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ブックレビュー「日本のイメージ」

以前ご提案いただいた「韓国関連書籍のレビュー」ですが、これやろうと思ったらその本を改めてちゃんと読み直さなきゃならないわけで、思ったより大変なネタかもしれません。まあ、だいたいこのブログからして、「チャットログをコンテンツにすればネタに困らず楽に更新出来るだろ」という魂胆で始めたら思った以上に大変だったという前科持ちなわけですがw

そんなこんなで今回は鄭大均氏による「日本のイメージ」を取り上げてみようと思います。その理由は、たまたま同書がデスク脇にあったからですがw あと、もしかしたらレビューじゃないけど過去記事で取り上げたことのある本かも知れません。過去記事と内容が被っていたらごめんなさい<(_"_)>

さて鄭大均氏による「日本のイメージ」という本ですが、奥付によると1998年の出版とあります。「日本」の部分にはご丁寧に「イルボン」とルビが振ってあります。即ちこれは「韓国(人)から見た日本のイメージ」という意味です。

鄭大均氏と言えば韓国ウォッチャーなら一度はその名前を目にしたことがあるはずです。日韓ハーフの元在日韓国人であり、現在は韓国系日本人となっている人です。その主張は、韓国に詳しい日韓の著名人の中では、比較的穏やかで中立的と私は理解しています。

余談になりますが、鄭大均氏の実妹がかつて東京都で在日韓国人が公務員の管理職になれないのはサベツだと主張し高裁で敗訴、最高裁に上告するものの棄却され、「憲法判断しない情けない判決。哀れな国。外国人は日本で働くな」とほざいて、嫌韓勢から「むしろお前が日本から出てけ」と謗られた鄭香均です。同じ親から生まれた兄弟でも、同じような考えになるものではない、という好例と言えるでしょう。

それはさておき、「日本のイメージ」は、前書きによると同じ著者が1995年に著した「韓国のイメージ」の姉妹編だといいます。こちらの「韓国」は、そのまま日本語で「カンコク」と読んで差し支えないようです。即ち「韓国のイメージ」とは、「日本から見た韓国のイメージ」という意味になります。

残念ながら私は「韓国のイメージ」の方は読んでいません。そもそも「日本のイメージ」も古本屋で見つけて「韓国関連の書籍」というだけの理由で買ったもので、その時点でおそらく既に「韓国のイメージ」の方を棚に置いている書店は、それほど無かったのではないかと思いますし、仮に置いていたとしても、正直「日本から見た韓国のイメージ」については、全くと言って良いほど興味がありませんので、探そうとも思いませんでした。

なので、「韓国のイメージ」の内容については、「日本のイメージ」の前書きから推測したものであることを予めお断りしておきます。

「日本のイメージ」の前書きによると、「韓国のイメージ」は「戦後の日本人が韓国(や北朝鮮)について記した多様な言説を資料に、その眺めや拡がりや奥行きを検討する作業であった」といいます。「その結果は、私たちが漠然と考えているものより、多様で陰翳に富むものではなかったか」と続き、韓国人が見る日本のイメージもそれと同様か、それ以上であると著者は主張します。更に「韓国のイメージ」では、「日本人にとっての韓国がともにある存在であると記した」といいます。

その結果、「韓国人にとっての日本は、おそらくはそれ以上のプレゼンスで、ともにある存在といってよい」との結論に至った模様です。

私は、一日本人として、また韓国関連の書籍類を一般的な日本人よりは多く読んでいるであろう者として、この「日本人にとっての韓国がともにある存在」という著者の主張には違和感があります。

実際に「韓国のイメージ」を読めばまた認識も変わるかもしれませんが、とりあえず「日本のイメージ」の前書きにあるように、「日本人にとっての韓国がともにある存在」と言える対象であったことなど、ほとんど思いつかないからです。

確かに、日本にとって朝鮮半島は最も近い外国のひとつであり、古来より朝鮮半島を通じて日本に入ってきたものは無数にあります。そもそも日本人からして、その全てではないにせよ、少なからぬ割合で朝鮮半島を通じて渡り来た人々の末裔であろうことは、誰も否定できないでしょう。

