2009年01月02日 11:50
激動と混沌の時代を迎えるあなたへ
2009年の年が明けた。100年に一度という程の不景気な年を迎え、激動の混沌の時代がやってくる。今日は激動期、混沌期に生きた2人の人物を取り上げ、その精神構造が最終的な判断にどのように影響を与えていったかを考察したい。
河井継之助と山本五十六は長岡の出身で、深い因縁をもった二人であった。長岡を中心とする中越から上越国境の魚沼地方は一年の3分の一が雪に閉ざされてしまう。深い雪、長い冬、厳しい寒気、そして貧しさ。この風土の越後に育った人は律義さと忍耐強さで知られている。ともに忘れてならないのは進取の気性にも富んでいることである。長岡人は常に「いっちょ前」の人間になることを目指していた。深い雪に長い間閉ざされ、忍従の生活を強いられ,はけ口のないエネルギーがある一点を目指して蓄積され、そして爆発していく。河井継之助と山本五十六,更に過去に遡れば上杉謙信と、ストイックに自分の信念を説き、ついには忍耐が切れ、爆発へと向かっていく様は何か共通したものがあるように見える。長岡人の血には「なにごとかなさざればやまず。しかも他人の手を借りることなく」の熱情が流れているという。
山本五十六は高野家に生まれた。家は代々長岡藩の儒官の家柄である。祖父は明治維新の長岡攻防戦で、77歳で敵陣に切り込んで戦死。父も銃士隊に加わって参加、戦争に負けて苦労を重ね、明治になって役人、小学校長を務めた。その6男として1984年に生まれた。長岡中学校を卒業し、海軍兵学校に入学。入学成績は2番。海兵卒業次席は13番であった。首席は後の親友で、対欧米協調派の筆頭であった堀悌吉であった。卒業と同時に巡洋艦日新に乗り込み、日本海海戦に参加することになる。その時。左手薬指と中指を失うという重傷を負う。この高野五十六が戊辰戦争の時、河井継之助の片腕として戦い,戦死した長岡藩家老の山本帯刀家に入り名をついだ。以後は山本五十六となった。河合家と山本家は明治になっても逆賊の烙印が消されることもなく、世を潜んで暮していた。山本は錦の御旗に逆らった藩の出身として、また薩摩閥の強い海軍において、いつも日陰の道を歩まされてきた。そんな山本には「薩長何するものぞという反骨心がむらむらと湧き、今に見ていろ人が目を剥くような「いっちょ前の」仕事をしてやるぞとの気概あった。これは河井継之助と共通した魂であろう。
河井継之助は自分を単純な佐幕論者ではない、確たる戦略論をもっていると思っていた。それゆえ、長岡藩を横暴極まる薩長軍に無条件降伏してなるものかという思いがあった。よって恭順というひたすら皇軍にひれ伏すということが我慢出来なかった。しかし武装中立の立場を貫くという態度は、勝ちにおごる皇軍の軍監岩村の受け入れられるものではなかった。「かくまで誠意を尽くして嘆願しても、お認めなくばやむをえぬ。弓矢の道の命ずる通り、藩を焦土とかしてもお相手つかまつろう」となる。その背景にはおのれが築き上げた長岡軍団の強靭さがあった。最強の兵器と精強の兵を用いて,世の言う不可能を可能にしてみようではないかという過信があった。河井継之助という侍は当時にあっては珍しい程武士道に生きる武人であり、炸裂するような激しさで美学的な破滅を選んだ。
山本五十六は対米英戦争は日本を亡国に導くと猛烈に反対してきた。また対英米協調派の旗頭のひとりだった親友海軍中将堀悌吉が伏見宮軍令部総長を頭にいただく対英米強硬派の画策で、予備役に入れられた後も、海軍大臣米内光政大将、次官山本五十六中将、軍務局長井上成美少将のトリオが中心になって、三国同盟に反対し、対米協調を唱えてきた。しかしやがて山本は連合艦隊司令長官となって中央から飛ばされ、井上も軍務局長から離れて、支那方面艦隊参謀長として出されることになる。そして、陸軍が、国中が、海軍までもが対米開戦の主流派に乗っ取られ大合唱し始める。
