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韓国人には反日の自覚がない

2003~2010年の「韓国に学ぼう」という雰囲気について、「日経新聞等でしばしば報じられていた」というコメントを頂戴いたしました。

言われてみれば、確かに当時「三星がソニーを抜いた」とか、「アメリカではホンダよりヒュンダイの方が売れてる」という話を見聞きした記憶があります。もっとも私の場合、情報源はほとんど日韓チャットか韓国言論でしたがw

しかし同時に、韓国企業の不当なダンピングや技術のパクリなども指摘されており、更に言えば、海外向けは安売りしても自国向けには高値で売る販売方針、価格に比べるとハイスペックな製品であっても、そのハイスペックを発揮する前に故障する脆弱性及びアフターサービスの貧弱さ、そもそもカタログに記載されているスペック自体、限りなく粉飾に近いものということも既に当時から、少なくとも韓国ウォッチャーの間では盛んに言われておりました。

そんなことを日本企業が学び行なうべきとは、経営や経済に関してずぶの素人の私でも全く思えず、それらの情報は果てしなく好意的に考えるならば「韓国の失敗や失策を教訓とせよ」という意味に、普通に考えれば対日思想工作にしか思えませんでした。

ですから、それに同調したり再配布する日本人はどんなに学識の高い人であっても、また当人がどういう主義主張を唱えようとも、私には韓国の思想工作に加担する人としか思えなかったので、当時の私は「韓国に学べ」などという雰囲気を感じ得なかったのでしょう。

さて、現在の日本の嫌韓が、韓国の反日に起因することは疑う余地がありません。ですから、もし韓国における反日が改善されることがあれば、日本の嫌韓も収束する可能性はもちろんあります。問題は、当の韓国人に反日の自覚がほとんどないことでしょう。

弊ブログでも昔から何度か、韓国人には反日の自覚がないということを申し上げておりますが、そんなこと俄に信じがたいと思う方は案外多いようで、弊ブログにもしばしばその旨のコメントが投じられます。

そういう方は、日本国内にいる反日日本人を思い出していただければイメージしやすいでしょう。彼らもまた韓国人同様、自らの反日意識に極めて無自覚であり、しかも「日本が好きだ」と公言し、自分でもそう思っています。

反日日本人と韓国人が極めて共鳴しやすいのは、彼らがともに無自覚な反日思想の持ち主であり、日本に対する執着と支配欲を愛情や好意と勘違いしてる者であることも、大いにあるに違いありません。

日本における嫌韓気運の燃料が韓国人の反日意識である限り、確かに日本における嫌韓継続の燃料枯渇を心配する必要はほとんどないでしょう。

しかし、燃料は豊富にあっても、その供給経路が断たれれば無いのと同じことです。何を言おうとしているのか、察しの良い方はお気づきでしょう。そうです。日本のマスコミの中にいる無自覚な、必ずしも日本人とは限らないと言うか、日本人であっても朝鮮人のような真似をすることに躊躇のない反日思想の持ち主たちによる、「報道しない自由」の行使のことです。

韓国でどれほど反日的な行動が展開されようとも、それを知る術がなければどうしようもありません。実際、韓国の反日気運や、韓国人が抱く反日意識については、これまであまり報道されませんでした。たまに報道されるとしても、それは日本人に「ありのままの韓国の反日」を知らせるためのものでは全くなく、日本人の反省や贖罪意識を喚起する目的でのみ行なわれておりました。そういう類の報道は、今も決して少なくありません。

幸い今日ではネット上に韓国ウォッチブログやまとめサイトが豊富にあり、更に幸いなことに、日本の反日マスコミがどれほど隠蔽しようとも、「反日」という自覚に乏しい韓国言論自身による継続的な燃料投下は、今後も十分に期待出来ます。

それでも、情報を受け取る側のアンテナが立ってなければ、どれほど豊富に燃料投下がなされようとも、無いのと同じです。不快だからとか、インパクトがないからと言って韓国ウォッチを怠るようになると、必然的に情報は偏るようになります。何しろ反日勢力側からの「ウリは反日じゃない」「ウリは日本が大好き」という情報は、常に途切れることなく供給されるのです。

何故なら彼らは、生理的に日本人を騙す生き物だからです。連中は嘘をつかないと窒息するのと同じく、日本人を騙さないと死ぬように出来ているのかもしれませんw いずれにせよ、日本人が韓国の反日の実態に鈍感になれば、反日日本人や韓国人が言う「ウリは反日じゃない」「ウリは日本が大好き」に簡単に騙されてしまうでしょう。

韓国情報は、慣れるまでは物珍しさから来る楽しさもあるでしょうけれど、慣れてしまうと不快で面倒なだけです。それでも、私たち日本人は常に韓国に関する情報を受信するアンテナを敏感にしておく必要があるのだと、改めて自らに言い聞かせた次第です。



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今後の日本における嫌韓気運の行方

日本における昨今の嫌韓気運の高まりは、韓国人から見ると理不尽極まりないものに見えています。

以前から弊ブログで何度も申し上げている通り、韓国人の日本観は「日本絶対悪」を出発点としております。その日本を、韓国が非難するのは、韓国人の主観では理由も根拠もある正当な行為です。

そもそも韓国人の主観では、彼らが行なっているのは日本に対する「非難」などではなく、「教育的指導」なのですから、日本人はそれをありがたく拝聴し、素直に韓国の言うことに従うのが人間として正しい行為なのです。

にも関わらず日本人はしばしば韓国人の「教育的指導」に口答えをしますし、たまに素直に謝ったかと思ったらすぐにそれをぶち壊すような行動をする思慮と反省の足りない連中というのが、韓国人の日本人観です。

しかもそれだけでは飽き足らず、最近の日本では堂々と韓国を嫌う人々が増えているという、韓国人的には言語道断の事態とあって、このほど知韓派として知られているらしい小倉紀蔵京都大学教授が、ソウル大学で講演したという報道がありました。

韓国側の一方的な報道なので、この小倉紀蔵という方が本当に報じられている通りのことを仰ったのかどうかは定かではありませんが、とりあえず現時点では韓国が報じた通りであるという前提で、話を進めたいと思います。

韓国の報道によると、小倉紀蔵氏は【韓流ブームが起きた2002年は「韓国を知ろう」、2003~2010年は「韓国に学ぼう」という雰囲気だった】と分析していると言います。

確かに、2002年には「韓国を知ろう」という動きがありました。何しろワールドカップ日韓共催という、一大イベントがあったのです。共にひとつの国際的な大イベントを行なおうというのですから、相手のことを知ろうとするのは当然です。

その結果、現在の日本の嫌韓気運を下支えする「韓国の実態」が日本人に拡散されました。この時、「韓国の実態」を知った人々の中から、数多くの韓国ウォッチャーが生まれたのです。

次の「2003~2010年は「韓国に学ぼう」という雰囲気だった」というのは、私には何のことかよくわかりません。弊ブログの過去記事を振り返っても、そんな雰囲気があった気配は感じられません。