しかしそれは同時に、他の外国についても同様であったはずです。もし日本にとっての韓国が、古来からの交流を理由として「ともにある存在」とまで言えるほどの対象であるならば、日本にとっての中国はどれほどの存在になるでしょうか。更に戦後のアメリカの影響力と存在感は、確実に中韓のそれを凌駕するはずです。

ですが、日本にとっての中国やアメリカの重要性を言うことはあっても、「日本にとっての中国はともにある存在」とか「日本にとってのアメリカはともにある存在」などとは誰も言いません。何故なら、日本にとって海外から人や物や文化が流れ込んでくるのは当然のことだからです。海外から渡り来る様々なものを消化吸収して日本の文化として昇華させるのが日本文化の真髄であり、それは特定の国だけが対象ではないからです。

たまたま距離的に近いから、またおそらくは今の私たちが想像する以上に、古代の朝鮮半島における日本の影響力が大きかったために、日本と朝鮮半島には関連性が目立つだけであって、それを以て「ともにある存在」とする主張は、「日本にとって韓国は特別な存在」という主張に容易につながる危険性を感じます。また殊更に日本人が韓国について記した資料ばかりに注目すれば、「日本にとっての韓国はともにある存在」という結論に誘導されるのは当たり前でしょう。

読んでもいない「韓国のイメージ」について述べるのはこの程度にしておいて、実際に読んだ「日本のイメージ」ですが、これも韓国人が読めば読んでもいない「韓国のイメージ」に私が抱いたような意識を持つのでしょうか。即ち、「韓国にとっての日本がともにある存在なんて言われるのは釈然としない」とか、「韓国にとっての日本は特別な存在とされることには違和感がある」と韓国人は考えるでしょうか。

そうでなければ公正を欠くような気がしなくもありません。それに日韓チャットでもしばしば韓国人は「日本に気を使わない(この「気を使わない」は、「配慮しない」という意味ではなく「意識しない」という意味)」と言っていました。韓国人にとっても、日本は特別な国ではなく、数ある外国のひとつに過ぎないということです。

それが本当であればどんなに良いでしょうか。日本は単に数ある外国のひとつであって、いつでも他の国と代替が利くと韓国人たちが本心から思っていてくれれば、それは日本にとって僥倖と言っても良いぐらいです。

しかし極めて残念なことに、事実は異なると言わざるを得ません。このところの弊ブログで執拗に韓国言論が日本との関係改善を求めていることを述べてきたように、韓国人は意識的か無意識的かは一定しませんが、「日本はウリナラとともにあるべき存在」と思っているのが現実なのです。

「日本のイメージ」では、「前著(=「韓国のイメージ」)同様、その否定的眺めにも注目するが、それと同等の熱意で、韓国人の日本や日本人に対する肯定的眺めにも注目するものである」と宣言します。

その宣言に違わず、同書は膨大な資料に基づき、日本に対する韓国人の否定的見解とともに肯定的見解についても、詳細にピックアップしています。それら資料を出来る限り冷静且つ客観的に読み取ることで、韓国人が持つ「日本のイメージ」に迫ろうとした著者の努力には頭が下がります。

著者がその立場ゆえに、日韓の離間を積極的に促すわけにはいかず、どうしても日韓の融和に主張が傾きがちなきらいがあることを知った上で読めば、「日本のイメージ」は資料的価値の極めて高い本と言えるでしょう。

また、韓国人が持つ日本のイメージを正確に知ることは極めて困難です。それこそイメージとして漠然とつかむだけでも、かなりの資料と時間を要するでしょう。その作業の短縮に、この本は極めて有用であることも強調しておきたいと思います。



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ブックレビュー「ソウルの練習問題」

ネットというところは不思議なところで、そこで発言する人々は、しばしば思っていることをリアルよりも薄く脆いフィルターで吐露してしまうことがあります。そのせいでしょうか、最盛期の日韓チャットでは「ナマよりナマ」な韓国人を見ることが出来ました。

