いつの間にやら、僕の知らないところで
最高気温25度の夏日があったかと思えば10度と肌寒い日もあったりと、寒暖の差は結構ありますが概ね過ごしやすく、陽気に誘われて花見がてら散歩でもしたくなる今日この頃です。
さて日本から見れば、と言うか私個人から見ても、もうすっかりどうでも良い韓国ですが、韓国から見た日本は相変わらず複合意識を刺激する存在のようです。
わけても、このたび安倍総理がアメリカ連邦議会上下両院合同会議の演説に招待されたことが、韓国としては地団駄踏みたいほど忌々しいようです。
この安倍総理のアメリカ連邦議会上下院合同会議の演説、日本ではそれほど大きな話題にはなっておらず、報道も比較的あっさりしたものですが、韓国言論では「敗戦国の分際で」とでも言いたそうなニュアンスをほとばしらせております。
日本に対し、韓国は常々上から目線でお説教を垂れていました。しかし近頃の日本は全くそれを聞きません。それは日本が韓国よりいろんな面で強く大きい国だからだと、韓国は思っているようです。物質面ではともかく、精神面ではウリナラの方が遥かに優れた国なのに、チョッパリは「精神がない」からそれがわからないんだとでも思っているのでしょう。
もちろん、だからと言って黙る韓国ではありません。韓国言論では今も日本に対する上から目線のお説教が連日行なわれておりますし、ウリが言ってダメなら日本より更に強い国に日本を叱責して、どうにかして日本を屈服させたいという願望を彼らは持っています。
先だってのドイツのメルケル首相の発言に、韓国が異常に関心を示したのも間違いなくその願望の表れでしょうし、韓国がこれ見よがしに中国に擦り寄っているのも、対日外交(と言うか反日プロパガンダ)で中韓共闘が可能だからという考えがあることは明白です。もちろん、世界一の大国アメリカにも日本を叱って欲しいと切望しており、その願望はアメリカにおける慰安婦像設置に如実に表れています。
しかし他国は他国で、自国の国益を最初に考えています。韓国が自国の国益のために他国を利用しようとしても、それがその国の国益と一致しなければ、韓国の思うとおりに動いてくれる国など、かつての日本以外にありません。
そもそも、国益を真面目に考えるのであれば、韓国は可及的速やかに反日を取り下げるべきという話になります。日本は韓国無しでも問題なくやっていけますが、韓国は日本無しでは立ち行きません。それは経済に限った話ではなく、文化面においても、韓国における日本の影響や依存度は極めて高いのです。彼らは時々発作のように日帝残滓排斥を叫びますが、もし全ての日本の影響を完全且つ徹底的に排除すれば、間違いなく韓国は北朝鮮より悲惨な状態になるでしょう。
韓国人にもそれはわかっていないわけではないようなのですが、反日が彼らにもたらす快感を、彼らはどうしても手放せません。日本が優れていればいるほど、日本が世界から賞賛されればされるほど、その日本を叱責出来るウリという状況に、彼らはチビるほどの快感を覚えるようです。
このところの韓国は、自国を米中両国からラブコールを受けるほど価値ある国なのだと自賛しておりますが、実際のところは米中の間でそれぞれの国の威光を借ろうとして右往左往しているコウモリというのが正しいでしょう。
上手く立ち回れば、米中両国の威光をかさに、日本を屈服させられるはずだというのが韓国の思惑なのでしょうけれど、日本の昨今の韓国冷遇には、アメリカの意向が働いているという説もあります。日本は、同盟国アメリカに対する手前もあって、これまでは韓国を切るに切れませんでしたが、そのアメリカからゴーサインが出たとあれば願ったりです。
未来がどうなるかは誰にもわかりませんが、後の世の歴史教科書に、この時代のことがどのように書かれるかを想像することがあります。
「この時韓国は、米中という大国の間で巧みに立ちまわり、その結果として現在の繁栄の基礎を築いた」などと書かれるでしょうか。
多分韓国人はそのように想像しているのでしょうけれど、そんなに韓国人だけに都合の良いように物事が運ぶとは考えられません。過去の歴史を参考にしても、将来の歴史教科書には「この時韓国は、強大国の間でコウモリのように振る舞ったことが原因となって、後に大きく国を損なうことになった」という記述されることを予想する方が、よほどすんなり腑に落ちます。
何にせよ韓国はもはやセウォル号同然と考えてよいでしょう。考えられる限りのケンチャナヨを詰め込んだ結果、惨劇を迎えたあの船のように、韓国が全てを自分に都合の良いように考え、大国を手玉に取って上手く立ちまわっているつもりでいれば、いずれ横転沈没する運命にあると考える次第です。
その時、日本に被害や迷惑がかからないことと、ホントのセウォル号が沈んだ時のような、【現在沈没中】とかいうお知らせや中継は一切無用で、結果だけを淡々と知らせてもらえたら十分と思う程度に、今の私にとって韓国はものすごくどうでも良い存在になっております。
「サクラサク」を待ち望む
桜と言えば、毎年韓国がソメイヨシノのウリナラ起源を主張するのが風物詩になっておりましたが、今年はあまり聞こえて来ませんでした。それは多分、韓国がソメイヨシノのウリナラ起源を取り下げたわけではなく、ウォッチしている側が飽きたというか、言っても無駄、聞いても無意味と気づいたのが大きいのではないかと思います。
どれほど懇切丁寧に説明しようとも、どれほど確たる証拠を積み上げようとも、それが彼らの主張に反するものであれば、彼らは絶対にそれらを受け入れません。また彼らの主張に嘘や捏造や牽強付会、歪曲、妄想が混入していることをどれだけ指摘しても、彼らは決してそれを認めません。
韓国を相手に議論するぐらいなら、韓国以外を相手に事情を説明し、理解を促す方がよほど手っ取り早く、また成果も遥かに期待出来ます。実際安倍政権はその通りに行動しており、着実に成果をあげていると言って良いでしょう。
安倍政権の「対話のドアはいつでも開いている」という対韓姿勢も、まことに理に適っております。韓国は常に【対話】ではなく、相手の意見を全く無視して一方的に自分の意見を並べ立てるか、あからさまな詭弁で自分の主張だけを通して勝手な勝利宣言をしようとします。それが韓国式の【対話】です。これまでの日本は、それに振り回されてきました。
韓国人が言う「話し合い」とは、実際には「ウリの言うことを丸飲みに聞け」という命令です。韓国では、「話し合い」と言えば双方が「ウリの言うことを丸飲みに聞け」と言い合うことです。互いに相手の主張の内容を聞き、妥協出来る点を探したり意見のすり合わせを行なうということではありません。どちらの主張が正しいとされるかは、その内容ではなく、主張者の立場の優劣で決まります。即ち、「ウリの言うことを聞け」と言える方が優位で、聞かされる方が劣位ということになります。
これまで日本は、そういう韓国式の「話し合い」に付き合わされてきました。日本と韓国では、普通に考えれば日本の方が優位にあると考えるのが妥当です。しかし韓国人の主観では、どんなに日本が優れていてもと言うか、日本が優れていればいるほど、韓国は更に優れていると考えるようです。
