2015年11月30日 12:57
ジェット機の開発競争
先日、国産初のジェット旅客機、MRJ(Mitsubishi Regional Jet)が飛んだ勇姿を見て、感慨深く思った人は少なくないであろう。
しかし、国産初のジェット機は、すでに70年前の大戦末期に飛んでいた。
先の大戦の戦闘機といえば、「風立ちぬ」の主人公でもあった三菱重工の堀越二郎設計の零式艦上戦闘機(ゼロ戦)が有名だが、日本が悪化した戦局の起死回生を図るため、密かにジェット機を製造していたことをご存知だろうか? その名は中島飛行機の特殊戦闘ジェット「橘花(きっか)」。
戦局悪く、敗戦が濃厚になってきた1944年、戦局を打開するため、海軍は中島飛行機に今までのエンジンとは全く概念の異なる、ジェットエンジン推進の特殊飛行機「皇国2号兵器」の開発を指令した。
海軍の開発指示を受けた中島では、松村健一技師を主務とし、エンジンの開発には山田為治技師をあてて開発に取り組んだ。機体設計については比較的順調に進めることができたが、ジェットエンジンの開発は困難を極めた。開発を進めていた遠心式ターボジェットのTR10(後のネ10)は問題が多く、作業は一向に捗らなかった。
そこで、ドイツで開発されていたジェット機、メッサーシュミット Me 262のエンジン(BMW製エンジン「BMW003」)を使うことに方向転換した。日本側はMe 262の設計図を手に入れる代わりに、ドイツ側には哨戒艇用に日本が開発した小型ボートのデイーゼルエンジンの設計図を供与するという形で合意した。
しかしすでにその当時、制海権はアメリカを始めとする連合軍が握っていたため、秘密裏にドイツの占領下のフランスのツーロン港から、日本とドイツの潜水艦で設計図を運んだ。輸送に用いられた潜水艦はお互い1隻のみであり、ドイツの潜水艦は1944年末頃に日本占領下のインドネシア(オランダ領東インド)のバリクパパンに到達、上陸の後に日本海軍士官と情報交換した。日本海軍潜水艦はバシー海峡でアメリカ海軍潜水艦の攻撃を受け沈没。
ドイツから得たMe 262に関する情報は、潜水艦が撃沈されたためにシンガポールで零式輸送機に乗り換えて帰国した巌谷中佐が持ち出したごく一部の資料を除いて失われてしまい、肝心な機体部分やエンジンの心臓部分の設計図が存在せず、結果的に大部分が日本独自の開発になった。
中島飛行機が機体を、石川島重工業(現IHI) がエンジンを設計した。日本全土で敵機の空襲が本格化する中、工場を焼かれては設計室を移しながら、わずか1年弱で開発した。石川島のジェットエンジンは「ネ20」(ネは燃焼噴射推進装置の頭文字)。以前、陸軍や海軍が独自開発しようとしていたジェットエンジンに近いものがあった。
本機の外観はMe 262に似ているが、それよりサイズが一回り小さく(当初搭載予定のネ12Bジェットエンジンの推力が小さいため、機体を小型軽量にする必要があった)、Me 262の後退翼と異なり、テーパー翼を採用するなど、上記のような事情により実際にはほとんど独自設計であった。
初飛行は広島に原子爆弾が落とされた1945年8月7日に千葉・木更津にある海軍の飛行場で、松根油(松から採った油)を含む低質油で行なわれ、12分間の飛行に成功する。これが日本初のジェット機「橘花」が生まれた瞬間だった。それから8日後に終戦を迎える。
終戦前には数十機程度が量産状態に入っており、その内の数機は完成間近であったが、終戦時に完成していた機体は試作の2機のみであった。なお完成していた2機は終戦直後に終戦に悲観した工場作業員によって操縦席付近が破壊されたものの、研究用に接収しようとしたアメリカ軍により修理が命ぜられた。
修理完了後その2機はアメリカ軍が接収し、その内の1機はメリーランド州のパタクセント・リバー海軍基地を経てスミソニアン航空宇宙博物館付属のポール・E・ガーバー維持・復元・保管施設に保管されていたが、現在同博物館別館の復元ハンガーに修復中状態で展示されている。その説明文には最高速度696キロ・着陸速度148キロ・離陸滑走距離は500キロの爆装をした全備状態時、離陸用補助ロケット使用で350メートルと書かれている(Wikipedia) 。
戦後、米国やソ連は、ドイツからロッケトやジェット戦闘機の技術を採り入れ、航空大国の地位を確立していく。日本はといえば、ロケットやジェット機どころか飛行機の製造そのものも禁止され、長いブランクに入る。そして1952年春、講和条約が締結し、やっと飛行機の製造ができるようになった。しかしこの間のブランクで飛行機製造技術の遺伝子の継承がされず、また一からのやり直しとなり、大きなハンデイになった。
国産の輸送機、YS−11が作られ、初飛行したのは1962年であった。しかしこの時使用したエンジンはイギリス製ロールス・ロイス2660馬力ターボプロップの双発機で、国産エンジンではなかった。その後は、アメリカのボーイングの傘下でのエンジン製造や、国際共同開発でのターボファンエンジンの開発を一部行ってきた。
そしてやっと純国産のジェットエンジンを積む旅客機 MRJの開発にこぎつけ、初飛行が先日行われた。
また国産初の商業用ロケットの打ち上げにも成功し、長い道のりを経てやっと宇宙、航空産業の第一歩を乗り出すことができた。
今後、技術的にも経済的にも大きな波及効果の見込める宇宙、航空産業が発展し、日本お家芸の自動車に代わる日が来るのも遠くないことであろう。
