めさせるべく努力するのが筋です。韓国人の所業を「一部の人のすることだから」などと言って看過し、日本側にばかり譲歩と寛容を求めようとする人に、嫌韓を非難する資格は全くないと私は断言します。
もっとも弊ブログでも散々言ってる通り、現実問題として韓国人は変われません。彼らにそういう柔軟性あるいは伸びしろはありません。変われるというならば、日本人の方が余程でしょう。ただし「変わる」と言っても、必ずしも良い方向に変わるとは限りません。「劣化」も、変わるという意味では同じです。嫌韓を非難しながら変わろうとしない(変われない)韓国人と、それを擁護するシンパは、日本人に朝鮮化という「劣化」を求めているのかもしれません。
韓国人が変わらずとも(正しくは「変われずとも」)、日本人が朝鮮化、即ち韓国人と同じになれば、おそらく現在のような日韓軋轢は少なくなるでしょう。
ですが、朝鮮半島に住む同じ朝鮮人同士が南北に分かれて殺し合いをしているのを見ればわかるように、もし日本が朝鮮並に劣化して彼らと同レベルになり、今ある「日韓の軋轢」が減少あるいは消滅したとしても、その後に現れるのは安寧秩序ではありません。現在展開されている朝鮮半島の南北対立に、劣化した日本が加わるだけの話です。
それを、現在の日本人が望んでいるとは思いません。もし望んでいる日本人がいるならば、それは既に劣化し、朝鮮人と同じレベルに成り果てた日本人でしょう。
日本が劣化し、朝鮮と同じものに成り果てれば、日本の安寧秩序が崩壊するのは当然ですが、同時に世界の安寧秩序が危うくなるのも必至です。現在の北朝鮮と韓国が世界に及ぼす悪影響だけでも十分過ぎるというのに、そこに劣化日本が加わればどうなるかを、漠然とでも良いので想像してみてください。
現在、日本では朝鮮化工作が盛んです。ことにマスコミのそれは激しいものがあります。彼らは、それが悪いことだとは微塵も思っていないでしょう。日本人が朝鮮化することは、韓国人及び朝鮮化した人々にとって「良い変化」に思えるようです。それは韓国人がしばしば言う「良心的日本人」という言葉からも察せられます。そのためか日本の朝鮮化工作をマスコミは、善いことだ(少なくとも悪いこととは全く思っていない)と考えているフシが見え隠れします。
地獄への道は善意で敷き詰められていると言いますが、朝鮮化への道もまたそれに似ているのかもしれません。
選択肢はふたつしかない
日本の寺側はその態度を「非常識だ」と憤っているという話ですが、前回「日本の非常識は韓国の常識」と書いた通り、韓国側にとってこれは極めて「常識的」であり、「道徳的」な態度という絶対的な自信を持っての行動なのでしょう。
これに類する態度は、下は小中学生から、上は大学教授や大統領に至るまで、韓国人には普遍的に見ることが出来ます。
何故彼らは、自分たちの態度に絶対的な自信を持っているのでしょうか。以前にも書いたことがありますが、彼らは、自分に非があるということを決して認めないからです。
韓国人も時に、一見自らの非を認めるようなことを言う場合があることは否定しません。ですが、それもよく聞いてみれば、決して彼らが「自らの非を認める」とは思っていないということがわかります。
「自分にも非があったが、相手にも非がある(はずだ)から相殺しろ」とか、「自分にも非はあるが、相手の非の方が更に大きいから、自分たちの非は非ではない」とか、甚だしくは「自分たちの非は相手の非に由来するもであるから、実質的な非は全て相手のものである」などと韓国人が言い出すことは、決して珍しくありません。
一般に日本人は、韓国人に極めて騙されやすい傾向があります。それは日本人が自らの非の有無を問われた際に、明らかに自分に非がないと確信していても、一旦それを検証しようとする姿勢を示すのに対し、韓国人は自分に非があろうとなかろうと(たとえ明らかに非があっても)、必ず最初から最後まで絶対に自分に非がないと確信しているかのように主張するからです。