それは日本が「絶対悪」であるのに対し、韓国は「絶対善」であることだったり、古代日本に文化を伝えてやったのは韓国、即ち韓国は日本の先生である、という理由があるということになっておりますが、実はそれすらも言い訳に過ぎません。そんな言い訳を真面目に聞いて真面目に反論するということを私も散々やってまいりましたが、それでやつらにぐぬぬと言わせたとしても、彼らの「日本より韓国が優れている」という確信は微塵も揺るぎません。その確信は理屈も理由もないのです。彼らの「そうあって欲しい」という願望がそのまま結論になっているだけです。
もし日本が韓国より優れているということを認めれば、韓国人は韓国人ではいられなくなるのでしょう。それがその辺にいくらでもいる一般市民であれば、韓国人でいられなくなることに躊躇はないかもしれません。と言うか、その手の韓国人は割と簡単に自ら韓国人でなくなろうとしますし。
しかし、それが自他共認める「誇らしい韓国人」であれば、話は別です。「誇らしい韓国人」とは具体的にどういう韓国人かと言うと、「他の韓国人が羨ましがる韓国人」のことと考えれば、だいたい合ってます。金持ちだったり、地位や権力を持っていたり、見た目の美しさとか頭の良さが飛び抜けており、それを多くの韓国人が知っていて、羨望と賞賛をほしいままにしている韓国人を「誇らしい韓国人」と呼ぶようです。
韓国人がどんなに大統領のことをクソミソに言っても、韓国大統領が「誇らしい韓国人」であるべき韓国人であることを疑う韓国人はいないでしょう。その「誇らしい韓国人」であるべき韓国大統領が、日本の主張を(丸飲みではなく部分的にであっても)聞き入れるということは、韓国人の主観では「日本に屈服した」という理解になりかねません。
日本側が「お願いですから日韓首脳会談してください」と言って韓国に頭を下げ、韓国が渋々それに応じるという形でなければ、韓国側は国民に示しが付きません。それなのに日本側はしれっと「首脳会談したくなったら言ってきてね(はぁと)」と言ったっきりです。これでもし日韓首脳会談が実現すれば、「韓国政府が日本に頭を下げて首脳会談を要請した」ということになってしまいます。
この構図は日韓スワップ協定延長の是非を検討していた頃にもありました。日韓スワップ協定を延長すれば、韓国が日本に頭を下げたということになるため、韓国は日本に延長を要請出来ず、日韓スワップを終了させざるを得ませんでした。
この構図がそのまま日韓の国家間交際、即ち国交においても発現すれば、明確な宣言の下の国交断絶はなくとも、事実上の国交終了という状態になることは十分期待出来ます。
先日安部総理は国会で、外交は国益のために行なわれるべきものであって、国益を損なってまで外交を優先するのは本末転倒であるという認識を示しました。
それは国家として当然の認識ですが、これまでの日本では国益を損なってでも外交を優先する傾向が甚だしかったわけです。わけても、韓国との国交はまさにその「国益を損なってでも外交を優先する」ものでした。
しかし季節が変わるように、国際情勢も変化します。日韓の国交終了という花が咲く日は、もしかするともうすぐそこまで来ているのかもしれません。
今、日本にある難民問題
以前も確か、Kids gooのフィルタリングが話題になったことがあり、弊ブログもそのフィルタリングの対象となっていたようです。これら検索エンジンのフィルタリングについて、「表現の自由を侵害するものだ」とか「思想統制だ」と不快に思われる方もいらっしゃるでしょうし、私にしてもこういう扱いに多少の不満と不愉快は感じておりますが、しかし積極的にこれに反発するつもりもありません。
と言うのも、検索エンジンのフィルタリングによって、通りすがりよりは幾らか積極的に嫌韓系ブログを探すという人には弊ブログを見つけることは困難かもしれませんが、弊ブログを本気でピンポイントで探そうと思えば、検索エンジンのフィルタリングを突破することはさほど難しくありません。
また、大変ありがたいことに、検索エンジンに頼るまでもなく多くの嫌韓系・韓国ウォッチ系ブログでは弊ブログをリンクやRSSに載せてくださっておりますし、ツイッターでつぶやいてくださる方もたくさんいらっしゃいます。
本当はもっとブログ執筆者当人がフェイスブックやツイッターなどを駆使し、あるいは他の人気ブログにコメントを投じるなどして積極的に宣伝に回るべきなのでしょうけれど、皆様のご好意に甘えるばかりで、無精させていただいております<(_"_)>
さて、今回は月見チャットでさらりと話題になった話を本日のお題にしたいと思います。
先だって、何気にテレビを見ていると、シリアからの難民についての特集がありました。内戦状態が続くシリアでは、戦闘や弾圧から逃れるために避難する人々がシリア国民の30%以上と言われております。2015年03月25日現在の難民数は3,938,881人にもなり、シリア周辺国を中心に世界各国で受け入れを行なっております。
シリアから遠く離れた日本でも受け入れを行なっておりますが、その数は非常に少なく、しかも審査は大変難しく厳しい(昨年は6名)のが現状です。当然、私が見ていたテレビ番組でもそういう日本を強く非難するニュアンスで構成されておりました。ですが、それを見ていた私としてはそのニュアンスに違和感を禁じ得ませんでした。
日本を非難する材料のひとつに、この「難民受け入れの門戸の狭さ」があります。日本は、難民の受け入れでは世界でも有数の消極的な国と言われております。それは一面の事実ではあるでしょう。しかしその事実の裏と言うか陰というか横には、「日本は既に多数の難民を抱えている」という、あまり知られていない事実があります。実際、月見チャットでこの話をしていた時に、「日本、難民60万人もいるし」と言うと、「え、そんなにいるんですか」という反応がありました。
「60万人」という数字でピンとくる人もいれば、何のことかさっぱりわからないという人もいるでしょうが、これは在日韓国・北朝鮮・朝鮮人の概数です。「60万」という数字は年代や状況で「65万」だったり「55万」だったりと変動することがありますが、いずれにせよ50万人以上存在することは確かなようです。しかも彼らには十分過ぎる権利と保護を与えており、時には生まれながらの日本人以上に優遇される状況もあるほどです。
しかし前述した通り、日本では在日韓国・北朝鮮・朝鮮人を難民と認識していない人が、日本人には少なからず存在します。甚だしくは、在日韓国・北朝鮮・朝鮮人自身がそれを失念と言うか忘却と言うか理解していなかったりします。そのため、「日本は難民受け入れに消極的でケシカラン」という文脈が成立してしまうわけです。
日本における在日韓国・北朝鮮・朝鮮人問題とは、即ち日本の難民受け入れによって生じた社会問題と言えます。これを解決しないまま、新たに異なる文化の難民を受け入れるということは、日本社会の更なる混乱、ひいては日本という国家の基盤を揺るがす問題になりかねません。何を大げさなと言う人は、三年前の民主党政権時代を忘れている人です。
世界の情勢によって難民を受け入れること自体は、ある程度はしかたないと思います。しかしその前に日本は、難民受け入れのための法整備と社会整備を行なわねばなりません。何よりもまず、今いる難民の対処を厳格に行なうべきでしょう。それすら出来ないのであれば、日本には難民を受け入れる資格も環境もないということです。