一部の親韓日本人に、「韓国に学べ」といった寝言を言う連中が居たことは確かに記憶にありますが、それらは全て上っ面だけの話でした。日本が韓国から学び得たのはたったひとつ、「韓国人のようなことはするべきではない」ということだけです。

記事はそれから【2010年以降はそれ(筆者註:「韓国に学ぼう」という雰囲気のこと)が終了したと指摘。特に2012~2014年については、日本国内の嫌韓派の全盛期と評した。その上で、韓国は成功したが、信じることができないというのが嫌韓派の最も重要な主張と説明した】と続きます。

始まってもいない「韓国に学ぼう」という雰囲気が、2010年に終了したというのもおかしな話ですが、小倉氏がその雰囲気が終わった理由を何と思っているのかは、ちょっと知りたい気がします。

これに続く【「韓国は成功したが、信じることが出来ない」というのが嫌韓派の最も重要な主張】という文章は、これだけではちょっと意味がわかりません。これは私の勝手な想像ですが、ただ「日本人は韓国を信じられないと思っている」と言うだけでは韓国人が全く耳を貸さないので、まず「韓国は政治も経済も外交もとてもお上手だった」みたいなお世辞や追従を言い、「日本人はそれに嫉妬して、韓国を信じられないと言ってるのだ」とでも言ったのかなと思います。

それから【その一方で小倉教授は、韓国を正しく知ろうとする動きもあり、2015年以降は雰囲気が変わるだろうと予想した。】と韓国人に迎合希望を持たせました。

しかし弊ブログをご覧の方なら、「韓国を正しく知ろう」とすれば、必然的に韓国を嫌わざるを得なくなることをご存知でしょう。

ただ、ならば現在の嫌韓気運が来年以降も現状程度に維持されて継続すると思うかと問われると、私にも一抹の不安要素がなくもありません。

これも繰り返し述べていることではありますが、韓国は薄くて浅くて上っ面です。しかも、色んな意味でばっちいw 最初の内は物珍しさもありますし、お化け屋敷的な楽しみ方もありますから、きゃーきゃー言いながら関心を持つことも出来るでしょう。

しかしやがてその物珍しさもお化け屋敷的スリルも、パターンが見えてきます。その上ばっちいので、触ったり触られたりすると、こちらも汚れるわけです。って言うか、見てるだけでも穢れるような気さえしますw

そういうのをずっと見ていると、やがて「何でこんなもの見てんだろう、世界には楽しいことや美しいものが幾らでもあるのに」病に罹ります。私もしょっちゅう罹ってますw

それでも韓国ウォッチを続けるモチベーションがある日本人が多ければ良いのですが、実際世界には韓国ウォッチなんかより楽しいことや美しいものが幾らでもあり、韓国ウォッチにしがみつく余程の理由がなければ、さくっとやめる人が多くても、不思議ではありません。

韓国ウォッチに嫌気がさす以外では、「韓国に飽きる」ということも大いにあるでしょう。

「嫌韓」という言葉を、最近出来たものだと思っている人は意外に多いようですが、実はかなり昔から(確認しておりませんが、少なくとも20年や30年は楽に遡れると思います)普通にある言葉です。ただ「嫌韓」という言葉をおおっぴらに使えるようになったのが極めて最近なので、新しい言葉のように思われているだけなのです。同じく、韓国に対する批判や警鐘も昔から普通にありました。しかし、最近まで韓国に批判的な主張をおおっぴらに行なうことが禁忌になっていたために、あまり見聞きすることがなかったのです。

その反動で現在の嫌韓が盛り上がっているという部分はあるかもしれません。

しかし韓国についての分析や検証、考察、それに基づく批判が出尽くすと、あとは同じことの繰り返しになるのは、弊ブログが証明中ですw

同じことの繰り返しになれば、「飽きた」と言って離脱する人が出てくるのも必然です。韓国に飽きて離脱した人は、やがて韓国の存在を忘れてしまうでしょう。実際、過去の日韓関係を振り返ると、その繰り返しであることがよくわかります。

ですので、来年以降、韓国ウォッチに嫌気がさした人、韓国そのものに飽きた人が増えれば、嫌韓気運が多少盛り下がることもあるかもしれません。

しかし、韓国に飽きたり嫌気がさして離脱することがあっても、ネットによる情報の蓄積と保存、伝達システムがここまで普及した今日では、いつでも離脱した時点ぐらいまでなら戻ることが出来ます。日本に対し、韓国が完全に存在感を失えば話は別ですが、日本に対し韓国が存在を少しでもアピールすることがあれば、一度嫌韓をやった人なら確実にフラッシュバックを起こすでしょう。

そんなこんなで、来年以降日本における嫌韓気運が多少盛り下がるようなことがあったとしても、日本の韓国に対する雰囲気が良い方向に変化するようなことはないと、私は確信しております。



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日韓友好が実現不可能な訳

日本でも韓国でも、日韓友好を唱える人は少なくありません。ですが実際問題として、日韓が真の友好を築くことは出来ないと私は確信しています。

何故なら、日本人と韓国人は重要な価値観が真逆なだけでなく、双方が相手の価値観に不快や嫌悪を感じるからです。

前回記事で書いた、「日本人の滅私奉公、韓国人の滅公奉私」などは典型例と言えるでしょう。

日本人だからと言って、滅私奉公を手放しに賞賛することはないかもしれません。誰だって自分が可愛いに決まっていますから、何よりも自分を優先したいと考えるものです。それは日本人も例外ではありません。

同時に、普通の日本人であれば「誰だって自分が可愛い」ということが理解出来ます。従って「自分以外の他人もまた、自分が可愛い」ということを、並の知能と教養を持つ日本人ならば、容易に理解出来ます。「自分以外の他人にとっての自分」という概念が理解出来て初めて、「公」が理解出来ます。「公」が理解出来るからこそ、必ずしも全面的に肯定出来なくとも、日本人は「滅私奉公」を受け容れることが出来るのです。

韓国人はこの「自分以外の他人もまた、自分が可愛い」ということが本当に理解出来ません。彼らにとって、他人とはどこまで行っても他人でしかなく、「他人にとっての自分」という概念が正しく理解出来ない、つまり「ウリ」と「ウリ以外」の概念しかない彼らに、「公」という概念はありません。コメントでもご指摘のあったとおり、「滅公奉私」というのは日本人的な理解であって、彼らには滅するべき「公」すら、最初から存在しないのです。

個人レベルであれば、日本人と韓国人の友好「のようなもの」も成立し得るかもしれません。ですが実際に個人レベルで韓国人との友好「のようなもの」を成立させ得た日本人ならば強く実感出来ることと思いますが、彼らの「ウリ」に対する本能的な依存の強さは凄まじいものがあり、それは理性でコントロール出来るものではないのです。

個人レベルであれば日韓友好「のようなもの」が成立可能なのは、個人レベルの日韓相互理解が成立するからではなく、彼らが日本人との間に「ウリ」を成立させるからに過ぎません。