そのナマっぷりは、当時韓国で日本語教師をしていた韓国人につけるクスリの著者、中岡龍馬氏が実際に日韓チャットを訪れて驚愕したほどでした。

もちろん、リアルの韓国人観察からも得られるものはあるでしょうけれど、ネットの韓国人は、ネットを通すことによって彼らの薄くて浅くて上っ面が剥げ落ち、韓国人でさえ自覚しようとしなかった彼らの本性が赤裸々に暴露されていたのもまた、事実です。

最近、弊ブログのコメント欄でも数名の方が紹介されていた「迷惑な韓国人」というブログに掲載された「俺達は全てが世界一!(のはずだった)」というシリーズでは、「迷惑な韓国人」ブログの管理人がリアルで遭遇した韓国人の実際の言動と、その内側でたぎる驚くべき本心が公開されております。

俺達は全てが世界一!(のはずだった)」というシリーズは少々長いものではありますが、弊ブログの過去記事を全部読めと言われるよりはずっと早く、ずっと楽に読むことが出来、大変わかりやすいものですので、弊ブログとしても拡散に協力しようと思います。

さて、最近どうも韓国に対する意識が麻痺してきたというか、韓国関連のニュースを見ても「どうせ」とか「所詮」とかいう気持ちが強くなって、韓国関連の物事にあえて驚かないようにしている自分を感じております。

韓国関連は、何もかも薄くて浅くて上っ面ですから、ある程度知ればあとは同工異曲です。ですが、だからと言ってひとつを見て全体を判断するわけにはいきません。結果的に徒労になるとしても、調べるべきは調べ、知るべきは知っておく必要があります。ですので、私も朝鮮関連の書籍にはそれなりに目を通しております。

韓国関連について調べていると、最初のうちは多少嫌悪を催すようなことであっても、好奇心の方が勝ちますから、それほど苦痛ではありませんでした。月見チャットにお越しの方の中には、韓国関連について知り始めると、恐ろしくてたまらなくなったと仰る繊細な方もいらっしゃいましたが、その点私は鈍感というか図太いのか、そういうことはありませんでした。

しかし知識の蓄積とともに日韓チャットでの経験値が積み上がり、韓国人が金太郎飴であることを客観的な知識として、また自分自身の経験として、嫌ほど見せつけられ続ければ、いくら潤沢な好奇心も底をつき、残るのは彼らに対する嫌悪感だけです。

韓国については見たくもないし聞きたくもない、出来ることなら意識の中から排除してしまいたいという気持ちと、それこそが奴らの思う壺という気持ちがせめぎ合い、ある種の自己防衛的意識から、「韓国関連については、あえて驚かないようにしている」のかもしれません。

しかしそういう目で韓国を見ていると、色々見誤ることもあるだろうと、初心に立ち返るためにも押入れに突っ込んであった韓国関連の蔵書を適当に引っ張りだして読み返しているのですが、その中に「ソウルの練習問題」という本がありました。著者は関川夏央氏です。

関川夏央氏はかなり早い時期の知韓派です。「ソウルの練習問題」が上梓されたのが1983年ですから、まだ韓国に行く日本人は年間で50万人前後と、現在の15%あるかないか程度。しかもその大半はおそらくビジネスマンとキーセン観光が目的の男性で、純粋に観光、すなわち韓国の風景や文化に触れることを目的として韓国を訪れる日本人は極めて少なかったのではないかと思います(それを伺わせる記述が、「雨の清凉里」という章にあります)。

「ソウルの練習問題」ではその当時、朝鮮語を習い観光として韓国を訪れる物好きな日本人の目から見た韓国を、関川氏独特の軽妙かつ凄絶な筆致で記した名著です。

あとがきによれば、「韓国とソウルについての、誠実な旅行案内を書こうと意図した」とあるとおり、この当時の、一人の人間の目の高さに見えるソウルと韓国を知るには、大変優れた本です。