もちろん、在日韓国・北朝鮮・朝鮮人の全てがひとりの例外もなく難民とは限りません。難民とは異なる別の滞在資格で日本に居住する韓国・北朝鮮・朝鮮人も少なからず存在します。ですがその分別も極めて曖昧にと言うか、マジェマジェにされており、しかもそのマジェマジェ状態を日本人自身が無意識に認めてしまっているのです。
まずは日本人自身が、日本には既に難民が多数存在すること、それに付随する問題が少なからず存在することを認識し、難民とそうでない滞在資格者の混同を是正し、今後それにどう対処していくかを議論することから始めるべきです。新たな難民受け入れは、それらが解決する目処が立ってから議論することです。
今ある日本の難民問題を片付けることが出来ないのに、新たに日本に難民を受け入れるなど、分不相応にも程があるというものです。
「韓国人ならわかるのに」と言われても
韓国についてある程度の基礎知識を持った上で、韓国お笑いネタやらあるあるネタとしてそういうまとめブログを見るのであれば良いのですが、韓国について何も知らない人がまとめブログだけを情報源とするのは、かなり危険ではないかと思います。それよりも日本人が韓国を知るには、韓国言論(韓国では新聞は「報道」ではなく「言論」と名乗る)の日本語版を読むのが良いでしょう。
もっとも以前から申し上げていることですが、韓国言論の日本語版だから偏りのない韓国情報が得られるとは限りません。韓国言論の日本語版とは、「韓国人的に日本人に知らしめたいこと」を意図的にピックアップしているものだからです。
韓国言論の記事には、韓国や韓国人に対する非難や批判も珍しくはありません。それらが、韓国関連のまとめブログのネタになっていることもよくあります。そういう記事を見れば、「韓国人もわかってるんじゃないのか」と勘違いしそうになる人もいるでしょう。
ですから本当に良いのは、韓国言論の原版、すなわち朝鮮語版を見ることです。しかし日本人には、翻訳サイトを通したとしても、かなりハードルが高いと思われます。私にしても、ブログのネタ探しに韓国言論を渉猟することは多いのですが、朝鮮語版を直接見るのは日本語版の記事に違和感を抱いた時ぐらいです。
韓国言論の日本語版は「韓国人的に日本人に知らしめたいこと」を基準に構成されている点、朝鮮語から日本語に翻訳するため韓国で報道されてから数日のタイムラグが発生している点、それから韓国名物歪曲翻訳が随所に散りばめられている点を割り引けば、韓国を知る資料として大変に優れていると言えます。
それからこれは日本の新聞についても言えることですが、韓国言論についても一紙だけを見るのではなく、数紙を見比べるべきでしょう。そうすることで、韓国人的にどんなことを「日本人に知らしめたい」と考えているかが浮き彫りになって見えてきます。
また、「日本人に知らしめる」ために韓国人がどのような詭弁を弄するかも、韓国言論を見ていれば如実にわかります。韓国言論で行なわれた詭弁は、必ず韓国の一般大衆も用いるようになるからです。
ところで韓国言論の主張が即ち韓国の大衆の考えていること同じとは限らない、という主張は、韓国人の間では一般的です。日韓チャットでも、韓国言論由来のネタを示すと、そう言う韓国人が少なくありませんでした。
しかし客観的に見て、韓国言論は常に明らかに韓国の大衆に迎合しているか、さもなければ教導しようとしています。それが故に、大衆に向けた迎合であれ教導であれ、韓国言論に掲載される記事は常に必ず韓国人的な「模範解答」です。
韓国人は非常にしばしば「それは個人の意見です」と言います。他人の意見を聞くときも、自分が意見を言う時もそう言います。
他人に向けて言う時は「それはあなた個人の勝手な意見であって、「正しい意見」ではない」という意味であり、自分が言う時は「この意見が間違っていても、韓国人全体の正しさが損なわれることはない」という意味になります。
前者はさておき、後者の面白いところは、「じゃあ韓国人の中で、お前の意見だけが間違っているのだな」と追い撃つと、大抵の韓国人が妙に狼狽えることです。
彼らにとって「ウリ」とは即ち自分自身であると同時に、韓国人全体でもあります。仮に自分が間違ったことを言っても、韓国人全体が間違ったことを言うわけではないという理屈は、彼らの中では非常に容易に「だから自分自身も間違っていない」という結論に達し、それに何の矛盾も感じません。
韓国人がその矛盾を指摘されると、理屈では理解出来ても、感情では理解出来ないのです。たまに開き直って「そうだ、私だけが馬鹿なのだ」とふてくされつつ言う韓国人もいなくはありませんでしたが、それも本心から言ってるわけではありませんでした。
そういう時、彼らは必ずこう考えているのです。「韓国人ならわかるのに」
韓国人にも、韓国の矛盾や葛藤はわかっています。と言うか、韓国人こそが、韓国の矛盾や葛藤に傷めつけられ、苦しめられています。それを彼らは彼らなりに消化しているつもりなのです。もちろん根本解決ではありません。その場限りの辻褄合わせだったり、強引なコジツケで無理やり帳尻を合わせるのが彼らのやり方です。
従って、そこにはどうしても再び矛盾や葛藤が生じます。その堂々巡りに気づいても気づかぬふりをし、ひたすら目の前の一瞬一瞬をやり過ごすことだけに必死になっているのが韓国人なのです。
言うまでもなく、韓国言論も例外ではありません。韓国言論に載る記事は、必ず「韓国人ならわかる」論理で書かれています。日本人が読めば、クエスチョンマークが飛び交うような記事も、明らかに頭と尻が合ってない記事も、「韓国人ならわかる」のです(そう言えば先だって弊ブログにも、そういうコメントが投じられていましたねw)。
そういう意味では、韓国人の考える日韓友好とは、【日本人に「韓国人ならわかる」ことをわかれということ】と考えることが出来るかもしれません。
日本人の中には、韓国人と親和性の高い人が一定数存在し、これまでの日韓友好はそういう日本人と韓国人によって誘導されてきたのでしょう。
日本人は、「他者を慮れ」という教育を物心付く前から受けているためか、韓国人と比較すると共感力が高い傾向にあります。ですから「韓国人の立場で考えろ」と言われれば、大抵の日本人はある程度韓国人の立場で考えることが可能なのでしょう。
「韓国人ならわかる」と言われれば、思わず韓国人の立場で考えてようとしてしまう日本人も、少なくともかつては間違いなくたくさん存在しました。彼らが韓国の、日本に対する甘えを助長したのです。日本人は韓国人の立場で考えるのが当然だと、韓国人に思い込ませたのです。
しかし当たり前のことですが、日本人は韓国人ではありません。日本人が韓国人の考えを韓国人と同じレベルで理解することは、韓国人ではないから無理です。
この「日本人は韓国人ではないから、韓国人ならわかることでも日本人にはわからない」という当たり前の理屈を韓国は理解出来ないのです。何故なら彼らは韓国人ですから。
結局、日本人と韓国人は、上っ面だけなら別ですが、根本的に分かり合うということは出来ません。この1年以内に韓国人の圧倒多数が、「他者に対する慮り」という芸を覚え、実際に演じてみせることが出来れば、もしかするとどうにかなるかもしれませんが、これまでのように、日本人の共感能力だけを頼りに日韓関係を維持することは、今後は極めて困難になっていくのでしょう。