今回の仏像盗難などは、まさに象徴的でした。同胞が盗んだものであることが明白であるのに、その非は全く認めず、逆に日本が略奪したものだと言いがかりをつけます。それを日本人が受け容れなければ、まるで物の道理がわからない子供を諭す大人のような態度で、ご丁寧に子供騙しのオモチャのような物を与えて懐柔しようとします。被害者である日本人から見ればまことに呆れた態度ですが、自分たちこそが被害者であると確信している韓国人たちは至って大真面目なのです。
傍目に見ている分には、こんなものは茶番でしかありません。多くの日本人が、この茶番に苛立ちを覚え、自分ならこんな茶番や子供騙しに乗せられるはずがない思ってるでしょう。しかし現実には、多くの日本人がころころと韓国人の茶番に乗せられ、子供騙しに引っかかります。
何しろ韓国人は筋金入りなのです。彼らは互いに日常的に、茶番や騙し合いで生活しています。自分の非を認めない者同士で、日常的に非の押し付け合いをしているのですから、日本人のように自分の非の有無を検証しようとする相手に非を認めさせることなど、彼らにとっては朝飯前なのでしょう。
それが証拠に、これまでの日韓交渉の多くはそういう図式で成り立ってきました。
今回、対馬の観音寺住職は、韓国の僧侶と面会しなかったといいます。それは、まことに賢明な対応でした。たとえわずかでも接触を持てば、韓国僧侶どもはそれをもって「チョッパリはウリの主張を受け入れた」と確信し、韓国でそのように喧伝するでしょう。そうやって泥仕合に引きずり込むのが、韓国人の常套手段なのです。
韓国人と対等な交渉は成り立ちません。もし日本人が韓国人と交渉するのであれば、常に日本側が正しいと主張し、韓国人の主張には一切耳を貸さず一歩も譲らず、彼らが少しでも口答えをすれば怒鳴りつけ、次第によっては胸倉掴んで小突き回すぐらいのことをする覚悟が必要です。それが出来ないのであれば、韓国とは一切の交渉や接触を断つのが次善でしょう。
たいていの日本人は「常に自分が正しいと主張し、相手側の主張に一切耳を貸さず一歩も譲らず、相手が少しでも口答えをすれば怒鳴りつけ、次第によっては胸倉掴んで小突き回す」という行為そのものに嫌悪感を持つのが普通です。自分がそういう態度を取るのはもとより、同じ日本人がしているのを見れば、それだけで「日本人として」不快を感じるでしょう。実際、日韓チャットでの韓国人に対する私たちの態度を見た日本人の多くが、私たちを非難しました。
知識として、「韓国人に対してはそうしなければならない」ということを理解しても、ネットならまだしも、生韓国人に接して尚、それを実行出来る日本人は多くありませんし、それを実行する日本人を背後から撃つ日本人は、現実問題として多いのです。
日本から韓国人が盗むのは、仏像や文化財ばかりではありません。竹島もそうですし、対馬も、韓国の無条件愛国者の妄言などではなく、国会議員レベルでその主張がなされています。形有るものばかりではなく、毎年恒例のソメイヨシノの起源のように無形のものに至るまで、およそ日本にあるありとあらゆるものが、彼らの略奪の対象になります。
これに対して、日本人が一致して「常に日本側が正しいと主張し、韓国人の主張には一切耳を貸さず一歩も譲らず、彼らが少しでも口答えをすれば怒鳴りつけ、次第によっては胸倉掴んで小突き回す」という態度で臨むことが出来ないのであれば、韓国との接触を可能な限り断つという選択肢しか残らないことを周知したいと願う次第です。
日本の非常識は韓国の常識
そう言えば昨年は、日本の震災を揶揄中傷する不謹慎な動画を韓国人が作ってYouTubeに投稿し物議を醸しましたが、今年は朝鮮半島情勢が最大限に緊迫中なので、韓国人もそれどころじゃないようです。
さて、日本の常識は世界の非常識などと聞きます。なるほど昔から漫才などで「日本と外国は何でも逆だ」などとよく言ったものです。「来い」という仕草は、日本では手の甲を上に向けて招きますが、欧米では手の甲を下に向けて招きます。日本では風呂桶の外で身体を洗いますが、欧米では風呂桶の中で身体を洗います。日本では道路と言いますが、欧米ではロードと言います等々。
