韓国を反面教師とするならば
さて、今月26日に韓国を訪れていた潘基文国連事務総長が、記者会見において日本を名指しで批判するという、国連事務総長の立場ではあるまじき発言をしたということで物議を醸しております(ちなみに韓国では、国連事務総長を「世界大統領」と呼び、韓国の大統領が韓国において強大な権限を持っているのと同じように、国際社会に対して強大な権限を行使出来る立場と考えられております)。
潘基文にその真意を問うたところ、「誤解です、理解してください」と釈明したとの由。この「誤解です、理解してください」というフレーズは、日韓チャットの韓国子供が失言を問い詰められた際に用いる弁解の決まり文句でしたが、国連の事務総長にまでなった韓国人でも、日韓チャットの韓国子供と異なるところが全くありません。
彼らの発言について、呆れることはあっても驚くことはそうありませんが、彼らの均質性の高さだけは、痛いほどわかっていてもつい驚いてしまいます。
もちろん、潘基文の何もかもが日韓チャットの韓国子供と全く同じでは、いくら立ち回りが上手くても国連事務総長にまでなることは出来ないでしょう。いくら国連事務総長が後進国から選出される習わしといえども、選出される人物に対しては、それなりの学識と経験に加えて、国際的に通用する思考と常識の持ち主であることが当然に求められるはずです。
おそらくですが、潘基文と接したことのある外国人は、彼を国際人として通用する人物と評価した人が多いのではないかと思います。私たちが接する可能性のある韓国人も、全て例外なく潘基文と同様と考える方が間違いないでしょう。外国人と直に話している間は国際的思考とバランス感覚に優れた伝説の稀少種に思えても、韓国社会に舞い戻った途端、彼らは全く普通の韓国人に戻るのです。
今回の潘基文の韓国における行動と発言は、まさにそれを証明することになりました。
もっとも、わざわざ潘基文を引き合いに出さずとも、韓国が国として言うこととやること、韓国人が公に言うこととやることを冷静且つ客観的に見ていれば、そんなことはとっくの昔にわかっていたことではあります。
ですが、日本人は自虐史観に染め上げられている人が多く、そのために自国を貶めることには極めて鈍感で、他国を責めることには果てしなく慎重です。殊に「日本が過去に迷惑を掛けた」とされる特亞に関しては、慎重を通り越して神経質になっているほどです。
そのせいか、これまでは何があっても、何を言われてもやられても、とにかく日本が悪かったと言い、ひたすら謝り、賠償することが最善だと考えているのは特亞人だけではありません。むしろ日本人にそう思うべきと考えている人が少なくないということに特亞人、ことに韓国人が付け込んでいるというのが、実際ではないでしょうか。
そのせいで韓国を見る目にフィルターがかかり、韓国の言うことやることに疑問を感じることがあっても決して口には出さず、全て無理矢理にでも良いように解釈していたのが、これまでの日本でした。
そういう日本の他尊自虐は、韓国が自国の悪いところは何もかも他国、殊に日本のせいにし、自国の良いところはパクってでも捏造してでもウリナラマンセするのと、裏表がひっくり返っているだけで同じようなものです。
つまり日本の行き過ぎた自虐は、韓国の行き過ぎた自尊と、同じようなものと言っても良いでしょう。日本と韓国は、真逆なことが少なくありませんが、こういうところも真逆なのです。
自国のことで、反省すべきことを反省するのは良いとしても、良いところは良いと素直に感じ、誇るべきは率直に誇るべきです。同様に、他国の良いところを良いと素直に認めることが悪いこととは思いませんが、それと同時に他国の悪いところは悪いと率直に言えるのでなければ、他国から侮られ馬鹿にされることはあっても、尊重されることはないでしょう。
実際、戦後日本のこれまでを振り返って「他国から侮られ馬鹿にされることはあっても、尊重されることはない」ということに思い当たる方は多いはずです。
戦後日本は韓国を、防共の砦として、あるいはアメリカを介した間接同盟国として、更には価値観を共有する隣国として評価し、重要視し、厚遇してきました。ですがそれら全てがただの名目となっただけではなく、日本に対する露骨な背信行為や敵対行為を韓国が行なうようになってきたことを鑑みれば、日本にとっての韓国の存在価値など、ないと言っても過言ではありません。そのことに日本人が気づき始めたが故の、昨今の日韓断交論の台頭なのでしょう。
ともあれ、日本から見た韓国の存在価値がもしあるとすれば、それはただひとつ、「反面教師」だけではないでしょうか。
そしてもし韓国を反面教師とするならば、韓国の行き過ぎた自尊を見て改めるべきは、日本の行き過ぎた自虐であるということを、声を大にして言いたいと思います。
厄介な国、韓国
知り始めてからしばらくのうちは、結構面白いのです。何故なら、日本によく似ている部分が多いからです。何も知らない間は、アレも似てるコレも似てると面白くてしかたがありません。ここら辺りで、第一の罠が仕掛けられているのですが、何も知らない間はもちろんそんなことに気づきもせずに、嬉々としてウォーリーを探すでしょう。
ここで仕掛けられている第一の罠とは、お察しの方もいらっしゃると思いますが、「韓国起源説」です。「日本のものとそっくりなものが韓国にもある」となると、それだけで韓国に親しみを感じてしまう日本人は多いのですが、同時に何故か無条件に「それは韓国が起源だからだ」と思い込む日本人も一般的です。
「韓国にある、日本とよく似た文化」について当の韓国人に聞くと、躊躇なく韓国のものだと言われるからかもしれません。では逆に、日本に韓国のものとそっくりの文化があればどうかと言えば、これまた当然のように韓国が起源だと思う日本人は多いのです。
