日韓「自虐」比較
この日韓両国の自虐について、ご質問のコメントをいただきました。当該コメントには複数のご質問が含まれていますが、ひとつの記事で全てのご質問にお答えするとかなり長くなりそうなので、今回はまず最初のお題、「日本と韓国の自虐は同質なのか」について述べようと思います。それがクリアになれば、付随するいくつかの質問の答えも、自ずから出てくるでしょう。
正直なところ、私は今回ご質問を頂戴するまでに日韓の自虐についての比較考察をしたことはありませんでした。
何故なら日韓チャットでも韓国人が自虐的な発言をすることはよくありましたが、それは必ず薄っぺらで上っ面だけのことだったからです。彼らの自虐を真に受けて真面目に応答しても、それによって何らかの結果や結論を導き出されるということは、まずありません。
彼らは自虐してみせることによって共感や同情を求めているだけで、その内容に対する分析や批判は当然として、意見すら全く求めていませんでした。ですから彼らが自虐的なことを言ったとしても、私たちはまともに相手をしなかったのです。
さて今日の日本人の自虐癖には、確かにしばしば腹立たしい思いをします。ですが、その自虐癖は元々日本人にあったものでしょうか。むしろ本来の日本人は、本当の意味での自尊心を持った人々だったのではないでしょうか。
それは例えば、武士道精神に現れています。と言えば、かつての日本における武士階級は、全人口の一割程度であったと言われるかもしれません。
ですが、残る九割のうちの大半を占める農民層の人々にも、武士道的な感覚を善とし美とする意識があったことは、幕末の新撰組が証明しています。
かつての日本人の誇りや自尊心が、武士階級に限られたことではないことは、何というタイトルの本だったのか失念してしまいましたが、韓国人が書いた日本についての本に載っていたあるエピソードにも現れています。
骨董屋で、目に留まった古茶碗を買おうと思った武士が、店の者にその値段を尋ねました。 店の者が答えた価格は、武士が思ったよりもずっと高価でした。そこで武士が言います。 「お前はこの茶碗の値段がわかっておらぬ。主を出せ」と。 応対した店の者がそれに答えて言います。 「手前がこの店の主でございます」 しかし武士は納得しません。 「嘘を言うな。お前が店の主ならば、この茶碗の正しい値段がわかるはずだ」 すると、店の者はやにわにその古茶碗を手に取り、地面に叩きつけました。古茶碗は粉々に砕け散りました。 驚く武士に向かい、店の者は平然として言いました。 「ご覧くださいまし、確かに手前が当店の主でございます」と。 |
このエピソードが事実に基づいたものかどうかは、わかりません。ですがこのエピソードが創作であったとしても、謂われのない侮辱を受ければ、たとえ自分が傷つくことがあってもそれを雪ごうとする自尊心が、身分に関わらず日本人には普遍的にあったということに、私はさほど違和感を覚えません。
それが損なわれたのは、第二次世界大戦における敗戦のショックに、日本人が従来備えていた謙遜の美徳が変な形で作用したためではないでしょうか。加えてWGIPの効果も、当然にあったでしょう。
対する韓国人ですが、彼らが現在のように尊大で傲慢な自信家なのは、昔からでしょうか。
周知の通りかつての朝鮮にも身分制度があり、両班と呼ばれる貴族階級がその筆頭でした。日本と大きく異なるのは、その下の身分の人々が、およそ人間扱いされておらず、従って誇りや自信を持てるような生活をしていなかったことでしょう。
即ち、かつての朝鮮において、尊大で傲慢で自信家になり得たのは、両班だけだったのではないでしょうか。それ以外の人々は、獣か、せいぜい家畜程度にしか思われていなかったでしょうし、当人たちも誇りや自尊心などという概念自体、持ち得なかったでしょう。
その尊大で傲慢で自信家になり得た両班にしても、自分より上位の者に誇りや自尊心を示すなど論外でした。
日本はかなり早くに華夷秩序を離脱しましたが、朝鮮は近代までそれにどっぷり浸かっていました。ですから朝鮮では最上位の朝鮮王ですら、宗主国の皇帝に対しては惨めなほど徹底的に遜るのが当然でした。
現在の韓国人の尊大と傲慢と自信は、彼らのそういう歴史の反動でしょう。そうすることで、彼らは歴史における自民族の惨めさを多少なりとも払拭しようと思っているのかもしれません。
ですが自らの誇りを守るためには、前述の骨董屋のエピソードのように、時に多大な代償を必要とすることがあります。付け焼き刃でしかない自尊心の韓国人には、その代償を払う覚悟があるようには見えません。
事実、誇りを守るための代償を求められると、彼らは突然へたれます。これが彼らの「自虐のようなもの」ではないでしょうか。
日本人の場合、自虐と言ってもいつまでもただ凹んでいるばかりではありません。自分が悪かったとしても、何がどのように悪かったのか、どうすれば良かったのかを検証し、考察し、今後の教訓にしようとします。
韓国人は、自虐と言えばこれ見よがしに落ち込んだり泣き喚いたり、時には反省や謝罪の言葉を口にしたりはします。ですが喉元過ぎればけろりと忘れますし、検証や考察をするにしても、自虐と言いながら、いつの間にか他人のせいにしています(この辺りは、「良心的日本人」と同様ですねw)。
つまり「良心的日本人」と呼ばれる人々を除けば、日本人の自虐は謙遜と反省に由来するものと言えるでしょう。対する韓国人の自虐は、朝鮮的な礼儀作法や条件反射の結果と言えるかもしれません。
同じ漢字熟語を使っていても、日本と韓国では微妙に意味が異なるということがよくあります。「自虐」という単語も、そのひとつと考えて良いのではないかと思う次第です。