しかし日本と常識が異なるのは、欧米ばかりではありません。日本と韓国の常識も大きく異なります。ただに常識ばかりではなく、日本と韓国はあらゆる面で大きく異なるということは、これまで弊ブログでも散々述べてきました。
ところが不思議なことに、韓国人は何故か日本と韓国は同じだと言いたがりますし、ことあるごとに日本人にそう思わせようとします。あまり韓国のことを知らない日本人が、日本の常識は韓国人にも通用すると無意識に思っているのは、そのためかもしれません。
韓国人や、日本人のふりをした韓国人が非常にしばしば口にするのが、「日本人と韓国人は情緒や文化などで、西洋人よりも共感しあえる部分が多い」という常套句です。あんまりしばしば聞くものですから、私などはこのセリフを口走る人は韓国人に違いないと確信を抱くぐらいです。
実際問題として日本人が韓国人と接すると、情緒や文化面で共感を覚えるよりも、違和感を覚える方が間違いなく多いでしょう。それは私たちが長年毎日のように日韓チャットで韓国人と話しながら、毎日のように「どうしてこいつらはこうなんだ!」と慨嘆していたことからも断言出来ます。
日本人にとっては極めて不幸なことに、日本人と韓国人は黒い髪、黒い瞳、黄色い肌という外見的な点では似ています。そのためか、日本人は韓国人をよく知らないうちは、無意識に日本人と同じ感覚で接することが多いようです。ところがしばらく接すると、日本人と韓国人は、特に精神的な部分で大きく違うことに気付かされます。
例えば、韓国人は対人関係を必ず優劣勝敗で上下を決め、それに基いた態度を示します。これは弊ブログでくどいほど繰り返し述べていることですが、実際そういう人が身近にいると、ほとんどの日本人が強い不快や困惑を感じるでしょう。しかし韓国人は、そうやって上下を決めないと、強い不安や困惑を感じるようです。
あるいは、弱っている相手を見ると、日本人の場合は何とか手を差し伸べてやりたいと思うのが一般的です。しかし韓国人の場合は、弱っている相手を見るとどうにかして更に踏み付けにして、自分の優位を確認したいと思うようです。
逆に、何か良いことがあって喜んでいる人を見ると、日本人は自分も嬉しくなってくる人が多いのですが、韓国人は他人の得や幸運を自分の損や不幸と感じるので、共に喜ぶとか祝福するということが出来ません。
「情けは人のためならず」という諺があります。他人に情けを掛けてやることは、ただその他人のためになるばかりではない(巡り巡って自分のためにもなるかもしれないのだから、他人に情けを掛けてやることを惜しむな)、という意味です。
「掛けた情けが巡り巡って自分に戻ってくる」という話は、例えば「花咲かじいさん」や「雀のお宿」といった昔話などでもよく語られていますが、日本人の場合、「善い行ない」がいつか自分に返ってくるという期待よりも、「善い行ないをさせてもらった」という気持ちだけで、既に十分な見返りを受け取っていると感じる人が多いのではないでしょうか。
しかし「「かの国の法則」についてまじめに考えた」でも述べましたが、韓国人は全体的長期的な利益や勝敗を理解することが出来ません。常に刹那的な私利私欲が思考の中心になっているので、今この時、自分の得になると思えば韓国人は大変に親切ですが、今すぐ自分の得にならないと思うと、韓国人は残酷なほどに不親切です。
そういう意味では、外貌こそ大きく異なっても、精神的には欧米人の方が日本人と親しみやすいのではないかと思います。そう思ったからこそ、明治になって国を開いた時、日本人は西欧に倣おうとしたのでしょう。
あの時代、福沢諭吉翁は東亜全体の繁栄のために、朝鮮と共に手を携えることを真剣に考えました。ただ考えただけではありません。そのために福翁が陰に日向に、さまざまに尽力したことは、歴史的事実として残っています。