ですが前回記事でも述べたとおり、実は韓国には日本文化の影響を受けたものが少なくありません。日本人は、日本独自文化であっても、その源は海外から渡来したものだと言うことも言われることにもさほど抵抗がありません。対する韓国人は、韓国のものが「ウリのものでないこと」に、絶対に耐えられません。
日韓はそういうところが、悪い意味で共鳴してしまうのです。そのため日本人も韓国人も、日本にあるものも韓国にあるものも何でも韓国起源にしてしまい勝ちですが、そう言われているもの中には、日本の文化が韓国に流れたものではないかと思われるものもちょくちょくあります。日本における嫌韓の台頭で、何でもかんでも韓国起源という主張に対する視線はかなり厳しくはなりましたが、いまだにそういう考え方に固執する日本人も、決して珍しくはありません。
韓国をある程度知るようになれば、そういう「何でもかんでも韓国起源」という主張に対抗することが出来るようになります。これも最初のうちはそれなりに楽しいのですが、やがて飽きてきます。何しろ韓国は薄くて浅くて上っ面ですし、韓国起源説を主張する韓国人は、皆判で押して鋳型で抜いた連中ばかりです。
ある程度場数を踏めば、たいていの日本人は連中の主張のパターンが読めるようになります。そうなれば、シナリオを読んでから映画を見るようなもので、一度目は面白いかもしれませんが、芝居の興行でもあるまいに、二度三度どころか十も二十も同じ口上を繰り返させられるようになれば、大抵うんざりします。これが、韓国を知ることで嵌まる第二の罠かもしれません。
そうこう言いながらそのうち、自分たちが知り得た対韓国人戦略というものを、日本人同士で共有するようになります。これは日韓チャットでもそうでしたが、日韓翻訳掲示板でも同様でした。
日本人は誰が言うともなく自分が知り得た知識や経験、集めた資料を見せ合い、整理し、共有します。対する韓国人はと言えば、その場で団結することはあっても、ブラウザを閉じてしまえばそれっきりです。稀に、日本人に対抗するべくいろいろ調べたり議論する韓国人も皆無ではありませんが、そういう韓国人たちが寄り集まり、一致協力して意見や資料を持ち合い、対策を練り、共有しようとしたことは少なくとも日韓チャットでは皆無でした。
今、WANKの何のと時々韓国人がわだかまってサイトを作ったりスパムメールを送りつけたりして情報発信しているようですが、それらは全て我田引水と自画自賛ばかりです。
韓国人は基本的に、既に存在する「お手本」に従って迅速に「模範解答」に達することを最上とします。そのためか、「自分で考え、知りたいことに関する資料を探し、該当する箇所を読み解き、自分なりの結論を得、それを持ち寄り議論する」という作業が大変に苦手なのです。この傾向は、日韓歴史共同研究に参加されていた筑波大学の古田博司教授も指摘されています。
それなりに真面目に調べ、考え、議論するという経験を重ねた日本人ならば、その辺の韓国人ではまず歯が立ちません。そういう日本人が束になっててぐすね引いているのが、日韓チャットや日韓翻訳掲示板というところでした。
そうやって韓国人を地味に地道に撃破していると、ある時日本人(と思しき人物)がやってきて、私たちが韓国人を血祭りにあげてるのを見て非難します。あるいは、既に結論の出た話を蒸し返します。
私は日本人だろうと韓国人だろうと、基本的に等しく接します。即ち、たとえ日本人と名乗り、事実そうであったとしても、朝鮮人のような真似をする者には朝鮮人に接するように接します。ですが、全ての日本人がそうではありません。中には、朝鮮人のような真似をすると言っても、日本人なら話が通じるだろうと信じて、親切丁寧に説明を試みる人もいます。
しかし、その親切が実を結ぶ例は稀です。逆に、その親切故に侮られたり、一度結論の出た議論を、同じ材料で繰り返させられる羽目になるばかりです(何しろ相手は「朝鮮人のような真似をする者」ですから)。出るのが同じ結論とわかっていて繰り返す議論ほど、神経を消耗するものはありません。これもまた、罠のひとつと言って良いでしょう。
これらの罠を掻い潜り、首尾よく生き残ったとしても、得られるのは「嫌韓」という称号です。「嫌韓」が良いとか悪いということではなく、与えられた称号に付いている「韓」の字が疎ましいのです。ですから逆にこれが「親韓」であっても同じことです。嫌おうと親しもうと、韓国なんかに関わりあって、意識しているという時点で何かに負けてるような気にならなくもありません。
何度も申し上げますが、韓国関連は薄くて浅くて上っ面ですから、ある程度掘り下げてしまえばたちまち底を打ちます。そのせいか好悪に関わらず韓国に対する関心を維持するのは、極めて難しいのです。その上、韓国関連には前述したとおりいくつもの罠が仕掛けられています。それらを乗り越え掻い潜っても、得られるものが到底褒賞とは言いがたいものなのです。
だからと言って、日本人が韓国のことをきれいさっぱり忘れ去り、警戒さえしなくなればどうなるかということまで知ってしまった以上、無関心に戻ることも出来ません。
まことに日本人にとって韓国という国は、厄介と言うほかない国であると、しみじみ思う次第です。
韓国に残る日本文化を見るツアー
韓国は、時々発作のように日帝残滓排斥を叫んでいますが、韓国における日本文化は、日韓併合時代のものばかりとは限りません。日韓併合以前も以後も、韓国は絶えず弛まず大量に日本の文化を取り込んでいます。もはや韓国は、日本の文化無しでは成立し得ないと言っても過言ではありません。
韓国人は不思議な生き物で、日本が文化を「教えてやった」とか「授けてやった」とか「伝えてやった」と言うと一瞬で逆上しますが、自分たちで日本から文化を「盗んでやった」とか「奪ってやった」とか「騙し取ってやった」と言うのは良いようです。そうでなければ、「その文化は本当はウリナラ起源なのに、チョッパリが盗んで日本文化のように宣伝したのだ」とか「昔、ウリご先祖さまがチョッパリに教えてやったのだ」と、主客を逆転させて言う例も珍しくありません。