あるいは極めて稀ではありますが、韓国人であっても「ウリ」の概念を離れて、日本人的な対人関係を理解し、構築することが出来る個体もなくはないでしょう。

しかしそういう韓国人が、他の韓国人を感化することがないのは、弊ブログでも繰り返し述べてきたとおりです。

韓国人が日本人に合わせることが出来ないならば逆に、日本人が韓国人の「ウリ」を真に理解し、それに基づいた対人関係や社会を構築することが出来るならば、あるいは日韓友好も成立し得るかもしれません。

しかしこれもまた、日本人なら容易に理解出来ると思いますが、出来ない相談です。ほとんどの日本人は、自分のテリトリーを持っています。日本人ならどんなに親しい相手であっても、自分のテリトリーにみだりに踏み込まれることに不快感を抱くでしょう。

「ウリ」思想の韓国人には、日本人の「自分のテリトリー」という感覚が全く理解出来ません。それは彼らにとっては、拒絶あるいは背信にしか感じられません。従って日本人のそういう感覚に韓国人なら不信や不快を感じます。「日本人は、顔で笑っていても懐に刀を隠し持っている」という、韓国人が非常に一般的に抱くイメージは、日本人がどんなに親しくなっても、自身のテリトリーにみだりに踏み込ませないことから来ている部分もあるのです。

結局、日本人が韓国人に合わせても、韓国人が日本人に合わせても、どちらか、あるいは双方が必ず不快や嫌悪を感じ、ストレスを抱えることになります。

しかもそのストレスは、蓄積されることはあっても解消されることはありません。最初の内はストレスの蓄積も少ないでしょうから誤魔化しも利きますが、どちらかがどちらかに合わせることが出来ないまま関係が長期間に渡れば、やがてそのストレスは誤魔化しようがなくなって顕在化します。

それこそが、かつての「日帝36年」であり、現在の日本における「大嫌韓時代」の到来なのです。

日韓は互いが互いの価値観をただ理解出来ないだけではなく、互いの価値観に対して嫌悪や不快を禁じ得ない関係なのです。

そのために、個人レベルでどれほど日韓友好が進もうとも、日本人が日本人であり、韓国人が韓国人である限り、互いの社会全体として互いを受け容れることは、絶対に不可能です。それでも日韓友好を求めるのであれば、方法は唯一つ、日本人が日本人でなくなるか、さもなければ韓国人が韓国人でなくなるしかないでしょう。

そういう形で築かれた「日韓友好」というものが、果たして本当に「日韓友好」と呼び得るものなのかどうかは、甚だ疑問ではありますが。



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日本の滅私奉公、韓国の滅公奉私

11月も半ばを過ぎると、いよいよ寒くなって参りましたが、皆様ご健勝にお過ごしでいらっしゃいますでしょうか。報道によると衆議院の解散が決まって、来月選挙だそうです。正直面倒くさい(´・ω・`)。いや行きますけどね。

それから日本の国民的映画スター、高倉健さんがお亡くなりになったそうで、確かにご高齢ではありましたが、驚きました。心より哀悼の意を捧げたいと思います。

高倉健さんの訃報を「"日本のアン・ソンギ"と呼ばれる高倉健死去に韓国ファンも哀悼の意」という見出しで報じたメディアもありましたが、「Ken TAKAKURA」と言えば海外でも高い知名度の映画スターであり、およそ韓国でしか知られていないアン・ソンギとは、全く比較にはならないんじゃないかなあと思わなくもありません(アン・ソンギについては、映画「韓半島」で大統領役を演じたものを見たことがありますが、良い役者さんだと思います)。

さて、常々日本と韓国は違うと述べている弊ブログですが、日韓で最も異なるのはやはり価値観でしょう。一言で価値観と言っても色々ありますが、日韓で最も大きく異なるのは「公と私」についての価値観ではないでしょうか。

日本人は明らかに「公」を「私」よりも優先する価値観を持ちます。対する韓国人にとっては、「私」が「公」より遥かに優先されることは、弊ブログでも過去に述べたことがあります

ディス・イズ・コリア」を著した室谷克実氏は日本の「滅私奉公」に対する韓国の概念を「滅公奉私」と表現されましたが、まことに優れた表現だと思います。

日本人にとって「滅私奉公」は、当然の規範です。日本でも昔と比べれば、「私」が随分優先されるようにはなりましたが、それでも「他人に迷惑を掛けてはならない」という「公」に対する配慮の意識は根強くありますし、個人の事情よりも、その個人が所属する会社や組織の事情が優先される傾向は明らかです。

これは、「公」が「私」を包含するものであり、「公」を守ることがひいては「私」にも利することという意識が、日本人には普遍的にあるからでしょう。

「私」に利するためには、「公」が確かなものである必要があります。いざという時に「私」を守ってくれない「公」では、意味がありません。

誰にとっても「私」が大事なものであることは疑う余地がありません。言うまでもなく日本人であっても、「私」は大切なものです。その大切な「私」をより確実に守り、あるいは利するためには、単独よりも、多くの「私」を集合させた「公」で行なう方がより強力ですし、合理的でもあります。

そのためには、自分の属する「公」がより強大である方が、「私」にとっても当然有益です。「私」に多少の負担がかかったとしても、「公」の勢力を少しでも維持・拡大した方が、大きく長い目で見れば「私」にとっても有益であることは明白です。それを理解しているからこそ、日本人は「滅私奉公」を受け容れ、遵守するのでしょう。

翻って韓国人にとっては、「私」は何よりも優先すべきものです。たとえ自分の所属する「公」が滅ぼうとも、自分という「私」が生き残ることが出来れば、それで良いのです。

そもそも韓国人にとって全ては「私」のために存在するものですから、「公」も当然にそうです。「公」が当然に「私」のために存在する以上、「私」が「公」のために何かしなければならないということもありません。無条件で自分という「私」に益さない「公」など、韓国人にとっては何の存在価値もないものですから、それを蔑ろにすることに何の問題があるでしょうか。

ですから彼らは「公」が順調に機能している時は、「公」に寄りかかりすがりつきもしますが、もし「公」が自分という「私」に益さなくなれば、「私」のために躊躇なく「公」を捨てるのです。

日本人から見れば、そういった韓国人の「滅公奉私」意識(実際には、彼らはほぼ無意識でやってますがw)は極めて唾棄すべきものです。「公」から「私」に与えられる益は貪るだけ貪るくせに、その逆には決して応じないというのは、イメージとしては、日本の自治体に生活保護は要求するが、日本への税金は払わないようなものとでも言えばわかりやすいでしょうか。

日本人から見た韓国人の「滅公奉私」が唾棄すべきものということは、日本人の「滅私奉公」も、あるいは韓国人から見れば嫌悪の対象になるのかもしれません。

韓国言論などでは、日本の「滅私奉公」的規範を見習うべきなどという論調が出ることもないことはないのですが、それはあくまで述べるものが「公」的な立場にある時だけの話であって、実際にそれが自分自身という「私」のことになれば、彼らは途端に「滅公奉私」となって何の疑問も矛盾も感じないのです。