けれど、福翁の努力は実りませんでした。全て、福翁が援助した朝鮮人自身の手によって水泡と帰しました。福翁の脱亜論は、決して支那・朝鮮に対する軽視や蔑視に基づくものではありません。むしろ人一倍、支那・朝鮮を評価し、期待し、全力で支援していた自分自身に対する反省と戒めに基づいた総括として読むべきでしょう。
そういう意見があったにも関わらず、日本はその後、朝鮮を併合してしまいました。そのこと自体は、当時の情勢下ではやむを得ない部分があったことは理解していますが、その結果は損得で言えば明らかに大損でした。
それでも日本が併合したことで結果的に韓国が発展し、そのことで韓国人が日本に感謝とまではいかなくとも、日本と共に助け合える関係になっていれば、日本人は決して韓国を悪く思わなかったでしょう。
しかしそのことで日本は100年余が過ぎた今日もまだ、韓国から加害者呼ばわりを受け、どれほど償おうとも今後千年経ってもその立場は変わらないとまで言われています。
2年前の大震災で日本全体が傷つき悲しんでいた時や、先日のWBCで見た台湾人の対日姿勢と比べると、かつて日本が統治したという点では同様のはずなのに、戦後の日本の姿勢は台湾にも韓国にも同じか、総合的には韓国に対する姿勢の方がずっと親身だったかもしれないほどなのに、これほどまでに対日姿勢が違うのは何故だと考えずにはいられません。
結局それは、国の違いというよりも、そこに住む人の違いということなのでしょう。つまり台湾人は日本人と分かり合うことが出来る人々なのかもしれませんが、日本人と韓国人とは永遠に相容れることが出来ないということなのです。
そのことを、せめて日本人側だけでも悟ることが出来る時代が来ているのではないかと思います。
対朝鮮人三原則の周知徹底を
この非常時に、韓国の新政権はまともなスタートを切ることも出来ない体たらくです。
朝鮮半島情勢が激しく動くことが予想される現状での韓国政府の無様さは、日本にとっても少なからぬ脅威になり得ます。北も南も、「朝鮮」と書いて「迷惑」と読むのが、少なくとも日本にとっては妥当かもしれません。
今この時に、日本を破壊し、切り売りしようとしていた民主党が政権与党ではないということは、日本と日本国民にとって僥倖であったと言えるでしょう。
必要以上に現在の安倍政権をヨイショするつもりは毛頭ありませんし、安倍政権であれば何の心配も要らないと言えるほど生易しい国際情勢でないことも、十分理解しています。しかし、もし今もまだ民主党政権であればどうだっただろうかと思うと、本当に日本はギリギリのところだったのだと痛感します。
「【誰が指導者になっても同じ】ということは、断じてない」ということを今後の教訓とするためにも、民主党政権3年3ヶ月の酷さと、私たち日本の有権者が彼らに政権を委ねてしまったことの反省は、がっつり肝に銘じておくべきでしょう。
さて、今年の竹島の日に、筑波大学大学院の古田博司教授が「「助けない、教えない、関わらない」という3カ条で、韓国の甘えを断ち切り、バランサーが夢であることを自覚させることから始めたい。」と述べておられました。実は弊ブログでは2006年8月に既に同様のことを述べています。
これをもって私たちが韓国に関して、古田教授より先んじていたなどと誇るつもりはありません。古田教授の「助けない、教えない、関わらない」という3カ条も、おそらく昨日今日思いついたことではないでしょう。この「3カ条」あるいは「対朝鮮人三原則」とは、ある程度韓国と韓国人を知るようになれば、誰もがたどり着く結論のひとつなのだと思います。
むしろ注目すべきは、これを産経新聞という大手マスコミが掲載したことです。
20世紀末の日本では、韓国に関する否定的に取れる主張を日本人が大っぴらに発表することは極めて困難でした。それは公的なメディアばかりではありません。個人的な、例えば職場の雑談やご近所さんの井戸端会議であっても「韓国が嫌いだ」と漏らせば、たちまち強くたしなめられ、あるいは人種差別主義者の烙印を捺されたでしょう。