また同時にこの本は、その当時の日本人の、韓国に対する意識や視線を知るにも貴重です。例えば「日本からの細長い影」という章では、朴慶植の「朝鮮人強制連行の記録」に書かれた「日帝の土地収奪説」を取り上げ、また「バカでもチョンでも」という言葉を、「バカでも朝鮮人でも、というところからきたらしい。いまでは日本語のなかにすっかり根づいている。語源は、しかも、誰もがすでに覚えていない」と書いており、その当時、かなりの知韓派であっても、こういう誤解や工作を素朴に信じ、再配布していたということを知ることが出来ます。

しかしそれでも、今ほど日韓が剣呑でなかったのは、「背を向けあって望遠鏡をのぞき、地球をぐるりと一周した遠い映像を探りあっているようでもあった」(同じく「日本からの細長い影」より)からでしょう。日韓には、それだけの距離が必要なのです。

近年関川氏は、朝鮮関連に言及することがめっきり少なくなったといいます。それはひとつには、言及すべきことはし尽くしたということがあるでしょう。韓国は、まるで分厚い岩盤の上に載った薄い泥土の層のようです。潔癖な人ならば足を踏み入れること自体が憚られ、勇を奮ってそこに飛び込めばたちまち底を打ちます。

まさかこれが底ではあるまい、いくらなんでもこんな薄っぺらい泥土の層が韓国の全てとは思えないと、どれほど一所懸命に穿ってみても、出てくるのはどこまでも同じ岩肌なのです。文筆家が題材として追及するには、あまりにも浅薄で皮相的なのです。

次に、これは私の勝手な憶測ですが、氏が愛した韓国と韓国人が実は幻想だった、あるいは今はもう存在しないことに気づいたというのがあるのではないでしょうか。

氏が作中で描写する韓国人は、素朴で率直でガサツで粗忽で横着で、必ずしも善良ではないが、裏表のない憎めない人々というものでした。もしかすると、今から30年前にはそういう韓国人も数多くいたのかもしれません。しかし日帝時代に教育を受けた韓国人が現役を退き、反日教育で純粋培養された韓国人が幅を利かせる今日の韓国では、氏が愛したような韓国人は、探せばいるかもしれませんが、そのほとんどが社会の隅に追いやられ、存在しないも同然の扱いを受けているでしょう。

日本で日韓友好を叫ぶ人の中には、そういう幻想、あるいは「今はもう存在しない韓国」に基いて、日韓友好を叫んでいる人も、きっといるのではないかと思います。

そういう意味で、現在日韓友好を叫ぶ人々がどういう幻想を見ているのかを知る「練習問題」としてこの本は、30年を経た今日でも、十分に通用すると言えます。

ただし気をつけていただきたいのは、それらがあくまで、30年前の韓国とソウルと韓国人を見聞した、韓国を愛する日本人によって作られた「練習問題」であるということです。

30年前の「練習問題」が解けるようになったからと言って、本番の試験問題が解けるわけがないのと同じく、30年前の「ソウルの練習問題」では、現在の韓国を理解することは出来ないということを、最後に申し添えておきたいと思います。



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「今の韓国・北朝鮮」がわかる本を読んで

新年あけましておめでとうございます。本年も、ブログ月見櫓をよろしくお願いいたします<(_"_)>

年末年始にかけて私は、何気なく70~90年代のフォークソング・ニューミュージック系を聴き漁っております。たかじん、歌うめえ(本業歌手なんだから当たり前ですがw)。

さて年初から、オウム真理教の元幹部で監禁致死事件の容疑者平田信が出頭したとかいうニュースが飛び込んできました。オウム真理教の教祖麻原彰晃こと松本智津夫死刑囚が朝鮮系ということや、金正日死亡直後というタイミング的なものもあって、北朝鮮との関連を疑う人も結構いるようですが、個人的にこの件と朝鮮半島との関わりは、あまりあるとは思っていません。