先日、国産初のジェット旅客機、MRJ(Mitsubishi Regional Jet)が飛んだ勇姿を見て、感慨深く思った人は少なくないであろう。
しかし、国産初のジェット機は、すでに70年前の大戦末期に飛んでいた。
先の大戦の戦闘機といえば、「風立ちぬ」の主人公でもあった三菱重工の堀越二郎設計の零式艦上戦闘機(ゼロ戦)が有名だが、日本が悪化した戦局の起死回生を図るため、密かにジェット機を製造していたことをご存知だろうか? その名は中島飛行機の特殊戦闘ジェット「橘花(きっか)」。
戦局悪く、敗戦が濃厚になってきた1944年、戦局を打開するため、海軍は中島飛行機に今までのエンジンとは全く概念の異なる、ジェットエンジン推進の特殊飛行機「皇国2号兵器」の開発を指令した。
海軍の開発指示を受けた中島では、松村健一技師を主務とし、エンジンの開発には山田為治技師をあてて開発に取り組んだ。機体設計については比較的順調に進めることができたが、ジェットエンジンの開発は困難を極めた。開発を進めていた遠心式ターボジェットのTR10(後のネ10)は問題が多く、作業は一向に捗らなかった。
そこで、ドイツで開発されていたジェット機、メッサーシュミット Me 262のエンジン(BMW製エンジン「BMW003」)を使うことに方向転換した。日本側はMe 262の設計図を手に入れる代わりに、ドイツ側には哨戒艇用に日本が開発した小型ボートのデイーゼルエンジンの設計図を供与するという形で合意した。
しかしすでにその当時、制海権はアメリカを始めとする連合軍が握っていたため、秘密裏にドイツの占領下のフランスのツーロン港から、日本とドイツの潜水艦で設計図を運んだ。輸送に用いられた潜水艦はお互い1隻のみであり、ドイツの潜水艦は1944年末頃に日本占領下のインドネシア(オランダ領東インド)のバリクパパンに到達、上陸の後に日本海軍士官と情報交換した。日本海軍潜水艦はバシー海峡でアメリカ海軍潜水艦の攻撃を受け沈没。
ドイツから得たMe 262に関する情報は、潜水艦が撃沈されたためにシンガポールで零式輸送機に乗り換えて帰国した巌谷中佐が持ち出したごく一部の資料を除いて失われてしまい、肝心な機体部分やエンジンの心臓部分の設計図が存在せず、結果的に大部分が日本独自の開発になった。
中島飛行機が機体を、石川島重工業(現IHI) がエンジンを設計した。日本全土で敵機の空襲が本格化する中、工場を焼かれては設計室を移しながら、わずか1年弱で開発した。石川島のジェットエンジンは「ネ20」(ネは燃焼噴射推進装置の頭文字)。以前、陸軍や海軍が独自開発しようとしていたジェットエンジンに近いものがあった。
本機の外観はMe 262に似ているが、それよりサイズが一回り小さく(当初搭載予定のネ12Bジェットエンジンの推力が小さいため、機体を小型軽量にする必要があった)、Me 262の後退翼と異なり、テーパー翼を採用するなど、上記のような事情により実際にはほとんど独自設計であった。
初飛行は広島に原子爆弾が落とされた1945年8月7日に千葉・木更津にある海軍の飛行場で、松根油(松から採った油)を含む低質油で行なわれ、12分間の飛行に成功する。これが日本初のジェット機「橘花」が生まれた瞬間だった。それから8日後に終戦を迎える。
終戦前には数十機程度が量産状態に入っており、その内の数機は完成間近であったが、終戦時に完成していた機体は試作の2機のみであった。なお完成していた2機は終戦直後に終戦に悲観した工場作業員によって操縦席付近が破壊されたものの、研究用に接収しようとしたアメリカ軍により修理が命ぜられた。
修理完了後その2機はアメリカ軍が接収し、その内の1機はメリーランド州のパタクセント・リバー海軍基地を経てスミソニアン航空宇宙博物館付属のポール・E・ガーバー維持・復元・保管施設に保管されていたが、現在同博物館別館の復元ハンガーに修復中状態で展示されている。その説明文には最高速度696キロ・着陸速度148キロ・離陸滑走距離は500キロの爆装をした全備状態時、離陸用補助ロケット使用で350メートルと書かれている(Wikipedia) 。
戦後、米国やソ連は、ドイツからロッケトやジェット戦闘機の技術を採り入れ、航空大国の地位を確立していく。日本はといえば、ロケットやジェット機どころか飛行機の製造そのものも禁止され、長いブランクに入る。そして1952年春、講和条約が締結し、やっと飛行機の製造ができるようになった。しかしこの間のブランクで飛行機製造技術の遺伝子の継承がされず、また一からのやり直しとなり、大きなハンデイになった。
国産の輸送機、YS−11が作られ、初飛行したのは1962年であった。しかしこの時使用したエンジンはイギリス製ロールス・ロイス2660馬力ターボプロップの双発機で、国産エンジンではなかった。その後は、アメリカのボーイングの傘下でのエンジン製造や、国際共同開発でのターボファンエンジンの開発を一部行ってきた。
そしてやっと純国産のジェットエンジンを積む旅客機 MRJの開発にこぎつけ、初飛行が先日行われた。
また国産初の商業用ロケットの打ち上げにも成功し、長い道のりを経てやっと宇宙、航空産業の第一歩を乗り出すことができた。
今後、技術的にも経済的にも大きな波及効果の見込める宇宙、航空産業が発展し、日本お家芸の自動車に代わる日が来るのも遠くないことであろう。
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