産経新聞は、比較的保守的であるとはいえ日本の大手マスコミのひとつであることに間違いはありません。そこに「韓国人には「助けない、教えない、関わらない」という3カ条で接すべし」という主張が載るようになってきたことは、日本人に朝鮮人の習性や気質の周知が浸透してきた証左と言えるでしょう。
日本人がこの「助けない、教えない、関わらないの3カ条」あるいは「対朝鮮人三原則」を徹底出来なければ、日本と日本人は南北朝鮮に絡みつかれ纏わりつかれて、共に奈落へ落ちることになります。
100年前の日本は、日本国内を犠牲に、あるいは見殺しにしてでも、朝鮮に「与え」「教え」「助け」ました。その結果日本が彼らから得たものは、千年経っても変わらぬという恨みと憎しみです。
これでは「与え」「教え」「助け」た甲斐がないとか、骨折り損のくたびれ儲けで馬鹿馬鹿しいというだけでは済みません。日本の国としての存亡を危うくする問題になり得るのです。
そう言えばネットの巷ではシャープと三星の提携話が盛んですが、これに関連してシャープ元副社長の次のような発言がネットで話題になりました。
「私個人は、「与えられるものどんどん与えて、感謝してくれればいい」と思っていた。少なくともシャープの味方にはなるだろうとね。ところが、李さんがトップを離れた時期に、サムスンがシャープを相手に特許訴訟を起こしたんです。」
ここでもやはり、日本のシャープは「与え」「教え」「助け」た結果を、韓国の三星に特許訴訟という「仇」で返されています。こういう例はシャープに限らず幾らでもあります。それを思うと、今回のシャープと三星の提携も、シャープにとって良い結果になると楽観する気にはとてもなれません。
これをもってシャープを馬鹿だと嘲笑するのは容易いことです。しかし「与えられるものはどんどん与えて、感謝してくれれば良い。(感謝してくれることはなくても)少なくとも自分たちの味方にはなってくれるだろう」という考え方は、別にシャープの元副社長独特の考え方ではありません。日本人ならたいてい誰もが共感する「良い」考え方でしょう。実際これまでに日本が韓国に行なった援助や協力の多くは、そういう考えが根底にあったでしょう。
しかし、日本人のそういう「良い」考えを逆手に取ることが、朝鮮人にとっての「良い」考えなのです。そのことを日本人に周知し、「対朝鮮人三原則」の徹底に努めなければ、シャープを嘲笑うどころか、日本という国そのものがシャープと同じ憂き目を見るようなことになるかもしれません。
「かの国の法則」についてまじめに考えた
何故こういうことが言われるようになったのでしょうか。
答えは実に単純です。歴史的に韓国(朝鮮)と組むと負けたり損をすることが多かったし、今も多いからです。
では何故韓国(朝鮮)と組むと負けるのでしょうか。
これも答えは単純です。韓国(朝鮮)人は、全体的長期的な利益や勝敗を理解することが出来ないからです。
韓国(朝鮮)人は、基本的に自己の目先の利益や勝ち負けしか理解出来ません。以前から私はそれを「王手飛車取りで飛車を逃がす」と評しております。次の一手で玉を取られることが明白でも、彼らは今の一手で飛車を取られることが耐えられないのです。
負けるが勝ちとか、急がば回れということわざがあります。探せば朝鮮にも似たようなことわざがあるかもしれません。ですがそういうことわざがあろうとなかろうと、韓国(朝鮮)人にはそういう考え方が出来ないのです。
それはある程度年季を積んだ韓国ウォッチャーには、実感としてお分かりいただけるでしょう。韓国ウォッチを始めて日が浅い方や韓国に関心のない方は、イヤイヤ期の幼児を思い浮かべていただければ、かなり近いです。
韓国(朝鮮)人は、基本的にその時その場の、自分にとっての利や得を最優先します。それで被った損害や失点は、嘘やインチキ行為で取り戻そうとします。その嘘やインチキ行為そのものが更なる損害や失点となることにも、韓国(朝鮮)人は決して気づけません。何しろ彼らは、如何なる嘘やインチキ行為も「勝利のための正当な努力」と考えるのですから。