そんな中でも、山本は国力を基本にした戦略観から、アメリカと戦ったら間違いなく日本が負けると確信していた。にもかかわらず、開戦3ヶ月前に、近衛文麿首相から意見を求められ「もしやれと言われるなら,一年や一年半は大いに暴れてご覧に入れる」と言ってしまう。あえて「対米戦争はやれません。やれば必ず負けます」とはなぜ言えなかったのであろうか。自分が造り上げた空母、航空部隊の威力と真珠湾奇襲という破天荒且つ斬新な戦略をためしたいという軍人特有の感覚が心底にあったのと、いままでの鬱屈した精神が跳ね、「何事か成さざればやまず」という河井継之助を突き動かしたのと同じ越後人魂がむくむくとでてきたのではないか。その結果、真珠湾奇襲となり、太平洋戦争に突入する。
河井継之助も山本五十六もどちらかというと寡黙で、長々しい説明や説得を嫌った。分からぬものに己の内心を語りたがらず、ついてくるもののみを好む。分からんやつには説明しても分からん、と木で鼻をくくったような横着なところがある。河合も藩で意見の合わない者を説得するということはせずに、容赦なく排除したように、山本も海軍中央と実戦部隊司令部との食い違いを埋められないまま、戦争に突入していった。連合司令長官として山本は孤独な戦いを戦ったという他はない。こうしてみると、河合といい山本といい、「己を棄てて泥にまみれ罵詈雑言に耐える」ことを最後まで貫くことができず、そんなに言うのなら自分の実力を目にも見せてやらんとの気概がむくむくとこみ上げてきたのではないか。山本の立場で言えば、本来国家の大計をたてるのは政治家がやるべき仕事で軍人のやる仕事ではない。軍人は一旦国家の方針が決まったらそれに従うべきものなのである。という心もあった。
世論を気にせず、己の信念のまま、未来の国を見通して大義を貫くのはなんと難しいことか?
日本がなぜ負けると分かっている戦争に突入したのか?いかにして欧米協調派が排除されていったのかについては別の機会に議論したい。
(参考:半藤一利著 山本五十六)
2009年の年が明けた。100年に一度という程の不景気な年を迎え、激動の混沌の時代がやってくる。今日は激動期、混沌期に生きた2人の人物を取り上げ、その精神構造が最終的な判断にどのように影響を与えていったかを考察したい。
河井継之助と山本五十六は長岡の出身で、深い因縁をもった二人であった。長岡を中心とする中越から上越国境の魚沼地方は一年の3分の一が雪に閉ざされてしまう。深い雪、長い冬、厳しい寒気、そして貧しさ。この風土の越後に育った人は律義さと忍耐強さで知られている。ともに忘れてならないのは進取の気性にも富んでいることである。長岡人は常に「いっちょ前」の人間になることを目指していた。深い雪に長い間閉ざされ、忍従の生活を強いられ,はけ口のないエネルギーがある一点を目指して蓄積され、そして爆発していく。河井継之助と山本五十六,更に過去に遡れば上杉謙信と、ストイックに自分の信念を説き、ついには忍耐が切れ、爆発へと向かっていく様は何か共通したものがあるように見える。長岡人の血には「なにごとかなさざればやまず。しかも他人の手を借りることなく」の熱情が流れているという。
山本五十六は高野家に生まれた。家は代々長岡藩の儒官の家柄である。祖父は明治維新の長岡攻防戦で、77歳で敵陣に切り込んで戦死。父も銃士隊に加わって参加、戦争に負けて苦労を重ね、明治になって役人、小学校長を務めた。その6男として1984年に生まれた。長岡中学校を卒業し、海軍兵学校に入学。入学成績は2番。海兵卒業次席は13番であった。首席は後の親友で、対欧米協調派の筆頭であった堀悌吉であった。卒業と同時に巡洋艦日新に乗り込み、日本海海戦に参加することになる。その時。左手薬指と中指を失うという重傷を負う。この高野五十六が戊辰戦争の時、河井継之助の片腕として戦い,戦死した長岡藩家老の山本帯刀家に入り名をついだ。以後は山本五十六となった。河合家と山本家は明治になっても逆賊の烙印が消されることもなく、世を潜んで暮していた。山本は錦の御旗に逆らった藩の出身として、また薩摩閥の強い海軍において、いつも日陰の道を歩まされてきた。そんな山本には「薩長何するものぞという反骨心がむらむらと湧き、今に見ていろ人が目を剥くような「いっちょ前の」仕事をしてやるぞとの気概あった。これは河井継之助と共通した魂であろう。