ですから彼らは、常に何かにつけ「ウリ」「ウリ」とさえずるのでしょう。「ウリ」とは、弊ブログでは「自分自身」と定義しておりますが、この「自分自身」は彼らの主観で容易に拡大されますので、ある意味「ウリ」は常に彼らにとっての「公」と言えるかもしれません。

しかしその逆、即ち「公」が常に「ウリ」たり得ることはありません。「ウリ」は必ず「自分自身」から発して、どれほど拡大されようと、必ず「自分自身」に収斂されるからです。日本人のように、「公」が「私」の集合体であり運命共同体であるなどという意識が、彼らの「ウリ」に発生することはありません。「ウリ」はどこまで行っても、「自分自身」なのです。

この価値観の違い故に、日韓は互いに決して相容れ得ず、常に互いの精神衛生を損なうのだと私は確信しております。



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韓国人は許さないために謝罪を求める

ちょっと前から弊ブログのコメント欄で何が言いたいのかよくわからないコメントを連発している、ハンドルネームを「在日帰れバカ」と仰る方が、最後っ屁のように置き捨てて行ったコメントにリンクされていた記事を見ました。

それは「日本は謝り続けないといけないのでしょうか?」という質問に、「思想家にして武道家、相談の達人」という肩書の内田樹氏が答えるという記事でした。

その内容に対する突っ込みどころはたくさんあります。例えば、日本人は戦争に負けたから謝罪しなきゃならないのだ、という理屈そのものについても肯んじかねますが、その理屈で、日本人は韓国人に謝罪せねばならぬという流れになっているのが甚だ意味不明です。

日本は、中国を(と言うか、中国の中の人w)相手に戦争をしたことはありますが、韓国を相手に戦争をしたことは、有史上一度もありません。日本が先の大戦に負けたからと言って、戦ったこともない韓国に何故謝らねばならないのでしょうか。

日本が朝鮮を植民地支配したことが悪いと言うのであれば、日本は朝鮮を併合、即ち日本にしたのであって、植民地にしたのではありません。更に言えば、日本の朝鮮統治は、搾取や収奪ではありませんでした。故司馬遼太郎氏が幾度も「朝鮮併合は(日本にとって)ソロバンの合わぬことであった」と述べたように、日本が朝鮮を統治していた間、経済的技術的文化的投資をし続けたことは、明らかに記録に残っています。

現在の韓国人に極めて近い先祖が日本からそれほど手厚い投資を受けていたという事実があるのですから、韓国は日本に感謝するどころか謝罪要求をするならば、過去に日本が朝鮮に対して行なった投資全てに相応の利息を付け日本に叩き返してから言うのが筋というものでしょう。

しかし実際には、日本が朝鮮に投じた資本はほぼ返されていません。韓国でも北朝鮮でも、日本が朝鮮半島に残した資産を敵産と呼んで全て国家が没収しました。ばかりか、日本は日韓国交正常化の際、韓国に対して有償2億ドル、無償3億ドル、民間融資3億ドルというとんでもない額の経済支援を行なっています。

その経済支援によって韓国は漢江の奇跡と呼ばれる飛躍的な経済成長を成し遂げ得たのですから、これについては韓国は日本に大いに感謝するのが当然でしょう。しかしこれも、日本に対して韓国政府が公式に感謝のコメントを出したという話は聞きません。

まあ、別に韓国に感謝などしてもらわなくても良いと言うか、個人的にはされたくないからそれは良しとしましょう。

一番の突っ込みどころは、「僕は韓国の人に会ったら、とりあえず「先祖がいろいろご迷惑をおかけして、すみません」とまず謝りますよ。それでも怒り続ける人なんて会ったことないです。みんな「まあまあ、お手を上げて。別に内田さんがやったわけじゃないんですから」と言ってくれます。「おう、責任があると思うなら、誠意示せよ、誠意」なんてヤクザみたいなこと言う人いませんよ。」という箇所でした。

私は日韓チャットで、不特定多数の韓国人からいきなり「過去の歴史について謝罪してください」と言われたことが何度もあります。それは日本人的には出会い頭のカウンターパンチでしかありませんが、韓国人の主観では「謝罪すればウリの仲間に加えてやるよ」という熱烈なプロポーズなのです。

ですから、韓国人が求めるより先に日本人の方からいきなり謝罪すれば、当然韓国人は大喜びしますし、その日本人に対してはとりあえず、それ以上の要求はないかもしれません(あくまでも、「かもしれない」であって、その後別の形で何かを要求される恐れは極めて大きいと思います)。

ですが、「ある日本人が韓国人に無条件で謝罪した」という実績は、別の日本人に向けられる刃になります。実際、私は日韓チャットで数え切れないほど向けられました。即ち、「私の知ってる日本人は謝ったのに、お前は何故謝らないのか」というやつです。

謝った日本人はそれ以上の謝罪を要求されないかもしれませんが(あくまでも、「かもしれない」であって、その後別の形で以下略w)、今度はその日本人がまだ謝っていない日本人に謝罪させるためのツールになるのです。

結局日本人に謝罪されて「まあまあ、お手を上げて。別にホニャララさんがやったわけじゃないんですから」と韓国人が言ったとしても、その韓国人が別の日本人に会えば、また謝罪を要求するのです。日本人全てが韓国人全てに総当たりで謝罪すれば良いということであれば、何とも気の遠くなるような話ではありますが、仮にそうすれば韓国人は日本を許すのでしょうか。当然そんなこともあり得ません。

当該記事では、「おう、責任があると思うなら、誠意示せよ、誠意」なんてヤクザみたいなこと言う人いません、といいますが、確かに私もそんなことを言う韓国人に遭遇したことはありません。

しかし、何かで利害が対立したり優劣を争う時、日本人が謝罪したことを彼らは必ず持ち出します。もちろん、それが謝罪した件とはまるで無関係であってもです。むしろ、関係があることの方が珍しいでしょう。

もしその時、日本人が韓国人に譲らなければ、彼らは「あの謝罪は嘘だったのか!」と激怒します。「あの謝罪と今回の件は関係ない」とでも言おうものなら、火に油です。一度彼らの前で頭を下げれば、如何なる形、如何なる理由であろうとも、二度と上げることは許されないのです。それはつまり、「永遠に謝り続けなければ、謝罪したとは認めない」ということなのです。

彼らが日本人に謝罪を求めるのは、許すためではありません。許さないためなのです。

そもそも韓国に対しては謝る理由自体が希薄なのに、更に彼らに許されないために謝るなどというのは、私には全く納得も承諾も出来ない話です。

それでも韓国人に謝りたいという日本人は、会う韓国人全てに、「私が全ての日本人になりかわって謝罪し、全ての責任を負います」と言って回れば良いでしょう。そういう日本人ならば、まさか「何で私が」などとは言いますまい。