しかも韓国(朝鮮)人は、彼らが彼らの考える「正当な努力」でせっせと稼いだ損害や失点を、組んだ相手に全て押し付けるのです。
組んだ相手が飛び抜けて優れていたり強かったりすれば、韓国(朝鮮)人に押し付けられた損害や失点を上回る利得や勝ち点をあげ、首尾良く勝つことが出来るかもしれません。そうなれば韓国(朝鮮)人は、その手柄を独り占めしようとします。
もし組んだ相手が、韓国(朝鮮)人に押し付けられた損害や失点を取り戻せず負けてしまえば、韓国(朝鮮)人たちは平然と対抗していた相手=勝ち組に潜り込もうとします。もちろん、最初から勝ち組に属していたような顔をして、です。
こんな相手と組めば、何かの弾みで一度や二度は勝てるかもしれませんが、長い目で見れば、やがて韓国(朝鮮)人が地道に積み重ねた損害や失点が取り返しの付かないハンディとなり、必然的にジリ貧に陥るようになるのは、韓国(朝鮮)人でなければ容易に想像出来るでしょう。
先日、朴槿惠新大統領が三一節の演説で「日本が加害者で韓国が被害者という立場は、千年経っても変わらない」という主旨のことを言いました。この発言も韓国(朝鮮)人の「目先の利や勝ちに目が眩む」典型例のひとつと言えるかもしれませんが、その中の「千年経っても」というフレーズを受けて、多くの韓国ウォッチャーが「韓国が今後千年も残っているはずがない」と嘲笑したのではないかと思います。
確かに韓国(朝鮮)の歴史を振り返れば、彼らが国を滅ぼすのは趣味か、さもなければ恒例行事の如しです。その【事実】を鑑みれば、千年後も韓国が残っているなどとは到底思えません。
( @∀@)だがちょっと待って欲しい。朝鮮半島に在った国は、確かに数えるのも面倒なぐらい滅んでいます。しかしそこにいた人の形をした生き物はどうでしょうか。
幾度国が滅んでも、どれほど同族互いに食い合い殺し合っても、いまだに生き残っているではありませんか。しかも今生き残っている連中は、そういう苛酷な淘汰を経たものの末裔なのです。
更に恐ろしいことに、近世までは彼らが朝鮮半島から出ることはほとんどなかったのですが、現在では交通機関の発達にともなって、凄まじい勢いで世界中に拡散し、蔓延しています。その様子はパンデミックを連想させます。
ある意味「かの国の法則」とは、「病原性ウイルスに感染すれば、感染症を発症する確率が感染しなかった者より遥かに高くなり、感染症を発症した者の平均余命は、感染症を発症しなかった者よりも短くなる傾向が強くなる」というのと同じようなものと考えることが出来るのではないでしょうか。
病原性ウイルスに感染しても必ず発症するとは限りません。生涯発症しないという人もいると聞きます。そういう人は、「病原性ウイルスに感染しても大丈夫だよ」と言うかもしれません。そういう人の言葉を信じて病原性ウイルスに対する警戒を緩めれば、どんな悲劇が待ち構えているかは誰にでも容易に想像出来るでしょう。
病原性ウイルスに感染しながら発症しないという人は、自分が発症しないということではなく、今度は自分が病原性ウイルスをばらまく立場に立ったことを自覚するべきなのです。
「かの国の法則」を、「病原性ウイルスに感染すれば病気を発症することが多い」というのと同じことと考えれば、どのように対策すれば良いかも自ずから見えてくるはずです。即ち、病原性ウイルスについての知識を蓄え、感染源となるものの摂取や接触を極力断ち、あるいは遠ざけ、自らの身体周辺の清潔を心がけることで病原性ウイルスに感染する確率を大きく下げることが出来るのと同じことです。
中には積極的に感染源となるものを摂取したり接触することを勧め、「なあに、かえって免疫力がつく」などと言う人もいますが、そのやり方は、自分の身体の頑健さと運の強さに絶対的自信をお持ちの方が自己責任で行なうべきであって、決して万人に適するやり方ではなく、他人に無責任に推奨するべきやり方ではないと私は考えています。