日韓国交正常化50周年を機に
かつては、「日韓が国交を断絶すれば、日本はホロン部」とまことしやかに言われておりました。しかし実際日韓関係が凍結に近い状態にまで冷え込んでも、日本が滅ぶ気配は感じられません。
経済面をごくピンポイントで見れば、日韓間の取引に限定した幾つかの企業には日韓関係の冷え込みが原因の悪影響が出ているのかもしれませんが、オールジャパンで見れば、日経平均株価は2万円に迫る勢いを見せております。それが韓国との関係凍結のおかげかどうかはわかりませんが、少なくとも韓国との関係凍結が日本経済全体に悪影響を及ぼしはしないという証左にはなるでしょう。
対する韓国経済と言えば、まさに青息吐息の状態です。彼らが日本を罵る時に用いる言葉は、非常にしばしば彼ら自身に対する指摘となっていることが多いのですが、「日韓が国交断絶すれば日本はホロン部」というのも、その類例のひとつということが奇しくも証明されてしまう形になりました。
何でもそうですが、願いや望みが一足飛びに叶うということは、そんなにありません。願いや望みを叶えるために、今しなければならないことをひたすら無我夢中でやっている内に、気がついたら自分が願い望んでいたものが目前にあったりするものです。
私は日韓国交断絶も同じだと思っています。ほんの数年前まで、日韓国交断絶は嫌韓のタワゴトであり、夢物語でした。何故日韓友好が必要なのかという議論も説明も行なわれないまま、どんな事情があっても日韓は友好関係であらねばならないのだという強迫観念が、少なくとも日本国民には押し付けられていました。
韓国民に対しては、そういう強迫観念の押し付けがあったかどうかは知りませんが、日韓友好は日本側が強く望んでいることなのだ(=ウリは仕方なく応じてやっているのだ)という印象操作は熱心に行なわれていたのではないかと思います。何故なら、かつて日韓チャットで「韓国が嫌いだ」と言うと、天が落ちてきたかの如く驚愕する韓国人が極めて一般的だったからです。
今でも、日韓国交断絶を口走る韓国人には、そういう意識が透けて見える者が珍しくありません。即ち、「国交断絶と言って脅せば、日本人は驚き慌て、ウリに土下座して友誼を乞うに違いない」という意識です。
もっとも日本の嫌韓気運の増大は韓国側にも幾らか伝わっており、それに反応する形で国交断絶を口走る韓国人も散見されるようにはなりましたが。
いずれにしても、両国民の間に国交断絶というコンセンサスが形成されつつあるということは確かです。
しかしこれを政府間の議題にまで押し上げるのは、容易なことではありません。一般に、国交断絶と言えば戦争一歩手前の状態とも言えます。日韓が戦争を視野に入れることは、日韓双方の事情を鑑みればおそらくないでしょう。
そこで弊ブログが以前から唱えている「発展的関係解消」です。
日韓国交正常化以後の日韓関係は、必ずしも「正常」とは言えないものでした。その歪みが50年目になる今、あちこちから噴き出しているのです。
日韓国交正常化50周年を機に、日本と韓国は互いに関係を今一度冷静に見直し、現実に則した形に戻す必要があるのではないでしょうか。そもそも日韓関係は、最初のボタンを掛け違えています。その最初のボタンの掛け違えを正さなければ、日韓関係の歪みは永遠に除かれないでしょう。
この先も歪んだままの日韓関係を継続するのか、それともこの辺りで一旦日韓関係そのものをリセットし、新たに正しい日韓関係を模索するのか、その選択は私たちの世代にかかっているのかも知れません。
「新たな日韓関係」を模索する時期
現在のところドイツ側と民主党岡田代表側とで言った言わないの水掛け論になっているようですが、客観的に考えてみれば、これはドイツ側の言い分に理があるように思われます。
日韓関係が複雑なことは、ドイツの首相ならば当然知っているでしょう。日本を批判、あるいは非難する際、ことあるごとに韓国が「ドイツは謝罪した」と引き合いに出すことも、もしかしたら知っているかもしれません。
韓国としては「ドイツは謝罪した」と言うことでドイツを持ち上げているつもりなのでしょうけれど、ドイツとしてはいつまでも古傷を突かれているようなものです。
更に言えば、ドイツは「過去、ドイツは悪いことをしました」と言ったわけではありません。「過去、ナチスは悪いことをしました」と言ったのです。これを「ドイツは謝った」と言い換えられるのは、ドイツとしてはかなり不本意でしょう。かと言って、韓国が「ドイツは謝った」と言う度に、「いや、それは違う」と言うのも色々ややこしいので、聞こえない振りをするしかありません。
さておき、ドイツとしては過去の云々をとやかく言われるのは、それほど嬉しいことではないはずです。その上、ややこしい日韓関係に首を突っ込めば、自国も共に日韓関係の泥沼に引き込まれるおそれが小さくありません。
得られるものがあるならば、泥沼でも進んで足を突っ込みに来るでしょうけれど、日韓関係に足突っ込んで得られるものはあまり期待出来ません。日韓関係に足を突っ込むということは、日本か韓国のどちらかに加担するということであり、同時に日本か韓国のいずれかと敵対するということになります。ドイツの国益を鑑みれば、日本とも韓国とも敵対したくないでしょう。
ですから、岡田代表から日韓関係についての話題を振られたとしても、「まあ、お互い仲良くやんなさい」程度の当たり障りのない返答ぐらいしかしようがないと考えるのが妥当です。
この「まあ、お互い仲良くやんなさい」という発言を、「日韓関係は非常に重要だ。慰安婦の問題をきちんと解決した方がいい」と答えたとされるのは、要らない物を無理やり売りつけられそうになった時に「結構です」と言ったら、「結構ですというのは肯定の意味だから、買うということですね!」と言われるようなものです。広義の詐欺に該当すると言っても過言ではありません。
こうやって第三国に飛び火させかねないほど(韓国にとって)危機的な状態になっている日韓関係ですが、以前ならば日韓関係は常に無条件で日本が譲歩すべきとされていました。誰よりも、日本自身がそう思っていました。いまだに岡田代表がそう思っているように、それを是とする人々も、日本人の中にはまだまだ多く存在します。
日韓関係は、この「日本側の絶対無条件の譲歩」によって成立していたと断言出来ます。しかし、今の日本政府の韓国に対する姿勢は明確に「無分別な譲歩や妥協はしない」というものになっており、それが現在の日韓関係に反映されているわけです。
日韓関係の「(韓国にとっての)悪化」が、「日本側の絶対無条件の譲歩」の消滅の結果だとすれば、これを「改善」するには「日本側の常時絶対無条件の譲歩」を復活させるか、さもなければ「韓国側の譲歩」が最低条件になるでしょう。
ですが少なく見積もっても日韓国交正常化以後の50年弱、多く見積もれば日韓併合以後の100年余りを、「日本が譲歩するもの」としてきた韓国が俄に日本に譲歩出来るようになるのは、今年中に南北朝鮮が平和的統一を果たすよりも困難です。
それよりもずっと高い確率で期待出来るのは、日本が再び韓国に無条件の譲歩を行なう国となることですが、これも現在かなり難しくなってきています。
