韓国人の「弘益人間」
私の国語感覚では、「顔を赤らめる」と言えば「恥じらう」とか「照れる」という意味に解釈されます。ですので「何故安倍総理と朴槿惠大統領が首脳会談で照れたり恥じらったりするんだろう?」と不思議に思いました。
記事を読んでも、安倍総理と朴槿惠大統領が互いに恥じらいあうことになるかもしれないという理由がよくわかりません。もしかするとこれは「(双方の意見が対立して妥協点が見つからず)互いに顔を真っ赤にして憤る」という意味なのかと思って原文を当たってみたのですが、朝鮮語でもこの表現は一般的には「恥じらう」「照れる」と解釈するようです。
日韓首脳会談について、韓国ではものすごい勢いで憶測やら下馬評やらが飛び交っており、真面目に考察する価値のあるものはほとんどなさそうで、この記事もそのひとつと理解して深く考えないのが一番適切なのかもしれません。
ただこの記事内に「朴大統領が普段から首脳会談で特定の懸案に対して執拗に食い下がりながら相手国首脳から確答を引き出した事例が少なくなく、今回も同様のスタイルを維持するのではないかと言われている」とあるように、韓国人が大好きな「押して駄目なら押し倒せ」を朴槿惠大統領が実行することに、韓国国民が多大な期待を抱いているということは確かだと思います。
安倍総理には、「押さば引け、引かば押せ」の精神で韓国人の猪突猛進をいなして欲しいと思います。
さて今回もコメントで頂戴したご質問をお題にさせて戴きます。ご質問下さった方には深く厚く御礼申し上げます。
韓国人と弘益人間について質問 今回の記事の人類やウリナムの部分を読んでて唐突に思い出した言葉があります。 韓国人の、自分たち韓民族が世界の中でも特に道徳的に優れた人種であると 自己認識している根拠に「弘益人間」精神というものがあるそうです。 韓国知識が不足している自分の頭では「弘益人間」の理念と韓国人の優越性に どんな繋がりがあるのか全く理解できませんでした。そこで質問があります。 韓国人は自分らが「弘益人間」の体現から程遠いことを理解できているはずで、 そこに誇りを持つどころか逆に己の劣等性を恥じ入るところだと思うのですが、 彼らに「弘益人間」の理念を実践してきたという自負はあるのでしょうか? 2015/10/29-01:28 | URL | 名無三 #-[ Edit] |
ご質問にお答えする前に、「弘益人間」について簡単に説明しておきます。これは三国遺事の檀君神話に出てくる言葉で、「弘(=広)く人間に益する」という意味です。ここで用いられている「人間」は、日本語では「人間到る処青山あり」と同じく「ニンゲン」ではなく「ジンカン」と読むべきであり、「人の間」即ち「社会」の意味になります。
韓国ではこの「弘益人間」を教育理念としており、韓国の有名私立大学のひとつである弘益大学の名称も、この「弘益人間」を由来とするそうです。
さて、「弘益人間」を日本人的に理解すると、「自分一人だけの狭い範囲の利益を考えるのではなく、広く社会全体の利益を考える」即ち「自利利他」とか「滅私奉公」に通じるようなイメージが濃厚にあります。
しかしながら前回記事で申し上げた通り、彼らに「広く社会全体の利益を考える」という思考回路は、全く無いように見受けられます。にも関わらず、彼らは「弘益人間」を韓国人の理念であると唱えて何の疑問も矛盾も、もちろん廉恥も感じていないように見えます。
それは何故なのかというのが、今回のご質問になると思うのですが、これはタネを明かせばそんなに難しい話ではありません。彼らにとって「人間」即ち「社会」とは「ウリ」であるということを思い出して戴ければ、謎はたちまち解けるはずです。日本人的に「広く人間(ジンカン=社会)に益する」と理解するから疑問や矛盾が生じるのです。
彼らにとって「人間(=社会)」とは「ウリ(=自分自身)」そのものであって、彼らにとっての「弘益人間」とは「他者(ナム)をウリに入れてやる」「他者(ナム)をウリとして考えてやる」ことなのです。この「他者(ナム)をウリに入れてやる」「他者(ナム)をウリとして考えてやる」という意識は、実は韓国人には極めて普遍的にあります。
例えば「多文化共生」という掛け声は、韓国では大変盛んです。これを以て「日本より韓国の方がグローバルだ」と主張する人も少なくないぐらいです。これもまた「ナムをウリに入れてやる」という「弘益人間」の理念に基づいたものでしょう。
過去に弊ブログで何度か、東南アジア系と欧米系(白人)の外国人がそれぞれ韓国で道を尋ねるという実験番組の動画を取り上げたことがあったと思います。
この番組では実験に先立ち、数名の韓国人に結果予想をインタビューしておりました。その答えはいずれも判で押したように「相手の人種によって態度を変えることはないと思う」というものでした。
結果は、欧米系の外国人にはほとんどの韓国人が極めて親切で、地図を眺めながら道端に佇んでいるだけで、英語で話しかけて道を教えてくれるのですが、東南アジア系の外国人に対しては、韓国人のほとんどが冷淡どころか「存在そのものを認めない」態度、即ち東南アジア系の外国人が韓国人に近寄ってきて道を尋ねようと話しかけても、ほとんどの韓国人が目も合わさず立ち止まりもせず、と言うかそもそも話しかけられたことに反応すらせず、立ち去ってしまうのです。
彼らにとって憧憬の対象である白人は無条件で「ウリ」にカテゴリするのですが、彼らにとって東南アジア系外国人は無条件で「ナム」であり、「ナム」は彼らにとって「存在しないもの」なのです。
番組のオチは何度も何度も何度も(中略)何度も無視され続けた東南アジア系外国人にも、やがて親切に道を教えてくれる韓国人が登場するというものでした。
これを以て「ウリには本来あのような弘益人間の精神があるのだ」みたいな結論に持っていったのではないかと思うのですが(朝鮮語のナレーションがわからなかったので定かではありませんw)、私があの東南アジア系外国人だったらあんなに辛抱強く道を尋ね続けることなんか出来ません。三度あんなふうに韓国人に無視されたら、心が折れて泣きながらホテルに戻って韓国を離れるための荷造りをすると思います。
多分彼らには「弘益人間」の理念を実践してきたという自負が、大いにあると思います。ただ彼らの理解している「人間(=社会)」と、私たちが考える「人間(=社会)」が同じではないために、私たちから見ると韓国人が「弘益人間」の理念を実践しているようには、微塵も見えないだけなのです。
もしかすると、彼らが何かにつけウリナラ起源を唱えたがるのも、それを以て「ウリは広く人間に益してるニダ」という考えたいからかもしれません。
何故韓国人は自ら生き難い社会にしてしまうのか
さて今回はご質問ではないと思うのですが、恐らく韓国をある程度知った日本人なら誰もが感じることをコメントされていた方がいらっしゃったので、これをお題にさせて戴こうと思います。
日本人から見ると、韓国人というのは自ら生き難い社会にしてしまうように見えます。傍から見ていると、何も難しいことはない、もう少しこうすればずっと楽になるのに、ああすればずっと簡単なのにと酷くもどかしい思いをします。
それを最も具体的に示して見せてしまったのが、あのセウォル号事故でした。
あの時私は、事故をリアルタイムで見ながら、船は沈むにしてもほとんどの人は助かるだろうと思っていました。船の沈没速度は極めて緩やかでしたし、季節も、泳ぐにはいささか早過ぎましたが、落水即死と言うほどの厳寒期でもありません。事故の速報の映像を見れば既に救助隊が現場に到着しており、複数の救命ボートが沈没船の周囲に待機しているのです。まさか数百名もの死者・行方不明者を出す事故になるなどとは、全く思いもしませんでした。
ところが現実には、彼らは被害者も救助者も共にやるべきことをやらず、ただ淡々と船が沈むのを待っていました。日韓チャットで韓国人にしょっちゅう「何故お前らはそうなんだ」ともどかしい思いをさせられまくっていた私ですが、この時ほど歯痒い思いをしたことはありません。
