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家康の子供たち

2011年10月18日 18:35

歴史に翻弄される運命

 現在放映中の大河ドラマ「江―姫たちの戦国」では江の波瀾万丈の生涯が描かれている。江は浅井長政とお市の方の三女として生まれるも、信長の小谷城攻めでお城が陥落し浅井家は滅亡する。その後、母のお市の方が柴田勝家と再婚したため、一緒に越前国北ノ庄城へと移り住むが、またもや不幸が襲いかかり、勝家が秀吉に賤ヶ岳の合戦で破れ、勝家とお市は自害してしまう。江ら三姉妹は北ノ庄を脱出し、秀吉の保護監視下に入る。

その後、江は織田信雄の家臣の佐治一成に(11-12歳で)嫁ぐが、小牧長久手の戦いで、秀吉と家康、信雄の連合軍が戦い、結局は和議となり、佐治一成は追放され、江とも離縁した。江は秀吉の甥で養子の羽柴秀勝へ嫁(18歳頃)ぐ。しかし秀勝は朝鮮出兵中に病死し、再度寡婦になってしまう。そして今で言う、再々婚で徳川家康の三男で,2代将軍となる秀忠に(22歳)嫁ぐ。つまりはこれ程の不幸があるかと思われる波瀾万丈の末、将軍の正室になり、結果的には玉の輿となった。
ここまではいいのだが、徳川家の2代将軍になぜ三男の秀忠がついたのか?長男は信長に切腹させられたのは知っていたが、2男はどうなったのという疑問が浮かび、急遽調べてみた。(全くNHKドラマを見ていないので、後になって知ったが、2男の秀康の不運の生涯について放映されたらしい。)

徳川家康の長男は信康で二男が秀康であるが、家康の跡を継いだのは三男の秀忠であった。長男の信康は築山殿事件に巻き込まれ信長より切腹をさせられてしまう。
築山殿はもともと今川義元の妹の娘。家康は今川家の人質であった時代に築山殿と結婚し、3年後に信康が生まれた。時代は激動し今川は織田に桶狭間で倒され、いつしか今川に縁のある築山殿は家康と別居、信康は信長の娘の徳姫と結婚する。築山殿としてはこの処遇が面白くなく、甲斐の武田と内通して夫の家康を倒しわが子信康をたてて徳姫を排除、武田と連合で仇敵織田を倒さんと図ったとされている。
その動きを察知した徳姫はわが父信長に十二ヶ条の書状を書き、ちょうど信長に会いに行く予定のあった酒井忠次に託した。その書状を読んだ信長は激怒し、家康に、築山殿だけでなく、その子である信康も殺害するよう酒井を通して命じたとされる。かくして長男の信康は粛正されてしまう。

一方、秀康は徳川家康の次男として遠州浜松で生まれた。ただし、当時の家康の居城だった浜松城ではなく、浜松城下の有富見村である。母は三河国の永見吉英の娘で、家康の側室の於万の方。於万は家康の正室・築山殿の奥女中を務めていたが、家康の手が付いて秀康を身籠った。家康は築山殿の悋気を恐れ、於万を重臣の本多重次のもとに預けた。信康は秀忠が生まれた年に織田信長の命令で切腹している。このため、次男である秀康は本来ならば徳川氏の後継者となるはずであった。しかし小牧・長久手の戦いの後、家康と羽柴秀吉が和解するときの条件として、秀康は秀吉のもとへ養子として差し出されのちに結城氏を継いだので、三男の秀忠が実質的な世子として処遇されることになった。

秀康は元服して、羽柴の名字、および、養父・秀吉と実父・家康の名から一字ずつ取った名を与えられ、「羽柴秀康」と名乗った。秀吉に実子・豊臣鶴松が誕生すると、秀吉は鶴松を生後4ヶ月で豊臣氏の後継者として指名。そのため養子の秀康は、さらに養子に出された。秀康は関東に下り結城晴朝の姪と婚姻して北関東の名門・結城氏の家督および結城領11万1,000石を継いだ。秀吉死後の慶長5年、関ヶ原の戦いの前哨戦である会津征伐に参戦する。上杉景勝に呼応する形で石田三成が挙兵すると、家康は小山評定を開いて諸将とともに西に引き返すことを決める。このとき家康によって、本隊は家康自らが率いて東海道から、そして別働隊を秀忠が率いて中山道を進軍することが決められ、秀康には家康らが西に引き返す間、景勝を牽制するという留守居の役目が与えられた。関ヶ原の後、秀康は家康より越前国北庄67万石に加増移封された。慶長10年権中納言に昇任。慶長12年には伏見城番に任じられる。だが病にかかり職務を全うできなくなったため越前へ帰国、死去。享年34。
秀康の四人の男子のうち長男の忠直は越前藩を継ぐ。二男の忠昌は直江津藩、三男の直正が松江藩、五男の直基が姫路藩、六男の直良の系統は明石藩となる。多くの藩が改易、おとり潰しを受けた中、全ての子供が藩主となると言う親藩の中でも別格の扱いを受ける。将軍になれなかったそのお返しか?秀忠は秀康に対し、後ろめたく感じていたのか?
いずれにしても、当主たる親の地位が安定していない頃に育った長男は苦労するが親の地位が固まった後に育った子供は楽な生活をするという昔も今も変わらない法則が当てはまり、家康の場合にはそれが如実に現れた。長男は切腹、二男は人質にそして三男が美味しいところを独り占めにした。

大和古寺散策(1)

2011年10月06日 17:56

浄瑠璃寺と当麻寺を訊ねて

一向に秋の気配が見えない天候であったが、さすがに10月に入ると漸く涼しくなって、朝晩は一気に肌寒く感じられるこの頃である。気づかなかったが、身辺に秋がいつの間にか忍び寄り、深まっている事を思い知らせてくれる。
秋の澄み切った晴天の中、雑踏を抜け出しぶらりと古いお寺を訊ねて、ひと時心の洗濯をしてみませんか?