先にも述べた通り、日本には民主党岡田代表を始め、「日韓関係は日本側が常時絶対無条件に譲歩すべき」と考える日本人は、未だに決して少なくありません。しかし「何故日本が常に韓国に無条件で譲歩しなければならないの?」と考える日本人は、凄まじい勢いで増えております。
かつて日本は、韓国の保護者でした。少なくとも日韓併合中は明確にそうでしたし、日韓国交正常化以後も、日本の要人にはその意識が残っていたでしょう。ですから日本側が韓国に譲歩するのは、ある意味しかたのないことでした。保護者と被保護者が、対等な条件で付き合うわけにはいきません。
しかし韓国側は併合中からずっと、「日本とウリは対等であるべき」と言い募ってきました。もちろん彼らの考える「対等」が、日本及び国際標準で言うところの「対等」であるとは限りませんが、それでも韓国は、表向きにはずっとそう主張してきました。
「表向きには」というのは、「表向きには」対等を言い募りながら、舞台裏では常に日本に甘え、無条件の譲歩や妥協をねだっていた韓国人が少なくなかっただろうと想像されるからです。日韓併合を知っている日本人と韓国人であれば、そういう関係は十分に考えられます。
ところが日韓併合を知る日本人も韓国人も現役を退くようになると、その関係も揺らいできます。日韓併合を知らない韓国人にとって日本は野蛮で未開な悪そのもので、韓国はそれを懲らしめ且つ教え導く正義の化身ですから、表向きだけではなく舞台裏でも、日本側に対する韓国側の態度は傲岸不遜になっていきます。日本側としても、そんな韓国に何故譲歩し続けなければならないのかという疑問を持つようになります。
日本人のそういう疑問を封じるために韓国が行なった「日本の過去の悪行プロパガンダ」も、短期的には効果を発揮しなくもなかったのですが、長期化するにつれその極端さと整合性の無さに更に日本人に疑問を抱かせる結果になりました。
こうなってくると、日本政府が韓国に譲歩しようとすれば、日本国民の大反発を招くのは必至です。それどころか、親韓であることを表明したり、あるいは親韓とみなされた議員は、選挙で不利になることさえ懸念されます。
これまでの日本なら、政治家は親韓である方が有利な側面もありました。親韓であっても日本の有権者は別に文句も言わないし問題視しないし、在日からの支援は期待出来るしと、一粒で二度美味しいのがかつての親韓でした。
しかし日本の有権者に韓国(人)の実態がネットで広く知られるようになると、政治家にとって親韓であることはマイナス要因にしかならなくなってきました。日本のこの風潮が維持されれば、必然的に日本側の韓国に対する安易な譲歩は、今以上に強く抑制されることになるでしょう。
日本側の譲歩の復活も望めず、韓国側が譲歩を覚えることも極めて困難である以上、日韓関係がかつてのようなものになることはありません。となれば、今後考えられるのは、今までとは全く異なる「新たな日韓関係」と呼ばれるべきものです。
この「新たな日韓関係」が、「日韓の発展的関係解消」になればと心より願う次第です。
今振り返って思う日韓チャットのメリット
先日、その類の記事に「外国人から見た韓国のイメージ ITからK-POPに変化」とかいう見出しがありました。その見出しの「IT」を、「それ」の意味の「it」だと素で思い込んで、「へー、韓国のイメージってitからK-POPになったのかー。出世(?)したじゃん」と心から納得してしまった筆者です。
私は時々、自分で自分の記事を読み返すことがあります。たいていネタに困っている時で、今回もネタに困って過去記事を幾つか読んでいたのですが、言ってること自体は今とそんなに変わらないけれど、今よりずっと韓国に対して怒ってるなあと思いました。
もちろん、今はもう韓国に対して怒っていない、というわけではありません。ただ、昔と比べると怒っているにしても、親身でないと言うか、自分のことのように怒ってはいない印象があります。
それは、今は日韓チャットをやっていないからだと思います。
韓国の掲示板まとめブログなどを見ると、日韓チャットに常駐していた頃も今も、韓国人は全く変わっておりません。彼らの得意げな寝言や素っ頓狂な発言を見る都度、「日韓チャットだったらこんなことほざく韓国人は火達磨にしてやるのに」と、いつも思います。
たとえ罵詈雑言の応酬であっても、意思の疎通が成立していないコミュニケーションであっても、自分の行動や発言に相手が反応し、相手の行動や発言に自分が反応すれば、その相手とは何らかの関係が成立することになります。
自分が韓国人の言動の直撃を受ければ、その内容がどんなものであっても、それによって生じる思考や感情の当事者に成るわけです。ナマよりナマな韓国人の感情に、私自身の感情もかなりの割合で反応していたのでしょう。
今は違います。それが韓国の掲示板であろうと、韓国言論であろうと、そこに書かれた文言は私個人に向けて発せられたものではありませんし、それに対する私の意見をブログの記事として書いたとしても、それは韓国の掲示板に文章を上げた韓国人や、韓国言論の記者に向けて書いたものではありません。
言ってみれば、どこにどんな動物がいて、どう遭遇するのかもわからない密林の中を行くのと、どこにどんな動物がいるか明示されていて、観察するだけならほとんど不自由しないけど、接触は決してしないようにされている動物園を散策するのとの違いのようなものです。
そういう状況にある場合、遭遇する動物に対してどちらがより感情の起伏が激しくなるかと言えば、当然に前者でしょう。
ただそれも、かつて「どこにどんな動物がいて、どう遭遇するかもわからない密林の中」を歩んだ経験があるから比較が出来るわけで、そういう経験がない場合は、「自分のことのように怒っている」とか「他人事として怒っている」という違いは、全くわからないでしょう。
弊ブログには日韓チャットのログを記載しておりますし、弊ブログコメント欄や弊ブログ付随の月見チャットにも、極めて稀ではありますが韓国人や「朝鮮人のような真似」をする者が出没します。
それらを、対岸の火事よろしく眺めているだけの人と、それらと対話(のようなもの)を行なった人とであれば、それらに対する理解の差は顕著です。更にそういう経験がある人とない人では、その後の韓国人理解の進み方にも差があります。
ただ、全ての日本人がそういう経験を積むことは事実上不可能ですし、そういう経験をすることで逆に韓国人に取り込まれてしまう日本人が一定数出てくるという問題もあります。
その辺りのジレンマをどう解決するかについては、私も結論が出せませんが、ただ私の場合、日韓チャットの体験が一種の予防注射的なものになっていたということは言えるでしょう。
過去の記事で私が韓国人に対してやたら怒っているのは、予防注射を受けた結果、発熱するようなものです。発熱だけを見ればよろしくないものですし、中には重い副作用に悩まされたりする人も、多くはありませんが確実にいるわけです。
しかし予防注射によって発熱程度では済まない、生死に関わる重篤な病気を回避出来る確率が、重い副作用に悩まされる確率よりもずっと大きくなるわけで、私に限って言えば予防注射的な経験を得たことによって、日韓チャットほど濃厚ではないにせよ、ネット上の韓国(人)情報をかなり冷静に、行間や言葉の裏まで読むことが出来るようになったというメリットを得られたわけです。