いずれにしても、韓国の日本文化というものは非常にたくさんあります。これは、韓国の観光資源になり得るのではないでしょうか。
以前、韓国におけるコピー商品を探せというテーマでの観光を提案したことがありますが、今回は韓国に根付く日本文化を見るというテーマの観光旅行を提案したいと思います。
この逆の、「日本に残る朝鮮半島文化を見る」がテーマの観光旅行は、実は韓国人の日本旅行のテーマのひとつとして成立しています。概ね修学旅行としてですが、もちろん「ウリご先祖さまが未開で野蛮な島国日本にウリ文化を教え授けてやった」という趣旨で行なわれています。
しかしその逆の「韓国に残る日本文化」がテーマの観光旅行は、少なくとも私は一度も見たことがありません。これは日本人向けの韓国旅行のテーマとしては、全くの手つかずの分野ではないでしょうか。
日本はもともと、海外からの文化を受け入れ、消化吸収し、以て自文化と成すのが得意です。ある意味、それこそが日本文化の真髄であると私は考えています。古来、日本にはさまざまな国の文化が渡り越しました。日本が、最も近くで発達した中華文明から多大な影響を受けたことは、如何なる嫌中日本人でも認めざるを得ないところでしょうけれど、中国以外の国の文化であっても、良いと思ったものであれば躊躇なく取り入れてきました。また、それをよく保存し、外国人に見せることにもほとんど抵抗がありません。
韓国人は、二言目には日本に文化を教えてやったと言いますが、よく言われているようにそのほとんどは、中国文化をほぼそのまま伝えたものです。そもそもが、朝鮮は自他共に中国の一地方という意識であったでしょう。ですから中国がアジア的停滞に陥ると、朝鮮も必然的にそれに従うことになりました。
それは日本が朝鮮を併合するまで続きました。1910年に日本は朝鮮を併合し、精力的にその開発に勤しみました。それまで中国のアジア的停滞に倣い、停滞を通り越して退廃していた朝鮮にとって日本文化の襲来は、凄まじい衝撃であったでしょう。
ですがそれは、今の韓国人が怒りと憤りをもって訴えるような痛みや辱めを伴うものではなかったと私は断言します。だからこそわずか35年余りで、多くの日本文化が朝鮮に根付き、今も息づいているのです。しかも日本の統治が終わった後も、韓国人たちは法で禁じ、あるいは強く規制されていたにも関わらず、日本文化を貪欲に欲し、盗み、取り込んでいたのです。
それらは今も、韓国の至るところで見られます。極端なものでは、もはや韓国人自身にも、それが日本由来の文化であるとは認識出来ないほどにまでなっており、韓国人がどれほど倭色排斥と叫んでも、血肉どころか骨の髄に達して、決して抜き去ることは出来ません。
日本人なら誰でも、何らの予備知識が無くとも、初めて韓国を訪れた時に「ちょっと昔(今から20年ぐらい前)の日本のようだ」という印象を受けるでしょう。それほどまでに、韓国は日本文化の影響を強く色濃く受けているのです。
韓国人が真剣に日韓友好を目指しているのであれば、自分たちが韓国に伝わる日本文化に親しみ、それらを愛し、一所懸命残そうとしていることを日本人にアピールするはずです。事実、日本はそうしておりますし、どんなに嫌韓が台頭しようとも、日本に残る朝鮮文化の痕跡をことごとく消し去ろうとする者はほとんどいません。仮にいても、圧倒的少数派でしょう。
ところが韓国では、日本文化を「日帝残滓」とか「倭色」と蔑んで呼び、否定し、消し去ろうとします。実際に韓国では極めて多くの日本文化が破壊され、なかったことにされております。
それでも彼らの社会に日本文化やその痕跡は根強く色濃く残っております。それは、韓国人のねじれた対日感情を象徴するものであると言って良いでしょう。それらを日本人が見ることで、韓国人のねじれた対日感情を理解とまではいかずとも感じ取ることは出来るのではないでしょうか。
少なくとも、現在主流の「韓国人の自己満足のためのウリナラマンセツアー」に引きずり回されるよりは、よっぽど面白いはずです。
もっとも、あらかじめ韓国のことをよく知っておかなければ、中には「こんなに韓国人は日本の文化を愛してくれているのだから、日本人ももっと韓国人を許容しよう」なんて勘違いを言い出す日本人が出てきかねないところが、諸刃の剣になるかもしれませんが。
韓国人の言うことをスルーするためのリテラシーを
その目的は、ひとつには以前言った通り、「わかっていない人」を揺さぶることにあります。議論や討論は、終わらない限り結論は出せません。つまりどんなに無茶苦茶な主張であっても、それを出し続けて議論や討論を続ける限り、自分の主張が退けられることはありません。その間、ギャラリーの中にいるであろう「わかっていない人」に自らの主張を聞かせることで、「わかっていない人」を自分の主張に取り込む期待は、大いに持てます。
もうひとつの目的は、相手に異議や反論の手間を掛けさせることでしょう。しかも以前言った通り、韓国人は同じ手を何度でも繰り返します。既に結論が出たことであっても論破されたことであっても、何度でも平然と蒸し返します。相手がそれにうんざりして反応しなくなればしめたものです。「相手を黙らせることが出来た」=「相手が納得した」、あるいは「相手を論破した」ということに出来ます。
韓国人のこの手法は、案外馬鹿にしたものではありません。特に、日本人のように万事「穏便に」とか、「丸く治まるように」と考える相手にこの手は、非常に有効です。韓国人が騒げば騒ぐほど、興奮すればするほど、相手はうろたえ、どうにかして韓国人を落ち着かせよう穏便に済ませようと、いくらでも譲歩してくるからです。
実際、今まで日本はこの手で何度も韓国に振り回されています。河野談話もそうです。竹島問題もそうです。日韓間に存在する懸案において、韓国がそういう手を使わなかった例の方が少ないでしょう。
韓国人の言うことなどスルーすれば良いという意見は、韓国ウォッチをしていれば必ず出てきます。
