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古くて新しい生物学

2014年01月29日 18:07

温故知新の生物学
  電気製品や自動車などの工学製品のみならず、生物学、基礎医学分野でもめまぐるしい技術革新が起こり,昨日の最新の情報、技術は明日にはもう古くさいものとなっている。私が研究人生を送っている最中に、様々な革新的技術が開発され、研究方法が一新され、多くの重要な生物学、基礎医学のテーマが解明されて来た。その時は分からなかったが、振り返るに生物学、基礎医学の研究史上ここ40年は最も輝ける時代であったように思える。
大発見は技術とアイデアが同期した時におこる。いくらアイデアがよくてもそれを実証する技術がなければ絵に描いた餅であり、逆に技術が進歩していてもアイデアがなければこれまた何も産まれない。このタイミングをうまく握った物が成功者となってきた。

  私が研究を始めた1970半ばは生化学全盛期の頃で、大量の生体サンプルから特定のタンパク質や分子を単離して、その性質を一つ一つ明らかにして行くという手法が研究の主流であった。そのため大量の組織から抽出しカラム操作を行なって精製して行くということが主な仕事であった。

  ところが、1980年代に入るとウイルスやがん遺伝子研究から生まれ生物、医学研究に革命をもたら遺伝子組み替え技術が応用され、様々なタンパク質のcDNAが採られるようになった。特に、生理活性を持つタンパク質の遺伝子は多くの研究者や企業の狩り場となり、激烈な競争がなされた(遺伝子hunting)。cDNAが採られると、目的とするタンパク質は細胞に融合タンパク質として発現させ、アフィニテイークロマトグラフィーを用いてのワンステップで採るという手法で簡単に精製出来るようになった。生化学的知識やクロマトの原理、技術すら知らなくとも実験出来るようになった。あれ程の努力は革新的な技術の登場によって完全に過去のものとなってしまった。

 更に、分子生物学手法が発達して、タンパク質の単離や細胞への発現、更にはタンパク質のノックアウトやノックダウンが簡単に行なえるようになると、培養細胞を利用してタンパク質の機能や作用機序を明らかにするという細胞生物学が隆盛し、物質の精製や代謝研究が主体の生化学はもはや死滅したとさえ言われた。

 2000年代に入って、生物学の最大のテーマ「人ゲノム解析プロジェクト」が完成し、全配列が決定された。ゲノム解析そのものは退屈な作業であるが、全体が決まったとなると、生物、医学に与えるインパクトは計り知れない。ゲノムから全てのタンパク質の一次構造が推定できるので、ごく一部のペプチド配列が決まるとデータベースからたちどころにタンパク質が何であるのかが決定できるようになった。タンパク質の同定も精製せずに質量分析器にかけることで、いとも簡単に出来るようになり、精製してアミノ酸シークエンサーにかけるという事も無くなった。

 その技術を応用して、タンパク質のリン酸化など、タンパク質の修飾部位を決める技術も開発され、それらを使用したプロテオミクスが行なわれるようになった。更に、タンパク質の量の変化、修飾変化が計れるようになると、今度は代謝産物の増減を計るメタボローム解析が起った。代謝産物は様々な酵素の活性の変動の結果として現れ、生体、細胞の状態を反映している。代謝産物の変化を見る事で、病気の診断に役立たり、細胞の状態を見たりしようとするメタボロミクスが流行り始めた。ゲノム解析—プロテオーム解析—メタボローム解析と時代は移って、今や代謝産物を分析するメタボロミクスがトレンドとなっているが、その流行のきっかけを作ったのは古くて新しいがん細胞の代謝研究であった。