出遅れ感はありますがw
さて弊ブログの書籍化について、これまでに度々コメントなどでご要望を頂戴しております。私自身、長年書き続けていることもあり、書籍化を望まないわけではありませんどころか、叶うものなら是非にでもという気持ちはあります。
私がこのブログを書き始めた頃にも、今ほどではありませんが嫌韓書籍出版ブームのようなものがありました。昨今の嫌韓書籍は、割合著名な方やマスコミ業界にいらした方が書いていることが多いのですが、当時は無名のブロガーによるものが多かったように思います。
ですから当時は、もしかしたら私のような駆け出し素人ブロガーにも、書籍化のオファーが来るかもしれないと結構ワクテカしておりました。
私がブログを始めた頃、嫌韓・韓国ウォッチ系ブログは今ほど多くはありませんでした。数が少ない分、嫌韓・韓国ウォッチ系というだけで、内容の如何に関わらず良くも悪くもそれなりに目立てたのは確かです。加えてブログを始めてから一年間は、必死で毎日更新しておりました。更新頻度が高い方が、多くの人の目に付きやすいからです。
しかしながら残念なことに、その一年の間に書籍化のオファーが来ることは、全くありませんでした。それはつまり、出版のプロから見て弊ブログの内容は書籍化のレベルにないと判断されたのだろうと観念し、ブログ開設一年後からは不定期更新、要は気が向いた時だけ書き散らかそうと思っていたのですが、ありがたいことに読者の方から更新の催促をいただきまして、現在のところは三日おきの更新に落ち着いております。
それからは弊ブログの存在意義は、内容よりも継続させることだと思い、淡々と更新を続けていたわけですが、そこへ再び嫌韓書籍出版ブームの到来です。眠らせたはずの書籍化願望が疼かないと言えば嘘になります。
弊ブログの書籍化願望については、私自身の自己顕示欲も含まれていないわけではありません。文章を書く者なら誰でも多少は、自分の書いた文章が紙の上で活字になることを夢見るものです。
ただ、自己顕示欲だけが理由であれば、自費出版という選択肢もあります。自費出版にどれくらいの費用がかかるのか詳しくは存じませんが、仄聞するところによると数十万から数百万ほどかかるとか。それだけの費用をはたいてでも満足させたい自己顕示欲なのかと言われれば、そうでもありません。まあ仮にそうであっても、そんな金銭的余裕もないわけですがw
いずれにしても、出版に対する欲求が私の個人的な願望だけのことであれば、諦めはつきます、と言うか、割と本気で諦めています。
ただ、時々コメントで戴く書籍化のご要望にあるとおり、書籍化によるネットを見ない層に対する韓国についての理解の周知と促進については、今も諦め切れない部分があります。
いくらネットが普及したと言っても、また書籍の電子化がどんなに進んでも、やはり紙の書籍の存在感は根強いものがあります。それにモニターに映る文字よりも、紙の上に印刷された文字の方が、何故か説得力を感じるものです。
韓国や韓国人は、わかってしまえば案外単純です。それは丁度手品にも似ています。タネや仕掛けを知らない人が見れば、驚いたり騙されたりしますが、タネも仕掛けも知っている者が見れば、他愛ない茶番でしかありません。
しかし、手品であればタネ明かしをすれば一目瞭然ということが多いのですが、韓国の場合はタネや仕掛けが一言では説明出来ないのが問題です。
日本人の常識では理解出来ないことが、韓国では至って普通にあります。まずそれを理解しないことには、韓国理解の最初の第一歩は始まりません。
しかし「日本人の常識では考えられないことが、韓国では普通にあります」と言うだけで、たちまち「なるほど!」と理解出来るものではありません。大抵の人は「まさか」「それは特殊事例では?」「大袈裟に言ってるだけだろ」と思うでしょう。何しろ当の韓国人に韓国の常識を確認しても、「まさか」「一部を見て全体を判断しないでください」「大袈裟です」と言うのですから。
「日本人の常識では考えられないことが、韓国では普通にある」ということを理解してもらうためには、様々な実例をあげて見せ、更にそれが韓国では今も普遍的に頻繁に現在進行形で見られるものであることを示して見せる必要があります。
それを文章にすれば、大変な量になります。書く方も大変ですが、読む方も楽ではありません。第一、基礎知識が整っていないところに大量の情報を流し込んでも、消化不良を起こすのが関の山です。
ですから、私は韓国や韓国人を説明するには、いきなり大量の情報を一気に押しつけるのではなく、時間をかけて少しずつ理解を進めていくのが良いと考えております。
現在弊ブログには、1300を超える数の記事があります。これを今から全部読めと言われれば、書いた私でさえうんざりします。しかも、かなり気ままに書き散らかしているので、古いものから順に読めば理解が進むという仕掛けにもなっておりません。
ただ記事ごとの文章量は、読むにそれほど苦になるものではありません。また、同じようなことを言葉を変えて述べているものも結構あるので、テーマを揃えて読みやすい量にまとめれば、そこそこわかりやすい韓国理解の手引きになり得るのではないかと自負しております。
韓国について何も知らない人が読んでも良いですし、韓国をある程度知っている人が、更に理解を深める足掛かりに使っていただくことも出来るでしょうし、韓国を知らない人に韓国を説明するための参考資料としても使えるかもしれません。
というわけで、弊ブログの書籍化についてご検討いただける出版業界の方がいらっしゃいましたら、是非前向きに検討していただければと願う次第です。
相互不信の韓国人が騙されるのは何故?