また手洗い励行のような消極的予防策だけではなく、より積極的な予防対策を希望される場合は、不活化ワクチン月見櫓、あるいは生ワクチン在特会というものもあります。ただしワクチン接種によって副作用が現れることもありますので、その点あらかじめご理解の上でご利用になることをお勧めします。
日韓通婚考察
毎年同じ事を言ってるような気もしますが、縁起物ということで今年も繰り返し述べておきますと、三一節の由来は日本統治下の朝鮮で1919年3月1日に起きた反日暴動です。
この三・一運動は、韓国では平和的な示威行動だったということになっておりますが、上下優劣強弱勝敗でしか物事を考えられず、理性でなく本能で行動する朝鮮人が衆を頼めば、平和的示威行動など出来るはずがないのは、新旧の韓国の暴動を見れば、容易に察せられます。
この反日特異日には、韓国大統領が反日的なことを言って国民の歓心を買うのが韓国の春の恒例行事となっております。逆に言えば、この日に反日的なことを言わなければ、韓国の指導者は国民の支持を失うわけです。
発足時から最低の支持率を誇る朴槿惠新大統領としては、ここで反日カードを切らねば、5年前に発足直後の李明博政権が1年以上も苦しめられた燭火デモの悪夢を繰り返すことになりかねず、たとえ日本との関係を悪化させてでも国民におもねる選択をしたということでしょう。
これを受けて韓国人や親韓・擁韓日本人の中には「日本との関係を悪化させるようなことを大統領が言うのは良くない」などとしたり顔で言う者が出てくるでしょう。けれど、もし朴槿惠新大統領が「過去を言わず両国の関係改善を推し進めることこそが、ウリナラの発展につながるのである」などと本当の言ってしまえば、確実に敵対勢力に反発の口実を渡すことになります。朴槿惠にとっての敵対勢力とは、言うまでもなく北朝鮮勢力です。
日本に何をしても言っても実際に弾を撃ってくることはほぼ絶対にありません。韓国もおそらくその点は、無条件に日本を信頼しているでしょう。その点北朝鮮はこれまでに何度も死傷者を伴う武力衝突が起きており、今後もいつ実弾を撃ち込んでくるかわかりません。また韓国内にも、少なからぬ北朝鮮勢力が蠢動しております。
つまり朴槿惠新大統領にとって自国と周辺諸国の中では、日本が最も安心して攻撃出来る対象であったという証左であり、日本人的には日本を舐め切り、日本に甘え切った韓国の姿が浮き彫りになったとも言えます。もちろん反日カードを切ることで、右傾化甚だしいw日本から厳しい目で睨まれることも、経済破綻の近い韓国にとっては必ずしも得策ではありませんから、朴槿惠新大統領にとってはそれなりに苦渋の決断だったでしょう。
ここで私たち日本人が注目すべきは、朴槿惠新大統領が言った「日本は歴史を直視せよ。加害者と被害者の立場は、千年経っても変わらない」という内容ではありません。韓国がそう思っているということは既に弊ブログでも長年言い続けてきたことであって、言ってることそのものは珍しいことでも何でもないからです。
私たち日本人が注目すべきは「今後、たとえ日本が韓国に幾千万回謝罪しようと、どれほど莫大な賠償や援助をしようと、韓国は決して永遠に日本を許さないし、対等と考えることも絶対にあり得ないということが、韓国民の常識であり、道徳観であり、総意である」ということを、韓国の大統領が明確に公言したという【事実】です。
日本人がどれほど韓国との友好を真摯に考えても、日本人が考えるような「日韓友好」を、少なくとも今後千年間は実現させるつもりがないということが韓国人の総意であるということ、またどれほど日本人に親しみを示す韓国人であっても、韓国で最高の権力を持つ大統領であろうとも、この韓国民の総意に逆らうことは絶対に出来ないという【事実】が明白になったという点で、昨日の朴槿惠新大統領の演説は日本にとっても非常に価値あるものであったと言うことが出来るでしょう。
このように、永遠の不信と対立が確約されている日韓ですが、国家同士は対立していても、個人同士なら上手く付き合えるなどと言う人は日韓共に珍しくありません。中には勢い余って結婚までしてしまう人もしばしばおります。