朝鮮半島関連というものは、何事につけ「陰謀」や「奸計」との親和性が高いので、謎の多い事件で、しかも多少なりとも朝鮮関連の要素があると、ついそういう疑いを持って見てしまう気持ちになってしまうのは、とてもよくわかります。

ただ、「陰謀」という言葉は、魔法の呪文のようなもので、みだりに使い過ぎるとそこで思考停止してしまう危険性の高い言葉でもあると思います。

日本人が韓国を見ると、こんなに無茶苦茶で理不尽で自分勝手で非道徳的で図々しい不快で非合理的な国もないと思います。ところが、並べて見ると韓国がまともに見えてくるほど輪をかけて無茶苦茶なのが、北朝鮮です。陰謀論でも持ち出さないと、到底説明がつかないことも少なくありません。

実際のところ、北朝鮮に関しては多くの「陰謀」があると思います。ですが、それらを正確に把握することは、少なくとも普通の民間人にはまず不可能でしょう。国家規模の「陰謀」が、普通の民間人に得られる情報の範囲内でわかるようなお粗末さでは、とても「陰謀」とは言えません。

基本的に「陰謀」というものは、明らかになるまでは推理するしかありません。推理は、十分な材料が揃っていれば、「陰謀」に対する有効な対策になり得ます。あるいは、シャーロック・ホームズ並の卓越した推理力があれば、少ない材料からでも、的確な推理を行なうことが可能でしょう。

けれどそのどちらも不十分な場合、つまり少ない材料と貧弱な推理力で陰謀について考察すれば、それは「疑心暗鬼を生ず」という状態になります。木を隠すならば森と言いますが、陰謀を隠すならば疑心を抱く者が撒き散らす妄想の中が最も最適でしょう。

仮にその中にたまたま「陰謀」について的確に言い当てているものがあるとしても、大量の的はずれな推理や考察に基づく妄想がそれを覆い隠してくれます。それは「陰謀」を企てる側にとっては、大変望ましいものだろうと思います。ある意味、「陰謀」を企てる側に加担することと言えなくもありません。

私はごく普通の、無名で無力な民間人ですから、情報もそれに見合うレベルと量のものしか手に入りません。推理力はと言えば、シャーロック・ホームズの爪の垢ほどもないでしょう。

そんな人間が下手に「陰謀」について語れば、妄想を撒き散らすことになるのは火を見るより明らかです。ですので、私はあまり「陰謀」を前提としたお話はしないようにしております。気をつけていないと、つい言いたくなるものなんですけどねw

そういうわけで、少しでも情報を集めて考察のよすがとするため、先日買った本が重村智計著【最新版「今の韓国・北朝鮮」がわかる本】です。

この本は金正日の死亡が明らかになる前に書かれたもの(2011年6月10日第一刷発行)ですが、北朝鮮関連についてはそれを踏まえて読むと、かなり興味深いものがあります。

内容は非常に盛りだくさんです。私もまだ詳しいレビューを書けるほど読み込んではおりませんが、今後の朝鮮情勢をウォッチするための基礎知識を得るには、かなり良い本ではないかと思います。

最終章で著者は、「韓国と北朝鮮の取材は、現地の新聞が書けない真実と、政府が発表しない事実を捜し出す作業だ。報道され、公に知られた情報は、疑わしかった。どうしたら、真実を取材できるのか。本当の事実を知ってる人を、見つけ出すことだ。これが、韓国・北朝鮮取材のやり方だった」と述べています。

また「真実を知る人は「書かない」と約束すると、話してくれる。ストレート・ニュースでは書けないから、解説を書く時に記事の中にもぐりこませた。「書くなよ」といって話す人もいる。これは「書いてもいいが、自分に迷惑をかけないでくれ」との意味だ。だから、ニュース・ソースがわからないように、記事を工夫した」と赤裸々に述べます。