それを聞けば、やはり韓国人は信用出来ない生き物なのだなと思う反面、詐欺は詐欺師だけでは成立しない、必ず騙される人がいなければならないという事実に気づいた方から、ご質問のコメントを戴きました。
恒常的にネタに困っている弊ブログとしては、大変ありがたいコメントでした。既にコメント欄で回答されておられる方もいらっしゃいますので、蛇足になるかもしれませんが、私の思うところも述べておきたいと思います。
日本人から見ると、韓国は想像を絶するほどの相互不信社会でありながら、今回コメントで指摘された通り、韓国人は時に不思議なほどすんなりと物事を信じるように見えることがあります。それは日本人の感覚では、彼らが他者を信じる心を持っているからではないのかと思うのも無理はありません。
ですが、彼らがその時信じているのは、本当に「他者」でしょうか。
彼らは、それが真実であっても、自分にとって不都合であれば、容易に信じません。しかし逆に自分にとって都合が良ければ、たとえそれが明確な虚偽であっても、実にすんなりと信じる習性があります。つまり彼らが何かに対して、信じるか信じないかを決める基準は、どこまでも「自分にとって都合が良いか否か」であって、それが真実か否かでは全くありません。
ならば狂牛病騒動はどうなのかと思う方がいらっしゃるかも知れません。狂牛病騒動当時の韓国では、「アメリカ産の牛肉を食べれば狂牛病に罹かる」「牛肉を食べなくても、牛由来の製品に触れるだけで狂牛病に罹かることもあり得る」「韓国人は他の人種よりも狂牛病に罹かりやすい」などとまことしやかに言われておりました。それらが真実であれ嘘であれ、韓国人にとって都合の良い事であったわけでは、もちろんありません。
では何故彼らは狂牛病騒動に熱狂したのでしょうか。それは狂牛病騒動によって、彼らは「被害者様」になれたからです。彼らが「被害者様」になりたがるのは、日本における在日の言動でも明らかですし、あのセウォル号沈没事故でも、露骨に示されております。
もちろん、彼らは「被害者様」になることだけを一途に望んでいるわけではありません。ある時は「富豪様」に、ある時は「貴族様」、ある時は「学者様」と、その時々で彼らがなりたがるものは変化します。
ですが、その根底にあるのは常にひとつです。即ち「他者より上位に在りたい」という願望です。
それに加えて彼らは、「自分の望みは十全に叶えられるのが当然」という意識を持っています。彼らが信じているものがあるとすれば、その意識に他なりません。そこをくすぐられると、彼らは実に容易に信じてしまうのです。
日韓チャットが盛んだった頃、ある韓国人女性会員の顔写真を手に入れたことがあります。
当時、韓国人の間では自撮りの顔写真をネットで公開することが流行っており、その写真も私が不正に入手したわけではなく、当人が自らネットに公開したものでした。
その韓国人女性は露骨な反日家で、しかも日本人会員に嫌がらせをするためなら韓国人会員に迷惑がかかっても構わないというほど攻撃的であったため、日本人のみならず韓国人会員からもかなり嫌われておりました。
私も日頃彼女の迷惑行為にはかなりムカついていたので、入手した彼女の顔写真を、画像ソフトでまるでお多福のような顔に加工して、日韓チャットで披露したところ、日本人会員にも韓国人会員にも結構ウケました。
不細工加工がウケたことに気を良くした私は、今度は趣向を変えて、かなり美人に加工してみました。現実の彼女と、私が作り上げた美貌の、しかし虚構の彼女の容貌の差を見せつけて、彼女を落胆させてやろうと思ったのです。悪趣味の謗りは甘んじて受けますが、もう十年も前の話なので時効とさせてくださいw
我ながら上手く出来たと思ったその写真をチャットで披露すると、それを見たある韓国人会員が言いました。「彼女は、この写真を見たらきっと喜びますよ」と。「もしかしたら、この写真を彼女のミニホームページに載せるかもしれませんよ」とまで言われました。
一瞬訳がわかりませんでした。日本人的な感覚では、美しいとは言え、現実の自分の顔とはかけ離れた顔に加工された自分の写真を見せつけられれば、バカにされたと感じて憤ると思ったのです(実際、バカにするために加工したわけだしw)。
しかし韓国人的には、それが明らかに現実と異なるものであっても、自分の願望に沿うものであれば、そちらの方が真実になるのだと、そのとき初めて思い知らされました。
彼らは、基本的には他人を信じていません。ですが、自分(の願望が十全に叶えられること)は信じていると言えるかもしれません。彼らは「ウリ」を信じると言われているのも、彼らにとって「ウリ」が自分自身であるからでしょう。
尤も、彼らの信じる「自分(の願望が十全に叶えられること)」も「ウリ」も、非常にしばしば彼らを騙すのは、皮肉な話です。しかもそれによって、彼らの「恨」が拡大再生産されていることは言うまでもありません。
いずれにしても、彼らが一見他人を信じているように見えることがあったとしても、それは彼らの「薄くて浅くて上っ面」が見せる錯覚です。その錯覚に、韓国人が韓国人同士で溺れることは正直どうでも良いのです。それが彼らの社会であり文化なのだと、生暖かく見守ると言うか、笑顔で見捨てれば良いと思います。
それよりも、日本人が非常にしばしばその錯覚に騙され、また韓国人も(意識的にか無意識的にかは量りかねますが)、積極的にその錯覚を用いて日本人を騙そうとすることの方を、私たち日本人は警戒するべきでしょう。
何故韓国を知る必要があるのか
さて弊ブログでは、散々韓国に寄るな触るな関わるなと言っておきながら、同時に韓国をしっかり知ることを勧めています。この一見矛盾する主張の理由は、これまでにも再三ならず述べてきました。
まず日本人にとってよく知らない相手を知らないまま嫌悪することは、悪いことという道徳観があります。日本人が誰か、あるいは何かを嫌うには、それを聞いた他人を十分に納得させるだけの理由が必要になります。物であればまだしも、他人を何の理由も無しに嫌う者は、それだけで軽蔑や疎外の対象になりかねません。日本人は、相手を知らないというだけで、無条件の好意を持つのが常識であり良識なのです。
日本人のそういうところに韓国人がピンポイントで付け入るということが、日本人が韓国(人)を知らねばならない最大の理由になるでしょう。
次に、中途半端に知ることの危険性ということもあります。
生兵法は怪我の元などと言いますが、中途半端な知識で韓国人に接することは、まさに怪我の元になります。中途半端な知識で韓国人に接するぐらいなら、韓国について全く何も知らず、その代わり韓国人と絶対に一切完全に関わらない方がまだマシでしょう。