 今から100年も昔、1920年代、Otto Warburgは「がん細胞では好気的条件下でのGlucoseの乳酸への代謝が10倍以上も上昇する」現象を見つけた。当時この現象が何を意味するのかは不明であったが、その意味が100年を経て今日明らかとなった。このaerobic glycolysisはWarburg effectと呼ばれ、「がん細胞はglucoseをエネルギー産生に使うよりも、細胞の増殖を起こすため、細胞の構成成分合成への中間代謝産物作りにまわす」ことが分かった。このWarburg effectはがん細胞に必須の特性として、がん治療薬開発のため100年を経た今、再度脚光を浴びる事になった。一時期、生化学、代謝研究は古くさいと思われ、忘れ去られた感があった。しかし現在、代謝ネットワーク研究(メタボロミクス)は様々な疾患の原因追求のみならず、増殖、分化、サバイバルのスイッチとして盛んに研究されている。

 がんが起る原因として老化の過程で、様々な遺伝子の変異が生じ、それらが累積する事が原因であるとする、Knudsonの「multi-hit hypothesis」で説明されて来たが 、実はそうではなく老化に伴って、Warburg effectと同じ代謝変化が起こりそれが細胞をがん化に向わせるという「Geroncogenesis」説が出され注目を集めている。その説では、「老化に伴う酸化的代謝の減少はWarburg effect 様の代謝変化をもたらし、oncogenic な変異を増強する。反対に、アンチエージング効果のあるカロリー制限、エクスササイズやアンチエイジング薬物(赤ワインの成分、resveratrol)などはoncogenic mutationを遅らせる事が出来る」とされる。実際に動物実験ではカロリー制限はがんの発生を抑制する。詳しくは「Geroncogenesis: Metabolic changes during aging as a driver of tumorigenesis. Cancer Cell 25, 12-19, 2014」を参照。
  老化に伴っての代謝の変化、つまりグルコースがミトコンドリアのエネルギー産生の低下により細胞構成成分の脂質や核酸合成に向けられる「Warburg effect」が起こりこれががんを引き起こすという。また糖尿病や動脈硬化など様々な病気も代謝異常によって起るし、単純な糖代謝産物がエピジェネチックに細胞の分化を調節し、その異常でがんが生じる事も分かって来た。かくして今や古くさい学問 「生化学、代謝学」が蘇って流行の最先端となっっている。

  コンピューター、電化製品、工業製品などは技術革新により、より良い新しい機能を持った製品が開発されると、もはや古いものは見向きもされなくなる。しかし生物学研究では温故知新「古きを温めて新しきを知る」が十分通用する世界である。生物学の基本はすでに存在する生物、究極は人間から真実を再発見し、学ぶことである。科学技術は日新月歩であるが、生き物を構築する生命現象は、常にそこにあり、変わる事は無く、生命の法則の神秘が明らかにされることをじっと待っている。

江戸時代の科学のレベル(2)

2014年01月15日 18:11

浪速の天文学者
麻田剛立

江戸時代の日本の科学水準が世界でも一流だったということを前のブログで書いたが、これは国内から自然に湧き出るように科学を行なう人が増え、様々な領域で一流の研究者が輩出した結果だ。今回、それ程名前は知られていない?が、ケプラーの法則(第三法則)を独自に導き出した浪速の天文学者麻田剛立について調べた。

麻田は江戸時代の天文学者 (1734-1799)。豊後国杵築藩出身。幼い頃から天体に興味を持ち、傷寒論などを読み独学で医学、天文学を学んだ。初めての和暦を作った渋川春海は(1639-1715)であるので両者が出会う事はなかった。彼が活躍した時代は春海が亡くなり、元禄文化が終わった宝暦—天明文化の時期であった。