つまるところ、朝鮮半島関係の情報というのは、情報そのものと共にこういう機微が必要ということでもあります。それを正直に書いてる点に、誠実さを感じました。

ただひとつ、この本の最終章では、著者の韓国人・北朝鮮人に対する親愛の情も隠さず披露していますが、この点については、私は批判的にならざるを得ません。

現実問題として、その国を知るためには、その国の人と親しくならなくては不可能です。私にしても、親しく話す韓国人の知人はいます。

しかしそういう韓国人ひとりに巡り会うまでに、どれほど多くの量産型韓国人に翻弄され困惑させられたことでしょうか。それもまだ、チャットというインターネットを介した邂逅であっただけマシだったと思います。現実であれば、更に酷い思いをする羽目になったであろうことは、極めてリアルに想像出来ます。

チャットであれリアルであれ、普通の韓国人なら最初のうちは「良い人」を装うものです。ですから知人に紹介された韓国人とちょっと一緒にメシを食いながらとか、酒でも飲みながら話す程度なら、「なんだ、韓国人でも良い人多いじゃん」と感じる方が普通でしょう。

しかしそんな韓国人と100人200人会って話をしても、彼らの腹の底が見えることなどあるはずがありません。彼ら自身でさえ、自分たちの腹の底にあるものを見ないようにしているのですから。

韓国人・北朝鮮人とは、何があっても断じて親しくなるなとは言いません。ただ韓国人・北朝鮮人と親しくなるならば、彼らの性癖を十分理解してからにしなければ、あまりにも危険だと思うのです。彼らは、上っ面だけ見れば日本人に近似しているように見えますが、一皮剥くとあまりにも私たち日本人と何もかもが異なる生き物なのです。それを理解せずに彼らに近付くことは、家庭犬に接するのと同じ心づもりで野生の狼に近付くのと等しいものがあると思います。

この「親しくなるならば、彼らの性癖を十分理解してから」ということも、「朝鮮半島関係の情報に接する際の機微」のひとつであり、韓国人・北朝鮮人に対する親愛の情を最終章で披露したのも、この本をここまで読んだ人ならその機微に気づくだろうという著者の思惑なのかもしれませんが、果たしてこの本を一読した程度でそこまで読み切れるようになるだろうか、そこまでを読者に期待するのは酷ではあるまいか、ということが、この本を一読し終えた現在の感想です。



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ブックレビュー「植民地朝鮮の日本人」

ずいぶん前から「植民地朝鮮の日本人」という本を読んでいます。この本は朝鮮開港前夜から大東亞戦争終戦までの在朝鮮半島日本人について書かれた本です。

全体的な基調は「日本人は、朝鮮で何ひとつ良いことをしなかった」というものです(P.131 L.15~P.132 L.1「ところで、「日本は朝鮮で悪いこともしたが、良いこともした。その一つは植林である」と信じている人は多い。しかし、植林をしたのは、より多くの森林資源を収奪するためであり、朝鮮の山を緑にすることを目的にしたものではなかったことを忘れてはならない。」)が、280冊に及ぶ参考文献を元に書かれており、その意図するところはともかくとして、資料的にはなかなか価値あるものだと感じました。

この本には朝鮮における日本人の様々な言動が取り上げられております。その中には朝鮮で無法無体なことをした日本人も少なくなかったことが書かれておりますが、私はこれを否定しません。

現在ですら、法治国家とはお世辞でしか言えない彼の地です。当時は法など薬にする程度にしかなかったでしょう。そんな朝鮮へ好き好んで行くような日本人が、清廉な人々だけである方が不思議です。おそらくは日本本土で食い詰めた者や未開の地で一発当てようとたくらむ山師、官憲に追われて朝鮮に逃げたアウトローが少なくなかっただろうことは当然でしょう。

むしろ、この本に登場する「そんな朝鮮へ好き好んで」行っていながら、日本人として誠実に朝鮮人に接した人々が、意外に多いということの方に私は注目したいと思います。

もし私が、当時の朝鮮へ何かの間違いで行く羽目になれば、きっとこの本で非難されている「横柄で倣岸不遜な日本人」であっただろうなと思います。この本では「朝鮮人は殴らないと言うことを聞かない」と放言する日本人の姿を取り上げておりますが、日韓チャットで韓国人と接している私としては、まったくその通りだと思うからです。