極端な話、韓国という国、韓国人という生き物の存在を完全に意識から排除し、同時に韓国人を自分の半径100m以内に絶対近寄らせないということが可能であれば、韓国についての知識など要らないと言うことは出来ます。
ですがそれは無理な相談というものです。何より、韓国がそれを許しません。別に韓国に許してもらわなくても良いと言えば確かに良いのですが、それで済むなら誰も苦労はしません。
以前から繰り返し述べておりますが、韓国人にとって無視は罵倒に勝る屈辱です。ですから彼らは、自分を無視する相手の気を引くためなら、文字通り何でもします。最悪の場合、韓国人は自分を無視する相手を殺してでも、自分に意識を向けさせようとするでしょう。
個人対個人なら、韓国人は相手を殺してでも自分に意識を向けさせようとするわけですが、これが国家同士の場合ならどうするでしょうか。日本に対して堂々と宣戦布告をしてでも、日本を振り向かせようとするでしょうか。
おそらくそんなことはないでしょう。個人対個人の場合でも、振り向かせたい相手が自分より弱い相手ならば殺してでもという暴挙に出る危険性は多分にありますが、振り向かせたい相手が自分より強いとなれば、韓国人は決して面と向かって正々堂々と戦いを挑むということはありません。表向きはしおらしくしながら、陰で強力な武器を用意するか、相手を上回る人に加勢を頼むか、さもなければ相手を油断させ不意討ちを企むでしょう。
日本と韓国を国家対国家で考えた場合、日本に韓国が宣戦を布告するということは、まず考えられません。何故なら、日本は韓国よりもずっと強く大きい国だからです。これは私が日本人だから日本を贔屓して言うのではありません。日本と韓国では、どんなに韓国に贔屓目に見ようとも、明らかに日本の方が強く大きい国なのです。
ですから、日本に対して韓国が面と向かって戦いを挑み、以って日本の気を引こうとすることは絶対にあり得ません。ならばどうするか。答えは簡単です。それは今まさに、日本に対して韓国がやっていることです。アメリカや中国、ドイツなどの第三国をダシに使って、日本を攻撃するのです。
これに対して日本が無視を貫いても、韓国はさほどダメージを受けません。どころか、より一層調子に乗るばかりでしょう。韓国の主張に少しでも耳を貸す国や人がある限り、彼らはそこを突破口にして、日本に攻撃を仕掛けるのです。
すなわち、韓国を存在もろとも無視するには、韓国と接し得る全ての国、全ての人々が同時に一斉に、断固として行なう必要があるということです。そんなこと出来るわけがありません。結局韓国を存在もろとも無視するということが実行不可能である以上、韓国が存在する限り、韓国を知らずにいるということは危険ということなのです。
「日本と比べれば韓国なんて小さくて無力な国なんだから、そんなに意識する必要はない」という主張も聞いたことがあります。ですが小さくて無力なものが危険ではないとは言えません。最近、エボラ出血熱やデング熱などのウイルス性感染症が話題になっていますが、ウイルスや細菌なども、それ自体は小さく無力な存在です。
しかし、その小さく無力なウイルスや細菌を体内に取り込んだり、積極的に取り込まなくても体内への侵入に無頓着であればどうなるかを考えてみてください。病原性のウイルスや細菌を体内に取り込んでも、運が良ければ発症しないこともありますが、たとえ当人が発症しなくても、その人は周囲に感染を広げる者になるでしょう。
要は、韓国については、感染症と同じ考え方をすれば良いのです。
感染症に親しみたいと思う人は、学者や研究者を除けばまずいませんし、学者や研究者であっても感染したいとまでは思わないでしょう。だからと言って感染症に無関心で良いとか、無関心であるべきということにはなりません。
先にデング熱を引き合いに出しましたが、蚊が媒介する感染症は、別にデング熱だけではありません。デング熱よりも致死率が高く、運良く治癒しても高い確率で重い障害が残る日本脳炎も、蚊が媒介する感染症としては有名です。にも関わらず、蚊に刺されることで日本脳炎に感染することを恐れる日本人が少ないのは、日本においては日本脳炎の予防接種が普及しており、蚊に刺されても日本脳炎を発症する人が断然に少ないためです。
対するデング熱は、日本国内での感染報告が過去60年以上なかった(海外で感染して日本に帰国後発症する例は、毎年数件から、多い年で200件余りある模様)ため、どういう病気かさえあまり知られておらず、マスコミが盛んに報道することでよほど恐ろしい病気なのだろう(稀に重症化して出血症状を起こすこともあるため、エボラ出血熱と混同する人もいるようです)というイメージばかりが膨らんで、過剰な恐怖心を抱く人が多いのではないでしょうか。
もちろん、デング熱をさほど致死性の高い感染症ではないから、軽く考えて良いなどと言うつもりはありません。ですがデング熱に対して過剰な恐怖心を抱くのも、無駄であるばかりではなく精神衛生的に害があります。デング熱について正しく知れば、必要以上に恐れることもなくなりますし、感染予防の知識も得られます。
韓国に関しても、デング熱のようなウイルスや細菌による感染症と同様に、よく知ることこそがその害を遠ざける第一歩だと私は考えています。
韓国人を見たら、韓国人と思え
日本に対する理由無き侮蔑意識や不当な非難と中傷、日本人には到底理解し難い非人間性や二重規範、実際に関わった場合に被る現実的な迷惑や損害、不潔に対する度を超えた無頓着等、いったいどれだけカードを切れば気が済むのかと言いたくなるほど、日本人が不快を催すカードを切り続けてきたのは、他でもない韓国人自身です。嫌われるための条件をこんなに揃えられたら、何とも思ってない人でも嫌いにならずにいるのは難しいでしょう。
日本では戦後長い間、韓国に対する無関心が続いていました。実際、日本にとっての韓国は、全く注目に値する国ではありませんでした。韓国がそれに不満を感じなければ、日本はずっと韓国を誤解し続けていたでしょう。その方が、韓国にとっては都合が良かったかもしれません。
しかし韓国人にとって「無視」は侮蔑に勝る屈辱です。しかも韓国人にとっての日本は、肉を食らい血を啜っても晴らせぬ怨みを持つ相手であると同時に、叶うことなら皮膚ごと溶け合って一体化したいと願うほどの羨望と憧憬の的でもあります。日本を憎いと思えば思うほど目が離せず、日本を見つめれば見つめるほど執着が募り、日本人に振り向いてもらえなければもらえないほど、韓国人の日本人に対する憎しみは強まるという循環になっているのでしょう。