まずは浄瑠璃寺。浄瑠璃寺(じょうるりじ)は、京都府木津川市加茂町にある真言律宗の寺院。本尊は阿弥陀如来と薬師如来、開基は義明上人である。寺名は薬師如来の居所たる東方浄土「東方浄瑠璃世界」に由来する。
本堂に9体の阿弥陀如来像を安置することから九体寺(くたいじ)の通称があり、古くは西小田原寺とも呼ばれた。緑深い境内には、池を中心とした浄土式庭園と、平安末期の本堂および三重塔が残り、平安朝寺院の雰囲気を今に伝える。堀辰雄の「浄瑠璃寺の春」で取り上げられたことでも有名である。

秋の高い蒼天に映える柿のみがなる農家の間を抜け、数件の土産物屋のある参道を進むと小さな山門が見える。
農家の門のような構えで、浄瑠璃寺(写真1)と書いていなければこの向こうに有名な吉祥天女像を奉ったお寺があるとは想像できない。堀辰雄は「最初、僕たちはその何んの構えもない小さな門を寺の門だとは気づかずに危く其処を通りこしそうになった。その途端、その門の奥のほうの、一本の花ざかりの緋桃の木のうえに、突然なんだかはっとするようなもの、――ふいとそのあたりを翔け去ったこの世ならぬ美しい色をした鳥の翼のようなものが、自分の目にはいって、おやと思って、そこに足を止めた。それが浄瑠璃寺の塔の錆ついた九輪だったのである」と書いている。その清楚に佇んでいる山門をくぐると、すぐに宝池に行き当たる。そこからは左手の小高い丘に3重の塔(写真2)が、池を隔てて右手に本堂(写真3)が見えてくる。京都や奈良の市街から遠いこともあり、境内は訪れる人もまばらで、田園風景の中に溶け込んでひっそりといく時代を過ごした景色が現れる。このお寺は堀辰雄が「浄瑠璃寺の春」で書いているように可憐な花をつける馬酔木が参道や境内に咲き乱れる春は圧巻であるが、熟した柿が空の蒼さに映える秋に訪れても都会の喧噪を忘れ、日常の事も忘れ、仕事のことも忘れ、心和むことであろう。
浄瑠璃寺の程近くに人の訪れない岩船寺(写真7)がある。小さなお寺で境内も狭く、3重の塔(写真8)以外見るものもないが、山裾にひっそりと佇む。

次に当麻寺。當(当)麻寺は、奈良県葛城市にある飛鳥時代創建の寺院。創建時の本尊は弥勒仏(金堂)であるが、現在信仰の中心となっているのは当麻曼荼羅(本堂)である。創建は白鳳時代に聖徳太子の弟・「麻呂子王」が創建した大阪河内の寺院を当麻の地に
移されたとのことである。「弥勒仏」、「本堂」、「東塔」、「西塔」、「当麻曼荼羅厨子」などの計七件の国宝指定物が
ある古刹だがお寺までのアクセスが悪いので訪れる人はまばらで、奈良では一番
自然に囲まれた静かな佇まいのお寺。


両側に土産物店のある参道を突き当たると、仁王門があり、左右に仁王像(写真9)が出迎える。この山門がなければ何所から敷地か分からないくらい開かれたお寺である。当麻寺は、白鳳時代に創建され、奈良時代の三重塔を東西二基とも残す全国唯一の寺で、白鳳・天平様式の大伽藍を有し、「當麻曼荼羅(たいま・まんだら)」を本尊とする「極楽浄土の霊場」だそうだ。現在の當麻寺には、南を正面とする金堂・講堂と、東を正面とする本堂(写真10)が相接して建っている。これらの南方には東西2つの三重塔(写真11-12)が建つが、金堂と東西両塔の間には後世に中之坊、護念院などの子院が建っている。なんと言っても見所は奈良時代に建てられた西塔と東塔の2基の三重塔であろう。この境内を散策し、講堂の弥勒菩薩に対面し、本堂で当麻曼荼羅を見て、西南院の庭園から西塔を仰ぎ見れば、まさに極楽浄土。

写真 1)浄瑠璃寺山門 2)入り口から見た五重の塔 3)本堂 4)三重塔 5)秋空に生える紅い実 6)ススキ越しに見える三重塔 7)岩船寺 8)岩船寺の三重塔 9)当麻寺の仁王像 10)本堂 11)東塔 12)東塔と西塔 13)西南院 14)本堂遠景
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