確かに、韓国人の言うことにいちいち耳を傾けることは、大変なストレスを伴う割に、得るものはわずかです。韓国人の言うことを全ての人がスルー出来れば、それが一番良いと思わぬでもありません。
問題は、「韓国人の言うことを全ての人がスルーする」ということが不可能ということです。特に、韓国人のことを知らない人ほど、韓国人の言ってることを真面目に聞いてしまうでしょう。韓国人のことを知らない人は、「何故韓国人の言うことをスルーしなければならないのか」ということも知らないのですから。
そうなれば、「韓国人の言うことをスルーする」のは、韓国人のことを知ってる人ばかりになります。ある意味、韓国人と論戦出来る能力を持つ人ばかりが議論から離脱し、韓国のことを何も知らぬが故に韓国人に軽々丸め込まれる人ばかりが、「韓国人の言うこと」に耳を傾けることになります。
つまり「韓国人の言うことなどスルーしろ」と言うのは、「韓国人と議論する能力のある者は、韓国人との議論に参加するな」と言うに等しいと言って良いでしょう。
韓国人とはどういう生き物か、彼らがどういう戦いを仕掛けてくるのかを十分熟知した上で、それをかわすのであれば良いのですが、韓国人という生き物を知らず、当然彼らの仕掛ける戦いがどのようなものかも知らない者に、彼らの攻撃をかわせとアドバイスして議論の前線に放り出す行為は、利敵行為としてでなければ何のつもりなのか問いたいものです。
韓国人の言うことをスルーするために、韓国人が何を言ってるのかを知れと言うのは、矛盾しているように聞こえるかもしれません。ですが人間、知らないことは想像出来ないものです。韓国人がどういう生き物で、どのような思考回路を持ち、どんなことを言うのかを知らない人は、韓国人も日本人と同じで、同じように考え、同じように話すと無意識で思ってしまうでしょう。
そうではないのだということを知らなければ、何故韓国人の言うことなんかスルーしろという意見が出てくるのかもわかりません。わからないまま、永遠に韓国人の言うことをスルー出来る日本人が、どれだけいるででしょうか。韓国人側は、飽きることなく何度でも同じ手を繰り出してきては、「わかっていない人」を取り込もうとしているのに。
韓国人をスルーするためには、韓国人がどう考え、どういうことを言うのかをよく知っておかなければなりません。弊ブログには、朝鮮人のような真似をする人々が度々茶々を入れに来ますが、それは弊ブログが、朝鮮人のような真似をする人々にとって不都合であるからという証左でしょう。
という訳で弊ブログは、本記事だけではなくコメント欄も含めてご覧になることで、韓国人をスルー出来るリテラシーを習得する一助となれると確信する次第であります。
日本で韓国関連の報道が増えた訳
結論から言えば、私も増えていると思います。理由は、日本の既存報道機関による、韓国に関するネガティブな報道に対する強い【自粛】が大きく緩んだからでしょう。
韓国に関するネガティブな情報は、以前は極めて強く【自粛】されておりました。例えば現在の日韓関係悪化の引鉄となった李明博前韓国大統領による天皇陛下侮辱発言ですが、韓国ではあの手の発言は全く珍しいことでも目新しいことでもありません。
韓国大統領が公言したのは歴代で初めてかもしれませんが、韓国の政治家や知識人とされる人々の間では、少なくとも20年前ぐらいから普通に言われていたことです。ただそれが、日本にはほとんど知らされていなかっただけなのです。
報道は、「報道の自由」を錦の御旗に、その任をもってある種の特権階級にのし上がりました。司法立法行政の三権に続く、第四の権力とまで言われるのは、国民に対し、他の三権に匹敵する影響力を持ち得るからだといいます。
その「第四府」が、「報道しない自由」などと嘯いて、国民に対し恣意的な情報操作を行なうのであれば、国民は報道を信じることが出来なくなります。
韓国に関して、日本の既存報道機関は長らく「報道しない自由」を行使してきました。その結果、日本の国民は長く騙され、日本は国の行く末を誤りかけました。
韓国の仕掛けた韓流捏風や、韓国のゴリ押しで日韓共催となった2002年のサッカーワールドカップのおかげで、日本人の目は否応もなく韓国に向けさせられ、見ようと思わなくても韓国を見せつけられる羽目になりました。
その頃韓国が狙い、日本の既存報道機関が煽った日韓友好は、韓国を十分に満足させるほどではなかったにせよ、一定の効果を上げたであろうことは、また一面の事実でもありましょう。ですがそれと同じ程度に、「韓国に関する報道は何かおかしいぞ」と思ったり感じたりするようになった日本人も少なからずいたのではないでしょうか。
日本で韓流捏風を演出する日韓メディアに乗せられた日本人も少なくありませんでしたが、韓国関連情報の偏りに疑問と不信を抱く日本人も、静かに、しかし確実に増えました。
日本と韓国は、距離的には大変近い国です。その上日本には、在日という韓国・朝鮮人がうじゃうじゃいます。また昔から日本には一定の親韓日本人がおり、韓国関連の書物には事欠きません。その気になれば、特に何の力も持たない一般人でも、韓国を訪れ、あるいは韓国と韓国人について知る機会はを得ることは、さほど困難なことではありません。
当時日本の報道機関が報じる韓国像や、韓国が国を挙げて宣伝する韓流捏風と、一般人が地味に集め得た韓国情報との間には大きな乖離がありました。これがネットのない時代であれば、一般人が地味に集めた韓国情報などは、一部の物好きの間で同人的に共有される程度であったでしょう。
ですが、時代は既にネットがインフラのひとつとして広く定着しつつある時代に入っていました。地味に、静かに増えた「韓流捏風に疑問と不信を抱く日本人」による韓国情報は、ネットを介してやはり地味に、静かに広まっていきました。
最初の内は、日本の報道機関も韓国政府も、その勢力を激しく侮っていたでしょう。