ですから韓国人としては、何が何でも日本(人)を振り向かせたかったのです。そのために仕掛けたのが、国をあげての韓流捏風だったわけですが、これは見事に図に当たりました。少なくとも一時は。
韓流捏風が盛んだった頃の韓国言論は、日本人が韓国の芸能人に熱狂している、いや日本人が韓国に屈服している、つまり日本は韓国に征服されたのだと、浮かれ調子で書き立てていたものです。
しかしそれも今となっては昔の物語です。
韓国では、ひとつ当たれば我も我もとこぞって同じようなものばかり出します。それでも後発のものに多少なりとも進歩や変化の兆しが見えるならばまだしも、後から出るものほど以前のものより質が劣っていくのですから、大なり小なりオタク気質を持つ日本人にとって韓国芸能は、年季が進めば進むほど物足りなくなっていったことでしょう。
結果として、無知故に韓国に好意的であった日本人韓流ファンは水の泡の如く消えてゆき、残ったのは韓国に対して知的好奇心を抱いた日本人ばかりでした。
韓国が見せたいと思う韓国ではなく、韓国が無意識的に見せようとしない素の韓国を知りたいと思う人に、韓国はなかなか興味深い観察対象でした。美しく拵えられた舞台の書き割りの裏側を覗くような、表舞台とのギャップを知ることの出来る、少し悪趣味な楽しさが韓国ウォッチにはありました。その、少々悪趣味な知的好奇心が今日の嫌韓書籍の好調を支えているのでしょう。
それは良いことだと思います。弊ブログでも、韓国に対する知識を備えることは日本人に必要なことだとずっと主張し続けてきましたから。
しかし同時に懸念することもあります。それは、ネットや書籍で韓国(人)を知った人は、知識としての韓国人のイメージばかりが肥大してしまうのではないかということです。その結果、無意識のうちに現実の韓国人をモンスターのような異形の存在としてイメージしてしまう人が案外いるのではないでしょうか。
知識としての韓国人のイメージと実際の韓国人のイメージが同じであれば、何も問題はありません。韓国人が、見るからにおどろおどろしい外見をしていれば、それが警戒すべき生き物ということは子供にでもわかるでしょう。そこまでわかりやすくなくても、せめて韓国人の額に「韓」の字が刻まれてでもいれば、随分誤解が減るに違いありません。
しかし残念なことに、私たちの目の前に現れる韓国人は、極めて私たちに似ています。しかも下手をすれば、日本人のふりをして、私たちの目の前に現れることもあります。穏和で清潔で誠実で、私たち日本人と全く変わらないように見える韓国人も、実は結構いるのです。
特に日本人と接する機会が多い韓国人ならば、上っ面はちゃんと整えてあるものです。そういう韓国人は、ちょっとぐらい話しても馬脚を現さないどころか、「これが伝説の稀少種か!」と早とちりしてもおかしくないぐらい話す内容も巧みであることが珍しくありません。
しかもそういう韓国人は大抵の場合、知人の知人として現れます。ぱっと見日本人と変わらないように見える韓国人が、知人の知人として目の前に現れてもなお、自分の持つ韓国人に対するイメージを崩さず、それに従って接することが出来る日本人は、それほど多くないのではないでしょうか。
ですがどんなに整えられた上っ面だろうと、一見日本人と変わらぬように見えようと、それは99.9%以上の確率で普通の韓国人です。どんなに素晴らしいと思える韓国人に遭遇しようとも、その韓国人はその韓国人に会う前に私たちがイメージしていたモンスターのような韓国人の一人と思って、ほぼ間違いありません。それを、私たちは肝に銘じる必要があります。
あまり現実の韓国人と接する機会がないまま韓国ウォッチをしている人は、もし韓国人に出会ったら、「韓国人を見たら韓国人と思え」という言葉を思い出していただければと思う次第です。
「罰(バチ)」が怖い?
この件については、「朝日新聞の誤報」というよりは「朝日新聞による意図的な捏造」という方が正しいのではないかと思うのですが、朝日新聞はどうやら完全に居直るつもりのようです。
朝日新聞のシンパ(韓国系言論を含む)は一所懸命擁護に励んでいるようですが、一度損なわれた信用はそう簡単には回復しません。しかも朝日新聞は今回が初犯ではないのです。
朝日新聞には、これまでに幾度も日本を貶め、毀損してきた前科があります。彼らの信用は、今回突然崩れたのではなく、彼らが今までこつこつと積み上げてきた日本毀損の前科によってついに崩れたのです。
今回のことをきっかけに、これまで朝日新聞が時代を味方に好き放題やってきたツケが、今後一斉に回ってくる可能性は大いにあります。その莫大なツケを返すのに、朝日新聞はどれくらいの負担と年月を要するでしょうか。いっそ潔く自己破産、即ち廃刊する方が良いのではないでしょうか。
そうすることで彼らのしたことがチャラになるとは全く思いませんが、せめて自ら腹を切って見せることで、これまで自分たちがしてきたことの責任を認める意思を示すぐらいのことは出来るでしょう。逆に言えば、それすら出来ないのなら、朝日新聞に自浄や更生など望むべくもないということです。今後の朝日新聞の行動を注視したいと思います。
さて、前回の記事のコメントに、「つまり月見櫓さんは罰が当たらないなら韓国人の絶滅を願いたい。まあそれが普通ですよね。わかります。でも願ってこっちに罰が当たると困るし怖いので願えませんよね」というコメントを頂戴したのですが、何か違和感を覚えました。
私は、「罰(バチ)が当たると困るし怖い」ので、韓国人の絶滅を願わないのでしょうか。
思うに、「罰(バチ)が当たらないなら韓国人の絶滅を願いたい」ということはありません。韓国人が絶滅するという確約があり、その対価が私一人に罰(バチ)が当たる程度で済むならば、むしろ積極的に願っても良いぐらいですw
では何故私は、「そんなこと(=韓国人の絶滅)を願えば罰(バチ)が当たる」と言ったのでしょうか。
それは多分その願いが、自分の手を汚すことなく自分の望みが十全に叶うことを願うという、あまりにも図々しい、身の程知らずな願いだからではないでしょうか。
「罰(バチ)」には、悪事だけではなく、身の程知らずや怠惰を戒める意味もあるように思います。「罰(バチ)」は、仏教で言うところの「因果応報」に似ています。「因果応報」とは読んで字の如く、「原因と結果に応じた報い」のことです。「罰(バチ)」もまた、何もないところにいきなり降りかかるものではありません。自らの行ないに因って生じる結果です。