結果論でしかありませんし、全ての人に同じように言えるわけではありませんが、私に限れば日韓チャットでの経験は、韓国人を観察するスキルを高めるのに、それなりに効能があったのだなあと、当時を振り返り改めて思った次第です。
韓国人が考える韓国人の長所
韓国では、加害者が被害者に対して「ケンチャナヨ(朝鮮語で「大丈夫だよ」「大したことないよ」の意)と言うことがしばしばあると言われておりますが、今回のテロもまさにその状態です。
韓国言論を見ると米国大使に悪かった申し訳なかったという意識よりも、このテロで米大使が韓国を嫌ったり憎んだりはしていない、むしろ韓国を一層愛するようになったと言ってるからケンチャナヨという意識がありありと見えます。
あまりにも「今回のテロはそれほど大した事件じゃない」「テロを受けても米国大使は韓国が大好き」「このテロで米韓関係はより一層強まった」というアピールが露骨なので、「これはもしかして日本人だけに向けた虚勢なのだろうか」とすら思い、英語版と朝鮮語版も見てみたのですが、どちらも日本語版と変わらぬ論調です。
ということは、彼らは限りなく本心から「今回の韓国人による米大使へのテロはケンチャナヨ」と思っているのだなあと、半ば呆れ、半ば納得した次第です。
長年韓国と韓国人をウォッチしていて、彼らのこういう部分には幾度となく接しているわけですが、何度接しても慣れません。その都度律儀に驚いてしまいます。これが「基本的価値観の相違」というものなのでしょう。
さて、今回のテロが起きた5日、朝鮮日報に韓国人に聞いてみた「韓国人の長所は?」という記事が載っておりました。
韓国人に聞いてみた「韓国人の長所は?」 朝鮮日報創刊95周年特集の世論調査で、韓国国民の長所として、勤勉性、忍耐心、人情、団結力、礼儀を挙げる回答が多かった。1995年の韓国ギャラップによる調査と比べると、勤勉性はトップで変わらなかったが、2-3位だった人情、礼儀は順位が下がり、忍耐心と団結力の順位が上昇した。 今回メディアリサーチが実施した調査では、回答者に韓国国民の長所を二つずつ選んでもらった。その結果、勤勉性との回答が41.4%で最も多く、忍耐心(21.5%)、人情(26.6%)、団結力(21.5%)、礼儀(16.8%)が上位に続いた。それ以下は、創意性(14.2%)、責任感(13.7%)、倹約(9.9%)、義理(8.8%)、包容力(3.6%)、平和を愛する(2.5%)、合理性(2.3%)の順だった。 20年前の韓国ギャラップの調査でも、勤勉性(49.8%)がトップだったが、回答比率は8.4ポイント低下した。当時は人情(38.1%)、礼儀(25.2%)、忍耐心(21.6%)などが上位に入った。20年前も最新調査でも「合理性」は最下位だった。 韓国国民の長所をめぐっては、回答者の年齢別でやや見解に差があった。20代と30代は勤勉性に続き、団結力を挙げる回答が多かった。40代と50代は勤勉性が同様にトップだったものの、2位には人情が入った。60代以上では他の世代とは異なり、忍耐心(31.0%)がトップとなり、2位が人情(29.7%)、3位が勤勉性(27.3%)だった。 洪永林(ホン・ヨンリム)記者 |
弊ブログでも、過去に「韓国人の長所」という記事を書いたことがありますが、その時はあまりにも思いつかなくて苦しみました。
今回の調査結果を見ると、韓国人の自己評価では、彼らは勤勉ということになっているようです。
確かに、彼らはある部分では勤勉に見えるところがあります。過去の記事にも書いておりますが、私が日韓チャットに日参していた頃の韓国人中高生は、早朝7時頃から深夜11時頃まで勉強する者が普通でした。また、韓国人労働者の1日当たりの勤務時間は、OECD加盟国の中ではトップクラスだったとかいう話も聞いたことがあります。
ですが、これも過去記事に書きましたが、韓国人中高生が早朝7時頃から深夜11時頃まで勉強すると言うのも、家を出てから家に帰るまでの時間を言ってるだけの話で、その中身がどの程度充実しているかは甚だ疑問です。
それは社会人も全く同様で、勤務時間だけは確かに長いようなのですが、だからと言ってその間中、みっちり仕事に励んでいるわけではありません。勤務中、上司や同僚の目を盗んで日韓チャットに来ていた韓国人は、全く珍しくありませんでしたし、韓国に訪れた際も、勤務中だというのに客を放ったらかして従業員同士のおしゃべりに勤しむ韓国人は、極めて一般的でした。
自分を誠実に振り返れば、自分の勉強姿勢や勤務態度の中身に心当たりがある韓国人が圧倒多数のはずです。しかし彼らが自分で自分を「勤勉」と確信しているということは、彼らが装う上っ面に、彼ら自身も騙されているという証左と言えるでしょう。
これは次点の「人情」についても同様で、彼らは自分たちを「情が厚い」と確信しており、「その点日本人は」と言いたがる傾向が強いのですが、彼らの情の厚さというのは極めて独善的です。それは彼らの「情」とやらが、「相手のため」ではなく、「自分のため」だからです。
ですから「自分のため」にならないと思った時の彼らの非情、冷情っぷりは徹底しております。しかし韓国人には、そういう自分自身は全く見えておりません。
また「忍耐心」については何をか言わんやで、彼らが「カッとなって」「衝動的に」我を失って行動することは全く珍しくなく、それが原因の犯罪も多発していることは、韓国でも問題になっております。
彼らは自分自身を誠実に振り返るということがなく、あらゆる部分を見映えの良い嘘で装い、しかもその嘘を、誰よりも自分自身が信じ込んでいるということは、弊ブログ過去記事においても指摘してきたことですが、この調査結果からもよくわかります。
この調査結果で唯一信頼出来るのは、韓国人が考える韓国人の長所に「誠実」とか「正直」というのが全くあげられていないということだけじゃないかなと思った次第です。
韓国人による米大使襲撃事件に思う
犯人は2010年に日本大使に至近距離からコンクリートの塊を投げつけ、有罪判決を受けた前科のある韓国人でした。
韓国関連で注目を集めるニュースと言うと、だいたい韓国の韓国らしさを浮き彫りにしたものであることが多く、今回も例外ではありません。
今回の事件によって浮き彫りにされた「韓国らしさ」は、幾つかあります。まず韓国人の親テロリズム傾向というのが挙げられるでしょう。
今回の件は、犯人が「(アメリカ大使に)恐怖を与えるつもりだった」と明言していることからも、明らかなテロです。
既に周知の通り、韓国ではテロリストが英雄視されます。今回の事件では、犯人を非難する韓国人も多いのですが、それは犯人が襲った相手が米国大使だったからであって、テロ行為そのものを非難しているわけではありません。それは同時に報じられた過去の日本大使襲撃を、非難するどころか賞賛さえする韓国人が全く珍しくないことからも明白です。
彼らがテロに親しみを持つのは、ひとつには教育が大いに影響していると思われます。何しろ彼らが過去の歴史において「抗日活動」と美化しているものの中にはテロが少なからず含まれており、襲撃相手が大物であればテロ実行犯は民族の英雄とされます。