ところがやがて、それらの勢力はネットの中ばかりではなく、ネットを飛び出して現実社会で発言するようにまでなったのです。そうなると、日本の報道機関による韓国情報と、一般人が地味に集め、共有するべく発信している情報との間の乖離があらわになります。
つまり、既存の報道機関が韓国に関する情報を恣意的に取捨選択し、「報道しない自由」を謳歌していることが、ここ数年で明らかになってきたのです。
報道機関が恣意的な情報操作を行ない、それを自らの権利として主張することに躊躇がないのであれば、誰がその報道機関の報じることを信じるでしょうか。まさに報道の自殺行為です。
最初は、自らを第四の権力を握るものとして思い上がり、ネットで地味に発信する一般人の勢力を侮っていた報道機関も、ネット勢力が徐々に存在感を増すに従って、そこで発信される情報を無視することが出来なくなりました。その結果として、それまでポジティブなものばかりを選んで報じていた既存の報道機関による韓国情報が、ネガティブなものも含むようになり、総合的に韓国関連情報が増加したのでしょう。
何の力も持たないネット勢力が、何故存在感を増すようになったのでしょうか。何故第四の権力とまで呼ばれる報道が、無名の人々の発言を無視出来なくなったのでしょうか。
答えは単純です。全ては【事実】の力としか言いようがありません。
ネット勢力の人々は、無名であり無力ですが、その分何の見返りも求めず、誠実に自らが知り得た【事実】を発信しました。情報を受け取る方も、操作され、意見誘導を狙った情報よりは、誠実な【事実】を強く欲したのです。
報道が「第四の権力」であるとしても、その「権力」は日本国民のために用いられるべきものであって、報道機関自身や、韓国という外国のためなどに用いられて良いものではありません。それを忘れた「第四府」などを、日本国民は必要としていないのです。
既存の報道機関から「便所の落書き」などと謗られ侮られたネット勢力ですが、誰が発信しようとも【事実】は事実です。「第四府」が【事実】の誠実な発信という責務を放棄するのであれば、国民は「第四府」が侮り貶めた「便所の落書き」の方に信憑性を見出すようになるでしょう。
何度でも同じ手を繰り出す韓国式工作
明日は終戦記念日ということで、韓国では5割増しぐらいで反日気運が高まる日でもあり、ウリナラチラシこと韓国言論はこのところの日韓関係の鬱憤を込めて、既にその手の主張を展開しているようです。
さて前回記事に「多面的外交希望!」と題する珍妙なコメントが入っておりましたが、ものの見事にフルボッコになっております。
こういう工作的意見誘導は今に始まったことではなく、また弊ブログのコメント欄に限ったことでもありません。某巨大匿名掲示板やブログ、ツイッターなどはもちろんのこと、新聞やテレビ、ラジオなどの大手既存メディアなどでも、見かけないことがないほどよくあります。
私が学生だった頃を思い返すと、教師がそういう意見誘導をしていたと思われることもたくさんありました。多分、今でもそういうことはよくあるのではないかと思います。
少し前までは、こういう工作的意見誘導に引っかかる人は少なくありませんでした。おそらく、今でも皆無でないでしょう。しかし昔と比べれば段違いに、この手の工作的意見誘導をそれと見抜ける人は多くなっていることが感じられます。それだけ、日本人の間に韓国式のやり口が周知されつつあるということなのでしょう。
韓国式のやり口を知るようになったのは、日本の国民だけはありません。日本政府もようやく、韓国式の情報戦に対抗し始めました。ずいぶん遅きに失した感はありますし、始めるまでは根回しだの下準備だのとまどろっこしいのですが、いざ始めれば着実に進展するのが日本という国です。今後の日本側の攻勢に期待したいところです。
韓国式の工作的意見誘導は、何度見抜かれ論破されても、平然と同じことを繰り返します。彼らの目当ては、わかっている人を論破することではありません。わかっていない人を取り込むことだからです。
ですから何度でも、彼らは同じ手を繰り出してきます。わかっている人が見れば、相手をするのもバカバカしくなるほどに。
それもまた、彼らの手口のひとつと言えるでしょう。同じ手を何度も繰り出すことでわかっている人を呆れさせ、あるいは飽きさせ、黙らせることが出来れば、わかっていない人を取り込むのはより容易になります。
そういった彼らの手口に対抗するには、こちらも倦まず弛まず、否、倦んでも弛んでも、相手が繰り出す工作をいちいち潰していくしかありません。「この手口は過去に一度潰したからもう大丈夫」などと思えば、それこそ相手の思う壺なのです。
バカバカしくても、面倒くさくても、相手が工作を仕掛けてくる限り、それを監視し、必要であれば対抗するのです。そのモチベーションを維持するのは容易ではありませんが、だからと言って放置すれば、確実に日本は彼らに取り込まれてしまうでしょう。実際、一度日本は取り込まれかけましたし、衰えたといえども今もまだ、その勢力は日本で活動を続けているのです。
まずは自分自身が正しく韓国を知ることです。そうすれば韓国式工作は自ずから見えるようになります。韓国式工作が見えるようになれば、やがてそれに対抗することも出来るようになります。それが工作員に取り込まれる人を一人でも減らすことにもつながるのです。
長年の読者諸姉諸兄はよくご存知のことだと思いますが、弊ブログも同じことを何度でも繰り返しております。長年の読者諸姉諸兄は、さぞや飽き飽きしているだろうといつも思います。しかし今日初めて、弊ブログをご覧になる方もいるわけです。弊ブログを初めてご覧になる方は、過去記事をご覧になっても、それは過去のことだと思ってしまうでしょう。
それは過去のことではあるけれど、今も現在進行形で行なわれることのあることなのだということを理解してもらうためにも、私は何度でも同じことを書くつもりです。それこそが、真の韓国理解への王道と私は確信しています。