良い行ないをすれば良い結果が返り、悪い行ないには悪い結果が返るものです。もちろん、世に不条理は付き物ですから、悪いことや身の程知らずなことをしてる奴が良い思いをして、良いことをしている人や謙虚な人が貧乏くじを引かされることは珍しくありません。ですがそれでも、調子に乗って悪いことや身の程知らずなことをし続ける者は、いつか必ず自らの行ないに応じたしっぺ返しを食らうものです。それは、現在の朝日新聞を見ればご理解いただけるでしょう。
つまり、「罰(バチ)が当たる」というのは、罰(バチ)を恐れて悪いことをするなという戒めではなく、「罰(バチ)が当たるようなことは最初からしてはいけない」という戒めではないでしょうか。
罰(バチ)が当たるから、罰(バチ)が恐ろしいから、悪いことや身の程知らずなことをしない、というのであれば、罰(バチ)が当たらなければ、罰(バチ)が恐ろしくなければ、どんな悪いことも身の程知らずなこともして構わないということになってしまいます。
「罰(バチ)なんて非科学的な迷信だ」と嘯く韓国人のようになって罰(バチ)の存在を否定するようになれば、ズルもインチキも身の程知らずも嘘も怠惰も悪事も、韓国人のように何の抵抗もなくやるようになってしまうかもしれません。
「罰」を「バツ」と読んだ場合を考えても、やはり同じです。「罰(バツ)があるから、犯罪を働かない」というのでは、やはり逆さまでしょう。それなら「罰(バツ)がなければ、犯罪を働いても良い」ということになってしまいます。
「罰(バツ)」があろうとなかろうと、犯罪は働くべきではないのと同様、「罰(バチ)」があろうとなかろうと、悪いことや身の程知らずなことはするべきではないのです。少なくとも私は、「罰(バチ)」についてはそう考えています。
信じる日本人、信じない韓国人
韓国人のそういう習性を、「他力本願」とは言いたくないということは、以前にもちらっと述べたことがあります。
先だって、呉善花氏の「ワサビの日本人と唐辛子の韓国人」を読み返していたのですが、その中に浄土宗についての記述がありました。浄土宗は、阿弥陀仏の本願にすがって極楽往生を遂げようという、いわゆる「他力本願」の宗派です。
呉善花氏によると、韓国人にとって他力本願という思想は、理解出来ないものだといいます。悪いことをしても、南無阿弥陀仏と唱えさえすれば極楽往生が叶うならば、誰もが悪いことをするようになって、秩序が保たれないではないかというのです。
浄土宗は朝鮮にも、李朝末期頃に伝わったそうですが、それが根付くことはありませんでした。それは「他力本願」の本質が朝鮮人には理解出来なかったためではないでしょうか。
他力本願とは、他人を使って自分の願いを叶えることではありません。「(阿弥陀如来の本願を)徹底して信じ抜くこと」です。阿弥陀如来という、自己を含む全ての人間を遙かに超越する存在を信じ、その力を全身全霊で信じ抜くことです。この「信じ抜く」ということが、朝鮮人にはどうしても出来ないようなのです。
そういえば呉善花氏は同じ本の別章で、日本人が「祟り」や「罰(バチ)」の存在を信じていることにも困惑しておられました。韓国人に言わせると、「祟り」や「罰(バチ)」などという非科学的な迷信を信じているのは、日本人が未開だからということになるようです。
実はこの「祟り」や「罰(バチ)」を信じる心にも、日本人の「自己を含む全ての人間を遙かに超越した存在」を信じる意識があることに、韓国人は気づきません。
誰も見ていなくても、悪いことは悪いことです。悪いことをすれば、いつかその報い(=祟りや罰(バチ))が返ってくるはずだという意識が、日本人には普遍的に在ります。その意識があるからこそ、「悪事を働いても南無阿弥陀仏と唱えさえすれば極楽往生が叶う」という教義に、「それならいくらでも悪いことし放題じゃないか」などと日本人は思わないのです。
韓国人にそういう意識はありません。悪いことをしても、見つからなければ、彼らは悪いことをしたとは思いません。むしろそれが当然だとか、下手をすれば賢明だとさえ思っています。
ですが(彼らにとっては至極不当なことに)、世の中には彼らの悪事を咎める人々がいます。ですから彼らは、渋々悪事を控えているのです。
前述したとおり、彼らは他人をあてにすることが非常にしばしばあります。あるいは、相手と何の約束もしていないのに、相手が自分に都合の良いように動くことを確信的に期待します。
結果、彼らの期待通りになることも絶対皆無ではないかもしれませんが、大抵は彼らの期待通りにならないことの方が多いでしょう。
すると彼らは、「裏切られた!」「信じていたのに!」と叫びます。しかし彼らが信じているのは、全てが自分だけに都合の良いように展開することであって、他人など最初から全く信じていないのです。
この、「他者に対する絶対的な不信」こそが、韓国人そのものであると言っても過言ではありません。朝鮮半島においては、「他者に対する絶対的不信」こそが、生存競争を勝ち抜く条件だったのでしょう。つまりこの「他者に対する絶対的不信」によって、朝鮮人は絶滅を免れてきたのかもしれません。
しかし「(他者を)信じること」にさほど抵抗のない日本人と、「他者に対する絶対的不信」が種の存続の条件であった韓国人とでは、共存など出来るはずがありません。
もし韓国人が「信じること」を覚えれば、あるいは今後の日韓関係にも改善の余地が出来る可能性もあるでしょう。ですが、「他者に対する絶対的不信」こそが韓国人を韓国人たらしめていることを考えれば、「信じること」を覚えた韓国人は、韓国人ではいられなくなります。
即ち、韓国人が韓国人である限り、そして韓国人が韓国人であるためには、「他者に対する絶対的不信」が、必要なものかどうかは私にはよくわかりませんが、不可欠なのは確かです。
ならば韓国人に「他者を信じること」というスキルの獲得を期待する、あるいは義務付けるということは、韓国人の絶滅を期待、あるいは企図することと同義になると言えます。
嫌韓を自認する私ですから、韓国人の絶滅を全く願わないと言えば嘘になるでしょう。しかし、身の程をわきまえない過ぎた望みの実現を願えば、それこそ「罰(バチ)」が当たります。
ですからそこまで過分な望みは持ちません。身の程を知ったささやかな願いを、今すぐ直ちに速やかに叶えろとも言いません。緩やかでも良いから静かに穏やかに、しかし確実に、日本が韓国との関係を解消することを願うのみであります。
偏狭なのはどちら?