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人は生まれ方は選べないが、生き方は選べる

私たちは生まれる時、自分では何も選べませんでした。国籍や血統は言うまでもありません。人種も性別も時代も場所も健康状態も、何ひとつ自分の意思で選ぶことは出来ませんでした。

たまたま与えられた「自分」に何ら不満がないという幸福な人も世の中にはいるのかもしれません。しかし大抵の人は、たまたま与えられた「自分」に、多少なりとも不満を持っているのではないでしょうか。自分の性別に違和感を抱いている人もいますし、自分の容貌に劣等感を持っている人もいます。体格や知能、運動能力、それから人種や民族もそうです。

日本人であっても、自ら望んで、あるいは自ら選んで、日本人として生まれてきたという人はいません。ですから、自分がたまたま日本人に生まれたということに満足している人もいれば、不満に思っている人もいるでしょう。

それは朝鮮人も同様です。彼らも自ら望んで、あるいは自ら選んで朝鮮人として生まれてきたわけではないでしょう。私から見ると、朝鮮人はそのほとんどが朝鮮人として生まれたことに不満を感じているように見えますが、それは私が嫌韓だからであって、自分が朝鮮人であることに十分満足してる朝鮮人も、それなりにいるのかもしれません。

いずれにせよ、私は韓国人が嫌いですが、だからと言って彼らが朝鮮人として生まれたことそのものを責めるつもりは全くありません。私が韓国人を嫌う理由のひとつには、彼らが自ら選んで朝鮮人のような生き方をしているにも関わらず、そのことに自覚も責任も感じていないということがあります。

生まれてしまえば、生き方もある程度は決まってしまうものです。南極に生まれた人と、ケニアに生まれた人が同じ生き方をすることは出来ません。

同様に、日本における日本人としての生き方が即ち朝鮮半島における朝鮮人としての適切な生き方とは全く思いませんし、その反対も然りです。日本において、日本人には日本人としての生き方があるように、朝鮮半島においては、朝鮮人にも朝鮮人としての生き方というものがあるのでしょう。

日本人から見て、朝鮮半島における朝鮮人の生き方が嫌悪や不快を催すものであったとしても、あるいはそれが互いに互いを傷つけ合う残酷で悲惨な生き方であったとしても、彼らが彼らの場所で生きるためにその生き方が必要ということであれば、それは日本に居る日本人がとやかく言うことではありませんし、言うべきでもありません。

ですが、彼らが彼らの生き方を彼らの場所ではなく、日本で行使しようというのであれば話は別です。日本は日本人の国であり、日本人としての生き方を求められる国です。その日本で朝鮮人の生き方をただ押し通すだけでも軋轢は当然に生じますし、それを日本人にも許容せよと強要するのであれば、それに対し日本人が抗議したり非難するのは、日本人の当然の権利です。

日本人は、ジンケンとかサベツとかビョードーとかタブンカキョーセーという呪文を唱えられると、何でも相手の言うことを聞かねばならないと思い込む病気に罹っている人が少なくありません。これまでそういう病気に罹っている日本人を、朝鮮人は悪用してきました。しかし今、多くの日本人はその異常さに気付き始めています。

日本人としての生き方と、朝鮮人としての生き方に少なからぬ差異がある以上、両親のどちらか、あるいは祖父母の内の誰か、もしくは数親等内の直系尊属に朝鮮人がいるという日本人は、自分の身体に流れる双方の血の葛藤に悩まされるかもしれません。そういう日本人の中には、生まれながらに日本国籍を持ち、血量的にも日本人の割合が半分以上であるにも関わらず、不思議と半分以下のはずの朝鮮人の血の方に強くこだわろうとする人がいます。

朝鮮人の血を持って生まれたことは、その人が選んだことではありませんから、その人の責任ではありません。あえて責任の所在を問うのであれば、それは親や先祖の責任です。ですが、自分の中に流れる朝鮮人の血にこだわる生き方をするのはその人が選んだことであり、その人自身の責任です。

その人が朝鮮人の血にこだわって、朝鮮半島で朝鮮人として生きるつもりなのであれば、朝鮮人の生き方を選ぶことは誰からも非難されることではないと思います。しかしその人が、日本で日本人として生きるつもりなのであれば、日本人としての生き方を選ぶのが当然です。

極端な話、血統的に全く日本人でない人であっても、その人が日本人としての自覚を持ち、日本人としての生き方を選んで実行するのであれば、私はその人を日本人と考えることに何の問題もないと考えています(ex.小泉八雲)。そもそも「血統的に純粋な日本人」などというものが存在するのかという素朴な疑問が私にあるのは、以前にも述べたとおりです。

同様に、血統的に純粋な日本人(笑)であっても、朝鮮人のような生き方を自ら選び行なうのであれば、私はその人を朝鮮人とみなすべきだと確信していますし、そういう人が日本で朝鮮人としての生き方を押し通し、周囲にも許容させようとするならば、抗議や非難の対象となるのは当然だと思っています。

人間以外の動物は、生まれてしまえば生き方を選ぶことは出来ません。犬なら犬として、猫なら猫として、牛や馬、鳥も魚も虫も、そう生まれてしまえば、そう生きるしかありません。

しかし人間だけは、自ら生き方を選ぶことが出来ます。たまたま日本人に生まれたからと言って、絶対に日本人として生きなければならないということはありません。日本に生まれた人には、日本が嫌なら日本を出て、望む国でその国の人になる自由と権利があります。もっと言えば、人間にこだわる必要もありません。人としての生き方を捨てて、人でなしの生き方を選ぶことも可能です。

どんな生き方を選ぶのもその人の自由であり権利です。それらは、少なくとも日本人として生まれた人には十分に保証されています。同時にその責任を負う義務も発生します。自由と権利、責任と義務を十分に自覚した上で、日本人として生きるか、日本ではない国の人として生きるか、あるいは朝鮮人として生きるか、実際の国籍や血統に関わらず、全ての日本人が真摯に考えるべき命題ではないかと思う今日この頃です。



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セウォル号惨事を国家規模で再現しないように

前回記事で、(武井某というちょっと頭のおかしいコメント欄荒らしの御仁を)チャットに誘いじっくり問い詰めた結果、数時間でおとなしく引き下がっていただくことが出来ました、と書いたところ、そのチャットログを見たいというリクエストのコメントを頂戴いたしました。

本音を言えばチャットログの編集は面倒ですし、時間もかなりかかることもあって、気が進まないということも大いにあります。しかし、それでもこの御仁がそれなりの主張を持つ者であるならば、その傾向と対策を今後の教訓とするためにチャットログを掲載することもやぶさかではありません。しかしこの御仁、チャットで問い詰めに問い詰め倒してキャン言わせたわけですが、その際、自らこのログを公開して欲しいとほざいたのです。

どうやらこの御仁、どんな形であっても(たとえ自分が辱められてるシーンであっても)自分に注目が集まることにリビドーを感じる性癖をお持ちの方のようで、下手にご希望に従ってチャットログを掲載すると、それに味を占めてまたコメント欄やチャットを荒らしに来かねません。