真に価値観を共有する国同士で結ぶべし
さて昨今の日韓関係の停滞を通り越した冷え込みっぷりに一抹の涼を求める今日この頃、日本のマスコミや韓国の言論においても、「日韓関係は国交正常化以前の状態」と言われるまでになりました。私がブログを始めた頃は、「日韓断交なんて嫌韓の妄想」と言われていたことを思うと、まことに隔世の感があります。
もちろん、日韓断交そのものが実現するのは、現状でもかなり難しいとは思いますが、「事実上の日韓断交」であれば、案外実現は近いかもしれません。とりあえずは韓国人の短期滞在査証免除の廃止と、入国管理の厳密化から始めて欲しいと思います。
ちょっと前に【「その先」を考え始める時期】という記事を書きました。「その先」とは、もちろん「日韓断交後」のことです。当該記事では、日韓断交によって韓国が被るダメージを、日本が負担することになる懸念を申し上げました。
私個人の考えでは、記事中に書いた通り「韓国など見捨てれば良い」ですが、日本政府が私と同じように考えると思うかと聞かれれば、私の考えは悲観的になります。当該記事には、「何故日本が韓国の面倒を見なければならないのか」というご意見を多数頂戴いたしましたが、そのご意見を、日本政府が、国際社会に向けて、明確に発信するかどうかまでを考えていただきたいのです。
今の安倍政権がどれほど韓国に対して強硬であると言っても、人道的支援という美名の下に国際協力や国際協調を求められ、経済規模に応じた資金提供をと言われれば、「何故日本が韓国の面倒を見なければならないのか」と言って、断固として拒否することが出来るとは、現状思えません。
例えば、現在日本国内において、高校無償化の範囲に朝鮮学校を含めよという主張がされております。これに対して、日本国民が一丸となって「何故日本が朝鮮人の民族教育の面倒まで見なければならないのか」と言えているでしょうか。また在日特権に対しても、「そんなものはない」という主張が、在日だけではなく日本人の中からも出ている始末です。
日本国内のことですらそんな状態ですから、外国から「何故韓国の面倒を見ないのか」と言われた日本が、それを撥ね付けようとすれば、100%以上の確率で日本国内から弾が飛んでくるのは間違いありません。
そもそも今の安倍政権が韓国に強硬姿勢を示すことが出来るのも、日本の有権者の支持があるからこそです。つまり日本の有権者が、「韓国の面倒なんて見なくて良い」という強固で明確な意志を示さない限り、日本政府はより無難で、国際的に受けの良い宥和姿勢を示そうとするでしょう。
もっとも日本以外に、韓国の面倒を見ることに名乗りをあげる国があれば話は別です。日本にとって幸いなことに、現在自ら名乗りを上げていると言うか、韓国から名指しされていると言うかは微妙ですが、そういう国があります。
そうです、中国です。
かつて私は、朝鮮半島の統一シナリオを「中国の支援を受けた北朝鮮が韓国を併呑する」と考えておりましたが、このところの中国に対する韓国の擦り寄りっぷりを見ると、当初予想していたシナリオ以外に、「中国に事実上統治された韓国が、中国に事実上統治された北朝鮮と統合する」というシナリオもあり得るかもと思えてきました。
それほどまでに、今の韓国は中国にべったりです。
これまでは、韓国が中国に吸収されることによって、日中間の緩衝地がなくなることを警戒する人が日本には少なくありませんでした。しかしその代償として、日本が韓国の面倒を見なければならないことの方が、ずっと弊害が多いということが、日韓国交正常化約半世紀の歴史における事実ではないでしょうか。
しかも、今や韓国自身が中国に擦り寄っているという現実を鑑みれば、韓国は日中間の緩衝地どころか、日本に対する中国の橋頭堡になりつつあると言っても過言ではありません。
頼りない味方と、味方のふりをした敵は、明確な敵よりも厄介な存在です。日本にとっての韓国がまさに、その「頼りない味方」であり且つ「味方のふりをした敵」でもあるのです。
日本は、韓国を「価値観を共有する隣国」と評価してきましたが、韓国と真に価値観を共有する国は、日本ではなく中国です。
この機会に、韓国(と北朝鮮)は韓国と価値観を共有する中国に委ね、日本は真に日本と価値観を共有する国と友誼を結ぶことが、日本の今後の平和と安定に大きく寄与することになると確信する次第です。
韓国人は自らの無謬性を疑わない
日本の旭日旗をナチスの鉤十字と同一視させようと国際的なロビー活動を繰り広げ、あるいはアメリカに慰安婦像を建てて日本の非道徳性を穿ち、韓国の道義的道徳的正当性をひけらかしている癖に何だと、韓国人をよく知らない日本人は思うでしょう。
しかしあの手の、日本人が聞けば笑いよりも不快感を催すギャグは、韓国のお笑いとしては極めて標準的なものです。「ウリ」を高みに据え、「ナム」を見下し貶め、それを嘲笑うのが韓国の「お笑い」なのです。その根底には、韓国人の「ウリは絶対無謬である」という確信があります。
日韓チャットで非常にしばしば(というか、ほとんど毎日)あったことですが、韓国人が道義的道徳的論理的に間違っていることを言うことがありました。
それを聞いた私が、徹底的に間違いを指摘した上で言います。「韓国人はみんなお前のように馬鹿なのか。それともお前だけが韓国人の中で飛び抜けて馬鹿なのか。どちらだ」と。
すると韓国人はぐっと詰まります。中には拗ねたり開き直ったりして、「韓国人全員がそうなのではない。私だけが馬鹿なのだ」と言う韓国人もたまにいますが、間違いを認めたり反省したりすることが絶対にないので、実際には全くそう思っていないことが見え見えです。
この叱責のツボは、発言した韓国人を「ウリ」から切り離し、「お前は馬鹿だ=間違っている」ということを指摘し、「ウリ」が間違っているのか、それとも「ウリではないお前」=「ナム」が間違っているのかと問い詰める点です。