例えば、P.152 L.3~6 「しがない卵売りの朝鮮人を数人で取り巻いて、見つからないように桶から卵を盗ってしまうというようなことをやっていた。当初はそれを「かわいそう」と思っていた福山兵市も、じきに「ああ、こいつらは馬鹿だ。下等だ。こいつらには徹底的やっていいんだ」と思うようになった。」と書かれています。

しがない卵売りから卵を盗むことは、その相手が朝鮮人であろうがなかろうが、もちろん褒められたことではありません。それを見て「かわいそう」と思う心情の方に、たいていの日本人は共感するでしょう。

ところが、ここに登場する日本人の意識は「かわいそう」からやがて「ああ、こいつらは馬鹿だ。下等だ。こいつらには徹底的やっていいんだ」と変遷します。それは何故でしょうか。朝鮮に住まううちに、他の横柄で倣岸不遜な日本人に影響されてサディスティックな支配者意識に目覚めたからでしょうか。

それも皆無ではないかもしれません。しかしそれよりももっと大きな理由は、朝鮮人の度し難い愚昧さと、無意味な反抗だろうと思います。

日韓チャットでもそうですし、弊ブログにしてもそうなのですが、韓国人と接する日本人の、韓国人に対する非難や批判や忠告は、もし韓国人がそれを受け入れれば、韓国人の利になることは多いと思います。もちろん、純粋に韓国人の利になることだけを考えて言うわけはありません。日本人にとっても有益で、韓国人にとっても損は無いということを言うに決まっています。

しかし韓国人は、例え損をすることになっても、日本人の言うことに対しては第一次反抗期の幼児のごとくひたすら「イヤ」「ダメ」「バカ」「キライ」を繰り返します。

韓国人がいっぱしのことを言うので、実際にやらせてみたらグダグダだったなんてことは前回のチャットログや李寧煕のモノ騙りを見ればおわかりいただけるように、普通にお約束です。そのグダグダを日本人が追及したり非難したりすれば、責任転嫁に逆恨みに無関係な日本批判の嵐。そんなことが日常茶飯に行われれば、たいていの日本人は「ああ、こいつらは馬鹿だ。下等だ。こいつらには徹底的やっていいんだ」どころか、「こいつらには徹底的にやってやらねばわからないんだ」と思うようになるのが自然です。当時、それでもなお、朝鮮人を信頼し擁護した日本人がいたことの方を評価するべきでしょう。

この本のスタンスは、とにかく「日本は朝鮮で悪いことばかりしたの!チョッパリは反省して謝罪しる!」というものですが、文献資料は比較的正確に引用されているように感じました。

例えば朝鮮人の強制連行に関する記述も、朴慶植の「朝鮮人強制連行の記録」に引用された鎌田沢一郎「朝鮮新話」の一節、「納得の上で応募させていたのでは、その予定数に仲々達しない。そこで、群とか面(村)とかの労務係が深夜や早暁、突如男子のある家の寝込みを襲い、或いは田畑で働いている最中に、トラックを廻して何げなくそれに乗せ、かくてそれらで集団を編成して、北海道や九州の炭鉱へ送り込み、その責を果たすという乱暴なことをした。」という記述ですが、この末尾「但、総督がそれまで実行せよと命じたわけではないが、上司の鼻息を窺う朝鮮出身の末端の官吏や公吏がやってのけたのである」までを正しく引用している点は評価されるべきでしょう。もっとも、本書ではこれを「乱暴な振る舞いを告発したのはよいが、責任は朝鮮人に転嫁している」と評していますが。

さらに朝鮮人が行なった蛮行は穏便に記し、日本人が行なった蛮行は過大に記すという印象操作も怠りなく行われております。それに惑わされず、資料を資料としてきちんと読み解くことが出来れば、この本は膨大な資料に基づいてまとめられておりますので、非常に便利な本ではあります。