事故当時の記事にも書きましたが、いくら韓国人が嫌いでも、彼らが苦しみながら死んでゆくところをほくそ笑み、あるいは嘲笑しながら見ていられるほど私の神経は太くありません。あの時、彼らには為す術が全くなかったというならともかく、救助の時間も方法も、その能力もあったはずです。少なくとも、彼らが万策を尽くしたとは断じて言えない状態でした。
韓国人の作る社会とは、まさにあれなのです。他人に何かしてもらうことについては十全以上に期待しますが、他人に何かしてあげられることはないかという発想が極めて貧弱で、誰もが自分に都合の良いことだけを考え、他者を慮らず、勝手気ままに振る舞い、その結果誰もが生き難い思いをする社会を構築してしまうのです。
日本人は、「他人に迷惑を掛けないこと」を第一に考えます。これが韓国人には耐え難いほど窮屈に見えるようですが、日本人とて「他人に迷惑を掛けないこと」を常に考えるのは、それなりに息苦しいものがあります。
しかし、「他人に迷惑を掛けないこと」を社会の構成員が徹底すれば、逆に「他人に迷惑を掛けられること」が劇的に少なくなるわけです。「他人に迷惑を掛けられないこと」が徹底されれば、誰もが比較的楽に生活出来るようになります。
この最もわかりやすい例が「行列」でしょう。長い列に並ぶのが好きという人もたまにいるようですが、普通は嫌なものです。列に並んで待ってる時間に何か別のことが出来るならばまだしも、ただ漫然と並ぶだけなら、時間の長さがいつもの倍や三倍に感じられるでしょう。
だからと言って行列を作らなければどうなるでしょうか。もしかすると、首尾良く他人を出し抜いて早く目的が達せられるかもしれません。しかし同じように早く目的を達したいと思う人々と熾烈な競争をする羽目になる恐れの方が、圧倒的に大きくなります。
行列を作らなければ、どちらが先かの言い争いも起きるでしょうし、言い争いにまで至らなくとも、何だあいつ、俺より後に来たくせに俺の前に割り込みやがってとか、何睨んでんだあのバカ、お前がグズグズしてるから俺に先を越されるんだよざまぁみろとか、そんなどす黒い感情を腹の中に溜め込むことにもなります。あるいはそれが爆発して言い争いでは収まらず、拳で語り合ってしまうこともあるでしょう。
そうなるぐらいなら、行列を作って大人しく待つ方がムダもトラブルもあらかじめ回避出来、時間の面でも結果的には効率的なのです。
行列に限らず普通の、少なくとも先進国と呼ばれる社会においては、社会を構成するひとりひとりが他人のことを少しずつ考えることが当然のルールになっており、それによって巡り巡って自分自身の負担が軽くなるのです。
ところが韓国人にはそれが全く理解出来ません。彼らは、自分のことしか考えられません。それを最もわかりやすく示唆しているのが、彼らのノーベル賞に対する認識です。
彼らがノーベル賞を欲すること甚だしいものがあるのは韓国ウォッチャーならずとも広く知られつつある事実です。毎年のように「何故ウリはノーベル賞を取れないニダ」と大騒ぎする彼らに対し、揶揄や皮肉と共に、それなりに真摯な忠告や提言もあります。その忠告や提言では、【ノーベル賞とは「人類のために最大たる貢献をした人々」に対する賞である】ということも、何度も何度も言及されているはずなのです。
ところが彼らがノーベル賞を取るために考える方策は常に「自分たちのため」なのです。私は韓国人ではないので、絶対とは言い切れませんが、長年彼らをウォッチしてきた経験から言わせて戴くならば、彼らにとって「人類」とは「自分たち」だけであり、「人類のために最大たる貢献をした人々」というのを彼らは「自分たちのために最大たる貢献をした人々」と考え、理解しているのだと思います。
かつて「日本とはWin-Winの関係が絶対に築けない韓国」という記事を書きましたが、実は日本に限らず、韓国は他国とWin-Winの関係を築けません。韓国最大の同盟国であるアメリカでさえ韓国に愛想を尽かしつつある現実を見れば、韓国が他国とWin-Winの関係を築けない国であるということは疑う余地がありません。
弊ブログでは時々抹香臭いことを申し上げますが、仏教用語に「自利利他」という言葉があります。「自利」即ち「自分の利益」と「他利」即ち「他人の利益」とは同じものという考え方です。「情けは人の為ならず 巡り巡って己が為」と言えばいくらかわかりやすいでしょうか。自分の利だけを考えるのではなく、他人の利も考えることこそが、結局自分の利でもあるという考え方です。誰もが少しずつ自分の意に染まないことや嫌なことを辛抱したり譲歩することで、誰もがそこそこ快適に過ごせる社会を構築・維持することは、この自利利他の具現のひとつと言えるでしょう。
韓国人の「ウリ」「ナム」思想においては、この考え方がどうしても出来ません。どんなに周囲が教えても諭しても、彼らが「ウリ」「ナム」思想を維持し続ける限り、彼らは「自分自身(=ウリ)」の利しか考えられません。彼らにとって「ナム」とは存在しないものだからです。存在しないものの利を考えることは出来ません。
韓国人を見ていると、わかっていても「どうしてこいつらはこうなんだ」と慨嘆せずには居られないことがよくあります。【自利利他】の考えを持っている人ほど、「どうにかしてやれんものか」と苦悩するでしょう。
しかしそれを解決する方法はありません。少なくとも、日本人には無理です。ですから、韓国や韓国人については、「どうしてこいつらはこうなんだ」と思うことがあっても、「それでもこいつらはこうなんだ」ということを徹底的に悟ることだけが、韓国に対する最も正しい対応であると私は確信しております。
韓国人にとっての理想の社会
まあ関西に限らず、例えば「東京人」と言ってもそれこそ都内とそれ以外で違うでしょうし、更に言えば都内でも山手線の内側と外側でも違うと仄聞したことはあります。加えて「生粋の東京人」、いわゆる「江戸っ子」と呼び得る人々が都民一千三百万余の内どれほどの割合で存在するかということも、考慮に入れるべきでしょう。
同じことは日本全国全ての地方地域で言えると思います。
ただ【「一部を見て全体を判断しないで下さい、韓国人全部が反日ではない」≒「関西人はいろいろで一括りにできない」】(原文は文意が掴みづらいので、当方で句点とカギカッコを付け足しました)というご意見は、論点のすり替えだと私は思います。
韓国人も実は地域でいろいろです。かつて朝鮮は八つの行政区画に分けられており、それぞれ地域住民性が異なるとされおりました。京畿道は「鏡中美人」、忠清道は「清風明月」、慶尚道は「泰山嶠岳」、全羅道は「風前細柳」、江原道は「岩下古佛」、平安道は「猛虎出林」、黃海道は「石田耕牛」、咸鏡道は「泥田闘狗」と評されており(それぞれの意味は漢字を見れば一目瞭然ですので解説いたしません。もっと詳しく知りたいと思う方は各自で検索してください)、現在でもこの評はしばしば用いられることがあるようです。
しかしそれらは韓国(と言うか朝鮮)内の地域住民性であって、韓国の国民性、なかでも「反日」という一点においては、どこの地域に住まうどんな性格の韓国人であっても、多少の程度の差はあれど(一般に朝鮮半島は南へ行くほど親日度が高まるとは言います)ほぼ共通します。
もちろん、極めて稀にほとんどあるいは全く反日ではない韓国人もいるのかもしれませんが、そういう韓国人が韓国の国民性としての反日に一石を投じるということが事実上あり得ないという現実を鑑みれば、「反日ではない韓国人」など存在しないものと考えても差し支えないと私は思っております。
今回私が「関西人と言っても府県によってそれぞれ性格が異なります」と言ったのはあくまで「府県民性」であって、関西人が持つ「主義主張」や「思想」あるいは「生物として持っている習性」ではありません。「関西人(大阪人)と韓国人は似ている」というのが、「関西人(大阪人)と韓国人は反日という点で共通する」という意味であるならば【「一部を見て全体を判断しないで下さい、韓国人全部が反日ではない」≒「関西人はいろいろで一括りにできない」】に疑問が生じるという理屈は成立し得ますが、「関西人(大阪人)と韓国人は似ている」というのは、概ね「うるさい」とか「図々しい」とか「馴れ馴れしい」とか、それから何ですか?「店ではとりあえず値切る」「交通マナーが悪い」ですか?w、まあ何でも良いんですが、そういう行動や性格のイメージを指しているはずです。
