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意地を通して朝敵にー大鳥啓介

2017年02月01日 14:19


  大鳥圭介—死んでたまるかー 
                                         伊東潤 著 より
 先の赤松円心から下ること500年、幕末に朝敵となっても、最後まで江戸幕府側に立ち、徹底抗戦した男が、円心と同じ播磨の国赤松村に医師の長男として生まれた。大鳥啓介である。わずか149cmのチビでありながら、武士の反骨とフランス式軍学の圧倒的知識で朝廷軍を苦しめた。
 幼少期より優秀で13歳の時に岡山藩の閑谷学校に入学し、漢学、儒学、漢方医学を5年間学んだ。その後、赤穂の蘭学医の助手を2年したのち、全国より英才が集まることで有名な緒方洪庵の適塾に入学。蘭学と西洋医学を学ぶ。さらに適塾時代の仲間と共に江戸に出る。薩摩藩邸にてオランダ語の翻訳や技術指導をした。坪井塾では塾頭となり、軍学、工学に関心が移るようになる。この間、西洋式兵学や写真術を学び勝海舟とも知り合った。その後江川塾に兵学教授として招かれる傍、中浜万次郎に英語を学ぶ。

幕臣に取り立て
幕府との関わりは江川英敏の推挙により、御鉄砲方附蘭書翻訳方出役として出仕したことに始まる。元治2年(1865年)、陸軍所に出仕した後は富士見御宝蔵番格として正式に「幕臣」に取り立てられ、俸禄50俵3人扶持の旗本となる。
伝習隊創設を進める幕府の勘定奉行小栗忠順に頼み、同じく幕臣の矢野次郎、荒井郁之助、沼間守一らと友にこれに参加する。大鳥は歩兵隊長として士官教育を受け、歩兵頭並(佐官級)となり、幕府陸軍の育成や訓練にあたった。慶応4年(1868年)1月28日、歩兵頭に昇進。鳥羽・伏見の戦い後の江戸城における評定では小栗忠順、水野忠徳、榎本武揚らと共に交戦継続を強硬に主張する。2月28日には陸軍の最高幹部である歩兵奉行(将官級)に昇進した。

錦のみ旗に楯突いて-
慶喜は薩摩討伐の令を発し、1月2日から3日にかけて「慶喜公上京の御先供」という名目で事実上京都封鎖を目的とした出兵を開始した。旧幕府軍主力の幕府歩兵隊及び桑名藩兵、見廻組等は鳥羽街道を進み、会津藩、桑名藩の藩兵、新選組などは伏見市街へ進んだ。鳥羽街道を封鎖していた薩摩藩兵と旧幕府軍先鋒が接触をきっかけに戦闘が開始された。最初の頃は一進一退を繰り返していたが、その間に朝廷では緊急会議が召集された。大久保は旧幕府軍の入京は政府の崩壊であり、錦旗と徳川征討の布告が必要と主張したが、春嶽は薩摩藩と旧幕府勢力の勝手な私闘であり政府は無関係を決め込むべきと反対を主張。会議は紛糾したが、議定の岩倉が徳川征討に賛成したことで会議の大勢は決した。朝廷では仁和寺宮嘉彰親王を征討大将軍に任命し、錦旗を与え、薩長軍がいわゆる官軍となった。錦の御旗が掲げられると、戦闘は一転、官軍が圧倒的に優勢になる。
錦の御旗が翻るのを見て、徳川慶喜は僅かな側近と老中板倉勝静、老中酒井忠惇、会津藩主松平容保・桑名藩主松平定敬と共に密かに城を脱し、大坂湾に停泊中の幕府軍艦開陽丸で江戸に退却した。江戸城での評定において、小栗上野介、水野忠徳、榎本武揚らと徹底抗戦を主張するも受け入れられず、勝海舟と西郷隆盛の間で無血開城が決定される。大鳥圭介は伝習隊500を率いて、江戸から脱出し、市川、宇都宮、今市と転戦し会津へ至る。

蝦夷地へ、そして敗戦
土方歳三と合流、転戦し、母成峠の戦いで伝習隊は壊滅的な損害を受けたものの辛うじて全滅は免れ仙台に至る。仙台にて榎本武揚と合流して蝦夷地に渡り、箱館政権の陸軍奉行となる。箱館戦争では遅滞戦術を駆使し粘り強く戦ったものの、徐々に追い詰められ、土方歳三は最後の特攻に参加し、銃で狙い撃たれ腹部大動脈銃創で即死。享年35歳。そのすぐ後、明治2年(1869年)五稜郭で降伏したのち、東京へ護送され、軍務局糺問所へ投獄された。

逆賊が一転、明治政府の重臣へ
薩摩の重鎮黒田清隆の助命嘆願により、命を助けられ、明治5年(1872年)に特赦により出獄後、新政府に出仕して、左院少議官、開拓使5等出仕を経て、工部大学校が発足し校長に任命される。明治14年(1881年)、工部技監に昇進。勅任官となり技術者としては最高位になる。同年、東京学士会院会員に任命される。4年後の明治18年(1885年)には元老院議官に上り詰め、男爵を授けられる。享年78。
函館の五稜郭まで行って、最後の最後まで明治政府に徹底抗戦し、岩倉具視や木戸孝允が強く反対し、死を覚悟していたにもかかわらず、榎本武揚とともに許されて、明治政府の要人となり活躍した。
 明治政府の重鎮黒田清隆が助命に奔走し、命をとりとめた。大きな理由は黒田清隆と仲がよかったとも、明治政府の実力者の大久保俊道が、新政府の実質的な支配者は誰であるかを岩倉や木戸(志半ばで西南戦争中に病死、享年45)へ教える必要があったとも言われている。五稜郭の生き残り組は明治政府での活躍の機会を与えられた。こうして見ると、明治政府の人材が不足していたためなのか、榎本武揚、大鳥圭介のように最後まで戦った幕府方トップの抵抗勢力まで許された。初期の頃に捕らえられた幕府の要人(小栗上野介などは部下共々即刻打ち首)は斬首された者が多かったのに、最後まで戦った者が許されるという結末。最初の頃は明治政府も自信や余裕がなく楯突くものに厳しく当たっていたが、五稜郭が落ちる頃は明治政府が成立、軌道に乗って、どう転んでも幕府方の勝ち目はないことが明らかになり、余裕ができた結果か?
 人の運命どこでどう転ぶか分からない。


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