河井継之助は自分を単純な佐幕論者ではない、確たる戦略論をもっていると思っていた。それゆえ、長岡藩を横暴極まる薩長軍に無条件降伏してなるものかという思いがあった。よって恭順というひたすら皇軍にひれ伏すということが我慢出来なかった。しかし武装中立の立場を貫くという態度は、勝ちにおごる皇軍の軍監岩村の受け入れられるものではなかった。「かくまで誠意を尽くして嘆願しても、お認めなくばやむをえぬ。弓矢の道の命ずる通り、藩を焦土とかしてもお相手つかまつろう」となる。その背景にはおのれが築き上げた長岡軍団の強靭さがあった。最強の兵器と精強の兵を用いて,世の言う不可能を可能にしてみようではないかという過信があった。河井継之助という侍は当時にあっては珍しい程武士道に生きる武人であり、炸裂するような激しさで美学的な破滅を選んだ。
山本五十六は対米英戦争は日本を亡国に導くと猛烈に反対してきた。また対英米協調派の旗頭のひとりだった親友海軍中将堀悌吉が伏見宮軍令部総長を頭にいただく対英米強硬派の画策で、予備役に入れられた後も、海軍大臣米内光政大将、次官山本五十六中将、軍務局長井上成美少将のトリオが中心になって、三国同盟に反対し、対米協調を唱えてきた。しかしやがて山本は連合艦隊司令長官となって中央から飛ばされ、井上も軍務局長から離れて、支那方面艦隊参謀長として出されることになる。そして、陸軍が、国中が、海軍までもが対米開戦の主流派に乗っ取られ大合唱し始める。
そんな中でも、山本は国力を基本にした戦略観から、アメリカと戦ったら間違いなく日本が負けると確信していた。にもかかわらず、開戦3ヶ月前に、近衛文麿首相から意見を求められ「もしやれと言われるなら,一年や一年半は大いに暴れてご覧に入れる」と言ってしまう。あえて「対米戦争はやれません。やれば必ず負けます」とはなぜ言えなかったのであろうか。自分が造り上げた空母、航空部隊の威力と真珠湾奇襲という破天荒且つ斬新な戦略をためしたいという軍人特有の感覚が心底にあったのと、いままでの鬱屈した精神が跳ね、「何事か成さざればやまず」という河井継之助を突き動かしたのと同じ越後人魂がむくむくとでてきたのではないか。その結果、真珠湾奇襲となり、太平洋戦争に突入する。
河井継之助も山本五十六もどちらかというと寡黙で、長々しい説明や説得を嫌った。分からぬものに己の内心を語りたがらず、ついてくるもののみを好む。分からんやつには説明しても分からん、と木で鼻をくくったような横着なところがある。河合も藩で意見の合わない者を説得するということはせずに、容赦なく排除したように、山本も海軍中央と実戦部隊司令部との食い違いを埋められないまま、戦争に突入していった。連合司令長官として山本は孤独な戦いを戦ったという他はない。こうしてみると、河合といい山本といい、「己を棄てて泥にまみれ罵詈雑言に耐える」ことを最後まで貫くことができず、そんなに言うのなら自分の実力を目にも見せてやらんとの気概がむくむくとこみ上げてきたのではないか。山本の立場で言えば、本来国家の大計をたてるのは政治家がやるべき仕事で軍人のやる仕事ではない。軍人は一旦国家の方針が決まったらそれに従うべきものなのである。という心もあった。
世論を気にせず、己の信念のまま、未来の国を見通して大義を貫くのはなんと難しいことか?
日本がなぜ負けると分かっている戦争に突入したのか?いかにして欧米協調派が排除されていったのかについては別の機会に議論したい。
(参考:半藤一利著 山本五十六)
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