そういう行動や性格のイメージを比較してであれば議論の余地はあるでしょうけれど、「一部を見て全体を判断しないで下さい、韓国人全部が反日ではない」と、「関西人はいろいろで一括りにできない」は、比較対象が全く異なり、議論は成立しません。
ところで昨日、月見チャットで私が「大阪人と韓国人は似ていると言わなきゃ死ぬ病気に罹っている人って多いねえ」と私が言うと、「(日韓チャットの)韓国人がそうだった」という意見が出て吹いてしまいましたw 言われてみれば「大阪人と韓国人は似ている」と言う韓国人や、やたら大阪弁を喜ぶ韓国人は確かに多かったですw
さて、危険な地域ネタはここまでにしまして(まだやり足りない人は月見チャットでどうぞw)、次のご質問にお答えしたいと思います。
「韓国人(の主に若者でしょうか)にとっての理想の社会はどんな社会なのか、それに対して実際に「韓国人が韓国人らしく輝ける社会」とはどんな社会なのでしょうか」というご質問を頂戴致しております。
まず「韓国人にとっての理想の社会」というご質問について考えてみました。しかし全然思いつきませんでした。「韓国人にとっての理想の環境」であれば容易に思いつくのです。とにかく自分だけが無条件で優遇され、称賛され、尊敬される環境が韓国人にとっての理想でしょう。
しかしそれは「社会」ではありません。「社会」とは、複数の人間で構成され、一定の秩序やルールの下に営まれるものです。「社会」が健全に営まれるために、社会を構成する個人に秩序やルールの遵守が求められます。ところが、この「秩序やルールの遵守」が、韓国人には屈辱と感じられるようなのです。
ですから、「社会」において自分だけが秩序やルールを守らず、思うままに振る舞っても良いのであれば、恐らくそれが韓国人にとっての理想の社会となるのでしょう。
ですが普通の社会であれば、秩序やルールを守らず思うままに振る舞う社会の構成員は必ず処罰や糾弾の対象になります。あるいは秩序やルールを守らない者が多い社会は、治安面で極めて危険な社会になります。どちらも韓国人にとっての「理想の社会」とは言えないでしょう。
と、ここまで書いてふと思い出したのが、かつて日韓チャットに初めて参加した日本人が述べた感想でした。それは「韓国人の社会性の無さに驚いた」というものでした。
かねてより弊ブログでは、韓国人は「ウリ」と「ナム」で人間関係を考えるということを説明して参りました。韓国人にとって人間関係は全て「ウリ」か「それ以外(=ナム)」で、「ウリ」とは即ち「自分自身」です。どんなに多くの人数が集まっても、それは「ウリ」か「それ以外(=ナム)」であって、「社会」ではないのです。そう考えれば、韓国人に社会性が無いのもむべなるかなです。
ですから、韓国人に「普通の社会の構成員」であろうとする意識が芽生え、即ち社会を維持するための秩序やルールを守ることを屈辱ではなく当然の行為と理解するようになり、韓国全体が「普通の社会」にならなければ、「韓国人が理想とする社会」というものは考えることも出来ないのではないかと思う次第です。
ただひとつ、無理矢理にでも「韓国人が理想とする社会」というものがあるとすれば、それは北朝鮮かもしれません。もちろんそれは、昔なら金日成、金正日、現在なら金正恩だけにとってであって、それ以外の北朝鮮人民にとっては北朝鮮も理想の社会とは言えませんが。
続いて「「韓国人が韓国人らしく輝ける社会」とはどんな社会なのでしょうか」というご質問ですが、そもそも「韓国人らしさ」というのが、韓国人に聞いても簡単に答えられないぐらい難しいご質問です。
嫌韓日本人的に「韓国人らしさ」を考えれば悪いことしか思いつきませんし、韓国人的に「韓国人らしさ」を考えてみても(=短所を長所に言い換えても)、「情が厚い」とか「目上には礼儀正しい」ぐらいしか思いつきません。これで「韓国人が韓国人らしく輝く」ためには何をどうすれば良いのか、まるで見当が付きません。
ただしこれが「韓国人にとって客観的に幸福な環境」ということであれば以前から時々申し上げていることですが、彼らの幸福を真摯に考える権力者が強権的に作り上げた、多少の瑕疵はあれど全体がそれなりの幸福を享受出来てしまうような環境、即ち優れた独裁者による絶対的強権統治ではないかと私は考えております。
関西人(大阪人)と嫌韓
「関西人」という言い方は、お題にも括弧付きであるように狭くは大阪人、広くても近畿二府四県民という意味で用いられることが多い言葉ですが、これはかなり広いくくりになってしまいます。
何しろ広い方の近畿二府四県と言えば大阪・京都・兵庫・奈良・和歌山・滋賀ですが、これらの府県民性はそれぞれ大きく異なります(それぞれの府県民性を具体的に定義すると、それでコメント欄が紛糾しかねないくらい危険なテーマになるので致しません)。
また日本で一二を争う面積の狭い大阪ですが、それでも実は地域地域で微妙に性格が異なると言われております。加えて私自身は大阪生まれの大阪育ちですが、両親は共に大阪出身ではなく(私は冗談半分で自分のことを「在阪田舎者二世」と呼んでおります)、また私が育った地域は大阪と京都の府境にある新興住宅地であったために、近所の人々も土地の人よりは日本各地から寄り集まった人の方が多く、私を「生粋の大阪人」と言うにはやや難があるということを、まずお断りしておきたいと思います。
私は生まれは大阪市内ですが、育ったのは北河内の新興住宅地で、そのためか子供の頃に在日を身近に感じた経験は全くありません。もしかするといたのかもしれませんが、感知することは一切ありませんでした。
韓国人がどうとか朝鮮人がどうという話が、家族や友達等の間で出ることは年に何度もなく、当然韓国及び朝鮮については激しく無知でした。これは私だけではなく、私が住んでいた(今も住んでますがw)地域の人に概ね共通していたと思います。
韓国及び朝鮮について無知ということは即ち韓国及び朝鮮について好意的であるということとほぼイコールです。今よりずっと「サベツはいけない」教育が盛んな時期でしたから韓国及び朝鮮について悪く言うことは確かに禁忌事項でしたが、それ以前に周囲に韓国及び朝鮮を感じるということがないために、韓国や朝鮮を美化したり褒めるような話を聞いてもそれに疑問や違和感を覚えたことはありません。と言うか、韓国や朝鮮を美化したり褒めるような話など、おとぎ話や勧善懲悪の物語と同じような現実感のないものでした。
小学生の頃に「チョーコー(朝鮮学校)の奴らとは絶対喧嘩するな」という話は聞いたことがありましたし、中学生になると半グレ連中が朝鮮語のスラング(パチキ、タンベ等)でイキがるということはありました。ですが、それが周囲や地域に嫌韓の雰囲気を醸し出したということは、全くなかったと断言出来ます。
それもこれも周辺に韓国人や朝鮮人がほとんどいなかったから(少なくとも感知出来なかったから)だと私は考えております。
翻って大阪市内、ことに韓国・朝鮮人密度の高い生野区周辺についてはと言えば、JR大阪環状線に乗れば、確か桃谷駅を過ぎた辺りに「民族名を名乗りませんか」という大きな看板が車窓から見えましたし、鶴橋駅では「(焼き肉の)匂いでメシが食える」と言われるほど、毎晩毎晩焼肉店から排出される煙が周囲に満ち満ちていました。鶴橋商店街は戦後の闇市の面影を色濃く残しており、商店の人々が片言の朝鮮語混じりで会話するのも、聞いたことがあります。
そういう地域ではおそらく、日本人と韓国人の軋轢は数多あったでしょうし、日本人側の不満も鬱積していたかもしれません。しかしそれを公に言うことは、おそらくそういうエリアであっても禁忌だったのではないかと私は想像します。それはレイシスト視されることを恐れてではなく、韓国・朝鮮人から嫌がらせ等の実害を被らないためであったでしょう。
「そこまで言って委員会」は、確かに嫌韓ネタも盛んではありましたが、もともとやしきたかじんという人は歯に衣着せぬ言動が売りであって、そういうところと歌手やしきたかじんとのギャップが、大阪人に面白がられていた部分は、きっとあったと思います。