さて現在の日本には、日本人は愛国心を持ってはならないという強烈な心理的束縛があります。多くの日本人が、他国人が愛国心を持つことを悪いこととは思わないどころか賞賛すべきことと考えるようですが、日本人が日本に愛国心を持つとなると、途端に眉をひそめます。
それは多分にWGIPの成果でしょう。子供の頃に刷り込まれた意識は、大人になってもなかなか変えられるものではありません。子供の頃、真面目に学校の授業を受けていた人ほど、その束縛は強いのではないでしょうか。
私は、全く自慢にはなりませんが、学校の授業をあまり真面目に受けてきませんでした。そのせいで他人より刷り込みの度合いが弱いのか、日本人が愛国心を持つことにもあまり抵抗を感じません。
それに弊ブログは、一応嫌韓にカテゴリされるブログです。私自身も、嫌韓であることを自ら名乗っています。親韓が反日の同義語となるように、嫌韓は親日の同義語となり得るでしょう。外国人なら親日で良いのですが、日本人の親日は即ち愛国にほかなりません。
ですから私は、弊ブログの読者には日本人の愛国心を肯定する人が絶対多数だと決め付けていました。それが私の思い違いであったことは、数年前の記事から明らかになりました。嫌韓であっても、日本を愛していると堂々言える日本人は、意外に少ないのです。
それを煽っているのが、親中・親韓であるが故に反日である日本のマスコミでしょう。彼らは日本人が愛国心を持たぬよう、日本人の愛国心に嫌悪と拒絶を催すよう、常に印象操作に努めています。
京都新聞の「ヘイトスピーチ 対策に英知を集めよう」という社説の最後の段落で「偏狭なナショナリズム」という一節を見た時、ふと思ったのは「何故「ナショナリズム」という言葉に、「偏狭」という言葉を冠したのか」ということでした。
「偏狭」とは、辞書によると
1 自分だけの狭い考えにとらわれること。度量の小さいこと。また、そのさま。狭量。「―な考え方」「―な性格」 2 土地などがせまいこと。また、そのさま。狭小。「―な領土」」 |
この「偏狭」の対義語は、1の意味からならば「寛容」あるいは「寛大」ですが、2の意味で言えば「広範」も対義語と言えるでしょう。「偏狭なナショナリズム」に対する「偏狭でないナショナリズム」というものがあるとすれば、「寛容なナショナリズム」「寛大なナショナリズム」あるいは「広範なナショナリズム」があるということなのでしょうか。
しかしいずれも全くピンときません。そもそも「ナショナリズム」という言葉自体が、「Nation=国家」を基にしたものである以上、当然その範囲は限定されます。範囲を限定しなければ、「Nation」は存在し得ないからです。「グローバルなナショナリズム」とか「ボーダレスなナショナリズム」という言葉が成立しないように、ナショナリズムはそもそも多少なりとも偏狭という性格を持つのではないでしょうか。
その言葉にわざわざ「偏狭」という熟語を冠するのは、言ってみれば「馬から落馬する」「頭痛が痛い」「被害を被る」「落雷が落ちた」と同じ類です。私のような素人作文家や野良ブロガーがやるならご愛嬌ですが、プロの新聞記者がやれば資質を問われてもしかたがありません。
もっとも執筆者がプロの新聞記者であるが故に、あえて狙ってその言葉を用いた可能性の方が、当然に高いでしょう。即ち、単に「ナショナリズム」と書いただけでは、執筆者の持つ「ナショナリズム」に対する嫌悪感や不快感、拒否感が十分に伝わらないと考えた可能性は大です。
つまり、あえて「偏狭」という言葉を「ナショナリズム」という言葉に冠することで、「(日本人が持つ)ナショナリズムは否定されるべき概念なのです」と強調したのかもしれません。
しかし客観的に見て、そういう反日メディアの思想そのものが極めて「偏狭」なものであるのは皮肉です。日本を否定するために、日本人が愛国心を持たないようにするために、愛国心を持つ日本人を糾弾するために、彼らは常に極めて「偏狭」な思考や主張を行なっていると言わざるを得ません。
韓国人にとっての「世界」は、往々にして「韓国」であることが多いのですが、日本の反日マスコミにとっての「世界」も、韓国人ほどではないにせよ、かなり「偏狭」ではないでしょうか。
日本の反日マスコミがまずやるべきは、「偏狭なナショナリズムを抑える流れを作」ることではなく、自らの「偏狭な反日思想」を改める流れを作ることじゃないのかと思った次第です。
日韓の事実を伝えるドキュメンタリー番組の制作を望む
昔と比較すれば幾らか衰えたとはいえども、テレビの影響力は今も馬鹿にしたものではありません。テレビは情報弱者と呼ばれる人々にとっては最大の情報源であり、かつ最高の信頼度を持っています。
そのテレビで、偏りのない韓国情報を発信するのは非常に良い方法だと思います。ですが「韓国に関わらないこと」をテーマとした場合、具体的にどういうドラマにすれば良いのかが俄に思いつきません。
日本や日本人を善玉、韓国や韓国人を悪玉で登場させれば、国内外の反日勢力が待ってましたとばかりに、対日攻撃の材料にするでしょう。悪玉が韓国や韓国人であるとほのめかしつつ、はっきりさせないという手もあります(実際に某漫画でやっててワロタ)が、「わかる人にはわかる」では、わからない人には全くわかりません。
そういうドラマを作る目的は、既にわかってる人たちにウケるためではなく、いまだにわかってない人たちに理解してもらうためです。ならば「わかる人にはわかる」ネタではダメなのです。「わかっていない人」にも、きちんと伝わる内容でなければなりません。
そういうことを考えると、フィクションであることが前提のドラマでは、あまり効果がないような気がします。何故なら、韓国にとって都合の悪いことは、それが真に事実であっても、「作者個人の悪意や感情で韓国人を悪く表現している」と受け取られる恐れが極めて強いからです。
そこでドラマではなく、日韓国交正常化以後日本が韓国にどんなことをしてきたか、対する韓国は日本にどんなことをしてきたかを、ドキュメンタリー仕立てで作ってはどうかと考えました。
どちらが良いとか悪いということは、あえて番組中では一切言及しないようにします。ただ淡々と、日本が韓国にしてきたこと、韓国が日本にしてきたことを再現したり解説して見せるのです。
あるいは日韓間で行なったことについて、両国の主観を比較するのも面白いでしょう。日韓関係の最初の第一歩であり、互いに長い時間を掛けて話し合い、互いに納得して締結したはずの日韓基本条約に対する日本側の理解と韓国側の理解を比較するのも良いですし、2002年の日韓共催ワールドカップについての、両国政府や国民の反応ととらえ方を比較して見せるのも有意義です。