ログの内容自体、さほど教訓になるようなものでもありません。単にコメント欄で奴がのらりくらりと言い逃れたことを徹底的に問い詰め、言い逃れを許さず回答を迫り、奴がそれに全く答えられず、最後に奴の泣きが入って終わっただけです。奴の無様っぷりは見れますが、それだけです。

そういう訳で一応ログは保存してありますが、構ってもらうためならどんなことでもするというだけのこの御仁のチャットログを掲載する予定は、今のところ全くございません。あしからずご了承ください。

さて、日本ではほとんど報道されておりませんが、韓国では韓国人歌手が日本への入国を拒否されたということが、かなり大きく報じられているようです。中央日報によると、 今年8月に竹島で統一ソングを発表したことに対する報復としての入国拒否なんだそうです。

個人的には、日本滞在中の資格外活動を懸念されたんじゃないのと思ったりするんですが、韓国人的には「竹島」と「統一」が絡んだために(日本が朝鮮半島の統一を強く恐れていると信じている韓国人は一般的です)、「日本のウリナラに対する悪意の現れだ」と解釈しているようです。

そんなことより面白いなと思ったのは、当該記事の「歌手イ・スンチョルが日本の空港で足止めされたのち入国を拒否されるという辱めに遭った」という冒頭の一文です。

つまり韓国人的に入国を拒否したりされたりすることは「辱め」になるのだなと思うと、過去に日本の国会議員や作家の呉善花女史が韓国への入国を拒否されたことは、韓国の政治的判断などでは全くなく、ひとえに「辱め」のためだったのだなということがよくわかります。

というわけで相変わらずの韓国ですが、現在のホットイシューは何といっても本日の日中首脳会談です。

最近では、韓国内でも外交政策の硬直化が問題視されております。日韓関係は現在、冷却を通り越して凍結状態ですが、それに対して韓国は中国にすり寄ることで日米を牽制しておりました。

そこへ日本が電撃的に日中首脳会談を実現したのですから、韓国の心中は穏やかではありません。反日つながりで中国と組んで日本をハブっていたつもりが、気がつけば韓国だけが取り残されてしまった形になったのです。

元来韓国人は、孤立を恐れること甚だしいものがあります。それは個人にとどまらず、国家としても同様です。その上事大主義が抜けないのか、とにかく大きな国、強い国にすり寄ろうとする習性があります。結果、すり寄った強大国の威を借って、少しでも小さい国弱い国と思った国を侮り、自分の国も実は小さく弱い国であるということを失念します。

日本を揶揄する際の韓国人の常套句に「日本はアジアで孤立している」というのがありますが、この決まり文句はある意味、彼らの孤立に対する恐怖を日本に投影したものと言えるでしょう。今回はまさに、その恐怖が現実となって韓国を襲ったわけです。韓国言論の周章狼狽たるや、まことに微笑ましいものがあります。

韓国言論はさすがに現状に危機感を抱いているようで、今後の韓国政府の対応に柔軟性を、韓国民に理解を求めておりますが、船も国も急な方向転換は出来ません。もし無理な舵を切れば、最悪の場合横転沈没することがあるのは、韓国が今年4月に実演してみせたことでもあります。

韓国は、これまでにしなければならないことをせず、守らなければならない約束を破り続け、やってはいけないことをやり続けてここまで進んできたのです。今になって、帳尻を合わせようとすれば、そのひずみは必ずどこかに重大な事象として現れるでしょう。

韓国という国もまた、沈没したセウォル号と同じく、許容量を超えたインチキとケンチャナを山積みしているのですから。



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日韓ネット交流は日韓友好に寄与しなかった

以前より弊ブログでは、無記名を含む複数のハンドルネームを使用し、一人で多人数を装ってコメントを投稿することを厳に禁じておりますと何度も申し上げているにも関わらず、またやっているバカ人がいます。

やってるバカ人は、バレてないだろうと朝鮮侮りしているのでしょうけれど、当方では全て把握しております。心当たりのある人は素直に反省して二度としないように。この警告を無視して同様の行為を繰り返す場合は、直ちにコメント禁止等の措置を取ります。

さて、過去記事再掲のご提案を戴いたり、書籍化のオファー待ち(出版関係者様、引き続きオファーをお待ちしております<(_"_)>)をしているということもあって、最近ぼちぼちと自分でも過去記事を読み返しております。

初期は、当時使っていたブログの仕様のために入力文字数の制限があり、比較的短い文章が多かったので、記事数は多いなりに割とサクサク読めるのですが、1年2年経つとやたら長文、中には続き物もあって、これ読む人は大変だなあと痛感しております。

ただ、書いてること自体は昔からそんなに変わっておりません。今と比べると、毎晩のように日韓チャットで韓国人を見て苛ついてた昔の方が、ずっと韓国人に対して刺々しいとは思いますが。

最近は、日韓チャットが事実上終了しておりますので、たまに日韓チャットの元常連韓国人が月見チャットに来るのを除けば、韓国人とチャットをすることはほとんどなくなりました。しかし日韓チャットが終了するのと入れ替わるように、韓国の掲示板の翻訳ブログがわんさか出来たおかげで、韓国人が今も以前と全く変わらずトンチキなままであることが確認出来て、大変助かっております。

ところで、チャットと掲示板(コメント欄含む)は、ネット上の文字を用いたコミュニケーションという意味では似ているのですが、その効能は思うより大きな違いがあります。

先日も弊ブログのコメント欄で武井某というちょっと頭のおかしい御仁に粘着され、数日間に渡りコメントの数がエライことになりました。この御仁は、コメント欄ではどんなに問い詰めようとものらりくらりと言い逃れと自己主張のコメントを続け、他人に不快を催させることで愉悦を感じておられたようですが、チャットに誘いじっくり問い詰めた結果、数時間でおとなしく引き下がっていただくことが出来ました。

などと書くと、私が日韓チャット常駐経験者ということもあって、掲示板(コメント欄含む)よりチャットの方がコミュニケーションツールとして優れていると主張しているように受け取られるかもしれませんが、そんなことはありません。チャットにも掲示板にも、一長一短があると思っています。

ある意味、掲示板は手紙、チャットは電話に喩えることが出来るかもしれません。全く同じ文章であっても、手紙で伝えられるものと電話で伝えられるものが、質・量ともに必ずしも同じとは限らないのとよく似ていると私は思います。

掲示板は、読む方にとっても書く方にとっても、自分の都合の良い時にじっくり対応出来るという点が、チャットと比べるとずっと便利です。入力可能な文字数もチャットよりはずっと多いのが一般的ですから、情報の蓄積量や濃度という点でも、やはりチャットより掲示板の方に軍配が上がるでしょう。