韓国人にとって、「絶対無謬のウリ」が間違っているということを認めることも、自分が「絶対無謬のウリ」ではなく「見下され貶められ嘲笑されるべき過誤まみれのナム」だと認めることも、どちらも絶対に出来ないことなのです。
すなわち韓国人にとって世界で一番正しく、決して間違わないのが「ウリ=自分自身」なのです。
人間は誰しも間違うものです。ですから日本人は、他人が間違うのと同様に、自分も間違うと思っています。しかし韓国人は違います。前述した通り、韓国人にとって「ウリ」は絶対無謬なのです。
もちろん、韓国人に聞けば「ウリ」が間違うことがあると言うことはあります。ですが彼らはそれさえも、「間違いを認めることの出来るウリは正しい」と考えており、結局「ウリは絶対無謬」に戻ってしまうのです。
わかりやすい例で言えば、ネイティブのイギリス人に向かって、韓国人は平然且つ自信満々に「あなたの英語の発音は間違っています」と言うことがあります。実際、日韓チャットで私も韓国人に「あなたの日本語は間違っている」と言われたことがあります。
別に言語に限りません。日韓の歴史認識問題にしても教科書問題にしても慰安婦問題にしても竹島問題にしても、更には韓国による対馬の領有権主張にしても、韓国人は自分たちに間違っている部分があるかもしれないなどとは、決して認めないでしょう。何故なら、韓国人は絶対無謬なのですから。
自らの絶対無謬を疑わない人との議論は、時間の浪費でしかありません。
日本人は、他者との間で悶着が起き、相手から「お前にも悪いところがあった」と言われると、素直にそれを認めてしまう傾向があります。例えば、前述サッカー東アジア杯日韓戦の応援に関する件でも、日本人は「日本側にも悪いところがあった」と、いちいちそれを数え上げておりましたが、そういう態度は、韓国人にとっては「ウリ」の絶対無謬性を裏付けるものにしか見えないのです。
日本人にも悪いところがあるとか、間違ってるところがあるなどと言うのは、日本人の間だけで、決して韓国人には聞こえないように行なうべきことであって、韓国人と対峙する際は、日本人も絶対に自分たちは間違っていないという態度を貫く必要があります。日本人がそれに後ろめたさや精神的負担を感じるのであれば、韓国人との接触を最小限に制限するしかありません。
韓国人と分かり合い、話し合い、腹を割って対等に付き合っていくなどという絵空事は、個体ごとの韓国人であれば表層的には可能かもしれませんが、本質的には不可能なのです。
たとえそれが実現したように見えても、彼らが「ウリ」に組み込まれ、あるいは彼らが日本人を「ウリ」に組み込もうとすれば、たちまち表層を覆っている薄っぺらな化けの皮は剥がれ落ちてしまうでしょう。
韓国人とは同化するか、さもなくば一定の距離を保つかのどちらかしかありません。そのどちらを選ぶべきかを、日本人ひとりひとりが冷静且つ真剣に考える時期が来ているのではないでしょうか。
日韓関係を諦めよう
しかもそれをせっせと海外にも飛び火させて喜んでいる連中がいるのですから、日本国内の反日勢力の根強さというのは本当に深刻です。
先日のサッカーの東アジアカップ男子日韓戦の応援で、政治的な巨大横断幕を掲げ問題となり、それと相殺するために旭日旗と鉤十字を同一視しようしている韓国でも、当然この件を鬼の首を取ったかのように取り上げており、日本の反日マスコミと韓国言論の連携は今も強固です。
韓国関連では相変わらずうんざりすることが多い今日この頃ですが、世界水泳で日本が活躍しているというニュースが入ってきたかと思えば、H2Bロケット4号機の打ち上げがあっさりと成功していたりと、このところさり気なく日本に良いニュースも入ってきております。
嫌韓の私としては、もしかするとこれは日韓関係が冷え込んでいることのご利益ではないかと思ったりしてしまいます。それぐらい、昨今の日韓関係の冷え込みっぷりは甚だしいものがあります。
そのことは韓国側でも痛感しているようで、某巨大匿名掲示板に【日本は韓日関係をあきらめたのか~そうでなければ非常識な発言を慎み歴史を直視せよ】というスレッドがありました。
引用されたソースの原文を確認すると、「あきらめる」の部分は「放棄する」となっておりましたが、今回は「あきらめる」という訳の方が適切かもしれません。
というのも、かつて、「諦と恨」という記事を書いたことがありますが、「あきらめる」とは、「あきらかにみる」が語源だからです。
「あきらめる」は「諦」という字に当てられた訓ですが、「諦」という字には「あきらめる」という意味以外に「つまびらかにする」という意味もあるように、道理に照らしてものごとを正しく見るというのが本来の意味であり、私は個人的に日本の「諦」という概念を、朝鮮の「恨(ハン)」と対立する概念だと思っております。
すなわち朝鮮の「恨」が現実を直視せず、己の欲望と妄執で自らを縛り、どれほど恵まれても与えられても、決して永遠に満足出来ない「餓鬼」の状態とすれば、日本の「諦」とは冷静に現実を直視し、己の欲望と妄執を捨て、自分に与えられたものを悟り、それを最大限に活かす道を求める智慧と言えるでしょう。
「放棄する」を訓で読めば「放り棄てる」となり、ずいぶん投げやりで考え無しに行なわれることのように思われますが、「あきらめる」であれば、正しく見聞き考えた上での決断ということになります。ですから今回は、「あきらめる」という訳の方が適切だと思うのです。
当該社説が、「日本が日韓関係(の改善)をあきらめるわけがない」という確信のもとに書かれたものであろうことは、記事全体を眺めれば疑う余地がありません。何故なら、それが韓国人の常識だからです。
日本人は韓国が大好きで憧れていて尊敬していると、ほとんどの韓国人は考えています。もちろん、韓国を嫌う日本人の存在も知ってはおりますが、それはごく一部の極右だけで、日本人の大半は韓国が好きで好きでたまらないと韓国人は思っています。