私は個人的に、日本人と支那・朝鮮人との結婚については否定的で悲観的です。何故なら、私の知る限りで、支那・朝鮮人と結婚して幸せになった夫婦がほとんどいないからです。
同じ国、同じ民族同士であっても、結婚すると必ずと言って良いほど家庭内文化対立が起きると言います。
いや、そんなことはない、私たち夫婦はこれまでに一切何の対立もなかった、結婚してから一度も喧嘩をしたことがないと言う人の話も聞いたことがあります。ですがそういう場合は必ず、どちらかが大きな譲歩や忍耐を強いられています。あるいは無意識の内に、互いが互いに都合の良い誤解をしていることもよくあります。
また、結婚すれば必ず配偶者の親族とも付き合うことになります。親族の意識が比較的狭い日本人の場合でも、最低三親等ぐらいまでは親族に数えます(ちなみに支那・朝鮮は10親等ぐらいまでを親族として意識するそうです)ので、少なく見積もっても10人前後、多ければ数十人の親族と付き合うことになるでしょう。配偶者その人はものすごく良い人であっても、それだけの人数の親族全てがもれなく良い人とは限りませんと言うか、そんなことはあり得ません。
同国人、同民族でもそういうことが珍しくないのですから、それが外国人、他民族になれば尚更というものでしょう。ましてや支那・朝鮮人は反日が国是であり社会道徳であり、良識です。倶に天を戴くことの出来ない民族同士が一つ屋根の下で暮らすこと自体無茶で無理ですし、そういう者同士が幸せを実現する難易度は、普通に高くなるでしょう。
それでも男女の惚れた腫れたはままならぬもの。わかっちゃいるけど、どうしても韓国人と結婚したいという人もいるかもしれません。あるいは、そんなこと言われてももう結婚しちゃったし、という人もいるでしょう。
先に私の知る限りで韓国人と結婚した日本人で幸せになった人はほとんどいないと書きました。が、皆無ではありません。数えるほどではありますが、幸せそうに見える夫婦もあります。
当人たちが幸せならそれに越したことはないのですが、ちょっと気になるのは、そういう夫婦には、ある傾向が見えることです。
それは日本人配偶者側が自我を放棄して、自らの思考や判断全てを韓国人配偶者に委ねてしまうという点です。一見日本人配偶者が自分で考え、自分で決めているように見えることでも、実は常に韓国人配偶者の顔色を伺い、意向を探ってそれに沿うようにしているのです。
それは一見「思いやり」に似ていますが、「思いやり」は必ず相互に行なわれるものです。どちらか一方だけに強いられ義務付けられる「思いやりに似たもの」は、実は阿媚や諂諛、さもなければモラルハラスメント被害者の合理化です。
以前「とっても簡単な日韓友好」という記事で書いたことがあります。
「日韓友好」の最小の形が日韓通婚であるとすれば、その記事で述べたように日本人配偶者がプライドを捨て、自らの個人情報を全て漏らさず韓国人配偶者に開示し、常に韓国人配偶者の祖国に対する謝罪と賠償の気持ちを忘れず、決して韓国人配偶者より上に立たず、自分で考えず、常に韓国人配偶者の意向を伺い、それに逆らわず、疑問を持たず、全財産を韓国人配偶者に委ね、常に韓国人配偶者の機嫌を伺い、韓国人配偶者の喜びこそが自分の喜びであると自分に言い聞かせていれば、永遠の対立を確約された日本と韓国の夫婦であっても、「幸せ」に見える結婚生活を実現することが出来るのでしょう。
惟みれば私が書いた「とっても簡単な日韓友好」という記事は、まことに当を得ていたと自負しても良さそうです。
そういう夫婦のありようが本当に「幸せ」なのかどうかに、私自身は疑問を感じなくもありませんが、幸せの形は人それぞれです。他人がどう思おうと、寄生虫に脳みそを乗っ取られたカタツムリにも、きっと私たちには理解出来ない幸せのようなものがあるのでしょう。
そんな「幸せのようなもの」を理解したいなんて、私は微塵も思いませんが。