紛糾のネタになりそうで本当は書きたくないことなのですが、大阪人は韓国よりもむしろ東京をおちょくるようなことを言う人が多かったように感じます。やしきたかじんという人はそういうネタを用いることがちょくちょくあって、そういう部分に痛快さを感じていた大阪人が多かった可能性は大いにあります。
ですので私個人の所感で言わせていただくと、「大阪だから嫌韓番組が許容あるいは受容された」ということではないと思っています。
もちろん韓国人が身近にいて、それがゆえに嫌韓という人は大阪にはもしかしたら多かったかもしれません。しかしそのことを露わにすることは、韓国人が身近にいればいるほどなかったでしょう。そういう番組を見た人たちが学校や会社でその話題で盛り上がることは、韓国人が身近にいる環境では危険極まりありません。
ですので、「今日の大嫌韓時代につながる種火をともし続けてきたのは関西というイメージ」は、「大阪=韓国人が多い」というイメージから連想されたものであって、お題を下さった方には失礼な回答になるかもしれませんが、私の個人的な考えでは事実ではないと思います。
続いて「中国人や韓国人の気質は関西人に似てるとか言われますが、恐らく関西人の方的には不本意ですよね?」というご質問についてですが、「当然です」の一言で終わるのはあまりにも愛想がないので少々余談を申し上げますと、最初に述べた通り関西人と言っても府県によってそれぞれ性格が異なります。ですから一絡げに「韓国人に似ている」というのは、現実的には無理があります。
中国人については、私の浅い中国理解では何とも申し上げかねますが、「韓国人に似ている」というのは少なくとも現在では確実に「悪い意味」であって、関西各地方の人々に限らずどこの人であっても「悪い部分」というのは大なり小なりあるものです。
と言うか、韓国人はある意味「人間の悪い部分」を煮詰めたようなものであって、その性質の悪さというのは、実は人間なら誰もが持っている弱い部分、悪い部分であると私は考えております。大阪人にも当然弱い部分悪い部分はあり、それが韓国人の悪い部分と共通することは、あると思います。
ですがそれを以て「大阪人と韓国人は似ている」と言われるのは、まことに不本意どころか不快であって、ならばそう言うあなたに韓国人が持っているような悪い部分弱い部分は一切ないと思っているのかと食って掛かりたくなるのは、私の未熟さ故という自覚は、大いにありますw
韓国は失敗を許容する国になれるか
例年ですと韓国人同士で「韓国人がノーベル賞を取れない理由」や「韓国人がノーベル賞を取るために必要なこと」をグダグダニダニダああでもないこうでもないと言い合っていたのですが、今年の中央日報では外国人にそれを言わせているのが目に付きました。
その中のひとつが、日本人(と思われる)記者が書いた【コラム】日本のノーベル科学賞の秘訣は失敗・変わり者を認めたおかげという記事です。
これは毎日新聞のソウル特派員が書いた記事ですが、要は「韓国社会はノーベル賞を取るのに適した社会ではないので、ノーベル賞にこだわらず、もっと韓国人に適した栄光を模索した方が良い」という主張と私は理解しました。
しかし、韓国でこの主張はまず理解されないでしょう。何故なら、彼らは「自分たちに適した栄光」では満足出来ないからです。
彼らは既に「自分たちに適した栄光」とやらを盛んに獲得しています。例えば半万年の歴史然り、万物起源説然り、ハングルは世界最高言語説然り、韓国人は世界最優秀民族説然りと、彼ら自身によるお手盛りの「栄光」は枚挙に暇がありません。
ですが世界中のどこの国も、それらをもてはやしません。韓国人が必死でウリナラマンセーしても、どの国も同調しません。稀にそういうニュースが報じられることもないわけではありませんが、ほとんど韓国人や韓国系の発信か、そうでなければオモシロ(あるいはトンデモ)ニュース扱いです。
彼らは、既に「韓国ならではの魅力」や「韓国らしく輝かしい道」を喧伝しています。ですがそれに呼応するのは「ウリ(韓国人か韓国人に同化している人々)」ばかりで、それ以外の人々は良くて愛想や世辞で、悪ければ無視や否定なのです。韓国人は、そういうお手盛りの「魅力」や「輝かしい道」ではなく、世界中の全ての人々から無条件且つ絶対的に賞賛された証しとしての栄誉が欲しいのです。そのひとつが、ノーベル賞なのです。
ですので彼らがノーベル賞を諦めることは、恐らくノーベル賞が本当に世界中の人々から価値なきものと判断され、無視されるようになるまでありません。そうなる前に韓国が消滅する方が早い気がしますが、それはさておき。
この中央日報の記事のように、韓国人がノーベル賞を取るには、失敗や多様性を許容することが必要であるという指摘は大変よくあります。多様性についても疑問符は付きますが、それ以上に韓国人が他人の失敗を許容出来るようになり、韓国が失敗を許容する国になることが出来るだろうかという疑問は極めて大きいものがあります。
どれほど緩く考えても、韓国人が他人の失敗を許容するようになることは極めて難しいと言わざるを得ません。韓国人は、基本的に他者の失敗を許容出来ないというよりは、意識的に「しない」のです。
韓国人にとって失敗は敗北であり、敗北は全ての終わり、即ち「死」に限りなく近いということは、「続「韓国人がノーベル賞を取れない理由」」にも書きました。だから彼らは自らの失敗を決して認めようとしないのだと。
では逆に、これが自分の失敗ではなく、他人の失敗であればどうでしょうか。
韓国人にとって他人の失敗は自分の勝利であり、勝利は敗者の生殺与奪の権を得ることを意味します。ですから、彼らは如何なる手段を用いてでも勝とうとしますし、どうしても勝てない場合は、如何なる手段を用いてでも相手に失敗させようとします。これは彼らのスポーツにおける姿勢や態度を見れば、説明や証明の必要はないでしょう。
韓国人にとって、物事は全て上下で判断され、それは極めてナチュラルに勝敗として理解されることになります。上の者は勝者として下の者を虐げ、下の者は敗者として「恨(ハン)」を募らせるのが、韓国の基本的且つ根本的な社会構造です。
もし彼らが他人の失敗を許容すれば、それは即ち自らの勝者としての地位を自ら放棄する行為となります。そうなれば、韓国人の感覚では、敗者が勝者となり、勝者のはずの自分が敗者となってしまいます。つまり「他人の失敗を認める」ことは、韓国人にとっては自殺行為に等しいと言っても過言ではないのです。
自分の失敗を認めないことで自らの敗北、即ち自らの死を回避しようとする韓国人が、他人の失敗を認めて自らの敗北、即ち自らの死を受け容れることなど、自主的にするはずがありません。
韓国人が他人の失敗を許容する人々とならなければ、国家としての韓国が失敗を許容する国になれるということは考えられません。それは例えば、韓国の一卵性結合双生児国家である北朝鮮を見てもよくわかります。北朝鮮の首領様は初代から当代三代目に至るまで、失敗したことがないとされています。
朝鮮人社会では恐怖政治を敷き、強大な権力を掌握している独裁者でさえ、失敗すれば敗北者と見なされ、追い落とされかねないのです。いわんや、どれほど優秀な学者や研究者であっても、一般人をや、です。
韓国人が失敗を許容しないのですから、韓国という国が韓国人で構成されている限り、失敗を許容する国になれる期待はほとんど持てません。唯一、国家としての韓国が失敗を許容する国となるために考えられる方法は、韓国人以外の(≒失敗を敗北とみなさない)人々が韓国という国家を構成することです。最低でも韓国人が韓国における絶対的少数民族となることです。それが出来れば、韓国も失敗を許容する国になれるかもしれません。
そうなった場合、その国を韓国と言い得るかどうかに少々の疑問は残りますが。
日韓友好を阻害しているのは日本の嫌韓なのか
ご存じの方も多いと思いますが、銀杏の実は茶色くて柔らかな、しかし猛烈に臭い果肉(って言うか、それこそが「銀杏の実」と言うべき部分なのかもしれませんがw)に包まれております。しかもこの果肉を素手で触るとかぶれるらしく、昔の人はよくこんな物を食べようと思ったなあと感心します。