それはちょうど、日本に対する韓国人の感情を裏返しただけのものなのですが、「恨」の精神の韓国人がそれに気づくことは、おそらく永久にありません。彼らは「あきらかにみる」ということが出来ず、永遠に(少なくとも千年はw)「恨」を抱き続けるのです。
日本人は一日も早く、そういう韓国を「あきらかに見て」、日韓関係を速やかに諦めるべきだと考える次第です。
もう「朝鮮人のような真似」に振り回されないで
先日、月見チャットによく訪れる韓国人が、日本を旅行した時の感想として「日本人は顔に個性がある」と言っておりました。続けて「それで韓国の整形顔を見ると何か幼稚だと思った」とのこと。
しかし更に続けて、「韓国では美容整形をしていないと貧乏人に見える」とも言います。即ち韓国では、美容整形をしていることが、「自分は美容整形をするだけの財力がある」という証明となるのでしょう。
日本でも、美容整形にはカネがかかります。私は美容整形手術には全く縁がありませんが、美容整形手術が健康保険の対象にならないことぐらいは想像出来ます。健康保険の対象にならない手術にどれほどの費用が掛かるかは、具体的には全く知りませんが、耳たぶにピアスの穴を開けるだけでも、病院でやれば数千円から一万円ぐらい掛かると言いますから、切ったり縫ったりするほどの手術なら目の玉が飛び出るような費用が掛かることでしょう。
ところで、日本より安くつくという理由で、韓国へ美容整形手術を受けるために遠征する日本人女性がいるそうですが、渡航費滞在費などの諸経費と、言葉や習慣の違い、真逆とも言える考え方の違いから生じる精神的負担、何よりも韓国人の衛生観念を考えると、韓国での美容整形手術はタダどころか、カネをやるからと言われても私なら断固拒否します。
それはさておき人間の身体は、それが成長であれ老化であれ、時間の経過と共に徐々に変化します。しかし人工物は、劣化することはあっても身体の変化に合わせて変化してくれるということはありません。
例えば、カツラなどはどんなに精巧に出来ていても、天然の髪と違って伸びることがありません。ですから、カツラは本体価格も結構なお値段がするそうですが、そのメンテナンスにもバカにならない費用が必要になるのだそうです。
美容整形も同じで、一度整形してしまえば死ぬまで放置で良いということはないそうです。即ち、美容整形のクオリティを維持するためには、継続的な術後のメンテナンスが必要で、その費用も当然バカにならないのでしょう。
手術費と維持費の負担を考えれば、美容整形手術をするとか、既にしているということは、単に見た目が綺麗だというだけではなく、その費用負担に耐えられるだけの金持ちであることを誇示する効果もあるので、韓国では美容整形が好意的肯定的に見られるようになってきているのでしょう。まことに薄くて浅くて上っ面な拝金民族の面目躍如というものです。
ところで肯定的と言えばこのところナチズムを肯定したとのことで、麻生財務相兼副総理の発言の揚げ足取り報道が盛んです。
麻生氏は語り口が軽妙洒脱な分、誤解の余地も多く、過去にも何度もそれで揚げ足を取られておりますが、今回は発言中に「ナチス」という言葉があったということで、アンチ安倍政権の日本マスコミとその同調者たちがこぞってそれに食いつき、火を着け、煽り立てております。
日本共産党の志位委員長などは「普通の国語力があれば、今度の麻生氏の発言そのものがナチズム肯定発言だと(いうことは明らかです) 」などと言っておられましたが、普通程度の国語力があるつもりの私としては、あの発言をナチズム肯定発言と理解する方が無理です。
逆にあれを、ナチズム肯定発言と理解する人の国語力とは、どこの国の国語力を意味するのかと聞きたいほどです(ちなみに「国語」とは本来「日本語」を意味する和製漢語ですが、現在では特亞でも「自国語」を意味する言葉として用いられているようです)。
発言中のあるキーワードに引っかかって、発言全体の意味ではなく、引っかかったキーワードの意味だけに拘泥し、それを理由に火病るのは、日韓チャットの韓国人には非常によくある例でした。今回の日本のマスコミや麻生財務相兼副総理の発言を問題視している人々は、まさにそういう「朝鮮人のような真似」をしている人々であると断じて良いでしょう。
更に日本マスコミやその同調者たちがこぞってそれを煽り、問題視させようとしているのも、「朝鮮人のような真似」が日本国民にまだ通用すると思っているからでしょう。
かつて麻生氏の「漢字の読み方」や「カップラーメンの値段」で揚げ足を取り、煽り立て、問題視させることにまんまと成功したので今回もと思ってやっているのでしょうけれど、同じ手で何度でも日本の国民を振り回すことが出来ると確信している時点で、日本のマスコミやその同調者たちが、日本国民を心の底から馬鹿にしていることがよくわかります。
しかもそうやって馬鹿にしている国民から支持されている、あるいは支持されるべきと思い込んでいる辺りも、「朝鮮人のような真似」そのものです。まことに「朝鮮人のような真似」をする連中というのは、反面教師とする以外には、害にしかならない存在と言わざるを得ません。
「朝鮮人のような真似」をする連中は、ナントカの一つ覚えのように同じ手を繰り出してきます。それにいつまでも何度でも騙され煽られ振り回されているのでは、同じ手を繰り出すナントカと変わりません。
そういう「朝鮮人のような真似」をする連中に振り回されない知恵と経験を、私たち日本人がしっかりと獲得し、教訓として学習していかなければ、やがて日本人は「朝鮮人のような真似」をする連中に絡め取られて、日本は「朝鮮人のような真似」をする連中が幅を利かす国になってしまうでしょう。
そうならないためにも、「朝鮮人のような真似」を見抜き、「朝鮮人のような真似」をする者に「息苦しい」と思わせる社会圧を育てていくことが、今後の日本に必要なことではないかと考えております。