2009年01月08日 17:41
伊地知幸介の悪評は事実か?
「坂の上の雲」の中で司馬遼太郎によって伊地知ほど無能で頑迷であるとして徹底的にひどい評価を受けた者はいない。本当にそんなに無能だったのか?
伊地知は薩摩藩士の伊地知直右衛門の長男として1854年に生まれる。陸士を優等で卒業後フランス、ドイツ留学。日清戦争には第2軍参謀副長として出征。大本営参謀、参謀本部第一部長、駐英武官とエリートコースを順調に進んだ。1904年、陸軍少将の時に旅順要塞攻撃のため新設された第3軍参謀長に就任し総司令官である乃木希典大将を輔弼した。その時の無能ぶりが、司馬遼太郎の酷評を受ける事となる。
その後旅順要塞司令官に発令され、東京湾要塞司令官に転じ、同期トップで陸軍中将に進んだ。1910年には軍務を退き、翌年、病気により休職した。1917年没。
旅順攻略は乃木希典を軍司令官とし伊地知幸介を参謀長とした第三軍が当たった。乃木軍の参謀長伊地知幸介の無能により日本兵の集団自殺的な戦死があったとされる。一人の人間の頭脳と性格が、これほど長期にわたって災害をもたらしつづけという例は、史上に類がないとも言われている。
戦況を把握して的確な作戦計画を立てるのが参謀長の職務でありながら、「終始砲声が聞こえていては落ち着いて思考できない」ことを理由に、司令部を後方の安全地帯に置き、要塞砲の増強要請に対しても「設置し直す手間がかかるので必要ない」と答えるなど、終始硬直した作戦計画を立てて機関銃や地雷で重装備しているロシア軍に対し、白襷をかけさせ肉弾攻撃に固執した。その結果、山腹が日本兵の死体で埋まり、ロシア兵ですら「無意味で不可解な突撃」と述べるほどの損害を出し続けた。乃木も対要塞の専門家とされていた伊地知に対し、戦術変更などの命令を積極的に行わなかった。
しかし彼の経歴を考えてみるに、伊地知は第5代、第7代野戦砲兵監を務め、砲兵の運用法研究や装備調達をする部署のトップであったにすぎず実戦経験も乏しかった。砲兵の大家だから、要塞攻撃にふさわしいと考えた人事がそもそも間違いだった。ただ司令官の乃木が長州出だから参謀長に薩摩出身の伊地知をもってきたといわれても仕方ない人事だった。また伊地知の不幸は乃木がすでに評判のいい名将軍とされ、彼を表立って批判ができなかった世論の反動が伊地知への批判に向かっていったことかもしれない。
乃木軍の第一回総攻撃によって強いられた日本兵の損害は、わずか六日間の猛攻で死傷15,800人であり、敵に与えた損害は軽微で小塁ひとつぬけなかった。第二回目の総攻撃では死傷4,900人で、要塞はびくともしない。 東郷艦隊の幕僚室では、なぜ乃木軍は二〇三高地に攻撃の主力を向けてくれないのかと思っていた。東京の大本営にとっても、乃木軍の作戦のまずさとそれを頑として変えようとしないことには困り果てていた。大本営でも二〇三高地を攻めるように頼んだが、命令系統のこともあり、示唆程度に終わってしまう。
結局は児玉源太郎がやってきて、方針を変更し東京湾から二十八サンチ榴弾砲を持ってくる。これが日本敗亡の危機から救い出すことになる。司馬遼太郎は児玉をしてこういわしめている。「司令部の無策が、無意味に兵を殺している。貴公はどういうつもりか知らんが、貴公が殺しているのは日本人だぞ」と。
人が良いだけの司令官と、大局観の無い頑固な参謀により、死ななくてもいい多くの兵士が亡くなった。乃木将軍は明治天皇にかわいがられ、明治天皇の崩御とともに殉死し神様に祭り上げられた。一方の伊地知幸介も日露戦争後には陸軍少将には珍しく爵位を授けられている。この例から見ても当時は評価が低かった訳ではない。表面だって糾弾されることはなかったし、それを糾弾すれば、陸軍首脳はなにをやっていたのだとなる。それを恐れた。だれも失敗の責任を取らないという官僚体質は昔も今も変わらない。坂の上の雲で司馬遼太郎が伊地知幸介をみごとにまで酷評したことで、その評価は地に落ちたが。一度このようなレッテルを張られてしまうと、それを払拭して、名誉挽回することは不可能に近い。
研究の世界でも、一方的にあの結果はおかしいなどと、風評をたてられてしまうと、反論の機会がなく、その噂が一人歩きする。そうなると、その噂が消えるのには時間がかかる。論文で反論される方がはるかにいい。当方の言い分が正しいのだと論文で主張できるから。
口コミの裏情報が飛び交い、その影響力の大きい日本社会ではネガテイブなレッテルを張られる事はその人の将来に致命的である(恐い、恐い)。
「坂の上の雲」の中で司馬遼太郎によって伊地知ほど無能で頑迷であるとして徹底的にひどい評価を受けた者はいない。本当にそんなに無能だったのか?