そういう番組を私は、是非NHKに作っていただきたいと考えております。
何故反日親韓のNHKにそんな番組を作らせたいのかと訝しむ方もいるかもしれません。ですがNHKが作るドキュメンタリー番組の質の高さは、日本でトップクラスだと私は考えています。
その質の高さ故に、これまでNHKが制作してきた反日親韓傾向の強い番組が、何も知らない日本人に極めて重大な悪影響を与えてきたのは、一面の事実です。ですがそんなことは、NHKの持つ高いドキュメンタリー制作能力を使わない理由にはなりません。
もちろん、NHKが番組を作る気になるかどうかという問題はあります。しかし現在の日本における嫌韓書籍の出版ラッシュは、そういう情報を日本国民が切実に欲しているという証左でもあります。日本国民の要望に応えることは、放送法第81条に基づいたNHKの当然の責務です。またそうすることによって、NHKに付された反日親韓イメージを、幾許かでも挽回出来る機会も得られるわけです。
それに、先にも述べたように何も韓国を貶めるための番組を作れと言うのではありません。国交正常化以後の日韓の事実を淡々と連ね、日韓それぞれの主観を正確且つ平等に示してみせれば良いのです。それについてどういう判断を下すかは、視聴者の自由です。それこそが、放送の不偏不党というものでしょう。そもそもNHK(を含む全ての放送局)が、視聴者の印象を恣意的に操作するための番組を作ること自体が、既に放送法の理念に逆らうものなのですから、そういう番組は断じて作るべきではありませんw
今、日本国民の間で、これまで隠されてきた韓国の真実を知りたいという要望が高まっているのは、先にも述べた通り、いわゆる「嫌韓本」の好調からも確実です。
その要望に先陣を切って応え、素晴らしいドキュメンタリー番組を制作することを、私は切にNHKに望む次第です。
本気で日韓断交を目指すならば
そのため知らず知らず激しい感情のまま韓国について語ったり考えてしまうということは、非常によくあります。また、そういう状態で語ったり考えたりする韓国対策というものは、往々にして極端なものになりがちです。韓国について考える時は、努めて冷静でいる必要があります。驚愕や憤慨を催すことは避けられないかもしれませんが、その感情にとらわれたままに対応や考察を進めることは、ある意味韓国人のペースに乗せられることでもあります。
もちろん、韓国について憤るなとか驚くなという意味ではありません。彼らに対する激しい感情は、それはそれで持っていて構わないと思います。ただ、対応や考察はその感情とは分けて行なう方が良いという話です。
日本で嫌韓気運が高まる昨今、日韓断交を叫ぶ人は増えています。しかし、その実現を本気で考えている人が多いようには思えません。
日本が、韓国に不快な目に遭わされ、不利益を被っている現実を鑑みれば、今すぐにでも日本と韓国を引き離したいと考えるのは、日本人として自然な感情でしょう。
ですが現実は、そんなに簡単ではありません。弊ブログでも繰り返し述べているように、国交というのは相手がどんなに酷い国であっても、基本的にはあった方が良いものだからです。それは今、日本政府が北朝鮮との国交正常化を模索していることからも明らかです。
韓国が嫌だから、迷惑だから、国交を断絶してしまえと叫ぶだけなら簡単ですし、一時の鬱憤は晴らせるかもしれません。しかしそれだけで終わってしまえば、日韓の国交断絶はいつまで経っても実現することはないでしょう。
何故日韓は断交するべきなのかを、韓国をろくに知らない人に説明する時、ついつい私たちは韓国の悪いところや酷いところを列挙し、どれだけ韓国が日本にとって害悪であるかを力説してしまいます。こんなに韓国は酷いんだ悪いんだと強調し、相手に理解を求めます。
そうすることで、理解までは行かずとも、一定の共感がその場では得られるかもしれません。けれどその相手が、どれほどその共感を維持していられるでしょうか。
もちろん、冷静に理路整然と語ったとしても、相手がそれをきちんと理解するとは限りませんが、その場を離れた後に残る印象が違うのではないかと思います。
憤りや嫌悪感というのは、当事者にならないとなかなか理解出来ないものです。日韓問題については、日本人は本来全員当事者なのですが、その自覚と実感のない人は少なくありません。
甚だしい例になると、「地球市民」とか「国際人」などと嘯いて、日本というせせこましい枠にとらわれない大所高所に立っているワタシと思っている日本人も、案外珍しくないのです。
そういう相手にかかると、激しい憤りや驚愕に駆られたままの主張は感情論として軽んじられ、無視されたり聞き流されたりしてしまいます。不思議なことに、韓国人やその同調者が行なう感情論はしばしば容易に受け入れられ、再配布されるのですが、日本人が同様のことを行なうと、何故か嫌悪や反発を招いて排除されるのは、日本における嫌韓デモに対する反応を見れば明白です。
そうさせないためにも、私たちが主張する日韓断交論や韓国否定論は、極力冷静に行なうべきだと思うのです。そうすることで、嫌韓の主張が単なる感情論ではなく、現実的な利害に基づくものであるという理解が広まれば、まずは日韓断交の是非についての議論が行なわれるようになる期待が持てます。
繰り返しになりますが韓国に対して憤るなと言うのではありません。OINKに驚くなとも言いません。そんなことは無理です。日本が韓国から被った不利益や迷惑を知れば、日本人ならば憤らずにはいられませんし、驚かずにいられたらOINKとは言わないのです。
ただそれらの感情は、韓国を知った者にしか理解されないのです。韓国を知らない人にいくら説明しても、それは作り話か、たとえ事実としても誇張が過ぎると思われてしまうだけなのです。
弊ブログはしばしば冷静だとか客観的だと評価していただくことがありますが、実は筆者は結構感情論に突っ走りやすいタイプですw ですから自戒の意味も込めて、遠回りに見えても歯がゆくても、感情論と取られそうな主張は極力抑えて、淡々と韓国に関する事実を掲げ、それについての説明を冷静に丁寧に行なうことが、日韓断交に向けての地盤造りとして必要なのではないかと考える次第です。
漫才などでいう「ツカミ」として、出会い頭に衝撃的な感情論をぶつけて相手の度肝を抜くというやり方も有りかも知れませんが、それを計算尽くで行なうのはかなりの高等技術です。上手くいけば効果的でしょうが、滑った場合を考えると、話術や議論によほど熟達した方でない限りお勧めいたしかねます。