十粒程度の銀杏であれば、手袋をして流水に晒しながらワシャワシャっと果肉を剥いてもそれほどの手間ではありません。たくさん収穫した場合は土に埋めて果肉を腐らせてから綺麗に落とした後、保存のために天日干しするらしいのですが、十粒程度なら保存するまでもなく紙袋に包んで電子レンジで加熱してすぐに食べました。下処理中の果肉の臭さには閉口しましたが、採れたてのギンナンは茶碗蒸しの中でお見かけするものよりもずっと透明感のある美しい翡翠色で、思った以上に美味しかったです。
なお、大阪は銀杏を結構大きな道路の街路樹として植えているところが結構あって、車が頻繁に行き交う道端で大きなビニール袋にわしわし収穫している人をたまに見かけます。交通安全的にどうかというのと、ギンナンなんて丼で食うものでもないのにあんなに採ってどーすんだと思うんですが、もしかしたら商売で収穫してる人なのかもですね。
ついでにせっかく韓国ウォッチブログなので、銀杏に関する韓国語のトリビアをひとつ。韓国では、「銀杏」と「銀行」が全く同じ発音なので、「銀杏の木」を「銀行の木」と勘違いしている韓国人が結構多いそうです。酒席の話題としてもウケるネタになるかどうか怪しいぐらいどうでも良い知識ですがw
さて親韓が口をそろえて言う決まり文句があります。「日本人が思うほど韓国人は反日ではない」「韓国の反日は政治家やマスコミが煽っているだけで、普通の韓国人はむしろ日本が好き」といった類の台詞です。親韓の誰もがあまりにも同じことを言うので、どこかにそういうマニュアルでもあるのかと思うぐらいです。
あるいはこうも言います。「日本の嫌韓の方が韓国の反日よりも日韓友好を阻害している」と。
先だって月見チャットで、前駐韓大使が著した「日韓対立の真相」という本を読んだ方が、「なんと、ぬるい考えなのでしょう」と嘆いておられました。
日本では、「韓国なんて放っておけ」という声をよく耳にします。 これは、日本人が「韓国人の多くは反日である」と思いこんでいるからではないのでしょうか。 こちらがいかに「仲よくやっていこう」としても、あちらが拒否しているような気がしていませんか。 私にはそうは見えません。現状では、韓国人の「反日」よりも日本人の「嫌韓」のほうが強いように感じられるのです。 |
この場合の「可憐」とは、よく用いられている「可愛らしい」とか「いじらしい」という意味ではなく、「憐れむべき」という意味でしょう。
嫌韓をやっていると、「日本の嫌韓の方が韓国の反日よりも日韓友好を阻害している」という類のご意見は、「日本人はもっと大人になって、韓国人の感情的な言動を受け流して(あるいは受けとめてw)やるべき」的なご意見と共に、非常に頻繁にぶつけられます。
韓国をあまり知らない人よりも韓国にかなり詳しいと思われる人がこの手のご意見を唱える傾向が強いために、韓国をあまり知らない人がこの手の意見に引きずられることは、甚だしいものがあります。
既にこのブログを書き始めた頃から折に触れ幾度となく反論しているのですが、10年経った今もこの手のご意見が衰える気配はありません。
せめてこちらが唱えた反論を聞いた上で、何らかの対策を加えて再反論してくれるのならまだ建設的なのですが、何故か彼らは同じ主張を同じ手法で飽かず繰り返します。
その中には、韓国人の手先となって意図的に対日工作の一環としてそういう主張を行なっている親韓日本人もいるのでしょうけれど、恐らく大半の親韓日本人がかなり本気且つ無邪気にそう唱えているのではないかと私は推察しております。
私も嫌韓を標榜する者ですが、実は親韓がこの手の主張を唱える気持ちは、わからなくもありません。
韓国をあまり知らずに、ネット上の知識を元に嫌韓な人には想像しても実感が難しいのですが、現実の韓国人がかなり人懐っこいのは一面の事実だからです。
ネット上ではなく、現実に知り合った韓国人がいる方には実感としてお分かりいただけると思うのですが、彼らは付き合いの浅い内は、大変に人懐っこく且つ礼儀正しいということが珍しくありません。
日本人側が年上であれば、まるで父母か兄姉を敬う如く恭しく接しますし、日本人側が年下であれば、まるで保護者の如く何くれとなく面倒を見てくれます。もし日本人が韓国で不快な目に遭ったり韓国の反日に顔を曇らせていれば、心から(少なくともそう見える程度には)日本人に真摯に謝ったり慰めたりすることも、意外に思う方がいるかもしれませんがかなり普通です。
そういう「現実の韓国人」を数多く見れば見るほど、「日本人が思うほど韓国人は反日じゃない」と思うようになってしまうのも無理はありません。
しかし韓国人が「日本人が思うほど反日じゃない」のは「親韓日本人と接している時」だけです。親韓日本人がいないところでは、ほぼ全ての韓国人が反日です。但し韓国の反日とは、韓国人の主観においては反日ではないということが、話をややこしくしているということは大いにあるでしょう。
彼らの主観における日本人とは、華夷思想における夷狄です。但し同時に見習うべき先進国人と考えてるのも事実で、この捻じれが大変に面倒臭くも興味深いのですが、今回はその話は措きます。
日本人が感じる韓国の反日とは、韓国人の主観においては夷狄の無知蒙昧で野卑な言動を、知識人且つ道徳人であり、精神的優位者である韓国人が教え諭すことなのです。
ですから彼らは、自分たちが反日とはあまり思っていません。彼らは、韓国で言われていること(と言うか、「ウリ」が言っていること)が絶対的に正しいことであって、それを日本人が鵜呑みにすることが日本人にとって正しいことであり、日本人のためにもなることだと確信しているからです。
しかし現実は、現在多くの日本人が感じているように異なります。この日韓双方の意識のギャップが日韓関係の軋轢の温床になっており、如何にしてこのギャップを埋めていくかが、親韓日本人が本来担うべき役割ではないかと思うのですが、何故か大抵の親韓日本人は、韓国人の「誤解です理解してください」を代弁するばかりです。
日本に向かって「お互いに歩み寄って」と言うのであれば、既に日本は散々歩み寄ったのです。日本が譲歩した分だけ韓国が押し込んできた結果が、現在の日韓関係なのです。ですから親韓日本人のお歴々は、日本に向かって「お互い歩み寄って」と言うのではなく、「日本は既に十分過ぎるほど歩み寄ったのだから、今度は韓国が歩み寄れ」と、【韓国に向かって】言わねばならないのではないでしょうか。
対する日本側ですが、これまで日本が散々韓国に歩み寄った結果が現在なのですから、同じ方法を繰り返して事態が好転するとは考えられません。日本には、「押して駄目なら引いてみろ」という諺があります。この諺にならって、日本はこれまで散々韓国に歩み寄って駄目だったのですから、今度は韓国を突き放してみてはどうかと思うのです。
現在の日本の嫌韓気運がまさに「韓国を突き放す」ことであり、その結果日韓関係は好転するかもしれません。もちろんこの場合の「好転」とは、「日本にとって」の好転ですが。
少なくとも今までの手法で既に悪化した日韓関係が、手法を変えた結果これ以上悪化したとて、「日本にとって」失うものがそんなにあるとは思えません。ある意味、「日本にとって」負けのない賭けです。そう思えば、「押して駄目なら引いてみろ」を試さない手はないでしょう。
もっとも韓国では「押して駄目なら押し倒せ」と考えるらしいのですが。
自分の物を盗む相手と友好関係が成立するか
前回の記事で、韓国語の歌の空耳動画を幾つかピックアップしたわけですが、そのせいで現在の私のYouTubeのおすすめ動画欄は空耳系動画で溢れかえっております。
中でもお気に入りはこれw 同じグループの「もすかう」も一時期かなり流行ったなあと、改めて懐かしく楽しく見ておりましたw
そういう動画を見ていると、「何でこんなコト書いてんだろう、世界には楽しいことや美しいものが幾らでもあるのに」病がぶり返します。このところ時事系韓国ネタは結構豊富なのに、筆がと言うか、キータッチが全く進みません。偶然か、それともそういう季節なのか、前回の「何でこんなコト書いてんだろう、世界には楽しいことや美しいものが幾らでもあるのに」病の発作も、丁度一年前の同じ時期でした。
