2011年04月22日 17:57
広瀬中佐
坂の上の雲の放映があっけなく終わり、また続きは年末だと言う。なんと間の抜けた番組であろうか。何を考えているかは定かではないが、細切れに一年も間を於いて続けるなんて言うやり方は民放では考えられない。
前回のクライマックスは旅順港閉塞作戦で亡くなった広瀬中佐を巡ってのお話であった。当然、主人公は秋山真之になるのだけども、日露戦争における、情報戦では独学でロシア語を習得し、ロシアに留学、続いて駐在武官としてペテルブルグに居住した広瀬武雄中佐の役割も大きい。海軍将校コヴァレフスキー伯爵の娘のアリアズナ・ウラジーミロヴナとの恋。その恋は当然、成就する訳もない。日露の雲行きがますます怪しくなり、帰国命令を受け、厳冬のシベリアを当時できかけのシベリア鉄道でイルツークまで行きそれからは犬そりで横断しシベリアを偵察。帰国後、戦艦「朝日」の水雷長として日露戦争に出征、日露開戦で旅順港閉塞作戦が発動されるや志願して、第一回の「報国丸」、ついで第2回の「福井丸」指揮官として参加する。閉塞作成終了後、撤退時に行方不明となった部下杉野孫七上等兵曹を助けるため船内を3度捜索した後、救命ボートで脱出中頭部にロシア軍砲弾の直撃を受け戦死。享年36。
明石大佐
ロシアに、仏、独に続く3回目の公使館付武官として1902年、派遣された。開戦前の明石には際立った活躍はみられない。明石には海軍の広瀬武夫にあったヨーロッパ的な知性の素地がなかったし、風貌においても見劣りがしたから、社交界に溶け込んで情報を得ることができなかったものと思われる。それから2年後に日露戦争が始まる。
その明石に、開戦を前にして児玉は秘密命令を発するとともに100万円の工作資金を送った。国家予算が2億5000万円程度だった時代の100万円である。現在の金額に単純に換算すると2000億円を超える金を、明石に預けたことになる。
このような巨額の資金を一個人に預けるということ自体が賭けであるが、そもそもは日露戦争自体が大博打の性格をもった戦争だった。国家予算をすべて注ぎ込み、兵力を根こそぎ総動員し、文字どおり国を挙げての総力戦だった。
ペテルブルクの日本公使館は、開戦によってストックホルムに拠点を移すことになり、明石の謀略工作はロシアを離れたこのときから活発になる。明石ら公使館員は、ストックホルムでは予想外の大歓迎を受けた。ポーランドとフィンランドはロシアの属国となって久しく、かつての強国スウェーデンも、帝政ロシアの領土拡張政策の前に危機に曝されていた。大歓迎は、こうした東欧諸国の対露感情の表れだった。
日露戦争における明石の業績は、豊富な資金を東ヨーロッパの反ロシア勢力にばらまくことを通して、帝政ロシアの根幹を揺るがしたことにある。日露戦争の開戦が1904年2月、翌1905年5月には「血の日曜日」と呼ばれる事件を契機とするロシア第一次革命が始まっている。日本海海戦が同じ5月の末、講和条約の締結は、4か月後の9月である。もともとが陸軍国であるロシアは、自国内で戦うかぎりでは、海軍を失っても戦闘を継続するうえで大きな支障はなかった。
それを考えると、講和の決め手になったのは日本海海戦の敗北ではなく、国内の革命であったことが浮彫りになってくる。明石の業績は、その革命を促進したことにある。
明石の謀略工作の足跡は全ヨーロッパに及び、彼が工作して歩いた跡にことごとく帝政ロシアに対する反乱が起こるほどに成功した。ここから、明石の活躍を師団規模の兵力に匹敵すると評する見解がある。参謀本部編『機密日露戦史』はその一つで、「日露戦役戦勝の一原因もまた明石大佐ならざるか」と記している。一方、それ程の影響力はなかったという人もいる(21世紀「坂の上の雲」読本洋泉社ムック)の「明石元二郎は何をしたのか? 謀略の日露戦争~明石工作の虚像と実像」)
中秋の名月の日ストックホルムに降り立った。すでに季節は初頭、寒々とした空に満月が煌煌と輝いていた。
荒涼の満月
月光寒々と天空に冴え、木の葉落とした樹々の影を浮かび上がらせる。
満ちた月の輝きに星々は顔色を失い、月だけが煌煌と夜のしじまに君臨する。
北欧の荒涼たる原野に登る中秋の名月を仰ぎ見、遥かなる故国を思いやる。
今は遠い昔、月光を背に闇の街路へ消えて行く男。
遠い異国、遠い昔。ここにも日本男子の活躍あり。
満ちた月に浮かび上がる教会の尖塔。静寂と寂寥。まさにこれぞ旅愁。
ストックホルム及び郊外(写真1-3)および冴え渡る満月(写真4)
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