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真田信繁の生き様 (1)

2016年10月24日 15:54

九度山幽閉
  1600年、関ヶ原の戦いが始まると、父昌幸と弟信繁は石田三成方の西軍につき、兄の信之は徳川方東軍に加わって参戦。勝負はあっけなく6時間あまりで決し、徳川家康が勝った。昌幸、信繁父子は死罪となるところを信之や本多忠勝の必死のとりなしで、高野山の麓の九度山へと蟄居させられる。真田父子の戦いでは2度とも徳川軍を相手に上田城で戦い、勝利を収めたにもかかわらず、関ヶ原の大戦で西軍が負けたため、局地戦では勝ったが、勝負に負けるということを味わった。もし真田昌幸が関ヶ原に行って参戦していたら、勝敗はどうなっていたであろうか? 昌幸は関ヶ原の戦いのような多くの大名が集まり戦う大会戦ということから、1日や2日で決着がつくとは思っていなかった。まさに自分の描いていた戦略とは懸け離れた決着をしてしまい、徳川の威光に屈するようになった悔しさは計り知れないものがあった。
それから14年間貧乏のどん底を味わい、真田紐を売ったり、兄信之の差し入れにより糊口をしのいだ。今も九度山に真田庵という真田父子が過ごした田舎家が残っている(写真 )。どん底の生活を送っていたことが垣間見れる。徳川からの恩赦をひたすら待っていた父昌幸はその最中、1611年に九度山で亡くなる。関ヶ原へ向かう道中、上田にて足止めを食らい、戦闘に間に合わず、家康から大目玉を食らった徳川秀忠の真田への怨念は強く、絶対に許そうとしなかった。

  大阪冬の陣
何と言っても14年間という長い幽閉の思いが一気に大阪冬の陣に向けて吐き出される。
九度山を宴会の最中に抜け出し、大阪城に入った真田繁信改め幸村は秀頼より総大将の就任を依頼されたが、目立ちたがり屋で大法螺吹きの後藤又兵衛や毛利勝永などに拒絶され、また馳せ参じた浪人たちのまとめ役の秀頼の側近、大野修理の優柔不断さもあって、議論は空回り。結局は実績よりも大言壮語の人物が自分の軍を率い、総大将は秀頼がなるという、統率のとれない軍隊とは言えないような組織となる。これでは家康が「烏合の衆の大阪方が何万人居ようとも怖くない、ただ真田だけが心配だ」と言ったことは理解できる。
 鉄砲や大砲が発達してきた関ヶ原以降の戦闘では昔と違って個人対個人の戦いでなく、統率のとれた集団として動くことが大切。いくら勇猛果敢な豪傑であっても単独での活躍はあり得ない。後藤又兵衛などはすでに時代遅れとなっていることに本人は気づいていない。
そのような状況下、幸村の大阪城から打って出るという積極策は取り入れられず、籠城策となる。しかし射程距離の長い大砲が開発され、巨大な大阪城と言えども城の外から攻めることができる時代には無意味とも言える籠城であった。これ以降遠くから距離を置いて攻めることができる戦闘での籠城策は意味をなさない。明治維新時の会津鶴ヶ城(若松城)も、兵を持っての攻めには随分抵抗もできたが、向かいの山の上からのアームストロング砲には手も足も出なかった。
 幸村は守りと攻めを兼ねた、真田丸砦を築き、徳川軍を迎え撃つということになった。ここまでが先週の真田丸の放映。これからが真田丸のクライマックス。

九度山の写真 写真1:真田庵 写真2:真田庵由緒 写真3:貧乏生活 写真4:昌幸墓


真田2s
真田1s
真田3s
真田4s


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