対するチャットは、まず時間的な制約が掲示板よりずっと多くなります。基本的にそのチャットルームに居る人同士で対話しますので、同じ時間に同じチャットルーム内に相手がいなければチャットは成立しません。また掲示板と比べると入力可能な文字数がずっと少なく、ログの保存期間も短いために、情報や意思の伝達にはそれなりにコツが必要ですし、情報や知識の蓄積には全く向きません。

反面、掲示板の方は「相手が読むかどうかが確約されず、読んだかどうかを確認することも出来ない」ということが短所と言えるかもしれません。一所懸命書いた小論文に匹敵するほどの長文も、読ませたいと思った相手が「読んでない」と言えばそこまでです。その歯がゆさは、先だっての武井某とのやりとりで感じた方もたくさんいらっしゃったことと存じます。

その点、チャットは同じ時間に同じ場所にいるわけです。相手がこちらの発言を読んでいるのかいないのかも、リアルタイムで確認が出来ます。こちらの発言を相手が読まないのであれば、何故読まないのかを追及することも出来ます。また応答速度から、相手の心理を探ることが出来るのもチャットの長所のひとつでしょう。

このようにチャットも掲示板も、どちらも一長一短ありますが、ただチャットは韓国人がまとう空気すらも伝えていたとは思います。これだけは、掲示板やコメント欄ではなかなか伝わりづらいものでしょう。チャットであっても、ログとしてまとめられたものは、その空気がかなり薄まります。

それは日韓チャットに限ったことではありません。チャットにおいては、誰かが発した言葉に対し、誰がどれぐらいの速度でどのように反応するのか、反応した場合、どういう言葉で返すのかという流れが、発言者のまとう空気を伝えるのではないかと思います。

今から思えばそういう意味で、韓国人とのチャットは大変有意義でした。彼らがまとう空気は、それに触れたことがなければ、理解どころか信じることも出来ません。ましてやそれを言葉で説明するのは、極めて困難です。またネットではなく、実際に会えば、空気よりも彼らの被った人の皮に惑わされてしまうでしょう。私がチャットの韓国人をナマ以上というのは、そういう意味です。もし日本人の半数以上が韓国人とのチャットを体験すれば、日韓の離間は極めて迅速に進展するでしょう。

韓国人や親韓擁韓な人が、「民間の交流が増えれば、日韓はもっと親密になれる」などと吹き、また実際それを掲げて「日韓交流おまつり」などというものも催されておりますが、ガチで日本人と韓国人が交流すれば、その結果は韓国人にとって望ましくないものになるということを証明したのが、日韓チャットであり日韓翻訳掲示板であったのだなと、過去記事を読み返しながら懐かしく振り返った次第です。



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そのマニュアル、改訂した方がいいのでは?

継続してネタを提供してくださる方、大変助かっております。

前回記事では「韓国にもいい人はいますよ。 列車に轢かれそうな日本人を助けようとして犠牲になった韓国人もいます。」というコメントをネタにさせていただきましたが、今回、同一人物と思われる方から「私の周りの韓国人はまともな人しかいないんだけどなぁ~(在日も来日も含む)」(以下略)という追撃のコメントを頂戴いたしました。

こういう方が「私は工作員でもなんでもありません。韓国の国家ぐるみの反日には怒りを覚えている一般の日本人です。」と、ことさらに強調するのも典型的なパターンのひとつで、ホントに何と言うか、対日工作用に韓国政府や民団や総連では、そういうマニュアルでも作ってるんですか?と尋ねてみたくなります。

何度でも言いますが、私は発言者が自称する国籍や血統を、ほとんど重視しておりません。そんなもの重視しても、確認のしようもなければ、証明のしようもないからです。「生粋の日本人」を何回連呼しようと、「私も嫌韓ですが」と何十回断ろうと、自ら言ってることやってることが朝鮮人なら、私はその人を朝鮮人、あるいは朝鮮人「のようなもの」と見做します

もしその人が日本国籍を保持しているのであれば、「朝鮮人のような真似をする日本国籍保持者」であり、その人が純粋な(笑)日本人の血統であるならば、「純粋な(笑)日本人血統を有した朝鮮人のような真似をする者」と理解するだけのことです。

もっとも、わざわざ「生粋の日本人」であることを強調したり、「嫌韓」であることを前置きするのは、ご当人に「自分が言ってることやってることが日本人らしからぬ(あるいは韓国人と疑われるに足る)言動である」という自覚があるからでしょう。いわゆる「語るに落ちる」というやつですねw

さて今回、追撃のコメントを頂戴してまず思ったのは、何故この人は最初に自分の周囲の「良い韓国人」を例示しなかったのかなということでした。

もし自分が具体的に「良い韓国人」の存在を知っていて、それを例示しようと思う場合、おそらく一面識もない、どんな人となりなのかも知らない、既にこの世にいなくなってから十年以上も経っている「良い韓国人」を引き合いに出すよりは、今現在自分の周囲にいて、どんな人なのかはもちろんのこと、常によく会ったり話したりている気心の知れた「良い韓国人」をまず出すと思います。

実際、追撃のコメントでこの方は「自分の周囲の韓国人」を、在日・来日合わせて「まともな人しかいない」と言ってるわけです。「在日」「来日」合わせてですから、どんなに少なく見積もっても二人のサンプルをご存知なわけです。そのサンプルたちをコメントされた方が「まともな人=良い韓国人」と本心から思っているのであれば、いの一番にそのサンプルを掲げ、「私の周囲には良い韓国人しかいない」と言えば良いんじゃないのと、まず思いました。

次に思ったのが、「日本人より、ずかずかと入り込んでくる傾向はありますが、情が深くて面倒見がとても良い」という「まともな(=良い)韓国人」の描写についてです。

「ずかずか入り込んでくる上に、情が深くて面倒見が良い」というのは、「良い人」なのでしょうか。

韓国人の感覚なら、そうかもしれません。彼らは、相手の領域を侵し、同一化(≒支配)することが親愛の情の示し方だと思っているからです。他人の弁当箱にいきなり箸を突っ込んでおかずを取って食ったり、他人の家の冷蔵庫を断りなく開けて中身を漁ったり、他人の財布の中のクレジットカードを無断で使用することは、韓国人にとってはその人に対する情の深さの表れですし、都合も聞かずに勝手にこちらの予定を立ててくれたり、頼みもしないのに韓国版Windowsの違法ダウンロードの仕方を教えてくれる(実話w)というような面倒見の良さも、確かに韓国人には極めてポピュラーです。

韓国人同士であればそれらを喜ぶことはあっても、嫌がることは決してないのだそうです。本心ではどうかまでは知りませんが、もしそれを迷惑がったり、ましてや嫌がったりする人がいれば、韓国ではそういう人の方が「情がない」「冷情」と言われ、非難の対象になるのは間違いありません。