ですがそういう季節であってもなくても、三日おきの更新日は容赦なく迫ってくるわけで、そういう時期は更新の大幅な遅れと共に、愚痴やどうでも良い世間話を枕に振って文字数を稼ぐという姑息な真似をしますが、生暖かくご容赦いただきたいと切に願う次第です<(_"_)>
というわけで今日も今日とて、韓国について思うところをダラダラ行かせていただきます。
これまで散々繰り返し述べてきた通り、日本にとって韓国との友好は、得るものが少ない割に失うものが多いと言うか、そもそも「日本人の考える日韓友好」と「韓国人の考える日韓友好」に齟齬があるために、一見合致しているように見えても、最後になってやっぱり食い違っていたことを思い知らされるものとなっております。
しかしながら日韓友好を無条件で是とする勢力は、嫌韓が台頭しつつあると言われている日本でもまだまだ多数派だと思います。ましてや韓国では、反日を是とするのと同じ程度に日韓友好を是とする勢力が絶対的圧倒多数というのが現実です。
日本側は韓国に対し無邪気と言うか無関心な人が多いのに対し、韓国側はその真逆、即ち極めて関心旺盛でしかも悪意に満ち溢れているというのも相性が良いと言うべきか悪いと言うべきか、韓国の対日思想工作に翻弄される日本人側に「仲良き事は美しき哉」は全く通用しない相手が存在するということを説明することの難しさに苦慮することしばしばです。
そこでふと思ったのが、「自分の物を盗む相手と友好関係が成立するか」と言って説明するのはどうかということです。
日本人の日韓友好肯定派が夢想する通り、韓国人は極めて無邪気に、また日本人と同じ概念で、日本と友好関係を構築したいと考えているということにしてやっても良いのですが、有形無形を問わず日本のものを韓国人が盗みたがり、また実際に盗んでいるのは、厳然と存在する事実です。それを知らずに日韓友好を唱えている日本人も多いと思いますが、仮にそれを知ってもなお、日韓友好は促進されるべきだと考える人も、おそらく結構な数存在するのではないでしょうか。
かつて日本の移民受け入れに関して、ある移民受け入れ推進派と議論したことがあります。
移民受け入れ推進派は、移民のデメリットも熟知した上で、それでも移民によるメリットを得られなければ、日本は近い将来必ずホロン部と一所懸命唱えておりました。これに対して私は、移民受け入れは、期待されるメリットよりも、予想されるリスクとデメリットの方があまりにも大き過ぎる、最大の懸念は移民受け入れによって日本人が日本から駆逐され、日本が日本でなくなることだと主張し、真っ向から衝突しておりました。
某SNS上で数日に渡って続いた議論に業を煮やした私は、「ならば移民受け入れの実験を、「移民受け入れ推進派」だけで行なってみろ」と突き付けました。
「移民受け入れ推進派」だけでそんな実験を行なうというのは、決して公正な実験とは言えません。何故なら、移民受け入れに都合の悪い部分に目を閉じ、あるいは握り潰して、移民受け入れに都合の良い結果だけをピックアップすることが可能だからです。
ところがその「移民受け入れ推進派」は、私のこの提案に「それは移民受け入れ推進派に対する嫌がらせだ」と反発したのです。
即ちその「移民受け入れ推進派」は、「自分自身」が移民を受け入れることで被る不利益を熟知しているわけです。彼は「もし隣の市や町、村に移民のコミュニティが出来ても、私は許容する」と言って、「移民受け入れによる利益のためなら、移民受け入れによる不利益を被ることも辞さない」と胸を張っていたわけですが、私が「移民がコミュニティを作るのは、「隣の市町村」じゃない。自分の家の敷地内、もしくは自分の家屋内の一室だ」と言い、そういう形で移民を受け入れる実験でなければ意味が無いと言うと、「それは移民受け入れ推進派に対する嫌がらせだ」と言い放ったのです。
それは即ち、「自分自身」が移民受け入れによって被る不利益を甘受する覚悟はもちろん、そのつもりもない、と言い切ったも同然でした。
この構図は、日韓友好肯定派と否定派にもそのまま置き換えられます。
日本の、おそらく多数を占める無邪気で無関心な「日韓友好肯定派」は、日韓友好で日本が被る不利益を知らされたとしても、それを「自分自身」が被る不利益とは決して実感することが出来ていない場合が多いのではないでしょうか。
無邪気で無関心な日本人なら、意識しているしていないの差はあれど、「日韓友好によって日本が多少不利益を被ったとしても、日韓友好による利益の方が重要だ(その利益とは、結局「仲良き事は美しき哉」だと思いますw)」と思っていても不思議はありません。
更に「たとえそれで自分自身が不利益を被っても、全体の利益のためなら甘受する」と、これは恐らく無意識と言うか、全く深く考えずにそう思っているでしょう。
そういう人に、「では、あなたに好意と悪意を綯い交ぜに持っていて、そのためにあなたのものを隙あらば盗み、あるいは盗もうとする相手と、あなたは友好関係を構築出来るのか」と尋ねてみれば、その人はどう答えるでしょうか。
「韓国人はそんな人々ではない」という反論は、事実を以て容易に崩せます。彼らは紛れもなく、「そういう人々」だからです。それは竹島問題ひとつを取っても、容易に説明が可能です。鬱陶しいのは「そういう韓国人もいるかもしれないが、そういう韓国人が全てではない」という常套句でしょう。
これに対しては「そうではない韓国人ももしかしたらいるのかもしれないが、国家としての韓国はそういう国だ」という事実を突き付けることが出来ます。これもまた、竹島問題ひとつで説明が可能です。
それで足りなければ日本全国の仏像や文化財盗難、音楽やアニメや菓子の剽窃、品種登録された農作物の無断栽培やロイヤリティの支払い拒否、昔取った駅前等、実例は幾らでも挙げられます。日本人と韓国人とが関わる機会が増えれば、必然的にそういう被害も増えます。それが我が事にならないのはただの幸運であって、日韓友好を促進すればどんなに気をつけようと、いつ我が事になっても不思議はないのです。
とにかく「日韓友好」とは「いつか何処かで誰かが知らない内にやること」ではなく、「自分がいるところで、自分も参加して、リアルタイムで利益と共に不利益も「自分自身」が被ること」と理解させるのが、無邪気で無関心な日韓友好推進派には一番効果的かなあと愚考する次第です。
もっともそうやって説明しようとしても、最初から「私には関係ないし」と逃げる日本人も結構多いのが困ったものなんですがね・・・。
韓国語の曲をわざわざ日本語にする理由
しかし冒頭いきなり「今日は世宗大王(セジョンデワン)がハングルを作って569周年になる日だ。」とぶちかましている辺り、やっぱり韓国人は「偉い人」が成果を独占するのを当然と考えてるのだなあと再確認しました。だって世宗王は「ハングルを作らせた人」であって、絶対に「作った人」ではないのですからw
さてコメントで以下のような質問を頂戴いたしました。
K-POP 記事とは関係ないのですが、質問させてください。 かつてK-POPが好きで、ライブにも行ったりしていましたが、日本で活動する際に、人気のある韓国語の曲をわざわざ日本語にされて残念な思いをしたことが多々あります。 折角日本でも人気のある韓国語の曲を、何故わざわざ日本語にするのかが理解できずにいます。 単に利益のためとも思えません。 そこのところ、何故なのか管理人様のご見識をお聞かせ願えれば幸いです。 2015/10/07-00:09 | URL | sunrizejpn #-[ Edit] |
このご質問に以下のようなコメントがつき、その応酬が個人的にツボにハマりましたw
>折角日本でも人気のある韓国語の曲をわざわざ日本語にされて ぜひその曲名を教えれください。 大変申し訳ないのですが、そちらの方に興味があります。 2015/10/07-22:12 | URL | うめ #USanPCEI[ Edit] |
このコメントで質問者の方は自己解決したようなのですが、実は月見チャットでもこのやりとりが話題になっておりました(て言うか、私が話題にしたんですがw)。
2015/10/08 00:14 fetia : 日本で韓国語のままで人気のあった韓国の歌って、何があったかなあ?
2015/10/08 00:14 rokoroko : アリランじゃね?