この過去の歴史におけるテロ行為を、韓国人はテロと認識していないことは、過去にも述べたことがあります。韓国ではテロ行為を「処断」と言い換え、不当だが強大な相手に対する、正当だが無力なウリによる超法規的断罪手段と考えております。
これまでくどいほど述べてきた通り、日本が絶対悪というのは、韓国人にとって議論の必要がない当然の真理です。ですから、日本や日本人に対する如何なるテロ行為も、韓国人にとっては正当な行為となります。
「相手が日本であれば、ウリが行なうテロはテロではなく正当な行為」という意識の根本には、「日本絶対悪」思想があるわけですが、これは「悪」とみなした相手が対象であれば、日本や日本人だけに限定しなくても、容易に成立してしまう思想なのです。
今回のテロはまさにそれが具現化したものと言えるでしょう。
韓国はアメリカと同盟関係にありますが、北朝鮮とアメリカは敵対関係です。即ち北朝鮮においては、日本のみならずアメリカもまた「絶対悪」となっております。今回の事件の犯人は親北朝鮮思想の持ち主とされておりますので(私は北朝鮮の工作員と思っていますが)、犯人にとっては正当且つ英雄的な行動であるという確信の下に行なわれたテロなのでしょう。
こういう親北朝鮮韓国人(≒北朝鮮の工作員)が韓国で普通に堂々と生活出来るというのも、現在の韓国が持つ問題のひとつと言えます。
今回の事件で現れた「韓国人らしさ」は、テロ実行犯だけに留まりません。今回の事件に対する韓国人の反応からも、韓国人らしさは溢れ出ています。
韓国人の反応と一言で言っても、もちろん一律ではありません。しかしその行動の根源は、概ね一律です。
私は今回の件を、韓国人全般にある性向が原因と考えておりますが、同じように考える韓国人は極めて稀でしょう。ほとんどの韓国人は、今回のテロリストを非難したり、アメリカ大使に謝罪の意を示したりしているようですが、それらの行為の動機は、「ウリには罪も責任もない」ということを強調したいだけだったりします。
そのためには、今回のテロリストを「ウリ」から弾き出すか、あるいは「ウリ」もまたテロリストの被害者であることを示す必要があります。韓国人が憤ったりアメリカ大使に謝罪の意を示したりしているのは、「テロリストはウリではない」ということや、「ウリもテロリストの被害者である」ということをアピールするためでしかありません。
それは、被害に遭った米国大使が韓国人に好意的なコメントを発表するや、韓国人が大喜びに喜んでいることからも明白です。もし韓国人たちが自分たちを加害者側と思っていれば、被害者当人からの寛大な発言に、普通は恐縮するものです。
それでも、今回の記憶がある間は、韓国人も韓国人なりに多少は恐縮するでしょう。普段はテロを正当で英雄的な行為だと思っている韓国人も、当分の間はテロリズムに対し批判的な意見を口走ったりするかもしれません。
しかし、テロがいわば「ウリ」の正当な権利であるという意識は、そう簡単に消え去りません。むしろ今回の如き「韓国人が非難されるような事件」の記憶の方が、速やかに消え去るでしょう(実際、あれほど大騒ぎしたセウォル号事件すら、彼らは既に忘れかけています)。
彼らは「歴史を忘れた民族に未来はない」などと嘯きますが、文字でしか残っていない歴史どころか、それが自分たちにとって不名誉なものであれば、自分たちが実際にリアルタイムで見聞きした事件の記憶さえ可及的速やかに忘れ去るということに、今からでも気づいた方が良いのではないかと思いますが、それもまた彼らには無理な注文なのかもしれません。
一歩前進した日韓関係
弊ブログではかねてより韓国に対する「基本的価値観を共有する重要な隣国」という表現を、我が国の韓国に対するリップサービスであり、特別扱いの象徴であると指摘してきました。それが削除されたということは、いよいよ日本政府内の韓国に対する基本概念が微妙に、しかし確実に変化しつつあると分析して良いということでしょう。
実際に、外務省が平成27年2月付で作成した「最近の日韓関係」という資料(※pdf注意)を見ると、表紙に「日韓国交正常化50周年」「共に開こう新たな未来を」というロゴを掲げており、また「日韓関係の基本的考え方」において「最も重要な隣国」→「重層的・未来思考的な協力関係」という見出しにおいても、「良好な日韓関係がアジア太平洋地域の平和と安定に不可欠であり、大局的な観点から、政治・経済・文化の各分野で、重層的で未来志向の協力を進めることが重要」と謳いながらも、その後の内容を見ると(これまでの日本政府の態度と比較すれば)韓国に対し極めて冷たく厳しいものになっております。
こういった日本政府の態度に韓国側は珍しく(少なくとも表面上は)興奮することもなく、比較的慎重な態度を取っております。
何しろこのところの日韓関係を振り返れば、日本の韓国に対する冷遇は、甚だしいものがあります。このところの韓国経済の悪化も、日本の対韓姿勢と全く無関係とは言えません。それを踏まえれば、いくら韓国が空気を読めないと言っても、さすがに今までのような横柄な態度は取れないのでしょう。
これまでなら、韓国がどんなワガママを言ってもどんな無体を働いても、日本側は狼狽と苦笑いで許してきました。日本が韓国に何らかの形で制裁や報復をするということも、全くと言って良いほどありませんでした。
これまでの日本のそういう態度を、韓国が当然と思っていたことは間違いありません。ですから彼らは、日本のそういう「優しい対応」に感謝も評価もせず、更にそれ以上の優遇を求め、仮に日本が「それ以上」の対応を行なっても、韓国は「言われなきゃ出来ないのか」という態度でしたし、もし「それ以上」の対応を行なわなければ、日本に対し憤ったりバカにしたり非難するのが常でした。
しかし今回は、(嫌韓的には不十分ではありますが)日本側が韓国を突き放すような態度を見せ、韓国側も従来のような身の程知らずの反応を(とりあえず今のところは)見せていません。
まことに安倍政権になってからというもの、日本の対韓姿勢は良化の一途です。
2013年12月3日付の記事で、「何故日本政府は、韓国を切り捨てないのか」という記事を書きました。その記事では、「日本国民の態度が親韓的に見えるから、日本政府の対韓姿勢も親韓的なのだ」という意味のことを書きました。
それから1年余り、わずかずつとは言え明らかに日本政府の対韓姿勢は着実に前進しつつあります。それは、日本国民の対韓コンセンサスがかなりの早さで浸透し、且つそのことを日本政府も把握していることを示していると考えて良いでしょう。
もちろん道程はまだまだ長いものになりますし、日本国内の嫌韓勢力が少しでも緩みを見せれば、日本国内及び海外の親韓勢力はすかさず巻き返しを図るでしょう。
いわば今の段階は、日本にとって望ましい日韓関係の実現に向けた千里の道を一歩踏み出しただけです。この一歩がただの一歩で終わるのか、それとも今後の日韓関係における偉大な一歩となるのかは、私たち日本国民の意識と行動にかかっています。
今後も、私たち日本国民がより一層の韓国理解を進め、それに日本政府がしっかり応えることで、日本にとって望ましい日韓関係が実現することを心より願う次第です。
韓国の反日特異日有効活用の提案
と言っても、もはや韓国における反日は既に韓国の大気同然となっており、韓国言論が煽り大統領が演説してやっと「ああ、そう言えば日本は絶対悪だったな」と再確認される程度で、殊更に反日意識を掻き立てられるわけでもないようです。