しかし日本人ならばどうでしょうか。他人のプライバシーに遠慮無く踏み込み、これ見よがしに世話を焼きたがる、そういう相手との接触や交際は、大変なストレスになるはずです。少なくとも私はそうです。日本人にも、他人のプライバシーに頓着せず、小さな親切大きなお世話を地で行く人は、多くはありませんが珍しくもありません。日本人を二十年以上やっている方なら誰しも一度ぐらいは、そういう日本人と遭遇した経験があるはずです。そういう日本人を手放しで「良い日本人」と言い切れるかどうかを思い出していただければ、私が覚えた違和感をご理解いただけるのではないかと思います。

最初に朝鮮侮りで例示したのが、「会ったことも話したこともないけど、韓国人的に誇らしいと感じられる韓国人」であること、次に自身の周辺にいる普通の韓国人を「まともな人」=「良い韓国人」であるかのように印象操作しようとしたこと、しかしそれがあまりにも根拠浮薄という自覚があるようで、日本人にも「良くない人」がいることを掲げて相殺しようとしたこと、韓国の工作員ではなく、反日韓国に怒りを覚えている日本人であると殊更に強調することで、自身の発言の信頼度を高めようとしたこと。これら全てが実に「朝鮮人らしさ」満開です。

弊ブログでどんなに韓国人の異常性やトンチキっぷりを書いても、大袈裟だとか一部を見て全体を(以下略)とか日本人にもそういう人はいるとか言われて、なかなか俄には信じてもらえないことも多いのですが、こうやって実演してくださる方がいらっしゃると、大変わかりやすくて助かります。

韓流捏風盛んな頃であれば、きっとこんな露骨な対日工作もずいぶん奏功したのでしょうけれど、日本は既に大嫌韓時代に突入しております。十年一昔前の手がいつまでも通用すると思ったら大間違いです。



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「韓国人にも良い人はいる」という無意味な韓国擁護、あるいは対日工作

嫌韓を表明している弊ブログでは、しばしば「韓国人にも良い人はいる」というご意見を頂戴します。「お前がこのブログで吹聴するような悪い韓国人ばかりじゃないぞ」ということなのでしょう。

今回も「韓国にもいい人はいますよ。列車に轢かれそうな日本人を助けようとして犠牲になった韓国人もいます。」というコメントが入りました。この「列車に轢かれそうな日本人を助けようとして犠牲になった韓国人」とは、「新大久保駅乗客転落事故」の韓国人を指しているのだろうと思われますが、この事故については弊ブログでも過去記事において言及したことがあり、今更改めて言うのも言われるのも赤面しそうになるほど既出の話です。

そんな話をわざわざ仰々しくコメントされたのは、コメントされた方が「このブログの筆者は、韓国人について全く無知で、こんな良い韓国人がいたことも知らないから韓国人を悪く言うのだろう」と考えて書かれたのか、あるいはあからさまな朝鮮侮りを実演してみせることで、ネタを提供しようとお考えになったのでしょうか。

まあ、大抵前者だと思いますので、その前提でお話を進めましょう(もし後者であれば、ネタ提供の御礼を申し上げますw)。

まず、「韓国人にも良い人はいる」という主張に対して、私は一切反論するつもりはありません。と言うか、昔から私もそう明言しております

ですので今回は、その「韓国人にも良い人はいる」という主張は、一体何のためになされるのかということを問いたいと思います。

そもそも、「良い韓国人」とは、具体的にどういう韓国人のことを言うのでしょうか。もし「良い韓国人」とは、コメントで引き合いに出されたような「日本人を助けるために、自分の生命を捨てた韓国人」のことであると言うなら、私はそれに諸手を上げて賛成します。全ての韓国人が「良い韓国人」になるという保証があるならば、私の従来の持論を撤回し、日韓友好促進に方向転換することもやぶさかではありません。

しかし、「良い韓国人」が半万人に一人しかいないのであれば、その「良い韓国人」が消費されてしまった時点で、残る韓国人は全て「良くない韓国人」ということになります。仮に「良い韓国人」が半万人に一人ではなく、もっとたくさんいても同じことです。「良い韓国人」は消費されることが前提なのですから、消費し尽くせば残った韓国人は「良くない韓国人」になってしまいます。

結局、「日本人を助けるために、自分の命を捨てた韓国人」というのを「良い韓国人」の定義にしてしまうと、「そうしなかった韓国人」は全て「良くない韓国人」ということになります。私は自ら嫌韓を名乗る者ではありますが、「生きている韓国人」全てをそこまで悪く言うのは、さすがにどうかなと思います。

もっともコメントされた方は、「良い韓国人」=「日本人を助けるために、自分の命を捨てた韓国人」というつもりでおっしゃったわけではないでしょう。多分、「韓国人的に誇らしいと感じられることを実行した韓国人」という意味で例示されたのだと思います。しかし、再生産されない「良い韓国人」をどれほど例示されても、だから何としか言いようがありません。

あるいは、美談になるほどの英雄的行為をするような「良い韓国人」とは言えないけど、自分が知ってる韓国人は賢いし礼儀正しいし素直だし反日じゃないし会話も成立するしという方も、当然にいらっしゃるでしょう。もちろん私も、そういう韓国人がいることを知っておりますし、「そういう韓国人」を実際に知っています。しかし「そういう韓国人」が、韓国社会にどんな影響を及ぼすことが出来るでしょうか。

私の知る限りで、「そういう韓国人」が韓国に向かって影響力を行使した例は、ほとんどありません。全くないわけではないかもしれませんが、「そういう韓国人」が韓国に向けて影響力を行使しようとすれば、良くて無視、悪ければ社会的にも物理的にも激しいバッシングを受けることになります。

ですから「そういう韓国人」が、その影響力を韓国社会に向けることはほとんどありません。その代わり日本人に向けて行使しようとしますし、既に行使している例も珍しくありません。それはそうでしょう。韓国人に向けて行使すれば良くて無視、悪ければ生命身体社会的に抹殺されかねませんが、日本人に向けて行使すれば、受け容れられ共感を得られ、賞賛され、場合によってはカネにもなるのですから。

ですが日本人に対する「良い韓国人」アピールは、「そういう韓国人」が意図するしないに関わらず、日本人に対する韓国の工作活動になります。日本人に対し、「韓国人にも良い人はいる」と思わせることで、韓国に期待を持たせたり、韓国を誤解させる役割を果たしてしまうからです。

だからと言って、「そういう韓国人」に「我が身の危険を顧みず、日本ではなく、韓国に向けて影響力を行使せよ」と迫ることも出来ません。何故ならそれは、「そういう韓国人」に、まさに「日本人のために、自分の生命を捨てろ」と言うに等しいことだからです。

結局のところ「良い韓国人」がどんなに数多くいても、その韓国人たちが韓国社会を変えることはあり得ません。そういう韓国人と個人的なお付き合いをする分には問題ないかもしれませんが、その韓国人に韓国社会を変化させる期待や要望を寄せるのは、ただ無意味なだけではなく、残酷でさえあるでしょう。

そんな「良い韓国人」を引き合いに出して、日本人の嫌韓感情を牽制し、韓国を擁護しようとする行為は、韓国に利するための対日工作以外には、何の意味もないと私は考えております。



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月見櫓 韓国 日韓