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荒木村重の城

2016年01月19日 14:22

数奇な運命の荒木村重

戦国の武将で信長を裏切った、(明智光秀の行為同様に謀反だと言われるが別に信長を暗殺しようとしたわけではない)荒木村重に関しては圧倒的に嫌いな人が多いであろう。信長を裏切り、黒田官兵衛を土牢に押し込めた人物として知られる。
荒木村重は1535年 荒木義村の嫡男として生まれた。荒木家は池田城主、池田長正の家臣であったが、荒木村重は池田長正の娘、だしを娶って池田家の一門に加わった。
村重は武名をとどろかせる豪傑で、権謀術数にも長けていて、主家の池田家を乗っ取る。その後、織田信長に仕えるようになり信任も厚く、摂津37万石を任され、伊丹城を改修して有岡城と改名した。現在、有岡城址はJR伊丹駅の真ん前にある。

 村重は思いの外、線の細い人情家で、敵城主を殺害せずに追放したり、裏切った家臣の人質も殺害せず、命を助けている。 反対に織田信長は平気で敵城主や裏切り者の処刑を命じ、村重はその板挟みで悩んでいたと思われる。

 織田信長の命令で石山本願寺の顕如と和睦交渉を行うが、失敗。その上、配下の中川清秀家中のものが100石の兵糧を敵の顕如に渡してしまう失態も起こす。また羽柴秀吉が攻め取った上月城を守っていた尼子勝久や山中鹿之助が毛利の大群に包囲された際に、荒木村重に救援命令が出たが、積極的に行動せず、結局尼子一族は上月城陥落とともに滅亡する。更には、滝川一益、丹羽長秀と神吉城攻めに参加した際、荒木村重は命令に反して降伏した敵将を逃したりした。このような幾たびかの失敗や命令違反を犯し、信長からきついお咎めがあるであろうことを恐れていた。
更にその上、決定的なことは羽柴秀吉の軍に属していたとき、信長の命令に背いて突然前戦線を離脱して有岡城へと帰ってしまい、硬く城を閉じてこもってしまった。
 高山右近や黒田官兵衛が説得に行くが、何しろ頑なで、官兵衛は逆に捕らえられて土牢につながれる始末。村重は過去の例からして信長という人物は一旦裏切った者は絶対に許さない、皆殺しにされると思っていた。有岡城に籠城し一年にあたり徹底抗戦したが、次第に状況が不利になると、一族郎等、部下を見捨て単身、「唐草文染付茶器銘荒木」という名茶器を携え、有岡城を脱出し嫡男の村次の居城である尼崎城に移ってしまう。現在、尼崎城址は阪神尼崎駅のすぐ横にあり、本居宣長と並び称された国学者契沖の記念碑もある。
信長は尼崎城と花隈城を空け渡せば妻子は助けると約束したが、村重にはその言葉は信用できなかった。
そのため信長は見せしめのために荒木家の家臣の妻子122人を鉄砲や長刀で処刑した、女中388人や下士124人は、家屋に閉じ込め生きたまま焼かれた。更に村重一族とその重臣の家族36人は大八車に縛り付けられ、京都市内を引き回されたのち、六条河原で斬首された。
だしは村重に「霜枯れに残りて我は八重むぐら 難波の浦の底のみくずに」私は霜に枯れた道草の雑草のように、難波の海底の水屑となるだけです、を送り、村重は「思ひきや天の架け橋ふみならし なにわの花も夢ならんとは」これまで築き上げてきたものが夢のように儚く壊れてしまうとは思いもしなかった、と返した(写真5)。
 
 信長は余程村重に対しての怒りが収まらないとみえ、八つ当たり気味に処罰した。この状況を見て京の人はみな震えあがり、「かやうのおそろしきご成敗は、仏之御代より此方のはじめ也」と記している。
このような信長の苛烈さ非情さが後の光秀の謀反にもつながったと思える。
しかし村重本人は一族郎等、妻子を皆殺しにされたのにもかかわらず、村次と共に更に荒木元清のいる花隈城へと逃れ、最後には毛利のもとへと亡命し、尾道に隠遁した。
その後、信長が本能寺で打たれると、堺に移り住み茶人として余生を送った。出家して道薫となお改め、1586年52歳でこの世を去る。
本人は自分の人生をどのように思ったのか分からないが、自分のみが可愛かったのか、それとも精神的に子供で、ただ怖くて現実から逃げ出しかったのか、武士の魂「義理や人情」にとらわれず、今で言えば普通の自己本位な未成熟なおじちゃんであったのかもしれない。

今や伊丹城(有岡城)や尼崎城は石垣の一部しか残っていない。当時を偲ぶよすがもない。
有岡城址、写真1−4;だし辞世の句5;尼崎城址 写真6−8;契沖碑9
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