天文学への志やめ難く、38歳に突然杵築藩を脱藩し大坂に入った。その後は麻田剛立と名を変え、大阪本町4丁目で医を業としながら研究を続けた。
 剛立の学風は漢訳西洋天文書の『崇禎暦書』をベースとし、理論を実測で確認するという近代的なもので、西洋よりはるかに劣る機器や技術で、ケプラーの第三法則と同じ法則を独自に発見したといわれる(出典 麻田剛立『五星距地之奇法』)。
 ケプラーは1619年に惑星の運動に関する法則として第一法則(楕円軌道の法則)、第二法則(面積速度一定の法則)、第三法則(調和の法則)よりなるケプラーの法則を発表した。第三法則は惑星の公転周期の2乗は、軌道の長半径の3乗に比例するというものである。公転周期の長さは楕円軌道の長半径のみに依存して決まることを意味する。楕円軌道の離心率に依存しないので、楕円軌道の長半径が同じであれば、円運動でも楕円運動でも周期は同じになる。この法則はニュートン力学で導くことができるのだそうだ。
しかし当時日本の天文学者がそうだったように麻田は惑星の軌道を円と認識し、「惑星軌道の半径の3乗と公転周期の2乗が比例する」と言う趣旨の記述をしており、正確に同じ法則を発見していたとは言えない。また一部には麻田の法則性発見に疑問をもつ科学史家もいるが、麻田が惑星軌道を楕円と認識せず、円と考えたうえで上記の法則を記述していたという“事実誤認”は、逆に麻田剛立の発見が彼独自のものであった可能性を強くしている。何れにしても麻田は全く閉鎖された社会で、観測事実に基づき独自に惑星の運動の法則を導き出した。
また麻田はオランダから輸入した初の高倍率グレゴリー式反射望遠鏡によって、日本最古の月面観測図を記した。8年後に起こる日食の情報を三浦に手紙で送った際、その月面観測図を併記した。この手紙は後年見つかり鹿毛敏夫がそれを題材に『月のえくぼを見た男』を書いている。アサダと命名された月のクレータは麻田に由来する。

  麻田は自分で集めたデータを基に、独自に法則を見いだし、考察を加えるという現在と同じ手法で研究をおこなっている。世界の情報から隔離された状態で、天体観測し、それを趣味のレベルに終わらせる事なく本(論文)として世に出した。
当時のヨーロッパではコペルニクス、ガリレオなる錚々たる学者が地動説なるものを唱え、すでに地球が太陽の周りを回転しているという事が分かり始め、天文学者の間で盛んに議論されていた頃である。隔離された遠い日本の地で、金もない一学者が、お金も名誉も地位も関係なく、捏造や改竄もなく、純粋に天文学が好きで、このような偉大な業績を成し遂げた事は見習うべきものがあると思う。研究の原点を見るような気がする。

 彼の下には多くの弟子が集まり「麻田学派」と呼ばれる一派が形成された。麻田は1799年65歳で没した。墓は浄春寺(大阪市天王寺区夕陽丘町)にある。彼の死後多くの弟子達、高橋至時・山片蟠桃・間重富らが活躍した。高橋至時は剛立の下に弟子入りし天文学、暦学を学んだ。丁度その頃西洋の天文学をまとめた最新の著書『暦象考成後編』を目にする。そこにはケプラーの唱えた楕円軌道が説明されていた。その理論を習得し、貧しい中、なけなしの金をはたいて望遠鏡を買い、天文学に熱中した。後に幕府の天文方となって寛政暦を作った。彼の業績はそこに留まらず多くの優秀な弟子を育てた、改暦のため江戸にいた時、伊能忠敬が弟子入りし、伊能忠敬に暦学、天文学を教え、文化元年(1804年)に死去した。享年41。遺体は上野の源空寺に葬られている。
伊能忠敬は至時の死後も測量を続け、日本全国の測量事業を完了させた。忠敬はその後の文政元年(1818年)、測量後の地図作成作業の途中で亡くなった。遺言で忠敬は、師である至時のそばに葬ってほしいとの言葉を残したため、源空寺に、至時と隣り合って墓石が置かれている。

麻田によって産まれた麻田学派なるものが、時代を経て、身分を越えて、継承され、高橋至時や伊能忠敬など優秀な人材を輩出し、江戸時代の天文学、暦学、測量学の発展に大きく寄与した。


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