これまで何度も述べてきたことですが、韓国人の主観においては、韓国人は反日ではありません。子供のように聞き分けがなく残虐で粗暴で狡猾な日本を、厳しく教え諭し導く優れた教師というのが、韓国人の対日主観です。
しかし実際には、子供のように聞き分けがなく残虐で粗暴で狡猾なのは韓国の方であり、日本はこれまでそれに極めて寛容に接してきました。韓国はそれを良いことに、日本と向き合う時は脅しすかし泣き落としとあの手この手で無理を通して道理を押し込めてきました。
それを許していたのは「いつかは韓国もわかってくれる」「韓国がわかってくれさえすれば、日韓の何もかもが全て良くなる」という、何の根拠もない日本側の期待でした。
しかし日本が韓国の言うことを聞けば聞くほど、韓国は増長し、更なる無理難題を押し付けてきます。日本が譲歩すれば、それに感謝するどころか、日本の譲歩を少ないと憤り、あるいは罵倒する始末です。
その態度が反日だという自覚は、韓国人にはほとんどありません。日本は絶対悪であり、韓国は絶対善ですから、日本の主張を遮り、韓国の主張に従わせることは、善を勧め悪を懲らしめることであり、どれほどやってもやり過ぎるということはないというのが、韓国人の主観なのです。
しかし日本人から見れば「日本は絶対悪」という意識そのものが既に反日です。日本人が韓国に無関心だった頃は、当然韓国の反日にも無関心でした。しかし韓国が国を挙げて仕掛けた韓流ブームによって、日本人の視線が韓国に向けられるようになると、韓国の反日も自然に目に入るようになりました。
「日本絶対悪」という韓国人の意識は、さほど強くなければ日本人の謙遜癖と共鳴しやすいという部分はあったでしょう。しかし日本人の謙遜が自虐のレベルにまで達しても、韓国の「日本絶対悪」の意識は強まる一方でした。日本人の自虐あるいは寛容の限界を超えたのが、2012年の李明博前韓国大統領による天皇陛下侮蔑発言と竹島不法上陸の報でした。
結果、日本では韓国の反日を投影した形で、嫌韓が爆発的に広がります。韓国について徹底的に調べ、詳細に知った上での嫌韓ももちろん少なくありませんが、「なんだかよくわからないけど韓国気に入らねえ」「とりあえず韓国をバカにするのがオモロイ」という嫌韓厨と呼ばれる人々も増えました。それが韓国に伝わり、また新たな反応が生じます。それを「卑日」と名付けた人もいるようです。
この現象は、一般的には悪循環と言えるでしょう。日本が韓国の反日を投影して嫌韓化し、嫌韓化した日本に韓国が反応して、反日を超えた「卑日」となる。もし「卑日」とやらが韓国に定着して激化すれば、日本の嫌韓も恐らく更に激しく強くなり、拡大されることでしょう。
ただ個人的には、この「卑日」と呼ばれる現象も所詮反日の一部と言うか、副反応と言うか、いずれにしても「卑日」だけで独立して固定化されるということはないと考えています。
何故なら、「卑日」を固定化するためには、日本より韓国の方がどこから見ても誰から見ても強大でなければならないからです。
「卑日」の解説の中にもありましたが、かつての韓国人はどんなに日本を罵り、日本に反発していても、どこかで日本には勝てない敵わないという意識がありました。それが韓国の反日の主流でした。それに対し最近の韓国における「卑日」には、もはや日本など恐れるに足らぬという意識があると言われています。しかし、それは「最近の韓国の若者」の考えでしょう。
「最近の韓国の若者」にそういう意識があるのは、別につい最近の話ではありません。私が日韓チャットを始めた2002年頃には既に顕著でした。それは恐らく、韓国の学校ではそのような教育が行なわれているからでしょう。
日本がすごいということは、韓国の大人ならよく知っています。日帝時代を経験した老人ならば、更に実体験として理解していますし、日帝時代を経験していない韓国人であっても、日本と取引のある会社に勤める者ならば、ある程度理解しているでしょう。
しかし韓国人の情緒として、「日本のすごさ」を認めることは出来ません。たとえ自分自身は認めざるを得ないことを理解していても、それを子供にも伝えることは出来ません。それは自分が精神的に日本に屈したということを、子供に知らせることと同義だからです。
従って、日本の凄さ素晴らしさを知る韓国人ほど、韓国人の子供にそのことを伝えたがりません。逆に、子供たちには「日本なにするものぞ」という意識を叩き込むことで、自分が日本に精神的に屈したことを取り戻そうとします。
そうでなくても子供や若者というのは、経験の浅さから自分の限界や他者の凄さというものを知ることが出来ません。
結果、韓国の子供や若者は「日本なんか大したことない」「日本になんか負けるわけがない」という意識を持つようになります。「卑日」で解説されている現象は、そういうことだと私は考えています。
日本がどこまでも韓国に甘ければ、彼らの「卑日」に迎合することもあったかもしれません。実際、韓流捏風盛んだった数年前には「韓国に見習え」と声高に言う日本人がそこそこいました。それを見た韓国人が「やっぱり日本はウリの下だ」思うようになっても、無理はありません。
しかし現実は非情です。日本がどれほど韓国に謙ろうと迎合しようと、否、日本が韓国に謙り迎合すればするほど、日韓の力の差は大きくなります。
スポーツでも、力のある選手が「自分はまだまだだ」と思って努力すれば、更に記録を伸ばすことが出来ますが、力はそれほどでもないのに、好条件が重なって奇跡的に良い記録を叩き出しただけの選手が、そのことで「ウリはすごい選手なのだ」と思い上がってしまえば、その選手がそれ以上伸びることはないでしょう。
日韓もまさにそれと同じで、日本人はいつまでもどこまでも「日本はダメだ」「日本はまだまだだ」と努力を続けようとしますが、韓国人は「ウリナラ最高!」と思うとすぐに努力をやめてしまいます。そもそも彼らは、「真っ当な努力」が大嫌いということもあります。
そういう意味で日本にとって韓国の「卑日」は、実は歓迎すべき現象です。ただし、それは日本と韓国が距離を置くという条件が必須になります。かつての日韓友好論のように、「日本と韓国は運命共同体ニダ」などということになれば、日本にとっての「反日」や「卑日」「侮日」の韓国は、妖怪子泣き爺のように日本の背中にしがみつき、泣き喚いて重荷になるだけの存在になってしまいます。
日本は、韓国と距離さえ置けば韓国が反日でも卑日でも侮日でも気にする必要は全くありません。むしろ日本にとってそれらは歓迎すべきことです。それよりも日本が警戒すべきは、親日や用日と呼ばれる態度の方でしょう。
いずれにしても、韓国が韓国である限り、彼らの対日態度がどのように変化しようとも、彼らが日本の益になることはありません。
ならば交流を持つことでほだされる日本人が出てくるのを防ぐためにも、日本は韓国と可能な限りの接触を持たないように努めるべきでしょう。
韓国の反日特異日は、先に述べたとおり昨今の韓国ではさほどの意味を持ちません。しかし逆に日本側から、三一節を始めとして年にいくつかある韓国の反日特異日を「だから日本と韓国とは付き合うべきではないのだ」という理解を周知させるための材料として活用してはどうかと思った今年の三一節でした。