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江戸時代の科学のレベル(3)

2014年02月24日 18:37

伊能忠敬

  伊能忠敬(1745-1818)は今日小学生でも知っている偉人として讃えられている、詳細かつ正確な日本地図を初めて完成した人物である。この日本地図はシーボルトが国外に持ち出したとして、大騒動になったが、その写しをペリーが日本に来た際に持っていた。ペリーはこの地図は概略図くらいに思っていたので安全な航海のために正確な地図を得る必要があったので海岸線を測量したが、極めて正確である事に驚きかつ再測量する必要もなかった。それ程正確な日本地図は数学や天文学、測量学を50歳になるまでやった事の無い一商人が50歳に隠居してからなし遂げた事だというから驚き。

忠敬は17歳の時、今の千葉の佐原村の酒、醤油の醸造、水運業を営む伊能家に婿入り(1762年)した。佐原は利根川を利用した水運の中継地として栄え、江戸との交流も盛んであった。また佐原は天領として武士は一人も住んでおらず、村政は村民の自治によって決められることが多かった。江戸時代にあってもかなり自由な雰囲気のある、文化度の高い村であった。この要素が伊能忠敬を生み出す大きな要素になった。

忠敬は暦学や天文学に興味を持ち、江戸から本を取り寄せて勉強していたが、志やまず、再度隠居願いを出し(1794年)認められ家督を長男に譲り隠居した。その翌年、すでに50歳になっていたが、江戸の深川に居を構え、麻田剛立の弟子の高橋至時に弟子入りした。その時師匠の至時は31歳であった。
 至時は弟子に対しては、まずは古くからの暦法『授時暦』で基礎を学ばせ、次にティコ・ブラーエなどの西洋の天文学を取り入れている『暦象考成上下編』、さらに続けて、ケプラーの理論を取り入れた『暦象考成後編』と、順を追って学ばせることにしていた。しかし忠敬は、すでに『授時暦』についてはある程度の知識があったため、『授時暦』と『暦象考成上下編』は短期間で理解できるようになった。観測技術や観測のための器具については重富が精通していたため、忠敬は重富を通じて観測機器を購入した。忠敬が観測していたのは、太陽の南中以外には、緯度の測定、日蝕、月蝕、惑星蝕、星蝕などである。また、金星の南中(子午線経過)を日本で初めて観測した記録も残っている。忠敬と至時が地球の大きさについて思いを巡らせていたころ、蝦夷地では帝政ロシアの圧力が強まってきていた。寛政4年(1792年)にロシアの特使アダム・ラクスマンは根室に入港して通商を求め、その後もロシア人による択捉島上陸などの事件が起こった。日本側も最上徳内、近藤重蔵らによって蝦夷地の調査を行った。また、堀田仁助は蝦夷地の地図を作成した。
  至時はこうした北方の緊張を踏まえた上で、蝦夷地の正確な地図をつくる計画を立て、幕府に願い出た。蝦夷地を測量することで、地図を作成するかたわら、子午線一度の距離も求めてしまおうという狙いである。そしてこの事業の担当として忠敬があてられた。忠敬は高齢な点が懸念されたが、測量技術や指導力、財力などの点で、この事業にはふさわしい人材であった。忠敬一行は寛政12年(1800年)4月、自宅から蝦夷へ向けて出発した。忠敬は当時55歳で、内弟子3人(息子の秀蔵を含む)、下男2人を連れての測量となった。5月29日、箱館を出発し、本格的な蝦夷測量が始まった。
一行は海岸沿いを測量しながら進み、夜は天体観測をおこなった。11月上旬から測量データを元に地図の製作にかかり、約20日間を費やして地図を完成させた。蝦夷測量で作成した地図に対する高い評価は堀田摂津守の知るところとなり、摂津守と親しい桑原隆朝を中心に第二次測量の計画が立てられた。最終的に今回は、伊豆以東の本州東海岸を測量することに決められた。
地図は第一次測量のものと合わせて、大図・中図・小図の3種類が作られた。そのうち大図・中図は幕府に上程し、中図は堀田摂津守に提出した。また、子午線一度の距離は28.2里と導き出した。更に忠敬らは第一次から第四次までの測量結果から東日本の地図を作る作業に取り組み、文化元年(1804年)、大図69枚、中図3枚、小図1枚から成る「日本東半部沿海地図」としてまとめあげた。この地図は同年9月6日、江戸城大広間でつなぎ合わされて、十一代将軍徳川家斉の上覧を受けた。

ついで文化3年(1806)年西日本の測量も忠敬が受け持つことになり、続いて四国、九州の測量も行なった。
文化8年(1811)、忠敬らは、前回の九州測量で測れなかった種子島、屋久島、九州北部などの地域を測量した。続いて伊豆七島などを測量する第九次測量と並行して、江戸府内を測る第十次測量をおこなった。
測量作業を終えた忠敬らは、八丁堀の屋敷で最終的な地図の作成作業にとりかかった。
地図の作成作業は、当初は文化14年の終わりには終わらせる予定だったが、この計画は大幅に遅れた。それでも文化14年いっぱいは、地図作成作業を監督したり、門弟の質問に返事を書いたりしていたが、文政元年(1818年)になると急に体が衰えるようになった。そして4月13日、弟子たちに見守られながら満73歳で生涯を終えた。地図はまだ完成していなかったため、忠敬の死は隠され、高橋景保を中心に地図の作成作業は進められた。
文政4年(1821年)、『大日本沿海輿地全図』と名付けられた地図はようやく完成した。7月10日、景保と、忠敬の孫忠誨(ただのり)らは登城し、地図を広げて上程した。そして9月4日、忠敬の喪が発せられた。
忠敬は死の直前、私がここまでくることができたのは高橋至時先生のおかげであるから、死んだ後は先生のそばで眠りたいと語った。そのため墓地は高橋至時・景保父子と同じく上野源空寺にある。また佐原の観福寺にも遺髪をおさめた参り墓がある。

この頃、天文学に興味ある人々の関心ごとは、“いったい地球の直径はどれくらいなのか”という疑問だった。オランダの書物から地球が丸いということを知ってはいたが、大きさがよく分からなかった。そこで忠敬は「北極星の高さを2つの地点で観測し、見上げる角度を比較することで緯度の差が分かり、2地点の距離が分かれば地球は球体なので外周が割り出せる」と提案。この2つの地点は遠ければ遠いほど誤差が少なくなる。そこで江戸からはるか遠方の蝦夷地(北海道)まで距離を測ればどうだろうかと。
忠敬は3年間をかけて東日本の測量を終え江戸に戻ると、さっそく本来の目的であった地球の大きさの計算に取り組んだ。その結果を、後に至時が入手したオランダの最新天文学書と照らし合わせると、共に約4万キロで数値が一致し、師弟は手に手を取り合って歓喜したという。この時忠敬が弾き出した数値は、現在分かっている地球の外周と千分の一の誤差しかない正確なものだったというからすごい。

こうして今まで漠然と日本地図を作った一商人と思っていた伊能忠敬が詳しく調べてみると、遙か手の届かない偉大な超一流の科学者である事が分かった。なにしろ正確無比。あの当時の器具で歩いての測量でこんなに正確なデータが採れるなんて驚き。更に日本の南の端から北の果てまで16年の長きに渡り,55歳から71歳まで測量を続けるこの根性。この偉大な業績は彼の几帳面な性格と長い年月の努力と忍耐の結晶。科学者の鏡。


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