なおこの本の目的は、「日本の植民地支配の特色を実証的に明らかにすること」「在朝日本人の言動を描き出して、彼らが日本の朝鮮政策や日本人の朝鮮観に与えた影響を探ること」「在朝日本人の振る舞いが、朝鮮人の目にどのように映っていたかを考えること」であり、最終的には「わたしたちが、祖父母や父母の体験を客観化することで、過ちを二度と繰り返さないための担保を獲得すること」とされております。

ここに掲げられている「過ち」が、「朝鮮なんぞに関わりあった愚」という意味で、それを二度と繰り返さないことが「最終的な目的」であると言う主張であるならば、私はこれについては諸手を挙げて賛成するものであります。



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ブックレビュー「日韓つっぱり力」

先日、「日韓つっぱり力」という本を買いまして、これが予想外に面白うございました。もっとも、私が面白く思った点は、おそらく著者の意図とは見当違いの方向性だったのではないかと思いますが。

前書き1行目から「私は韓国が大好きです。」という親韓宣言で始まるこの本は、著者 渡部昌平氏の韓国駐在3年2カ月の体験に基づいて、日韓の問題点、韓国人との対話方法、相互理解の模索などについて書かれております。

著者は親韓でありながら、日韓の問題点を熟知しています。この「日韓の問題点を熟知している」という点で、著者の渡部氏は、韓国のことだけでなく日本のこともろくに知らずに日韓友好を唱える無知な親韓日本人とは大きく異なります。

さらに著者渡部氏の日韓問題に関する主張や理解の多くは、私の主張や理解とも概ね同調します。にもかかわらず、渡部氏は親韓で私は嫌韓という真逆の反応を面白く感じました。

渡部氏と私とでは何が異なるかと言えば、それはきっと韓国人に対する期待度だと思います。

渡部氏は、韓国人と分かり合うことが出来ると信じています。今日只今、この場ですぐには分かり合えずとも、事実を列挙し、相手の理解力に合わせて言葉を尽くし、誠意を持って接すれば、明日か、明日がだめでも明後日か、明後日がだめでもいつかきっと将来には分かり合える日が来るという期待を、氏は韓国人に対して持っています。

韓国人に対してこういう期待を抱く気持ちは、大変よくわかります。私だって最初から韓国人に絶望していたわけではありませんし、いまだに一縷の望みを捨て切れないのが正直なところです。

しかし現実問題として、日韓間の諸問題は昨日今日始まったものではなく、そしていまだに何ひとつ解消されておりません。

日韓の国交正常化が成立して40年余が過ぎます。氏が夢想する「日韓の相互理解」が対話によって本当に実現可能なのであれば、日韓の民間レベルでの自由な対話や交流が可能になったこの40年余で、何十回となく日韓相互理解が実現しているでしょう。

そもそも、「日韓間の問題」とは、実は日韓併合でも慰安婦でも竹島でも日本海の呼称でも靖国参拝でもありません。韓国人の日本に対する劣等感があらゆる問題の根源です。

これを日本人がいくら言葉と誠意を尽くして払拭してやろうと努力しても無駄です。やればやるほど、かえって彼らの劣等感を刺激し増殖させるだけでしょう。

いや、この本の通りにすれば私の韓国人友達は理解してくれたということもあるかもしれません。おそらくは誰よりも、著者の渡部氏がそう主張されるのではないかと思います。

ではその「理解してくれた」韓国人友達は、その理解を他の韓国人に広めてくれるでしょうか。その理解してくれた韓国人友達が、韓国世論の一部を形成することが有り得るでしょうか。

私は「絶対に有り得ない」と断言できます。

だからこの本に則って韓国人の説得を試みても相互理解を模索しても、行き着く先にあるのは間違いなく出発点と同じ泥沼です。

ただ、この本は日韓問題の基礎知識を実に平易に説明しており、日韓問題の初学者には手頃な入門書だと思います。そういう意味で、私はこの本を高く評価しております。

なお、この本は単品で読んでもそれなりに楽しめますが、これより1年早く上梓された「つきあいきれない韓国人」という本とあわせて読むと、一層興味深いと思います。



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