伊地知は薩摩藩士の伊地知直右衛門の長男として1854年に生まれる。陸士を優等で卒業後フランス、ドイツ留学。日清戦争には第2軍参謀副長として出征。大本営参謀、参謀本部第一部長、駐英武官とエリートコースを順調に進んだ。1904年、陸軍少将の時に旅順要塞攻撃のため新設された第3軍参謀長に就任し総司令官である乃木希典大将を輔弼した。その時の無能ぶりが、司馬遼太郎の酷評を受ける事となる。
その後旅順要塞司令官に発令され、東京湾要塞司令官に転じ、同期トップで陸軍中将に進んだ。1910年には軍務を退き、翌年、病気により休職した。1917年没。
旅順攻略は乃木希典を軍司令官とし伊地知幸介を参謀長とした第三軍が当たった。乃木軍の参謀長伊地知幸介の無能により日本兵の集団自殺的な戦死があったとされる。一人の人間の頭脳と性格が、これほど長期にわたって災害をもたらしつづけという例は、史上に類がないとも言われている。
戦況を把握して的確な作戦計画を立てるのが参謀長の職務でありながら、「終始砲声が聞こえていては落ち着いて思考できない」ことを理由に、司令部を後方の安全地帯に置き、要塞砲の増強要請に対しても「設置し直す手間がかかるので必要ない」と答えるなど、終始硬直した作戦計画を立てて機関銃や地雷で重装備しているロシア軍に対し、白襷をかけさせ肉弾攻撃に固執した。その結果、山腹が日本兵の死体で埋まり、ロシア兵ですら「無意味で不可解な突撃」と述べるほどの損害を出し続けた。乃木も対要塞の専門家とされていた伊地知に対し、戦術変更などの命令を積極的に行わなかった。
しかし彼の経歴を考えてみるに、伊地知は第5代、第7代野戦砲兵監を務め、砲兵の運用法研究や装備調達をする部署のトップであったにすぎず実戦経験も乏しかった。砲兵の大家だから、要塞攻撃にふさわしいと考えた人事がそもそも間違いだった。ただ司令官の乃木が長州出だから参謀長に薩摩出身の伊地知をもってきたといわれても仕方ない人事だった。また伊地知の不幸は乃木がすでに評判のいい名将軍とされ、彼を表立って批判ができなかった世論の反動が伊地知への批判に向かっていったことかもしれない。
乃木軍の第一回総攻撃によって強いられた日本兵の損害は、わずか六日間の猛攻で死傷15,800人であり、敵に与えた損害は軽微で小塁ひとつぬけなかった。第二回目の総攻撃では死傷4,900人で、要塞はびくともしない。 東郷艦隊の幕僚室では、なぜ乃木軍は二〇三高地に攻撃の主力を向けてくれないのかと思っていた。東京の大本営にとっても、乃木軍の作戦のまずさとそれを頑として変えようとしないことには困り果てていた。大本営でも二〇三高地を攻めるように頼んだが、命令系統のこともあり、示唆程度に終わってしまう。
結局は児玉源太郎がやってきて、方針を変更し東京湾から二十八サンチ榴弾砲を持ってくる。これが日本敗亡の危機から救い出すことになる。司馬遼太郎は児玉をしてこういわしめている。「司令部の無策が、無意味に兵を殺している。貴公はどういうつもりか知らんが、貴公が殺しているのは日本人だぞ」と。
人が良いだけの司令官と、大局観の無い頑固な参謀により、死ななくてもいい多くの兵士が亡くなった。乃木将軍は明治天皇にかわいがられ、明治天皇の崩御とともに殉死し神様に祭り上げられた。一方の伊地知幸介も日露戦争後には陸軍少将には珍しく爵位を授けられている。この例から見ても当時は評価が低かった訳ではない。表面だって糾弾されることはなかったし、それを糾弾すれば、陸軍首脳はなにをやっていたのだとなる。それを恐れた。だれも失敗の責任を取らないという官僚体質は昔も今も変わらない。坂の上の雲で司馬遼太郎が伊地知幸介をみごとにまで酷評したことで、その評価は地に落ちたが。一度このようなレッテルを張られてしまうと、それを払拭して、名誉挽回することは不可能に近い。
研究の世界でも、一方的にあの結果はおかしいなどと、風評をたてられてしまうと、反論の機会がなく、その噂が一人歩きする。そうなると、その噂が消えるのには時間がかかる。論文で反論される方がはるかにいい。当方の言い分が正しいのだと論文で主張できるから。
口コミの裏情報が飛び交い、その影響力の大きい日本社会ではネガテイブなレッテルを張られる事はその人の将来に致命的である(恐い、恐い)。
コメント
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Re:坂の上の雲と伊地知幸介
最近の「坂の上の雲」反証書籍で徐々に明らかになってきましたが,伊地知幸介は評価されるべき人物であったようです.司馬大衆講談の呪縛から解かれる日も遠くないかな.
( 2017年04月03日 00:52 [編集] )
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( 2018年01月11日 17:27 [編集] )
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