2015/10/08 00:14 わたゆき : 人気ない
2015/10/08 00:14 fetia : 「釜山港へ帰れ」は、サビだけ韓国語だけど、ほかは日本語だったし。
2015/10/08 00:14 rokoroko : ほなら、テコンVのテーマ。
2015/10/08 00:14 fetia : 知らんわw>テコンVのテーマ
2015/10/08 00:15 わたゆき : それは一般人はポカーンですよww
2015/10/08 00:15 rokoroko : たいらだよーろぼっとやー♪
2015/10/08 00:15 fetia : あれか。
2015/10/08 00:15 rokoroko : あれです。
2015/10/08 00:15 fetia : いや、それじゃなくて。
2015/10/08 00:15 rokoroko : どれだ。
2015/10/08 00:15 fetia : 根が薄々、コンバンコ。
2015/10/08 00:16 fetia : 根が起こしぷーでマダム。
2015/10/08 00:16 rokoroko : それ知らんわ。
2015/10/08 00:16 fetia : なり、裏張りでマンデリカ。
2015/10/08 00:16 わたゆき : あ、人気ある朝鮮語の歌、思い出した
2015/10/08 00:16 わたゆき : https://www.youtube.com/watch?v=op_9Ym2_YPQ
2015/10/08 00:17 わたゆき : 先に言いますけど私は好きじゃないですよ><
2015/10/08 00:17 clala : キタ━━━━━━(๑→ܫ←)━━━━━━ッ !!w
2015/10/08 00:18 rokoroko : 知らんわ・・・
2015/10/08 00:18 fetia : https://www.youtube.com/watch?v=7KHEdTCcelg これ。
2015/10/08 00:18 clala : ほーそー禁止用語満載。。w
2015/10/08 00:18 rokoroko : てか、わたゆきさんて、相当マニアックですよね・・・
2015/10/08 00:18 rokoroko : あー、冬ソナの歌か。
2015/10/08 00:18 わたゆき : わわわあわわたしはマニアックちがいますからあ><
2015/10/08 00:19 rokoroko : 冬ソナの歌よりは断然テコンVのほうがかっこいいのにー><
2015/10/08 00:19 clala : 声気持ちわるっ!
2015/10/08 00:20 clala : あははこれも空耳だったのね(。→ˇ艸←)プククッ☆
2015/10/08 00:20 fetia : しかしこれは【日本語にした】ことになるのだろうか?
2015/10/08 00:20 rokoroko : さあ・・
日本ではカラオケボックスに行くと、韓国語の歌カテゴリがあるぐらい韓国語の歌は私たちの考える以上にたくさんあることはあります。しかし韓国語そのままで日本で知られている歌というのは、韓流にもK-POOPにも疎い私には俄に思いつきませんでした。
ですので、以下はあくまで「韓流にもK-POOPにも疎い韓国ウォッチャーが考える「日本(の韓流ファンの間)でも人気のある韓国語の曲を、わざわざ日本語にする理由」とお考えください。
まず、日本人は韓国語を理解出来ないと韓国人は考えているということがあるのかもしれません。日本における韓流やK-POOPファンには在日が多く紛れており、韓国語の歌をそのままもてはやす日本のファンは、韓国人から見て在日と思われている可能性は大いにあります。
韓流捏風全盛の頃、日本で活動する韓国芸能人は引きも切らず、その度韓国では「日本を征服した」だの「日本中を熱狂させた」だのといった煽り文句を付けて報じていました。しかし実際はサクラを雇ってどうにか格好を付けていたのが現実でした。
日本人としてはかなり理解に苦しむ考え方なのですが、韓国人は心酔することを屈服することとほとんど同義に考えているようです。そのため、彼らはファンを「自分に屈服した者」と考えるらしいのです。それは例えば、ネットにおける江南スタイルの動画再生回数を彼らがやけに誇ることからも推察出来ます。
とにかく他者を、殊に日本人を屈服させたいという思いは韓国人なら誰もが持つと言っても過言ではない願望です。在日をどれだけ屈服させても、彼らの欲求は満たされません。何故なら、韓国人にとって在日は最初から下位の存在だからです。それはつい先だってまで韓国で盛んに報じられていた、ロッテのお家騒動を見れば嫌というほどよくわかります。
ですので、彼らは韓国語の歌を日本語にすることで日本人を熱狂させる、ひいては「日本人を屈服させたかった」のかもしれません。
もうひとつ考えられるのは、韓国語の歌を日本語にすることで、韓国の芸能人を日本の芸能人であると錯覚させる効果を狙った可能性です。これは韓流芸能人では非常に盛んに用いられている戦略だと、私は感じています。
既存のファンは韓国の芸能人が韓国人であることに何の抵抗も感じないでしょう。しかし韓国人は、彼ら自身が持つ不当な差別意識を他者に投影するために、韓国人が韓国人のままでは他国人に受け容れられないのではないかという不安を大なり小なり持っています。
なので新たなファンを開拓するには、韓国芸能人が韓国人と丸わかりでは具合が悪いと彼らが考えたとしても、不思議はありません。
既存のファンなら、例えば質問者の方が仰っていた「少女時代」という女性アイドルグループ(ですよね?w)が韓国人グループだと当然熟知しているわけですが、「少女時代」を知らない日本人に売り込むには、韓国人ということをあまりおおっぴらにしない方が売り込みやすいということで、韓国語の歌を日本語にしたのかもしれません。
日本人は良いと思えばどこの国のものであっても、たとえ韓国のものであっても、結構受け容れるものです。事実、日本語に訳された韓国語の歌を日本人歌手がカバーするということは、これまでそんなに珍しくありませんでした。しかし韓国人にその感覚は全く理解出来ません(それが理解出来ない韓国人の感覚が、日本人には理解出来ないわけですがw)。
そんな歪んでねじれてマジェマジェになった彼らの複合意識が、時に彼らを日本人には理解不能な行動に走らせることがあり、今回ご質問いただいた「日本(の韓流ファンの間)でも人気のある韓国語の曲を、わざわざ日本語にした」のもその類例のひとつではないかと、あんまり自信ありませんがw、推察する次第です。
続「韓国人がノーベル賞を取れない理由」
私が通っているのは、いわゆる「スーパー銭湯」ではなく、番台があり入り口で男湯女湯が左右に振り分けられている昔ながらの銭湯です。最近のスーパー銭湯と比べると施設としては狭くて貧弱ですが、古びた佇まいも風情と趣きがあってなかなかいいものです。
今日その銭湯で、湯あがりに髪の毛を乾かしていると、脱衣場に設置してあるテレビが速報のチャイムを鳴らしました。またどこかで地震でも起きたのかと思ってテレビの画面を凝視すると、なんと日本人研究者がノーベル物理学賞を受賞したとの由。つい前日、医学生理学賞を日本人が受賞したとばかりということもあったためでしょう。男湯でも女湯でも歓声があがりました。
私が子供の頃、日本の教育は画一的な詰め込み式で、こんな教育では天才は育たないと嘆く大人がいましたが、何の何の。どんな環境であっても、育つ大樹はあるものだなあと思いました。
こんな時に韓国の反応を気にするようでは、「フォースの韓国面に堕ちている」と言われてもしかたないのですが、こんなブログを書いている身であれば、「韓国の反応なんか気にならない」と言う方が嘘になってしまうでしょう。
もっとも韓国の反応なんか見る前からわかりきっています。
「チョッパリがバカスカ受賞しているのに、何故ウリナラはノーベル賞が取れないニダ」という嘆き節が一番多いのは言うまでもありませんが、「日本のノーベル賞は猛烈なロビー活動や買収工作の成果に決まってるニダ」といった自己投影やら、「やっぱり日本人は優秀だ。それに引き換えチョーセンジンときたら」といった自己卑下がねじれて自分だけは日本人になったつもりになっているのやら、「ノーベル賞なんか最早時代遅れで価値がない」といった「酸っぱいブドウ型」なんかが主流だろうと思って帰宅後ネットにつないでみたら、だいたいその通りでした。
ずいぶん前に、「韓国がノーベル賞を取れない理由」という記事を書きました。その記事では、韓国人の行動原理にその理由を求めていました。しかし、最近それだけではないのかもしれないと思うようになりました。
客観的に見れば、韓国人の教育や知識レベルは彼らが自負するほど高くはありませんが、国際標準で言えば低いとも言えません。ですから、彼らが過去のノーベル賞受賞者同様、ただただ知的好奇心に衝き動かされる形で愚直に学術研究に勤しめば、あるいはノーベル賞を獲得する可能性もゼロではないでしょう。
韓国人も、そうしなければノーベル賞受賞は難しいということに薄っすら気づいていなくもないようなのです。それなのに彼らはそうすることが出来ません。
それはひとつには、彼らの社会環境というのもあるでしょう。彼らの社会は歴史的に失敗を許しません。失敗は敗北であり、敗北は全ての終わり、即ち「死」と同義です。
だからと言って彼らが失敗しないわけではありません。どころか彼らは非常にしばしば、明らかに失敗するとわかっている道を進んで、案の定失敗します。失敗が彼らにとって「死」と同義なのであれば、失敗した彼らは素直に死ぬかと言えば、そんなことは全くありません。彼らは、自らの失敗を簡単には認めないのです。
たとえどんなに明確な失敗であっても、彼らはそれを素直に認めるということがありません。彼らの中では、失敗を認めない限り失敗していないことになるからです。しかし失敗はそれを認めなければ、教訓化することが出来ません。
従って彼らは、自分たちが進んでいる道が失敗への道だと気付いても、引き返すことはもちろん、方向転換することも難しいのです。これが彼らの学術研究に対する姿勢が間違っていることに気付いていても、それを是正することが全く出来ない理由ではないでしょうか。
次に彼らは「偉い人」が成果を独り占めすることを当然と考えていることが、もうひとつの理由かもしれません。下っ端の内は、どうせ一所懸命研究したって「偉い人」に成果を独り占めされるのだと思えば真剣にやる気がなくなるでしょうし、偉くなれば自分は何もしなくても、面倒なことは全部下っ端にやらせれば良いと思うので、これまた真剣に、地道に研究するということはないでしょう。
せめて韓国人に「互いを思いやる」という意識があれば、そういう社会環境も改められることがあるかもしれませんが、韓国人にあるのは「自分を思いやれ」という意識だけですので、韓国の社会環境が改められることは、少なくとも自律的にはないでしょう。
彼らの行動原理が改められても、彼らの社会環境が改められない限り、彼らが学術研究に対する姿勢を変えるということはあり得ません。
しかしお前は最初に「どんな環境であっても、育つ大樹はあるものだなあ」と書いたじゃないかと仰る方がいらっしゃるかもしれません。どんな環境であっても育つ大樹があるなら、韓国社会という環境でも育つ大樹があるはずだと。
確かに、それが大樹の種子であれば、どんな環境でもひとつぐらいは奇跡的に育つ個体が出てくることはあるはずです。しかしそれは種子が大樹のものであればの話であって、それが大樹の種子でないものなら、育っても大樹にはならないでしょう。
そう考えると、「韓国人学者がノーベル賞の受賞レースのスタートラインに立つことが出来る日」が「来世紀中までには来るかもしれない」という過去の私の考えは、ずいぶん甘いものだったのかもしれないと思う今年のノーベル賞シーズンでした。
平時も危険な韓国
これを受けてネットの巷では「完全に敵国www 」「在韓邦人は韓国の人質だな」「渡航自粛勧告を出すべき」等の意見が飛び交っておりますが、さもありなんと言うべきでしょう。
弊ブログでは以前から「韓国への不要不急の渡航は慎むべき」ということを述べておりました。それは半島有事に対する懸念もさりながら、韓国は日常的に危険に満ち溢れているからです。
戦争が始まれば、多数の犠牲者が出る恐れが極めて大きいのは当然ですが、韓国の場合、戦争が起きなくても、日本では考えられない危険がたくさんあります。
空港に降り立ち、市内へ向かうためのバスやタクシーに乗れば、交通事故の危険性があります。と言えば、「日本だってそれは同じじゃん」と言う人が絶対いるでしょうけれど、韓国の交通事故の危険性の高さは、日本の比ではありません。
韓国人の運転の荒さには定評がありますが、それはタクシーやバスの運転手も例外ではありません。速度超過は言うまでもなく、急発進急停止、無理な割り込み、無謀な追い越し、無意味な幅寄せ、強引な車線変更、不要不急のクラクション連打等は、韓国においては「普通の運転」の範疇です。
韓国には模範タクシーと呼ばれる、高品質のサービスを提供するタクシー(そのため料金も割高)があるのですが、その模範タクシーでさえ、韓国における「普通の運転」をします。私はかつて模範タクシーの後部座席に乗ったことがあるのですが、私と一緒にそのタクシーに乗って隣に座った人より、私が乗っている模範タクシーの横を並走していた車の運転席の人の方が近かったということがありました。
韓国に10日ほど滞在した時は、バスとタクシーの事故を2度ほど見たこともあります。これは「バスの事故」「タクシーの事故」をそれぞれ見たわけではなく、「バスとタクシーがぶつかる事故」を見たのです。
そう言えば冬ソナの冒頭、満員のバスに崔志宇を無理やり押し込んだ朴容夏が、発車するバスにすがりつくように崔志宇に「眠るなよ」と叫ぶシーンがありましたが、日本のバスだとバスにすがりついている人がいる限り、発車しないだろうなあと思いました。
韓国において危険なのは車だけではありません。鉄道も同様です。ソウルの地下鉄の駅のホームには全てホームドアが設置されているそうですが、正しく運用されていないために、安全のために設置しているはずのホームドアが逆に危険を増しているということは過去にも幾度かお話ししたことがあります。
市内に着いたら着いたで、路面はデコボコどころか、時には突然陥没することさえあります。泊まるホテルはケンチャナ建築、食事をしようと思うと想像を絶する不衛生、遊びや買い物に行ってボッタくられる程度で済めば安全に過ごせた内です。
何より危険なのは韓国人そのものかもしれません。韓国人は人懐っこく情に厚いなどと言いますが、突然、私たち日本人には理解出来ない理由で激高することがあり、そうなった時に彼らがどんな行動に出るかは全くわかりません。
何しろ彼らは「自分がどれほど腹を立てたか」を相手にわからせるために、世界随一と言われるほど悪口雑言を発達させたのです。それが言葉だけで済むならどんなに凄まじい悪口雑言もそれほど危険ではないかもしれませんが、「自分がどれほど腹を立てたか」を言葉だけで相手に思い知らすことが出来ていないと思えば、彼らは暴力に訴えることも躊躇しません。しかも自分より弱いと思った相手には、かさにかかって攻撃します。
また性犯罪率の高さも看過すべきではないでしょう。もし犯罪被害に遭って韓国の警察に届け出たとしても、日本人だと相手にされない可能性もあります。
朝鮮半島有事という事態は確かに危険ですが、平時であっても日本人にとっての韓国は決して安全な国とは言い難いのです。危険を承知の上で探検あるいは冒険として韓国を訪れるのであればともかく、「日本と同じぐらいに安全な国」と誤解して韓国に行くならば、地雷原をスキップしながら横断する程度の危険性はあるかもしれません。
しかもこの期に及んで韓国側は、激減した日本人観光客を取り戻そうと、日本人観光客誘致に励んでいるようです。
嫌韓気運が高まっているとはいえ、いまだに韓国に対して逆偏見を持つ日本人は少なくありません。近くて安いからというだけの理由で旅行先に韓国を選択する人は、概ね韓国を知らないか、逆偏見を持っている人と思って良いでしょう。
韓国を知っていてもコリアリスクから逃れることは困難ですが、韓国を知らない人ならリスクの直撃を受ける恐れは十分にあります。
しかも「韓国を知らない人」ほどコリアリスクを理解出来ません。かと言って、コリアリスクを説明しようとすれば、どうしても韓国の悪口に聞こえてしまいます。「韓国を知らない人」は概ね「韓国を好きな人」であることが多く、そういう人に口角泡を飛ばしてコリアリスクを説明すれば、それは韓国の悪口を言ってるようにしか聞こえません。
ならばどうすれば良いか、まことに悩ましい問題です。とりあえず悪口雑言に聞こえないよう言葉を選びながらコリアリスクについて丁寧に説明した上で、それでも翻意しないのであれば、韓国滞在中にコリアリスクに遭遇しても、自己責任であることを理解している旨の一筆を書かせるぐらいのことをすれば、少しはわかってくれるかなと思ったり思わなかったりします。